第1683号 / 10 / 11
カテゴリ:団通信
【 2019年愛知・西浦総会~特集5~ 】
*「表現の不自由展・その後」中止事件と勝利的和解(その1) 伊 藤 勤 也
*沖縄高江への機動隊派遣違法訴訟証人尋問報告-自分たちの子どもたち、生活を守るという当たり前の主張であることを伝えたい
篠 原 宏 二
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●弁護士の戦争体験の語り部を 山 下 潔
●私の近くの学生たちの群像-ここに希望がある 大 久 保 賢 一
●赤牛を歩く(4) 中 野 直 樹
【2019年 愛知・西浦総会 ~ 特集 5~ 】
「表現の不自由展・その後」中止事件と勝利的和解(その1) 愛知支部 伊 藤 勤 也
今年八月一日から一〇月一四日まで開催が予定されている国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」に出展されていた「表現の不自由展・その後」(以下、「不自由展・その後」)が、脅迫や暴力的な抗議電話(いわゆる電凸)などによって、開会後わずか三日で中止に追い込まれた。
これに対して、表現の不自由展実行委員会メンバーは仮処分を申し立て、九月三〇日、期限を決めての再開を前提として協議することを約束させる和解が成立した。表現行為に対する攻撃を許さない闘いにとって大きな一歩であることは間違いがない。
当該事件のこれまでを報告する。
一 事実経過
あいちトリエンナーレというのは、愛知県が中心となって開催する国内最大規模の国際芸術祭で、二〇一〇年から三年ごとに開催されており、今年で四回目となる。(主催はあいちトリエンナーレ実行委員会 会長は大村秀章愛知県知事)
あいちトリエンナーレ2019の芸術監督として、ジャーナリストの津田大介氏が就任し、彼の強い思いから「表現の不自由展・その後」が一つの作品として展示された。これは、二〇一五年に東京で開催された「表現の不自由展」の続編ともいうべきもので、日本各地で展示しようとした際に外部からの妨害や美術館の自主規制等で自由な表現活動に制約(広い意味での検閲)を受けた作品を集め、日本の「表現の自由」の憂うべき現状に一石を投じようと企画したものであった。これを見て感銘を受けた津田氏が、前回の「表現の不自由展」実行委員メンバーに直接要請し、実現されることとなった。
ところが、この展示作品の中に、「慰安婦」をモチーフにした「平和の少女像」や、戦前の昭和天皇の写真を使ったコラージュが載った書物の一部が燃やされる映像があったことなどから、いわゆる右派勢力と思われる者から、電話・メールによる脅迫的内容を含む抗議があったり、さらには「ガソリン携行缶を持参してお邪魔する」などと、七月に発生した京都アニメーション放火事件を想起させる予告ファックスが届いたことを契機に、実行委員会会長である大村知事が、芸術監督の津田氏と協議した上で、個々の出展作家に事前の相談も連絡もすることなく、不自由展実行委員会の反対を押し切って、八月三日をもって「不自由展」を中止することを決定・発表した。極めて異常な事態であった。
二 公権力による表現行為に対する圧力
大量電凸に至る経過の中で、河村たかし名古屋市長が「日本国民の心を踏みにじる行為であり、許されない。」「即時天皇陛下や歴史問題に関する展示の中止を含めた適切な対応を求める」などと表現内容を問題視して中止を求めたり、菅官房長官が「補助金交付の決定にあたっては、事実関係を確認、精査して適切に対応したい」と述べ、表現内容によって補助金交付の有無を決めることを示唆する(後日、実際不交付とされた)など、公権力からの表現への介入や圧力があったことは断じて許されない。これらの発言が脅迫・妨害行為を誘発し、助長したことは明らかである。
三 中止後の経過と仮処分申立て
不自由展中止の発表直後に、不自由展実行委員会は抗議声明を出すとともに、トリエンナーレ実行委員会に対して、繰り返し再開に向けた協議を求めてきた。
これに対して大村知事は、外部の委員で組織する「トリエンナーレのあり方検証委員会」を設置し、本件についての検証を行うことを決め、関係者らのヒアリング、電凸の内容の精査等の調査をおこなってきた。この検証委員会の報告を優先させるとの名目で、再開に向けた協議はサボタージュを続け、一向に再開の目処が立たなかった。
一〇月一四日の会期末が近づく中、不自由展実行委員会としてはこれ以上の時間の浪費・空転は、再開自体が危ぶまれるとの危惧感のもと、再開を求める仮処分を申し立てる決断をし、九月一三日に名古屋地裁に対してこれを申し立てた。
保全の趣旨としては、トリエンナーレ実行委員会に対して、八月三日以降不自由展を外部から見えなくしている壁を撤去することと、不自由展の再開を求めるものである。
被保全権利は、一作家として扱われている不自由展実行委員会の表現の自由を享受する人格的利益に基づく展示請求権及び作品出品契約に基づく展示請求権の二本立てである。その中では、敵対的表現があった場合に表現の自由の制約が許される判断基準を示した「泉佐野事件」(敵意ある聴衆の法理)、ニコンサロンでの「慰安婦」写真展を中止しようとした「新宿ニコンサロン」事件での最高裁判例等を参考にしながら、中止の違法性を主張した。
また、安全確保の面についても、妨害行為を十分に予測し、必要な警備方法を提案してきたことや、さらなる提案を準備していることなどから、再開することに支障がないことを主張した。
裁判所は、この申立に対して機敏に対応し、申立の約一時間後には期日調整の連絡があり、二〇日、二七日の二回の審尋期日を決めた。弁護団は、一〇月一四日の会期末ギリギリにならないうちに結論を出そうとする裁判所の構えを見た思いであった。
四 あり方検証委員会の中間報告後
この仮処分手続きと平行して行われていたあり方検証委員会は、九月二五日に中間報告を行い、条件付きでの再開を提案し、それに応える形で大村知事も「再開が望ましい」旨の意向を表明した。
不自由展実行委員会としては、同検証委員会の検証手法や中間報告の内容については問題点が多く、全く同意できないものであったし、条件付き再開の「条件」によっては、不自由展を骨抜きにされかねないという危惧を持っていたため、中間報告をもって解決に向かうとは全く考えていなかった。(以下、次号に続く)
沖縄高江への機動隊派遣違法訴訟 証人尋問報告-自分たちの子どもたち、生活を守るという当たり前の主張であることを伝えたい 愛知支部 篠 原 宏 二
一 はじめに
(一)名古屋地方裁判所で係属している沖縄高江への機動隊派遣違法訴訟についてですが、争点整理が終わり、七月一七日及び一八日、証人尋問が行われましたので報告します。
(二) 本訴訟における争点は、沖縄米軍基地負担・ヘリパッド建設による平和的生存権侵害、ヘリパッド建設等による環境破壊、オスプレイ訓練等による甚大な生活被害、機動隊により行われた様々な違法行為、県警本部長に広範な専決を認める愛知県公安委員会事務専決規定の有効性、日米安全保障条約の違憲性などです。
二 証人尋問
(一)証人は、原告側証人として、やんばるの森でフィールドワークを行っている宮城秋乃さん、高江住民の伊佐育子さん及び安次嶺現達さん、高江に通い支援活動と撮影を続けた映像作家の古賀加奈子さん、県議会で沖縄への機動隊派遣の是非を質問した高木浩司愛知県議会議員が採用されました。また、敵性証人として、愛知県警察本部警備部警備課課長補佐鈴木誠氏が採用されました。
(二)一日目の午前中に、まず、宮城さんの尋問が行われました。
ヘリパッドが建設されたやんばるの森は、絶滅危惧種・希少種及び固有種を含む多数の動植物が生存している、自然度が高い森です。宮城さんの証言により、絶滅危惧種の生息地が確実に奪われ、重大な環境被害が生じたことが明らかとなりました。また、映像を用いて尋問が行われ、耐えがたい騒音を出しながらオスプレイが低空で飛行する映像も映されました。
(三)午後からは、高江住民の伊佐さん、安次嶺さんの尋問が行われました。
伊佐さんからは、オスプレイが頭の上を飛ぶときは地震のように物がたがたと揺れ、会話もできない、年寄りは机の下に隠れたくなるぐらい、ひどい爆音がすることの証言がありました。
安次嶺さんからは、座り込みについて国から通行妨害で訴えられたが、その対象に座り込みをしたこともない七歳の子供もなり、ひどい嫌がらせのスラップ訴訟を起こされたことへの憤りが語られました。また、自分たちが訴えているのは、自分たちの子どもたちを守る、自分の生活を守るという、当たり前のことを言っているだけという安次嶺さんの証言が説得的でした。
(四)二日目の午前は、鈴木警備課長補佐への尋問が行われ、それに関連して、高木県議の尋問も行われました。
愛知県公安委員会事務専決規定二条但書により、「異例かつ重要と認められるものについては、あらかじめ公安委員会の承認を受ける」必要があり、社会的反響の大きいケースなどについては、「異例かつ重要」と判断されることになります。沖縄高江について大きく報道されるなどされたにもかかわらず、鈴木氏からは、機動隊派遣についてはあらかじめ公安委員会の承認を受けていないが、社会的反響が大きいとは考えていないなどの言い逃れの証言がされました。
(五)午後からは、古賀さんの尋問が行われました。
古賀さんは、高江で撮影をし続けていたので、その貴重な映像を法廷で映し、尋問を行いました。
古賀さんの映像及び証言により、高江で、法的根拠のない、任意とはいえない検問が行われ、また、無差別に市民をビデオ撮影したことなどが、法廷で明らかとなりました。
三 今後の取り組み
訴訟においては、証人尋問が行われましたので、最終準備書面を提出する予定です。
原告の人たちの本件訴訟への思いは強いです。尋問においても傍聴席は、ほぼ埋まりました。
弁護団も、その思いに応えるべく、沖縄の人たちの「基地のない沖縄」という思いと一緒になり、今後も、粘り強く、活動していくつもりです。
弁護士の戦争体験の語り部を 大阪支部 山 下 潔
一九八三年一〇月二八日、金沢において「平和と人権」日弁連人権擁護大会が会員八〇〇名、会員外四〇〇名の参加のもとに開催された。この時梨木作次郎会員が戦前除名の名誉回復の決議があった。
一九八三年一〇月八日、大阪弁護士会はプレシンポジウムで「法律家としての戦争責任」として大阪弁護士会が戦前「戦争協力宣言の決議」などをめぐりシンポで討論された。そして、「戦争と弁護士生活」の特集号を発刊するとともに、表紙には大阪中之島公会堂一帯の焼け野原の写真と、戦後復興した写真と対比させ掲載された。戦争の「語り部」として色川幸太郎(元最高裁判事)、加藤允外三五名の会員が戦争体験を述べられている。戦後七〇年におよんで弁護士自身が研修所二〇期以降は戦争を知らない弁護士であることから大阪弁護士会「春秋会」という有志団体(約六五〇名)が戦争を知っている一九期までの弁護士に「当時の戦争体験」の語り部を集めて特集記事を掲載した。短期間に団員七名、団員外一四名が「語り部」に応じた。これに触発されて、弁護士の、現在会員の「戦争の語り部」を大阪弁護士会がとりあげようとしている。
沖縄の地上戦、東京、横浜、名古屋、大阪、福岡など大空襲を受けていることから、現在取り組まないと「弁護士の語り部」による記録の収集が著しく困難となっていく。
もし、自由法曹団団員において、弁護士会を通じて、あるいはそれぞれの団体で「戦争を知る弁護士の語り部」の記録を残しておくことが必要ではないかと。
みなさんがとりくんでいただけるよう呼びかけたい。
私の近くの学生たちの群像-ここに希望がある 埼玉支部 大 久 保 賢 一
澤地さんたちの憂い
九条の会の呼びかけ人の一人である澤地久枝さんが、政治は非常に悪くなった、国会前での焼身自殺を考えたことがある。現状は楽観的ではない、だけど絶望はしていない。生きているということはどこかにまだ道があるのだから、と言っている(毎日新聞・二〇一九年六月一四日夕刊)。また、ノンフィクション作家の保阪正康さんは、あの戦争それ自体が具体的体験に基づいて論じられなくなったため私の青年層相手の講演で「戦争はなぜ悪いのですか」といった質問を浴びてがくぜんとすることがある、と言っている(毎日新聞・二〇一九年六月一五日朝刊)。私も、澤地さん同様に「安倍政治を許さない」と思っているし、保阪さん同様に、「おおよそ考えられないような愚かな発言や鈍感な見方」が蔓延っていることにある種の危機感を抱いている。けれども、私の周りにはこんな学生たちもいるのだ。
NPT再検討会議準備会へ
四月下旬から五月上旬にかけて、ニューヨーク国連本部で、来年のNPT再検討会議に向けての準備会合が開かれた。日本反核法律家協会からは、山田寿則明大講師と森一恵弁護士が参加した。合わせて、スイスに留学中の大学院生と山田ゼミの学生五名も同行した。彼らは、国連本部での各国代表の議論を傍聴し、マレーシア大使のレセプションに参加し、中満泉国連事務次長のスピーチを聞き、国際反核法律家協会のイベントにも参加している。学生たちは、それぞれ日本反核法律家協会の機関誌「反核法律家」(六月下旬発行)に感想文を寄せている。それによれば、核兵器禁止条約をめぐる核兵器国と非核兵器国の激しい応酬や、平和構築についての国連の取り組みや、NGOの問題意識や活動に触れられたことに、今まで体験したことのない刺激を受けていることがよくわかる。四年生たちにとって、この時期は、進学するにしろ就職するにしろ、人生の大きな転機になっているであろう。にもかかわらず、彼らは、いま世界で、核兵器や平和をめぐって、どんな議論がなされているのかを、自分の目で確認するために、国連に行ったのである。そして、その彼らの行動を知った山田ゼミの後輩たちも、先輩たちの好奇心と行動力にあこがれを抱き始めたようである。
ノーモアヒバクシャ記憶遺産を継承する会で
ノーモアヒバクシャ記憶遺産を継承する会という認定NPO法人がある。原爆被害の実相と、被爆者が遺してきた証言・記録・資料を収集、保存、普及、活用し、その記憶遺産の継承をめざす事業を行い、「ふたたび被爆者をつくるな」という願いの実現に寄与することを目的として、二〇一二年に発足したNPO法人である。五月三〇日、その法人の第七回通常総会が開催された。総会では、二つの特別報告が行われた。一つは、武蔵大学学生の自ら制作したDVD「声が世界を動かした」を上映しながらの報告である。このDVDは、ノーモアヒバクシャ記憶遺産の継承センター設立に向けてというサブタイトルのついた、被爆者の証言や運動、模擬法廷場面などもある優れものである。彼は、「被爆者運動の歴史や継承する会の役割を深く学ぶことができ、今後につなげていきたい」としていた。もう一つは、昭和女子大の戦後史史料プロジェクトの学生の、被爆者運動の資料収集と整理作業の経験を踏まえた「プロジェクトのこれまでとこれから」という報告である。彼女たちは、学園祭で「被爆者に『なる』」というテーマで発表したことや、これからの三年間で「被爆者運動を戦後史に位置づける」研究に取り組みたいという決意を語っていた。「被爆者に『なる』」というテーマ設定には、彼女たちが被爆者運動から何を学んだのかが滲み出ているようであった。そこには、被爆者の話を単に聞くだけではなく、その想いを継承し、自らの問題として受け止めている姿が見て取られるからである。理事の一人として、この二つの報告を本当にうれしく聞いたものである。
SEALDsの諸君のこと
二〇一五年、安倍政権が安保法制を強行しようとしていた時、Student Emergency Action for Liberal Democracy-s(SEALDs)の諸君が、私たちを励ましていた。今、彼らはそれぞれの道に進んでいる。その中の一人は、ヒバクシャ国際署名運動のキャンペーンリーダーで活躍している。彼らがどんなことを考えながら活動していたのだろうか。彼らの座談会でこんなことが語られている。「みんなのスピーチを聞いてても、歴史的な先人の言葉から紡ぎ出そうとしているのが分かる」、「俺らがこうやって楽しく生きていられるのは憲法があるからで、それは、ロックやルソーやモンテスキューがいたからだ。俺らはその上で生きているんだ」などという会話である(『SEALDs民主主義ってこれだ』・大月書店・二〇一五年])。どんな水着を着るか、いつまつ毛エクステンション(マツエク)をするかなどに悩むだけではなく、彼らは、人権や民主主義の大本を踏まえていたのである。私は、その姿に、前述の学生諸君との共通性を見出すのである。
懸賞論文の募集
今、日本反核法律家協会は、「核兵器をなくすために、私たちにできること」をテーマに懸賞論文を募集している。応募資格は三五歳くらいまでとなっている。年齢制限を設けたのは学生も含む若い人たちに期待するからである。もちろん賞金も用意している。その額にかかわらず、インセンティブになるだろうからである。私は、先に紹介した諸君だけではなく、創価大学や長崎大学の諸君ともそれなりの付き合いがある。市民生協やその他のNGOで活動する若い諸君も知っている。他方、多くの団体が後継者をどう養成するかで苦労していることも承知している。そして、澤地さんや保阪さんの慨嘆も理解できる。けれども、いやだからこそ、私の近くにいる学生たちの新鮮な息吹を大事にしようと思うのである。澤地さんや保阪さんにも、そんな彼らや彼女たちがいることをお伝えしておきたいと思う。(二〇一九年六月一六日記)
赤牛を歩く(4) 神奈川支部 中 野 直 樹
黒部川上流の険谷を創造する赤牛岳
日本一の急流と言われる黒部川は、一大観光スポットとなった黒部ダム湖を境に、その下流に「下の廊下」、その上流に「上の廊下」と呼ばれている秘境地帯がある。この「上の廊下」は赤牛岳の西面と薬師岳に挟まれた狭部である。赤牛岳の東面と、昨日縦走してきた烏帽子岳―野口五郎岳の西面との間は東沢谷という。上の廊下も東沢谷も道はない。入るのは、ザイルを持った沢屋、冒険の刺激を求める源流岩魚釣り師である。ザックを背負って泳いだり、首まで水に浸かりながら徒渉したりと危険極まりないし、身体を冷やし過ぎる。
変化に富む山道
水晶岳からの下りは緊張感を解けないザレ場の道だった。右に振り返ると、ごつごつと厳つい顔をした水晶岳の左手に北鎌尾根を従えて凛と立つ槍ヶ岳、水晶岳の右手に円錐形の頭をすくっと持ち上げている笠ヶ岳、さらに右に回ると雲の平のテーブルを前に大きなカールを開いて座っている黒部五郎岳、前を向くと左手下に高天ヶ原温泉の赤い屋根の小屋、目線の高さに山肌の色彩が豊かな薬師岳。北アルプス有名ブランドの数々にカメラを向けているときに、登山道の石に鳥がとまった。鳥は落ち着きがなく写真でとらえることはたいがい失敗するのだが、この鳥は移動しながら餌を探している時間があり、三枚の写真をとることができた。最後の一枚は低木の緑を背景に、灰色の岩の頭にとまった鳥に日の光があたって陰影をつくりだしているところを、ぴたりと合ったピントでショットすることができた。イワヒバリだと思う。この一枚はワイド四つ切りサイズで事務所に展示されている。
まさに牛の背中のような大きな尾根の花崗岩のゴーロ岩の道を歩むと黒四ダムアーチが遠望できた。右手には東沢谷を挟んで二日前に泊まった烏帽子小屋に再会した。一〇時三〇分、二八六四m赤牛岳の山頂に立った。左手に立山雄山、剱岳、正面に黒部湖、その先に鹿島槍ヶ岳、五竜岳を眺めるポイントはここしかない。
黒部湖へのダウンロード
昼食をとって、一一時一五分腰を上げた。赤牛岳から今晩の宿泊地奥黒部ヒュッテまでの下りは、標高差一四〇〇m、五時間のコースタイムである。読売新道と呼ばれている。読売新聞社が正力松太郎氏の出身である富山県に六一年に北陸支社を開設したときの記念で五年がかりで開いた登山道だという。もともと江戸時代の加賀藩は黒部川の源流域鷲羽岳までを領地として奥山廻りを配置して警備に当たらせた。読売新聞社がどのような動機で登山道開発をしたのかまでの調査はしていないが、企業名をつけるなどとはちゃっかりしている。
砂地からはい松帯となったあたりで雷鳥の親子がいた。子は成鳥になりかけていた。樹林帯に入ると実に歩きにくい道となった。土は滑るし、木の根がうるさい。鎖場を過ぎると益々急坂となり、落差が容赦なく足に負担をかける。樹林の間から黒部湖が見え隠れするが、なかなか近づいてくれない。
一五時二五分、奥黒部ヒュッテまであと少しと思われたところで、すぐ前を先行していた男性が横になり周囲を人が取り囲んでいた。転倒して胸部を打ち痛みで苦しいらしい。私たちは小屋に救護をたのむことを引き受け、急いだ。わずか五分ほどでヒュッテだった。すぐにスタッフに話をして現場に向かってもらった。
ヘリで搬送
男性はヒュッテ内に運びこまれた。外傷はないようだが本人は気弱になっている。と、烏帽子小屋からずっと同じルートを歩んできた単独行の女性が自分は看護師であると名乗り出て、男性の胸部を触診して、気胸ないし肋骨骨折しているかもしれない、との意見を述べた。ここでヘリ搬送の方針が決定した。幸い男性は登山保険に入っていた。もう一つの問題はヘリがザックまで持って行ってくれるかどうか。あまり大きな荷は拒絶されることもあるらしい。
一七時頃、ヘリが到着した。中空でホバリングをしながら、レスキュー隊員がするすると下りてきて地上に立ち、いったんヘリは旋回して離れていった。隊員は、男性に確保のための装備を装着し、ザックを背負ったところでヘリが戻ってきてロープを下した。隊員が男性を前向きに抱きかかえた状態ですっと引き上げられ、無事ヘリ内に戻った。この間わずか三分だった。この日の朝水晶小屋でヘリの荷揚げ作業を目の前で見たが、夕方には負傷者の救出の始終を目撃することとなった。
TJAR
奥黒部ヒュッテの前でもう一つの話題があった。今晩未明八月七日午前〇時にTJARが始まる。トランス・ジャパン・アルプス・レース。富山県の早月川河口をスタートし、一週間ほどかけて剱岳を皮切りに北アルプス、中央アルプス、南アルプスを縦断し、静岡の大浜海岸にゴールする。四一五㎞、累積標高差二万七〇〇〇mと言われてもピンとこないが、ウルトラ鉄人レースである。このレースは選考会があり三〇人が選ばれる。この選考会で落選した男性ランナーが目の前のヒュッテに立寄り、テン場に向かったのである。レースのサポートに入るような話であった。その足のふくらはぎの筋肉の隆々しさは見事だった。
奥黒部ヒュッテは、黒部川上の廊下と東沢谷が合流するところにある。水が豊富で、トイレは快適、お風呂を楽しめる。汗を流して缶ビールで乾杯し、いろんなことがあった今日一日の復習をした(続く)。