第1717号 / 9 / 21

カテゴリ:団通信

【今号の内容】

●「終の棲家」訴訟-借上復興住宅からの追い出し裁判  吉田 維一

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

【和歌山支部特集】
*和歌山支部のご紹介  小野原 聡史

*和歌山県立高校教諭過労自死の公務災害認定の報告  由良 登信

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

●「法の理想」を指針として-「共同監護」を創造するために  後藤 富士子

●岩崎功団員著『日本の屋根に人権の旗をPARTⅡ』を読む  武田 芳彦

 


 

「終の棲家」訴訟-借上復興住宅からの追い出し裁判  兵庫県支部  吉 田 維 一

事件の紹介
 現在、自由法曹団兵庫県支部の団員らが中心となって取り組んでいる「借上復興住宅からの追い出し裁判」とは、被災自治体の神戸市・西宮市が、入居を決定した際、被災入居者には借上期間が到来した際に転居義務があることを通知していなかったにもかかわらず、市が借り上げた期間が満了したという理由で入居者を提訴し、復興住宅を「終の棲家」と信じていた高齢で障がいを抱える被災入居者らを追い出そうとする裁判のことです(弁護団長は佐伯雄三支部長)。
 一九九五年一月に発生した阪神淡路大震災で、多くの住宅が壊滅状態となりましたが、避難所や仮設住宅で生活する被災した住宅確保困難者に対し、被災自治体である神戸市、兵庫県、西宮市、尼崎市、宝塚市、伊丹市が、復興住宅を提供する際に、被災自治体が所有する公営住宅だけでは不足したことから、「サブリース」型の復興住宅として、URや民間企業または個人から、建物の全部または一部を借り上げた住戸を公営住宅として提供したのが借上げ復興住宅です(なお、借上復興住宅は、被災地で提供されている「みなし仮設住宅」と類似する点も多いのですが、みなし仮設住宅が無償で提供されるのに対し、借上復興住宅は公営住宅として賃貸借に基づき有償で提供されています。)。  

問題の背景
 借上復興住宅は、未曾有の災害であった阪神淡路大震災に対し、急きょ考案された、それまでわが国に存在しなかった公営住宅制度で、避難所・仮設住宅から「恒久住宅」への転居という目的を達成するために、「突貫工事」で制度が構築されました。
 借上公営住宅制度は、一九九六年五月に改正された公営住宅法(施行は同年八月)により導入されましたが、当時の建設省は、公営住宅法改正前の一九九五年四月に「要綱」を整備し、前倒しで、借上げ公営住宅と同様の「特定目的賃貸住宅」を導入しました。その際、「要綱」には、後に施行される一九九六年改正公営住宅法で新設される「借上期間満了時に転居すべき旨の入居決定時通知制度」(一九九六年改正公営住宅法二五条二項。以下、「事前通知制度」といいます。)や借上期間満了時に提供された借上復興住宅を明け渡さなければならない旨の規定(同法三二条一項六号。以下、「期間満了時の明渡規定」という。)は明記されませんでした。このため、「要綱」によって入居することとなった神戸市・西宮市の入居者(以下、「施行前入居者」という。)は、借上期間満了時の転居義務の説明を受けないまま、入居することとなったのです。その後、一九九六年改正公営住宅法により、事前通知制度(二五条二項)と期間満了時の明渡義務規定(三二条一項六号)が明記されたのですが、建設省の「要綱」に基づき入居した施行前入居者らには、同法附則五項により、一九九六年改正公営住宅法施行後に入居した被災者(以下、「施行後入居者」という。)と等しく扱うかのような規定が設けられたのです。
 さらに、一九九六年改正公営住宅法が施行された後も、神戸市・西宮市は、入居者に対し、事前通知制度の通知を行わず、神戸市では、二〇〇五年ころまで事前通知制度の履践を懈怠し続けたことが確認されています(神戸市では、市営住宅条例に、現在も、事前通知制度の規定を設けていません。)。
 本来は、「借上期間満了時の明渡義務」を承知した上で、借上期間満了時に転居する住宅を「選択」して入居するはずであった制度は、導入時の法制度の構築と運用の混乱から、「借上期間満了時の明渡義務」を知らないまま、終身、継続入居できる復興住宅であると信じて「借上げ復興住宅」に入居する者が多数発生する事態を招き、借上期間として設定された二〇年という時の経過によって、高齢となった被災者が復興住宅から退去を迫られるという前代未聞の事態に至ったのです。

人権侵害の実態
 高齢者の生活環境の劇的な変化が健康リスクを悪化させることは、現在、多方面から指摘されているところです。特に、入居者の中には、入居時と異なり、難病の治療に当たる者、歩行障がいを抱える者、現在の住居でも転倒を繰り返す者、精神疾患に悩む者などそれぞれの問題を抱え、「転居しない」のではなく、「転居できない」「転居すると健康状態が悪化する」と口々に訴えています。入居者は、「終の棲家」と信じて入居し、六〇歳代から九〇歳代となった今、疾病や障がいを抱えながら、懸命に、信頼できるかかりつけ医を確保し、それぞれが家具の配置などを工夫し、転倒を極力避け、高齢でも住みやすい他には代えがたい居住空間を形成してきています。
 弁護団では、民法、国際人権法、都市工学、居住福祉学、老年医学といった各方面の専門家からの支援を受け、自治体の公営住宅法違反の問題に加え、このような入居者の生活状況を確認した医師・学者が「意に反する転居」が健康リスクを悪化させるという点を意見書などを裁判所に提出していますが、公営住宅に関する最高裁判例(最一小判昭和五九年一二月一三日)などを引用し、入居段階では、通常の賃貸借関係にはなく、公営住宅という理由で事業主体である自治体の裁量権を広く認め、借上げ期間満了時までは、入居者に対して転居政策を講じていたことなどを理由に入居者を敗訴させる判断が続き、これまでの借上復興住宅の追い出し裁判の状況は、以下のとおり、残念ながら解決を見いだせる状況ではありません(二〇二〇年九月現在)。
(1)最高裁
① 転居一〇日前の入居許可時に書面で「借上期間満了時の明け渡し義務」が通知されていた神戸市のケースで、第一審・控訴審は敗訴し、二〇一九年三月二二日に上告棄却・上告受理申立不受理決定があり、敗訴が確定しました。入居者は屋内外で歩行器を使用しなければならない歩行障がいがあり、主治医からも現在の部屋以外での在宅生活は困難であると指摘されています。現在、請求異議訴訟を提起し、近隣の市営住宅への転居保障を求めています。
② 入居の際に、事前通知されていなかった神戸市のケースが三件係属しています(いずれも第一審・控訴審は敗訴・一件は施行前入居者、二件は施行後入居者)。
(2)大阪高裁
 親が入居直前に、事前通知の書面通知をされていたが、子の入居承継時には通知されていない神戸市のケース一件、入居決定時にも入居許可時にも「借上期間満了時の明け渡し義務」が通知されていなかった西宮市のケースが七件継続しています(いずれも第一審は敗訴)。

問題の本質
 入居者の中には、裁判中に逝去された方も、体調を崩してやむなく転居された方もおられます。住み慣れた住宅でもなんとかぎりぎり在宅生活を続けている方ばかりです。宝塚市・伊丹市は、当初から入居者に対する継続入居を確約し、兵庫県などは、団員が支援した入居者の生活状況を職員が確認し、復興住宅の継続入居を決定するなど相応の対応をしていますが、神戸市は、相変わらず、入居者の生活状況を確認することもなく追い出しを続けています。
 被災者追い出し裁判は、国によって、大規模災害に対応する国の復興住宅制度の構築が事前に準備されず、災害発生後に拙速に行われたことから、制度のほころびが所々に生じ、被災自治体の「事前通知」が徹底して行われなかったために招いた「人災」です。誰もが被災者となりうる災害大国で、阪神淡路大震災から四半世紀が経った今、制度をまともに運用してこなかった自治体が、個々の入居者の事情を顧みることなく、被災した入居者らを追い出す暴挙が起こっています。裁判や支援活動を通じ、今後も、借上復興住宅で暮らす入居者の生活を守るための活動を続けていく予定です。

 

【和歌山支部特集】

和歌山支部のご紹介  和歌山支部  小 野 原 聡 史

 自由法曹団和歌山支部は現在一六名の団員で構成されています。
 地域的にはほとんどが和歌山市内に事務所を持つ団員ですが、田辺市内に事務所を持つ団員も一名います。
 支部の会議は毎月一回、常任幹事会の後に常任幹事会の報告を中心として開催しています。
 地方ではどこでも同じだと思いますが、団員の多くは弁護士会の活動を中心的に担っており、若手以外はほとんどが弁護士会会長を経験しており、九年に一度の日弁連副会長、七年に一度の近弁連理事長に就任した団員もそれぞれ二名ずついます。
 そもそも和歌山の自由法曹団員は、一九六三(昭和三八)年に、野間友一団員が大阪から登録換えで和歌山弁護士会に入会したのが最初でした。
 野間友一団員は、一九七二(昭和四七)年に、当時の和歌山一区から衆議院議員に当選し、一九九〇(平成二)年まで衆議院議員を五期つとめ、大活躍をし、その後弁護士活動に戻りましたが、残念ながら二〇一二(平成二四)年に亡くなられました。
 和歌山支部は、支部としてまとまった活動をしているというわけではありませんが、先に述べた弁護士会の活動のほか、青年法律家協会の活動、憲法九条を守る和歌山弁護士の会(弁護士九条の会)の活動に積極的に取り組んでいます。
 特に、弁護士九条の会は、安倍内閣が集団的自衛権の行使を認めた閣議決定の直前の二〇一四(平成二六)年六月から現在まで、六年以上にわたり、毎月一回和歌山市内でランチタイムデモを行ってきましたが、団員もこのデモに毎回参加し、先頭で横断幕を持って行進してきました。
 国民の運動により安倍首相を辞任に追い込んだ現在、このランチタイムデモをさらに続けていくのかが、九条の会の会議で検討されることが考えられますが、いずれにしても、画期的な活動ではないかと自負しています。
 それ以外にも、それぞれの団員が、和泉山脈の大規模住宅開発をもくろんだフォレストシティ反対運動、同じく和泉山脈への産廃処分場建設反対運動、和歌山県内へのカジノ誘致反対運動、巨大太陽光発電施設設置反対運動など、多くに住民運動に積極的に参加しています。
 さらに、訴訟で団員以外の弁護士と一緒に弁護団を結成して活動した和歌山線の割増運賃返還を求める交通権訴訟、和歌浦の景観を守る訴訟などもあります。
 刑事弾圧事件では、障害者の参政権保障をめぐって闘った玉野裁判において、第一審では和歌山の団員が弁護団を組み、さらに控訴審では大阪の団員の協力を得ながら弁護団を拡げて闘うなどの活動をしてきました。
 後継者問題などもありますが、今後とも、労働者国民の権利を守るための活動を続けていく決意です。

 

和歌山県立高校教諭過労自死の公務災害認定の報告  和歌山支部  由 良 登 信

一 うつ病の発症と自死
 和歌山県立有田中央高校の教諭であった九堀寛(くぼりひろし)さんは、二〇〇九年一〇月二一日の夜、自宅敷地内で縊死しました。三二才の若さでした。
 九堀さんは、その前年の二〇〇八年四月に有田中央高校に異動してきて、理科を教え、野球部の部長と監督を兼務し、県高校野球連盟の常任理事もしていました。そして、同校は、一学年一六〇人のうち、三年で卒業してゆく生徒が一〇八名であり、五〇名以上が中途退学や留年をする生徒指導困難校であり、九堀さんはその学校で進路指導担当もしていました。
 そして、野球部員に不祥事(窃盗など)を起こす者が多く、また野球の練習において監督の指導に従わない部員がいて、その部員の保護者が九堀さんに電話で脅してきたり、県教育委員会へ九堀さんの指導について抗議するというようなトラブルも半年間続きました。
 土日も野球部の指導で休めず、長時間労働と部員・保護者とのトラブルが続く中で、九堀さんは二〇〇九年三月下旬頃に「うつ病エピソード」を発症しましたが、それでも勤務を続け、疲れ果てて自死するに至ったのです。

二 公務災害認定請求と「公務外」認定
 二〇一一年一〇月に九堀さんの父が、地方公務員災害補償基金和歌山支部長に対し、九堀さんの精神疾患の発症とそれに起因する自死が公務災害に該当することの認定を求め請求をしました。
 基金支部長(知事)は、請求から五年四ヵ月後の二〇一七年五月に「公務外」という判断をしました。請求人が指摘していた勤務時間をことごとく切り捨て、教員特殊業務従事伺いという公式の書類や所属庁(学校)作成の勤務状況調査票という勤務実態を反映していない資料にもとづいて、時間外勤務時間が発症前一ヵ月間三七時間というきわめて短い時間しか認めなかったのです。
 そこで、直ちに審査請求をしました。

三 審査請求での公務災害の認定
 審査会では、五名(弁護団と父と姉)の口頭意見陳述と元同僚の先生の参考人陳述を「尋問方式」で実施させました。その結果、昨年九月二七日に審査会は、支部長の処分を取り消し、公務災害認定をしました。
 審査会の裁決書では、野球部の練習時間についても九堀さんが書いていた「練習ノート」の時刻で把握し、毎週木曜日には勤務開始前の通学巡視の一〇分間及び毎週月曜日と火曜日の昼休み校門当番について昼休み時間四五分のすべてを勤務時間と認めました。また、高校野球連盟の役員としての業務も公務として認定し、自宅作業についても勤務時間数には算入しないものの「自宅作業を一定程度行っていたことが推定されるため、職務の過重性を評価する上で付加的要因として加えることとする」としました。それらの勤務時間の認定の結果、「発症前六ヵ月における勤務時間の平均が六七時間三六分であり、それに自宅作業分を考慮すると、八〇時間以上の時間外勤務等を行っていた場合に準ずる程度の時間外勤務を行っていたものと認められる」と判断したのです。
 そして、裁決書は、「野球部の部長と会計のほか途中からは監督も兼任し、当時混乱していた野球部を立て直すため、他の職員の手助けがほとんどない中、取り組んでいたことが認められ、相当な負担がかかっていたことが推定され」、「部員Aとその保護者とのトラブルについて・・・相当な精神的負担がかかっていたものと推定される」とし、精神疾患等認定基準の「その他強度の精神的又は肉体的負荷があったと認められる場合」に準ずるような業務による強度の負荷があったと認定したのです。
 弁護団は、松丸正、山﨑和友と私由良の三名の弁護士と高教組のメンバーです。

四 公務災害の認定と審査会
 私は公務員の過労死・過労自死について、これまで四件の公務災害の認定に携わってきましたが、いずれも審査請求段階での逆転認定でした。そして、いずれも口頭意見陳述・参考人陳述を重視し、尋問方式で行うようにしてきました。書面審査ではなく、当事者の生の声を審査員に聞いてもらうことが、審査員の心を動かすことになっているのではないかと思っています。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

「法の理想」を指針として-「共同監護」を創造するために  東京支部  後 藤 富 士 子

一 「単独親権」から「共同親権」への法の進化
 民法八一八条は「父母の共同親権」を定めている。家父長的「家」制度をとっていた戦前の民法が「家に在る父」(一次的)または「家に在る母」(二次的)の単独親権制を定めていたのと比較すると、革命的転換であった。その根拠になったのは、「個人の尊厳と両性の本質的平等」を謳った日本国憲法二四条である。「個人の尊厳」という点から親権に服する子は未成年者に限定され、親権は未成熟子の監護教育を目的とする子のための制度であることが明らかにされた。また、「両性の本質的平等」という点で「父母の共同親権」とされている。すなわち、戦後の日本の出発点は、家父長的「家」制度を廃止し、「単独親権」から「父母の共同親権」へ進化したのである。換言すれば、「父母の共同親権」は、まさに「法の理想」であったのだ。
 一方、民法には同時に、「父母の共同親権」の例外も定められていた。その一つが民法八一八条三項但書で、「父母の一方が親権を行うことができないときは、他の一方が、これを行う」という定め。あと一つが、民法八一九条であり、離婚により父母のどちらかの単独親権とされ、また、父が認知した非嫡出子について父が親権者となる道が開かれているものの、父母のどちらかの単独親権である。
 それでは、いかなる理由により、「法の理想」とされた「父母の共同親権」につき、このような例外規定が設けられたのであろうか?
 まず、民法八一八条三項但書の「父母の一方が親権を行うことができないとき」というのは、親権を行使するのについて法律上または事実上の障害がある場合である。法律上の障害としては、①後見開始等の審判を受けたとき、②親権・管理権の喪失または停止の宣告を受けたとき、③親権・管理権の辞任をしたとき等があり、事実上の障害としては、④行方不明、⑤受刑中、⑥心神喪失または心身の著しい障害があるとき等とされている。③のように親権者本人が辞任する場合ですら「やむを得ない事由」が要件であるうえ家裁の許可が必要である(民法八三七条)。すなわち、当該親権者について、他方の親権者とは無関係に、親権の行使において絶対的な「障害」がある場合と考えられる。
 これに対し、離婚や父が認知した非嫡出子の場合、前記のような絶対的な「障害」はないから、なぜ単独親権にしなければならないのか、説得力に欠ける。おそらく、同居していない父母が親権を共同行使しなければならないとすると、便宜上「子の福祉」を害すると考えられたのであろうが、戦前の「家に在る父または母」という規定の名残かもしれない。そして、単独親権者を父母のどちらにするかについて父母の協議が成立すれば問題はないが、協議が成立しない場合には、裁判所に争いが持ち込まれることになる。しかし、その法的争いは、出発点からして、「父母の共同親権」という法の理想と矛盾している。この点でこそ、単独親権制の是非が問われなければならないのである。

二 離婚前の共同親権の下で「共同監護」を実現しよう
 二〇〇九年、オバマ大統領により米連邦最高裁判事に任命されたソニア・ソトマイヨール(初のヒスパニック系)は、二〇一八年一〇月に邦訳刊行された著書『私が愛する世界』の中で、「法律の実務には理想主義の居場所があるのであり、それがこの職業に就く動機となっている。」と述べている。
 私は、いたく共感するが、日本の現実は別世界である。日本の司法には「理想主義の居場所」などないし、法律家になる動機も、それとは無縁のようである。しかし、それでは、司法を利用せざるを得ない国民が不幸というほかない。
 現に、父母の一方が子どもを連れ去って離婚請求する事件が家裁を席巻している。離婚は夫婦間の法的問題であるのにかかわらず、離婚後は父母のいずれかの単独親権とされているために、子を連れ去り別居した配偶者は、離婚成立前の段階で「単独親権者」のように振る舞い、他方配偶者の親権を侵害して憚らない。そのこと自体、現行法に反しているのであり、「父母の共同親権」という法の理想を踏みにじるものである。したがって、親権を侵害された他方配偶者が被る理不尽な不幸を放置してよいはずがない。
 離婚は、調停前置主義であっても、合意が成立しなければ、訴訟で最高裁まで争う道が保障されている。そして、離婚が確定するまでは「共同親権者」の法的地位を保持できる。したがって、離婚が確定するまでの間、いたずらに「親権・監護権の争い」をするのではなく、「共同親権者」として、離れて暮らす子どもとの親子関係構築に全力を傾注すべきである。それによってのみ、離婚後の「共同養育」も可能になろう。理想主義の居場所がない日本の司法の下にあっても、私たちは、「父母の共同親権」という法の理想を追求したい。それが、単独親権制を廃止する確かな進路と思われる。
(二〇二〇・八・四)

 

岩崎功団員著『日本の屋根に人権の旗をPARTⅡ』を読む  長野県支部  武 田 芳 彦

 弁護士を五〇年近くもやってきて、あとを後輩に託し一線を退くと、この仕事は大変な稼業で、実際も大変だったとつくづくと思う。
 勝つべき事件を勝ち、負けるべき事件を妥当に処理するには、記録をよく読み込み、冷静に考え、心に迫る文章を書いて相手や裁判官を説得しなければならない。
 それがである。団に古稀のお祝いをしてもらってからというもの、読む力がひどく落ちた。読み・書き・考える力の中で読む力は最も基本だから、これには困った。
 読み始めても最後までたどり着けないのである。(もっとも、山登りの本や文章は国土地理院の地形図を横に置いて、すぐに読み切るのであるが。)
 今年八月に発刊されたこの著書も私の尊敬する兄弁護士の筆になるものなので、読まないわけにもいかないと思い、まぁ県弁護士会の会報に書評が間に合うように今年中に読了しようと構えていた。
 それが、スタートは少し遅れたが、興味のある章から読み始めると止められなくなってしまった。久々に一気読了である。昔の感覚が戻った。読む力が回復した。
 集中力を欠き、安易に流れていた私の背筋はピンと伸び、これでまた学問しようという気持ちになった。良い本に巡り会えた。
 著者は一七期、八一歳。弁護士歴五五年。団県支部の支部長を長年にわたって務めた。
 この間、裁判や闘いの記録を歴史に残すことに強い使命感を持ち、自ら一九八三年、五五〇頁に及ぶ大著『日本の屋根に人権の旗を』を出版するとともに、団県支部二〇周年誌『信州人権宣言』や『明るい街を求めてー暴力追放と民事裁判』などを世に出し、この作風は『民衆とともに―団支部五〇年のあゆみ』や支部の法律事務所の記念誌などに脈々と引き継がれている。
 本書は第一部の「闘いの記録」から第二部「先輩、同僚、仲間たち」、第三部「講演録」と続き、第四部「折々の記」に終わる全二三章、三八〇頁の大作である。
 豊富な読書量、妥協しない探求心、練られた語彙による達意の文章が綴られており、記録であるとともにレベルの高い読み物となっている。
 著者は団の大衆的裁判闘争の長野県における第一人者であるが、それは「回想の辰野事件弁護」に記された、先輩たちにしごかれ学んだ「辰野学校」での学びによるものであることがよく分かる。
 故大塚一男団員を同郷の先輩と仰ぎ、資料を読み込んで記した「『この道』を辿りゆかん!」は著者の同団員に対する最大限の畏敬の心情を込めた評伝といってよい。
 そのほか、大衆的裁判闘争の源流を作った、今は亡き先達たちが随所に登場し、あの大弾圧の時代の弁護活動が目に浮かぶようだ。
司馬遼太郎の『街道をゆく―信州佐久平みち』を素材にして、著者と関わりのある人や場所を述べた第四部「折々の記」は、「国民的作家」の記述に疑問を抱き、追跡作業をしてその誤りや意図を検証してゆく。これも「辰野学校」での学習によるものかどうかはともかく、この構想と文章は司馬遼太郎を凌ぐとも劣らないのではないか。
 真田一族を取り上げた「上田城物語」も広く深い知識と探究心が重なって作り上げられた作品で大変に面白い。
 あと数ヶ月で七六歳になる私が、そろそろ引退と思う気持ちを変え、あと一〇年は本を読んで学問しようという決意を固めた一冊である。
 まだまだ著者や私にくらべて将来に時間の豊富な若い団員には、是非読んでほしい。きっと「読んでよかった」という気持ちになると思う。
 語彙が豊富で名文である。たまに読めない漢字や熟語もあるが、辞書を引くのも勉強である。
(定価二千円+税
 注文は 岩崎功法律事務所 〒三八六―〇〇二三 上田市中央西二―三―五
              電 話 〇二六八―二四―三三四六
              FAX 〇二六八―二四―八八九八)

 

 

 

TOP