第1789号 10/1
カテゴリ:団通信
【今号の内容】
●今村幸次郎さんの「先哲の教えに学ぶ-戦争をなくすために」を読んで 中島 晃
●事実、真実、本質 岡田 尚
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【京都支部特集(その6)】
◆京都建設アスベスト訴訟の到達点と課題 福山 和人
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●靖國神社遊就館で考えたこと 大久保 賢一
●木村晋介さんへの回答-団通信上の批判について(前編) 松島 暁
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【広島支部 廣島敦隆団員 追悼特集】
◆【特別寄稿】
廣島敦隆先生に感謝しご冥福をお祈り致します 山口 広
◆畏友 廣島敦隆さんのこと 石口 俊一
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●東北の山 岩手山(2) 中野 直樹
■次長日記(不定期掲載) 大住 広太
今村幸次郎さんの「先哲の教えに学ぶ-戦争をなくすために」を読んで
京都支部 中 島 晃
今村幸次郎さんが本誌1785号に「先哲の教えに学ぶ-戦争をなくすために」を載せ、そこで、ブッダの教えを取り上げているのを読み、まことに慧眼だと感銘を受けました。
今村さんが言われるように、1951年9月、サンフランシスコ講和会議で、スリランカ(当時セイロン)の故ジャヤワルダナ元大統領が自国の賠償請求権を放棄するにあたって、ブッダの言葉を引用したことは、ブッダの教えが現代でもなお生きていることを物語るものです。
ところで、我が国では、こうした仏教の非戦の思想がどのようにして受け継がれてきたかについて、以下に少し紹介しておきたいと思います。
仏教の説く「不殺生」、「慈悲」の教えをつきつめていけば、非戦、非暴力の思想に行きつくことは自明であると思われます。しかし、そうだからといって、すべての僧侶や仏教徒が非戦、非暴力を唱えるかというと、現実は決してそうではありません。
ロシアの文豪トルストイは、キリスト教の人道主義の立場から、日露戦争の際に、「非戦論」を発表し、日本の仏教徒にも働きかけ、ロシアと日本の宗教者が手をにぎり、ともに非戦の運動をおこそうとよびかけたということがあります。
しかし、残念ながら、日本の仏教徒たちはそのよびかけに応じませんでした。当時の日本の仏教界を代表して、釈宗演(臨済宗の僧侶、1859~1919)は、釈迦の説いた不殺生はすべての人間が慈悲心を持ったときの話であって、そうでない限り戦争もまた必要であると述べて、トルストイの「非戦論」を排斥しました。このように、既存の仏教教団やその指導者たちが権力に迎合し、戦争に協力してきた現実をきびしく見すえる必要があります。
その一方で、幸徳秋水(1871~1911)らは日露戦争に反対して、戦費を賄うために増税する政府を徹底的に批判します。その後、幸徳秋水たちは、「大逆事件」という「国家反逆罪」を問われ、きびしい弾圧を受け、12名が判決後1週間で処刑されたことはよく知られるところです。
この大逆事件で逮捕された者の中に、3人僧侶がいます。内山愚童(死刑)、高木顕明(死刑、特赦により無期)、峯尾節堂(死刑、特赦により無期)です。そして、大逆事件を契機にして、仏教教団と仏教者は積極的に戦争協力の道を歩んでいくことになります。
石川啄木は、トルストイの非戦論を深く受けとめる一方で、「大逆事件」に大きな衝撃を受け、その実態を解明しようとしますが、結核の病状が進行して、それをはたせないままに亡くなっていきます。
大逆事件による弾圧が僧侶にも及んだことは、宗教者の間に反戦思想が広まるうえで深刻な否定的影響を及ぼしたことは間違いありません。しかしながら、「戦争は罪悪である」という非戦の想いは、不殺生と慈悲を説く仏教者にさまざまな形で受けつがれてきました。
例えば、スーダラ節で一世を風靡した歌手・俳優、植木等(1926~2007)の父親として知られる真宗の僧侶植木徹誠(1895~1978)は、三重県にある大谷派常念寺住職でしたが、檀家の出征兵士に「戦争は集団殺人」「卑怯といわれても生きて帰ってくること」「人に当たらないように鉄砲を撃つこと」と説き、また全国水平社の活動にも参加しています。しかし、1938(昭和13)年1月18日に、治安維持法違反で逮捕され、約4年間投獄されています(そのうち、未決は2年)。
また、岐阜県垂井町にあった真宗大谷派明泉寺の住職、竹中彰之(1867~1945)は、“戦争は罪悪である。人類に対する敵であるから止めた方がよい”という戦争反対の発言を繰り返したため、陸軍刑法違反(造言飛語罪違反)により逮捕され、処罰されています。
このように、反戦活動で逮捕、投獄された仏教者には、植木や竹中のほかに妹尾義郎(日蓮宗)、林霊法(浄土宗)、谷本清隆(西山浄土宗)、壬生照順(天台宗)、大隈実山(日蓮宗)、細井宥司(日蓮宗)、山本秀順(真言宗智山派)、三田村竜全(日蓮宗)、訓覇信雄(真宗大谷派)らがいます。
アジアと日本の民衆の多数の生命を奪い、多大の犠牲を強い、塗炭の苦しみをあたえた日本の軍国主義の嵐は、敗戦によって一旦止むことになりました。その結果、焦土のなかで生まれたのが日本国憲法であり、戦争放棄を定めた9条の規定は、二度と戦争を繰り返してはならないという日本国民の切実な願いが結実したものです。それはまた、さきに述べた仏教者たちが説いた非戦の思想を受けついだものでもあるといえます。
非戦平和の実現は、すべての人々に共通する人類史的課題であることはいうまでもありませんが、それは不殺生と慈悲の教えを説く仏教者にとっては率先してめざすべき課題であり、このために少なからぬ仏教者が権力による弾圧に抗して、非戦平和を訴えた苦闘の歴史があり、そのことが現在もなお憲法9条が多くの国民によって支持されている社会的基盤をかたちづくっていることを銘記する必要があると考えます。
事実、真実、本質
神奈川支部 岡 田 尚
「第5回 先輩に聞くシリーズ学習会」における私の報告について、1784号で江夏大樹団員から過分の評価をいただいた。他の方からも「事実」と「真実」の関係についての質問が寄せられた。私も「いつ亡くなるのかわからない」。そこで「事実」と「真実」について、その関係のあり様の違いについて「国労横浜人材活用センター刑事事件」を例に補足する。
起訴罪名は「公務執行妨害罪」。有罪、無罪の分かれ目は唯一つ「暴行」行為の有無。傷害と異なり、暴行は、その痕跡が外形として残らない。つまり客観的証拠がない。「やった」「やらない」の水かけ論になりがちで、結局は「どっちが言っているのが正しいのか」で決まる。順番からいえば「やられた」と言っている方が信じられやすい。普通ならやられていないのに「やられた」と言う必要がないからである。加えて本件では、「やられた」と言っているのは助役で、「やってない」と言っているのは労働者、しかも当時国鉄分割・民営化の流れのなかでは、一貫して“悪役”であった国労組合員である。放っておけば管理職の言い分が受け容れやすいこと多言を要しない。現に有罪前提の心証をあからさまに法廷で表明した裁判長もいた。そんななかで、人材活用センターは、国労組合員だけを集め、仕事を取りあげて、収容しているところ、仕事はやらせないのに、管理職は殊更に命令と服従を強調している。これに対して、「組合つぶしだ」「不当だ」と主張すると、逆にそういう状況なら「声高に反論したり、時には胸のひとつも突いたりぐらいするだろう」との判断に傾きやすい。相手のひどさを主張すればするほど有罪の方向への石積み作業となりかねない。
公判で、検察官は、国労組合員が助役に暴行したことを立証するとして、現場で助役がズボンのポケットに隠し持って録音したというマイクロカセットテープを証拠提出した。聞くと騒然とした雰囲気で、やりとりのなかには助役に対し声高に「おまえ」と言ったり、助役の小さな声での「暴力はやめろ」という言葉も聞きとれる。本人たちに事実確認すると、確かに集団で助役を取り囲み抗議し、助役の腕に自分の腕を絡ませたり、横に振ったりの身体的接触もあったという。これを聞いて正直私も「ダメだこりゃ。有罪だ。」と思った。
録音されているので、助役が現場で「暴力はやめろ」と言っていることは「事実」には違いない。「暴力はやめろ」というと暴力があったことが前提となる。しかし、果たしてそれは「真実」なのか。鑑定を依頼した映画「赤ひげ」や「日本のいちばん長い日」などの録音担当技師の渡会伸さんは、「暴力という言葉はあっても、発言者には怒っている感じがない。しかも具体的な行為についての発言が全くない。通常は暴力があれば『殴ったな』とか、『蹴ったな』とかの被害者側の発言がある。まして、わざわざ何かあればと隠し録音しているのだから。また暴力を振った側の『何が暴力だ』とかの反応的やりとりが必ずある。これらが全くない。よって、この録音内容から、「暴力的行為の存在は認定できない」と断言した。助役が「暴力はやめろ」と言ったことは「事実」でもそこに暴力行為という「事実」はなかったのである。そしてこの「事実」は、そこに暴力はないのに何故助役が殊更に「暴力はやめろ」という発言をしているのかという疑問に辿りつく。そしてテープの裏面にはなんと「奴らを挑発して、やらせるように仕向ける」との謀議場面が録音されていたのだ。
国労組合員を挑発して、暴力を振るわせておいてこれを理由に刑事事件として逮捕起訴し、民事事件として懲戒免職にするという国鉄当局の謀略、これこそが「真実」だったのである。
公務員に対する公務執行中の暴力事件で無罪を勝ちとるのは至難の業である。警察官に対するそれを考えれば理解できる。単なる「事実」だけでは絶対不可能。「真実」を炙り出してはじめて可能となる。「真実」の炙り出しには、「事実」から出発しながらも、「人はどんな時、どんな行動に出るのか」という問題意識を持ち、存在する客観的「事実」に対する科学的な検証(本件では前記渡会鑑定に加えて、録音テープそのものに編集の跡があることを横浜国大の物理学者今野宏さんに鑑定をお願いした)を経て「真実」に迫ることが不可欠である。
私が、裁判でたたかう上で、「事実」とは何か、「真実」とは何か。両者の関係は?との問題意識を持つようになった発端は、故大塚一雄団員の「松川裁判の14年のたたかいは、事実と虚偽の対決であった。一にも、二にも、そして三にも、事実をめぐる激突であった。あるがままの事実=真実をまもり、より明白ならしめようとするのが被告・弁護側の一貫した活動であった」(『松川弁護14年』、晩聲社)という言葉であった。
次が本多勝一(元朝日新聞記者)さんで、本多さんは「真実」という言葉を簡単に使うことには否定的で、「『真実』とは、事実または真理を、より情緒に訴えるときに有効な単語で、ルポなどでは避けた方がいい」とする。彼は「事実によって本質を描く」という(『事実とは何か』、朝日文庫)。ここで「本質」という言葉を用いる。「事実によって物事の本質を把む」ことの重要性を教えてくれる。
裁判で、「事実」とは何か、「真実」とは何かを考えるのは、正にこの事件の「本質」を把むために必要とされる作業なのである。
~京都支部特集~(その6)
京都建設アスベスト訴訟の到達点と課題
京都支部 福 山 和 人
1 建設アスベスト訴訟とは
本訴訟は、建設現場でアスベスト含有建材の切断や加工等の作業に従事する中でアスベスト粉じんを吸い込み、肺がんや中皮腫等に罹患した建築職人とその遺族が、アスベスト建材の製造販売したメーカーと規制を怠って流通を促進した国に賠償を求めた訴訟である。
2 これまでの経過
2011(平成23)年6月3日に京都建設アスベスト訴訟の1陣提訴を行ってから、はや11年が経過した。同種訴訟で初の判決だった2012年5月25日の横浜地裁判決は、原告らの請求を全面棄却する最悪の不当判決だった。そこから全国の弁護団・原告団・支援者が切磋琢磨して、法廷内外でのたたかいを進めた結果、とうとう2021年5月17日、最高裁第1小法廷は、建設アスベスト訴訟(神奈川1陣、東京1陣、京都1陣、大阪1陣)について、国と建材メーカーの責任を認める原告勝訴判決を言い渡した。
3 最高裁判決後のメーカーの態度
これで全面解決に向かうかと思いきや、事はそう簡単ではなかった。危険と知りながらアスベスト含有建材を製造販売した、いわば主犯とも言える建材メーカーが最高裁で責任が認められたにも関わらず争いを続けているからだ。最高裁判決を受けて、私たちは各企業との交渉を行い、原告への謝罪や全面解決に向けた取り組みを強く求めた。しかし各企業は敗訴した原告に対してのみ、社長名で簡単な謝罪文を送りつけて認容額を支払っただけで、各地の裁判での和解を拒否し、未提訴の被害者の早期救済のための給付金制度への拠出も拒否している。
4 3陣訴訟の提訴
こうした中、2022(令和4)年6月7日、原告190人(被害者数137人)が、全国10地裁(札幌、仙台、さいたま、東京、横浜、京都、大阪、岡山、高松、福岡)で、アスベスト建材メーカーに対する一斉提訴を行った。京都でも、肺がんや中皮腫等に罹患した被害者とその遺族12人が建材メーカー14社を被告として、総額2億5740万円の損害賠償を求める3陣訴訟を、京都地裁に提訴した。京都3陣訴訟の被告企業をあえて明記する。以下のうち★印を付けた企業は、最高裁判決で責任が確定した11社である。
エーアンドエーマテリアル★、クボタ、ケイミュー★、神島化学工業★、日鉄ケミカル&マテリアル★、大建工業★、太平洋セメント★、東レACE、ニチアス★、日東紡績★、バルカー★、ノザワ★、エムエムケイ★、パナソニックホールディングス
5 メーカーに言いたいこと
今回の提訴では、私たちは国は被告にせずメーカーだけを訴えている。以下、その理由と被告メーカーを名指しする理由を述べる。
昨年5月の最高裁判決で国と建材メーカーの責任が確定した。それを受けて、国は菅首相が総理官邸で原告と面談して直に謝罪、各地の係属中の訴訟で和解解決に応じるとともに、未提訴の被害者に対しては給付金制度を創設した。すでに今年1月から給付金の申請受付が始まっている。現在、京都地裁で係属中の京都2陣訴訟は、2022年10月6日に被害者30人全員について国との和解が成立した(対メーカーでは10月19日に結審、来春判決予定)。
しかし建材メーカーは、今も京都を含む全国各地の裁判で争い続け、うちの建材は他社よりましなどと責任のなすりつけあいのような主張を行なっている。また被害者はみな石綿建材が原因であるとして国が労災を認定しているのに、労災認定が間違いだと無理筋の主張も行なっている。
率直に言わせてもらう。往生際が悪すぎる。
アスベストが危険なことは戦前から分かっていた。海外ではもっと早くに禁止された。なのにメーカーは安全キャンペーンを張って2006年まで製造販売を続けた。その結果、たくさんの建築職人の命が奪われた。
最高裁で責任が認められた企業の社長は被害者や遺族に、定型電報みたいな手紙を送りつけただけで、直接の謝罪は未だにない。原告たちが「お宅の社長は首相よりも偉いのか!」そう言っても態度は変わらない。原告たちが話し合いを求めて訪問しても門前払いのところもある。
私は弁護士として辛い刑事事件も担当し、ファミレスで被害者に土下座して詫びたこともある。そういう経験も踏まえて言うが、多数のかけがえのない命が奪われた事件で、はっきり言ってあり得ない態度だ。人の道に外れていると言う他ない。
原告たちは建材メーカーにとってお客様ではないか! 客に対してその態度は何だ! 私のようなやさぐれ弁護士はついそういう荒い思いにかられるのだが、そこまでの態度を取られても、建築職人は被告企業の製品をボイコットしているわけではない。彼らは若い職人が不安なく働ける建設現場を実現したいのだと言う。被告メーカーと比べて何と良識ある態度なんだろう。社長さん、アンタの家も彼らがいなければ建たなかったんだよ。
建設分野でのアスベスト被害は解決済みの問題ではない。国交省の推計では石綿建物の解体ピークは2028年とされている。石綿関連疾患が40〜50年という長期間の潜伏期間を経て発病することを考えると、今後も被害が拡大することは必至だ。しかも被害はかつてなく甚大だ。今も毎年2000人以上が中皮腫で死亡しており、建設アスベスト被害は史上最大の産業公害と言われている。
建材企業の役員、代理人弁護士の方々に言いたい。もうええ加減無益な争いは止めて、直ちにきちんと謝罪して全面解決に足を踏み出すべきだ。それが社会的責任を負う企業としてのあるべき態度だと思う。その日を迎えるまで、弁護団としても全力で戦い抜く決意である。
(弁護団は、村山晃(団長)、福山和人(事務局長)、大河原壽貴、秋山健司、古川拓、毛利崇、吉本晴樹、日野田彰子、諸富健、谷文彰、津島理恵、分部りか、清洲真理、佐藤雄一郎)
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靖國神社遊就館で考えたこと
埼玉支部 大 久 保 賢 一
9月10日、靖國神社の遊就館を見学した。埼玉弁護士会憲法委員会の「憲法体験ツァー」という企画である。参加メンバーは、白鳥敏男会長、小山香委員長など10名である。案内は、東京弁護士会の内田雅敏さん。内田さんは『靖國神社と聖戦史観』(藤田印刷エクセレントブックス・2021年)の著者で私の友人である。もちろん、「聖戦史観」、「皇国史観」に異を唱えている論者である。遊就館の中での部外者の解説は禁止されている。禁止の理由は、靖國の聖戦史観に反する解説はさせないということであろう。その禁止規範を考慮に入れての解説だったのでコンパクトで説得力あるものだった。
いくつかのエピソードを紹介しよう。
泰緬鉄道機関車の話
遊就館に入ると、直ぐに、本物の機関車が展示してある。これは泰緬鉄道の開通式に使用された機関車で、南方軍鉄道隊関係者が拠金して、タイ国有鉄道から譲り受け、1979年(昭和54年)に靖國神社に奉納されたものである。泰緬鉄道というのは、1942年(昭和17年)、タイ(泰)のノンブラドッグからビルマ(緬甸)のタンビザヤ間の鉄道のことである。日本軍鉄道隊や連合軍捕虜、現地住民(ロームシャ)など約17万人を動員した工事で、厳しい地形と過酷な気象条件の下で行われ、連合軍捕虜約5万人中約1万3千人もの死者が出たという。現地人にもそれに数倍する死者が出ている。1971年(昭和46年)、昭和天皇が訪英した際、その工事に従事させられた元英軍捕虜らが、一斉に天皇の車列に背を向け、映画「戦場にかける橋」の主題歌「クワイ河マーチ」を口ずさんで抗議の意思を示したという(この部分の記述は内田本による。また、「クワイ河マーチ」はぜひ聞いて欲しい。ネットで直ぐに検索できる)。内田さんの怒りは、遊就館展示は、その捕虜や現地住民の虐待については何も触れていないことにある。
この怒りは、決して内田さんだけのものではない。私が、この遊就館訪問をフェイスブックに投稿したところ、友人の国際政治学者が「この鉄道を敷くために、どれだけの捕虜とロームシャが犠牲になったかは一言も触れていません。一言も!」というコメントを寄せてくれた。遊就館の展示は、その入り口のところから、日本軍は賛美されるが、その国際人道法(戦争法)無視の残酷さは完全に隠蔽されているのである。
韓国人と靖國の関係
私のフェイスブックの投稿にある研究者から、こんなコメントが寄せられた。
昔一度、国際研究会で来日していた韓国の先生方を「お忍び」で案内したことがあります。その時に案内した韓国の大学教授の方が「靖國に行ったなんてバレるとスキャンダルになりかねないですが、実際に実物を見ないで批判するのも研究者としてはどうかと思うので、内緒で案内してください」と頼まれ、韓国の先生方7,8人を、日本側数人で案内しました。神社自体は「想像と違った。もっと軍事色が強いと思っていた。あまり普通の神社と外見は違わないですね」と感想を述べていました。遊就館はあまり時間がなくてきちんと見学できませんでしたが、「う~ん」という感じでした。安全保障や国際関係を専門とする先生方でしたので、精神論一辺倒で、ちゃちな兵器や稚拙な作戦の解説に唖然としていたようです。
韓国では、靖國神社に行くことは、スキャンダルのようである。私も、この年まで靖國に行っていなかったけれど、別に行くことがタブーと思っていたわけではない。たまたま行く機会がなかっただけだし、行かなければという義務感を持っていなかっただけである。けれども、韓国の学者たちにとってはもっと深刻な事情があるのかもしれない。大日本帝国に植民地支配を受け、その支配を担っていた者たちが祀られているところへの参拝はありえないだろうからである。
そのことに関連するこんなエピソードを紹介しておく。2011年に靖國神社の門に放火されるという事件があった(その場所を内田さんが教えてくれた。以下の記述も内田本による)。警視庁は、その放火犯の引渡しを「日韓犯罪人引渡条約」(正式名称「犯罪人の引渡しに関する日本国と大韓民国との間の条約」)に基づいて韓国に求めた。その犯人は、2012年に、在ソウル日本大使館に火炎瓶を投げ込んだ劉強元という人で、韓国での裁判中に靖國への放火も認めていたのである。その引渡し請求に対して、ソウル高等裁判所は、劉の行為は「政治的罪」であるとして、日本への引渡しを認めなかったのである(同条約3条C項は、被請求国が政治犯罪と認める場合には引渡しを拒否できるとしている)。その論理は次のとおりである。
犯罪人は、靖國神社を単純な私的宗教施設ではなく、過去の侵略戦争を正当化する政治秩序の象徴とみなし、本件犯行を実行したことは明らかで、大韓民国と中国などの周辺諸国も、政府閣僚たちが靖國神社を参拝することに強く抗議していることを見るとき、靖國神社を国家施設に相応する政治的象徴性があるとみる見解は、犯罪人の独断ではない。
内田さんは、この決定を「放火犯」を免罪しようとするとんでもない決定と解するか、同決定が指摘した靖國神社の性格について改めて考えるか、日本人の歴史認識が問われているとしている。私もその問題提起にも引渡し拒否にも賛同する。けれども、放火という手段を、留保なく同意することはできない。「実力行使」は目的達成を遅らせる場合があるからである。
憲法体験ツァー
フェイスブック友だちの千葉の弁護士から「いい企画ですね」とのコメントを寄せられた。埼玉の憲法委員会も、若手の参加が少ないので、何か「面白いこと」ができないかということで、靖國神社と東京大空襲資料館の訪問と月島のもんじゃ焼きという三点セットの設定となったのである。
最も熱心にメモをとりながら見学していたのは、「憲法カフェ」を主催している竪十萌子さんだった。彼女は、ロシアのウクライナ侵略を見て、日本も武装強化をしなければいけないという意見に出会うので、もっと勉強しなければと思ったと参加の動機を語っていた。
「平和を望むなら戦争に備えよ」というのは、伝統的・古典的見解である。一朝一夕に消え去ることはないであろう。「普通の国」はまだそうなっている。他方、「9条があるから入った自衛隊」という川柳も作られている。「9条が一国だけというハンデ」という句もある。非軍事平和規範は間違いなく根付いているのである。
どのように平和を構築するのが最も早く確かな方法なのか。「核の時代」にあって「絶滅危惧種」から脱出するにはどうすればいいのか。遊就館に展示されているあまたの戦没者の遺影を見ながら、これまでの自分自身の平和観・戦争観の稚拙さと独りよがりを反省していた。祀られている「英霊」とその遺族の気持ちと共振できる平和運動が求められていると強く思ったからである。そして、自民党の幹事長を務めたこともある古賀誠さんが、『憲法9条は世界遺産』(かもがわ出版・2019年)で「自民党を支持する人も共産党を支持している人も、平和についてはみんな一緒です。『戦争は嫌だよ。おれの子どもを殺させたくない』とみんな思っているのです」と書いていたことを思い出していた。(2022年9月13日記)
木村晋介さんへの回答-団通信上の批判について(前編)
東京支部 松 島 暁
1 はじめに
木村晋介さんより、団通信1785号「松島暁さんのリアリズムと非武装平和主義について」、同1786号「松島暁さんの木村ネオコン接近説などについて」と再び名指しでの批判を受けましたので、本稿をもって回答したいと思います。
最初に一言。木村さんのそれは、私の見解を不正確に要約したり、私の立場がこうだと決めつけたうえでの批判であったり、はたまた私以外の団員の見解に対する不満や批判であったりと、私が責任をもってお答えできない問題にまで飛び火されているのですが、本稿では私の見解に対するものに限ってお答えすることとします。
2 一国の政治指導者の責任
木村さんは、「ウクライナ戦争について、ゼレンスキーに責任がある」と私が言っている、あるいは、私の主張を「プーチンの態度を前提とするべきで、結局、そこを見誤った指導者はその結果に責任を負うべきだ」と要約した上で批判されています。
しかし、木村さんの議論は、「戦争責任」の問題と「政治責任」の問題をあえて混同させた議論というべきでしょう。ウクライナ戦争の戦争責任は間違いなくプーチンにあります。また、ロシアの軍事侵攻を受けたウクライナが、無抵抗で屈するか武力で対抗するかは、ウクライナとウクライナ人民が決することであり、その決断は尊重されるということは1782号で述べたとおりです。その場合、その決断について、その国の政治指導者は、その国の人民に対して責任(政治責任)負うというのが私の考えであり、ゼレンスキーが負う責任とはこの意味の責任です。
ベトナムは、仏・米の植民地化や侵略に対し、民族の存亡をかけて戦いました。武力による民族解放を決断したホーチミンは、ベトナムの政治指導者としてベトナム人民に責任を負い、その責任を果たしたというべきでしょう。だからといって「ベトナム戦争について、ホーチミンに戦争責任がある」わけではありません。
3 戦争の原因を語ることが「攻撃的リアリズム」の支持を意味するか
木村さんは、私がウクライナ戦争の原因に関するミアシャイマーの見解を紹介したことをもって、ミアシャイマーの立場=攻撃的リアリズム説に共鳴、共感しているに違いないとされていますが、これも思い込みないし決めつけです。
ミアシャイマーを引用したのは、なぜプーチンが戦争に打って出たか、ウクライナ戦争の原因論として最も説得的議論だと思うからであり、攻撃的リアリズムの立場が正しいか否かにはさほどの興味はありません。また「長々と引用」したのは、思い込みによる不正確な要約、都合のよい部分のつまみ食いとはならないよう、ミアシャイマーの意見を正確に伝えたいと考えたからです。
なお、ことロシアがウクライナを侵略したその原因解明という視点からは、進歩と啓蒙の世界観に根ざしたリベラリズムよりは、懐疑と深慮に根ざすリアリズムの方が「有用」だとは考えています。その意味でリアリズムの立場からはもっといろいろな議論があっても良いはずなのに、ロシアに加担していると言われることを恐れたためかまともな分析がない中、ミアシャイマー説は国際政治のリアルな分析として傾聴に値すると考え紹介したものです。この点は、プーチンの覇権拡大という個人的要因、あるいは独裁国ロシアという体制的要因をもって主たる戦争原因だとする立場とは見解を異にします。
4 リアリズムと非武装平和主義
木村さんは、非武装平和主義が正しいかどうかについて4年前に私と議論したとされていますが、私は、憲法制定関係者の意思についてや立憲主義の正当性に関しての議論は行いましたが、非武装平和主義そのものが正しいかどうかについて議論したつもりはありません(もっとも木村さんとしては、非武装平和論を批判し攻撃することに当時の主たる意図であったのかもしれませんが)。
この点はさておいて、木村さんの狙いとしては、非武装平和論とリアリズムを対立させた上で、この両立できないものを使う私の見解は、自己矛盾あるいはご都合主義だとの批判をされたいのかもしれません。木村さんは批判の前提ないし視点として、[非武装平和論=理想論=性善説 vs リアリズム=パワー重視=性悪説]という図式を示されていますが、カー、モーゲンソー、ウォルツらの先人たちを含めたリアリストたちの全部が全部、木村さんが図式化されているような幼稚かつ戯画的な主張をしているわけではありません。
ここでは、非武装平和の路線や政策を選択すればするほど、現実の国際政治、各国の動向に対しては敏感にならざるを得ず、リアルかつ冷徹な分析(リアリズム)が必要となるとだけ答えておきます。
5 反米バイアス
木村さんは、NATO・米の脅威は攻撃的だが、ロシア・中国・北朝鮮の脅威は受動的だとする傾向が団内に強くあり、それは「反米バイアス」のかかったバランスに欠ける議論だとされます。
木村さんが指摘される議論をする団員がいることまで否定するつもりはありませんが、その傾向が団内に強く存在するとも思いません。個人的には、中国の脅威は確実に存在し、その脅威は対抗的でもなければ受動的でもないと考えていますし、米・露・中の大国主義や覇権主義に優劣はないというのが私の立場です。
かつて木村さんは、アメリカは世界史の中に登場した大国の中では一番マシな大国だと発言されていました。また、木村さんは、民主主義国と権威主義国を対峙させた上で後者が世界秩序を不安定にしているとされていますし、朝鮮戦争やベトナム戦争で核が使われなかったのはアメリカ民主主義によるとさえ述べています。米・露・中の大国主義や覇権主義は、その害悪において優劣はないと考える私から見れば、木村さんの立場は「親米バイアス」のかかったバランスに欠ける議論のように思われます。
6 ウクライナ戦争は民主主義を守る戦争か
木村さんは、「ゼレンスキーはその民主主義国家(ウクライナ)を守ろうとしている以上、民主主義国家がこれを支援するのは当たり前」だとされたうえで、「武器などの支援と武力行使は全く違い・・・・米もNATOも直接的にも間接的にも戦争はしていない」と書かれています。
まず、ウクライナが民主主義国だという前提自体、はたしてそうなのかという問題があります。私の理解では、欧米式民主主義(民主主義)とロシア式民主主義(権威主義)とを並べてみた場合、ウクライナのそれはむしろロシア式のそれに近いと考えますし、ウクライナを支援することが民主主義国間の同盟のように考える思考は、「民主主義 vs 権威主義」の戦いというバイデン流の図式であり、親米バイアスのもたらしたもののように思われます
また、武器支援と武力行使は違うという議論(適法性の主張)をもって、ウクライナ戦争が、ウクライナを舞台としたアメリカNATOとロシアとの代理戦争だという私の捉え方を批判されたつもりなのでしょうが、余りにも形式的といわざるをえません。実態を直視すべきでしょう。
また、木村さんのNATOについての議論も、NATOそのものの歴史や実態を率直に見定めるというよりも、NATOの武器供与を含むウクライナ支援を正当化する、そのための議論のように思われます。ロシア=帝国主義国家との評価に大いに賛成される木村さんですが、アメリカが帝国主義国であることを認められるのでしょうか、それはアメリカ=一番マシな大国と捉える木村さんとしては受入れ難いのかもしれません。そうであれば議論はかみ合わないでしょう。 (続く)
~広島支部 廣島敦隆団員~ 追悼特集
【特別寄稿】
廣島敦隆先生に感謝しご冥福をお祈り致します
全国霊感商法対策弁護士連絡会
代表世話人 弁護士 山 口 広
本日、悲しい知らせをいただきました。かなしく、さびしい思いで一杯です。
私たちは広島の廣島先生にも参画いただいて1987年(昭和62)年5月、全国霊感商法対策弁護士連絡会を結成し、統一協会が全国で展開していた霊感商法の被害者救済の取り組みを開始致しました。広島でも何回か100人以上が全国から集まる弁連集会を実施し、廣島先生にも大変お世話になりました。あれから35年。取り組みを始めた時、廣島先生は42才のハンサムな青年でした。広島の廣島さんですからすぐに覚えました。
本年7月8日の予想もしなかった惨事。廣島先生、全国で統一協会の悪質行為への批判とその団体とのつながりを持った政治家への批判が高まっていますよ。私たちはどうしたらよいのでしょう。先生の鋭いご示唆をいただきたかったです。
本当にお世話になりました。安らかにお休みください。
廣島先生のご家族の皆様のご健勝を心から祈念申し上げます。
畏友 廣島敦隆さんのこと
広島支部 石 口 俊 一
廣島さんが、去る7月5日、長らくパーキンソン病を共連れとしながらも、自宅で歌のレッスンを受けて心身を活性化しつつ、昨年7月に「黒い雨」訴訟の広島高裁勝訴判決で弁護団長の役目を果たし、手持ち事件も整理して、じっくり療養をと考えていた矢先に自宅で急逝しました(満77才)。
(廣島さんが広島へ)
彼は米子で生まれ、水木しげるの出身地の境港へ転居、境港市の小中高で学び、小さい頃から「天の邪鬼的気概」のためか成績がもう一つで、皆から「東大入学など不可能」と断言されたことに反発し、一浪で東京大学文学部に合格。卒業アルバムには「真面目な顔で冗談を言う多彩な人」と書かれたとのことですが、弁護士になってもその通りでした。
1970年に大学卒業、東京都に就職、衛生局に配属になり、フグの調理師免許試験に立ち会い、試験終了後には試験に使ったフグはお腹の中に“廃棄”したそうです。仕事をしながら都立大学法学部の2部に入学して司法試験を目指し、1980年に司法試験に合格。翌年、司法修習生として広島へ来て、栄里子さんと結婚し、団員の相良勝美弁護士の広島北部法律事務所に入り、1987年に廣島敦隆法律事務所を開設して広島に根を下ろすことになりました。
(才能が開花)
夏目漱石、宮沢賢治、加藤周一の全集の読破や多様な読書、謡、クラシックを聴く、演劇、映画を観る、広島の「かささぎ句会」に入会して俳句を詠み、吟行で古道歩きなどで培った隠れた才能に目覚めたのは、1993年の5・3憲法集会で上演したオムニバス劇の脚本を書いたことでした。
その打ち上げで、横浜で始まっていた憲法ミュージカルや、名古屋での青法協人権交流集会の音楽劇「私はリンゴの木を植える」の話から、“よそに負けずに、広島でもミュージカルをやろうか!?”と酒の勢いで話が盛り上がり、その後25年も脚本を書き続けた憲法ミュージカルの誕生となりました。その時々の憲法問題を面白おかしく取り上げ、エスプリとユーモアの効いたセリフや歌詞は、廣島さんならではのものでした。(この活動は、昨年発刊された「自由法曹団物語」に“広島憲法ミュージカル運動”として書きましたので是非ご一読下さい)。
(仕事でも発揮を!)
弁護士の本業では、サラ金などの消費者問題、中でも今ホットになった霊感商法では広島の旧統一協会の会社相手の交渉、訴訟などを、私や山田延廣弁護士、相良弁護士らと取り組み、広島市内に皆の顔写真入りの中傷チラシをまかれたりしました。また、NPO法人消費者ネット広島の立ち上げとその活動を担っていましたし、会務では、弁護士会の副会長、消費者委員会の委員長ほか様々な委員会活動、青法協や団の活動にも熱心でした。
特筆すべきなのは、2009年3月に勝ち取った「三号被爆者」の原爆手帳申請却下処分を取り消した判決です。被爆者が収容された国民学校などでその救護や看護をした原告らについて、内部被曝を認めさせた画期的な訴訟の弁護団長を務めました。その訴訟を廣島さんとともに担った事務局長竹森雅泰弁護士とのコンビが、地道に長い闘いを続けていた原告らの依頼を受けて2015年に提訴したのが「黒い雨」訴訟でした。内部被曝を認め、疑わしきは被爆者の利益にという判決を勝ち取ったことは、ヒロシマ、ナガサキだけでなく、フクシマの原発の被爆問題の解決に繋がる、また政府の原子力政策の問題を衝く価値あるものです。
(長い縁になるとは!?)
私は、彼の7才年下で、誕生日は一日違い、弁護士は4年先回りですが、彼が1981年7月に司法修習生で広島に来て以来、思えば41年間の付き合いです。我が家の子ども達は、「廣島のおじちゃんは、2つも大学を出とる!」と尊敬の眼で見て、1つしか出ていない父親は少しばかりランクダウンでした。
仕事では、保育園の南に10階建てのマンション建設が計画されたのを一緒に「おひさま弁護団」で闘って建設を中止させたり、趣味の山行では、広島弁護士会の「ひまわり山歩会」(大国和江弁護士が座長)の面々と私も一緒に南は開聞岳から北は利尻富士までの多くの名峰を踏破したり、毎年の5/3に向けた約5か月のミュージカルの練習・合宿、そして飲み会などもずっと一緒なので、自分の家族といるよりは廣島さんと一緒にいる時間の方が長かったかな?という実感です。
7年前の仙台での団総会の古希表彰には、廣島さんは夫婦で参加されてとても喜んでいました。私は、人生の一つの通過点だねとお祝いの言葉を寄せましたが、今、追悼文を書くことになるとは・・・。
(また、会いましょう)
憲法集会の最後の挨拶は廣島さんの役目。毎回600人余の参加者、延べでは1万5000人もの方に「今年は如何でしたか? また来年お会いしましょう」と話しかけてきました。その参加者の皆さんをはじめ、事件や趣味や様々な関わりがあった方々とのお別れの場を、コロナ禍もあって持つことができませんでした。
でも、廣島さんを想う方たちと一緒に、写真で、映像で、語りと歌で、また会う機会を持ちます。そこで、また会いましょう。
【写真提供:石口俊一団員 憲法集会最後の挨拶風景】
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東北の山 岩手山(2)
神奈川支部 中 野 直 樹
御神坂登山口
東北自動車道滝沢ICを降りて6時に雫石町の「おみさか」登山口に着いた。近くには、宮沢賢治の童話にも登場する観光農園・小岩井農場がある。1971年この町の上空で、千歳発東京行の全日空旅客機と訓練区域をはみ出した航空自衛隊戦闘機が衝突し、旅客機が空中分解して162名全員が死亡するという悲惨な事故が発生している。
ぽつりぽつりと降っていた雨があがった。6時20分出発した。標高610mから2038mまで標高差1430m、予定時間約5時間の行程だ。カラマツ林の道は落葉の堆積が足に優しいクッションとなっている。うつむいたホタルブクロがエンジ色のガクをひろげ、黄色の花びらが見える。シラネアオイの薄紫色の花弁は恥ずかしそうにうつむいている。ピンク鮮やかなハクサンチドリが背筋を伸ばして立っている。
信仰登山道
標高850mを過ぎると「切接」と書いた道識があった。「きりはぎ」と読む。意味は漢字のとおり、切り取ったものをくっつける。地図に「ワラジ脱場」と書かれたあたりから雲の中にはいり霧雨に濡れるようになったことから傘をさした。登山道脇の林が疎らとなり、大滝展望地と記された標柱が立っているところに差し掛かると、風が強くなり、雨具を着た。左手遠くに霧を通して落差のある滝が見えた。
ガレた岩場の急登にあえぎながら踏ん張ると「笠締」と書かれたポイントを通過する。周囲に木がなくなり、風をまともに受けるようになった。9時40分、鬼ヶ城分岐に着いた。左にいくと溶岩が造りだした岩場が連なる鬼ヶ城とよばれるコースだが霧中に何も見えない。
風がいっそう強まるなか、右手に折れて5分ほどで不動平避難小屋(標高1828m)に着いた。9時45分だった。コースターム4時間15分を短縮するペースだった。小屋の周囲はシラネアオイの花園だったが、鑑賞するゆとりもなかった。この不動平は、馬返し登山口からの柳沢コース、網張温泉スキー場からの網張コース、松川温泉からの松川コース、八幡平スキー場からの七滝コースの交差点に位置する。小屋内には4人雨宿りをしていた。外では風がうなり声をあげ、お前たち帰れと言われているように聞こえた。
宙に浮く
2人の若者が空身で山頂に向かった。山頂は火口周りをお鉢めぐりした反対側にある。コースターム40分、標高差200mだ。晴れていれば北東北の大展望のご利益地である。私はパンを食べながら小休止。一日待って覚悟して登ってきたので、風雨を突いて山頂を目指すことに迷いはなかった。東北の100名山めぐりをしているという福岡の労山会員の男性と一緒に小屋を出た。
足元しか見えないが黒っぽい火山砂礫を登る。お鉢めぐりの周回路に差し掛かろうとしたところで先行した若者2人が風に負け退散して降りてきた。左手、北西方向から向かい風が激しく身体を襲う。強風、暴風、烈風、どう表現をすればよいか。かつて磐梯山で強風に見舞われたが、そのときには風が一瞬弱まるときがあった。しかし、ここではそんな一時救済はなかった。絶えずバランスを崩しかけ、しばし足が止まる。途中で同行する男性が道端の地蔵にしがみついてしゃがみこんだのが目に入った。私は低い姿勢をとりじりじりと歩を進めた。
幾度か、やばい、引き返すかとの逡巡を繰り返しながら、それでも足を踏ん張った。頭を下げ、耳元に恐怖を覚えるほど咆哮する風音に抗しながら、一歩、もう一歩。時の感覚はまったくなくなった。
やや傾斜が緩くなったと感じた。その先に、石祠、地蔵とともに「日本百名山 岩手山 標高2038m」の柱があった。これしか見えない。後で写真の時間を確認すると10時42分だった。ただちにUターンした。一転、追い風となった。今度は下る身体の勢いがつきすぎ、転倒の危険と直面した。一瞬身体が浮きあがったような気がした。行く手に地蔵にしがみついて停止していた男性がまだいた。男性から、いま身体が浮いたでしょうと言われた。錯覚ではなかったのだ。この男性は私が一人で山頂に向かったのが心配となり、待っていてくれたらしい。一緒に行動を再開し小屋に戻った。
風速はどれくらいだったか。「強い風」の域の風速15m/sは時速換算で54km/h、登山では危険な風速、雨を伴うなら中止が良いとされている。「非常に強い風」の域の風速20m/sは時速72km/h、登山では転倒する、中止とされている。ちなみに烈風とは、風速30m/s、108km/hで、一歩も動けない状態である。私の体験は「非常に強い風」の域だったか。
小屋内のそれぞれ
七滝コース8キロを登ってきた男女2人がラーメンを食べていた。山頂の風の状況を伝えたところ、下山するとのこと。途中まで同行した男性は下山し明日登り直すとのこと。そこに男性一人が到着し、今夜泊まり、翌日三ツ石山荘から八幡平へ縦走とのこと。私は、11:30小屋を出発し、花の写真を撮りながら来た道を戻り、14:00 登山口に着いた。
この翌年以降新型コロナ禍となり、岩魚庵で岡村弁護士と交流した最後の機会となってしまった。(終)
【写真提供:中野直樹団員裏岩手連峰から望む岩手山山頂】
次長日記(不定期連載)
大 住 広 太 東京支部
最近、電車での移動時間などに和田竜作「村上海賊の娘」を読んでいます。文庫版4巻のうち、2巻を読み終えました。私の地元(尾道)にも近い瀬戸内海が舞台で、文庫版の最初には地図もあり、知った島の名前も良く出てくるので懐かしく感じながら読み進めています。2巻では、教徒の兵を率いる大坂本願寺と、泉州侍と海賊衆を中心とする織田信長の軍勢の戦いが描かれていました。迫力ある戦闘シーンも面白かったですが、やはり衝撃が大きかったのは、大坂本願寺の僧侶、下間頼竜の戦略です(ネタバレになるので内容は伏せます。)。歴史の授業では「一向一揆」を習いますが、実際に戦で宗教がどのように利用されたのか、宗教の持つ力の大きさと、それを都合よく利用することの罪深さを感じました。
安倍元首相の国葬に反対する理由は数あれど、やはり「宗教」を標榜したくさんの被害者を出している統一協会の問題が世間的には関心が高いのではないかと思います。
9月19日、代々木公園で開催された大集会において、法律家6団体としてステージで安倍元首相の国葬に関する発言をする機会をいただきました。台風の影響で強雨と強い日照りが交互に襲う天候だったので、人が集まるのだろうか…と心配していましたが、始まってみると1万3000人もの人々が集まり大盛況でした。コロナ禍で集会が実施できない期間も長く、鬱憤もたまっていたのでしょう。ステージからは、傘を差しながらたくさんの人々が集まり怒りの声をあげている様子を感じることができました(私は発言者ということでステージ脇に待機していましたが、集会に参加された方、警備の役割を担っていた他の6団体の先生方は大変だったと思います。本当にお疲れさまでした。)。集会後には、名前入りで報道もしていただき、「法律家6団体」という名前の重さと活動の重要性をひしひしと感じました。
話は変わりますが、私の修習期は67期で、いわゆる谷間世代に当たります。弁護士登録後、5年目から10年間、毎年7月頃に最高裁出納課から借金返済の催促が来ます。
そのような若手の状況もあり、日弁連や各弁護士会において、様々な谷間世代・若手支援の取組みが実施されています。
昨年、日弁連が開始した若手チャレンジ基金は、谷間世代に限ったものではありませんが、若手の活動に対する支援公益活動や先進的な取り組みに対して、日弁連から支援金が払われます。昨年、物は試しに、と思い、自由法曹団次長の仕事について、チャレンジ基金を申請してみました。各委員会での活動や、各種会議、市民集会等への出席などを活動実績として提出しました。結果、見事認定され、支援金をいただくことができました。
自由法曹団次長として活動していることを示す資料の提出(HPにも掲載されている団通信を提出しました。)、細かな会議時間の内訳、交通費の金額等の説明を求められるなど、思いのほか作業は多く、費用対効果としては微妙ではありますが、日頃の活動を公益活動として評価し、支援をいただけるのであれば有意義な制度だと思います。
公益活動への支援の申請締め切りは、10月10日だそうです。団員として活躍し、団通信の次長日記まで目を通している若手の方は、何かしら「公益活動」といえる活動をされていることと思いますので、ぜひ申請を検討してみてください。