第1731号 2 / 11

カテゴリ:団通信

【今号の内容】

*宮崎県支部特集*
●逃げずに頑張っています!!  西田 隆二

●救済の先が見えた建設アスベスト京都 訴訟で最高裁勝利決定  村山 晃

●核兵器が人類を絶滅すると考えることは「妄想」なのか―ギュンター・アンダース批判への異議―  大久保 賢一


 

*宮崎県支部特集*

逃げずに頑張っています!!

 宮崎県支部  西 田 隆 二

 私は、一年目から宮崎で団員として仕事を続けている。小賀坂新幹事長とは同期同クラスであり、先日の就任挨拶にエールを送る意味で、地方での頑張りを発信してみたい。
 地方にいると、とにかくありとあらゆる案件が舞い込んでくる。特に、団事務所には、なかなか引き受け手の無い事件、集団事件等、「難事件」(決して事件の筋が悪いという意味ではなく、通常以上に、時間と労力、情熱が必要という意味)が多種多様だ。現在、私が実働として関わっている案件だけでも次のような「難事件」がある。
①航空自衛隊新田原基地爆音訴訟
 全国弁護団のサポートを得ながら、二〇一七年一二月に第一次訴訟を提訴し、二〇二〇年一二月に結審した。(原告約一八〇名)
②存在しないDVを理由とした戸籍附票非開示決定取消訴訟
 一審は訴えを認容し義務付けまで認めた。逆に二審は敗訴。上告準備中。
③JA不正融資損害賠償請求代表訴訟
 一審、二審とも、融資の一部について裁量権の濫用と認め一月に勝訴確定。
④九州保健福祉大学助教不当雇止め仮処分、地位確認訴訟等
 地位保全の仮処分が認められ現在本案係属中。その発端となったセクハラ事件の損害賠償請求事件も係属中。
⑤宮崎国際大学外国人教諭不当賃金カット事件、同事件を契機とした雇止め事件
 外国人であることから期限付き雇用となっており、六〇歳になったからという理由のみで賃金を二割カットされた事件。一審判決待ち。
 組合員でこの事件を支援していた教諭が従前なんら指摘の無かった理由で一方的な雇止めを受けたことから地位保全、地位確認訴訟へ発展。
⑥ファミマ・フランチャイズ契約不当更新拒絶
 親の代から数えて二五年、ファミマの経営を続けてきたオーナーが、コロナで売り上げが下がっているなどこじつけの理由で契約更新拒絶された事件。同オーナーは、コンビニユニオンの副委員長も務めており、恣意的な更新拒絶であることは明白。
⑦宮崎三菱槙峰鉱山中国人強制連行・強制労働事件和解記念碑事業
 当地でも第二次世界大戦中に強制連行された中国人を強制労働させた鉱山があり、国と三菱を相手に提訴し、最高裁まで闘った。その後、全国レベルで、三菱マテリアルとの判決後の和解が成立したことから、不戦の誓いを表明するために和解記念事業として記念碑建立の準備作業を行っている。 
⑧過労死・過労自死
 主任として取り組んでいるのが、「陸上自衛隊自衛官過労自死事件」、「養護福祉施設内でのパワハラ自死事件」、「高校教諭過労脳炎発症事件」、「新人県庁職員過労自死事件」、「牛飼育牧場内新人労働者過労自死事件」、「SE過労自死損害賠償請求事件」、「ガラス工場内新人労働者過労自死事件」、その他、現在公表できないが、国賠を準備中の案件が一件ある。  
⑨防衛大学校内いじめ国家賠償等請求事件
 控訴審から参加したが、安全配慮義務の前提となる予見可能性について、学生に具体的な危険が発生する可能性があると認められる場合には、具体的な措置を講ずる義務が認められるとして、二〇二〇年一二月九日、逆転勝訴した。
 いずれの事件も、団、そして団に近い弁護士と弁護団を組んでとりくんでいる。また、それぞれの事件に当事者の熱い思いとこれを支える支援の輪がある。自衛隊基地爆音訴訟では、田舎町でしがらみのある中、約一八〇名の原告が集まり、平和団体や民主団体に支援してもらっており、運動の輪が広がっている。労働事件では労働組合の方々に協力をもらい、職場での支援の輪も広げている。過労死事件では、東九州過労死を考える家族の会を立ち上げ、遺族を中心に相互の裁判支援や交流を行っている。一年に一回、厚労省主催の過労死防止月間のシンポジウムの企画運営もしている。運動の広がりも意識しているつもりだ。
 正直アップアップであり、弁護士としての活動水準にも自信はない。しかし求められる以上逃げられない。これからも厄介な「難事件」を、小賀坂流に、「ロック」な気分で、「汗かき」、「熱く」取り組んでいきたいと考えている。

 

救済の先が見えた
建設アスベスト京都訴訟で最高裁勝利決定

                        京都支部  村 山   晃

 二年半前、大阪高裁が、原告二五名全員を救済する画期的判決を言い渡した建設アスベスト京都訴訟で、今般、最高裁判所が、国と企業が申し立てた上告受理申立について、一人の原告(屋外作業者)を除いて、「受理しない」という決定を行いました。二四名について、救済が確定しました。
 先行する訴訟の二件の最高裁決定から、一定の予想はできましたが、ここまで鮮やかに「不受理決定」を出すことは、予想を超えるものでした。これで、被害者救済の道筋が、はっきりしてきたと断言することができるものとなっています。
 建設アスベスト事件は、現在、五つの高裁判決が最高裁に係属しており、うち四件が係属している第一小法廷では、昨年秋から神奈川ルート、東京ルートの決定があり、京都ルートが三件目で、近日大阪ルートの決定がある予定です。順次弁論も開かれており、判決は、四つの事件が同じ時期(五月か六月頃)に言い渡されるものと思われます。
 先日の東京ルートの決定で、最大の争点の一つであった一人親方も含めて、国の責任が全面的に認められました。それに引き続いて、今般の決定でも、その判断は当然引き継がれました。そのうえに、今般の決定は、困難だった建材メーカーについての共同不法行為責任に関する大阪高裁判決を全面的に認めたのです。そのことの意義は計り知れないほど大きいと言えます。
 国と企業に対し広く責任を認めた大阪高裁判決について、屋外作業だけを除いてこれを容認し、確定させたことにより、国と建材メーカーがともに責任を負うべきことが司法上確定をしました。「受理しない」というたった二枚の紙きれです。しかし、地裁・高裁で積み上げてきた事実と判断は、確定したのです。
 被害者救済の道筋がついたことは本当に良かったと思います。ただ、今回の決定で直接救済されている被害者は二四名にしかすぎません。京都でも現在審理が続いている多くの被害者がいます。今後、まだまだ増えていくのです。
 また、最高裁判所が、国や企業の責任について、どのような規範を立て、判断の枠組みを示すのかも、判決を待つしかありません。
 もっとも、国も建材メーカーも、被害者救済を行うべき責任のあることが明らかにされた今、私たちは、国と建材メーカーに全体的な解決=被害者救済のための基金制度の創設を、強く迫っていく必要があります。
 また、今の最高裁に、このような判断をさせた力についても、確信を深めていくことができればと思っています。

 

核兵器が人類を絶滅すると考えることは「妄想」なのか
―ギュンター・アンダース批判への異議―

                        埼玉支部  大 久 保  賢 一

核兵器をめぐる意見
 核兵器をめぐってはいろいろな意見がある。「核と人類は共存できない」から一刻も早く廃絶すべきだという意見(A説)。「核兵器は安全保障環境を安定させるための道具」であるからなくすなんてとんでもないという意見(B説)。核兵器が人類を絶滅させるなどと考えることは「妄想」だという意見(C説)。ヒロシマ・ナガサキ・フクシマという現実があるにもかかわらず「次なる破局は起きない」ということは自分が「白痴」であると告白するようなものだという意見(D説)などである。もちろん、そんなことに関係も興味もないという「意見」もあるし、難しくてわからないという「意見」もある。私は、A説とD説を支持する人である。ここでは、核兵器が人類を絶滅すると考えることは「妄想」だという意見を紹介して、少しだけコメントすることにする。ギュンター・アンダースという人
 まず前提を示しておく。一九〇二年に生まれ、一九九二年に亡くなったギュンター・アンダースという人がいる。私は、彼が、人間が核兵器を発明し、それを使用したことを理由として、「われわれは死を免れぬ種族=人類という状態から、『絶滅危惧種』の状態へと移ってしまった」と指摘していたことを知ってから、彼に興味を覚えている。「核持って絶滅危惧種仲間入り」という私のお気に入りの川柳の精神を一九六〇年に先取りしていることに感動したからである※ⅰ。 
 哲学者の戸谷洋志は「アンダースは、広島・長崎への核攻撃に大きな衝撃を受け、ここから現代社会が直面している脅威を多面的に分析し、優れた著作を残した」と紹介している※ⅱ。
 アンダースは、一九五八年、日本原水協の招待に応じて、原水禁世界大会に参加している。その時、広島の農家のおばあさんと腕を組んで炎天下を行進している※ⅲ。そして、ヨーロッパにおける反核運動のリーダーの一人であった※ⅳ。付け加えておくと、彼は被爆者と交流しただけではなく、広島への原爆投下を指示したパイロットであるクロード・イーザリーとも交流している。イーザリーは、自分の行為に恐れおののき懺悔したため、精神を病んでいるとして軍の病院に収容された人であるが、アンダースはそのイーザリーと文通したのである※ⅴ。彼は哲学の学位を持っていただけではなく、核兵器反対運動の活動家でもあった。「行動する哲学者」といえるだろう。
ギュンターの主張
 彼の意見はこうである。
 今やわれわれ全部、つまり「人類」全体が、死の恐怖に直面している。ここでいう「人類」は、単に、今日の人類だけではなく、現在という時間的制約を超えた、過去および未来の人類も意味している。なぜならば、今日の人類が全滅してしまえば、同時に、過去および未来の人類も消滅してしまうからである。
 原水爆の問題は、われわれに関係のあることなのだ。なぜなら、原水爆の標的にわれわれだってなるかもしれないからだ。原水爆の問題は特定の人々の専門分野に属しているという主張は間違っている。なぜならば、われわれは皆ひとしく、この問題について人間として専門家的特権など持っていないからだ。万人は平等に、可能なる終末のふちに立っている。だからこそ、いかなる人も、この危険に対して警告するための、平等の権利と義務を持っているのだ。
 手段―目的という関係そのものを破壊してしまうような代物はもはや手段ではない。「原爆が単なる手段だ」などと言う詭弁に騙されるな。また、「もっぱら威嚇に使われるだけで、実際の使用を目的としていない」などとうまいごまかしをいう連中のことを信用してはならない。最後の最後まで使用されないために生産されたものなど、歴史上存在したことはない。
 原水爆の問題を戦術的見地からのみ論議しようとする一切の試みをボイコットせよ。自らが作り出したモノによって、自滅の脅威に人類が脅かされている本筋に引き戻せ。「政治的に現実性を欠いている」と嘲笑されても決してたじろぐな。現実性を欠いているのは、戦術的考察以外に考える能力のない輩だ。
 現存する原水爆や、その製造やその実験や貯蔵だけを対処として反対運動を続けるだけでは、十分ではない。われわれの目標は、その所有をやめるだけではなく、所有をしていても、絶対に使用はしないということでなければならない。
 原水爆の完全破棄という処置をもってしても、それは絶対かつ究極の保障たりえぬ。例え使用可能のチャンスが訪れようとも絶対に行使しないという決意を一瞬も捨てないことこそが真の保障である。
主張の整理
 以上は、彼の一九五九年七月二日付のイーザリー宛の手紙に添えられている「原子力時代の道徳綱領」の一部である※ⅵ。彼の主張を以下のように整理しておこう。
 まず第一に、原爆が手段―目的という関係を破壊してしまうので、われわれ全員が「終末のふち」に立っている。第二に、「原爆が手段だ」とか「もっぱら威嚇に使われるだけだ」などという詭弁や誤魔化しに騙されるな。第三に、「政治的に現実性を欠く」などといわれてもたじろぐな。そして、現存する核兵器を完全廃棄したとしても、油断するなということである。
 第一は、核兵器問題を「他人事」ではなく「自分事」として考えようという提案である。第二は、核兵器を安全保障の道具だとする核抑止論に対する根本的批判である。第三は、自滅の危機を無視する現実論にたじろぐなということである。これらの主張は、この「道徳綱領」から六〇年余たっている現在でも、そのまま通用する鋭い内容を含んでいる。そして、「現存する核兵器を完全廃棄したとしても油断するな」という主張は、人間は核兵器の知識と技術を持っているのだから、その復活にも備えよという警告である。核兵器廃絶条約という法規範の向こうにある問題提起である。いかにも哲学者らしい視点といえよう。
 なお、ここで確認しておきたいことは、アンダースの思考の底流にあるのは「現在貯蔵されている核兵器の潜在的暴力がすでに絶対的なものになっている」という認識である。だから彼が、最も強く警鐘を鳴らしたのは、核兵器使用が起きるのは、国家間戦争ではなく、技術的なエラーや想定外のアクシデントによって、言い換えれば、人間の自由意志では制御できない諸原因によって起こり得るということである※ⅶ。これは、ウィリアム・ペリーの「事故や間違いによる核戦争は、意図的に起こされるのと同様に致命的だ。どんな理由で始まろうが、米ロの核戦力の規模と致死性により、我々の文明は終わりを迎えうる」という指摘と共通する問題意識である※ⅷ。
アンダースへの評価
 戸谷洋志は、アンダースの「善良で勤勉な人々が、良心的に自分の仕事を全うすることによって、結果として核戦争が引き起こされる」とか、「核戦争は平穏さの中で起きる。まるで核戦争が起きる気配がないときにこそ、核戦争は引き起こされる」などという記述を好意的に紹介している。そして、「特筆すべきは、彼が被害者だけではなく、加害者とも対話を試み、関係性を構築しようとした点だ。彼の思想は立場を超えた他者との対話の必要性を雄弁に物語っている」と評している※ⅸ。
 佐藤嘉幸と田口卓臣は、アンダースの目には、一九五四年のビキニの水爆実験の時点でも一九七九年のスリーマイル島の原発事故後でも核の問題は一貫して「軽視された対象」と映っていたとしたうえで、「私たちはアンダースの考えに同意する。原発であろうと核兵器であろうと、どちらもひとしく廃絶しない限り、次なる核カタストロフィーの発生は十分に想定されるからである」としている※ⅹ。ちなみに、「次なる破局は起きない」と言うことは自分が「白痴」であると告白するようなものだとしているのはこの二人である。
 ところで、アンダースに対する評価は、以上のような好意的評価だけではない。國分功一郎は次のように評している※ⅺ。
 地球を全滅させるような核戦争は本当に可能なのでしょうか。そのイメージはどこか誇張的ではないか。二〇メガトン級の水爆だと、だいたい半径一三キロくらいが完全に破壊されます。これで全世界を破壊するとなったらすごい数の水爆が必要になるわけです。核兵器が非常に強力な破壊力を持っていることは間違いないけれど、アンダースのように手段になりえないとか、目的も何もかもすべては破壊しつくすと考えるのは、悪い意味で哲学的な妄想ではないかという気がするのです。僕だって、世界から核兵器がなくなって欲しいと思っている。しかし、彼はどこか哲学を弄しながら、何か誤った絶対化を行っているのではないか。
 國分は、アンダースを「悪い意味で哲学的な妄想」をする人。核戦争によって人類が滅亡するなどという「誤った絶対化」をしている人と評価しているのである。戸谷の評価とは全く違うことになる。
 ついでに言っておくと、國分は「彼の論文には原子力発電の話が全く出てこないのです。『時代おくれの人間』第五版の序文で触れているけれど、それまで、原子力発電に言及していない。どうしてそうなってしまったのか、その理由を考えたい」ともしている。これは、佐藤・田口の評価とは一八〇度ちがう否定的なものである。
感想
 現代は「原子力の時代」、「核の時代」である。人類が核分裂エネルギーを利用する時代である。その時代をどう見るのかは、哲学を研究する人によってこれほどまでに違うのだということを知ることができたことは大きい。けれども、誰の本を読むかによって、「原子力の時代」、「核の時代」の理解は大きく変わることになるのだと思うと、背筋が寒くなる。
 國分がアンダース評価をしているのは二〇一九年発行の『原子力時代における哲学』においてである。國分の著作では、現在、核弾頭が一万四〇〇〇発弱ほど存在し、そのうちの多くは「警報即発射」体制にあることも、この七五年間に、何度も、核兵器が誤って発射されそうになったことも、核兵器使用による気候への影響などもすべて捨象されている。「核兵器のいかなる使用も人道の諸原則及び公共の良心に反する」(核兵器禁止条約前文)などという倫理上の問題意識もない。彼は「次なる破局」を想定していないのである。佐藤・田口によれば、國分は「白痴」ということになるであろう。
 私には難しい哲学論争を理解する意思も能力もない。けれども、人間の現実の営みも、人間の認識の有限性も、人間の行為の不完全性も軽視する哲学は信用できないという程度の知恵は持ち合わせている。
 私は、現在の人類社会には、意図的であるか事故であるかは問わず核兵器が使用される危険性も、それによって「壊滅的人道上の結末」が起きる危険性も存在していると考えている。それは、核兵器禁止条約の現状認識である。また、信頼できる科学者の「終末まで一〇〇秒」という警告でもある。私たちは、客観的に存在するリスクを主体的に認識することから始めなければならない。私には、アンダースを「悪い意味で哲学的な妄想をする人」と評価する人の方が「たちの悪い妄想をする人」と思われてならない。

                        (文中敬称略・二〇二一年一月二日記)

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※ⅰ 拙稿「そのときには皆一緒にくたばるわけだ」日本反核法律家 協会HP
※ⅱ 戸谷洋志『原子力の哲学』集英社新書 二〇二〇年
※ⅲ ギュンター・アンダース著 青木隆嘉訳『核の脅威―原子力時 代についての徹底的考察 ―』法政大学出版局 二〇一六年
※ⅳ ギュンター・アンダース、クロウド・イーザリー著 篠原正瑛 訳『ヒロシマわが罪と罰』ちくま文庫 一九八七年
※ⅴ 同上
※ⅵ 同上
※ⅶ 佐藤嘉幸、田口卓臣共著『脱原発の哲学』人文書院 二〇一六年
※ⅷ ウィリアム・ぺリー他著 田井中雅人訳『核のボタン』朝日出版社 二〇二〇年
※ⅸ 戸谷洋志 前掲著
※ⅹ 佐藤嘉幸、田口卓臣 前掲著
※ⅺ 國分功一郎『原子力時代における哲学』晶文社 二〇一九年

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