第1719号 / 10 / 11

カテゴリ:団通信

【今号の内容】

●福島原発・生業(なりわい)訴訟控訴審判決について  鈴木 雅貴

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【京都支部特集】
○仲買業者、卸売業者の商いを守る~旧京都市農協市場地上げ事件  大河原 壽貴

○タイムカードのない残業代請求事件  尾﨑 彰俊 / 高橋 良太

○壬生新選組屯所隣地マンション建設問題  佐藤 雄一郎

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●核兵器は「長い平和」をもたらす「秩序の兵器」か??-『「核の忘却」の終わり』に触れながら(1)  大久保 賢一

●自由権規約の審査再び延期となる  鈴木 亜英

●北信五岳-斑尾山(2)  中野 直樹

 


 

福島原発・生業(なりわい)訴訟控訴審判決について  福島支部  鈴 木 雅 貴

一 国の責任を認める画期的判決
 九月三〇日、仙台高等裁判所において、生業訴訟の控訴審判決が言い渡された。本判決は、二〇一七年一〇月の福島地裁判決に続き、福島原発事故についての被告国及び東京電力の法的責任を明確に認めた。
 まず、本件事故の予見可能性に関しては、いわゆる「長期評価」について、「相当程度に客観的かつ合理的根拠を有する科学的知見であったことは動かし難い」、「遅くとも平成一四年末頃までには、一〇メートルを超える津波が到来する可能性について認識し得た」として、予見可能性を明確に認めた。
 次に、結果回避可能性についても、重要機器室やタービン建屋の水密化等の対策により本件事故の発生を防ぎ得る可能性があったとして結果回避可能性を肯定し、国と東電の過失責任を認めた。
 さらに、本判決は、「『長期評価』の見解等の重大事故の危険性を示唆する新たな知見に接した際の東電の行動は、当該知見をただちに防災対策に生かそうと動いたり、当該知見に科学的・合理的根拠がどの程度存在するかを可及的速やかに確認したりせず、新たな防災対策を極力回避しあるいは先延ばしにしたいとの思惑のみが目立つものであったといわざるを得ず」、「東電の義務違反の程度は著しい」とし、東電を断罪した。
 次に、国の責任についても、「不誠実ともいえる東電の報告を唯々諾々と受け入れることとなったものであり、規制当局に期待される役割を果たさなかった」として、国を断罪した。
 本判決は、福島地裁判決よりも、国と東電の責任を厳しく断罪し、かつ、中間指針の範囲と水準を大きく上回る判断をした結果、賠償額が倍増した。
 この間、福島原発事故を巡る集団訴訟において、国の責任を認める地裁判決が七つ、認めない地裁判決が六つと国の責任の有無について判断が分かれていたが、国を被告とする集団訴訟の中では初の高裁判決である本判決で勝利したことの意義は大きい。本判決を勝ち取ることができたのは、いわき避難者訴訟、強制起訴裁判を含む累次の訴訟の成果によるところが大きい。住民側の訴訟団は、今後、より一層団結して国と東京電力と闘っていくことが、被害の全体救済を実現するために重要である。
 本判決内容の解説については、他の団員からの報告に委ねることとし、私からは判決行動等について報告する。

二 コロナ禍での判決行動と旗出し
 新型コロナウイルスの感染拡大は、判決行動にも影響を与えた。判決行動全般を通じて感染防止対策を実施し、デモ行進はサイレントで行い、判決集会は参加者数を限定し、オンライン配信(ユーチューブ、ズーム)を行った。原告団が入念に判決行動の準備をしてくれたおかげで、コロナ禍での判決行動を混乱なく終えることができた。
 私は、判決の旗出しを担当した。一審では、弁護士三名で旗出しを行ったが、控訴審では弁護士一名と原告二名で旗出しをすることとなった。これは、一九年団東北ブロック総会でのある団員の講義内容(闘いの主人公は原告である)を踏まえたものであるとご理解いただきたい。もちろん、出す旗の内容によっては、弁護士が対応すべき場合もあるだろう。
 本判決の旗出し終了後には、旗出しをした原告二名のもとに関係者が次々と駆け寄り、「本当に良かったですね。」と励ましやねぎらいの言葉をかけていた。

三 判決後のこと
 本判決の翌日以降、生業訴訟原告団・弁護団は、福島県及び県内の市町村に判決報告・要請行動を行った。被害の全体救済のためには、地元自治体から中間指針改定等の声を挙げてもらうことが重要である。要請等のために訪問した市町村の中には、首長が対応してくれたところもあり、本判決の影響の大きさをひしひしと感じている。
 福島原発事故の被害救済は、いまだ道半ばであるが、本判決を契機に、被害救済が前進することを期待し、活動を続けていく所存である。

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【京都支部特集】

仲買業者、卸売業者の商いを守る~旧京都市農協市場地上げ事件  京都支部  大 河 原 壽 貴

梅小路再開発と周辺での地上げ
 京都市内は、コロナ禍以前はインバウンドとホテルラッシュで、市内のあちこちで強引な立ち退きや地上げが続いていました。京都市下京区にある梅小路公園の周辺も同様で、とりわけ梅小路地域は、京都水族館の開業に始まり、京都鉄道博物館の新設、梅小路京都西駅の開業など、この数年来、大規模な再整備・再開発が進められてきました。そして、それとともに、七条通を挟んだ北側では、梅小路周辺の再開発の一環として京都中央卸売市場の建て替えが進められています。
 その京都中央卸売市場から西側、七本松通までの辺りには、市場に関連する水産物や農産物、塩干等、様々な商品を取り扱う業者が軒を連ねて商売をしています。旧農協市場もその中にあり、かつては京都市農協が出荷した青果物が競りにかけられ、仲買や卸売の皆さんが買い付けて、それぞれ京都市内各地の八百屋さんや料亭、飲食店などに配達するなどしてきました。まさに、京都の「食」を支えてきた業者の皆さんです。
 その後、農協市場自体は廃止されることになりましたが、青果の仲買や卸売をされてきた方々は、中央卸売市場に近接した旧農協市場の建物を利用して商いを続けてきたのです。ところが、梅小路周辺の再開発、中央卸売市場の建て替えに伴って、周辺地域で不動産が動き始めると、旧農協市場も決して例外ではありませんでした。もともと、旧農協市場の土地建物は、仲買や卸売の方々が利用している場所も含めて京都市農協(JA京都市)が所有していました。これが、二〇一四年に土木会社に売却されたのです。なお、その土木会社は、京都の農協の有力者の親族が役員を務める会社です。

違法な自力執行と仮処分申立
 二〇一六年夏ころから、旧農協市場の建物やその周辺に、土木会社名で、同年末をもって駐車場を閉鎖するとの看板がいくつも出されるようになりました。旧農協市場の建物を利用している仲買や卸売の皆さんは、下京民商と協力して反論・抗議の書面を送るなどしましたが、それに対しては何の返事もありませんでした。
 そして、二〇一六年一二月三一日深夜から翌二〇一七年一月一日の未明にかけて、突然、その土木会社が、かつて農協市場のせり場として使われ、現在は荷捌き場や商品の保管などのスペースとして活用されていた場所(旧せり場スペース)を鉄パイプとフェンスで封鎖するという自力執行に及んだのです。
 違法な自力執行を強行したこの土木会社に対し、妨害物排除の仮処分を申し立てました。その結果、二〇一七年八月には、仮処分決定が出され、旧せり場スペースから鉄パイプとフェンスを取り除いて開放し、荷捌き場や商品の保管場所を再び確保することができました。

土木会社からの明渡し訴訟に勝訴
 仮処分決定の後、土木会社から改めて明渡し請求の本訴が提起され、法廷での争いが続いていましたが、二〇二〇年一月三〇日、京都地裁で第一審判決が言い渡されました。
 訴訟では、旧せり場スペースが借地借家法上の建物と言えるかどうか、賃貸借契約に借地借家法の適用があるかどうかが大きな争点でした。この点につき、地裁判決は、仲買や卸売の皆さんが賃借している建物など旧農協市場として用いられていた建物と、旧せり場スペースとを含めて、全体として一体の建物であると認定して、借地借家法の適用があることを認め、土木会社の明渡し請求には正当事由がないとして、明渡しを認めない勝訴判決となりました。
 これは、建物自体の形状として一体であるというにとどまらず、仲買や卸売の皆さんが商いを行うにあたって、建物全体が機能としての一体性を有しているという、業者の皆さんの実態にきちんと目を向けた判決でした。
 地裁判決に対して土木会社は控訴し、控訴審も結審して、年末には判決が出されます。
 インバウンドによるホテルラッシュや、再開発事業に伴って、周辺の土地で地上げがおこり、住民が住む場所を失ったり、中小零細業者が商いをする場所を追われるなどということを許してはいけません。本件では、仲買や卸売の皆さんの団結、それを支える下京民商の後押しもあって、妨害排除の仮処分決定、地裁での勝訴判決を勝ち取ることができました。控訴審でも勝訴を勝ち取り、仲買や卸売の皆さんが商いを続けられるよう全力を尽くします。

 

タイムカードのない残業代請求事件  京都支部  尾 﨑 彰 俊 / 高 橋 良 太

一 事案の概要
 本件は、元従業員であった原告が、被告会社(パソコン修理等を行っている)に対して、未払い残業代と長時間残業によりうつ状態となったことについて、安全配慮義務に基づく損害賠償請求を行った事案である。
 本件の特徴は、被告会社は、タイムカードによる時間管理を行っておらず、被告会社は残業の指示も行っていないし、原告は残業を行っていないと主張したが、残業時間が、概ね原告の主張通り認定された点である。被告会社は、業務日報及び出勤簿を証拠として提出した。業務日報の退社時間欄には、原告が手書きで定時である「18:00」と記載していた。出勤簿には、始業時刻が「9:00」、終業時刻が「18:00」と印字されていた。

二 残業時間の立証
 本件では、タイムカードがなかったため、原告の残業時間を立証するための重要な証拠となったのは、①原告が業務で使用していたパソコンのログデータ(パソコンを起動した時間とシャットダウンした時間がわかる)及び②原告が、一八時〇〇分以降、業務が終了するまでICレコーダーで、自分が、業務を行っている状況を録音した録音データ(期間は、約三か月間)、③被告会社の予定表(顧客の訪問時間などが記載されている)であった。①については、被告は、原告以外の者もパソコンを使用していたため、パソコンのログデータは、残業を行っていたという根拠にはならないと主張した。②については、ICレコーダー内の時間が、録音のたびに毎回リセットされていたため、録音データの録音日時と原告が主張する日時が一致しないという問題があった。
 しかし、被告会社では、ラジオ放送が流れており、ラジオ放送された時報音及び曲が録音データに録音されており、原告の録音の信用性が証明できた。例えば、録音開始(一八時〇〇分)から二時間後に社内で「~が八時をお知らせします。」という時報音が流れた様子が録音されていた。ラジオ放送された曲は、ラジオ放送局のホームページで日時が確認でき、録音データに流れている曲とラジオ局放送された曲の時刻が一致した。
 例えば、録音開始(一八時〇〇分)から二時間後に社内で流れ録音された曲が、ラジオ放送局のホームページによれば、二〇時〇〇分に流れていることが確認できた。
 また、原告が来客対応した様子も録音されており、来客対応した時刻と被告会社の予定表も一致していた。上記のラジオ放送の曲と同様に、録音開始(一八時〇〇分)から一時間後に訪問した顧客が、受付で名乗った名前と予定表に一九時〇〇分に来訪する顧客の名前が一致した。被告会社は、原告に対して、残業の指示を行っていないと主張していたが、同録音データには、上司から原告に対して業務指示を行った様子も録音されていた。

三 第一審の判断
 第一審では、録音データを踏まえて録音期間については、「午後六時に退社した日は一日もなかったと認められる」と述べ、原告が手書きで退社時刻欄に18:00と記載した「業務日報の記載は信用できないと言わざるを得ない」と判断し、結論として、原告主張の残業時間をおおむね認めたが、「原告が被告において長時間労働を行っていたことは認められるものの、本件全証拠を検討しても、原告のうつ状態発症の原因が長時間労働であることまでは認めることはできない」として、安全配慮義務に基づく損害賠償請求は、否定された。

四 大阪高等裁判所で逆転
 第一審判決の問題点は、うつ状態の発症の直前の三か月間に、一月あたりおおむね一二〇時間の時間外労働を行っていることを認定したのに、うつ状態の発症の原因が長時間労働にあるとはいえないと認定した点である。原告は控訴し、このような問題点を指摘した上で、労災の認定基準やカルテに照らしても不当な判決であると主張した結果、大阪高等裁判所は第一審判決の判断を覆し、うつ状態の発症の原因が原告の長時間労働にあることを認め、治療費、休業損害等安全配慮義務違反に基づく損害賠償請求を認めた。

五 最後に
 本件は、被告会社が、残業の存在を否定し、タイムカードもなく、原告が被告の指示に基づき、手書きで退社時刻欄に「18:00」と記載した業務日報が存在する事案であり、残業の立証をどのように行うかが重要問題であった。原告は、残業代請求をした場合、業務日報などを理由に残業の存在を否定されると考え、パソコンのログデータの入手及び残業開始後の録音を行っていた。録音時間は、非常に長時間であり、分析には、大変な労力が必要であった。業者に録音反訳を依頼すると膨大な費用がかかるため、業者には依頼せずに、重要なポイントとなる点(業務指示、時報、ラジオの曲、来訪者の声)について、原告が反訳を行ってくれ、その反訳に基づき分析を行うことができた。一審では、否定されたが、二審において、損害賠償請求も勝ち取ることができ、良い結果を勝ち取ることができた(上告されず確定。)。まだ、労災申請も行っているので、引き続き良い結果を勝ち取ることができるよう全力で頑張りたい。

 

壬生新選組屯所隣地マンション建設問題  京都支部  佐 藤 雄 一 郎

 今、京都市中京区壬生賀陽御所町にて七階建てのマンション建設が予定されています(以下、「本件開発計画」という)。本件開発予定地の周辺には誰もが知っている新選組ゆかりの史跡等が密集し、周辺住民は本件開発計画について断固反対の意思を固め、弁護団を伴い、京都市開発審査会に対し、現在開発許可処分の取消審査請求をしています。
 事の発端は、本件開発事業者が審査請求人の一人(以下、「A氏」という)の自宅に一枚の名刺を投函したことから始まります。名刺には、「隣のコインパーキング所有者のものです。道路整備の件で来ました」との書き込みがなされ、後日本件開発事業者がA氏宅に訪問した際、「本当は道路幅四mないといけないところなので、駐車場整備と一緒に自宅前の道路工事をさせてください」と申し出てきました。この時、申し出を受けたA氏は、本件開発計画に必要なために道路整備が必要であることなど一切聞かされておらず、たった数センチのことで家の前も綺麗にしてもらえるならと同意書にサインをしてしまいました。
 この出来事の直後、本件開発計画について知らせる文書が本件開発予定地周辺の各戸に配布され、この時になって初めてA氏含め周辺住民のほとんどが本件開発計画の存在を知るに至りました。
 上記文書が配布された翌月に、本件開発事業者が開発許可申請を行い、その二ヶ月後に本件開発許可処分がなされています。しかし、本件開発許可処分には以下で述べる問題を孕んでいます。
 本件開発計画が許可を受けるために必要な要件は、建築基準法上の要件だけでなく、都市計画法上の要件もクリアする必要があります。本件で問題となった都市計画法上の要件とは、本件開発予定地に接道する道路が一定以上の幅員を確保しなければならないことです。具体的には、予定建築物等の敷地に接する道路の幅員について、予定建築物等の用途、敷地の規模等に応じて、六m以上一二m以下の範囲(小区間で通行上支障がない場合は四m)の幅員が確保されなければならないと定められています(都市計画法三三条二項、同施行令二五条二号)。
 上記道路幅員に関する規制があるため、本件開発計画が許可されるためには、少なくとも本件開発予定地に接する道路の幅員は四m以上必要です。しかし、本件開発予定地に接する道路の幅員は四mを超えない場所がありました。それが、上述したA氏宅前の道路です。本件開発事業者は、京都市からの説明で四m以上の幅員が必要とされる道路について、本件開発計画のためにどうしても四m以上の幅員を確保する必要に駆られていました。そこで、A氏に対して真正面から事情を説明して、道路拡幅工事の承諾を得るのではなく、駐車場整備のついでを装い、肝心な説明をせず、道路工事の同意書を取り付けたのです。後に、その事実に気づいた審査請求人らが同意の撤回と、同意書の返還を本件事業者に対して求めたが、本件開発事業者は拒否しています。
 この道路幅員の問題については、本件開発事業者・京都市が四m以上の道路幅員が必要であるとする道路のエリアと我々弁護団が主張するエリアが異なるという問題もあります。そもそも、四m以上の幅員を必要とする趣旨は災害の防止、通行の安全、事業活動の効率上支障がないようにするためであり、本件開発予定地に出入りするための道路全てで四m以上の幅員が確保されねばならないと考えるのが自然なところ、本件開発事業者・京都市側は本件開発予定地から出るための道路のみで四m以上が確保されていればよいものと説明しています。しかし、本件開発予定地周辺の道路は一方通行の道路であるため、本件開発予定地に出入りするためには同じ進入路を使用することはできません。そのため、本件開発予定地に入るための道路でも四m以上の幅員が確保されていなければならないことになりますが、入るための道路では四mに満たない地点が多数測定されています。
 概要のみですが、以上が本件開発許可処分に対する法的な問題点です。現在、京都市長からの弁明書、弁護団からの反論書を提出し、今月には公開口頭審理がなされる予定です。同審理の中では京都市長の弁明が京都市景観政策などに反するものであるかを熱弁し、七階建ての高層マンション建設計画は見直されるべきであると主張する予定です。

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核兵器は「長い平和」をもたらす「秩序の兵器」か??-
           『「核の忘却」の終わり』に触れながら(一)
                              埼玉支部  大 久 保 賢 一

はじめに
 今年は、核兵器が初めて使用された時から七五年、核兵器の不拡散と軍縮、そして「核の平和利用」を三本柱とする核不拡散条約(NPT)が発効してから五〇年という節目の年に当たっている。三年前の七月に国連で採択された核兵器禁止条約(TPNW)の批准国は、七月一四日現在で四〇を超えている。その発効は、時間の問題といえるであろう。
 けれども、国連安保理常任理事国である五カ国は、NPTの枠組みは認め、核の不拡散や「平和利用」については熱心であるが、核兵器の廃棄については「全面的かつ完全な核軍縮条約に関して、引き続き誠実に交渉していくことを追求する」などという持って回った言い方をしながら、核兵器禁止条約には背を向けている。この姿勢は日本政府も同様である。国家安全保障のために核兵器を必要としている立場だからである。その背景にあるのは、核兵器は「長い平和」をもたらしているし、核兵器は戦争を抑止するための「秩序の兵器」だという発想である。「核兵器は人類と共存できない」との思想とは真逆の発想である。
 そして、核抑止論は「核戦争が実際に生起したら人類が滅んでしまうという」切迫した問題意識のもとに、ベスト・アンド・ブライテスト(最良のもっとも聡明な人々)と呼ぶべき人が発展させてきたと礼賛する言説も存在する。以下、その一例を参照しながら、彼らが核兵器を必要かつ有用としている論理を批判的に検討してみたい。

「核の忘却」と「核の復権」
 一橋大学の秋山信将氏と防衛研究所の高橋杉雄氏が編集している『「核の忘却」の終わり』という本がある(二〇一九年、勁草書房)。その副題は、「核兵器復権の時代」である。
 「核の忘却」とは、米ロの冷戦が米国の勝利で決着がつき、大国間の核戦争の可能性が大きく低下し、核兵器の役割が縮小して、やがては核兵器が廃絶されるのではないかとの期待が高まる中、核兵器の安全保障に対する役割に関する思考が停止してしまった状態と定義されている。本書は、この「核の忘却」の時代が終わりを告げ、核戦略論に関する知的基盤の再構築が開始されつつあり、「核の忘却」の時代から「核の復権」の時代になったというのである。
 両氏は次のようにいう。一九四五年に初めて使用された核兵器は、米ソの対立があった冷戦期には、核戦争による人類絶滅の恐怖を突き付けた。その一方で、核兵器の存在は米ソ両国の行動を慎重にさせたので、「冷戦」を「熱戦」にエスカレーションすることなく、むしろ「長い平和」(ジョン・ルイス・ギャディス)ともいわれる状況にとどめた。冷戦は終結し、核戦争による人類絶滅の恐怖は去った。

核兵器は「長い平和」をもたらしているか?
 この言説についての私の疑問は三つある。地球上に「長い平和」がもたらされているというのは本当か、既に核戦争による人類絶滅の恐怖は去ったというのは本当か、そうだとしてもそれが核兵器のおかげというのは本当かという三点である。一つずつ考えてみよう。

世界は「長い平和」の中にあるか?
 まず、冷戦時代、世界は「核戦争による人類絶滅の恐怖」を突き付けられていたことは、この論者も前提としていることである。にもかかわらず、こういう恐怖が現実化しなければ「平和だ」というのは「平和」という言葉の使用法として適切ではないであろう。
 私は、いつ爆発するかわからない火山の頂上で生活する人に「あなたは平穏に生活している」のだから、そのままでいいでしょうなどとは言えない。その危険を避けることを勧めるであろう。彼らの「平和」の定義に同意することはできない。
 ところで、秋山氏も、冷戦期に、地域紛争や内戦があったことは認めている。にもかかわらず「長い平和」があったとしているのである。ベルリンが封鎖されようが、朝鮮半島や中東で戦争が起きようが、アメリカがベトナムを侵略しようが世界の平和には関係ないということになる。ずいぶんご都合主義的な平和論といえよう。
 冷戦前後を問わず、地球上に「長い平和」が続いているとの言説は、平和の概念を極小化し、現実の紛争の存在を度外視する、ごく限られた人たちにしか通用しない議論である。

核戦争による人類絶滅の危機は去ったか?
 去る一月、米科学誌「原子力科学者会報(BAS・Bulletin of the Atomic Scientists)」は、地球滅亡までの時間を示す「終末時計」の針が昨年より二〇秒進んで残り一〇〇秒となり、一九四七年以降、最も「終末」に近づいたと発表した。
 BASの委員たちは、「世界は今、複雑な脅威に対抗するための最も効果的な手段を軽視し、放棄している権力のある指導者たちによって脅かされている」、「イラン核合意の崩壊や、北朝鮮の核兵器開発、米国や中国、ロシアなどからの核拡散が継続しているので核兵器の脅威は高まっている」などとして、「終末」を警告しているのである。
 ここでは、核戦争による人類社会の滅亡が真剣に憂慮されている。秋山氏たちの言説には、このような憂慮の片鱗すら示されていない。私には、こういう秋山氏たちのような無責任な言説が、その危機を深めているように思えるのである。

世界が吹き飛ばなかった理由
 では、米ソに「熱戦」が起きなかったのは核兵器のおかげなのかということはどうだろうか。核兵器が存在していることと核戦争が起きなかったことはいずれも事実であるから、そういわれるとそのように見えるのである。少し眉に唾をつけて考えてみよう。
 イギリスの現代史家ロドリク・ブレースウェートは、一九四五年八月九日以降、一触即発の核の対峙にもかかわらず「どうして世界は吹き飛ばなかったのか」と問いかけている。その回答例。第一は、核兵器に対する全世界の恐怖による抑止効果で「やたら丈夫な恐怖の子供」(チャーチル)が生き続けることになったという説。第二は、核による恐怖の副産物ではなく、「第二次世界大戦」における通常兵器による恐怖を二度と繰り返してはならないという決意が広がったからという説。第三は、「人間のより良き心性」(リンカーン)の影響が、人間のもつ暴力的要素を低減したからという説。第四に、「単にラッキーだった」という説などである。
 第一の説は核抑止論。第二の説は国連憲章の「われらの一生のうちに二度までも言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救う」という立場。第三の説はユネスコ憲章の「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」という立場。第四の説はよくある意見である。いずれにしても、「吹き飛ばなかった」理由は複数紹介されている。
 日本原水爆被害者団体協議会(被団協)の「二一世紀被爆者宣言」(二〇〇一年)は次のようにいう。被爆者はこの半世紀、「ふたたび被爆者をつくるな」と訴えてきました。その訴えは「核兵器廃絶」の大きな流れとなっています。広島・長崎以後、核兵器の実戦使用は阻まれてきました。世界の世論と運動こそが、核戦争の抑止力になっているのです。
 そして、二〇一七年採択された「核兵器禁止条約」は「核兵器の全面的な廃絶のために、国際連合、国際赤十字社・赤新月運動、国際機関、非政府機関、宗教指導者、議員、研究者およびヒバクシャが行っている努力を認識し」という記述がある。条約は、核兵器廃絶のための努力が、様々な主体によって担われてきたことに着目し、被爆者運動も視野に置いているのである。
 このように見てくると、私には、核戦争が起きなかったのは、核兵器のおかげだと平然といえる神経が理解できない。核兵器が存在していたから核戦争が起きなかったというのは、二つの現象を並べただけで、論理的説明にはならないからである。冷戦に敗れた旧ソ連の指導者たちの証言にも残された公文書からも、「ソ連のアメリカに対する核攻撃の意図」や「アメリカの核兵器が怖かったので、核兵器の発射ボタンを押さなかつた」という証拠は見つかっていない。核兵器が核戦争を阻止してきたというのは、その程度の言説なのである。
 私は、核兵器が核戦争を阻止し、世界に「長い平和」をもたらしたというのは、性質の悪い冗談か、あからさまな嘘であると考えている。そして、そのような言説の基礎にあるのは核抑止論である。

「核抑止論」について
 高橋氏も秋山氏も、「これまで、軍事力は戦争に勝つことが目的であったが、核兵器という『絶対兵器』は戦争を避けることが目的となる。それ以外の有効な目標は持ちえない」という見解(バーナード・ブロディ)を引用している。「核兵器は戦争を抑止する」という議論である。秋山氏は、抑止とは「相手に恐怖心を起こさせ、それによって相手が行動を起こすことを妨げる」ということ。つまり、心理的威圧を相手に与えることにより、自らが望むような行動を相手に選択させること(あるいは望まない行動をとらないようにすること)が抑止の目的である、としている。要するに相手を脅して恐怖心を起こさせ、自分に都合のいい行動をとらせ、不都合な行動をとらせないのが抑止である。この論理は本当に効果的なのだろうか。合理性や普遍性を持つのであろうか。検討してみよう。

核抑止は効果を上げているか
 一九四五年八月、アメリカは、広島と長崎への原爆投下で、核兵器の効果を世界中に示し、世界中がそれに恐怖したけれど、一九四九年のソ連の核保有でその独占は崩れた。その後も、核兵器国は拡大してきたし、核兵器の性能も高まっている。朝鮮や中国は核兵器国アメリカと戦争をしたし、ベトナムでは核兵器国アメリカが敗戦に追い込まれた。ソ連は核兵器を持っていてもアフガニスタンを支配することはできなかった。北朝鮮は目の前に米軍がいても核開発をしてきた。
 このように見れば、核兵器で脅したからといって、そのとおりに事が進まないことは明らかである。核兵器国の核兵器は非核兵器国の武力による抵抗を抑圧できなかったし、核兵器の拡散を止められていないのである。結局、核兵器国は核兵器を持っていても他国の意思を制御できなかったのである。核抑止論の無意味さは、国際政治の歴史と現実が雄弁に物語っている。

人は脅かせばいいなりになるのか
 そして、この理論の最も大きな欠陥は、人あるいは他国は、脅かせば自分のいうとおりに動くと思っていることである。人類社会を見れば、過去も、現在も、脅かされれば従う人たちだけで構成されているわけではない。支配者に対する抵抗と革命は繰り返されてきたのである。将来においても、それは変わらないであろう。それは自由と独立を求める人間性の表れである。
 このように、核抑止論なるものは、現実的には全く機能していないし、理論的にも致命的な弱点を抱えているのである。私には、いまだに、こんな「理論」をまことしやかに流布しようとする人物がいることが不思議でならない。
 そうすると、次の疑問がわいてくる。危険な物はなくさなければならないというのは誰にでもわかることである。にもかかわらず、ベスト・アンド・ブライテストといわれる人たちが、なんで核兵器をなくそうとせず、それを残そうとしたかである。それを検討するための資料を示しておく。(続)

 

自由権規約の審査再び延期となる  東京支部  鈴 木 亜 英

 自由権規約の第七回日本政府報告審査は今年一〇月一一日から一一月六日までの第一三〇回会期が予定されていたが、コロナの影響で再び延期となった。八月一一日号団通信に「迫る自由権規約の審査」とお知らせしたが、あえなし、再延期となった。次回期日は未定である。
 自由権規約委員会は毎年三月、七月、一〇月の定例三会期(一会期は三週間)で開かれ、この間に一会期五~六ヶ国が順次国別の審査対象となる。今年三月の審査もコロナにより予定の半分に届かず、途中で中止となった。数ヶ国の審査が積み残しとなり、一〇月会期予定の五~六ヶ国と合わせても約一〇ヶ国が次の三月会期に審査を受けることになるが、もともと三月会期も審査を受ける国々がすでにスタンバイしていただけに、「渋滞」は審査全体を圧迫する状況となっている。
 云うまでもなく、自由権規約をめぐる課題は多い。刑事司法制度の改革や個人通報制度批准の促進など日本国政府がこれまで解決を怠り、先延ばししてきた問題などである。五年に一度の国別審査において、前回のやり残しを改めて対話しなければならない。日本の人権状況の遅れは様々な要因が重なって、先進国の中でも「遅れが目立つ」状況となっている。コロナによる遅れは致し方ないとしても、日本に課せられた人権の諸問題は放置しがたいものがあるので、本腰を入れて改善を求める必要を痛感する。

 

北信五岳-斑尾山(二)  神奈川支部 中 野 直 樹

五岳の見える湖
 前夜、道の駅しなのに停めた車中で、ラグビーワールドカップ決勝で南アフリカが優勝した試合放送を聞きながら寝入った。一一月三日(日)六時半起床し、アルファ米にレトルトカレーをかけた朝食。七時半すぎ野尻湖畔に着いた。今は上信越自動車道のインターすぐ傍となったが、これができる前は、信越線の列車の旅が必要だった。この湖を有名にしたのは六〇年代以降に実施されたナウマン象の化石調査である。市民参加型の調査団がつくられ、全国から家族連れで参加している。今も続いている。
 湖畔の紅葉が湖面に映えている。釣船が浮かび、カヌーの講習も行われていた。湖畔の東北の端、菅川に立つと、湖面の向こうに、右手に黒姫山、中央に戸隠山、左手に飯綱山の三岳が一望された。対岸からはきっと妙高山、そして本日のメニュー斑尾山が見えるのであろう。

台風一九号の爪痕
 この年一〇月、台風一九号が東日本各地に激甚災害をもたらした。北信の千曲川の堤防が決壊し、住宅地、リンゴ畑、北陸新幹線車両基地が洪水に襲われた。私は野尻湖畔から斑尾山の北側の万坂峠を越えて斑尾高原に向かおうと車を走らせたが、途中の東急ゴルフ場のところで通行止めとなっていた。台風一九号の際の崖崩れが復旧されていないとのことであった。やむなく引き返し、野尻湖の東側の湖畔道を南下して、県道に出て左折し、予定よりもだいぶ遅れて斑尾高原スキー場に着いた。
 スキーといえばウィンタースポーツだが、今はサマージャンプ競技会もあるし、アルペンでもグラススキーが取り入れられている。斑尾高原スキー場でも芝生の斜面をスキー板の代わりにキャタピラ状のものが付いたローラーをスキーブーツに装着して滑っていた。ローラースケートの応用で、六〇センチくらいの長さであろうか。回転するので滑るというのは正確ではないと思うが、見ているとスキー滑走と同じ体軸の傾き・体重移動で、けっこうなスピードも出ている。

斑尾山
 標高一三八一mで、西側の山体で野尻湖を支え、東側には標高千メートルの高原がひろがっている。七二年にスキー場開発がなされ、東急資本も北側のスキー場・ゴルフ場開発を行った。パウダースノーが売りだったようだが、斑尾高原スキー場と高原ホテルはバブル崩壊後経営難となり、不動産投資会社に買い取られた。
 ゲレンデ内のレストハウスの駐車場に車を止めて、山仕度をした。山頂までの標高差四〇〇メートル足らずなのでザックを背負っていくまでもないかなと考えたが、ペットボトル・カメラをぶら下げて行動するのも、と考え直して登山の正装となった。
 完全に開けたスキーゲレンデの斜面の登りで、深山の空気感はない。ゲレンデの中腹で振り返ると千曲川を挟んで、靄のかかった志賀高原が見えた。私は、志賀高原は東西に伸びているとの勝手なイメージをもっていたが、実際は、南北に走る二千メートル級の脈であり、奥志賀、焼額山、岩菅山、志賀山、横手山へと南下している。そして草津白根山、四阿山、浅間山に行き着く。山の稜線のシルエットがくっきり確認できた。
 登り始めて一時間で山頂の標識。ブナの樹林に囲まれ、展望はまったくない。ブナの落葉が降り積もり、晩秋の寂しさを感じながらあとにした。

五岳の旅
 登ってきた道のピストンであったが、ゲレンデの上端に戻ったところで、北東側のガスがとれ、五岳の二雄、妙高山・火打山連山が現れた。斑尾山の北側に湿原が見えた。地図をみるとこの湿原地を出発として千曲川の北側の標高千メートルくらいの里山を飯山市、野沢温泉村、栄村、そして津南町近くまで歩くというか走るというか、信越トレイルというコースが作られている。全長八〇㎞。身体には苛酷だが、自然にやさしい山間部の観光資源の一つといえる。このあたりは有数の豪雪地帯である。そして二〇一一年三月一二日、東日本大地震に連続して、震度六強の地震が発生したところである。
 いずれも晩秋の山旅となったが、戸隠山、飯綱山、黒姫山、妙高山、そして斑尾山とつないできた北信五岳完登。そこに雨飾山、火打山、高妻山、乙妻山を加えて妙高戸隠連山国立公園内の仲間の山々をそれぞれの立ち位置から互いの姿を見比べることができた(終)。

 

 

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