第1772号 4/11

カテゴリ:団通信

【今号の内容】

●平和憲法の価値は75年間の日本の平和ですでに証明されていると言って間違いありません  大塚 武一

●ウクライナから千島を考える  市川 守弘

●NATOの「東方不拡大約束」はあったのか  木村 晋介

●規範とパワー/ロシアのウクライナ侵攻をめぐって  松島  暁

~城口順二団員・追悼特集~

◆喧嘩の仕方を知る弁護士  高木 太郎

◆理屈を言う前にまず立ち上がれ。城口さんの生き方  佐々木 新一

●第1回台湾問題意見交換会の報告  森  孝博


 

平和憲法の価値は75年間の日本の平和ですでに証明されていると言って間違いありません。

群馬支部  大 塚 武 一

1、核抑止論の破綻
 日本国憲法の選択は、軍事に一切権限を与えないことでした。ですから自衛隊は、今も法律の根拠・裏付けがなければそもそも活動することができないシステムです。
 75年前の文部省は、「新しい憲法のはなし」のパンフレットを小、中学生に配布し、「戦力」の「放棄」の項で、「・・・みなさんは、決して心細く思うことはありません。日本は正しいことをほかの国より先に行ったのです。世の中に正しいことぐらい強いものはありません」(9頁)と説明しました。事実この正しい制度は、日本国民が他国から武力行使を受けたり、他国の人を殺めたりすることがなく今日に至っています。
 そして最大の武器である「核」の均衡により国々に平和が保たれるとする一連の考え方も、ロシアのプーチンの核使用をにおわす発言で、逆に多くの危険を生みだす考えであることが瞬時に人々の理解に達しました。
2、日本が他国から攻撃を受けた場合の議論
 軍隊は、あらゆることができることが原則です。しかし自衛隊は、できないことが原則です。できることは唯一法律で認められた限度です。この考え方がロシア侵略戦争で揺らいでいるようです。
 繰り返しになりますが、日本国憲法は、文字どおり国際紛争を解決する方法として軍隊を持たず武力行使を一切放棄しています。この選択によって表題で述べたとおり日本は、自衛隊をコントロールし、現に日本の平和は実現できていました。これはリアルな事実です。
 国会で古く「とじまり論」が議論されたことがあります。盗人が来ても家の安全を確保するため、しっかりした扉に鍵をかけておきましょう、というものです。
 初期の防衛論です。扉をこじ開ける人は盗人ではなく強盗であるから、扉の後ろで武器をかまえておこう。戦うことに長けた人を呼んでおこうとエスカレートしていきます。結局、この議論の行き着くところ、最大の武器である核を保有することまで思考してしまう結果になり、日本国憲法が「戦力を保持しない」に完全に衝突します。この結果、「国家が急迫不正の侵害行為に対し自衛権を行使することを否定するものでない」とする個別的自衛権の容認の下、専守防衛、文民統制、非核三原則の日本の安全保障の三大基本政策が形づくられてきたのです。
 仮に、これをかえる安全保障は、当然のことながら国民の総意の可否により憲法改正の手続によって変更することが可能です。
3、今回のロシアの侵略戦争によっても、憲法の9条の輝きは失われない。
 これらの議論に対し、「9条さえあれば大丈夫なのか」式の反論で憲法を攻撃する考え方があります。
 しかし冒頭述べたとおり、核抑止論なるものによって、21世紀の現在いまや侵略戦争は起き得ないとする考えは、今回のロシアの侵略戦争によって破綻しました。
 では、どうして防ぐことができるのでしょうか。
 日々のウクライナへのロシアの攻撃の事実とロシア政府の報道官の偽りの「反論」がその方法を明らかにしています。
 ロシアの報道官は、毎回、白を黒と言う、呆れかえった「反論」をしています。つまり真実を隠すことに躍起になっています。ここにヒントがあります。現在のロシアは、真実の持つ絶大な力を非常に恐れているのです。
 国連の事務総長自らがロシアの戦争犯罪を糾弾しています。ロシアは、真先に報道機関に刃を向けています。この際、真実を世界に知らせる報道機関の自由を真先に奪ってしまおうとする意図です。しかし世界の人々に、本当の事実を知らせ「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、我らの安全と生存を保持しよう」(憲法前文)とする方法が極めて有効なことが今回あらためてわかりました。これこそ、真に力を発揮するリアリティのある対抗方法でしょう。真実を知った世界の人々の連帯がどんどん広がっているからです。
 また、憲法は、9条をはじめとする「自由及び権利」の保障を「国民の不断の努力によって保持しなければならない」とし、「9条さえあれば大丈夫」とは決して言っていません。
 具体的な「努力」の一つとして、全国で7700名の原告が22の地方裁判所に提起した「安保違憲訴訟」をあげることができます。2015年9月19日に強行採決された新安保法制法は、自衛隊の防衛出動命令の基準を全く「不明確」にし、そのために「存立危機事態」なる新造語をつくりました。そして日本が「他国防衛」をする道を認めてしまったのです。
 日本国憲法9条を根拠にしたこの闘いは、まさに9条をますます輝きのあるものにしているものとして紹介しました。

 

ウクライナから千島を考える

北海道支部  市 川 守 弘

1 はじめに
 ロシアのウクライナ侵攻(侵略)に対する抗議の声は、自由法曹団内でも多くの団員が論じているところである。私は、このウクライナ問題を受けて、ロシアと日本の「領土と主権」問題についてもう一度整理してみたいと思った。日本とロシアは小さな海峡を挟み「領土と主権」の対立(「北方領土」)を抱えており、ウクライナ問題は対岸の問題とは思えないからである。ロシアの武力による支配領域の拡大は今に始まったものではなく、千島問題において長年ロシアが主張してきたことなのである。
 本稿では「北方領土」問題における、日ロ双方の主張と国際法上の理解、また戦後のアメリカとソ連の姿勢について検討をし、いまだ解決されない「北方領土」問題とは何なのか、について考えるものである。
 そもそも日本政府のいう「北方領土」とは、歯舞群島(歯舞)、色丹、国後、択捉の諸島をさしている。政府がこれら諸島を「北方領土」と言うのは、「固有の領土」という表現とあいまって、政治的主張によって色付けされた日本独自の言い方である。国際的には歯舞群島(歯舞)、色丹、国後、択捉の諸島は南千島諸島と称されている。なぜ政府は「北方領土」という言い方をするのか、という点から整理をしていくことにする。
2 「北方領土」という表現を使う理由
 日本は1951年サンフランシスコ講和条約(サ条約)2条(c)によって、南樺太及び千島諸島(Kurile Islands)の権限(title)、請求権(claim)を放棄(renounce)した。しかし、政府は「北方領土」は「日本固有の領土」でサ条約で放棄した千島諸島には含まれないとしている。千島諸島ではなく「日本固有の領土」とすることによって、サ条約によって主権を放棄したものではない、とするのである。この政府の主張の根拠は1855年(安政元年)の日露通好条約によって択捉島とウルップ島との間で境界が定められたこと、及びそれまで択捉島以南には「外国人が定住した事実はない」とし(内閣府HP)、日本だけが支配していたからということである。そこで、この政府の主張について検討することにする。
(1)江戸時代の広大な蝦夷地は「化外の地」であった
 北海道の歴史をひも解くと政府のこの根拠はまず事実ではないことが明らかである。
 もっとも大きな間違いは、幕藩制下において、松前藩が支配する松前周辺の和人地以外の広大な蝦夷地はアイヌの多くの集団が支配する「化外の地」(異域、外国の意味)とされ、アイヌは「化外の民」(外国人)とされていた点である。つまり、蝦夷地は本州以南とは異なり、アイヌ集団が支配する外国だったのである。蝦夷地を日本の支配地としたのは明治政府(明治2年)であり、アイヌ集団の土地への権限を無視して政府はアイヌの支配地を侵略していった。日本政府の上記根拠は、この歴史を否定し明治政府の蝦夷地への侵略を覆い隠している。(拙著「アイヌの法的地位と国の不正義」(寿朗社・2019)参照)
(2) ロシア人も千島に来ていた
 もう一つの間違いは、江戸時代にもロシア人は南千島諸島に来ていた点である。1855年以前にも、ロシア人はウルップ島、択捉島を根拠地としラッコ猟を行い、アイヌと交易し、1778年(安永7年)には根室半島に来て通商を求めるに至っている。
 幕府は1785年(天明5年)、異域である蝦夷地の東方に広がる千島諸島に、大規模な調査隊を派遣した(天明蝦夷地探検)。和人が漂流者以外で公に択捉島に渡ったのは、この調査隊がはじめてとされている。この調査隊が択捉島に上陸したとき、3人のロシア人が住んでいた。調査隊の一員であった最上徳内がこのロシア人から北千島の状況やロシアの状況の聞き取り調査をしている。その後幕府は蝦夷地を松前藩から上地して直轄し、1800年(寛政12年)択捉島のアイヌの同化政策を推し進め、南部藩、津軽藩から兵を派遣し、「支配」の体裁を整えた(高倉新一郎「新北海道史概説」、ザヨンツ・マウゴジャータ「千島アイヌの軌跡」等)。歴史学者榎森は、幕府のこの「支配」は、「対ロシア関係を意識した」「蝦夷地の内国化を装飾するための政策」でしかなかったとする(榎森進「アイヌ民族の歴史」)。つまり、表面上は「幕府直轄」とし、「化外の地」から幕府が支配したかのような外形を作ったものの、実際は蝦夷地を「化外の地」としアイヌを「化外の民」とする点に変わりはなかった。(前記「アイヌの法的と国の不正義」参照)。
 したがって、日本政府が主張するような択捉島以南は日本人のみが支配していた「日本の固有の領土」であったとは到底言えるものではなかったのである。この日本政府の主張は、明治の天皇制政府が、「化外の地」であった蝦夷地を侵略した歴史にふたをするものでしかないのである。政府の「北方領土は日本固有の領土」で「サ条約で放棄した千島諸島には含まれない」とする理由は、この自らの日本の歴史を無視した理由付けであることが分かる。
3 ロシアの主張
 では対するロシア側の主張な何なのか。ロシアが主張する千島諸島を領有できるとする根拠は、国連憲章107条である。この条項は第2次大戦中の敵国に対して「この戦争の結果としてとり又は許可したものを無効にし、又は排除するものではない」という内容である。ロシアは署名していないサ条約を根拠に主張できないため、国連憲章を持ち出しているのである。ロシアの主張は、ヤルタ協定を前提とし、このヤルタ協定に基づき千島全島を領土としたから、「敵国であった日本との戦争の結果として取得」したものであり、国連憲章107条によって保障されるとしているのである。
 以上のように「北方領土」をめぐる論争は、日本は、サ条約による千島の放棄に北方領土は含まれないとし、ロシアはサ条約とは無関係の主張をしているのであるから、日ロの主張がかみ合わないのは当然である。しかも日本はこのロシアの主張に対して真っ向から反論をしていない。
 そこで次にこのロシアの主張を検討する。
4 歴史的事実の整理
(1)大西洋憲章、カイロ宣言、そしてポツダム宣言・・・領土不拡大の原則
 第二次世界大戦時における戦争に関する国際法について見ていくこととする。
 まず、日本の敗戦と戦後処理はポツダム宣言(1945年7月26日)を受諾したことから始まる。
 ポツダム宣言は1945年7月26日イギリス、アメリカ、及び中華民国の名において発表され、日本は同年8月14日に宣言を受諾し、9月2日に調印をした。敗戦後の処理はすべてこのポツダム宣言に従って履行されることになる。
 ポツダム宣言8項は「カイロ宣言の条項は履行せらるべくまた日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国並びに吾らの決定する諸小島に局限せらるべし」とある。
 ポツダム宣言で引用されるカイロ宣言はルーズベルト、蒋介石、チャーチルによって1943年11月に出された宣言である。この宣言では対日戦争の意義として、「日本国の侵略を制止しかつこれを罰するため今次の戦争を為し」ているとし、「同盟国は自国のために何らの利得をも欲求するものに非ず」また「領土拡張等の何らの念をも有するものに非ず」としている。戦後の日本の領土の範囲としては、「1914年の第一次大戦の開始以後に」日本が「奪取」「占領」した太平洋の一切の島嶼を剥奪し、満州、台湾、渤湖島のように清国から盗取した一切の地域の中華民国へ返還した残りの土地とされる。その他日本が略奪した一切の地域からの駆逐、朝鮮の自由、独立、も明記されている。カイロ宣言、ポツダム宣言では、1875年(明治8年)にロシアとの樺太千島交換条約によって平和的に取得した千島諸島は日本の領土として確定していたのである(実は南樺太も1914年以前の日露戦争によって割譲された土地であるから、ポツダム宣言では日本の領土されている)。
 ポツダム宣言、カイロ宣言のいう第二次世界大戦の意義付けは、実はそれ以前の1941年8月14日に発表された大西洋憲章で明言されたものである。大西洋憲章はアメリカ大統領とチャーチルが交わしたもので、1項で「両国は領土やその他の増大を求めず」、2項で「両国は関係国民の自由に表明せる希望と一致せざる領土的変更の行わるることを欲せず」とし、第二次世界大戦は領土拡張を求めるものではないことを明らかにしているのである。
 以上からすれば、連合国側の第二次世界大戦の戦後処理の方法として、日本の領土の保全と連合国のいかなる国の領土の拡張をも否定するものとなっていることが明確である。
(2)ロシアと連合国との関係(連合国共同宣言)
 ロシア(ソ連)はポツダム宣言の当事国ではないし、カイロ宣言にも参加していない。そこで、ポツダム宣言やカイロ宣言に従わなければならないのかが問われる(ソ連は連合国なのか、という問題)。
 ところで、ソ連は1942年1月1日、ワシントンDCで連合国共同宣言に署名し、正式に連合国として参加した。この共同宣言では「署名国政府は、大西洋憲章として知られる1941年8月14日付けアメリカ大統領並びにグレートブリテン・・総理大臣の共同宣言(大西洋憲章)に包含された目的及び原則に関する共同綱領書に賛意を表し」てと表明し、参加国は連合国として戦争を行うことを宣言した。したがって、ロシア(ソ連)が連合国として対日戦に参加したのであれば、領土不拡大の原則に拘束されるのである。
(3)国連憲章107条の「戦争の結果としての保障」の根拠・・・ヤルタ協定
 ロシアが国連憲章107条を持ち出す根拠となっているのが、ヤルタ協定である。ヤルタ協定は1945年2月11日、ソ連、アメリカ、イギリスの三国で合意された協定である。ヤルタ境地ではドイツ降伏後の2~3か月後にソ連が対日戦に参加することを協定したもので、3項に千島諸島がソ連に引き渡される(hand over)と規定されていた。ヤルタ協定は戦後の1946年2月11日発表された秘密協定であり、日本がポツダム宣言を受諾した際には表面に出ていなかったものである。秘密協定とされたのは、当時、ソ連は日本との間で、不可侵条約を締結していたので、対日戦参戦は条約違反を公言することになるためだった。
 このヤルタ協定の3項と領土不拡大の原則との関係をどう解釈するべきなのか、が大きな問題となる。締約当事国であるアメリカのヤルタ協定3項の理解は「自国の領土なることを認めた」とするロシアの主張とは異なっている。それは連合国側の日本における戦後占領(対日武装放棄)の対象地域を決めたマッカーサー指令第1号(指令1号)(General Order NO.1これは一般指令などとも訳されているが、私はGeneral は連合国最高司令官の意味と考え、マッカーサー指令と訳した)を巡るやりとりで表面化した。指令1号では当初、ソ連が占領する日本の地域に千島諸島が入っていなかった。そこでスターリンは1945年8月16日付けトルーマンへの文書で、ソ連軍が占領する地域は、ヤルタ協定に基づいてソビエトに帰属する全千島諸島の地域を含むこと、また釧路と留萌を結ぶ北海道の北半分についてもソ連軍が占領すべきことを要求した。トルーマンは8月17付けスターリンへの返書で、当初案を修正することとした。修正内容は、北海道の占領は拒否したものの、ソ連軍の占領地域として全千島諸島を含むことを承諾したうえで、千島諸島の何ヶ所かにアメリカ軍の飛行場基地保有の権利を要求した。スターリンはこの返書に激昂し、ヤルタ協定を根拠に、千島諸島はソ連に帰属するもので、アメリカ軍の基地などは認められないと反論した(8月22日付け返書)。これに対するトルーマンの再返書で、「私は、ソビエトの領土について話しているものではない。私は日本の領土である千島諸島について述べている。この処分は平和条約によって決せられるものであり、前任者(ルーズベルト)はこの平和条約の締結にあたりソ連がこれらの島々を取得することを援助することについて約したと聞いている。」とした。トルーマンは、ヤルタ協定はソ連に対し千島諸島の領土と主権を認めたものではなく、したがってソ連の領土となることを約束したものではないと断言した。ルーズベルトは将来の日ソ間の平和条約締結交渉の際に千島諸島がソ連に帰属できるように援助する、と約束したにすぎない、としたのである。そしてこの見解は、現在でもアメリカ合衆国の公式見解である。つまり、アメリカの見解では、ソ連と日本の平和条約によってのみ、千島の主権を移転することができ、平和条約が締結され、条約によって割譲されるまでは千島諸島は日本の領土であり、日本の主権の及ぶ範囲である、とするものである。(以上はUnited States, Department of State, Foreign relations of the United States の該当年の資料)
 ヤルタ協定をポツダム宣言、カイロ宣言、大西洋憲章等と整合性を持つ内容として解釈する以上、このアメリカ合衆国の公式見解は正しい。この理解に立てば現在のロシアの千島諸島の占有は両国で戦争終結時に締結される平和条約までの戦時占有でしかないのである。したがって、単なる戦時占有中でしかない千島諸島の占有状態は、ロシアが主張するような国連憲章107条によって戦争の結果として取得したものとはならないのである。ソ連の千島占拠は日本がポツダム宣言を受諾して降伏した1945年8月15日以後の戦争で占領した一時的な戦時占有状態に変わりはない。千島諸島の領土と主権の問題は、最終的には日ロ間の平和条約によって決定されるものである。
(4)サ条約の「放棄」はどうなるのか?
 政府が一貫して千島諸島は放棄したと主張する根拠である、サ条約2条(c)と領土不拡大の原則との関係について、次に検討する。
 講和条約交渉の際に、アメリカは当初、樺太、千島問題はソ連が調印国にならない限り触れる必要はないと考えていた (上記資料)。ただ講和条約交渉の最終段階で、2条(c)を追加し、さらに26条を設けることとし、26条で「日本国は、1942年1月1日の連合国共同宣言の署名国で、日本と戦争状態にあった国との間」で、「サ条約と同一条件で日本と2国間の平和条約を締結できる」とし、ただこの「日本国の義務は3年間で終了」する、とした。当時の国務長官であったダレスは、上院の極東小委員会で、調印のタイムリミットを定めたこの条項について、もし条約を調印しなければ、条約の条項に基づくいかなる利益もソ連は受け取ることができない、と述べている(上記資料)。これらの条項はアメリカによるソ連への条約への参加の「誘い」ではあるものの、これでアメリカはヤルタ協定でのソ連に対する約束を果たしたことになった。
 しかし、ソ連は結局サ条約に署名することなく3年が経過したため、日ロ間での平和条約の締結の課題が未だに残っているのである。その結果、ロシアはサ条約による利益を主張できないし、日本も千島諸島の放棄を前提にロシアとの交渉をする必要はない。いわば、ロシアがサ条約に署名しない結果として、2条(c)は失効したのである。なぜなら、千島諸島の「領土と主権」を放棄したものの、その放棄の相手国がいないために効力を失ったからである。
5 現在の状態
 以上の歴史的経過を整理すると、おのずから現状が理解できる。ロシアは戦争による戦時占領を継続していること、ロシアが連合国共同宣言に署名している以上、領土不拡大の原則に拘束されること、日本はサ条約2条(c)に拘束されず千島全島の領土と主権を保持すること、ロシアとの平和条約によってのみ千島諸島の領土と主権の移譲が可能となること、が国際法上明らかなのである。日ソ共同宣言による国後島、択捉島の放棄を持ち出す人もいるが、これは平和条約締結後に歯舞、色丹を引き渡す、とされているだけで、平和条約の内容については触れていないのである。
6 結論 
 ロシア(当時はソ連)は、第二次世界大戦における千島諸島をめぐる領土と主権の問題について、武力による領土と主権の拡大を当然の前提とし、武力による「取得」を主張していることが明瞭である。この姿勢はロシアにも引き継がれ、現在のウクライナへの侵攻を正当化しているように思えてならない。このようなロシアの姿勢を見る限り、私たちは、ロシアの過ちを糺しつつ、第二次世界大戦の意義である領土不拡大の原則を堅持しながら、千島問題を解決しなければならない。
 私たちは、一方で日本政府の間違った歴史観を正すとともに、ポツダム宣言に従うという戦後一貫した世界の基本姿勢を貫き、国際社会に訴えてロシアに対して千島全島の返還を要求し、第二次世界大戦を終結させるべきなのである。この姿勢は、日本がウクライナ問題についてとるべき姿勢の基本ともなると確信している。

 

NATOの「東方不拡大約束」はあったのか

東京支部  木 村 晋 介

 本誌3月11日号の松島暁団員の「それでも、ウクライナ侵攻は許されない」を読ませていただいて、いくつか疑問に感じる点がありました。
 一つは、松島さんが「本音ではプーチンの心情を理解できないわけではない」とされ、その理由として、冷戦時のアメリカの「NATO東方不拡散約束」が履行されなかったこと を挙げておられることです。
 この約束の存在についてアメリカもNATOも否定しているのですから、約束の存在についての証明責任はロシアが負うものです。松島さんは、この約束はベーカー米国務長官からゴルバチョフ首相(当時)とシュワルナゼ外相に対し口頭でなされたと述べておられます。プーチン大統領の主張を支持する発言です。
 まず、ゴルバチョフ氏に対する約束の存在というのを確認しましょう。NATO不拡大約束に関し、ゴルバチョフ氏自身が2014年10月16日に、「当時はNATO拡大の問題そのものが提起されなかった。それは私が責任をもって確言できる」とRussia Beyond the Headlines(露の英語メディア)で述べている、ということです。口頭の約束を受けたというその本人がそれを否定しているとすれば、約束の存否の判断に関する重要な情報です。
 約束を否定する側からは、「ベーカー国務長官が1インチたりとも(東方eastward)に拡大しないと言った時の東方とは東ドイツ部分のことで、東欧諸国を念頭に入れていたわけではない」という主張がなされています。確かにその後、1990年9月12日にドイツ再統一のために東西ドイツ、米国、英国、仏、ソ連の6カ国外相間で調印された「最終解決条約」には、ベーカー氏側の主張通り、外国軍つまりNATO軍は東ドイツ地域に配備されないとの合意が盛り込まれています。しかし、それ以外の国への不拡大の約束はありません。東方不拡大のような相州の安全保障についての重要な約束があったのなら、なぜこの時ソ連はそれを条約に盛り込むように主張しなかったのでしょうか。もし、これほどの重要な合意があったのだとすれば、将来において結局は、「言った言わない」の問題となるレベルにとどめたのはなぜか。この点を、約束の存在を主張する側が合理的に説明する責任があると思います。
 当時すでに、ロシア(ソ連)は西側諸国にとって敵ではなく、彼らの同盟国やパートナーとなると期待され、NATOに加盟させるかという議論すらあったのですから、約束の不存在を主張する側の主張には合理的なものがあるように思います。約束の主張がされている時期は松島さんがいわれるような「冷戦時」ではありません。
 もう一つは、松島さんがウクライナ問題についての国際法律家協会の声明を援用されていることです。援用されている主張は、どう読んでも、NATO が他国に対する領土拡張・侵略的目的を持つ「帝国主義勢力」の道具である、といっているようにしか読めません。事実、同協会はその声明の中で、NATOを国連憲章に違反する違法な組織と断定し、その存在自体を否定し、ロシアの侵攻を招いたことにつき、西側軍事同盟の責任を厳しく問う立場に立っています。そのような立場の団体の主張を援用することについては、相当の慎重さが求められると思います。
 私は、NATOに国連憲章にふれると思われる行動があったことは否定するものではありません。しかしロシアには侵略行為によって領土を拡張したという事実がいくつかありますが、少なくともNATOは領土を他国から奪うというような蛮行は行っていないように思います。
 松島さんは「NATOはロシアを敵視する軍事同盟だからウクライナが加入するのをロシアが指をくわえて見ているわけがない」とまでおっしゃいますが、NATOがロシアを敵として侵略的な行動をとったことが今までにあるんでしょうか。
 どちらを帝国主義と呼ぶべきかは、おのずと明らかなのではないでしょうか。
 三つめは、ロシアと国境を接する国家は、緩衝地帯となって中立の立場に立つべきだという松島さんの主張についてです。中立の緩衝地帯となるか集団的安全保障を選ぶかは、その国の主権国家としての判断によるべきなのではないでしょうか。ロシアと国境を接する国家のうち、NATOに加盟している国は、ロシアの侵略を受けていませんが、NATOに加盟していなかったウクライナは侵略を受けました。ジョージアもまた然りです。これが国際政治の現実だと思います。松島さんは、ロシアと国境を接する国家について、例えばポーランドについてもNATOを脱退して自国を緩衝帯になるべきだといとおっしゃりたいのでしょうか。見解をお聞きしたいと思います。

 

規範とパワー/ロシアのウクライナ侵攻をめぐって

東京支部  松 島  暁

 ロシアのウクライナ侵攻によってあらためて以下の事実を確認させられた。規範が規範として通用するのは、それがパワーによって支えられて初めて通用するという事実を。
 法が遵守され規範として通用するのは、規範を破り法に反すれば、違憲を宣告される、賠償義務を負わされる、訴追・処罰される等々、権力による力の裏付けを有しているからに他ならない。
 他方、国家権力に相当する統一権力の存在しない国際社会における規範は、なに故に通用するのか。国連憲章や国際法は、それが規範であるが故に当然に通用しているわけでもない。やはりそれを支えるパワーが存在する。ナチスドイツや日本軍国主義を力でねじ伏せ、第二次世界大戦に勝利した戦勝国、米・英・仏・ソ(露)を中心に組織されたのが国連であり、中核五カ国=常任理事国のパワー(出発点においては米国が他を圧倒)によって支えられている。拒否権を付与された5大国が一致して事に当たることを前提に国連は組織されたといってよい。
 国連は無力だという意見がある。確かに、この国連の成り立ちからは、5大国が一致できないテーマ・課題については、その力を発揮することには限界がある。しかし、5大国が一致すれば国連は力を発揮するのである。ユーゴ特別法廷においてミロシェビッチ元セルビア大統領を戦犯として問うことができたのは、特別法廷設置に5大国が一致して同意したからである。そうである以上、プーチンを戦犯として拘束・訴追をロシアが受け容れるはずもなく、その可能性も低い(プーチンが権力者の座を追われれば訴追の可能性は生まれるが)。
 1860年代初頭、まだ独立国家ではなかったポーランドの主権回復の動きについて、プロイセンの宰相ビスマルクは、「どのような形であれ、ポーランド王国を復活させることは、我々を攻撃してこようとする敵の同盟国を1つ作ることと同じである。プロイセン王国は、ポーランド人からすべての希望を奪い、彼らを打ち倒して死滅させるまで、徹底的に粉砕しなければならない。私は彼らの状況に心の底から同情する。しかし我々が自国の存続を願うのなら、彼らを消滅させるしか方法がない」と冷酷に言い放った。ビスマルクのこの言い分についてシカゴ大学のミアシャイマー教授は、「大国がこのように考え行動することを知るのは、たしかに気が滅入ることかもしれない。しかし我々には、自分の理想の姿を心に描いて世界を見ようとするのでなく、世界をありのままに見るという義務がある」と評している。
 ソ連崩壊は「20世紀最大の地政学的悲劇」だったと認識するプーチンのもとでパワーの回復を目指すかつての覇権国ロシアにしてみれば、自国を仮想敵とするNATOに隣国ウクライナが組み込まれようとしているとき、その動きを阻止することは自国防衛にとって死活的利益となる(少なくともそう考える)。
 他方、アメリカはNATOの拡大によって中欧を民主化するという「大義」を掲げて勢力圏拡大を推進してきた。J・ケナンらの「NATOの東方拡大はロシアを孤立させ不安定要因になる」との警告があったにもかかわらずである。国際政治の現実からは、自らの勢力圏に入ってこようとしているウクライナに対するロシアの介入を、アメリカが手をこまぬいたままでいるはずがないのである。
 150年以上も経った世界が、理性や道徳、法規範によって規律されるのではなく、大国が武力というむき出しの力によって小国を踏みにじるのが現実だということを知るのは「気が滅入る」ことではあるが、これが現実である。
 ウクライナの為政者に、ウクライナという小国を舞台に、ロシアとアメリカ、2つの大国が覇権を争っているとの認識があったのか、その大国間の狭間で、自国の民衆を戦禍にさらさない努力と取り組みがなされたのか。一方の大国の庇護のもとで自国の安全を確保しようとしたゼレンスキー政権の判断が正しかったかは別途問われよう。もっとも、中立的立場をとることを国内勢力、とりわけ武装右派勢力(ネオナチグループ)が許したかは疑問ではある。
 翻って考えると、わが憲法9条も憲法に定められているがゆえに通用しているわけではない。9条を支えるパワーをわれわれは養っているだろうか。自らの思い描く理想や願望から9条をめぐる現実世界を見ようとしてはいないだろうか。

 

城口順二団員(埼玉支部)~追悼特集~

 

喧嘩の仕方を知る弁護士

埼玉支部  高 木 太 郎

 城口順二先生(23期)が亡くなった。80歳、早すぎる死だった。
 私は91年に埼玉総合に入所した。城口先生は年齢も登録年も20年先輩だった。
 登録間もない頃、「債権者集会やるから来るか?」と言われてのこのこついていった。裁判所ではないらしい。大きな会議室に到着すると、城口先生は、てきぱき事務局を指示して、受付やら、司会席やらの配置を始めた。開始時間が近づくと、ぞろぞろ参加者が集まってきた。神妙な顔をしているのは依頼者である債務者遺族。ギスギスした表情をしているのは債権者に違いない。城口先生が、来訪者の名前や関連を聞くと、「はい、あんたはこっち」「そっちのあんたはあっち」と別々の受付場所を指示している。どうやら債権額により、弁済のパーセンテージを分けて、別扱いしているらしい。(このギスギスしたおじさん達、そんなことで許してくれるんだろうか)。私の心配を余所に、城口先生の説明はすらすら進み、何事もなく、集会は終わった。終わってみると、ほとんどの債権者が弁済額の同意書にサインをしていた。「残りの債権者はどうするんですか」私が尋ねると「そのうち、同意してくるよ。ほっとけばいい。」。城口先生は本当に「ほっといた」。そして確かに事件は終わった。
 刑事事件もご一緒した。私が尋問を担当したが、やけに介入してくる裁判官だった。城口先生が突然立ち上がり、「裁判官、あんた、さっきからつまらない介入尋問ばっかりやってるが、自分の眠気覚ましのために介入尋問するんじゃないよ」。当然、裁判官は怒り、そんなことはないと反論する。すると、城口先生は、やおら手帳のメモを見ながら「14時02分、こっくりして頬杖が外れた」「14時07分、目を擦った」「14時09分、再びこっくりした」と詳細に裁判官の状況を述べ始めた。裁判官は言葉を失って真っ赤になる、書記官が慌てて取りなす・・・。
 癖のある依頼者も多かった。依頼者は城口ファンが多い。そんな癖のある人にファンになられても、私だったらとてもやっていけない。一審で正直勝ちすぎた事件があった。高裁の和解期日で、私だけが出かけたことがあり、その依頼者のごつくて頑固で言い出したら聞かない顔が浮かび、とても譲歩できない、と回答をした。裁判官はにっこり笑って「次回はボスをつれていらっしゃい」。伝えると、城口先生は何かを察したらしく、次回期日、依頼者を伴って、和解期日に出頭した。そして、(私の感覚では)ありえないほど譲歩した案を依頼者に飲ませた上で、和解を成立させた。
 最後に県労委事件で語り継がれる伝説のやりとりを一つ。使用者側の代理人と審問で言い合いになり、相手の代理人が激しく怒り始めた。「今、バカ、と言ったな、バカとはなんだ、謝れ!!」(あ、まずい・・・)。しかし、城口先生は少しも慌てない。「バカにバカと言って何が悪い!!」。この後、どう納めたのかは伝わっていない・・・・。
 喧嘩の仕方と勘所を知っている人だった。
 96年に独立され、事務所でご一緒したのは、5年に過ぎない。しかし、その後も城口勉強会と称して先生の事務所に押しかけ、城口会なるゴルフコンペにも度々参加させていただいた。先生は半分引退して好きな絵を描くんだと言っていたが、独立後に、日弁連副会長も、法制審議会委員も務められた。
 ご冥福をお祈り致します。

 

理屈を言う前にまず立ち上がれ。城口さんの生き方

埼玉支部  佐 々 木 新 一

 2月初旬に宮澤洋夫先生の、その後城口順二先生の訃報が伝えられた。私のお世話になった宮澤事務所(現埼玉総合法律事務所)の一つの時代が終わった感を強くする。私が同期(27期)の村井勝美さんと一緒に宮澤事務所にお世話になった時期、宮沢先生は埼教組事件(教員のストライキに対する刑事弾圧事件)に、城口先生はスモン事件(主として徳島スモン事件)にかかりきりの状態で、事務所でお目にかかる機会も、月に一二度程度だから、城さんから「新人教育」なぞは受けた記憶はない。一緒に事件を担当したことも宮澤先生からは福島原発事件を命じられたが、城さんとはほとんどない。といっても城口先生は品よく言えば個性のあふれた事件処理をするので、私たちごく平凡な弁護士ではご一緒させていただいても邪魔になるばかりで役に立たない。いつも稚気あふれた自慢話の聞き役に止まることになっていた。私なぞは生意気に「城さんから学ぶところはない。個性的過ぎてとてもまねできない」とご本人に直接放言してきたが、城さんは面白そうににこにこしていた。
 弁護士業としてお金稼ぎは下手ではないが、そんなことはむしろ当然で(意義のある仕事をしているからお金稼ぎはしないとする風潮にははっきりと批判的でした)、やるべき仕事をとことん粘る、必ず成果をもぎ取るというような気概があった。
 ただ実際には困難事件にのめり込んでいました。残念がっていたのは、中田直人先生に誘われて狭山事件に打込み、[足跡]を担当して相当の究明が出来ていたのに不幸にも当初弁護団として解任されたこと、新しい弁護団からその分野について引き続き弁護団に残ってほしいと言われていたこと、その後狭山事件が刑事冤罪事件としてではなく、政治裁判になったため無罪立証が弱くなっているのではないかという点でした。最後まで無罪の心証をお持ちでした。
 具体的なエピソードは語れませんが、当時浦和地裁の刑事の裁判長で、引退して越谷支部で登録をされたS先生(S先生は退職前は高裁裁判長という経歴をお持ちでしたがお酒がお好きで私などともしばしばお付き合いいただけました)が、城さんの話題が出るたびに、「城口君の法廷は楽しかった。いつ何が飛び出すかはらはら緊張して臨む法廷だった」と語っていた。異議や求釈明や反対尋問やなんやかやが自然体のまま当意即妙に繰り出され、それが城さんのペースで法廷を巻き込んでいったのだと思います。理屈を考える前に、まず立ち上がって、口が出て、手が出る典型的な現場主義(主義と言うと大げさですが)が城さんのスタイルと言えば良いでしょうか。ご自身の感性に自身を持ち、それを大切にしてきたのだと思います。城さんのかたるところによれば、川口の鋳物労働者の家庭に育ち、大学生活も自活し自力で卒業されたとのことですし、体力もあってスポーツ万能で野球もゴルフもお上手で、外に油絵もハーモニカも手を染めたものはなんでもものにできる天性の器用さもあるので、自信も満々だったと思う。
 城さんは最初に所属された東京合同法律事務所が大好きで、上田先生をはじめ伝説的な大先生たちに可愛がられたことを誇りにされていたが、このように裁判官にも愛されていた。だからお客さんにも、時に厳しく対決した相手方からも愛されていた。きつい物言いでも愛嬌があるので決定的にはならないレベルを経験的に心得ていたものと思います。ただし、好悪の感情は顕著で嫌いとなれば徹底的でした。
 感性を大切にしていたという点では、つい数年前ですが立ち上げ予定のある弁護団会議で「こんな理念的な裁判は性にあわない。被害を掘り下げ被害を前面に立てなければ裁判官は動かない」と言ってその後弁護団会議には出席されなかった。最後までご自身の感性に正直でした。
 司法改革の山場久保井一匡日弁連会長の時期の日弁連副会長になられて大変ご苦労されていた。提起されている「司法改革」が必ずしも広く国民の利益にそったものではなく、かつ弁護士層の要求と一致しないことは当時の日弁連執行部や理事の共通認識であるが、それが政治的妥協を必要とする状況の下でどのような決着をさせるかについて苦闘されておられた。その時期私が埼玉の会長で、しかも、理事会などではもっとも強い抵抗をしていた関東10県会(東京3会を除く中・小規模会の協議体)であったため、「佐々木 何で俺の気持ちを分かってくれないのか」としばしば粘られた。そういう時は、大所高所から語るよりは情の人だった。その後、いったんは奥様とお二人の事務所にしていた事務所規模をいきなり4人採用されて後輩の育成を図られたのも城さんらしい司法改革の後始末であった。
 団の高知総会(5月集会だったか)のとき、空港から会場にむかっていたバスの私たち一団に城さんから電話が入り、「はりまや橋で降りて指定した店に入れ」と命令され、そのまま確保されていた座敷での宴会に移り、途中事務局参加者は会場に向かわせ、結局4~5人の弁護士集団は酒宴を続ける羽目となり、団の会場についたら団も宴会となっていたこともあった。その日は会議に参加しないまま昼から飲み続けてしまったことになる。私たちも一緒に騒いでいたので人のことは言えないが我がままいっぱい天真爛漫の顔も持っていた。
 私事になりますが同期の訃報(藤野・森越)に接し、また一昨年緊急入院して自らの終活を意識するようになっているので、城さんの思い出を書くにしても、自らに重ねて「思う存分動かれたのだろうな、心残りはあるとしても、やれることはやり切ったと思われているはずだ」と確信してお別れをしたいと思っています。

 

 

第1回 台湾問題意見交換会の報告

東京支部  森  孝 博

 2022年2月26日、団本部とオンラインで、小林俊哉さん(日本共産党中央委員会国際委員会事務局次長)と台湾問題について意見交換会を行いましたので、その概要を報告します。
1 小林さんの報告
(1) まず、小林さんから、ロシアによるウクライナ侵攻は台湾問題にも大きく影響してくるのではないか、という指摘があり、台湾問題について「安心供与論」(台湾の独立志向こそが問題であり、日米ともそれを拒否して、中国を安心させれば緊張は緩和するという議論)が妥当するのか、という問題提起がありました。
 そして、米中の動向、台湾問題をめぐる米中台の状況、国際約束としての「一つの中国」について、以下の報告がありました。
(2) 米中の動向
 中国は「国防と軍隊近代化を加速し富国と強軍の統 一を実現する」(2021年3月「第14次5ヵ年計画」)という軍事方針をかかげ、軍事費を毎年増加させ、台湾周辺海域や南シナ海関連海域等での軍事演習を活発化させている。
 これに対し、米国は、同盟国と有志国を募り、軍事同盟強化からインフラ投資まで、インド太平洋地域を焦点として、様々なグループを形成ないし強化し(ANZUS、日米同盟、米韓同盟、クアッド等)、軍事・経済・外交面での対抗を強めている。
 バイデン政権後も依然として厳しい米中対立が続いているが、軍事対抗や地域にブロックのような対抗を持ち込む手法は、地域諸国に米国につくか、中国につくか、といった望ましくない選択や対立を迫ることになり、地域の平和と安定に逆行する、地域に軍拡競争の悪循環を呼び込む、といったことが懸念される。
(3) 台湾問題をめぐって
ⅰ バイデン政権においても、米国の長年の台湾政策(1979年台湾関係法、3つの共同コミュニケ、1982年の6つの保証)に変更はなく、台湾防衛に関する「戦略的曖昧性」にも変化はみられていない。
 もっとも、近時は、①米高官の訪台など、米台「非公式関係」の「公式化」に加え、②日米首脳会談共同声明(2021年4月)、米韓首脳会談共同声明(2021年5月)、G7首脳会談コミュニケ(2021年6月)、米EUサミット共同声明(2021年6月)における台湾海峡への言及など、台湾問題の国際化を図ろうとする姿勢が顕著である。
ⅱ 中国については、マイケル・D・スワイン氏(米の中国専門家)の論文によると、公的ソース(首脳発言や公式報告等)、準公的ソース(政府系機関紙等)、非公式ソース(環球時報やネットメディア等)の情報が錯綜している。
 非公式ソースはナショナリスト的傾向であるが、公的ソースでは基本線(「平和的統一」、将来の「一国二制度」方式、必要な場合の武力行使は放棄しない)にほとんど変化はない。ただ、習時代になって、2049年に「中国の夢」を実現するとした部分の兼ね合い(2049年までに台湾統一を完了しなければならないと考えているのか、それとも主に国内向けのプロパガンダ・メッセージなのか)や、台湾独立支持者の脅威を強調するようになった点は注視しておく必要がある。
 それと、最近の中国の台湾付近での活動は、実弾演習、台湾南西部に設けられた防空識別圏(ADIZ)の飛行など、ほとんど前例がないもので、台湾侵攻の準備ではないかという憶測を一部の方面で呼んでおり、このような活動も注視する必要がある。
 これに関連して、2021年3月、米上院軍事委員会における、米インド太平洋軍司令官の発言(「今後6年間に顕在化すると思う」)が波紋を呼んだが、米軍部の危機の煽り立てと予算獲得競争といった側面もぬぐえず、別の目的があって脅威を煽ると、現実の脅威評価に関して誤ったメッセージを送ることになるおそれもある。
 「台湾有事」の“蓋然性”といった話の際には、変数として、少なくとも①軍事バランスが中国にとって有利か不利か、②中国の国内体制が安定しているか、不安定か、③「台湾有事」が体制維持にとって有利か不利か、必須か選択か、④国際環境が中国にとって有利か不利か、は議論の対象になりえるし、その判断次第で様相も対応も異なってくる。
ⅲ 台湾民主化後、李登輝の「二国論」への動き、陳水扁の独立志向で中米双方から拒否された動き、馬英九での中台関係改善と「ひまわり学生運動」、蔡英文の現在の動き(対外発進の活発化、米議員の訪台活発化)といった経緯を辿っているが、いずれも台湾が民意の総意として独立を宣言したことはないし、台湾の住民の圧倒的多数は現状維持を望んでいる。
(4) 国際約束としての「一つの中国」
 米国は、「台湾は中国の一部である」という中国側の主張を「認識(acknowledge)」したが、中国の主権が台湾に及んでいると認めてはいない。その流れで、日本も1972年9月の日中共同声明において、中国の立場を「理解し、尊重する」(第3項)としたのであり、上記声明で、中国がいうような“台湾問題は内政問題だから口出しすべきでない”という点まで合意されたとはいえない。
 日中共同声明第3項について、交渉当時の外務省条約課長であった栗山尚一元駐米大使も、上記のような合意は無いことを述べている。もっとも、その意図は、中国の主張を受けれた場合、「台湾に対する中国の武力行使は国際法上内戦の一環として正当化され、他方、台湾防衛のための米国の軍事行動(中国の国内問題への違法な干渉)をわが国が支援する法的根拠が失われてしまう。…どうしても避けなくてはならない」という点にあったことは注意する必要がある。
(5) 以上の報告を踏まえ、小林さんから、①台湾問題の解決は、あくまでも平和的話し合いで行われるべきであり、その際、台湾住民の自由に表明された民意を尊重すべきであり、非平和的な手段は排されるべきであること、②昨今、「台湾有事」が声高にいわれるが、中国の強硬なふるまいを利用した日米の軍事的対応の強化の格好の口実ともなり、事態を冷静にみなければならない、との指摘がありました。
2 質疑応答・意見交換
 上記報告の後、小林さんへの質疑応答や意見交換を行い、台湾統一のための武力行使も否定しない李首相演説をどうみるか、中台交流の状況はどうなっているのか、武力紛争を阻止するためにはどうするか、台湾問題を国際法にどう位置づけるのか、ロシアのウクライナ侵攻問題を考える上での変数は何か、国際的なフォーラムで中国も含めた形でどうやって台湾を議論するのか等、様々な質問や意見が出されました。
 ウクライナで、台湾で、大国の武力による強引な現状変更を阻止し、どうやって紛争を平和的に解決するのか、が問われています。3月30日には麻生晴一郎さんを講師に第2回台湾問題意見交換会を実施しました。今後、5月集会分科会でロシアのウクライナ侵攻問題や台湾問題についての議論・討論を予定しています。奮ってご参加下さい。

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