第1722号 / 11 / 11

カテゴリ:団通信

【今号の内容】

*兵庫・神戸総会報告特集
○幹事長退任のご挨拶  泉澤  章

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●「学問の自由」の蹂躙を許すな-日本学術会議事件  藤本  齊

●「生業を返せ!」福島原発訴訟 仙台高裁判決の到達と展望(責任論)  久保木 亮介

●司法通訳人問題-外国人未払賃金等請求労働審判事件を終えて  石黒 大貴

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*大阪支部特集
○「官僚制改革の行政法理論」を読む(日本評論社 晴山一穂ほか編著)  河村  学

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-・-  追悼 -・-

●佐藤欣哉先生さようなら  髙橋 敬一

●熱血「仕事人」佐藤欣哉団員を偲ぶ  武田 芳彦

●佐藤欣哉弁護士を偲ぶ-主に大阪・正森成二法律事務所時代について  小林 保夫

●大杉谷から大台ヶ原へ(1)中野 直樹

 


 

*兵庫・神戸総会報告特集

幹事長退任のご挨拶  東京支部  泉 澤   章

 二〇二〇年兵庫・神戸総会で幹事長を退任しました、東京支部の泉澤章です。
 二〇一八年の福岡・八幡総会で幹事長に選任されたとき、私は、「最も重要だと考えている課題が二つある」と話しました。一つは、「安倍政権による改憲の阻止」、もう一つは、「若手の団への結集」でした。幹事長退任にあたって私なりに、この二つの課題の総括をしておきたいと思います。
 まず、一つ目の課題である「安倍政権による改憲の阻止」です。安倍晋三首相は、〝憲政史上最長〟の期間にわたって政権を維持し続けたにもかかわらず、結局在任期間中、改憲どころか、その発議さえできませんでした。安倍政権自体は高支持率が続いていたことを考えあわせれば、これはとても大きな成果だったと思います。もちろん、この間団が担ってきたのは、改憲阻止へ向けた大きな国民的運動のうねりのなかの、ほんの一部でしかありません。しかし、全国の団員が力を結集して、改憲へと突き進もうとする安倍政権を、様々な場面で追い詰めてきたことも間違いありません。安倍政権の末期、新型コロナウィルス感染拡大というこれまで経験したことのない事態が生じ、従来のスタイルによる活動ができない状況下にあって、団員も大いに奮闘した検察庁法改正反対運動や「桜を見る会」を追及する運動などは、コロナ禍で弱体化した安倍政権を、早期退陣に追い込むきっかけとなりました。これらの運動に参加し、全国の団員や志を同じくする人びとと成果をわかち合えたことが、幹事長在任中最大の喜びでした。
 もっとも、安倍首相退陣後、「安倍政権を承継する」ことを看板に発足した菅義偉政権は、改憲の姿勢も、文字どおり承継すると思われます。安倍政権下における改憲を阻止しえたことを一定の成果としつつ、引き続き新しいかたちで出てくるであろう改憲の企てを阻止するため、これからも一団員として運動に参加してゆきたいと思います。
 二つ目の課題だった「若手の団への結集」はどうだったでしょうか。来年は団創設一〇〇周年ですが、これからの団の活動を担う多くの若手が、主体的に団活動に参加しない限り、これからの一〇〇年はありえないと思い、重要な課題の一つとして提起していました。
私としては、積極的に若手の発言の場を作ることや、若手が主体的に「やりたい」ということは否定せずやってもらう方向で努力してきたつもりですが、団全体でどう課題を共有するのか、制度的な裏付けをきちんと作るべきではないのかという問題提起には、率直にいって、対応できたとは言えませんでした。団の存続というだけでなく、民主的な日本の未来を築くためにも、絶対に取り組みが必要な課題です。自分の力不足を棚に上げて言うのも何ですが、ぜひこの課題については、次の執行部でも取り組みを続けて欲しいと思います。
                ※      ※     ※
 ひとつだけ、個人的に強く思い出に残ったことを紹介させて下さい。幹事長になって二年目の年が明け、さあこれから残された課題に取り組むぞと思ったとたん、新型コロナウィルスの感染が日本中に拡大し、緊急事態宣言の発令、外出や集会の「自粛」と、これまでにない異例の日々が始まりました。そうした中、コロナ禍が拡がりはじめた三月常幹を開催するかどうかの瀬戸際で、突然内臓系の疾患が発症(もう完治しましたのでご心配なく)し、病院から入院を勧められました。まだ常幹をいつものように開くかどうか決めておらず、点滴につながれながら「どうしようか・・」と悩みながらスマホのメールでやり取りをしていると、次長が「ウェブ会議にしましょう」と積極的に提案し、専従事務局も技術的に可能であると言ってくれ、事務局長以下の素早い行動で、初めてのウェブ会議に切り替えることができました。この時の団結力、素早い行動が元気の素となったのか、結局入院もせずに、当日の会議を仕切ることができました。当時はあまりにも展開が急すぎて、きちんと気持ちを伝えられませんでしたので、執行部と専従の皆さんには、ここであらためてお礼を言いたいです。あのときは、ほんとうにありがとう。
                ※     ※     ※
 最後に、この二年間の活動をともにしてきた自由法曹団新旧執行部の皆さん、専従事務局の皆さん、全国の団員の皆さん、ほんとうにありがとうございました。そして、幹事長職を様々な側面から支えてくれた東京合同法律事務所の皆さん、わが家のみんな(猫のひめ子も含め)にも、心から感謝を申し上げます。ありがとうございました。

 

 

「学問の自由」の蹂躙を許すな-日本学術会議事件  東京支部  藤 本   齊

 日本学術会議の会員推薦につき六名を菅首相が任命拒否したらしいとの一報がはいったとき、まだもう一人が加藤陽子さんと判明する前の段階で、私は団東京支部MLに「これはそれこそ総がかりで潰さねばなりません。…日本学術会議の歴史の丸ごとの否定で、その意味は、すべての自由権の抹殺です。戦前日本の結節点でいえば、治安維持法の存在でも突破しきれなかった状況を突破する総仕上げとしての美濃部・滝川事件と同様の意味合いを持ちえます。」とメールしました。要点は、天皇制軍国主義の戦争指導部にとっても、かの凶器「治安維持法」だけでも突破仕切れなかった物心両面での総動員体制への道の最後の仕上げ部分として「学問の自由」の蹂躙があったという点です。それによって始めて従来の通説であった「天皇機関説」という世界史的にはごく標準的な憲法学説(宮中自身も採用し、高級官僚もみなこれで高等文官試験を受けてきた)を根底から国家的に否定し、これを契機に、政府は三五年『国体明徴声明』を発し、翌年の美濃部襲撃事件とその五日後の二・二六事件を挟んで、思想局を設置した文部省が三七年同省編『国体の本義』を発し、いわば明治憲法下での憲法学上のクーデタを成し遂げ、日本中を「国体思想」でほぼ完璧に染め上げることが出来たのです。で、一〇年後に東半球を人類史的悲惨の極地と化したあげく一旦滅亡したわけです。
 寄稿要請もありましたので、「学問の自由」(憲法§23)問題を、従来の通説の延長線上に最近の石川健治さんからの耳学問等を加味して再整理し若干の展開をしてみます。
 菅首相は変則的記者会見で困惑顔?で「どう考えても(・・・・・・)学問の自由とは関係ない。」と述べていました。珍しく原稿を離れた自身の言葉の様で、本心そう思った(何が問われているのかサッパリ分からん、と)公算があります。要するに彼は、憲法が保障する「学問の自由」とは、単にいわば「人々が勉強する自由」だとイメージしたもんだから「どう考えたって繋がらなかった」のでしょう(善解しての話で、そのレベルでも本当は大問題なのですがね)。
 実は、「勉強する自由」それ自体を含めて「学問の自由」の全体は、思想良心の自由(§19)、言論表現の自由(§21)等があればそれで十分とも言えます。それが証拠に、「学問の自由」条項(・・)それ自体は、近現代憲法の標準装備ではないのです。この特別条項のない国でだって、「学問の自由」とそのコロラリーは重要な基本的人権です。では、なぜ日本国憲法には特別に条文があるのか?一つはそれが蹂躙された歴史を直近に持つ点からですが、関連しつつ重要なもう一つは、この条文を特別に持つ国々というのが、大学と言えばドイツ型をメイン形態としているという共通性があるという点です(独、墺、スイス、オランダ、スカンジナビア、ロシア)。それらの国々での大学のあり方のメインが、(A₁)官立の「営造物」であり、(A₂)人件費物件費が公費(税金)による、という重要な一面を持つと言うことです。この面だけからすると、だから権力の言うことを聞けということになりかねません。これをA面とすると、同時にそこでの歴史は、大学人たちが、(B₁)大学等は営造物である前に学問共同体なのだ、(B₂)我々は公務員等である前に大学人=学問共同体の構成員なのだ、ということを主張し戦いこれを憲法に書き込ませてきた歴史だったのです。これがB面です。その結果これが、一八四八年革命のさなかのフランクフルト憲法案・一八五〇年の実定プロイセン憲法、一九一九年のワイマール憲法、そして現在のドイツ連邦共和国基本法、更には、諸国の諸憲法へと書き込まれてきたのです。だからこの条項が憲法上保障しているのは、このB面なのです。
 A面だけならそれは別に憲法上の問題でも何でもなくて単なる行政法上の問題です。B面こそが大事で必要だから憲法典に書き込まれた、従って、正にこのB面こそが憲法が保障するものなのです。行政法上当たり前のことが問題なのなら憲法に改めて書く必要はありません。逆に、憲法の方に条項があるのは行政法レベルを凌駕する意味があるからなのです。そして、「学問の自由」だけでなく、このB面の論理と専門性の論理から当然のこととして「大学の自治」もまた憲法二三条で直接に保障されているということになるのです。要するに、『Aであっても、Bを保障する』、『Aであるにもかかわらず、Bを保障する』、これが「学問の自由」条項の独自の存在理由なのであって真意なのです。それは本条項の独自の意味内容として初めから含まれていたことなのです。
 それでも行政法的なA面との戦いは諸国でも諸方面でも続きます。私自身の学生時代、五〇年以上前もまたそうでした。当時はこの営造物と公費の論理から、「特別権力関係論」でもって学内秩序への権力の介入が説明されると言うことが行われ、これとの戦いの日々でもありました(国公立では勿論、私学においても変容された形で)。その結果、今ではさすがに「特別権力関係論」は使われなくなりましたが、それでも菅首相の言葉にあるとおり、「営造物論」として改めて正面に躍り出てきて、憲法破壊の役割を担っているのです。
 同時に、こうして見ると、「大学」だけではなくて、「日本学術会議」自身が、国の営造物であり、不十分ながらも税金で賄われているけれども、一方で、これは日本の学問共同体を国際的にも代表する学問共同体そのものであり、かつ、その会員等はその自由たるべき学問共同体の構成員なのだということが、同会議法の規定自体からも、その活動内容からも分かります。同会議自体が、上記A面にかかわらずその前にB面の性格を満たしており、だから、その自由と自治それ自体が憲法二三条によって保障されている関係に立つ存在だったのです。従って、この会議の人事に対する介入は、いくら営造物論や公費論を振り回したって、それ自体が憲法条項への直接の蹂躙なのです。そのことが、二三条の独自の存在意義を顧みることによって示されてもいるのです。
 冒頭に述べた通り、ここが突破されて一〇年もたたぬうちにわれらが郷土は廃墟と化されたのだということは今改めて銘記されねばなりません。
(恣意性と立憲主義、専門性と自治の論理、中間諸団体組織の自由と自治等々関連するその他諸点は機会を改めて…。)
※団東京支部ニュース一一月号からの転載です。

 

 

「生業を返せ!」福島原発訴訟 仙台高裁判決の到達と展望(責任論)
                               東京支部  久 保 木 亮 介

はじめに
 福島第一原子力発電所の過酷事故により生じた被害についての法的責任、特に国の責任(国賠違法)の追及については、各地裁判決で原告被災住民側の勝訴が七、敗訴が六と均衡し、最近は負けが込んでいた。また、昨年九月には東京地裁で東電元役員の刑事無罪判決が出された。
 しかし、「生業を返せ、地域を返せ!」福島原発事故被害集団訴訟の九月三〇日の仙台高裁控訴審判決は、一審被告国の責任を認め、賠償責任の範囲も広げた。国と東電を被告とする集団訴訟の最初の高裁判決における勝利が、全国各地の集団訴訟の闘いを後押しすることを願い、主に責任論について報告する(損害論は他に譲る)。

一 一審被告国の新たな主張とその悪影響
 これまで国の責任を認めた判決は、いずれも、電源喪失を招くような津波の予見可能性の根拠として、二〇〇二年の地震本部「長期評価」が日本海溝寄りのどこでも(・・・・)津波地震(断層がゆっくりずれるため揺れをほとんど感じないが巨大な津波を生じる海溝寄りの地震)が発生し得るとしたことを挙げている。ひとたび福島沖海溝寄りに津波地震を想定し、最新の推計手法でシミュレーションすれば、福島第一原発の敷地高さを大きく超える津波となることは争いがなく、争点は「長期評価」の信頼性であった。
 各地裁で国の責任を認める判決が相次ぐ中、国は、①過去に津波地震の発生が確認されている三陸沖と確認されていない福島沖とでは、海溝付近での堆積物や沈み込むプレートの凹凸の状況が異なるから、福島沖海溝寄りでは将来も津波地震は発生しないという説(付加体説)が、〇二年当時支配的であった(・・・・・・・)として、「長期評価」の信頼性を否定する主張を展開、それに沿う専門家(多くは地震学者ではなく工学者)の意見書を多数提出した。その後相次いだ国の責任を否定する判決には、国の新たな主張・立証の(悪)影響が顕著にあらわれている。
 国はまた、②「長期評価」と同年に出された土木学会「津波評価技術」(作成は電力関係者が委員の多数を占める津波評価部会)が、福島県沖海溝寄りに津波地震を想定していないことは合理的であり、〇二年当時の事実上の基準として用いられていた、③〇二年七月の「長期評価」発表後の八月に、保安院が東電の報告を受けて「長期評価」に基づく規制権限を行使しなかったことは妥当であった、という主張を控訴審で繰り返し、③の根拠となる当時の保安院担当者の陳述書と添付資料を提出した。

二 国の新たな主張を全て退けた仙台高裁判決
 しかし、今回の仙台高裁は国の新たな主張を全て退け、二〇〇六年の時点で規制権限不行使(技術基準適合命令を怠ったこと)による国賠違法を認めた。
① 津波地震に関する付加体説については、ニカラグア沖やペルー沖など付加体のない海溝でも(・・・・・・・・・・・・)津波地震が起こってい(・・・・・・・・・・)ることを再三指(・・・・・・・)摘し(・・)、また、東電元幹部の刑事被告事件における地震学者の証言(付加体説が通説あるいは有力説であったとは言えない)を引用し、「長期評価」の合理性は否定できないとした。
② 土木学会「津波評価技術」は「事実上」基準として用いられていたに過ぎず、日本海溝沿いの地震の想定は既往最大のものに限られている。また、そもそも土木学会は、その構成等から監督規制に不向きな団体(・・・・・・)である。
③ 二〇〇二年八月の保安院対応については、東電の報告は不正確かつ不誠実(「長期評価」策定過程で異論を述べた学者一人についてのみメールで問合せ、「長期評価」に基づく試算の必要性を否定する内容の報告)であり、保安院はこれを唯々諾々と受け入れて(・・・・・・・・・・)規制当局に期待される役割を(・・・・・・・・・・・・・)果たさなかった(・・・・・・・)と厳しく批判した。
④ 結果回避措置については、原告らが、防潮堤とは別に建屋や重要機器のある部屋の水密化措置を講じていれば結果を回避できたことにつき一定程度具体的に主張・立証しているのに、国は結果回避可能性を否定すべき事実を相当の根拠・資料に基づき主張立証していないとし(立証責任の事実上の転換)、結果回避可能性と因果関係があることが事実上推認されるとした。

三 仙台高裁判決の評価
 仙台高裁の判断は、原告弁護団が控訴審で新たに提出した書証(例えば、付加体のない領域でも津波地震が発生していることを示す九〇年代から二〇〇〇年代初頭の諸論文、水密化対策が東海第二では取られていたことを示す刑事事件での資料、「長期評価」が単なる行政判断ではなく災害の原因となる自然現象についての科学的な評価であることを指摘した下山憲治一橋大学教授の意見書等々)を漏れなく的確に取り込んでおり、司法による新たな「事故調査報告書」ともいうべき、極めて高い水準に達している。
 弁護団は二〇一三年の提訴後の比較的早い段階で、予見可能性は〇二年時点・「長期評価」・津波地震で勝負する、結果回避可能性は水密化を重視するとの方針を確立し、争点が散漫になることを防ぎ、かつ控訴審に入ってから国が逆転を賭けて「勝負」してきた箇所を論戦で徹底的に論駁することを心がけてきた。それに見事応えてくれた仙台高裁に、敬意を表したい。
 法的な判断枠組みについても、最高裁をにらんで、①保安院の専門技術的裁量を肯定したとしても違法であること、②原発の経済的必要性を考慮した「相対的安全性」の考えに立ったとしても違法であることを強調し、③原子力の安全規制法制の趣旨に関する伊方最高裁判決の判断を援用し、手堅い枠組みで論旨が組み立てられている。証拠の挙示と事実の適示における水準の高さ、法的判断枠組みの確かさのいずれをとっても、今後の判決への影響は極めて大きいと思われる。

四 国と東電の責任を認めさせることの意義と今後への決意
 一方で被害の実態を緻密にかつ効果的に行うことで、裁判官を被害の生じた原因、すなわち国と東電の責任に向き合わせる。他方で、国策民営の末三・一一に至った原発の歴史の実態に沿って、東電のみならず国の法的責任をも問うことで、国が決めた中間指針の低い賠償基準を乗り越え、被害の全面救済に途を開くこと。さらに、司法での勝利を力に、被害者全体の生活と生業の再建、環境の回復、健康被害の予防、そして原発の稼働停止と廃炉等の政策転換を目指すこと。
 これが、生業訴訟の当初からの目標である。原審では責任論の勝利が賠償額の増額に接続せず、他地裁で責任論敗訴が続くなど、予断を許さない状況が続いていたが、今回の勝訴で、再び活路が切り開かれつつあるといえる。勝訴はマスコミでも広く取り上げられ、社説で国と東京電力に上告断念を迫る地方紙もあった。
 群馬訴訟が来年一月、千葉訴訟が二月に東京高裁で判決を迎える。ここでも勝訴すれば、最高裁での審理にも十分に期待が生まれる。自由法曹団の団員は、三弁護団を含め全国の原発被害集団訴訟の弁護団に加わっており、献身的な役割を果たしている。最高裁で勝ち抜くまで、全国の闘いと結んで引き続き力を尽くしたい。

 

 

司法通訳人問題-外国人未払賃金等請求労働審判事件を終えて  熊本支部  石 黒 大 貴

一 事案の概要
 スリランカ人であるAさんは、二〇一七年四月、熊本のスリランカ料理レストランに採用され、調理・ホール業務を担当してきた。
 就職時、Aさんがスリランカ人経営者から月給一六万円を提示されたところ、実際に支給されたのは月額九万円であった。また、朝九時から夜一一時までの勤務を繰り返していたにもかかわらず、残業代は一切支給されなかった。さらには、Aさんはスリランカ人経営者にパスポートを取り上げられた上、粗末なアパートのワンルームに別のスリランカ人従業員と住み込みでほぼ休みなく働かされるという状況であった。
 体調を崩したことをきっかけに、Aさんは二〇一九年六月に退職し、これまで未払いであった賃金とパスポート取り上げ等を理由とする慰謝料を請求すべく、スリランカ人経営者に対し、二〇二〇年三月に熊本地方裁判所に労働審判を申し立てた。

二 審判の様子
 Aさんは毎月の給料九万円のみを手渡しで受け取っており、給与明細書すら渡されていなかった。また、レストランでは、タイムカード等によって従業員の労働時間を把握していなかったため、Aさんはメモ用紙に毎日の出退勤時間や出勤日を記録しており、これを元に時間外労働時間を割り出した。
 経営者から出てきた答弁書は、こちらの主張のすべてを否認するものであり、給料の未払いについては、Aさんのサインとは形状の異なる領収証が証拠として出された。さらに、残業時間についても、仕込みや調理業務をほとんど行っていない等、Aさんを「嘘つき」呼ばわりする数名のスリランカ人関係者の陳述書を提出し、時間外労働は全くなかったことを主張した。
 これにより熊本のスリランカ人コミュニティを分断する事態となったため、「数」の力で対抗するしかないと考え、当時の常連客を対象に、Aさんの労働実態に関するアンケートを実施した。集まった五〇通以上のアンケートからは、Aさんが早朝に通勤する姿や買い出しをする姿、調理をしている姿、遅くまで店に残っている姿の多数の目撃証言を得ることができたのである。
 最終的には、裁判所による説得もあり、スリランカ人経営者からAさんに一〇〇万円の解決金を支払うことで調停が成立した。
 この事件をきっかけに、日本人だけではなく外国人経営者からも搾取される外国人労働者が多いということを知るに至った。

三 通訳人問題
 Aさんは日本語が堪能ではなかったため、労働審判では、母語であるシンハラ語の通訳人をつけることが必須であった。申し立ての際には、日本語の流暢なスリランカ人の知人に通訳について内諾を得ていた。
 ところが、労働審判を申し立てた後に、諸事情を理由に通訳を断られるという事態が生じたため、急遽、なんとか別のシンハラ語話者を探し出し、英語とシンハラ語の二言語で審判を乗り切ることができた。
 このように、熊本のような地方都市では、少数言語の通訳人を探し出すのは至難の技である。今回でいえば、裁判所に法廷通訳を要請することもできたのかもしれないが、遠方から通訳人を連れてこなければならないことから、審判費用が高額になってしまうのだ。
 この労働審判を終えて痛感したのは、法定通訳に限られない、日本における「司法通訳人」の不足であった。
 法律相談やADR、接見など、司法の現場で活躍する通訳人への高まるニーズに比して、その地位はまだ確立したものとは言えない。
 また、司法通訳人は、ニュアンスを伝えればよいというものではなく、法律用語の中で、一言一句正確に通訳する能力が求められる。
 この問題を肌で感じ取ることができ、「司法通訳人」の育成と併せて、国家資格化が必要であると思うに至った。
 外国人と司法の間にある分厚い言語の壁を打ち破るため、今後もこの問題に意識的に取り組んでいきたい。

 

 

*大阪支部特集

「官僚制改革の行政法理論」を読む(日本評論社 晴山一穂ほか編著)大阪支部  河 村   学

 本書は、晴山一穂先生の古希を記念するものとして企画されたものであり、当代の民主的行政法学者ばかりでなく、行政法に関わるさまざまな裁判闘争をたたかい、その中で晴山先生に意見書を書いていただくなどお世話になった弁護士が分担執筆したと聞いている(執筆者には、加藤健次、城塚健之、尾林芳匡各団員がいる)。
 このような成り立ちと性格からして、本書は、その表題や、その値段からは容易に想像し難いが、極めて実践的な書物である。政治運動、住民運動、そして裁判闘争などで行政法の理解が必要となる場面は少なくないが、その理解が不足し又は浅いため、政治家や裁判官などが口にする行政万能論に対抗できないことが間々ある。本書は、個々の行政領域ごとに行政法の諸問題を根本から捉えて分析・検討し、市民・住民の権利と暮らしを発展させるため、理論的にも、実践的にも強くなろうとするものである。

 団員にとってなじみやすい論考としては、「国家公務員の権利闘争と憲法判例」(加藤健次)、「自治体の労働組合への組合事務所供与」(城塚健之)がある。これらは苦手意識を持つ人が多い公務員・公務員組合の権利を、行政法の観点から分析し、運動の足がかりを提供するものである。また、「自治体の政治的中立性と住民の権利」(榊原秀訓)は、国・自治体が「政治的中立性」を理由に公の施設、行政財産の利用制限等を行うことに対し、住民の権利を守るための行政法解釈の観点を示すものである。どれも、昨今、事件に直面することが多いが、まとまって書かれた文章があまりないものである。
 辺野古基地問題に関連して「辺野古新基地建設問題が提起する公法学の諸問題」(紙野健二)、「行政処分の撤回における適法性と公共性」(岡田正則)、「行政争訟における『固有の資格』概念の一考察」(徳田博人)の三つの論考がある。不当な裁判がなされていると感覚的に思っている人は多いが、どのような理屈で「不当な裁判」がなされているのか知る人は多くない。これらの論考は、裁判所が行政法をどう扱っているかを理解するのに最適である。
 行政分野の展開と課題については、個別的に、公共調達(公契約法・条例などの関係)、国立大学改革、行政委員会(農業委員会制度など)、地域運営組織、地域福祉、社会保障における相談・援助行政、学校警察連携制度、環境行政に関する論考がある。網羅的なものではなく、現在、政府が改変を推し進めているテーマをピックアップして深く分析し展望を伝える論考になっている。
  これらの地域行政の方向性とこれに対抗するたたかいを俯瞰的に示したものが「公務の民営化と行政法」(尾林芳匡)の論考であり、さらに将来的な構想への対抗を示すものとして「『自治体戦略二〇四〇構想』と行政サービスの民営化」(萩原聡央)の論考がある。関連する「公有財産活用」「財産管理法制度」の各論考は、公的資産が大規模に民間の儲けの場に提供されている実態を明らかにしている。
 住民運動を掘り起こし、その運動を支えるためには、こうした行政の動きを知らないでは済まされない。

 以上のように、本書は実践の書であるが、さらに政治と行政の関係、官僚制の変容と制御、法治主義との関係に関する諸論考があり、表層で起きている事象に通底する行政法理論の課題と展望も示している。中には、かなり難解で筆者には理解困難な論考もあったが、官僚制が変容し内閣に従属していく過程や、基本法が多用され法治主義主義が希薄化する状況など、要求運動や立法運動にも役立つ「行政の見方」を提供してくれている。
 最後に、本書において是非とも読んでいただきたいのは「問われる最高裁の思考様式」(晴山一穂)の論考である。権力の擁護者としての最高裁の政治的本質、「最高裁の見方」を端的に示したものであり、最高裁に向けた取り組みにも、個々の最高裁判決の評価を適切に行うためにも有用である(近時の旧労契法二〇条の各最高裁判決の評価なども本論考の観点から行われるべきである)。

 

 

-・-追 悼-・-

佐藤欣哉先生さようなら  山形支部  髙 橋 敬 一

 山形支部の佐藤欣哉先生が二〇二〇年一〇月一七日亡くなられました。七四歳でした。本当に残念でなりません。先生は、小説「橋のない川」に啓発され革新の立場に立つ弁護士の道を歩むことを決意し、弁護士生活を大阪の正森誠二法律事務所(現、きづがわ共同法律事務所)から始めました。先生の出身は、山形県北部の余目町(あまるめまち、現、庄内町)ですが、一九八〇年に山形県に戻るまで大阪で「窓口一本化」事件や大阪空港公害訴訟弁護団に加わって活躍し、一九七八年には団大阪支部事務局長を務めました。
 山形に戻り山形市に事務所を構えてからも一貫して平和、民主主義、自由と人権を守る中心として活躍し、団山形支部支部長を務めたり、亡くなるまで日本国民救援会山形県本部の会長でもありました。
 先生が山形に戻って直ちに取り組んだのが、政官財が癒着する腐敗構造から発生した蔵王県境事件でした。これは山形県と宮城県の県境が移動され一民間小企業が大きな損害を受け国を相手に損害賠償を求めた事件で、代理人がなく眠っていた事件を引き継ぎ、一審では敗訴したものの、控訴審で劇的な逆転勝訴を得ました。また、山形・新潟県境の小国町でイワナ養殖場の水源地のブナ原生林を伐採しようとする国・営林署を相手にブナ原生林伐採禁止訴訟(イワナ裁判)を提訴し、長期の裁判を経てブナ原生林を守る和解終結となりました。この裁判中には、山でゼンマイ取りをしていた原告本人が熊に襲われ重傷を負いながら大声で熊を撃退し命を守り、さらには先生に胃がんが発見され胃の全摘手術を受ける事態にもなりました。
 先生は、山形交通過労死裁判など過労死問題、医療過誤事件にも取り組み、多数の労働事件も担当し、大規模林道反対運動を行ったことを理由に不当配転となった町職員の人事委員会闘争など、自然保護運動にも強い関心を持って取り組みました。
 一九九五年には、市民オンブズマン山形県会議を設立し、食糧費による官官接待、カラ出張の追求から始まり、先生を中心に行政の違法不当を追求するさまざまな住民訴訟を行い、要綱による情報公開で全国でも最下位の山形県の情報公開制度の改善に取り組んできました。また、情報公開の費用などは市民組織の市民オンブズマン・サポート山形から支援を受けていますが、サポート山形の共同代表は先生の奥様の匡子さんで、ご夫婦で市民運動の中心を担っていました。ちなみに、京都出身の匡子さんのほうが山形にしっかりと根を下ろし幅広い人脈があり、有り体に言えば先生が匡子さんに叱咤激励される関係だったかもしれません。
 先生は、弁護士に関連する活動だけでなく、「映社会」と称して若者と映画を鑑賞して考える会を実践し、野球や相撲にも詳しく、県内の百名山を登山し、また、囲碁を趣味とし、性格が現れるのか必ず壮絶な戦いの囲碁になったものでした。
 先生は本当に小柄で、スキーをした時のこと、リフトに乗る際に係員が先生に「子ども用の券があるんだよ」と教えてくれたのでした。先生を見て子どもが大人用の券を買ったものと思ったのでしょう。ことほど左様に、先生は、小柄で、しかも胃の全摘でとても小食となり、体力の蓄えが少なく、先生は、当初、オリンピックの池江璃花子さんと同じような病気なんだけど、それよりは軽いと言ってましたが、池江さんと同じような体力があればこの難病を克服できていたのではないかと残念でたまりません。コロナ感染症の流行により今年四月から入院している先生とご家族も面会が不自由な中での闘病生活でしたが、メールで係争中の住民訴訟について我々を指導し、最後まで民主主義と人権を守る弁護士としての人生を歩み、常にわれわれの人生の模範、指導者でした。心からご冥福をお祈り申し上げます。

 

 

熱血「仕事人」佐藤欣哉団員を偲ぶ  長野県支部  武 田 芳 彦

出会い
 私は、佐藤欣哉団員を「欣哉くん」と呼んだ。彼は私のことを「タケダさん」と呼んだ。
 初めて会ったのは、一九七〇年四月、司法研修所二四期一組の教室。小柄で「紅顔の美少年」だった。キビキビと颯爽と机の間を動き回っていた。
 明折な頭脳とよく通る声で教官の質問にも的確に答えていたから、クラスの中でも一目置かれていた。私は教官と目を合わさないようにいつも下を向いていた。
 欣哉くんは、青法協活動でも中心で活動した。福島裁判官事件、任官拒否、再任拒否、修習生罷免という司法反動の中でやるべきことはいくらでもあった。彼はここでも熱弁を振るい、走り回った。熱血漢であった。
 彼の修習地は奈良だったから、ある時「息抜きに奈良見物に来たら」と誘われて行ったら、「ゴメン、オルグにいくことになった」と言われ、そのまま四国に連れて行かれた。欣哉くんは与えられた任務はまっすぐにやり遂げた。
 修習を終えて彼は大阪の正森成二法律事務所に、私は長野中央法律事務所に入所して一歩を踏み出した。
 その後、彼と私は、団の五月集会と総会では必ず顔を合わせた。「仕事人」
 欣哉くんは話好きである。話すことが山ほどあるらしく、会うたびに「タケダさん。あのね」のあとは堰を切ったかのように言葉が飛び出した。
 いま抱えている事件が面白くてしょうがない様子で、あら筋から成果まで講談師まがいに上手に話す。
 私は無口だからよい聞き手だったと思う。合の手を入れて感心したり誉めたりすると増々しゃべりが冴える。解同事件も大阪空港訴訟も、大阪の偉大な先輩たちの姿を織り込みながら面白く話す。そして、自分の話に酔ってしまい目の周りをクシャクシャにして笑うのである。欣哉くんは仕事が大好きで根っからの「仕事人」だったのだとつくづく思う。趣味の話は聞かなかった。彼の趣味は仕事だったから当然か。
 私は欣哉くんから誉められたという記憶がない。一つだけあった。欣哉くんの故郷の山鳥海山は、コースタイムが約一一時間で日帰りできるが、ちょっときつい。秋田での総会で欣哉くんに登って来たと話したら、「えっ、あそこ日帰りでか?」と目を丸くして「そりゃすごい。僕は前の日の朝出て、翌日の夕方下りるのがやっとだ」と感心してくれた。私はやっと一矢を報いたと思った。   
 欣哉くんが山形に戻って、私は正直嬉しかった。大阪で修業を終えて帰郷したのだと。
 その欣哉くんが帰郷して打ち立てた金字塔はなんと言っても「蔵王県境移動事件」だろう。
 先行する刑事事件で県境の移動はないとされ、山形県を支配するメディア・交通企業と県、国が結託した大事件で、既に一七年間が経過していると聞けば誰も尻込みしてしまう。これを欣哉くんは引き受けた。三四歳のときだった。そして一五年かけて勝利に導いた。膨大な記録や資料をよく読み込んだと思う。一審敗訴、二審で逆転して勝訴確定。まさに「必殺仕事人」の仕事だ。
 欣哉くんはこの事件を著書にまとめた。そのとき、欣哉くんは私と柳沢尚武団員(同期同クラスである)に出版することを報告し、本の表題は「蔵王県境移動裁判の記録」だとか何とか言った。「そんな題じゃ売れっこない」と二人で大反対して変えさせた経緯がある。その結果、「蔵王県境が動く」となった。その成果かどうかは知らないが、全国紙にも取り上げられ、売れ行き好調で入手が難しくなり増刷しているという連絡があった。 

「二四期有志の会」の集い
 福井の吉川嘉和団員は一九九七年八月一日、五三歳で亡くなったが、その前年の九月、闘病しながらなお活動を続ける同君を励ます会が芦原温泉で開かれた。このときの呼びかけ人が欣哉くんと私だった。参加者は吉川夫人と二四期の一二名。いずれも青法協運動の仲間たちだった。久々に顔を見て酒を酌み、語らいあった。既に余命を悟っていた吉川君の来し方の話は、我々を逆に励まし勇気をくれた。事実上の「別れの会」になった、この集いを機に、私は同期の集いを継続したいと思った。
 そこで、次は、当時病み上がりだった福島の鵜川隆明君と欣哉くんを励ます会をやろうということになった。私がせっついたがみんな日々の業務に追われて機運が熟さなかった。
 時が流れて一二年。この間「大丈夫だ」と言っていた鵜川君が世を去った。それも契機になったのか、欣哉くんと江森民夫君(同期である)が相談して「二四期有志の会」の集いが始まった。
 二〇一〇年六月、欣哉くんの企画で山形に八名の仲間が集まった。銀山温泉、最上川船下り、湯野浜温泉と楽しい思い出が残った。
 その後は、長野、京都、福岡、札幌、箱根とほぼ毎年、地元幹事が担当して続いている。
 欣哉くんは皆勤賞で昨年の箱根の集いにも元気に参加して、例の如く仕事の話を一生懸命に話した。
 今年は二巡目で欣哉くんの担当だった。もう構想がまとまっているようで意気込みが高かった。 

そして別れ
 昨年一〇月二〇日電話が来た。「タケダさん、ボクね、骨髄異形成症候群だと分かった。池江璃花子さんと同じ病気。白血病に進行する可能性がある。『有志の会』の担当を代わって長野でやって欲しい」。私は無論快諾したが、心は焦った。
 年が明けて一月、私は胸の騒ぎを押さえるために欣哉くんに会おうと考えた。「有志の会」の引継ぎと見舞いを兼ねて、山形に向かった。
 事務所に迎えてくれた欣哉くんは、一まわり小さくなった気がした。しかし、思ったよりは元気で、あの例のしゃべりも衰えていなかった。病状は白血病に進行し、明日入院して治療方針を確認する段階だと話した。
 お気に入りだという事務所の中を案内しながら、話は思い出話から仕事や活動の話と尽きることはなかった。入院治療も受けながらまだ週の半分は仕事をしているというので、私は彼の手から訟廷日誌を取り上げて見た。私の一〇年前と同じく予定がびっしりだった。欣哉くんを怒ったことなどこれまでないが、さすがに私も諫めた。彼は「分かった。これからはそうするよ」と答えてちょっと笑った。
 私はそれから「有志の会」の集いの準備に入った。五月二五日・二六日とし、志賀高原から軽井沢への観光も取り入れた。欣哉くんからは「一週間程度入院したが、体調の回復はまだ見えない。ずっと寝込んでいるわけではなく、持ち事件は休み休みしながら処理している。残念だが参加は見合わせる」との返事がきた。参加者は一七名に上ったが、三月下旬新型コロナのため無期延期となってしまった。

終わりに
 もう随分昔のことになるが、東北で日弁連の人権大会があるので有志の会を開いたらどうかと手紙をだしたところ、えらく遅くなって返事がきた。本業も活動も多忙であるとしたうえで「どうしてこんなに私はいそがしいのか。休日も朝から晩までほとんど休みなしです。しかし、平日の夜はほぼ毎日家族と一緒に蔵王の露天風呂に入りに行き、映画も月一、二本は見に行き、監督や俳優さんとも交流しています」という近況報告であった。
 依頼者や市民のために仕事一筋に全身を投じているのだと思った。
 仕事そのものが好きで、そのための苦労など達成する楽しみに変えてしまう人なんだと思った。
 初めて会って五〇年。弁護士として団員としてよく働く姿を見せてもらって、よく励ましてもらった。一生懸命、力の限り生きてきた姿は亡くなっても私たちを力づけてくれる。欣哉くん、ありがとう。
 今年はひどい年だった。有志の会の仲間、中野新弁護士、村野守義君、そして欣哉くんの三人を失った。
 えらく淋しくなってしまったが、しっかり追悼しながら元気を出そう。

 

 

佐藤欣哉弁護士を偲ぶ-主に大阪・正森成二法律事務所時代について  大阪支部  小 林 保 夫

  佐藤欣哉弁護士の告別式には、同弁護士の逝去を悼み六〇〇人を数える人たちが参列したという。同弁護士が、古風に言えば、「民衆の弁護士」としていかに広汎な人や団体から敬愛されていたかを示すものであろう。

 私は、団の事務局から、佐藤弁護士について、追悼文を書くようにとの依頼を受けて、あらためて同弁護士の大阪時代、山形時代の活動を追った。 
 そして、同弁護士の古希に際しての団の表彰において、山形支部の三浦さんが、同弁護士を「小さな巨人」と紹介しているのをまことに宜なるかなと深く共感したのである。
  実際、同弁護士は、大阪時代に引き続き、山形で法律事務所(現在「弁護士法人あかつき佐藤欣哉法律事務所」)を開き縦横の活動を展開していた。しかし、このたび、ついに再起を果たすことが叶わなかった病の床についてからも資料を病室に持ち込んで控訴趣意書の作成に懸命だったと聞く。
 同弁護士が、生涯にわたって「いつでもどこでも民主主義を!」を標榜してたたかい、次々に襲った胃がん、非結核性抗酸菌症等の病を克服しながら、最後までみずから「気力が萎えることはほとんどなかった」と語ることが出来た気概には、ただただ頭が下がる思いを禁ずることができない(同弁護士の古希表彰に寄せた「七〇歳にして惑う」参照)。

 佐藤弁護士は、一九七二年四月、二五歳で、大阪の正森成二法律事務所(現「きづがわ共同法律事務所」)の一員となり、私たちの同僚として弁護士活動を始めることになった。そして、その後一九八〇年三月、郷里山形に戻るまでまで八年間にわたり大阪での弁護士活動に献身することになった。
 当時、同事務所の所長であった正森成二は、とりわけ厳しい状況にあった日本共産党大阪一区の衆議院の候補者として「大阪が変われば日本が変わる」をキャッチフレーズに、日夜を分かたぬ活動を展開していた。そのため、佐藤弁護士らの新人も、日常的に、地域の民主商工会、借地借家人組合、労働組合などの諸団体・組織などとともに事件活動に従事するとともに、選挙活動にも加わる日々であった。

 佐藤弁護士は、大阪時代に多くの著名な事件に関わったが、ある手記において、とりわけ「窓口一本化違法確認訴訟」に代表される部落解放同盟による行政の私物化、暴力等とのたたかい、大阪国際空港をめぐる騒音被害とのたたかいを、「八年間継続的に取り組み、私の弁護士としての原点となった事件」であると言う。
 実際、解同の理論や運動の誤りとの現場及び裁判でのたたかいは、その後の佐藤弁護士の弁護士としてのあり方を規定する深刻な意味をもったであろう。
 正森成二法律事務所が主として活動していた地域は大阪市の南西地域であったが、そのうち、とりわけ西成、浪速の同和地区は、部落解放同盟(以下「解同」)の拠点であり、解同が、行政を支配・私物化し、また無法・暴力状態を惹起していた。
  そのため、同和地区住民が同和施策を受けるためには、部落解放同盟が支配する同促協の推薦が必要不可欠であり、結局解同の運動に忠誠を求められることになっていた。このような行政の窓口一本化の誤り、解同の理論や路線の誤りを指摘して、その是正を求める訴訟が提起され、一審敗訴ののち、控訴審において逆転勝利判決を得、行政の窓口一本化は基本的に打ち破られた。佐藤弁護士は、石川元也弁護士を団長とするこの弁護団の事務局長ととして、時には、解同による暴力による身の危険にさらされたりしながら、七年余にわたりたたかい勝利したのである。
 佐藤弁護士は、この裁判闘争から、正義、民主主義のたたかいについて、その後の弁護士としての生涯にわたる教訓を得たに違いない。
 大阪空港騒音被害をめぐるたたかいについて、同弁護士は、「弁護士になるとすぐに参加することになった。 私は弁護団の末席にいた感じであったが、高裁段階では、国の飛行機の騒音対策の実態、それが住民被害の軽減につながっていないことの分析を担当した。大阪にいた八年間の五月のゴールデンウイークは、いつも弁護団会議に充てられて休むことなく、この弁護団の努力、その取り組む姿勢にはいつも教えられていた。」と回想する。
 その他、千日デパートビル火災損害賠償請求事件、全港湾築港支部に対する刑事弾圧事件、松下電器思想差別事件などの著名事件のほか、「一〇〇件を超える持ち事件を抱えて大阪の裁判所の廊下を走り、地域を回っていた感じであった。」という。
 この間、同弁護士は、自由法曹団大阪支部の事務局長、革新大阪府政を勧めた黒田知事の選挙事務所に詰める経験を持った。

 佐藤弁護士の山形における活動、国や自治体相手の国家賠償請求訴訟、行政訴訟、住民訴訟、官公にわたる労働事件、医療過誤など広範な分野をにわたる裁判のたたかい、国民救援会会長、市民オンブズマン山形県会議など市民運動とのかかわりについての詳細は、別の筆者に譲るが、これらのたたかいも大阪における同弁護士のたたかいと一貫する精神・気概・献身の所産であったことは言うまでもなかろう。

 

 

大杉谷から大台ヶ原へ(1)  神奈川支部  中 野 直 樹

志摩賢島・五月集会
 〇二年の志摩五月集会。私が自由法曹団本部事務局長として初めて臨んだ全国会議だった。宇賀神直団長、篠原義仁幹事長時代だった。
 六月一一日付けの団通信に私の報告文書が載っている。これをみると、団三重支部・石坂俊雄団員歓迎のあいさつ、当時三重弁護士会会長だった伊藤誠基団員から来賓あいさつの後、浅井基文明治学院大学教授の講演「アメリカのアジア戦略と有事法制」が企画されていた。
 プレ企画では、新人学習会に地元支部の村田正人団員、事務局員交流会に、去る七月に逝去された坂本修団員が講師を務められた。この二つに加え、新メニューとして「これからの自由法曹団を考える」を開催した(七三人参加)。この新企画は総会と五月集会のプレ企画として定着し、長寿企画となった。
 全体参加者はなんと五二六名(弁護士三二五名、事務局一八六名、ほか一五名)で過去三番目の多さと記されている。近年、毎回のように参加者集めに苦労されていることとは隔世の感がある。

下見時の約束
 五月集会に先立ち、事務局長と専従事務局は会場の現地に下見に出向き、会場責任者、地元支部の役員、法律事務所の事務局員、旅行会社と顔合わせをして、会場設営の仕方や受付の設置、資料の袋詰め作業等の五月集会を支える裏方業務について打ち合わせをする。夕食は、本番の料理の選定の場でもある。
 この年は二月二七日~二八日が調査旅行だった。二七日の夕食時に三重合同法律事務所の石坂弁護士、事務局長に残っていただき一緒に食事をした。その席で、私が大台ヶ原の話題を出したところ、現地人から、大杉谷の滝見登山コースが絶賛・推奨された。おまけに石坂さんの同行というオプションも提案され、五月集会後企画の決まりとなった。
 というわけで、五月集会の二日目の終了後、私は石坂さんの車に乗り込み、おかげ横町ぶらり、志摩マリンランドのマンボウ水族館を楽しんだ後、志摩半島から紀伊半島を南西方向に進み、奥伊勢の宮川村に向かった。

国立公園のはしご
 五月集会の会場となったところは伊勢志摩国立公園。石坂さんの車でめざしているところは吉野熊野国立公園。三重県の南端は熊野市、その北が尾鷲市。〇四年に世界遺産登録された熊野古道は熊野本宮大社、熊野那智大社、熊野速玉大社への参詣道である。この三社はすべて和歌山県にある。もともと和歌山県の南部と三重県の南部は古来、熊野と呼ばれてきた一帯の地らしい。行政区とすると、牟婁という書くのも読むのも難解な漢字名の地だった。明治期に和歌山県と三重県に分かれたときに、和歌山県側に東牟婁郡、西牟婁郡、三重県側に南牟婁郡、北牟婁郡と分断された。そして五四年、三重県側の南牟婁郡に市ができ、このときに熊野市というブランド名を付けた。これに対し、和歌山県側から反対意見が出されたという。さもありなんである。
 三重県側の尾鷲市の北側に北牟婁郡海山町がある。「みやま」と呼ぶ。六三年、中部電力がこの町に原発計画を発表した。その後誘致派と反対派の長いたたかいとなり、〇一年、誘致派が仕掛けた住民投票が実施された。その結果は、誘致反対票の圧勝。この海山町は、五四年の昭和の合併で誕生し、〇五年平成の大合併で紀北町となり、歴史上の名となった。

奥伊勢フォレストピア・宮川山荘の宵話
 石坂さんの車が今夜の宿についた。石坂さんはこの施設を運営する宮川村の顧問をされているとのことだった。宮川村は後の〇五年平成合併で大台町になった。
 石坂さんは七四年弁護士登録。石坂さんは、団通信八月一一日号に、滋賀支部の玉木昌美団員を偲ぶ一文を寄せておられる。玉木団員とはマラソン仲間として交流されてきたと記されている。
 ここに来る道すがらそして夕食のときに、石坂さんの遊びをたっぷりと聴いた。石坂さんは、水泳・自転車レース・長距離走がセットとなる鉄人レース(トライアスロン)愛好者だった。オリンピック標準でスイミング(一・五㎞)・バイク(四〇㎞)・ラン(一〇㎞)の計五一・五㎞のぞっとするような耐久レースである。距離はいろんなバリエーションがあるとのことだが、石坂さんは全国で企画される大会に参加しているそうだ。石坂さんがえらいところは、持久力を維持・向上させるために、平日の夜も酒を飲まないでプールに通うなどの日常的な練習を積み重ねていること。冬はクロスカントリー(走るスキー)レースに出ているとも言っておられた。
 三重合同法律事務所のHPの事務所コラム欄を開くと、改めて驚いた。二〇二〇年元旦ニュースで、石坂さんは「今年は、堅い話はやめ、遊びの話をします。私は、年一〇数回は、クロスカントリー、スキー、ハーフマラソン、トライアスロン、トレイルラン、自転車のロングライド大会等に出ております。」と披瀝している。トレイルランは山中を走るレース。自転車のロングライドは、自転車で一〇〇㎞以上走ること。石坂さんのアウトドア遊びは拡張というか、トライアスロンを構成するバイクとランの独自の追求をされているようだ。
 石坂さんは、「このような大会に出ることが体力を維持するために必要なのです。それは、完走をするためには、それなりのトレーニングをしない限り不可能であるからです。」と記している。
 翌日は、この石坂さんの伴歩で、大杉谷を歩く。(続く)

 

 

 

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