第1659号 2 / 11

カテゴリ:団通信

●池田町公民館使用許可取消事件の終結   金 枝 真 佐

●救援会県本部との交流会のご報告   小 林 明 人

●「生活保護法63条の『徴収』と『天引き』の『改正』法運用に関する提言書」に基づく厚労省申入れのご報告   鹿 島 裕 輔

●「象徴天皇制」からの脱却   池 田 賢 太

●新防衛大綱(後半)~ 海外派兵軍隊への変貌の「開き直り」~   遠 地 靖 志

●「辺野古埋立」を決めたのは誰か?「国民主権」と「権力分立」   後 藤 富 士 子

●書評 「9条の挑戦」   伊 藤 嘉 章

●書評 『過労死落語を知っていますか』桂福車、松井宏員著 新日本出版社   玉 木 昌 美

●書評 渡辺輝人団員著「残業代請求の理論と実務」購読のおすすめ   中 村 和 雄

 


池田町公民館使用許可取消事件の終結

長野県支部  金 枝 真 佐 尋

 池田町公民館使用許可取消事件が解決しました。住民の粘り強い交渉の成果です。
 事件は、平成二八年一二月二日に起きました。長野県北安曇郡池田町の住民が組織する「町民と政党のつどい」池田町実行委員会が、政治的な集会を計画して池田町公民館に使用許可を申請し、使用許可を得ていたところ、集会前日になって許可が取り消されました。案内チラシの文面に特定の政党の利害に関することが記載されていたというのが主な取消理由でした。
 予定されていた集会の内容は、地元の野党(四つの党)の代表者を招き、安保法制・憲法改正、沖縄などの平和問題、年金・保険・福祉切り下げなどの政策課題や将来の総選挙における野党共闘の可能性について各党の見解を聴くとともに、参加者が相互に意見交換をするというものでした。集会を主催する「町民と政党のつどい」池田町実行委員会は、「戦争法に反対する池田町民の会」や「九条の会池田」などの市民団体で構成されており、集会の参加者を募集する際には、政治的な意見・立場による制限は設けずに、広く一般に参加を呼びかけるものでした。
 このように、住民が主体となって政治的な課題について多角的な視点から学習する集会が企図されていたところ、池田町公民館での開催ができなくなってしまいました。集会主催者は、やむを得ず、池田町福祉会館など他の町の施設に使用許可の申請をしたものの、施設が空いているにもかかわらず軒並み拒絶されました。なお、かろうじて池田町内にある一丁目集落基幹センターを借りることができたため、集会自体は、予定した日に開催しています。
 集会主催者から相談を受けた自由法曹団長野県支部は、平成二八年一二月二七日に、池田町長に対し、「公民館の使用許可取消処分に抗議する声明」を執行しました。ⅰ公の施設である公民館は、「正当な理由」がなければ利用を拒んではならない(地方自治法二四四条二項)。ⅱ公民館は、地域に根ざした、住民のための生涯学習の場であり、地域住民が自主的に学習するために集会を実施することは、公民館の設置目的の一つということができるから(社会教育法三条一項、二〇条、二二条六号)、住民が、国政に関する政策課題について、政党の代表から説明を受け、あるいは、それに対して意見を述べることによって、政治的見識を養うことも、公民館の利用形態として当然に想定されている。ⅲ憲法二一条一項が集会の自由を保障した究極的な理由は、国民が国政に関する意見にふれ、それらについて討論する機会を確保することにあるから、住民が政治的集会を実施することは、極めて重要な意味をもっている。ⅳ政党が議会制民主主義を支える不可欠の要素であると同時に、国民の政治意思を形成する最も有力な媒体であることからすれば(最高裁判所大法廷昭和四五年六月二四日判決)、住民と政党の意見交換のための集会は、国民が政党の政策を知り、それに意見を述べるための重要な機会であり、議会制民主主義における民意形成の出発点をなすものであって、住民による集会の利用を推進すべき公の施設である公民館には、特にこのような集会の実施が期待されている。ⅴ福岡地方裁判所小倉支部平成元年一一月三〇日判決も、「公民館自体が『特定の政党の利害に関する事業を行い、又は公私の選挙に関し、特定の候補者を支持すること』を禁止することはその公共性、中立性から理由のあることとしても、住民が公民館を使用して行う集会について、それを上回って単に政治的活動というだけで不許可にすることは全く合理性がない」と判示しており、社会教育法二三条一項によって禁止されているのは、公民館自体の行為として「特定の政党の利害に関する事業を行な」うことであって、同条項は住民が公民館を利用して実施する集会を制限する趣旨ではない。要旨これらのことを声明で述べました。
 そして、声明の執行の際には、岩下支部長と支部団員数名が直に池田町役場へ赴き、町長と面談して使用許可の取消が違憲・違法であることを説明しました。また、松村団員が公民館の利用のあり方について団支部や住民とのディスカッションの機会を設けるように申し入れをしました。
 その後、「町民と政党のつどい」池田町実行委員会は、国家賠償請求訴訟を視野に入れつつも、池田町に対して、質問書を提出するなど許可取消処分の対応について回答を求めるとともに、謝罪と処分の撤回を求め続けました。その結果、池田町と教育委員会は、次第に耳を傾けるようになり、話し合いの場を設けて双方の主張を付き合わせ、一致点を見い出す姿勢に変わってきました。そして、平成二九年一二月二六日に、池田町と教育委員会は、取消処分に至る経過の中に様々な不手際や誤りがあったことを認めて謝罪し、取消通知書を撤回すると表明するに至りました。そして、それまでの協議内容を踏まえて、①公民館の運営にかかわる社会教育法二三条一項二号の解釈運用と②新設される地域交流センターの運営規則と具体策について、協議を継続するとともに町民の意見を十分に反映したものとするとの方針が打ち出されました。
 このような方針のもとで協議が継続され、最終的に、平成三〇年一二月一四日、上記②について、教育委員会は、新設予定の地域交流センターを貸し館として利用する場合は他の公的施設と同様に制限なく利用できるという方針を打ち出すに至りました。今後は政治的課題をテーマにした集会であっても自由に使うことができることが確認され、管理規則の細則についても住民の意見を踏まえて具体策を検討することが確認されました。上記①については、双方の見解に隔たりがあり、一致した見解を打ち出すまでには至らなかったものの、公の施設を実際にどのように運用していくかについて、住民の意見を反映したルール作りが実現したことになります。
 池田町と教育委員会は、当初こそ処分の正当性に固執する態度がみられたものの、比較的早い段階で住民との協議の機会を設け、手続の誤りを認め謝罪したうえで、将来の公の施設の利用方針について住民の意見を反映させました。住民自治の精神に適った行政運営を行ったことは、賞賛に値します。住民側も、「真剣な話し合いを通して一致点を広げ合意を得るというやり方の大切さを確認できたことは大きな教訓となった」と述べるなど、この一件を通して多くを学んだとしており、住民自治の実践に手応えを感じているようです。
 住民と自治体が、法廷闘争ではなく、話し合いの中で住民の意見を尊重したルール作りを進めたことは、民主主義の学校と呼ばれる地方自治が健全に機能した結果です。自由法曹団長野県支部の活動が、住民の一連の活動の支えとなったことを誇りに思います。

 

 

救援会県本部との交流会のご報告

岐阜支部  小 林 明 人

 国民救援会岐阜県本部は、昨年から会長として団岐阜支部の笹田団員を迎え入れています。せっかく両者の関係が深まったこともあり、一月二一日に日本国民救援会岐阜県本部と団岐阜支部との新年交流会を行いました。岐阜県ではあまり例のない(少なくとも私にとって初めての)企画です。出席は団員八名、救援会役員八名でした。
 交流会は、懇談会と懇親会の二部構成でした。懇談会では、正木事件(約四〇年前の弾圧事件です。公選法の文書配布禁止規定を違憲とする一審判決を獲得しました。団岐阜支部の歴史において重要な位置を占める事件です。)を契機とする救援会との連携の歴史が語られました。近年も岐阜県笠松町の選挙弾圧事件を解決していますし、現在も多くの裁判闘争を救援会の支援を得て進めています。また、改憲の国会発議を阻止するための運動や学習会開催を進めていきたいという思いも語られました。
 次は懇親会です。会場は民商の会員が経営する居酒屋さんでした。岡本支部長を筆頭とする団岐阜支部の執行部は三〇代、四〇代の若手ばかりなのに対し、救援会の中心メンバーは六〇代から八〇代と親子以上の年齢差があります。それでも一緒に鍋をつつきながら、一緒に取り組んだ裁判の話題で大いに盛り上がることができました。
 救援会のある重鎮の役員が、笠松町での事件では弁護士に遠慮する気持ちがあって、相談が遅れてしまったことを悔しそうに語りました。支援団体は重要な事件の窓口になってくれる存在でもあります。より早く、効果的な活動を展開するためには、常に人的な交流を深めておくことが重要なのです。救援会の重要さを見つめなおす機会を得てたいへん有意義でした。もし救援会との交流の場が少ないという支部がありましたらお勧めしたいと思い、ご報告させていただきます。

 

 

「生活保護法六三条の『徴収』と『天引き』の『改正』法運用に関する提言書」に基づく厚労省申入れのご報告

  東京支部  鹿 島 裕 輔

一 提言書の趣旨
 自由法曹団は、二〇一八年一一月一七日に「生活保護法六三条の『徴収』と『天引き』の『改正』法運用に関する提言書」を発表しました。同提言書は、二〇一七年に「生活困窮者等の自立を促進するための生活困窮者自立支援法等の一部を改正する法律」が成立し、施行・運用が始められたことに伴い、同改正法が生活保護法六三条をめぐり、全国で違法な決定が横行している運用の実態がすでに存在しているにかかわらず、生活保護法六三条の費用返還請求を国税徴収法の例により行われることし、さらに保護費からの天引きを許すこととした点について、違法な決定が横行する生活保護法六三条の運用の現状と問題点を指摘し、それに基づいて改正法の上記二点の運用上、行政として最低限配慮し、遵守しなければならないことを提言しています。
二 提言書に基づく厚労省への申入れ
 貧困・社会保障問題委員会では、二〇一九年一月二三日、厚労省に対して、上記の提言書に基づき、生活保護法六三条の運用に関する申入れを行いました。
 出席者は、自由法曹団からは執行部より舩尾団長にご出席いただき、そのほか貧困・社会保障問題委員会の団員七名(専従事務局を含む)が出席しました。他の諸団体からは、自治労連、全生連、生活保護問題対策全国会議よりご出席いただき、本申入れの手配をしていただいた日本共産党・倉林明子参議院議員の秘書の方にもご出席いただきました。
 厚労省からは、社会・援護局保護課から二名が出席しました。
 当日は林団員の司会のもと、最初に舩尾団長より本申入れにあたって自由法曹団を代表してご挨拶いただき、その後、酒井団員より提言書の内容について説明した上で、意見交換が行われました。
 まず、平成二四年通知により「原則、(収入の)全額を返還対象とする」としたことについて、厚労省は法六三条による返還額を決定するにあたって、自治体ごとにばらばらな判断がなされており、不平等な結果が生じないよう厚労省で検討した結果として発せられたものである。そのため、基本は全額返還していただき、例外として自立更生費として控除した上で返還額を決定するとの回答でした。しかし、出席者より、実際には、交通事故による損害賠償や離婚による慰謝料、遺産分割協議による相続財産の取得などの場合に、金銭が自分の手元に入ってくるまでに長期間要したことについて本人に帰責性がないにもかかわらず、もらったものを全額返還することになるのはあまりにも酷な結果となってしまうし、実際に必要経費として認められるべきものを認めず過大な返還決定がなされていることからすれば、「原則、全額返還」というのが一人歩きしてしまうと危険であるという意見が述べられました。
 また、現場では何が自立更生費に当たるのかの判断に苦労しており、クーラーや冷蔵庫、電子レンジなどの買換えが自立更生費に当たるのかもわからず、現場のケースワーカーは悩んでいる。そのため、この点に関する裁決や判例を周知することで現場の判断を変えることができるのではないかとの意見も出席者より述べられました。厚労省側の回答は、個別事例の話であるし、行政側が勝つ事例もあるので、全部の周知は難しいとともに、周知してもそれを見てくれるかという問題もあるとのことでしたが、それに対しては報道で裁決・判例を知ったら担当自治体に問い合わせるなどしてほしい、こちら側からも情報提供する旨の意見が述べられました。
 さらに、保護費からの天引きについては、厚労省側はあくまで任意で行われることが前提であるとの回答でしたが、それに対しては実際の現場ではケースワーカーより強く言われるため、同意せざるを得ない状況にあること、さらには天引き金額の上限の目安を超える金額が天引きされている事例があることなど、現場の実態についての意見が述べられました。
 このように、厚労省が改正法及び通知により想定していることとは異なる運用が現場ではなされており、その点をまずは厚労省に知ってもらうことが必要であり、その上で現場の運用の改善に取組んでもらう必要があります。そのためにも普段から現場の事例に接している団員や諸団体の方々からの意見は非常に有益だったのではないかと思います。時間にして約一時間の意見交換でしたが、非常に有益な意見交換ができたと思いますので、貧困・社会保障問題委員会としては、引き続き現場の運用実態を注視し、諸団体と連携しながら運用の改善への取組みに努めていく所存であります

 

 

「象徴天皇制」からの脱却

  北海道支部  池 田 賢 太

 先に団通信に掲載された後藤富士子団員の論稿と、それを受けた盛岡暉道団員の論稿を読み、私もひと言いいたくなったので、他に書かなければならない書面があるのを尻目に、パソコンに向かう。
 私は、後藤団員の「護憲装置としての象徴天皇」という考え方に、全く得心がいかない。
 今上天皇は、柔和な表情を崩さず、物腰柔らかに、妻を愛し、高齢にもかかわらず公務に従事し、国民の安寧を祈っている。まさに「人格者」として、多くの国民の尊敬を集めていることは確かであろう。そして、日本国憲法の精神を体現し、憲法尊重擁護義務を負う象徴天皇としての発言や言動は、しばしば安倍政権に対して批判的との評価を得てきた。
 しかし、それは今上天皇、あるいは現在の皇室の極めて戦略的な一面ではないのだろうか。つまり、天皇制維持のための戦略である。今上天皇の発言は、確かに日本国憲法を遵守する旨の発言が多い。だがそれは、日本国憲法によって与えられた「象徴としての天皇」という地位を失わないための発言ではないのだろうか。
 日本国憲法は、天賦人権論や自然権思想を背景として、徹底した個人主義をベースに国民主権原理を採用してきた。あらゆる意味において、天皇制を排除してきたはずである。しかし、実態は「象徴天皇制」という天皇制を維持し続けてきたのだ。日本国民統合の象徴として天皇を置くのだから、言葉としては「天皇象徴制」が正しいはずである。しかし、憲法学説も私たち自身も「象徴天皇制」という言葉を無批判に使ってはいないだろうか。「象徴天皇制」という言葉を用いることで、天皇制は維持され続けてきたと私は思う。盛岡団員の指摘する言葉遣いの問題の根幹は、この点にあるのではないだろうか。
 今上天皇の退位を求める「おきもち」も、秋篠宮の大嘗祭に関する発言も、全ては国民に反感を抱かれず、象徴としての天皇の地位を揺るがせないという目的のために行われてきたのではないだろうか。今上天皇は、戦地巡礼や被災地への訪問を積極的に行ってきたが、それは慰霊と顕彰、士気高揚という戦前戦中の天皇が果たしてきた役割を、形を変えて継続してきただけではないだろうか。
 今上天皇の言動は、さまざまに政治的意図をもって行われてきた。先の「おきもち」が最たるものであるが、憲法尊重擁護義務を負っている天皇としては、越えてはならない一線を越え続けてきたと私は思う。それが、日本国憲法の精神を表面上体現しているからこそ、大きな問題として議論されてこなかっただけで、今上天皇は明確に憲法違反を犯し続けてきた。天皇に対する親和性こそ、日本に立憲主義が根付かない大きな要素の一つであると思う。
 そもそも、人格をもった個人に「象徴」としての役割を課し、政治的言動をさせないなどということは、人権侵害以外の何ものでもない。彼らが真に平和を願い、犠牲者を悼んだとしても、その地位によって彼らの思いは曲げられてしまう。これは私のうがった見方によることかもしれないが、そのような見方をさせてしまうことこそ、個人に「象徴」としての役割を課すことの最大の害悪であり、お互い不幸である。
 私は、早期に憲法を改正し、天皇制を廃止すべきだと思う。そのためにも、一刻も早く「象徴天皇制」から脱却し、少なくとも現在の状況は「天皇象徴制」なのだ、日本はあらゆる意味で天皇制を廃止したのだという認識が広く共通の理解に立たなければ、いつまでも天皇制の残滓をなめ続けることとなり、「護憲装置としての象徴天皇」という誤った理解に立つことになると思う。

 

 

新防衛大綱(後半)~ 海外派兵軍隊への変貌の「開き直り」~

事務局次長  遠 地 靖 志

一 はじめに
 今回は、防衛大綱の後半(Ⅳ以下)について読み解いていきたい。
二 「Ⅳ 防衛力強化に当たっての優先事項」
(一)領域横断作戦に必要な能力の強化における優先事項
 防衛大綱は、「防衛省・自衛隊のみならず、政府一体となった取組及び地方公共団体、民間団体等との協力を可能にし、我が国が持てる力を総合する防衛体制の構築」(防衛大綱八頁)を掲げ、前大綱で打ち出された「統合機動防衛力」(陸海空の統合運用による機動的・持続的な活動を行い得る)の方向性を深化させつつ、「宇宙・サイバー・電磁波を含む全ての領域における能力を有機的に融合し、平時から有事までのあらゆる段階における柔軟かつ戦略的な活動の常時継続的な実施を可能とする、真に実効的な防衛力として、多次元統合防衛力の構築」を掲げた(一〇頁)。一方で、「人口減少と少子高齢化の急速な進展」及び「厳しい財政状況」を踏まえて、防衛力強化の優先事項を挙げている。
 優先事項の筆頭に挙げられているのは、領域横断(クロス・ドメイン)作戦を実現するための宇宙・サイバー・電磁波といった新たな領域における能力の獲得・強化である(一七頁以下)。とくに、宇宙領域では蓄積のある宇宙航空研究開発機構(JAXA)等の関係機関や米国等の関係国との連携強化を図ることを打ち出していることが注目される。また、サイバー領域、電磁波領域が自衛隊の活動の基盤であり、現代の戦闘の最前線であるとして、これらの能力の強化や人材育成を打ち出していることも注目される。
 従来の領域における能力の強化も「宇宙・サイバー・電磁波領域における能力と一体となって」進められることが明らかにされている。ここでは、日本周辺海空域の対処能力を強化するために、無人水中航走体(UUV)の導入や、短距離離陸・垂直着陸(SVTOL)が可能な戦闘機(F35B)の導入と護衛艦いずもの「空母」化の方針が示されている。また、相手の射程外から攻撃を行う「スタンド・オフ防衛能力」、弾道ミサイル等に陸海空自衛隊が一体となって対処するための「統合ミサイル防衛能力」、島嶼部への攻撃に対応するための水陸両用作戦能力等の強化をはじめとした「機動・展開能力」の強化が打ち出されている。
 これらの能力は、「防衛」のみならず、相手への攻撃手段としても使うことのできるものである。前防衛大綱ですでに打ち出されていたものもあるが、新ガイドライン、戦争法の成立を受けて、攻撃能力の獲得をあからさまに打ち出してきたといえよう。
(二)防衛力の中心的な構成要素の強化における優先事項
 また、防衛大綱は、防衛力の中心的な構成要素の強化における優先事項として、①人的基盤の強化、②装備体系の見直し、③技術基盤の強化、④装備調達の最適化、⑤産業基盤の強化、⑥情報の強化を挙げている。とくに少子高齢化のもとでの自衛隊員の確保は喫緊の課題として、「地方公共団体等との連携を含む募集施策の推進」(①人的基盤の強化)を掲げているのはこれまでになかったことである。また、民生技術の積極的な活用、シンクタンクの活用(③技術基盤の強化)、国際共同開発・生産や海外移転も念頭においた装備品の開発等の推進(④装備調達の最適化)、日本防衛産業の維持・育成、防衛装備移転三原則のもとでの武器輸出の推進等(⑤産業基盤の強化)を打ち出していることも注目される。
三 「Ⅴ 自衛隊の体制等」
 自衛隊の体制等で注目されるのは、共同の部隊である「サイバー防衛部隊」「海上輸送部隊」での創設である。これまでも自衛隊の統合運用として統合幕僚監部の機能の強化が図られてきたが、実戦部隊は陸海空いずれかの自衛隊に属していた。共同の部隊の創設によって、新たな領域を含めた陸海空のさらなる統合運用が可能となるだろう。
 また、宇宙利用の優位性を確保するため、航空自衛隊に「宇宙領域専門部隊」が創設される。電磁波領域についても、各自衛隊における態勢の強化が打ち出されている。
 さらに、陸上自衛隊において「地対空誘導弾部隊」「弾道ミサイル防衛部隊」(新設)、海上自衛隊において「イージス・システム搭載護衛艦」、航空自衛隊において「地対空誘導弾部隊」を保持し、統合ミサイル防空能力を構築することを打ち出している。
 島嶼防衛として陸上自衛隊に「地対艦誘導弾部隊」「島嶼防衛用高速滑空弾部隊」の新設、日本周辺海域における平素からの警戒監視強化として哨戒艦部隊の保持等が打ち出されている。
 これらの部隊編成、運用のためには新たな兵器が必要となってくる。どんな兵器なのか、調達・維持コストがどれくらいになるのかは興味深いが、それは「中期防衛力整備計画」の解説に譲ることとしたい。
四 「Ⅵ 防衛力を支える要素」
 防衛大綱は、「防衛力がその真価を発揮するためには、平素から絶えずその能力を維持・向上させるとともに、国民の幅広い理解を得ることが必要である。」(二七頁)として、Ⅳで掲げた優先事項以外に、①訓練・演習、②衛生、③地域コミュニティーとの連携、④知的基盤を挙げている。紙面の都合上、詳細は割愛するが、興味のある方は防衛大綱を一読されたい。
五 おわりに
 今回新たに策定された防衛大綱は、「おおむね一〇年程度の期間を念頭に置いたものであり、各種施策・計画の実施過程を通じ、国家安全保障会議において定期的に体系的な評価を行う」とされている(Ⅶ 留意事項(二八頁))。
 前号で防衛大綱は「際限なく膨らむ防衛予算に対する言い訳」であり、「トランプへのラブレター」との指摘があったが、後半を読むと、それらに加えて、「防衛」と名ばかりの、米軍と一緒に海外で共に戦う能力を持つことを宣言している憲法違反の「開き直り」にしか思えない。

 

 

「辺野古埋立」を決めたのは誰か?――「国民主権」と「権力分立」

東京支部  後 藤 富 士 子

一 「普天間飛行場の返還」という政治の欺瞞
 事の発端は、「世界一危険な普天間飛行場の除去」であったのではないか。それが、いつの間にか「普天間基地の辺野古移設」になり、辺野古に代替基地が建設されない限り普天間飛行場は除去できないとすりかえられている。
 まず、一九九五年に発生した米兵による少女暴行事件の翌年、日米政府が「普天間飛行場の返還」に合意し、それから四半世紀経過しようとしている。また、辺野古の海を埋め立てて新基地建設工事に着工しても、設計や工法などの変更を余儀なくされて大幅な工期延長が予想されるうえ、超軟弱地盤があるために最終的に完成できないおそれがあるといわれている。
 一方、普天間基地所属のオスプレイやヘリの墜落事故、所属機の保育園・小学校への部品や窓の落下事故が相次ぎ、単に騒音(轟音)だけでなく「世界一危険な基地」になっている。そのため、「普天間基地の危険除去」が辺野古推進の理由に強調される有様である。すなわち、「普天間飛行場の返還」「世界一危険な普天間飛行場の除去」は、辺野古新基地完成が条件とされる限り、まるで架空の話であって、政治・政策として実効性をもつとはいえない。
 しかし、これは「言語の腐敗」「政治の堕落」の見本にすぎないのだから、「辺野古」にかかわらず、政治の力で速やかに普天間基地の運用を停止すべきである。ちなみに、安倍首相は、辺野古新基地完成前でも普天間基地の運用を停止する方針であったことから、政府は、仲井真弘多知事(当時)に「一九年二月」までに運用を停止すると約束していた(赤旗二〇一八年一一月三日記事)。
二 「基地移設」か、「新基地建設」か、はたまた「埋立」か?
 まず、「移設」は事実に反する。二〇〇六年の閣議決定では「普天間飛行場(基地)のキャンプ・シュワブへの移設」とされており、辺野古の海を埋め立てるのは普天間飛行場の現有機能を超える「新基地建設」である。とはいえ、キャンプ・シュワブに附属する形で辺野古の海を埋め立てることを考慮すると、全くの「新基地建設」とも言えないように思われる。
 翻って、辺野古の埋め立てに反対するのは、なにも「新基地建設」という理由だけではない。サンゴやジュゴン等々多様な希少生物の絶滅のおそれや自然環境破壊など回復不能な打撃を与えるため、「辺野古の海を埋め立てる」こと自体に反対する意見である。これは、埋め立ての目的・用途にかかわらない絶対的な理由である。そうすると、「辺野古埋立」は、日米安保条約に基づく「日米地位協定」の範疇で処理できる問題ではないのではないかと疑問がわく。
 しかるに、現実には二〇〇六年の閣議決定で進めているのであり、日米合同委員会で両政府が合意すれば米軍は全国どこでも基地使用が許されるとする日米地位協定二条に準拠しているのであろう。しかし、この場合でも、国権の最高機関であり唯一の立法機関と定められている国会の議決を要さずに、閣議決定だけで足りるというのは疑問である。
 一方、具体的な「埋立工事」の法律関係をみると、根拠法は公有水面埋立法(公水法)で、二〇一三年に仲井真弘多知事が国に承認を与えたことから始まった。ちなみに、公水法は、国土の合理的利用、環境保全あるいは災害防止を承認の審査基準とする法律であり、「米軍基地新設」など守備範囲を超えている。そして、ここで「埋立工事」の当事者は沖縄防衛局と県知事であり、「辺野古埋立」を閣議決定し、県民の多数意思に反して知事が承認した形である。すなわち、「辺野古埋立」は、国会の関与も県議会の関与もなしに、行政だけで独断専行している。
三 「辺野古埋立」の民意を問え!
 「立憲主義」とは、「憲法による政治」のことである。しかし、大日本帝国憲法と日本国憲法と比べれば、その意味は歴然と異なる。前者は「外見的立憲主義」といわれ、憲法上人権(自然権)の観念が認められていないし、天皇主権であり、権力分立も原理とされていなかった。権力の主要な行使者である天皇は、権力の所有者であるから、憲法で明示的に禁止されていないことは全て行うことができることになる。すなわち、憲法は、権力の所有者たる天皇との関係では、「授権規範」ではなく、「禁止規範」にすぎない。
 これに対し、後者では、権力の所有者は国民であり、権力を担当する者は、国民の所有する権力を国民のために行使する国民の手段にすぎないから、憲法で明示的に授権されていることしかすることができない。すなわち、憲法は、権力行使者との関係では「授権規範」なのである(杉原泰雄『立憲主義の創造のために/憲法』一〇~一一頁、岩波書店一九九一年第三刷)。また、権力分立についていえば、立法とは、広く国政の基準となる一般的抽象的法規範を定立することであり、司法と行政は、ともに立法府が定立した一般的抽象的法規範を個別的具体的な場合にあてはめる執行行為として捉えられ、司法は、一般的抽象的法規範を適用することによって法律上の争訟を裁定する作用、行政は、それ以外の場合における法律の執行作用と規定される(同一〇六~一〇七頁)。
 この原理に照らすと、安倍首相の振る舞いは「専制君主」のように見えるが、それは国民主権と権力分立を踏みにじっているからである。これを憲法に適合するようにするには、「米軍基地のための辺野古埋立」についての法案を国会で審議すべきである。その場合、憲法九五条は、一の地方公共団体のみに適用される特別法を国会が制定するには、その住民投票で過半数の同意を得なければならないと定めているから、県民投票で過半数の同意が必要である。
 考えてみれば、「辺野古」は「沖縄問題」ではなく、日本国の問題である。したがって、国民代表による国会審議と県民投票こそ、憲法で保障された国民主権の実現にほかならない。(二〇一九・一・二一)

 

 

書評 「九条の挑戦」 

 東京支部  伊 藤 嘉 章

一 はじめに 大久保団員(一六五六号)の向こうをはって
 いままで、「旅行記」と「そろそろ左派は〈経済〉を語ろう」ばかり書いてきましたので、私も護憲論に手を染めようと思います。手始めに、私には、伊藤真+神原元+布施祐仁三名の共著「九条の挑戦」を誰からも贈呈がないので、自費で購入したうえで、誰とも約束していたわけでもなく勝手に読後感想文を書いてみました。
二 推理小説は結末から読む
 私は、文庫本の推理小説の場合には、まず解説を読み、次に冒頭の三〇頁を読む。そして最後の三〇頁を読んで、犯人も犯行動機もトリックも「よし分かった。」となったら、途中のデティールを順不同で読んで楽しむ。
 私はうかつにも、「九条の挑戦」を序文も跋文も読まずに、第一章で独自の見解の伊藤真論稿につきあい、第二章では、もはや意義を喪失した小林直樹論文とか、矛盾をはらむ深瀬忠一基本法試案並びにおとぎ話のサンダーバード本を書いた水島朝穂構想を紹介するだけで、自身の見解をもたない神原元論稿を読んで時間を無駄にしたうえで、ようやく、第三章で、非軍事中立を理想としながらも、当面は、アメリカ依存から脱し、真の「専守防衛」(一八〇頁)でいくという布施祐仁論稿を共感をもって読むことができました。
三 現実と理想をわきまえた布施論稿
 この本のメインデイッシュは、布施論稿であり、他の二つの論稿は刺身の褄にすぎない。だから布施氏はこの本では序文を書く栄誉を与えられたのであろう。「私たちは、『非軍事中立戦略こそが、安全保障環境の変化に対応した最も現実的な道である』という(五頁)。
 ここでの「私たち」は著者三人を指している。しかし、布施祐仁氏はいう。「『非軍事中立』を目指そうと主張することは、現在の自衛隊や安保条約をただちに否定することを意味しません。大事なのは、自衛隊と日米安保に安全をゆだねている現実を、非軍事中立という目標に一歩一歩近づけていくための方法と道筋を具体的に考えることです。」と(五頁)。
四 護憲的改憲論の応答として
 他方で、神原元氏は、跋文で、『専守防衛』が憲法に明記されれば、立憲主義が強化されるという「護憲的改憲論、立憲的改憲論」に対して、「それでも、ちょっと待てよ、というのが、この本の提起です。」という(二五二頁)。
 同感です。護憲的改憲論、立憲的改憲論の行き着くところは、憲法が涙を流しているといって、立憲主義を守るために、憲法九条をすべて削除し、防衛、安全保障は憲法の次元から政策の次元に追いやってしまうという議論となります(井上達夫「憲法の涙」・二〇一六年発行・四二頁)。この本の著者は、徴兵制の導入まで提案しているのです(同著一二九頁)。
五 武士道と大和魂を愛する(五一頁)伊藤真氏の憲法論
 伊藤真氏は、憲法の『積極的非暴力平和主義』は聖徳太子の十七条憲法に原点があるという(五二頁)。私はかかる議論の先行研究があることを寡聞にして知らないのですが。
 また伊藤真氏はいう。「武士道も力に頼りません。……力に頼らず、精神的な気高さで相手を圧倒するのです。日本国憲法の平和主義と同じであることに気づきました。達人はむやみに武器を振り回したりしません。刀をもっているから強いのではなく、人格の高潔さに相手が感銘を受け、手を出さない。……日本人の精神を凝縮しているのが九条と思ったのです。」と(五一頁)。
 ここには異論があります。達人に対して手を出さないのは達人の人格が高潔であるからではなく、達人に手を出せばたちどころにやられてしまうからではないだろうか。達人の域に達していることが攻撃されないという抑止力になっているのではないか。
六 軍隊は何を守るか
 伊藤真論稿は、栗栖弘臣元統幕議長の言葉を引用して、軍隊が守るべきものは我が国の平和と独立である(自衛隊法三条一項)という(二一頁)(四二頁)。
 さらに伊藤真論稿はいう。
①「むしろ、安全保障において最も守るべきなのは、私たち一人ひとりの生命と人権である。」と。ここには同意します。
②「ともかく私たちが生き残れば、独立や自由はやがて回復可能となる。」(四三頁)「いかなる独裁的占領権力も、長期にわたって一国民を軍事的、政治的に支配することは不可能である。」と(四四頁)。
 ここから私見が始まります。②は、そうでない場合もあるのではないか。たしかに一九五二年発効のサンフランシスコ講和条約によって日本は独立しました。ここでは、沖縄は、安保・米軍基地のもとで独立といえるのかという突っ込みは無しにしてください。筆者が言いたいのは、東トルキスタンは一九四九年に、チベットは一九五〇年に、それぞれ人民解放軍の侵攻によって中国に併合されたままで、チベット人、東トルキスタン人の独立はないということです。
七 長谷部恭男説・木村草太説に快刀乱麻をたつ
 憲法九条の規範性を否定し、自衛のために最低限の実力を保持するために、この条文を改正する必要はない、そして絶対的平和主義は「大切な人を殺されても我慢しろ」という価値観をおしつけるものであるという長谷部恭男説(七〇頁)。
 また、憲法一三条で憲法九条の例外が認められるという木村草太説(七二頁)。
 この両説に対し、伊藤真論稿は快刀乱麻をたつごとく批判を展開しています。私も、伊藤真論稿のここの部分は大久保団員と同じく伊藤真説を支持します。伊藤真論稿のここの部分の紹介は割愛。
八 布施論稿の眼目 
 布施論稿の肝は、トイレットペーパーを自衛隊員が自費で購入するというエピソードではないはずです。
 「軍備撤廃の理想」は放棄してはならない
 「とはいえ、今すぐに自衛隊も在日米軍もなくしてしまうというのは心細いのもまた事実です。……重火器で武装した『ゲリラ』が現れ、警察で対応できない事態が生じる可能性もあります。やはり、外国による侵略の可能性の大小にかかわらず、領土・領海・領空の警戒と警備の態勢は必要です。」(一四三頁)。
アメリカ依存から脱し、「真の専守防衛」へ
 日本の国土と国民の安全を守るために必要な「等身大の安全保障政策」は何か(一八〇頁)。「当面予見しうる将来において、日本が最も警戒すべき外国による『侵略』は、尖閣諸島をはじめとする島嶼への限定的かつ小規模な侵攻です。こうした作戦を許さないために何よりも必要なのは、海上保安庁や警察の対処能力の整備です。」という(一八一頁)。「海上自衛隊の警戒監視活動も、西太平洋・東シナ海における米軍の海上優勢維持のための中国潜水艦の監視よりも、日本の領域警備を優先します。」と(一八二頁)。
 なお、北朝鮮のミサイルに対しては、撃たれたらあきらめるしかないと言外に言うようです(一八三頁)。
「北東アジアの集団安保体制と非核兵器地帯を」
 結論「まずは、アメリカの打撃力に依存する国防から脱却し、領域警備と災害派遣に重点を置いた真に『専守防衛』の日本を目指す。そして、中長期的には、対米追随ではない自主的な外交を展開して、北東アジア非核兵器地帯条約締結と北東アジアの多国間安保体制の構築を目指し、軍事同盟による『対抗』の安全保障から集団安全保障による『協調』の安全保障への転換を図る。この枠組みの中で、信頼醸成と相互軍縮を進め、紛争の要因となる領土問題を平和的に解決し、自衛隊はいずれ領域警備隊と災害救援隊、そして地域や世界の平和と安定のための非軍事の分野で貢献する部隊に再編する。」これが、布施祐仁氏の『非軍事中立戦略』であるという(一九一頁)。

 

 

書評 『過労死落語を知っていますか』 桂福車、松井宏員著 新日本出版社

 滋賀支部  玉 木 昌 美

 死ぬまで働く「過労死」は国際的には理解されない言葉だという。何も死ぬまで働くことはない、その前にやめれば、という素朴な疑問がつきまとう。いずれにしても、過労死は家族に悲惨な結果を強いることになる。
 この本は、過労死を落語にした落語作家と落語家の物語である。悲惨な過労死の現実とお笑いの落語がどう結びつくのか。遺族に対して失礼なことになるのではないか、という疑問がわいてくる。
 彼らは極楽か地獄かの行き先を決める閻魔庁での鬼と亡者の掛け合いに笑いを挟みながら過労死問題をわかりやすく伝える落語を創作した。落語作家も落語家も組合活動の経験がある、癖のある妥協をしない性格である。衝突をしながら、遺族の反応、弁護団の反応を見て苦難のうえ練り上げていく様は見事である。また、その過労死防止の闘いは、政治を動かし、過労死等防止対策推進法に結実した。落語も「エンマの怒り」から法律制定への闘いと勝利を盛り込んだ「エンマの願い」に進化した。
 日本の労働現場の実情は有給休暇を取得することすらむずかしい現状が浮き彫りになっている。法律に規定されている有給休暇を請求したら、「あれは大会社のもので、中小零細のうちには関係がない。」と言われて納得する日本の労働者と「有給休暇の取得率」の質問の意味がわからないドイツの労働者(完全消化が当然)とは対照的である。「自らの権利を放棄する者は、他人の権利を侵害する」とのヨーロッパの格言も落語に登場する。
 私は、滋賀県において、憲法を守る滋賀共同センターの代表として活動してきたが、運動における「文化のもつ力」を痛感している。市民向けに笠木透コンサート、同追悼コンサートを開催して「はだしのゲン」の替え歌を聞き、松元ヒロのコントを観る企画をしてきたが、みんなで歌い、笑う活動は平和に向けての活動を大きく励ますものとなった。また、みややっこの憲法落語の企画もした。街頭でビラを配り、マイクで訴えて署名を集めることも重要であるが、そこに加えて、当事者を励まし、みんなの胸に灯をともす活動が求められる。過労死落語は、まさに過労死についてわかりやすく問題の本質を伝え、人間らしい労働や生活を取り戻す重要性を展開している。
 この本を読み、過去に、ろうあ学校の先生が授業中に脳内出血で倒れた事件や県庁職員の過労自殺の事件を担当したことを思い出した。前者は重度障碍児の指導をするために長時間労働を繰り返した事件であり、その過労状態を同僚の先生方の尋問で相当浮き彫りにした(何もできなかった重度障碍児が席に移動してカスタネットを打てるようになるまでの涙ぐましい努力の教育実践とそこまでの成長が感動的であった)が、医学的に脳動静脈奇形があったことを理由に労災が否定された。後者は、奥さんのメモや県庁からの退庁時刻の記録等から長時間労働等を立証し、医師の優れた鑑定意見書を提出して労災認定を勝ち取った。
 現在、市民の会しがは、新安保法制の廃止、立憲主義の回復、個人の尊厳を大切にする政治の実現をめざして安倍改憲に反対する運動を展開しているが、過労死の問題はまさに個人の尊厳を大切にすることに大きく関わる。
 この本を読んで、落語家の桂福車さんが急逝されたことに驚いたが、「われわれ落語家の世界では、働き過ぎて過労なんて者はひとりもおりません。」というセリフがあったのにと悔やまれる。そういえば、過労死弁護団の弁護士が過労死問題の集会の最中に過労死したことを思い出した。この本にしばしば登場する、この運動の中心のひとり岩城団員も、過労と健康にご留意をされたい。
 岩城団員の話によれば、定価一三〇〇円(税別)のところ、団員は特別価格「一一〇〇円プラス送料」で購入できるとのこと。
 早速、大阪市淀川区の「笑工房」にお申込み下さい。
 電 話〇六-六三〇八-一七八〇 メールinfo@show-kobo.co)。

 

 

渡辺輝人団員著 「残業代請求の理論と実務」購読のおすすめ

京都支部  中 村 和 雄

 過酷な長時間労働から抜け出せないわが国の労働現場。その大きな原因として、低賃金とともに、サービス残業が常態化し、「固定残業代制」や「名ばかり管理職」など残業代を支払わない仕組みが横行していることが挙げられます。「日本屈指の残業代のプロフェッショナル」である渡辺団員は、こうした日本の状況を改善し、労働者が適正に残業代請求ができるように、多数の裁判活動と残業代請求ソフトの開発を進めてきた。全国に広く知れ渡っている残業代請求ソフト「給与第一」は彼の考案である。そして、京都地裁の裁判官たちと共同開発し、全国の裁判所で利用されている「きょうとソフト」の開発の中心人物である(ちなみに、命名発案は当職)。そして、彼は、適正な労働者のための残業代請求を認めさせるための研究活動にも時間を費やしてきた。
 残業代をきちんと請求し企業に払わせることは、公正で、命と健康が守られる社会をつくり、ブラックな働かせ方の一掃にもつながっていく。もっとも、残業代の計算はそんなに単純なものではない。残業代を支払わないで「タダ働き」を利用しようとする悪徳企業がたくさんある。そして、それに手を貸して、あの手この手で法律の抜け穴を探る悪徳社会保険労務士らが存在する。とりわけ、タクシー業界や運送業界などでは、いくら残業しても残業割増を支払わなくて良いような仕組みが巧妙に作成されている。
 こうした悪質な残業代計算の仕組みの有効性をめぐって、多数の裁判が闘われている。渡辺団員はこれらの裁判闘争において、労働側の立場の理論的な先導の役割を果たしてきた。そして、最高裁判所をはじめ全国の裁判所が残業代請求について労働者にとって一定の理解を示しはしたが、まったく充分ではない。今回の著作「残業代請求の理論と実務」(旬報社)は、こうした裁判における状況を踏まえて、労働者の立場に立った法解釈を展開し、その正当性を立法過程の精緻な歴史的な考察と学説の分析や膨大な数の判例の分析によって裏付けようと試みたものである。渡辺団員ならではの猪突猛進的な探求活動によって、実務家の枠を超えた研究活動の成果として大変有意義な書籍となっている。
 この書籍の中で、とりわけ彼の探求活動の成果が凝縮されているのが、第二章「法定外の方法による割増賃金の支払い」の部分である。「固定残業代」制度が生まれた経過とそれに対する学説の展開を数多くの文献を丹念に調べ上げて考察し、さらには著名研究者の学説が最高裁判例の形成によって変節してきたことも指摘している。そして最近までの研究者の活動が労働基準法三七条の「通常の労働時間の賃金」の意義について考察することがきわめて不十分であったと指摘している。労働者の立場に立って実務家弁護士としてたくさんの残業代請求事件に関与してきたからこそ、問題意識を早々に持ち得たのであろう。当職もこの指摘には同感であるが、同時に、われわれが反省すべき点でもある。
 固定残業代の有効性について、最高裁判所は、対価性と判別性を要件としている。渡辺団員は、この二つの要件の充足性についての具体的判断基準について、日給制、時給制、請負制などの区分ごとに具体例を交えてその特性に基づいた詳細な分析を行ったうえで、自己の見解を展開している。これまで、このように分類をして分析した研究はなかったのではないだろうか。こうした意味からもこの書籍の意義は大変高いのである。渡辺団員の見解に対しては、当然異論を唱える研究者・実務家もあると思う。今年の秋の労働法学会(立命館大学で開催)では「残業代」が一つのテーマとなりワークショップがもたれる。渡辺団員も報告する予定である。おおいに楽しみである。この書籍は、労働者の立場に立って残業代請求事件を闘う弁護士にとって必読書である。
 定 価:三〇二四円(二八〇〇円+税)
 出版社:旬報社

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