第1657号 / 1 /21

カテゴリ:団通信

●2018年12月7日死刑制度学習会の報告と個人的論点の紹介    岸  朋 弘

●「市民的公共放送」実現のために、全国各地でNHK裁判に立ち上がろう   佐 藤 真 理

●国立市人権を尊重し多様性を認め合う平和なまちづくり基本条例 ~ 差別根絶の流れは止まらない   金  竜 介

●護憲装置としての象徴天皇制-「国民主権」と「平和主義」   後 藤 富 士 子

●そろそろ左派は、<経済>を語ろう(3)   杉 島 幸 生

●お正月ニュースで学び、楽しみ、味わう(前編)   永 尾 廣 久

●2018年福岡・八幡総会旅行記 第4 総会後の個人旅行 続百名城と松本清張「時間の習俗」   伊 藤 嘉 章

 


二〇一八年一二月七日死刑制度学習会の報告と個人的論点の紹介

東京支部 岸  朋 弘

はじめに
 昨年、自由法曹団は、福岡・八幡総会で採択された総会議案書において、「今後は、死刑制度自体を廃止することについて議論を開始していく」ことを確認した。そして、総会後の二〇一八年一二月七日、江戸川橋にある団本部において、死刑制度学習会が開催された。報告者は小池振一郎常任幹事であった。その報告内容をごく簡単に紹介した後、今後の学習会を通して考えていきたい論点を述べる。
一 報告内容
(1)死刑確定者の処遇
 日本では、死刑確定者の処遇に関し、人権侵害といえる状態がまかり通っている。
 死刑確定者は、外界から遮断された居室で生活し、四季すら感じることができない。死刑がいつ執行されるかは事前に告知されず、ある朝突然、複数の刑務官が部屋に入ってきて、刑場に連行され、死刑が執行される。そのため、死刑確定者は、毎朝、刑務官が自分の部屋の前で立ち止まらないか不安におびえている。家族と別れを惜しむこともできない。
(2)日本の世論の動向
 日本では、死刑存続の世論が強い。二〇一四年内閣府世論調査では、「死刑やむなし」が八〇・三%、「現在も将来も死刑廃止に賛成」が四六・三%、「現在または将来、死刑廃止に賛成」四二・三%であった。二〇一八年七月毎日新聞調査でも、「死刑存続」が五九%、「死刑廃止」が一〇%であった。同年八月NHK調査でも、「死刑存続」が五七・九%、「死刑廃止」が六・五%であった。
 ただ、これらの数字は、国民に対して死刑制度の是非を判断するために必要な情報(死刑と犯罪抑止力との関係等)が十分に与えられていないことを前提としたものであることには注意を要する。
(3)海外の状況
 現在では、七割以上の国が法律上又は事実上死刑を廃止している。また、二〇一七年末時点で八五か国が死刑廃止条約(市民的及び政治的権利に関する国際規約(国際人権自由権規約)の第二選択議定書)を批准している。世界の趨勢は、死刑廃止といってよい。
 日本政府は、自由権規約委員会や国連人権理事会から、死刑に関する勧告を受けているが、それをすべて拒否している。
(4)弁護士会の状況
 日弁連は、二〇〇二年一一月二二日に「死刑制度問題に関する提言」を出した。これが日弁連として死刑問題に関して出した最初の提言である。その後、二〇〇四年宮崎人権大会、二〇一一年高松人権大会、二〇一六年福井人権大会において、それぞれ死刑制度に関する決議を採択した。特に、二〇一六年福井人権大会での決議では、二〇二〇年に京都で開催される国連犯罪防止刑事司法会議(コングレス)までに死刑廃止を目指すことが明らかにされている。
(5)死刑存廃に関する議論
 死刑存置論の立場からは、応報刑論(凶悪犯罪者は死刑に処せられるべき)、応報感情(遺族感情ないしそれを酌んだ国民感情)、犯罪抑止論といった主張がされている。
 他方、死刑廃止論の立場からは、生命の尊重、誤判・冤罪の危険、人の可塑性といった主張がされている。このうち冤罪の可能性については、政治哲学的な関連から、権力の本質から見て冤罪のリスクは避けられないとする見解もある。
二 今後考えていきたいこと
(1)はじめに
 今回の学習会では、恥ずかしながら初めて聞く内容もたくさんあり、非常に勉強になった。以下では、既にいろいろなところで議論されている論点であろうとは思うので、些か恐縮ではあるが、私の中で今後の学習会を通して特に考えていきたい点を箇条書きで述べる。なお、私自身は、死刑廃止とも存置とも意見が決められていない。
(2)死刑廃止論について
・死刑廃止論が挙げている死刑を廃止すべき三つの理由については、いずれも反論の余地があるのではないか(冤罪の危険性については、冤罪のおそれのない場合(現行犯で情状も極めて悪質で責任
能力に疑いがないような場合)は死刑を認めてもいいのではないかという反論、人の可塑性についても、可塑性をおよそ失った人間に対しては死刑も可能なのではないかという反論、生命の尊重についても、人の生命が例外なく侵害されてはならない絶対的価値を持つのであれば、安楽死や尊厳死も許されないはずであるが、死刑廃止論者の中には安楽死は認めるべきだとの意見を持つ者も少なくないとの反論)。
(3)国民の処罰感情について
・なぜ、処罰感情というものが死刑存置の決定的とも思える理由になっているのか。
・処罰感情を法的な基準として設定するには極めて抽象的であり情緒的な概念ではないか。
・世論が人権等の原理に対して無理解なのか、それとも、私には理解できていない処罰感情そのものあるいはその背後にある公理があるのか。
・私の感覚ではあるが、死刑を支えている処罰感情は遺族の処罰感情というより、国民が異質な存在を社会から排除したいという感情といった方が近いのではないか。
(4)応報刑論について
・死刑制度を応報刑論の観点からどのように考えるか。
・応報刑論には同害報復と等価的応報があり、今日の通説は後者にあるため、結局、応報刑論からも死刑制度を根拠づけることはできないのではないか。
(5)死刑のもつ社会に対するインパクトについて
・人権原理を基底とした議論では死刑の存廃の判断ができないのであれば、結局のところ死刑は政策問題なのではないか。
・その場合、死刑によって法秩序を維持するという観点が考慮されることはあり得るのではないか。
・しかし、死刑が適用される犯罪は、いずれも極めて悪質なものが多く、死刑の適用の有無にかかわらず、国民の規範意識からは逸脱した行為である場合が多いのであるから死刑は法秩序の維持には意味がないのではないか。
・一方で、そのような犯罪行為に対し、死刑という極めて重い刑罰を科すことによって、国民の規範意識をより高め、法の確証が図られるという可能性もあるのではないか。
学習会後に読んだ本
 ヴィクトル・ユゴー『死刑囚最後の日』
 チェーザレ・ベッカリーア『犯罪と刑罰』

 

 

「市民的公共放送」実現のために、全国各地でNHK裁判に立ち上がろう               

奈良支部  佐 藤 真 理

 安倍チャンネル化が著しいNHKに対し、抗議の意思表示として、「受信料不払い」をする人は少なくありません。
 しかし、二〇一七年一二月の最高裁大法廷判決が、受信契約を締結していない市民に対して、テレビを設置した月以降の受信料の支払いを命じて以降、受信料の滞納者が激減しています。
 奈良県では、三年前、一二六名の市民が、NHKに対し、放送法第四条を遵守して放送する義務の確認請求の集団訴訟を提起し、二ヶ月毎に開かれる裁判に、毎回、七〇名を越える市民が傍聴に参加しています。
 最高裁大法廷判決は、「受信契約の成立には双方の『意思表示の合致』、即ち『合意』が必要」としながらも、NHKが提供する放送の中身までは踏み込んでいません。
 私達は、本件集団訴訟で、NHKはニュース報道番組に於いて、放送法四条一項各号(政治的に公平であること、意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること等)を遵守して放送する義務を負担しており、それが原告らの受信料支払義務に対応するNHKの義務である(有償双務契約)と主張しています。
 このような請求を掲げている訴訟は全国で初めてであり、本件訴訟は、国民の知る権利と民主主義の発達に寄与する公共放送の在り方を正面から問う歴史的な裁判として、次第に注目を集めるようになりました。
  昨年夏から行政法学者や憲法学者らとの研究会も重ねており、近近、憲法学者と社会学者の意見書も完成する予定です。本件訴訟の存在を知った行政法・情報法研究者が、学会での問題提起を計画しています。NHKOBやジャーナリストからの支援の輪も広がっています。
 最高裁大法廷判決によって、NHKの報道に対する批判や抵抗の手段としての受信料不払いが困難となっている今日、NHKの報道について、意見を言えるのは、視聴者である国民しかありません。
 私たちは、本裁判を通じて、視聴者が受信料を徴収されるだけの受け身の存在ではなく、放送における「国民主権」の担い手として、NHKで働く労働者と力を合わせて、NHKをつくり直し、あるべき市民的公共放送を実現していくことを目指しています。
 最近は、「受信料を払うのはいいが、政府寄りの報道内容にはがまんできない。抵抗の方法はないのか」などとの問い合わせを受けることが増えています。共謀罪に反対を貫いた著名な刑法学者からも、何かアイデアはないのかと尋ねられました。
 七名の弁護団ですが、可能なあらゆる支援を惜しみません。是非とも、全国各地で、著名な方も、普通の市民、視聴者の方も、原告に名を連ねる同種訴訟を提起し、イラク派遣差止愛知訴訟における二〇〇八年四月の違憲判決のような画期的な判決を勝ち取りましょう。

 

 

国立市人権を尊重し多様性を認め合う平和なまちづくり基本条例 ~差別根絶の流れは止まらない

東京支部  金   竜 介

 東京都の国立市が、昨年一二月二一日、「国立市人権を尊重し多様性を認め合う平和なまちづくり基本条例」を制定した(二〇一九年四月一日施行)。差別根絶の大きな前進である。
一 「市長の使命」「市の責務」
 本条例は、前文で「国においては、日本国憲法に掲げる基本的人権の尊重と恒久平和の理念の下、人権や平和に関する法制度の整備等の様々な取組が行われてきた。近年では、障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律、本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律及び部落差別の解消の推進に関する法律が制定され、地方自治体においても、地域の実情に応じた差別解消を推進するための更なる取組が求められている」とし、差別解消を推進することが地方自治体の役割であることを明言している。これは、差別的言動の解消に向けた取組を国との適切な役割分担を踏まえて、地方公共団体が当該地域の実情に応じた施策を講ずるよう努めるものとヘイトスピーチ解消法が規定したことを受けたものである。
 本条例は、さらに「市長の使命」「市の責務」を義務的な条項とし、具体的な基本方針と推進計画を立てることや実態調査を行うことを明文化した。単なる理念法や宣言ではなく、地方自治体の義務としたことに大きな意義を見出せる。
二 「何人も、いかなる暴力も行ってはならない」
 本条例で特筆すべきことは多いが、ここでは、第三条「不当な差別及び暴力の禁止」を挙げたい。
 同条は第一項で「何人も、人種、皮膚の色、民族、国籍、信条、性別、性的指向、性自認、しょうがい、疾病、職業、年齢、被差別部落出身その他経歴等を理由とした差別を行ってはならない」とし、第二項で「何人も、いかなる暴力(身体に対する不法な攻撃及びこれに準ずる心身に有害な影響を及ぼす言動をいう。)も行ってはならない」と規定する。「心身に有害な影響を及ぼす言動」も暴力であると明文化したことの意義は大きい。
 ジャーナリストの安田浩一氏は「ヘイトスピーチを『言葉の暴力』と表現することを私はとっくにやめた。なぜならヘイトスピーチは暴力そのものだからだ」という。自由法曹団にはヘイトスピーチを暴力と理解することができず「無視するに限るのである」と明言する弁護士もいる(二〇一五年五月集会特別報告集)。セクシャルハラスメントや配偶者暴力、児童虐待、職場での暴言などについては「心身に有害な影響を及ぼす言動」が物理的な暴力と同等の暴力であることを多くの弁護士が理解するようになった。しかし、差別の分野では、差別的言動が暴力であるとの理解ができず「言いたい奴には言わしとったらええねん」(上記五月集会分科会での弁護士の発言)という程度ととらえている弁護士もまだ多い(これは被害に苦しむ相談者に〈殴りたい奴には殴らせておけばええねん〉と弁護士がアドバイスするのに等しい)。本条例は、そのような理解が誤りであることを明確に規定したのである。
三 差別的言動のみが問題なのではない
 差別の形態の主な類型には、差別的取扱い、差別的言動がある。前者の例として、しょうがい者であることを理由とする入店拒否、女性であることを理由とする就職差別などが挙げられる。
 ヘイトスピーチは重大な人権侵害ではあるが、それ自体は差別の一類型でしかない。しかし、近年の弁護士や学者の議論は、ヘイトスピーチ、とりわけ〈不特定多数に対する差別的言動を規制することの是否〉という争点のみを延々と述べるものが多く見られた。女性差別で例えてみれば、都知事のした「ババア発言」が表現の自由であるか、不法行為であるかという議論のみに参加し、女性への具体的な差別的取扱いには全く興味を示さないようなものだ。
 本条例が、差別的言動(ヘイトスピーチ)のみではなく、包括的にすべての差別を対象としたことは、そのような議論を超えるものといえる。
四 「何人も差別を行ってはならない」
 ヘイトスピーチ解消法は、不十分な法律であることが指摘されてきた(二〇一六年自由法曹団「ヘイトスピーチの根絶に向けてたたかうことを誓う決議」)。理念法であって禁止規定がないことも批判の対象となっている。
 「東京都オリンピック憲章にうたわれる人権尊重の理念の実現を目指す条例」(二〇一八年成立)は、性自認及び性的指向を理由とする不当な差別的取扱いを禁止しているものの、「本邦外出身者」(外国人や民族的マイノリティ)については禁止規定としてはいない(かつ、不当な差別的言動のみで差別的取扱いは対象としてはいない)。
 国立市の条例は「何人も…差別を行ってはならない」「何人もいかなる暴力も行ってはならない」と禁止規定とした。今後は、本条例が根拠規定となって違法と判断される差別も多くなるであろう。
五 差別根絶の流れは止まらない
 ヘイトスピーチ解消法は、二〇一四年、国連の人種差別撤廃委員会のヘイトスピーチ規制を求める勧告を受けて、同年九月の国立市議会が皮切りとなって、全国の三〇〇を超える地方議会が国にヘイトスピーチ対策の法整備を求めた結果でもある。その国立市で解消法を実効化する条例が作られたことに敬意を表する。
 本条例は素案が提示された後、四回のタウンミーティングを実施、一四〇件のパブリックコメントが市に寄せられた。その多くは「より具体的に差別の対象を明記してほしい」との意見であったという。市議会本会議では、「条例の精神を学校などの教育現場などを通じて子供たちや市民に広く広めてほしい」などの賛成討論があり、全会一致で可決された。
 他の自治体が同様の条例をまとめる際、国立市条例の水準を下回ることは難しくなるであろう。
 全国の地方自治体での差別根絶の流れが止まることはない。

 

 

護憲装置としての象徴天皇制――「国民主権」と「平和主義」

東京支部 後 藤 藤 子

一 「象徴天皇」の「護憲」
 平成天皇は、平成元年の即位の際、「皆さんとともに日本国憲法を守り」と朝見の儀の「おことば」で述べている。そして、在位中最後の誕生日記者会見では「即位以来、日本国憲法の下で象徴と位置付けられた天皇の望ましい在り方を求めながらその務めを行い、今日までを過ごしてき」たと述べ、また、「天皇としての旅を終えようとしている今、これまで象徴としての私の立場を受け入れ、私を支え続けてくれた多くの国民に衷心より感謝する」としている。
 一九九四年六月四日、米国訪問前の米側記者の質問に対する文書回答でも、「日本国憲法には、皇位は世襲のものであり、また、天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であると定められています。私は、この運命を受け入れ、象徴としての望ましい在り方を常に求めていくように務めています。したがって、皇位以外の人生や皇位にあっては享受できない自由は望んでいません」としている。
 国家において国民が分断・対立でなく統合されることは、人々の平穏な日常にとって空気のように大切なことである。それを、時々の政治権力に委ねるのではなく、「象徴天皇」という憲法上の地位に委ねたことは、人類の英知を思わせる。ちなみに、憲法九九条は、憲法尊重擁護義務を負う者の筆頭に「天皇又は摂政」を挙げている。一方、安倍晋三内閣総理大臣はじめ国務大臣や国会議員がこの義務に公然と反する行動をとっている現実を目にするにつけ、象徴天皇制こそ日本国憲法に埋め込まれた「護憲装置」だったと痛感する。
二 「戦争責任」と「平和主義」
 平成天皇は、終戦を一一歳で迎え、疎開先(奥日光)から戻って見た東京の焼野原、昭和天皇が負った戦争責任問題、名代として訪問した海外諸国で日本に向けられる冷ややかな視線を一身に引き受けることになった。昭和二七年にサンフランシスコ平和条約が発効、翌年に奄美群島の復帰、昭和四三年に小笠原諸島の復帰、昭和四七年に沖縄の復帰が成し遂げられた。両陛下は、皇太子時代を含め一一回沖縄を訪問し、沖縄がたどった実に長い苦難の歴史と沖縄の人々が耐え続けた犠牲に心を寄せている。また、サイパン、ペリリュー、フィリピンの戦没者慰霊の旅。
 学生時代からテニス仲間だった友人によれば、平成天皇は、一九九三年一月の電話で、「自分はつなぎの天皇。皇太子の代に明るい皇室となれば」と語ったという。昭和天皇の戦争責任を問う内外の声は根強く、昭和天皇は晩年まで苦悩していた。友人は、「つなぎ」の意味について、「父が果たせなかった戦没者慰霊を、自分の代で成し遂げる。そのうえで次の世代に新しい皇室を築いてほしいと考えたのでは」と推し量る。
 平成天皇は、終戦翌年の書初めに「平和国家建設」と記し、一九七五年に初めて沖縄を訪問したときには過激派から火炎瓶を投げられたが、それでも「この地に心を寄せ続けていく」と宣言し、繰り返し沖縄を訪れている。また、皇太子と秋篠宮には幼少期から公務に同行させ、終戦の日に一緒に黙祷し、戦争の歴史を学ばせた。
 近現代四代の天皇のうち、唯一人軍服を着ることなく、在位中に戦争のなかったのは平成の天皇だけである。また、戦争を知る最後の天皇でもある。そのことが、先の誕生日記者会見で「平成が戦争のない時代として終ろうとしていることに、心から安堵しています」と印象深い言葉で吐露されている。
三 「大嘗祭」をめぐる秋篠宮発言の意義
 秋篠宮は、誕生日を前にした記者会見で、大嘗祭について「宗教色が強いものを国費で賄うことが適当か」と疑義を呈した。ちなみに、憲法二〇条は政教分離原則を定めている。また、使用後に解体撤去される「大嘗宮」の設営費関連だけで一九億七〇〇万円かかることもあって、秋篠宮は、宮中の「神嘉殿」を活用して費用を抑え、それを天皇家の私費で賄うという具体案を示していた。ここにも、皇室の護憲姿勢がはっきりと表れている。
 ところが、宮内庁長官らは聞く耳をもたず、政府が法的根拠もなく勝手に代替わり行事を進めようとしている。これこそが「天皇の政治利用」ではないか。それにもかかわらず、秋篠宮の発言を「政治的」と疑問視する声があるというのだから、呆れるばかりである。安倍政権になってから、「言語」の腐敗は著しく、評価がアベコベになっている。
 翻って、憲法は、前文で「主権が国民に存することを宣言」し、「国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」と定めている。この「国民主権」との関係でも、皇室がこれを弁え、自らの存在を主権者である国民の理解に求めているのに対し、政治権力側は「国民主権」を無視している。
 ところで、「象徴天皇制」を担う皇族が立脚点とする「国民主権」に照らせば、天皇代替わりの機会に、国歌である「君が代」の歌詞を「民が代」に変更し、新しい天皇が「日本国民統合の象徴」であることを相互に納得できるようにすべきであろう。
※本文一、二は朝日新聞一二月二三日記事、三は同一二月二四日、二五日記事を参照しました。〔二〇一八・一二・二八〕

 

 

そろそろ左派は、<経済>を語ろう(三)    

大阪支部  杉 島 幸 生

 伊藤先生、私の投稿(一六四九号)への応答(一六五二号、一六五三号)、ありがとうございます。先生から「情緒的な議論」との指摘をうけましたので、あらためて私なりに理屈立てて論点整理をしてみました。ご笑覧ください。
一 不況の原因は「デフレ」なのか
 デフレは、「物価が継続的に低下していく経済現象」です。しかし、消費者物価指数の推移は「横ばい」ではあっても、「継続的な低下」ではありません。「デフレ不況」という表現はミスリードです。「デフレ退治」のために貨幣供給量を増やすというアベノミクス「第一の矢」(異次元の金融緩和)は最初から的外れです。いまだに二%のインフレ目標を達成できずにいるのはその傍証です。正しい処方箋には正しい診断が必要です。不況の原因は何なのか(この点は一六五三号で少し触れました)、私たちはまずそれを語らなくてはなりません
二 財政破綻のリスクはあるのか
 私の考える「財政破綻」とは、新規国債の引き受け手がなく財政支出が困難となり、公務員の給料や社会保障、医療、教育などの公的サービスの提供ができなくなることです。一九年度予算案では、歳入約九九兆四二八五億円のうち税収等は約六二兆四九五〇億円でしかなく、約三一兆八七七九億円を公債発行でまかなっています。基礎的財政支出約七五兆九二〇三億円との差額である約一三兆四二五三億円と利払費約八兆八五〇一億円分の合計約二二兆二七五四億円分の国債が増えます。国債発行残高は約九〇〇兆円強となり、年々の利払費も増えていきます。今後大幅な税収増がなければ返済不能となるリスクを否定することはできません。これは脅しなどではありません。市場がそろそろやばいと考えれば、国債価格は下落し金利は上昇します。それを上まわる金利でないと新規国債の買い手はつかず予算編成が困難になります。こうして財政破綻は近づいてきます。
三 財政破綻は回避できるのか
 財政破綻を回避するためには、税収を増やし、支出を抑制する必要があります。財務省が消費増税に固執し社会保障費の削減を求めるのもそのためです。しかし、財政破綻を回避したいからといって財務省路線をとる必要はありません。私は、まず所得税・法人税を増税すべきだと思っています。九一年度の名目GDPは、約二六八兆円でした。この年の所得税収は約二八・七兆円(対名目GDP比一〇・七%)、法人税収は約一六・六兆円(同六・一%)です。一八年度の名目GDPは約五五七兆円(見込)で、所得税収は約一九兆円(同三・四%)、法人税収は約一二・一兆円(同二・一%)です。少し単純にすぎますが、仮に対名目GDP比が同じだとすると、一八年度の所得税収は約五九兆円(+四〇兆円)、法人税収は約三五兆円(+二二・九兆円)です。同年度の消費税収約一九兆円を遥かに上まわります。社会保障費(約三三兆円)どころか、基礎財的財政支出を充分にまかなえます。財政危機は、所得税、法人税減税と放漫な財政支出がつくりだしました。このことを不問にすべきではありません。もちろん今すぐ大増税ができるわけではありません。しかし、方向転換ならできるはずです。そのためには、「どこからとって、なにに使うのか」をもっともっと語らなければなりません。
四 高インフレのリスクはあるのか
 なるほど日銀が通貨発行権を活用し国債を買い続ければ財政破綻はしないのかもしれません。しかし日銀による国債引受はインフレリスクをともないます。財政法がこれを禁止しているのもそのためです。GDPギャップがあり、不完全雇用が続く間は、生産が拡大するのだから貨幣は過剰とはならずインフレにもならないと言う人もいます。しかし、内閣府のGDPギャップ統計では、一八年度四―六月期は+〇・七%、七―九月期は、マイナス〇・四%です。GDPギャップはもうありません。失業率は、二・五%でほぼ完全雇用の状態にあります。その前提はすでに失われています。また私はこれは理論的にも誤りだと思っています。異次元の金融緩和で、日銀の当座準備預金は約三八九兆円を越えました。しかし、このうち法定準備は一〇兆円にもならず、あとは過剰準備です。今、インフレになっていないのは資金需要がなく、貨幣が市場に流れていないからにすぎません。仮に景気がある程度回復しインフレ傾向になったとします。それは借りたい人(企業)、貸したい人(銀行)がたくさんいるということです。そこにタネ銭(過剰準備)があるとなれば、当然それを法定準備に組み入れての信用創造(貸付)が発生します。理論的には三八〇兆円の数十倍の貨幣を供給できることになります。潜在的なインフレリスクはすでに生まれています。
五 インフレはコントールできるのか
 過剰な貨幣がインフレとして現象するまでには相当なタイムラグがあります。インフレ率が高くなり政府や日銀がインフレ退治に乗り出したときには、すでに大量のインフレマネーが市場に流入しているかもしれません。またインフレ退治のためには国債の売オペで過剰な貨幣を吸収しなければなりません。しかし、三〇〇兆円を越える国債が売りに出されれば国債価格は急激に下がり金利は上昇します。民間からの投げ売り(損切り)も始まるでしょう。このとき銀行などが新規国債を引き受けてくれる保障はありません。たちまち予算編成は困難になります。政府が本気でインフレを押さえようとすれば、再び財政破綻のリスクが浮かびあがります。市場にある過剰な貨幣を吸収するためには大増税が必要となるかも知れません。貨幣の流れをとめるのですから運転資金を入手できず倒産する企業も続出することでしょう。経済は一気に縮小します。そのとき過剰な貨幣を吸収しきれていなければインフレはさらに昂進します。なにも需要が過剰である必要はありません。政府がインフレをコントロールできると考えるのは、いささか安易にすぎるように思います。
六 そろそろ左派は<経済>を語ろう
 世界大恐慌時は、卸物価は三〇%以上下落し、失業率は四〇%を越えたそうです。なるほどこんなときに将来のインフレを心配して手を打たないのは馬鹿げています。しかし幸いなことに現在の状況はそこまで悪くはありません。種々のリスクを考えながら、経済構造を変えていくだけの余裕はまだありそうです。今、過去の歴史を忘れ危険な冒険に挑むのはどうかと思います。私たちは、景気対策と称して大企業のための公共事業を重ねる一方で、所得税、法人税を減税し、足らずは消費税増税でという現在の財政政策を大いに批判しなければなりません。そのうえで大企業、資産家への課税で財政破綻のリスクを減少しつつ、庶民の財布を大きくするための予算編成、政策を行うという方向へ政治を転換していくことを呼びかけるべきだと思います。労働法制や、年金、生活保護など、私たち、取り組んでいる課題についての経済的な側面を語ることも必要でしょう。確かに、こうした観点は弱いようにも思います。やっぱり、そろそろ左派は、<経済>を語らなくてはならないようです。

 

 

お正月ニュースで学び、楽しみ、味わう(前編)

福岡支部  永 尾 廣 久

 今年はあったかくて穏やかな正月を孫とともに迎えてうれしい気分でした。ところが、四日夕方に震度四の地震に見舞われ、やっぱり激動の時代に生きていることを体感させられてしまいました。お正月は、全国各地の法律事務所から送られて来るニュースをいつも楽しみに読んでいます。そのなかで心にとまったものを紹介しはじめたのは一九九九年一月二一日の九三七号からですので、もう二〇年になります。どうぞ、今年もぜひお読みください。
未払い残業代をスピード回収
 月一〇〇時間以上も残業しているのに、もらっている残業代は月三万円だけ。未払い残業代は四〇〇万円以上になる。さあ、どうやって会社に支払わせるか・・・。
 交渉でも本訴提起でもなく、玉木正明団員は一般先取特権を選択しました。これだと、申請者側の主張・立証のみで、相手方の反論を一切聞かずに強制執行できるので、一ヶ月もかかりません。ええっ、ホントですか、知りませんでした。
 ただし、一般先取特権は申請者側の手持ち証拠だけで、相手方の反論を聞くまでもないと判断されるくらいに高度な証明を書面のみで行う必要があり、認められるのは、かなりまれなことだそうです。玉木団員が扱ったケースでは、幸いにもタイムカードがあり、毎日の始業・終業時刻を月報でまとめて会長に提出していたので、高度な証明があったと認められたのでした。
 そして玉木団員は強制執行方法として動産執行を選択しました。この会社の閉店直後に執行官と一緒に乗り込み、裁判所の動産競売許可決定を示して、金庫、レジ、両替機、翌日用の釣銭など、現金一六五万円を見事に回収したのです。うむむ、すごい、すごい。
 あとから会社の顧問弁護士が出てきて交渉になったものの減額してくれと言うばかりなので、二回目の動産執行を敢行し、ついに全額を回収できました。
 すごいレポートです。そうか、そんな手があったのか・・・、目を見張る思いでした。大分共同ニュースから紹介します。それにしても、せっかくの弁護士の顔写真がどれもこれもボケボケです。これは、ぜひなんとかしてくださいな。
兼業主婦の休業損害
 夫と小さい子どもをかかえ、会社員をしながら家事をしていた主婦が交通事故にあったとき、会社はあまり休まず働いたものの、家事はほとんど出来なかった・・・。そんなとき、主婦としての請求はできないものなのか。まさに、今、私も同じようなケースを担当して困っています。保険会社は、当然のようにゼロ回答です。
 田辺匡彦団員は、兼業主婦の場合、「現実の収入額と女性労働者の平均賃金のいずれか高いほうを基礎として算出する」とされている、したがって現実の収入額が平均賃金を下回っていれば主婦としての休業損害を請求できと書いています。そうなのか、請求できるのか、やっぱり出来るんですよね。
 そして、休業期間は、「受傷のための家事労働に従事できなかった期間」とされていて、受傷内容や通院状況などを総合して判断されるのです。
 ふむふむ、助かりました。黒崎合同の事務所だよりを読んで良かったです・・・。
マンション管理組合の閲覧謄写
 マンションの老朽化がすすみ、大規模修繕・建替をめぐって全国的にトラブルが頻発しています。修繕積立金が確保されているのか、工事業者の選任は適正になされているのか、各地で争われています。太平洋法律事務所のニュースレターで脇田達也弁護士が、この問題を扱っていて大変勉強になりました。
 総会議事録、理事会議事録、会計帳簿などは利害関係人が閲覧できる。この利害関係人とは、敷地・専有部分に対する担保権者、差押え債権者、賃借人、組合員から媒介の依頼を受けた宅建取引業者など、法律上の利害関係のある者をいい、単に事実上の利益や不利益を受けたりする者、親族関係にあるだけの者などは対象とならないとされています。
 そして、閲覧の対象は、会計帳簿のみならず、それを裏づける通帳、領収証、請求書などの会計関係書類や原資料の関係まで判例は認めています。
 ところが、喜ぶのは、まだ早いのです。閲覧しても、それだけでは証拠として裁判所に提出できません。そこで謄写を申請するわけですが、それを認めた判決がある一方、謄写請求を棄却した判例もあるのです。
 さらに、閲覧が認められていて謄写できるかどうか規定がないとき、デジタルカメラによる撮影だったらいいのかについて、判例が分かれているというのに驚いてしまいます。私が税務調査を受けて異議申立してたたかったとき、税務署が謄写させず、写真撮影するしかなかったことを思い出しました。今どき、デジカメの撮影も許さないという東京地裁の考えはまったく理解できません。
高裁判事の劣化
 職場で上司からパワハラを受けていた労働者が録音機を持ち込んでいたことを大阪高裁は次のように認定しました。
 「録音されていることを知らない上司Aが激高し、不当な発言等を続けるのを聞き、適宜対応していたものであるから、内心では優位な立場にあった」
 「Aを挑発することによって、同人が激昂のあまり、不当な発言等をする可能性をある程度は予期したうえで、これを証拠にすることによってその後の勤務先との交渉を自己にとって有利にすすめるという周到な計画のもと、録音機を持参し、面談に望んだものであると考える余地も十分にある」
 上司から暴言を受けているあいだ、その労働者は謝罪を続けていて、挑発したことがないのは録音から明らかでした。また、「周到な計画」というのは被告の企業側も言っていないことで、高裁判事たちの想像にすぎません。
 いやあ、ひどい判決です。ところが、私も実は福岡高裁に煮え湯をのまされたばかりなのです。私の事件はアルツハイマー型認知症の父親から、子どもの一人に何百万円ものお金が渡っていたことについて、裁判所は金銭管理能力があったので問題なしとしました。しかし、父親の認知症の程度は徘徊、暴力など、要介護五と認定されていて、金銭管理能力どころか、意思疎通すらできない状態でした。
 福岡高裁は、そのような私の主張にまったく触れることもなく、一審と同じく金銭管理能力ありとして控訴を棄却してしまいました。要介護五の認定がおかしいとも言わずに金銭管理能力ありとする高裁判事たちの思考力の低下(劣化)はひどい、ひどすぎます。あべの総合のニュース「いずみ」の和田香団員の論稿にまったく同感でした。
 「いずみ」には、かねて敬愛する森野俊彦団員(福岡高裁の元判事)による裁判官と弁護士とでは心証形成の出発点が違うという面白い指摘があります。この点は、もっとたくさんの例示をあげて深めてほしいと思ったことでした。(続く)

 

 

二〇一八年福岡・八幡総会旅行記 第四 総会後の個人旅行 続百名城と松本清張「時間の習俗」

東京支部  伊 藤 嘉 章

一 久留米城
 福岡県久留米市所在の久留米城(篠山城)へ。有馬家ゆかりの品を展示しているという有馬館は午前一〇時にならないと開かない。ブリジストンの工場の脇の道を歩いてJR基山駅に行く。続百名城に指定された基肄城(きいじょう)のスタンプを押すために基山駅からタクシーで基山町民会館に行く。水災害によって山頂へのハイキングコースは入山禁止、水門跡にも行けないという。スタンプを押すだけで帰るしかない。タクシーの運転手がいうには、先ほども同じ目的の客を乗せたという。続百名城スタンプラリーは、少しは地元の経済の活性化に貢献しているのか。
二 太刀洗平和記念館
 基山駅から甘木鉄道の終着駅甘木駅まで行き料金を精算すると、また同じ車両に乗って太刀洗駅まで戻って下車。筑前町立太刀洗平和記念館を見学。「天井にある人形(ヒトカタ)(ここでは飛行機形)の枠がB29の大きさを表しています。ゼロ戦は本物です。」と係員が言う。ゼロ戦には、錆止めのペンキがごってり塗ってある。
 ひいおばあさんがひ孫に太刀洗飛行場の一九四五年三月七日の空襲を語る映画を見る。前半は三〇人の同級生が爆弾で同時に死んだという悲劇。後半は、特攻隊の出撃を見送る場面。兵士の顔はみな爽やかであった。その内心はいかばかりであったろうか。見送る者はみな涙。これが本心であったという。
 私も、平成天皇の真似をして、アジア太平洋戦争の戦跡、関連博物館を訪ね歩くことも趣味のひとつにしている。知覧特攻平和記念館、沖縄のひめゆり会館、摩文仁の丘、旧海軍司令部壕、広島県の呉にできた大和ミュージアム、舞鶴市の引揚記念館、秋田県大館市の花岡記念館、大阪市のピース大阪、東京のしょうけい館、昭和館、新宿住友ビルの平和祈念展示資料館、広島の平和記念資料館、長崎原爆資料館、仙台市戦災復興記念館、松代大本営跡、明治大学生田キャンパス内の登戸研究所資料館(以上順不同)。みな戦争を語り継ぐ施設だ。国がどのような追悼施設を作るかという議論が潰えて久しい。戦争を語り継ぐ施設を作ることが追悼の場となるのではないだろうか。但し、靖国神社の遊就館を除く。
 国立千鳥ケ淵墓苑はいかにもしょぼい。この施設の築造を靖国神社がどれほど妨害してきたかも語り継ぐ必要があろう。東京都文京区にある都立戦没者霊園はさびれている。
 他方で、海軍の宇佐航空隊があった宇佐市では、博物館をつくろうとして暫定的に遺物を倉庫で展示をしている。地震で倒壊の恐れがあるからといって遺跡を解体するのではなく、耐震補強の上保存していくことが必要だ。
三 水城
 続百名城の水城に行く。松本清張の「時間の習俗」では、この水城の堤で殺人の死体が発見されたという。女性ものの片方の手袋も同時に発見された。
 福岡県の水城周辺も、何一〇年も前に畑の中で殺人の死体が発見された東京都郊外にある私の自宅の周辺も、かつては寂しい田園地帯であった。今では、ともに住宅街になっており、人を誘い込んで殺すなどできない場所である。
 せっかく来たのだから、大宰府政庁跡までタクシーで行く。「時間の習俗」の峰岡容疑者は、大宰府政庁跡におもむき俳句二つを作ったという。
    天平の礎石にわが影の凍ており
    礎石指に触れて歴史の冷たさ
 私には、よくからない句です。峰岡容疑者は、「私はもともとホトトギス派です。でも最近前衛俳句にも興味を持ってきた」と三原警部補に話す(新潮文庫「時間の習俗」平成三〇年七月一〇日六四刷一二三頁)。
 ところで、大宰府政庁跡に立っている石碑にある「都督楼古府跡」とはどういう意味か。これから勉強します。
四 「ゼロの焦点」と能登金剛
 二〇一九年の団の五月集会は、石川県で開催とのこと。そのときには、松本清張の「ゼロの焦点」を読み返したうえで、能登金剛を再訪してみたい。探偵役の夫なき新妻禎子(映画では広末涼子、久我美子が演じた)は、能登金剛の絶壁の上に三度び立っている。また、のと鉄道の廃線によって廃駅となった縄文真脇駅近くにある真脇遺跡に再度環状木柱列を見に行きたいとも考えています。
 能登の国一宮の氣多大社には、初めて朱印をもらいに行く予定です。時間があれば、七尾城、能登国分寺にも行きたい。
酒は、天狗舞と菊姫が楽しみだ。(完)

TOP