第1759号 11/21
カテゴリ:団通信
【今号の内容】
●川崎市人事委員会措置要求判定取消訴訟勝訴の報告 川岸 卓哉
●広島地裁が原発運転差し止め却下決定で立証責任論の到達点無視
― 原発運転差し止め事件に限らない重大問題 守川 幸男
●自由法曹団100周年によせて 脇山 拓
【新任挨拶】
●事務局長新任のご挨拶 平井 哲史
【退任挨拶】
●事務局長退任のご挨拶 平松 真二郎
【~追悼~ 橋本 敦団員〈大阪支部〉特集】
●畏友 橋本 敦さんを悼む 石川 元也
●「橋本敦先生の平和憲法を護る志を引き継いで」 鎌田 幸夫
●~橋本敦団員を悼む~ 大阪支部
●師・橋本敦弁護士を偲んで 豊川 義明
- 東日本大震災から10年 -今、団員が想うこと (3)[不定期継続企画]
●女川原発再稼働阻止への闘い 松浦 健太郎
●団創立100周年記念出版事業編集委員会日記 (9) 中野 直樹
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川崎市人事委員会措置要求判定取消訴訟勝訴の報告
神奈川支部 川 岸 卓 哉
2021年9月27日、横浜地方裁判所において、川崎市立小学校に勤務する学校事務職員2名が原告となって、川崎市人事委員会の措置要求判定の取り消しを求めた訴訟で、勝訴判決を得ました。
1 憲法の労働基本権の代償措置としての地方公務員の措置要求制度
民間企業の勤労者の労働条件は、憲法25条で保障された労働基本権の3つの権利、団結権・団体交渉権・団体行動権(ストライキ)が保障され、労働条件の維持改善を図ることが可能です。他方、地方公務員には、労働組合法の適用を排除し、団体協約を締結、争議行為をなすことを禁じ、労働委員会に対する救済申立の途を閉ざしています。そのかわりに、行政に設置された人事委員会(公平委員会)への措置要求を申し立て、労働条件の維持改善を求める制度が認められています。したがって、地方公務員の措置要求制度は、日本国憲法28条において保障された労働基本権の代償措置として、重要な意義を有します。しかし、中立公平な機関であることが責務である人事委員会ですが、実際は行政の一内部機関に堕し、行政判断追従がほとんどで、措置要求制度が十分に機能してきたとはいえないのが実態でした。
2 提訴の経緯 川崎市人事委員会の門前払い判定
今回の裁判も、人事委員会の機能不全がきっかけとなっています。従来、義務教育にかかる教職員の給与費は神奈川県が負担していましたが、地方分権の観点から法改正があり、平成29年度より,政令指定都市の川崎市への税源移譲されることになりました。この際、川崎市は、市給与条例を改正し、学校事務職員について,既存の川崎市の行政職の給料表に位置付けましたが、神奈川県と川崎市では給料表の体系が異なるため、特に平成22年度採用の原告ら県2級の職員が不利益を受けることになりました。そこで、原告らは,職員団体「2級の集い」を結成し,教育委員会と交渉を重ねましたが改善されなかったため、公平な判断を求め、川崎市人事委員会に対し、措置要求の申立てをしました。しかし、人事委員会は、原告らの措置要求に正面から向き合わず、実質的に門前払いをする判定を下しました。これに対して、原告らは、公平な判断を求め、裁判所へ訴訟提起しました。
3 司法の鉄槌により措置要求制度の門が開かれる
横浜地裁は、判決で川崎市人事委員会の門前払いの判定は、市給与条例の内容の適否について判断すべきではないという誤った判断に基づき、原告らの要求事項を判断対象から除外し、原告らが要求していない事項について判断したものであるというほかなく、適法な手続きにより判定を受けることを要求し得る権利を侵害するものとして違法と判断しました。そして、原告らに不利益・不均衡が生じていることを看過しているとして、人事委員会の判定を取り消しました。人事委員会の判定は、自らの責務を忘れた公平性を欠く教育委員会の判断追従のもので、取り消しは免れないものでした。本判決は、憲法の代償措置である人事委員会への措置要求制度を無意味なものとせず、鉄槌を下した意義を有します。
この判決を機に、地方公務員にも憲法の光が及び、措置要求制度の門が正しく開かれ、全国の地方公務員が、措置要求制度を活用して労働条件を維持・改善する道が拓かれればと考えています。
川崎市は控訴を断念し、判決は確定しました。川崎市人事委員会は、判決を受けて、あらためて、原告らの不利益・不均衡について、是正の可否及び方法を判断することになります。原告らと支援の全川崎地域労働組合及び川崎市教職員連絡会は、原告らの不利益を解消する完全解決まで、闘い抜く決意です。ご支援お願いいたします。
弁護団は、川口彩子団員と私です。
広島地裁が原発運転差し止め却下決定で立証責任論の到達点無視
― 原発運転差し止め事件に限らない重大問題
千葉支部 守 川 幸 男
広島地裁が11月4日、四国電力伊方原発3号機の運転差止仮処分申請を却下した。基準地振動の妥当性が争点で、伊方原発最高裁判決の民事訴訟への適用を否定し、住民側に証明責任を負わせた。四国電力は、南海トラフ地震が起きても原発敷地には181ガルしか到達しないと算定していた。協力していた樋口英明元裁判官は自信を持っていたが、裁判所はそんなに甘くないので心配していた。
私は原発避難者訴訟の群馬高裁判決を、国への忖度と証拠のつまみ食いの観点から批判した(団通信2021年3月11日、1734号)。この判断手法は原発訴訟に限らない。私の投稿に2人の団員の肯定的な反応があった。
今度は、公害事件など裁判実務で前進し定着してきた立証責任論の到達点の無視で、裁判長は研修所の教官だった。この判断を可能にした力や要因は何だろうか?
樋口英明元裁判官から受け取ったメール2本を了解を得て全文掲載する。
私が実質的に関与した初めての原発差止め仮処分は、
11月4日広島地裁で却下されました。全ての争点について四国電力と主張を闘わせた結果、四国電力は最後の方は反論できずに黙ってしまいました(四国電力は負けを覚悟したはずです)。そこで、私はよほど悪質な裁判官でない限り勝つだろうと思っていたのですが、残念ながらこのような結果となりました。
四国電力は「マグニチュード9の南海トラフ地震が伊方原発直下で起きたとしても、伊方原発の敷地には181ガルしか到来しない」という非常識な地震動算定を行っていました。マグニチュード9の東北地方太平洋沖地震では震央(震源の真上の地表面または海面をいいます)から180キロメートル離れた福島第一原発の解放基盤表面(固い岩盤)において675ガルの地震動が到来しました。四国電力は、マグニチュード9の南海トラフ地震が伊方原発直下で起きても伊方原発敷地の解放基盤表面(固い岩盤)には181ガル(震度5弱相当)しか到来しないとしました。ちなみに、震度5弱とは、棚から物が落ちることがある、希に窓ガラスが割れて落ちることがあるという程度の揺れです。なお、181ガルに合理性がない場合には基準地震動(650ガル)の合理性が失われることについては四国電力も争っていませんでした。
広島地裁は、住民側の立証責任の軽減を図った伊方最高裁判決を適用せず、具体的危険性の立証責任は全て住民側にあるとしました。南海トラフ地震181ガル問題についても、震源特性・伝播特性・増幅特性等に関する修正補正を加えた後でなければ、伊方原発の岩盤での181ガルと福島第一原発の岩盤での675ガルとを比較して一概に181ガルを不合理だとすることはできないとしました。そして住民側がその補正をせずに181ガルと675ガルを比べているので具体的危険性の立証は不十分だとしたのです。しかしこのようなことは四国電力さえも主張していなかったので実に奇妙な判断といえます。 住民側は「震源特性・伝播特性・増幅特性等は正確に見極めることはできないので、そもそも最大地震動(基準地震動)は予知予測できない」と主張していたのです。そのような主張をしていた住民側に裁判所は無理難題を押しつけたのです。更に、差止めが認められるためには、住民側において、本案確定前に基準地震動650ガルを超える地震が発生することを立証しなければならないとしました。およそ地震学者にもできない無理難題を住民側に課しました。
以上が今回の決定のあらましです。とても承服できる内容ではないので、広島高等裁判所に是正を求めることにしました。
後輩が裁判官としての矜持も人間としての最低限の公平感も持ち合わせていないのを見るのはたいへんつらいのですが、三権の中で頼ることができるのは裁判所しかありません。希望を失わずに頑張っていきたいと思っております。
引き続き見守ってくださいますようよろしくお願い致します。樋口英明
(一部省略)今回の広島地裁が住民側に全面的に立証責任を負わせたことは、二重の意味で誤っているといえます。
第1に、行政事件に関する伊方最高裁判決の枠組みを民事裁判に転用してきたこれまでの下級審判決の流れに反するというだけでなく、昭和40年代の公害裁判のころから、当事者の実質的公平のために、立証責任の転換、一応の推定等、様々な理論を駆使して原告住民の立証責任の負担を軽減しようとしてきた法曹界、学会の長年の努力(伊方最高裁判決もその流れの中に位置づけられます)に全く背を向けるものです。
第2に、住民対住民・企業対企業などの対等の関係当事者間においてさえ、規範的要件である危険性や過失、合理性の証明については、講学上の立証責任を負っている側だけが事実上の立証責任を負担しなければならないというような考え方はないのです。我々が司法研修所で勉強したところです。
今回の事件に当てはめてみると、危険性を基礎づける事実(例えば181ガルが地震観測記録上極めて低水準であること)については住民側が負い、危険性を否定する方向に働く事実(例えば伊方原発の地下にクッションの役割を果たす地層がある等)は電力会社が立証責任を負うことになります。この立証責任の分配の点についても四国電力の間で論争し、債権者らの論理に対して四国電力は反論できませんでした。それにもかかわらず、裁判所は事実上の立証責任の隅から隅まで全て住民側に負わせました。分かり易く言えば、原発訴訟においては住民側と電力会社の力関係の配慮等から住民側に下駄を履かせていたのですが、今回の決定は単に住民側からその下駄を奪っただけでなく、電力会社の方に高下駄を履かせたものといえます。広島地裁は、立証責任の所在については裁判所の専権に属することを悪用して、司法の歴史や司法の論理、正義に泥を塗ったといえます。
このような裁判が司法研修所の教官経験者(吉岡裁判長)によってなされました。司法の荒廃という言葉がふさわしいと思いますが、希望を失えば直ちに絶望の裁判所となります。気を取り直して広島高裁に臨みたいと思います。
応援のほどよろしくお願い致します。樋口英明
100周年つどい感想◆就任挨拶◆退任挨拶
自由法曹団100周年によせて
山形支部 脇 山 拓
1 「自由法曹団物語」を注文したら、感想を団通信へ投稿して欲しいというお願いを受けていましたが、いろいろと立て込んでいたため、既読スルーしたまま、10月22日の100周年のつどい、23日の総会へと、久しぶりに泊付きで上京しました。
すると、今度は参加の感想を投稿して欲しいというお願いが届きました。参加された方は予想がつくと思いますが、こちらは既読スルーという訳にもいかない事情がありますので、つれづれなるままに感想をまとめてみます。
2 自由法曹団は100周年ですが、「わきやま法律事務所」はたぶん開設されて57年ほどになるかと思われます。なぜこのように曖昧かというと、東中(現・関西合同)法律事務所に入所した両親が、今年58歳になった私が2歳になるかどうかというころに、山形県弁護士会に登録換えをしたのですが、最初は事務所が別々だったので、いつから数えればいいのかよくわからないためです。団の歴史の約6割を共有している事務所であるというと、なんとなく凄く感じますが、両親と私とで担当した事件で、百年史年表に掲載されているのは、鶴岡灯油裁判(78頁)とJA全農庄内の臨時職員の事件(120頁)の二つだけ(見落としがあればご教示下さい。)のひっそりと片隅で活動している事務所です。
3 そういうことなので、つどいで自分に関係するものは出てこないと思って気楽にしていました。第1部の映像は、最近YouTubeで公開されたので、見てもらえばわかりますので、感想は割愛します。第2部の田中優子さんの記念講演「『自由』をどう活かすか」は、歯切れのよい語り口が非常に印象的でしたが、カムイ伝の話から始まったためか、お話を聞きながら、地元の歴史との対比にいろいろと思いを巡らしてしまいました。ワッパ騒動のことや酒井家入部400年を祝賀するお土地柄のことなどですが、話がそれまくるので、これもこの辺で割愛します。
4 いよいよ第3部です。といっても何が出てくるのかは全く予備知識がありません。女性部の動画が流れ始めた時、そういえば昔婦人部(当時)の総会を鶴岡でやることになったと、母親がばたばたしていた時期があったなと思っていたところ、湯野浜温泉での総会の写真が出てきました(なお、確かテロップは「湯の浜温泉」でしたが、「の」は漢字です。)。その当時の交通事情を考えると、よくもまぁこれだけ集まったものだという感想を言っていたのをなんとなく憶えています。
5 その後、大阪支部も動画があるというあたりで、とても嫌な予感がしてきました。さすがに自分の大阪時代の映像が出てくることはないだろうと思いながら見ていましたが、最後に若い団員の話となったところで、予感が確信に変わりました。話の内容自体は、確か大阪の支部ニュースか何かにほぼ同じ内容が既に出ていたようには思うのですが、3代目の暴露話がそれなりに会場でも笑いを誘ったようで、なによりでした。2代目、3代目の団員は他にもたくさんおられますし、私自身が頼りない2代目なので、こんなこともいうのはなんなのですが、面白い3代目ができたものだと関心しています。
6 翌日の総会では、山形支部から2名の団員が古稀の表彰を受けました。これで山形支部の私より年長の団員は、ほとんどが古稀表彰を受けられたことになります。総会内での拡大幹事会で1名の入団が承認されたので、山形支部は13名になりましたが、年齢順だと私はまだ真ん中です。今後の団支部としての活動継続のためにも、若い弁護士への働きかけが急務という現実を突きつけられました。
7 余談ですが、総会の場で質問されたことなので書いておきます。新入団員の佐藤信悟さんは、所属事務所が弁護士法人あかつき佐藤欣哉法律事務所ですが、故佐藤欣哉弁護士のお子さんではありません。山形では佐藤姓はとても多いのです(なぜか山形県弁護士会には故佐藤欣哉さんしか佐藤がいない時代が長く続いていましたが。)。
8 上京したことで、石川元也さんのご挨拶を直接お聞きすることができました。両親が入所したころの東中法律事務所では、班に別れて活動することになっており、母の所属した班の班長が石川さんだったと聞いております(詳細は事実誤認があるかも知れません。)。そして私が大阪支部時代には事件をご一緒したことがあり、現在は娘が同じ大阪支部に所属している訳です。個人的には、もっとも100年の歴史のある団体の重みを感じた瞬間でした。
9 久々に東京に宿泊したことで、普段音信のない二男とも会えましたし、門前仲町は辰巳新道の山形出身のお姉さん(80歳くらい)が一人でやっている居酒屋がコロナに負けずに営業を続けていることも確認でき、充実した二日間でした。
事務局長新任のご挨拶
東京支部 平 井 哲 史
100周年記念の準備をやり切られて退任された平松事務局長(城北法律事務所)の後を継ぐことになりました平井哲史(東京法律事務所)です。2年間よろしくお願いします。
1 私は2001年10月に弁護士登録し、その年の総会で数十名の仲間とともに入団承認を受けました。2002年の夏過ぎに、指導担当となっていた先輩から立ち話で団の事務局次長をやってくれない?という誘いを受け、「いいっすよ。」とその後自分の身に何が起こるかろくに聞きもせずに返答し、団の活動の実際や団体活動の「作法」のようなものを知らないまま怒涛の2年間を開始しました。まだ収入を気にするほど稼げる状態ではなかったのと、事務所は2年間は給料制であったことから、あまり気兼ねなく諸活動に没頭したように思います(記憶を美化してるかも。)。その頃の担当は労働問題委員会と新設の将来問題委員会、あと何かやってたように思いますが忘れています。後から、「ほぼ新人に事務局次長やらせるなんて無茶だ」という議論が所内にあったと聞きましたが、まぁ、なんとか先輩方・事務局の皆様の支えもあり、倒れることなく乗り切りました。弁護士としての活動では、修習生の頃から準備に参加した中国「残留孤児」国賠請求事件、NTTによる「構造改革」リストラに抵抗した通信労組員の遠隔地配転事件、メーデー会場使用をめぐる差別取り扱いに対する国賠請求事件、といったあたりが参加した弁護団活動になります。
2 2004年10月に退任をしましたが、担当していた委員会は慣例で出続け、1年後、団の若手のマンパワーがまだ不足していた時期で、「次長が足りない!」という話が出て、「じゃあ、やってもいいよ。」とこれまたあまり考えもなしに引き受けました。この時期、合格者増員路線の只中で、54期から青法協で始めた「プレ研修」が合格者と団員の事務所との出会いの機会をつくり、新入団者も上昇曲線をたどりました。このため将来問題委員会の活動は今ほど忙しいことはなく(修習生支援はもっぱら青法協でやっていたので。)、また改憲の動きはまだ表面化しておらず、労働問題委員会でも特段の悪法反対の取り組みはなかったかという記憶です。ただ、教育基本法を改悪しようとする動きがあり、団と平行して、どんな経緯だったか忘れましたが、一時期、日弁連の憲法問題委員会(東京中央法律事務所の村山裕団員ほか何人も団員がおられました。)に参加して、やたら会議の多い時期でした。
3 2006年10月に2度めの次長退任後は、役職にはつかず、委員会活動に参加するのみでした(五月集会や総会のたびにプレ企画を中野直樹将来問題委員会委員長(まちださがみ法律事務所)と一緒にやらせていただいていたので、感覚的には切れ目がありませんが。)。
そして、2013年10月に、改憲阻止対策本部で担当次長として奮闘し、その後も同本部で活動してきた同期のホープである山口真美団員(三多摩法律事務所)が事務局長になると、「そろそろ」といった話がちらほら聞こえるようになりました。山口団員の次は、ビラ配布弾圧の葛飾事件の弁護団事務局長を亡中村欧介団員から引き継ぎ、改憲阻止対策本部と治安警察問題委員会を軸に活動していた西田譲団員(いずれも東京東部法律事務所)が2015年10月から事務局長を引き取り、文字通り鉄人のような奮闘をされました。その後、事務局長のなり手を探すのに難航しましたが、2018年5月の鳥取・米子5月集会で、改憲阻止対策本部で活躍されていた森孝博団員(渋谷共同法律事務所)が役目を引き取られました。この間、2014年に事務局長になられた今村幸次郎団員(旬報法律事務所)が、引き続き2016年から幹事長を務められ、次長は毎年後任探しに苦労するなど、団本部執行部の人事は苦労が増えるようになりました。
森団員の次は、はっきりと要請をいただきましたが、自身の問題で固辞をしてしまい、平松前事務局長が改憲阻止と100周年事業という大変な2大任務を抱えながら任を務められました。なので、口先ではいろいろ言っても、平松団員には足を向けて寝られません。
4 こういう経緯で事務局長になりましたので、私の問題意識は、時々の情勢に応じ団が取り組む諸課題を全国の団員の皆様とともに取り組むこと、とりわけ改憲阻止の運動を弁護士会や付き合いのある諸団体、そして依頼者となる市民の皆様とともに広げること、とともに、団員の事務所がその力を維持、さらに発展させられるようにしていくこと(いわゆる「組織建設」)にあります。コロナ下で様々な困難もありますが、ZOOMを使用した会議にも慣れてきて、結集のうえで地理的困難さは少なくなっているかと思いますので、「ハイブリッド」形式を活用し、よりよく交流、結集をはかっていきたいと思います。
事務局長退任のご挨拶
東京支部 平 松 真 二 郎
2019年愛知西浦総会で選任され,団通信1687(2019年11月21日)号に就任の挨拶として,「団は2021年に100周年を迎えます。100年の伝統を101年目につなげていく。そのために尽力したいと思っています。」と書きました。
2年間を振り返えると,2020年春には新型コロナパンデミックが始まり,沖縄5月集会を中止せざるを得なくなりました。2020年兵庫・神戸総会も一日開催となり,2021年東京5月集会も懇親会の開催は断念せざるを得ませんでした。そして,100周年記念のレセプションも延期せざるを得なくなった中で開催した100周年記念のつどいに向けて,記念動画「人権を掲げつづけた自由法曹団100年の歩み~民衆とともに激動の21世紀を切り拓く~」を作成しました。動画作成のために,出版された『自由法曹団百年史』をはじめ,団に残されている団報等を見直す機会もあり,団員が,権力による刑事弾圧を許さず,人々の働く権利やいのちと暮らしを守るために,人間の尊厳をかけて一貫してたたかってきたことを確認し,あらためて一団員であることを誇らしく思うようになりました。
また,就任直後の団通信2020年1月1日号から2021年2月21日号まで続けた各支部特集の連載,そして,100周年のつどいに向けて作成された支部動画の数々からも,各地の団員が全国各地でのこれまで全国に知られていない様々な取り組みを続けていることを知ることができました。この各地での団員の取り組みこそが団活動の原点なのだと感じています。
今後も,この団の伝統を承継し,発展させるべく,様々な人権課題への取り組みに尽力しなければならないと決意を新たにする貴重な経験をさせていただきました。
一方で,就任あいさつでは,「団への結集の支障を取り除き、時代に合った団の活動を模索することを通じて、魅力ある活動が展開されるよう、そして活動の担い手を広げていくことにつなげていくことができれば……特に若手団員のみなさんに、自分も次長をやってみたいと思われるような取り組みを進めていきたい」とも書きました。
100周年総会の議案書でも「今期は……6名体制であったことから各事務局次長の負担は極めて大きかった。また、……執行部に女性が一人もおらず、ジェンダーバランスを欠く状態が続いている。……今後も団が取り組まなければならない課題は山積しており、そのために少なくとも事務局次長8名体制を確立することが急務である。」ことを訴えました。しかし,ご承知の通り,2021年総会で,選任された次長は4名です。
この若手団員の団への結集の課題,とりわけ若手団員に「次長をやってみたいと思われるような取り組み」ができていなかったことは残期の念に堪えません。
団の次長は、執行部の下っ端でも雑用係でもありません。
100周年記念のつどいで,団はいつの時代もその時々の課題に挑戦して,活動分野を広げてきたことが紹介されてきましたが,それは,課題の直面した団員が挑戦して来たことの証です。その先頭に立つのが次長であると思います。
若手団員の皆さん,今自分が取り組んでいる人権課題を団の取り組みとすることで当事者、支援者の方々も,「団」が積極的に取り組む課題の一つとして取り組んでいることが分かれば喜んでもらえると思います。
これまでも手掛けてきた改憲阻止などの伝統的な団の課題への対応は事務局長が行うはずです。次長の皆さんは,自分が取り組みたい分野の課題への取り組みに専心してもらってよいはずです。
若手団員の皆さんが,団の次長になって,自分が取り組んでいる課題を団の取り組みに組み込んでその先頭に立って団活動を盛り上げていく。それが100種年記念つどいのテーマ「挑戦と創造」であり,団の伝統を承継していく理想的な姿だと思います。若手団員の皆さんがこぞって次長になって,ベテラン団員をうならせるような目覚ましい活躍をしてくれることを期待しています。
さいごに,執行部の皆さん,吉田健一団長,泉澤前幹事長とともに一年目を支えてくれた鹿島裕輔次長、江夏大樹次長。そして,2年間にした馬奈木厳太郎次長、太田吉則次長,辻田航次長。昨年就任した小賀坂徹幹事長とともに2年ってくれた大住広太次長,岸朋弘次長,安原邦博次長。そして,専従の柴田さん,薄井さん,阿部さん。次長の皆さん,専従の皆さんの支えがなければ,私も事務局長の職を全うすることはできなかったと思います。本当に感謝しています。
次長の経験もなく,いきなり事務局長に就任し,団活動の右も左もわからない私を支えていただいた全国の団員の皆様に深く感謝申し上げたいと思います。本当にありがとうございました。
楽しい2年間を過ごさせていただきました。それでも宿泊・懇親会を伴う5月集会・総会を実施することなく退任することはちょっと心残りです。
~追悼~ 橋本 敦 団員〈大阪支部 特集〉
畏友 橋本 敦さんを悼む
大阪支部 石 川 元 也
大阪支部の最高齢団員の橋本 敦(9期)さんが、本年8月29日亡くなられた。93歳 だった。
出会い
彼との出会いは、司法研修所の同じクラスであり、小石川の寮でも一つ隔てた隣の部屋であった。彼は、大阪出身、旧制浪速高校・京大出身(大学時代は私立学園で英語の教師をしていて、試験だけ受けて単位を取り卒業したという)で、司法試験合格(7期)後、結核で2年間療養していた由で、おのずから大人の風格を備えていた。
前期修習では、朝日式討論会というのがあった。3人1チームで、一定のテーマを、是か非か、割り当てられて討論するのである。クラスの選挙で、橋本、石川、Uの3人が選ばれた。当時5クラスの決勝戦で、我がチームは「裁判批判是か非か」の「是」とする論者になった。当時(1955年)は、松川事件の上告審段階、田中最高裁長官が『雑音に耳を貸すな』と訓示し、統制厳しい研修所でのこのテーマの是は難しいとの声もあったが、橋本を中心として見事に優勝した。現地修習は、大阪と横浜に分かれて、特に親しく付き合うということもなかった。
それが、後期も終わりに近づくころ、にわかに、大阪・東中光雄事務所へ行ってくれとの強い勧誘が、先輩団員や彼からもあった。信州出身で地縁・血縁もない未知の地であったが、結局、応ずることとなり(団員の地方派遣の第1号)、こうして、彼と生涯の友となった。
修了式も済んで、大阪へ行く前に二人して、団本部を訪問し入団申込書を出した。まだ、弁護士登録前だったが。
大阪での弁護活動
1957年4月、彼は、亀田得治(参院議員)法律事務所、私は東中法律事務所、同じビルの隣り合わせの事務所でスタートしたのだが、当時大阪では、自由法曹団員を名乗ことはなく、民法協一本であった。そのいきさつは、1945年末、東京での団再建とともに、関西にも声がかけられたが、なんぞ東京の下風に立つものかと、「関西自由弁護士団」を結成し、占領化の弾圧事件等を弁護し、52年の吹田騒擾事件には、20名もの関西自由弁護士団員が弁護団を構成した。そして、56年8月には、それを解消して、民主的法学者(末川博、田端忍、恒藤恭、黒田了一ら)らや、総評傘下単産や中小労組、民商や生活と健康守る会などの市民組織らとともに、「民主法律協会」(民法協・当初事務局は東中事務所内)を結成し、権利擁護センターの実績を作りつつあったからである。57年5月結成の総評弁護団にも、関西支部は作らず、民法協弁護士が対応することとなった。
そんな中の同年6月、加藤充、東中光雄(大阪)能勢克男、小林為太郎(京都)、井籐誉志雄、竹内(兵庫)の6先輩団員たちが、「橋本・石川歓迎会」を阪百貨店屋上ビアガーデンで開いてくれたのはうれしかった。翌年から新人弁護士(10期には正森成二、小牧英夫、以下略)たちに民法協入会とともに意識的に入団を奨め、古参の方の団帰属確認もすすめ、66年10月、大阪支部結成のときには45名の団員がいた。
さて、橋本・石川の事件活動は、58年以降の全逓中郵事件、大阪・和歌山・京都・高知教祖らの勤評反対闘争など、大型弁護団では一緒にやる機会もあったが、中小労働事件の多くは、それぞれが弁護団活動を組織する立場になった。68年以降は、橋本は、大分の菅生事件の応援に、石川は、吹田事件に集中するようになった。彼は民法協の事務局長、幹事長としてその中心に、団支部結成後は、私は団活動をもっぱらにするように分れた。
政治活動へ
1974年、大阪市長選挙に際し、各界からの要望で、無所属(日本共産党推薦)で立候補し健闘した。このときのエピソードに、昼間の挨拶回りでもらった名刺のひと宛てに、毎夜数十枚のはがきを書いていたと。誰にもできることではない。
74年、参議院議員選挙では、選挙区(定数3)候補に推され、見事に初当選した。ロッキード事件では、正森成二衆院議員(団員・10期)とともに、訪米調査団に加わり、その後の国会での追及に活躍し、田中角栄内閣退陣に追い込んだ。
81年選挙(大阪選挙区)では、次点落選。84年選挙からは比例区で連続3期当選。通算24年の議員活動で永年表彰も受け、2001年に、73歳で勇退した。
その後は、北大阪総合法律事務所に戻り、弁護活動とともに、大阪平和委員会会長に推され、その後も名誉会長として、平和運動の先頭に立ち、ピースパレードには、90回以上も参加されたという。18年の卒寿を祝う会には、各界から200人近い人々が集まって。多年にわたる業績と長寿を祝った。
その後は会う機会も少なく、ここ1年は、入院されていたとか、今年8月29日老衰で亡くなられた。なお、医師として活躍された美知子夫人も、その一月前に92歳で亡くなられたと、息子さんからの挨拶で知った。ご夫妻のご冥福をお祈りする。
「橋本敦先生の平和憲法を護る志を引き継いで」
大阪支部 鎌 田 幸 夫
当事務所の橋本敦弁護士が、今年8月29日、93歳で逝去しました。
ご遺族のご意思により、公表が10月に入ってからになりました。事務所としての追悼文集は、今、準備を始めておりますが、私個人としての橋本先生に対する思い出を書かせていただきます。
私は司法修習期は39期ですが、入所した時先生は、現役の参議院議員であり、事務所には、ときどきお顔をお出しになる程度でした。いつも「やあ 鎌田君 ご苦労さん。事務所を頼んだよ」と声をかけていただきました。忘年会には必ず参加され、一人一人と気軽に話をしていただき、事務局にはお年玉を渡してくれるとても優しい先生でした。
70歳で議員を引退し、事務所に戻ってこられました。戦後史の最大の汚点と言われるレッドパージ事件弁護団に参加され国の責任追及に精力を注がれました。また、レッドパージ事件や改憲阻止関連の論文を各民主団体の機関誌や雑誌に多数寄稿されていました。先生の座っておられた事務所の机には、今も「学習憲法学 黒田了一著」「憲法第9条 小林直樹著」「憲法とは何か 長谷部恭男」「戦後史の汚点 レッドパージ」などがずらっと並んでいます。先生は、書かれるだけではありませんでした。毎月9日の「9の日・宣伝行動」の行進も毎回欠かさず、横断幕や旗を持って参加されました。事務所の改憲反対の宣伝行動も先生は先頭に立ってビラを配っておられました。先生の生涯は、まさに「平和憲法を護る」という強い思いに貫かれていました。先生が90歳になられる際に、平和委員会を中心に実行委員会形式で卒寿のお祝いをしましたが、参加人数の多さのみならず、その多彩な顔ぶれに先生を慕う人の多さと平和運動の人脈の幅広さに改めて驚かされました。
さて、先生は、私たち後輩には自分が弁護士として担当した事件のことや政治家としての活躍のことはロッキード事件のこと以外はあまりお話にはなりませんでした。しかし、たまたま、会社分割法の新設に関する商法改正の国会審議における先生の国会質問の議事録を読む機会がありましたが、非常に準備されていることと緻密な論理展開に舌を巻いた記憶があります。今にして思えば、もっともっと先生にいろんなお話を聞き、お教えいただければよかったなと思っております。
「The Sun Shines Above the Clouds」
三田学園高校で英語教師の経験のある先生が、私の結婚式のスピーチで贈ってくださった言葉です。先生のご意志を受け継ぎ、たとえ今の情勢は曇りであっても、必ず太陽の光が射すことを信じて、歩んでいきたいものです。
橋本敦団員を悼む
大阪支部団員から支部メールなどへ寄せられた追悼の思いを編集しました。
在りし日の橋本敦団員を偲んでいただければ幸いです。(大阪支部)
(小林保夫団員から)
「橋本敦先生のご逝去を悼み、心からお悔やみ申し上げます。
私は、はじめ東中光雄法律事務所、後年正森成二法律事務所(現・きづがわ共同法律事務所)の弁護士として、古くから先生と接する機会が多く、ご指導をいただき、おつきあいを願ってきました。先生が、労働者・市民の立場から、弁護士、国会議員として活躍し、労働者・市民の利益と社会の進歩のために多くの寄与・貢献を残されたことにあらためて敬意を表する次第です。先生と令夫人が安らかに眠られることを祈念します。」
(岩田研二郎団員から)
橋本敦先生は、修習9期。1957年弁護士登録。1971年大阪市長選挙に立候補。
1974年、参議院議員大阪選挙区で当選(1期)。1980年選挙で次点落選。1983年の参議院選挙で比例区で当選、以降、3期18年、参議院議員として活躍。田中金脈・ロッキード事件・金大中事件の追及、北朝鮮拉致問題などの質問で知られます。2001年に議員を引退され、弁護士業に戻られました(北大阪総合法律事務所)。
議員引退後の2001年以降は、大阪支部の議案書や記念誌、支部ニュースなどに数多く投稿されていました。
国会で活動されていた1986年の投稿では「日本共産党の国会議員団43名のうち、自由法曹団の弁護士が10名を数え、重要な部署で活躍している」と書かれています。(衆議院 正森成二、東中光雄、野間友一、松本善明、柴田睦夫、安藤巌、参議院 諫山博、内藤功、近藤忠孝、橋本敦)
2006年から始まった9の日パレードには、毎回参加されていました。そのときに私が撮影した写真がありました(10頁に掲載)。
集会などで顔をあわすと、ニコニコと「ご苦労様」「頑張っているね」とよく声をかけていただきました。ご冥福をお祈りいたします。
(三上孝孜団員から)
橋本先生には、私が弁護士になりたてのころ、新聞労連・報知新聞労組の解雇事件(9名解雇)があり、その弁護団に参加し、団長の先生の指導を受け、初めて大型労働事件を経験させていただきました。先日亡くなられた西岡芳樹先生も弁護団に参加していました。
数年間の裁判、地労委闘争の末、完全勝利(解雇撤回,原職復帰)を勝ち取り、良い経験をさせて頂きました。
その後、政治家になられ、ロッキード事件で渡米調査され、英語力を駆使した調査で、国会での追及に成果を上げられました。
その後の弁護活動の指導をうける機会がなかったのは残念です。御冥福をお祈りします。
(西晃団員から)
橋本敦先生ご逝去の報に接し、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
事件をご一緒させていただいたことはありませんが、いつ会っても「やぁ~よく頑張ってますね!」と笑顔で励ましていただきました。
議員時代にしみ込んだのでしょうね。いつも両手で握手をしていただくんですね。
2016年に大阪平和委員会の会長を打診され、「どうしたもんか?」迷っていた時、橋本先生より、「是非引き受けて欲しい」と直筆のお手紙と、その後直接のお電話も・・・「もう引き受けるしかないな」と覚悟を決めました。
大阪平和委員会も主催団体の一つとなり、2017年秋に「卒寿のお祝い」をさせていただきました。その後コロナ禍もあり。お会いする機会も少なくなってしまいました。どうされているのかな?と気になっていたのですが・・・
先生よりもおよそ一月前にお亡くなりになられた奥様や、お孫さんたちご家族の皆様に囲まれて嬉しそうにされている先生のお姿が忘れられません。
橋本先生が常に説いておられた憲法理念の実現、平和への熱い想いを、微力ながら引き継いで参ります。橋本敦先生、本当にありがとうございました。
(井上洋子団員から)
私は、大阪の大先輩の国会議員OB弁護士としては、正森成二団員、東中光雄団員、橋本敦団員のお三方と接する機会を得ました。このたび橋本先生の訃報に接し、そのお三方がいずれも鬼籍に入られたことになり、止められない時の流れを感じます。
正森先生は仁王様のような怖さと優しさを併せもっておられ、廉潔性を感じさせる方で、プライベートでは奥様なくしては世が回らないという印象で受け止めておりました。東中先生と橋本先生は私が団支部の事務局長をしているときによく集まりに来て下さいました。東中先生は父と同世代で風貌が似ているところがあるのでこちらがついついなれなれしくしてしまい、戦争のころの話や陶器の話、奥様の話、食事療法や健康維持の話など雑談をさせていただきました。
橋本先生は、いつも「や、井上さん、頑張っているね。」とか「元気そうだね。」とか先生の方から声をかけて下さり、とてもありがたく感じていました。私もこういう態度でありたいな、と思わされるような配慮のある優しいジェントルマンでした。西先生が書かれているように、握手をして下さることもありました。岩田団員撮影の橋本先生の写真は、橋本先生らしさが良く出ていて、とても素敵です。
橋本先生、本当にありがとうございました。
師・橋本敦弁護士を偲んで
大阪支部 豊 川 義 明
橋本敦弁護士は、弁護士として、またその生き方においても私の師でありました。1971年4月に登録した私は、同期の海川道郎弁護士(故人)と報知新聞、大阪報知印刷での第二次争議に弁護団として加わりました。
読売新聞系列の報知新聞、報知印刷の各組合(三単組)は、新聞労連の中核的な組合でしたが、報知印刷社長にサンケイ新聞総務局次長兼人事局長であった岡本武雄氏が1969年1月1日就任し、172日間の第一次争議に続いて70年10月31日に懲戒解雇23名を含む113名の大量処分攻撃と闘っている最中でした。橋本先生は、大阪の団長(副団長故井関和彦弁護士)、浜口武人さんが東京の団長であり、この裁判労働委闘争のなかで、私は、先輩であり当時若手であった西岡芳樹(故人)、三上孝孜、寺沢達夫(故人)、吉田恒俊ら各弁護士とともに労働事件における弁護士活動の在り方について学びました。
橋本さんは九期でしたが、既に大人(たいじん)の風格があり、弁護団を引率する橋本学校の「先生」でした。
弁護団会議(合宿も含めて)では、大量の処分理由の整理、分析や多くの事件(約5年間で24連勝でした)毎の弁護士の分担を報告し方針を決めるのですが、橋本さんが多くを語るという風ではありませんでした。橋本さんが文章を書かれる際、先に原稿用紙上に頁数を書かれており、文章の訂正、修正は全くないのです。
橋本さんの訊問は、学校の先生風であり、大局から相手方の否定できない事実を一つ一つ押さえながらこれらの処分の不当性を明らかにするという方法でした。懲戒処分の仮処分事件で大法廷を使用した岡本武雄氏との対決は、橋本さんの面目躍如たるものがありました(国会での尋問も同様でした)。コ-ヒ-が大好物で当時大阪報印の磯田法規担当がいつも準備してくれていました。
その後、私は橋本さんが参議院選挙に出るとのことで、橋本さんから招かれて1978年1月に正森成二(現きづがわ)事務所から当時の東梅田(現北大阪総合)事務所に参加し、先輩の細見茂、西元信夫(故人)弁護士と一緒に北摂の一部と豊能地域を担当する事務所の建設に参加しました。橋本さんはその前に大阪市長選挙に出られたのですが、最初の支援の大集会で橋本さんらしい口調での切り出しは「真の革新橋本敦、只今参上」という言葉でした。私は、橋本さんは「何でもできるんだ」と驚きました。
私が推測するに橋本さんが気合を入れ緊張された国会活動は、一つはロッキ-ド事件での正森議員とのアメリカへの単独調査であったろうと思います。大学時代に授業料と生活費のため三田学園で旧制浪速高校(現大阪大学教養部)時代の力で英語教師をしておられたのですが、コ-チャンとの面談も含めて大変なことでした。もう一つは、毛沢東による文化大革命後に国会の超党派議員団で共産党代表として中国を訪問された時ではなかったかと想像します。北朝鮮拉致問題も早くに国会で取上げられました。
敦さんは大変な勉強家でした。沢山の労働事件(和教組違憲判決など)の担当、民法協の事務局長、幹事長を歴任しておられますが、労働法では1967年には窪田隼人教授と共著で『労働裁判―判例の理論と実務』を書かれており、この本のボリュ-ムにも驚くとともに私もこのような理論分野でも後に続きたいと考えました。
大切に持っておられた末弘厳太郎先生の初版本も戴きました。
橋本さんは、周りの人達への配慮が常にできる人でありましたし、国会議員になられても立場とはかかわりなく普段通りの方でした。正義への心はいつも変わらず、良い意味で「旧い活動家」でした。1971年以来の暖かい励ましとご指導に感謝し心からご冥福を祈ります。
- 東日本大震災から10年-今、団員が想うこと (3)[不定期継続企画]
女川原発再稼働阻止への闘い
宮城県支部 松 浦 健 太 郎
1 はじめに
東日本大震災から10年が経過した。私がいる石巻市は、東日本大震災の津波により最も多くの被害を受けた地域の1つである。この10年、復興住宅、防潮堤建設、その他インフラ整備等により、一面では復興されたとも言えるが、いまだ在宅被災者として各種保護を受けられなかった方の生活補償の問題、分断された地域コミュニティにより孤独な境遇に置かれた被災者の心のケアの問題等いまだ震災が残した問題・課題は多く残っているのが現状である。
一方、石巻市には、東北電力女川原発があり、同原発2号炉が再稼働に向けて着々と動きを進めている。東日本大震災により福島第1原子力発電所事故が起きたことは記憶に新しいところであり、原発の再稼働については、ひとたび事故が起きれば、多くの住民が迅速的確に避難することはおよそ不可能であること、それにより多くの住民が被曝するおそれがあること、一度汚染された地域を元に戻すことは不可能であること、適切な賠償がなされる保証などないこと等の、単なるエネルギー政策の問題を超えた住民の日常生活さらには生き方に直結する問題であることを忘れてはならない。
しかし、かかる教訓が全く活かされず、女川原発2号炉が再稼働されようとしている。
そこで、女川原発2号炉の再稼働阻止のための活動について報告したい。
2 女川原発再稼働阻止の活動
⑴ 考える会発足
石巻市は女川原発の立地自治体であり、町の中心(市役所所在地)から女川原発までは約17㎞程度の距離にあり、石巻市民約15万人のうち、UPZ(緊急時防護措置を準備 する区域・女川原発から30㎞以内)内に居住しているが、震災後に石巻市は、女川原発事故を想定した避難計画を作成した。
石巻市は前記のとおり、東日本大震災で最大の被害を被った地域の1つであり、女川原発自体も海岸付近に立地している。女川原発は地震や津波の被害を受けた場合、事故を起こす可能性が高いことは明らかであり、石巻市民の多くは女川原発が仮に再稼働されたら事故を起こすのではないか、事故が起きれば避難できないのではないか等という不安を持っている。
そこで、2018年4月、石巻市民有志で、石巻市が作成する避難計画の実効性を検証することを目的として、「女川原発の避難計画を考える会」を発足させ、避難計画の実効性を検証してきた。
かかる検証の結果、驚いたことに、私達が行った避難計画の実効性を判断するために必要となる事項について、その多くが「検討中」であった。まずは、避難計画は車での移動が基本となるが、いかに渋滞問題を解消するのか、生理現象にどう対応するか等は全く検討されていない。その他、避難先の自治体といかに避難者を受け入れさせるかといった協議はいまだ行われていない、避難退域時検査所(被曝しているかどうかを確認し、除染を行う中間地点)で誰が、どのようにして配置され、どのようにして検査を行うかといったことも何も決まっていない、オフサイトセンター(事故時の司令塔となる場所)に誰がどうやって集まるか等も全く決まっていない等、挙げれば切りがないほど、未確定、さらには検討さえされていない事項ばかりで、避難計画にはおよそ実効性がある等とは言えない状況であった。
⑵ 同意差止仮処分提起
一方、女川原発の再稼働に向けた動きが進められ、女川原発立地自治体である宮城県及び石巻市の首長が同再稼働に同意すれば、再稼働が現実化するという状況となった。
そこで、2019年11月12日、女川原発の避難計画を考える会のメンバーを中心に、17名が債権者となり、宮城県と石巻市に女川原発再稼働の同意の差止めを求めて仙台地方裁判所に仮処分の申し立てを行った。
しかし、同審理において、宮城県及び石巻市側は、「避難計画の実効性」については一切の認否をしないという戦術を採った。仙台地方裁判所は申立を却下し、それに対して即時抗告したが、仙台高等裁判所でも実質的な審理はなく、即時抗告が棄却された。同高裁決定の要旨としては、首長の同意は原発を再稼働させる東北電力の行為と同視できるものではない、東北電力の「事前協議」への了解や再稼働への国の方針への「理解の表明」は、再稼働の直接的な原因行為として位置付けられるものではない等というものであった。一方で、同決定では、「避難計画は、現状では相当の課題が残っている」と、同避難計画の実効性に問題があることを指摘した。
⑶ 女川原発差止訴訟提起
同意差止仮処分が上記のような結果となり、かつ、昨年11月には、宮城県知事・石巻市長が女川原発再稼働への「同意」を行った。今後は女川原発の安全対策工事を行った後に再稼働される予定である。
ここで、上記高裁の棄却決定は、「石巻市民ら30㎞圏内の住民の生命・健康の被害の危険は、2号炉の再稼働を予定している東北電力によって生ずる」と述べている。また、女川原発の避難計画を考える会は元々、同避難計画の実効性を検証し、実効性が確認できなければ、断固再稼働を阻止するための方策を採らなければならない。
そこで、同意差し止め訴訟のメンバーが中心となり、今度は、東北電力を被告として、女川原発の差止を求めて提訴した。
この訴訟においても、「避難計画の実効性」のみを実質的な論点とし、しかも、訴状提出の段階で、避難計画の実効性がないことの主張立証をし尽くしている。女川原発の再稼働に向けて法的に障壁となるものはなく、安全対策工事を終えれば直ちに再稼働されてしまう状況なので、何とか再稼働前に勝訴を勝ち取るべく、訴状段階で主張立証を十分に行った。
先日の水戸地裁における東海第二原発差止訴訟勝訴の朗報もあるので、本訴訟も同訴訟に続けて勝訴を勝ち取れるよう、原告団・弁護団ともに力を結集して進めていきたいと考えている。
団創立100周年記念出版事業 編集委員会日記(9)
神奈川支部 中 野 直 樹
百年史・第6章の時代
この章の表題は「90年代以降の規制緩和・国家改造と権利闘争」であり、この章は主にこの30年間の現在史を対象とする。
89年ベルリンの壁崩壊、91年ソ連崩壊、と第2次世界大戦終結後の世界の「秩序」を形成してきた冷戦体制が終焉し、勝者米国主導の経済のグローバル化と軍事的覇権主義が地球を支配し始めた。日米同盟関係で縛られたわが国はその大波に襲われた。
第6章の時代を、「1 政治改革・小選挙区制との闘い」(主執筆者・田中隆弁護士)、「2 新自由主義・規制緩和との闘い」(村田浩治弁護士、城塚健之弁護士)、「3 社会保障削減と反貧困運動・集団裁判の闘い」(渕上隆弁護士)、「4 平和・憲法・基地をめぐる30年」(松島暁弁護士)、「5 子どもの権利擁護と教育をめぐる闘い」(吉田健一弁護士)、「6 治安警察、刑事司法改革、再審をめぐる闘い」(泉澤章弁護士)の分野から構成した。
この現代史は現在進行形である。この渦中で闘ってきた多様な人々が同時代人としての眼で読み、評価をし、未来への希望を求める章であることから、主執筆者には他の章にない気遣いが必要だったろうと思う。
小選挙区制導入
政治改革・小選挙区制導入との闘いは、02年「自由法曹団物語」(下)で「『国家改造』との激突―小選挙区制」でも取り上げている。90年代、「中選挙区制」による衆議院構成のもとで、小選挙区制法案は4度にわたって廃案となった。正確には、94年の4度目は衆議院で可決、参議院で否決され、両院協議会で合意に至らなかったので廃案になるしかなかった。ところがその直後に衆議院議長、首相、自民党総裁による「密室会議」で蘇生し、現在の「並立制」ができた。このときは自民党が野党のときの細川連立内閣であった。衆議院議長が土井たか子氏であり、自民党総裁は河野洋平氏だった。この選挙制度のもとで、社会党はなくなり、自民党は侵略戦争の事実を認めない極右に支配されるようになり、立憲主義が深刻に傷つけられた。
今、市民と野党の共闘が新たな政権をつくることをめざした挑戦がなされている。ここに至る経過を理解する上で、第6章の1は大変有意義である。
新自由主義・規制緩和
小選挙区制のもとでの国会は、規制緩和と公務の民営化を軸とする新自由主義的な法制度改悪を猛烈な勢いで進めた。
この経過を第6章の2は、Ⅰ 非正規(派遣、有期、パート)の闘い、とⅡ 新自由主義改革・公務の民営化との闘い、に分けて取り上げる。
法制度改悪と連動しながら、大企業は直接・無期限雇用から非正規労働者への置き換えを急激に進めた。08年、そこにリーマンショックが襲いかかり、雇い止め、派遣切りの暴風雨となった。働きの場から排除され、生き甲斐を奪われ、生活困窮に陥った労働者の中から裁判に立ち上がる当事者が生まれ、全国の団員が弁護団として労働契約に関する法創造の事業に挑戦した。その不屈の努力は下級審裁判所から画期的な判断も勝ちとったが、それは一部にとどまり、司法の主流は、契約法理に保守的であり、権力が進める規制緩和に人権救済の機関として歯止めをかける役割を果していない。この非正規労働者を支援する労働運動は反貧困運動と結びついた社会運動となった。09年に誕生した民主党政権下で非正規労働者の権利を強める一部規制強化、12年に復帰した自民党政権下でさらなる規制緩和というジグザグを辿りながら、今は均等待遇・均衡処遇をめぐる権利闘争が焦点となっている。
「公務の民営化・市場化」も新自由主義が強引に進めている現代的な課題である。公務労働者の民間非正規労働者への置き換え、市民に対する公共サービスの商品化が進行している。これが法令改正、行政の政策決定を根拠として実施されていることから、民主主義の領域となり、司法的救済の壁は一層難しくなる法的構造にある。私もそうだが、この公務労働の分野に起こっている事態を全体として認識できている方は多くないと思う。第6章の2は、この事態を俯瞰し、いくつかの分野に分けて、市民の生存権・安全よりもビジネスチャンス・利潤追求が優先されているという本質から問題の所在を提起し、この激流に棹さしている闘いの一端を紹介している。最後に指摘されている「自治体戦略2040」」が誘導しようとする自治体の将来像を読んで暗澹たる気持ちになった。
社会保障削減と反貧困運動・集団裁判
このテーマでは、大きく3つの時代区分に分けて歴史が語られている。
高度経済成長と労働者の春闘等により勤労市民の所得が一定程度増えた時代に、朝日訴訟、堀木訴訟などが闘われ、裁判上は敗訴判決に終わったが、生存権理念を広げ、制度の前進を勝ちとった。この中で弁護士・研究者も含めた運動・裁判の主体が育った。
90年代、低成長、投機バブル経済の崩壊のなかで、社会保障費抑制に舵が切られ、全国の地方自治体で、不当な収入認定の拡大、支給の削減が強行された。これに対し、全国で個別の取消訴訟が提起された。この裁判は行政訴訟の中でも相当に高い勝訴率で救済機能を果たしてきたという。担当する弁護士も格段に増えた。
2000年代、政府は、社会保障における公的責任の縮小をあからさまに進め、生活保護費の老齢加算・母子加算を廃止、さらに本体である生活扶助基準の削減、年金給付水準の切り下げ等を強行してきている。これに対し果敢に裁判闘争が取り組まれている。生活保護受給者と年金受給者に加えられた分断攻撃を乗りこえ、新自由主義のもとで著しく増大した貧困問題として合流した社会運動が追求されている。