<<目次へ 【意見書】自由法曹団


2002年12月13日

「国家戦略としての教育改革」めざす
教育基本法「改正」に反対する
―中教審中間報告に対する意見―

自由法曹団






 


 
はじめに

 中央教育審議会は2002年11月14日に「新しい時代にふさわしい教育基本法と教育振興基本計画について(中間報告)」を発表した。
自由法曹団は2002年8月に「教育基本法『改正』問題についての意見」を中央教育審議会に提出し、教育基本法は教育憲法であること、教育基本法「改正」は憲法「改正」と一体のものであることなどを指摘し、教育基本法「改正」に強く反対するとの意見を述べた。
 中間報告は、「国家戦略としての教育改革」を進めるべきだとし、これからの教育の目標は「21世紀を切り拓く心豊かでたくましい日本人の育成」を目指すとして、「伝統、文化の尊重」「郷土や国を愛する心」や「新しい公共」の強調などを説く。
 本意見書は、中間報告の「国家戦略としての教育改革」の危険性を明らかにし、中間報告の「教育基本法の見直しの方向」について、反対の意見を述べるものである。
 

第1 「国家戦略としての教育改革」をめざす中間報告
 

1 中間報告がめざす「教育の目標」

−「21世紀を切り拓く心豊かでたくましい日本人」―

 中間報告は、世界的に「国家戦略としての教育改革」が急速に進行しているとし、今回の教育基本法の「見直し」が「21世紀にふさわしい国のかたちの再構築を図る一連の諸改革と軌を一」にする、すなわち「国家戦略としての教育改革」の一環であるとする。
 中間報告は、「時代の重要な潮流」は「@少子高齢化社会の進行と家庭・地域の変容、A高度情報化の進展と知識社会への移行、B産業・就業構造の変貌、Cグローバル化の進展、D科学技術の進歩と地球環境問題の深刻化、E国民意識の変容」であり、「我が国が大競争時代に行き抜く」ことが重要であるとする。
 そして、中間報告は、この「大きな潮流を踏まえて」、「教育の目標」は、「21世紀の我が国を担うたくましい日本人の育成」であるとして、目指すべき日本人は「@自己実現を目指す人間、A心豊かな子心と健やかな体を備えた人間、B「知」の世紀をリードする創造性に富んだ人間、C新しい「公共」を創造し、21世紀の国家・社会の形成者に主体的に参画する人間、D国際社会に生きる教養ある日本人」だとする。
 中間報告は、「『知』の世紀をリードする人材の育成」、「国際的にも貢献できる人材を育てていく」など、「人材の育成」という言葉を用いている。このことに端的に表れているように、教育目標を「我が国が大競争時代を生き抜く」ことに従属させ、国と財界のための「人材づくりに」すなわち「公共意識を持ち、知的には創造性に富み、心身とも健康なエリート」を作ることに転換させようとしている。
 これは、子ども自身がもつ成長発達権の具体化として教育基本法が教育の目的は「人格の完成」(1条)であるとし、また子どもの権利条約が「教育の目的は人格、才能、精神的・身体的能力の最大の発達」(29条)としていることを根本から転換するものである。
 

2 貫かれる愛国主義・国家主義と能力主義

(1)「新しい『公共』」と「国を愛する心」

(1)「新しい『公共』」と「国を愛する心」

 @ 中間報告は、「『公共』に関する国民共通の意識の再構築」が必要であるとして、「『公共』に主体的に参画する意識や態度の涵養」を挙げる。しかし、新しい「公共」の強調は、個を否定して、公=全体の利益に奉仕を強要する危険性があり、新しい「公共」の強調、それにもとづく道徳心や倫理観の強調は、日本を有事法制下で「戦争をする国」にしていくための人づくり政策に直結するものである。
 また、「新しい公共」の強調は、「大競争時代」の「閉塞感」などの社会的矛盾を、「公共」の意識を押し出して社会統合を行おうというものである。
 A さらに中間報告は「国際社会を生きる教養ある日本人として、自らが国際社会の一員であることを自覚し国際社会に貢献しようとする意識とともに、自らのアイデンティティの基礎となる伝統、文化を尊重し、郷土や国を愛する心を持つことが必要である」として、「このような自らの国を愛し、平和のうちに生存する権利を守ろうとする国民一人一人の思いが、我が国だけでなく同じ思いを持つ他の人々も尊重しなければならないという国際的な視点に通じるものとなる」が、「教育基本法は、このような視点が明示されていない」としている。
 しかし、現行教育基本法は、グローバルな視点から「国際社会を生きる教養ある日本人」の育成に必要な普遍的な理念を定めたものであり、既に必要にして十分である。ある国に生きる以上、その国を愛する心が芽生えることは当然であり、現行教育基本法もそのような意味での「国を愛する心」を否定しているわけではない。にも関わらず、現行の教育基本法が「国を愛する心」を規定しなかったのは、太平洋戦争敗戦以前の日本が、「愛国心」を涵養する教育の下で、多くの人々を戦争に駆り立てて多数の犠牲者を生んだこと、及び他国の人々の人権を蹂躙したという苦い経験に対する反省があったからである。今、自衛隊のイージス艦が派遣されようとし、有事法制が国会で審議されているという状況がある。教育基本法に「国を愛する心」が盛り込まれることにより、戦前の苦い経験を繰り返してしまう危険性はきわめて強い。
 B 中間報告は、以上のような「国を愛する心を大切にすることや我が国の伝統、文化を尊重することが、教育改革国民会議において指摘されたように、国家至上主義的考え方や全体主義的なものになってはならない」とする。しかし、栗原祐幸元防衛庁長官が指摘するように、そもその、このような「但し書きを付さなければならないような文言は基本理念になじまない」(朝日新聞2002年12月1日栗原祐幸元防衛長官「教育基本法「愛国心」はなじまない」)のである。

(2)能力主義の思想

 中間報告は、「これまでの教育においては、専ら結果の平等を重視する傾向があり、そのことが過度に画一的な教育につながった」として、「国民から信頼される学校教育の確立」のためには「一人一人の個性に応じたきめ細やかな教育を行い、その能力を最大限に伸ばしていくという視点が重要である」とする。そして、義務教育を「できる限り弾力的なものにすべき」であるとして、@就学年齢について発達状況の個人差に対応した弾力的な制度、A学校区分について、幼小、小中、中高など、各学校間の多種多様な連結が可能となるような仕組み、B保護者の学校選択、教育選択などの仕組みを検討し、かつ、教育振興基本計画の中に「習熟度別クラス」「学校選択制」「就学時期の弾力化」を盛り込むべきとしている。
 ここで言われている「能力を最大限に伸ばす」とは、「能力のある者は伸ばす、能力のないものはそれなりの教育をする」といういわゆる能力主義の思想である。しかし、教育を人権として保障する憲法第26条の「その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利」及びそれを受けた教育基本法第3条の「その能力に応じる教育を受ける機会」でいう「能力に応じて」とは、「その子どもの発達の必要に応じてよりいっそう懇切、丁寧で手厚い教育を保障する」との意味である。この理解は子どもの権利条約(児童の権利条約)第29条が「教育の目的」は「児童の人格、才能並びに精神的及び身体的な能力をその可能な最大限度まで発達させること」としていることとも一致するものである。従って、能力主義の思想は、憲法第26条や子どもの権利条約(児童の権利条約)に反するものである。
 また、現実に目を向けると、今年度から、完全週休2日制を含む新学習指導要領が実施されたことにより、保護者や教育関係者から、子どもたちの更なる学力低下が危惧されている。子どもたちにも、過密スケジュールによる疲れや、カリキュラムについていけないことによるあきらめや「荒れ」がみられている。
 今、必要とされているのは、30人学級の実施など、一人一人の子どもが授業を理解し、学ぶ楽しさを知るための施策であり、企業のためのエリート少数精鋭のための教育ではない。
 

3 教育基本法の「見直し」は日本国憲法を逸脱している

 中間報告は、教育基本法の見直しに当たっては「現行憲法を前提として見直すこと」としている。しかし、今回の中間報告の教育基本法の見直しは日本国憲法を逸脱している。

(1)前文の見直し

 中間報告は、その「前文の見直しは、法全体の見直しの考え方が決まった後で改めて検討する」とする。しかし、教育基本法前文は、教育基本法が日本国憲法との関係を明示したものであり、日本国憲法との理念と切断した教育基本法「改正」が強行されることは許されない。

(2)「公共」について

 中間報告は「自らの生命や自由を守り、幸福を追求するためには、個人が集まり、その信託によって社会や国という『公共』を形作り、それを通じて自らの安全や権利を享受できるようにすることが必要である。」として「『公共』に主体的に参画する意識や態度の涵養」が必要であるとする。ここでいう「公共」とは個人を超えた「社会や国」を指している。
 日本国憲法で言う「公共の福祉」とは「各人の最大限の諸自由を確保するという観点からの、権利・自由相互間の矛盾衝突を調整する公平の原理である」と解されている(樋口陽一他共著『注釈 日本国憲法』(青森書院)。従って、中間報告が言う「公共」とは、日本国憲法とは異質のものであり、憲法原理としては認められない。

(3)「国を愛する心」について

 中間報告は「国を愛する心」を教育の基本理念に加えるとする。しかし、憲法第19条は「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」としている。これは「本条は外的権威に拘束されない内心の自由を保障することにより、民主主義の精神的基盤をなす国民の精神的自由を確保することを目的とする。過去において危険思想、反国家思想、反戦思想等の名を以って思想の弾圧が行われた経緯に鑑み、再びかかることなからしめようとする意味をも」っている(『註解日本国憲法』)。従って、「国を愛する心」を教育の基本理念に加えることは、憲法第19条に違反している。
 

第2 具体的な見直しの方向について

 以下、中間報告の具体的な見直しの方向について、意見を述べる。
 

1 教育の基本理念について

 中間報告では、「現行法の理念に加えて以下を規定すべきであるとの意見があり、引続き検討を行う。」とされ、「(@)個人の自己実現と個性・能力の伸長、創造性の涵養、(A)感性、自然や環境とのかかわり、(B)社会の形成に主体的に参画する「公共」の精神、道徳心、自律心、(C)日本人としてのアイデンティティ(伝統、文化の尊重、郷土や国を愛する心)、国際性(国際社会の一員としての意識)、(D)生涯学習、(E)時代や社会の変化に対応した教育、(F)職業生活との関連の明確化」が挙げられている。

(1)付け加える必要が全くない「理念」

 @ ところで、(@)については、教育の基本理念としては当然のことであり、現行法は前文において教育のめざすべきものとして「個人の尊厳を重んじ」「個性豊かな文化の創造」を、第1条においては「個人の価値を尊び」「自主的な精神に充ちた」国民の育成が教育の目的とされ、第2条では「自発的精神を養」うことが教育の方針とされているのであり、改めて(@)をつけ加える必要は全くない。中間報告がいうようにこれらの理念が「大競争時代」を勝ち抜くための「創造性の涵養」ということであれば、後述する(C)と同様に問題である。
 A (A)についても教育の理念としては当然である。現行法には「自然」とか「環境」という言葉は使われていないが、制定時には自然環境の破壊が未だ今日ほど深刻化しておらず、また「子どもの成育環境の中から自然が失われつつある」ことがなかったからである。しかし、前文の「民主的で平和的な国家」の建設や「世界の平和と人類の福祉に貢献」する教育は自然環境を守り自然とかかわり感性豊かな人間を育てることを包含するものであり、改めて(A)を加える必要はない。
 B (D)については、現行法第7条において社会教育は国や地方公共団体において奨励されなければならないとして図書館、公民館等の施設の設置、学校施設の利用などにより、国及び地方公共団体が社会教育の実現に努めなければならないとしている。
  (F)についても、現行法第7条においては「勤労の場所」で行われる教育も視野においており、職業生活との関連を無視しているものではない。従って、改めて(D)(F)を教育の理念として加える必要はない。
 C また(E)については、これも当然のことであるが教育基本法はあくまで基本法であり、時代をこえて必要とされる教育の理念を盛り込めば、あとは、教育現場の実践に委ねるべきであり、教育基本法自体に「時代や社会の変化に対応した教育」ということを改めて加える必要はない。

(2)新しく加えることに反対する

 @ (B)については、個を否定して、公=全体の利益に奉仕することに繋がり、これを教育の理念として新しく加えることには反対である。即ち現行法は戦前の教育が極端な国家主義的又は軍国主義的イデオロギーで中央政府により統轄され、思想言論の統制にまで及び自由、自主的な教育を阻害した反省から生まれたものであるからである。新しい「公共」の強調、それにもとづく道徳心や倫理観を教育の理念として新しく加えるのは、日本を有事法制下で「戦争をする国」にしていくための人づくり政策だからである。
 A (C)についても「大競争時代」に他国を押えて勝ち抜く国家を支えるための「日本人のアイデンティティ」であれば、これは戦前同様の「偏狭なナショナリズム」になりかねず、これを新しく教育の理念として加えることには反対である。現在でもわが国の企業が発展途上国に進出し、その国の自然や生活様式を破壊し、深刻な貧富の差を拡大している事実があり、それについては厳しい批判があることを考えるならば、自国のことのみに専念するのではなく、現行法の前文にある「世界の平和と人類の福祉に貢献する」真の国際性こそが求められるのである。
 そもそも、現行法は、個人の人権が尊重され、人権を行使するなかで「平和的な国家及び社会の形成者」になっていくことが想定されている。さらに自らの人権を尊重することは他人の人権を尊重することであり、人々が人権を尊重されながらともに生きていくには、公共的な価値とそれを自治的に実現する営みがあり、第2条に「実際生活に即し、自発的精神と養い、自他の敬愛と協力によって、文化の創造と発展に貢献するよう努めなければならない」とあるのはこのことを意味する。今日、大企業が企業の社会的責任を忘れ自分の企業の利益を優先させるために起きている幾多の犯罪行為、地域住民の利益にならない無駄な公共事業等が氾濫している時代だからこそ、国民は「住民の健康や安全」「住民に役立つ事業かどうか」等真の意味で公共的な価値を求めることが必要であるが、公共性の内容は国家や地方公共団体が上から押し付けるものではなく、主権者たる国民・住民が共同して、自治的なたたかいでこそ生み出されるものであり、上記の「自発的精神」や第1条の「自主的精神」こそが重要なのである。
 

2 教育を受ける権利、義務教育について

(1)教育の機会均等

 この原則が、将来にわたって大切にしなければならない原則であることは異論ない。「教育を受ける機会」を「教育を受ける権利」に改めてはどうかという意見については、憲法の「教育を受ける権利」の規定を受けた現行法があるのであるから改める必要はない。また「生涯にわたり学習する権利」「障害者など教育上の特別の支援が必要な者についての規定」を新たに規定する必要はない。

(2)義務教育

 中間報告は、「義務教育制度の在り方については、義務教育期間9年間の短縮や延長を求める意見はなかったが、社会の変化や保護者の意識の変化に対応し、義務教育制度をできる限り弾力的なものにすべきとの観点から、以下の事項について様々な意見が出された。(@)就学年齢について、発達状況の個人差に対応した弾力的な制度、(A)学校区分について、小学校6年間の課程の分割や幼小、小中、中高など各学校種間の多様な連結が可能となる仕組み、(B)保護者の学校選択、教育選択などの仕組み」という。
 このような意見は、義務教育9年間というコアの部分は維持しつつも、「個人差」や「選択の自由」に依拠して「弾力的な」制度の導入を図ろうとするものであり、実質的には義務教育を希薄化ないし空洞化することにつながる。
 小学校・中学校などの公教育・義務教育のいう段階は、人間が社会生活を営むうえで必要な最低限の基礎知識・基礎学力をつける場であって、すべての子どもが自立して生きていくための力を身につけるためにおこなわれるべきものである。そこでは、「発達状況の個人差」も含めて様々な階層、様々な家庭環境の同年代の子どもたちが一緒に学びあうことによって「社会性」を身につけ、集団活動を学ぶ場でもある。従って、「発達状況の早い」「優秀な」子どもたちだけが特別な制度による義務教育課程を歩ませることは弊害こそあれ益はない
また、誰もが等しく教育を受けられるはずの小学校・中学校において、子どもによって内容が異なる教育がおこなわれるならば教育の機会均等に反し問題である。
 「教育振興基本計画の策定の際にその中に位置付け、学校教育法等の改正への道筋を示す」についても反対である。

(3)男女共同参画社会への寄与

 今日、教育・学習のあらゆる場において、男女共同参画社会の実現や男女平等の促進に寄与するという新しい視点が重要になっていることは事実であるが、このことを教育の基本理念として規定するために教育基本法の「改正」が必要であるというのは短絡的である。「社会における男女共同参画は、まだ十分には実現していない」のはまさに男女雇用均等法を実効性のある法律にしていないことや、政策決定場面に女性を積極的に起用して来なかったことや教育現場で男女平等教育を積極的に進めてこなかった教育行政ないし政治の責任である。
 現行法では第5条において「男女は敬重し、協力し合わなければならないものであって」と規定し、「男女平等」の理念は明確に規定されているのであるから「見直し」の必要は全くない。
 現実の教育現場で男女共同参画の理念に基づいた教育が行われるように教材等を充実させる等こそが必要である。
 

3 国、地方公共団体の責務等

 教育行政のあり方については、現行法10条により明記されている。行政としては「条件整備」について責務を負うものであり、教育内容については干渉、介入することは教育の自由の侵害にあたる。中間報告では「教育基本法に規定された教育の基本理念・基本原則を実現する手段として、教育の振興に関する基本計画の策定の根拠となる規定を、他の基本計画の規定例を参考にして教育基本法に位置付けることが適当と考える。」とされているが、これは行政(国や地方公共団体)が教育内容に介入し、それに沿わない限り財政的支出もしない(条件整備をしない)ことになりかねず「不当な支配」をすることになるので反対である。
 

4 学校、家庭、地域社会の役割等

(1)学校

 子どもの健全な育成の上で、学校教育が中心的な役割を果たすことが期待されていること、今後、学校、家庭、地域社会の三者が連携・協力をより一層強化することが求められていることは事実であるが、中間報告では「新たに学校の役割として、例えば、知・徳・体(知識・技能と学習方法の教授、人格の陶冶、道徳教育、体育・スポーツ、芸術など)の教育を行う場であることを明確に規定することが適当と考える」として引続きの検討課題としている。
 しかしながら、学校のみを「知・徳・体」の教育を行う場と位置付けることも問題であるし、学校が道徳教育の名の下に前述した「新しい『公共』」「国を愛する心」等が強調され、国家や企業の要請に基づく人づくりの場になってしまうことになりかねない。

 高等教育や私学振興について法に盛り込むことについては、現行法の「学校」の中には当然高等教育機関を含んでおり、また、6条にある「学校は公の性質を持つものである」との規定は、私学も含めての規定であることは明白である。私学振興を図ることは重要であるが、これは私立学校振興助成等法に基づいた誠実な履行をしてこなかった教育行政の責任こそが問われるべきであってこれをもって法「改正」の論拠とはできない。
 中間報告は「学校の設置者について、現行法は、国、地方公共団体及び『法律に定める法人』に限定するという原則を規定し、具体的な『法人』の範囲は学校教育法に委ねている。具体的な『法人』の範囲については、学校教育は国民全体のために行われるべきであるという観点から、現行法に『公の性質をもつ』と規定されていることを踏まえて、今後必要に応じて学校教育法上の問題として考えることが適当であると考える。」としているが反対である。とりわけ、株式会社の学校経営を認めようという意見については断固反対する。教育は仮に利潤が上がらなくても社会的な事業として行われるべきものであり、そのことが「公の性質」ともつという意味である。文部科学省が言っているように「教育は公の性質を持っているのであり、営利目的の企業に経営することは認められない。」

(2)教員等

 学校教育の成否は、教育の直接の担い手である教育の資質に負うことが大きく、子どもの人格形成に関わる教員の資質の向上が重要であるが、改めて教育基本法において、国・公・私立学校の別なく、教員の使命感や責務を明確に規定する必要はない。現行法6条2項には「法律で定める学校の教員は、全体の奉仕者であって自己の使命を自覚して、その職責の遂行に努めなければならない」と規定されており、それで十分であるからである。近年とられている「指導が不適切」として教員を、教員以外の職に異動させることを可能とするような施策は、教育に対する上からの管理統制の強化であり、同号の後段にある「教員の身分保障は尊重され、その待遇の適正が期せられなければならない」に反する。
 さらに、「子どもが教育を受ける際に、教員その他の指導に従って、規律を守り真摯に学習に取り組む責務があることを規定すべきとの意見があった」というが、このようなことはまさに教育の結果であって法律的な責務として規定すべきものではない。その責任に反したとして子どもへの校則の強制や体罰等の人権侵害が容認される根拠ともなりかねない。

(3)家庭教育

 家庭教育は重要な役割を担っていること、しかし、親の子どもに対する児童虐待が社会問題化しており、家庭教育の機能の低下が顕在化していること、また、父親の家庭教育へのかかわりが社会全体として十分でないことは事実である。ここにはリストラなどの進行の中で家庭自体の経済的基盤が脆くなっていること、社会保障の切下げ等のため、経済的に困窮度を増している家庭が増大していることが大きな背景としてある。また、父親が家庭教育の関われないのは、わが国全体、とりわけ男性労働者の長時間労働にあるのであって、労働時間の短縮、社会保障の充実を含む、国による育児支援策等の社会条件の整備が不可欠である。
 これらの社会条件の整備を抜きにして「家庭(保護者)の子どもの教育に対する責務の自覚や家庭教育の役割や責任について新たな規定」を設けても解決はしない。
 また、豊かな情操や基本的な生活習慣、他人に対する思いやり、善悪の判断などの基本的倫理観、社会的なマナー、自制心や自立心を養う家庭教育は、各家庭において親が自覚をもって行うべき事柄であって、法律の規定により国や地方公共団体から強制されるべきものではない。家庭教育に対する干渉こそ、家庭における教育の独自性を否定し、画一化をもたらしたものである。このようなやり方では、一人ひとりの才能を伸ばし、創造性に富む人間に育成することは困難である。第7条の条文の中に「家庭教育は国及び地方公共団体によって奨励されなければならない」と規定されるにとどまっているのは、その趣旨であって、家庭教育の重要性を否定するものではないのである。

(4)社会教育

 社会教育の役割が重要になってきていることは事実であるが、現行法では第7条において「社会において行われる教育は国や地方公共団体によって奨励されなければならない。」と明記しているのであって、社会教育のいっそうの振興を図るのは、基本法の規定の見直しではなく、国や地方公共団体が財政的措置を含めて真に「社会教育を奨励」する政策をとるかどうかにかかっている。

(5)学校・家庭・地域社会の連携・協力

 子どもの教育にとって地域社会の果たすべき役割が非常に大きいし、学校、家庭、地域社会が連携・協力していくことも大事である。しかし、中間報告が「『現行法』は地域社会について何ら既定していない」と言っているのは誤りである。現行法は第2条において「教育の目的は、あらゆる機会に、あらゆる場所において実現されなければならない」と規定し、また、第7条2項において「国及び地方公共団体は、(中略)適当な方法によって教育の目的を実現しなければならない」と規定している。これらの規定は、教育が「地域社会」と密接に結びついており、学校教育は、地域社会の中でその連携・協力のもとで成りなっていることを当然の前提としている。
 今後とも、学校も地域社会住民や父母の参加を認め、地域社会に開かれたものになっていかなければならないことは言うまでもない。
 ところで、中間報告は「なお、学校、家庭、地域社会の連携・協力を具体的するための施策の一つとして、現在、地域社会が学校運営に参加する新しいタイプの学校について実践的な研究が進められており、その成果を教育振興基本計画策定の際に盛り込むことも考えられる」としている。これは、コミュニティ・スクール即ち「公設民営」型の学校(アメリカのチャータースクール)の構想のようであるが、この制度は、地域独自のニーズ、教育の多様化の名目の下に行われているが、明らかに教育の市場化を進めるものであり、また他方では日本国民として国政に参加し、決定していくための最低の教育レベルを子どもに確保するという公教育の基本的命題をもなし崩し的にうやむやにしていくものであり問題である。
 

5 教育上の重要事項

(1)国家、社会の主体的な形成者としての教養

 現行法は「良識ある公民たるに必要な政治的教養」は教育上尊重されなければならないことを規定しているが、現代社会への批判力を育てることも「重要な政治的教養」であって重要である。教育の政治的中立性を強調するあまり、政治について考えることを教えて来なかった従来の学校教育を現行法の精神にそって変えることが重要であり、そのことが「法や社会の規範の意味、役割や国家、社会の諸課題を単に知識として身に付けるにとどまらず、国家、社会の形成に主体的に関わり、国家、社会の諸問題の解決に積極的にかかわっていく態度を修得する」ことにつながるのである。改めて規定する必要はない。

(2)宗教教育に関する教育

 中間報告では「宗教に関する教育は、以下のように様々な意見が出されたが、意見が集約されるには至っておらず、憲法の規定する信教の自由や政教分離の原則に十分留意しながら、引続き検討していくことをする。なお、憲法第20条第3項を受け、国公立学校においては政教分離の原則が適用され、特定の宗教のための宗教教育や宗教的活動が禁止されていることは、今後の教育においても重要な原則として大切にしていく必要がある」とされている。
 宗教教育については、戦前の国家神道体制が宗教教育を通じて国民に対して国家宗教を強制し、これを侵略地の諸国民にも強制したという日本の歴史的経験を抜きにしては考えられない。現行法第9条の見直しには反対である。
 

第3 教育振興基本計画の策定は教育内容の統制につながる

 中間報告が第3章としてまとめ上げた「教育振興基本計画の在り方について」と題する部分は、分量の点からみて驚くほどに大部を占めている。そこでは、教育振興基本計画策定の必要性を説くことから始まり、その考え方、盛り込むべき施策の基本的方向へと続く。盛り込むべき施策部分については詳細を極め、国民から信頼される学校教育の確立、「知」の世紀をリードする大学改革の推進、家庭の教育力の回復、学校・家庭・地域社会の連携・協力の推進、生涯学習社会の実現というそれぞれの項目について、具体的なテーマを相当数列記している。
しかし、中間報告が振興計画の根拠条項を教育基本法に置くということは、教育内容の強い統制につながる危険性が高い。中間報告が述べる詳細な内容を全体としてみるならば、そして中間報告が諸処で触れる国家目標に即した人材の育成という教育目標に鑑みるならば、行政が教育内容に積極的な介入をおこなう結果となることは明らかと言ってよい。
 中間報告が述べる基本計画の内容は、実際の教育現場でおこなわれる教育内容を相当具体的に規制するものとなっている。教育内容に関して、国が一律の基準を設け、教育行政をとおして地方公共団体や教育関係者にこれを強制し押しつけていくことには、教育の本旨に照らして問題があることは、現行教育基本法の制定当時の解説(前掲 辻田力他監修「教育基本法の解説」)に述べられているとおりである。また、教育行政機関による教育内容統制があまりに細目にわたり、詳細に過ぎたり法的拘束力をもって地方公共団体を制約して教育に関する地方分権を制限したり教師を強制することがあれば、教育基本法10条に違反する可能性があることは、旭川学テ最高裁判所判決に謳われたとおりである。中間報告が述べる基本計画の内容は、まさに現行教育基本法10条に挑戦したものとなっており、教育の本旨を正面から骨抜きにする意図があらわである。
 現に進行している教育行政の教育内容介入統制により、教育現場が混乱に陥っている実態がある。中間報告が述べるところは、より一層の介入・支配にほかならず、教育振興基本計画の根拠となる条文を教育基本法に加えるという方向には断固反対する。

以上