第1791号 10/21
カテゴリ:団通信
【今号の内容】
●議会多数派の横暴を許すな!-香芝市議会出席停止差止め事件 宮尾 耕二
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京都支部特集(その7)
●時代祭資金支出違憲訴訟のご報告 諸富 健
●KBS京都に組合があってよかった 村山 晃
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●団総会の議案書の中でウクライナ戦争をめぐる情勢認識について 渡辺 和恵
●議案書の情勢認識には賛成できない、私も 藤本 齊
●ロシアを免責する議案と団内民主主義 木村 晋介
●所沢から沖縄のたたかいへの連帯!!―日米政府はなぜ辺野古にこだわるのか― 大久保 賢一
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~追悼特集~
■『二人の遠州っ子』 石田 享
■田代博之先生を偲んで 大橋 昭夫
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●定額貯金」はなぜ消滅するのか?―郵政民営化の盲点 後藤 富士子
●【書籍紹介】「統一協会の何が問題か?人を隷属させる伝道手法の実態」 郷路 征記
●憲法会議の新パンフレットの普及と活用にご協力ください 岸 朋弘
●東北の山(8) 和賀岳 中野 直樹
議会多数派の横暴を許すな!-香芝市議会出席停止差止め事件
奈良支部 宮 尾 耕 二
昨年12月14日、奈良県香芝市福祉教育委員会。
青木恒子議員「私も困った市民の方々と一緒に窓口にもいかせていただきましたが、窓口の方も本当に市民の暮らしが大変、国保料を払うのも大変という意見は出ていました。」
K市議会議長「…国民健康保険料とか、生活保護とか、そういったところに議員が窓口にやってきて、かなりの圧力をかけたという問題が昔にあったんです。…今後、議員がそういった窓口に同行していくことは禁止するということで香芝市議会で決められました…。その根拠となるのが、これは香芝市政治倫理条例です…。」
青木議員「政治倫理条例の何条に入っているんでしょうか、議長」「議員に対する圧力だというふうに私は今感じました。私の気分がそうです。それが何か、ある意味ちょっとパワハラのように聞こえたから言ってるだけです。」
青木議員のこの発言に対して、それがK議長に対する誹謗中傷、委員会の秩序を乱す行為等々理由を列挙して、K議長派の5名が懲罰動議を行った(香芝市議会の定数は16名)。これを受け、同市議会懲罰特別委員会と本会議は、青木議員に対して陳謝の懲罰を科すこととした。
しかし、青木議員は、これは内心の自由に反する内容であるとして、議会の準備した陳謝文の朗読を拒否した。
この件について最初に相談を受けた私は、行政法の素人である。そこで、知己の奈良弁護士会の「面倒臭い事件に親和性のありそうな先生方」宛にメールで援助を求めたところ、瞬時に、一騎当千の、超党派の方々から、協力の申込みを受け「青木恒子議員に対する懲罰を憂慮する弁護士有志の会」が結成された。
彼ら彼女らから支援(指示?)を受け、「有志の会」代表として、生活保護受給申請等は国民の権利であり、今回の処分は違法なのであって、今後、さらに出席停止処分にまで及べば最高裁令和2年11月25日大法廷判決により司法審査の対象となるという趣旨の警告書を、2度、全議員宛に送付した。
これは結構効いたようで、陳謝文の朗読拒否→それを理由とする陳謝処分→朗読拒否という「ループ」が4回続いた。「有志の会」の中では、これは「無限ループ」になるのか?-との推測もあったが、その均衡は、突如破られた。
4回目の陳謝文朗読拒否に対して、8名のK議長派議員が懲罰動議(発議第5号)を出し、本年8月18日に懲罰特別委員会が「出席停止8日」の決定をした。
9月議会初日(9月5日)まで2週間余しかない状況の下、一瞬途方に暮れたが、有志の会の一人が「仮の差止めやりましょう」と言い始め、一気呵成に集団作業で書面を準備し、8月24日に裁判所に差止め本訴と仮の差止めを求める申立を行った(集中作業後、深夜の街で居酒屋を探しあてて飲んだビールの何と美味かったことか!)。
極めてタイトな日程だったが、奈良地裁の動きは速かった。本稿では紹介しきれないが、とにかく陳謝文や懲罰動議文の中味、懲罰手続のことごとくが酷いのである。これを読めというのはまさに「踏み絵」「多数者の横暴」であることが一目瞭然。これを許してはならないという「司法の使命感」が裁判所をも突き動かしたのであろう。
そして、9月1日の夕刻、事務所の電話が鳴った。夜間窓口を通り、書記官室で受領書に署名しながら、決定書の表紙に目を走らせると「処分行政庁は…仮に…発議第5号に基づく出席停止の処分をしてはならない」との主文。書記官に一礼し、裁判所の外へ出て、青木議員に「勝った!」と電話で叫んだとき、決定書は、私の手の汗でぐしょぐしょになっていた(笑)。
地方議会議員への懲罰に対し司法審査が及ぶかどうかは、裁判所が地方議会の自律をどこまで尊重するか(地方公共団体と国家機関の権力分立のバランス点をどこに見いだすか)というデリケートな問題である。
しかし、今回の事件を通じ、K議長に牛耳られた香芝市議会のごとく、不正常な議会運営が行われ、出席停止処分が濫用されている例が多いことを知った。
この現状に対して出席停止をも司法審査の対象とする令和2年最高裁判決は、行政法の世界で知らぬ者はない画期的判決だったとのこと。しかも、その事案は差し戻されて審理が続いているというから、はからずも、本件が、出席停止に対する司法審査の実例の第1号になった可能性がある。
それゆえ、新聞などでも大きく取り上げられ、本稿の執筆依頼もいただいた。
また、この案件は、生活保護行政に関心を持つ方々からも多大なる支援をいただいた。この場を借りて御礼申し上げる次第である。
ただ。実は、ここで話は終わらない。当然、香芝市議会は、即時抗告を行ってきた。
しかも、即時抗告理由書提出直後、9月議会の最終日(9月29日)に、香芝市議会は本件を継続審議にせず、「発議第5号」について「陳謝処分」に変更することを議決した。青木議員がこれを拒否したのは当然だが、これを受け、即刻新たな懲罰動議がなされてきたのである(「発議第9号」)。
差止めの対象を明確化するため、決定は「発議第5号」による出席停止処分の差止めを命じた。その裏をかいてきたわけである。こうなると、本訴は訴えの利益を喪失し、仮の差止めも処分の蓋然性の要件を欠くこととなる。見事な「決定潰し」である。やむなく、仮の差止めの申立ては取り下げた。
ただ、改憲問題で鍛えられた私をはじめ、「ややこしさ」では決して負けない弁護団である(笑)。本訴は取り下げず、向こうが悪あがきするほどダメージが大きくなる策を練り上げているところである。
いわゆる「事件のタマ」は最高!
香芝市議会の運営の正常化、そして議員の窓口同行が違法であるかのような暴論を許さぬよう、青木議員、そして頼もしい後輩達とともに奮闘しているところである。
~京都支部特集~(その 7)
時代祭資金支出違憲訴訟のご報告
京都支部 諸 富 健
2022年団京都総会のプレ企画が開催される、
10月22日は、京都三大祭の一つとされる時代祭が開催されます。この祭りは、明治維新時代から延暦時代まで8つの時代を20の行列に分けて京都御所建礼門前から平安神宮まで練り歩くというものですが、平安神宮の大祭、すなわちれっきとした宗教行事です。この運営をしているのが平安神宮の附属団体である平安講社で、20の行列を行政区などの担当区域に割り当てています。行列の一つ徳川城使上洛列は京都市下京区と南区に割り当てられているのですが、下京区の植柳学区に2020年の担当が回ってくることが2011年に決まりました。そこで、植柳学区では時代祭準備委員会が立ち上がり、870万円の予算案を作成しました。その中で、各世帯から任意で集める積立金550万円のほか、「奉仕者・自治連合会より」として150万円が計上されていました。2020年に自治連会費が流用されるのではないかという噂を聞いたある住民(「Aさん」とします。)が当時の自治連会長に問い合わせたところ、町内住民の協力で約530万円集まったが、不足分は連合会の事業費基金積立金を使うという回答が返ってきました。事業費基金積立金は毎年10万円積み立てられていて、2022年度の予算案では残高が320万円にのぼっています。新型コロナウイルスの感染拡大のため時代祭は2年延期となり、その間もAさんは会長に対して、特定の宗教行事に自治連の資金を供することは信教の自由という住民個々人の基本的人権を根本から侵害するとして、自治連会費を流用しないよう繰り返し申し入れしていましたが受け入れられませんでした。3年ぶりに時代祭が開催されることが決まった今年、Aさんは法的手続きを取ることを決断しました。
本年8月22日、自治連会費から時代祭へ資金を支出することの差し止めを求める訴訟を提起するとともに、仮処分命令の申立てをしました。仮処分事件については、9月中に2回審尋期日が開かれて和解が成立しました。和解の主な内容は、自治連がAさんの申出を真摯に受け止め、本年の時代祭行列に関係する費用を自治連から支出しないこと、及び、Aさんと自治連は、今後、学区居住者の信教の自由を侵害することのないように自治連と宗教行事との関係について必要な協議を行うことというものです。Aさんが信教の自由の保障を正面からかかげて、自治連が時代祭のための費用を支出することの禁止を求めてたたかったことに、少なからぬ学区内の住民の間にAさんの訴えに対する支持と共感が広がりました。その結果、本年の時代祭行列に関係する費用を自治連から支出することを止めることができたのであり、他の行政区にも影響を与える大きな一石を投じることができました。
仮処分では、本年の支出を差し止めることになりましたが、この担当は約20年ごとに回ってくるとのことですので、今後自治連から特定の宗教行事に資金が支出されることのないよう、和解に基づく協議を進めていくことが肝要となります。そのため、本訴は取り下げることなく係属していくことになります。本訴の第1回期日は、10月20日(木)に開かれます。今後の動きにご注目いただきますようお願いします。担当弁護士は、中島晃団員と当職です。
KBS京都に組合があってよかった
京都支部 村 山 晃
今度の団総会の機会に、KBS京都の労働組合訪問ツアーが企画をされた。折角なので、どんな闘いをしてきたのかを簡単にご紹介しておきたいと思う。組合の闘いの歴史は、なかなか愉快で意義深いものがある。
なお、会社名は、変遷があるので、ここでの記述は、単に「会社」とだけしておく。KBS京都は、ラジオでは先駆けとなったが、テレビは、大阪の準キー局に取られて、後発のエリアU局になった。今も、キー局からの配信を受けられず、経営は楽ではない。
1 結成から分裂、そして昇格差別是正へ
最初の組合は1953年に結成、民放労連に加盟、会社の攻撃により1965年に分裂。組合員数は激減、その後も様々な攻撃を受けたが、その際たるものが昇格差別であった。1973年に差別の是正を求めて労働委員会へ申立。3年の審理を経て(調書の丁数は1万丁を超えた)、完全な是正命令が出された。この時の労働委員会の最大の壁は、「1年の除斥期間」と「課長・副部長など役職就任」であったが、いずれも完全克服した。
会社は、次の2の事件と合わせて命令を受け入れ組合員を役職につけてバックペイを払い、二つの差別事件は、同時に全面解決した。1976年11月のことである。
2 偽装請負の正社員化の実現
民間放送では、組合分裂による弱体化攻撃の他、下請化・外注化が進められ、そのための受け皿会社も生まれた。1975年、6人の下請会社社員が正社員化を求めた。まず、労働委員会で会社に団交に応じることを求め、勝利命令。下請会社は、「引き揚げ」を命じたが、6人は拒否、すると6人を解雇してきた。そこで、6人は、京都地裁に、地位保全の仮処分申請を行った。これを裁判所が容認。「黙示の労働契約がある」と認定した(1976年5月10日)。
裁判所の決定については、相当な困難が予想されたが、6人が、下請会社には戻らないとして退路を断ったこと、監督署が会社に賃金直接払い義務に反しているという勧告を行ったこと、職安に、職安法違反があると言わせたこと、など、周りを固めて、裁判所に迫ったことが勝利に繋がった。会社は、正社員として、差別のない雇用を約束した。
まだ「偽装請負」という呼称の無かった時代の典型的な偽装請負であった。
3 ストライキのピケについて妨害排除の仮処分
70年代の終わり、おそらく今では、考え難いことだが、当該組合だけでなく、別組合も同時にストライキを決行し、数時間にわたって放送を止めるというできごとがあった。会社は、ピケが違法として、仮処分を申請、これについても却下決定を出させた。
4 組合の統一
今、会社には、一つしか組合は無い。1980年末、念願の統一を果たした。この組合の統一は、私に組合のありようを教えてくれた。当初の組合は、民放労連・京都総評に加盟していた。別組合は、そうではなかった。放送局内で、二つの組合があることにはデメリットがあり、共闘が進む中で統一の機運が高まっていった。しかし、統一すると、上部団体の加盟をどうするかが問題となる。組合は、それらを白紙に戻すと言う結論を出したのだ。そして、統一後、組合員の総意で決めればよいとしたのである。勇気のある決断だったと思う。支障は無くなった。二つの組合は一旦解散し、新しい組合を結成した。その後、議論を重ね、圧倒的多数で、民放労連や京都総評への加盟を決めた。
これが、のちに会社の再建にとって大きな力になったことはいうまでもない。
5 会社更生法の申請
80年代、経営は揺れた。89年、146億円の抵当権が社屋につけられた。93年、放送免許を1年に限られ、競売申請がなされ、いよいよ崖っぷちに立たされた。組合は、いろんな再建の進め方を学習し、会社更生法の申請がベストであるとして、会社に申請することを求めた。一旦、会社は、申請を決め、共同作業が始まった。しかし、会社は、自主的再建しか道が無いとして、申請を放棄、やむなく組合員らが申し立てる道を探った。
しかし、裁判所が組合員の前に立ちはだかった。裁判官は「申請は破産に至る」と決めつけて、容易に申請を受け入れるという意思を示さなかった。これをどう突破したのかは、長い話になり書籍も出されているので、割愛する。組合の確信に満ちた訴えが裁判所を動かした。
94年9月、従業員141人が申立人になり、一連の手続きが始まった。9月末日期限の放送免許は、延長され、競売は止まった。その後の流れは、組合が指摘したように進み、2006年10月更生終結決定が出された。
6 むすびにかえて
その後も、イラク戦争反対タテカン撤去仮処分事件が起こったが、却下決定を出させて、労働委員会や裁判所関連のすべての案件で勝利をすることができた。組合の力は大きいし、何よりも統一した力は大きかった。それを上部団体や周りの組合・市民が支えた。
この10年ほどの間は、組合の力で次々と社員化をさせてきた。労働組合は、このようにあってほしい。KBS京都に組合があってよかった。
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団総会の議案書の中でウクライナ戦争をめぐる情勢認識について
大阪支部 渡 辺 和 恵
団通信1790号の中西一裕弁護士の「議案書の情勢認識には賛成できない」を読みました。中西弁護士の意見に賛成します。議案書中、特に気になる一文があるので、これに限って意見を述べます。
ロシアの武力の攻撃にウクライナが武力で対抗していることについて、議案書1~2頁で「大国の戦略的思惑が交錯する中、小国ウクライナがそこで翻弄され、多くの命だけが数多く犠牲になっていくというのが、戦争の現実であり、戦争と平和の帰趨を握っているのは、戦争を仕掛けたロシアとウクライナへの軍事支援継続の決定権を握るアメリカを中心とするNATO諸国であり、残念ながらウクライナ自身ではないと言える。」は少なくとも、「民族主権・民族自決権」を否定する論であり、団で論議を重ねてきたテーマであるというのに、どうしてこんな言い切りになるのか、信じられません。
ウクライナ国民は、アメリカとNATOの思惑を承知の上で進めているのですから。ウクライナ国民の中にも武力対武力に反対の勢力もあると聞きます。だからこそ、私たちはロシアの蛮行を止めさせるために、これを許さない色々の行動をとる工夫と努力を続ける必要があるのです。
2022年10月15日
議案書の情勢認識には賛成できない、私も
東京支部 藤 本 齊
自由法曹団通信1790号に、中西一裕さんが書いているが、私もほぼ全面的に同意見です。とりあえず要点を二点のみ論じておく。
議案書第1章Ⅰ第1「ロシアによるウクライナ侵攻」は、全約420行をついやす大作であるが、うち、これが「国連憲章に違反し、国際法秩序の著しい侵害である」ことはその冒頭に言葉としては出て来るも、11行だけ! で、あとは全部中西さんも批判したとおりのものである。一部によくある論調であるが、これでは、法律家の主任務地であるはずの「国連憲章・国際法秩序違反」問題が単に枕詞(まくらことば)にされていることにしかならない。
法律家の視点からでなくとも、そこがまずもって問題とされてもきたのだ。それだけに法律家にとっては、その枕詞自体を深めることが必要で、正に任務でしょう。第一次大戦と国際連盟、パリ不戦条約等々以来の第二次大戦をまたいだ国際連合を始めとした戦争の違法化と国際立憲主義に向けた、一筋縄では勿論行かない中を、粘り強く続けられてきたこの道程、とりわけ第二次大戦後は、日本国憲法9条が中でも貴重な意義をもちつつ、国際法の一定の充実とともに相当に広汎なものとして進められてきたこの人類史的な道程の意義を、どう擁護し、定着させていくのか、そのことを、どう訴えていくのか、その上で我々法律家が更にどこをどう解明していくべきなのか等々の特殊な任務をも深めていくことこそが重要でしょう。
国際立憲主義に向けた道程と言っても、カント以来のそういう規範的な話はそれがゲバルト=組織暴力によって裏付けられていない以上無力だとのニヒリズムは、昔からあったし、規範と執行力の話ですから、法律家にとっては至極おなじみで、当然の今更の話です。だが、この100年の歩みは、確かに遅々とし紆余曲折だらけだったにしても、そしてその非力さを第二次大戦とロシアの侵略が眼に見させたとしても、それで、無価値視できる道程ではなく、また、それで断念してすませられる道程では決してないでしょう。そんなことは百も承知の上で、しかし進まねばならん、進むべきだとしてきた道だったはずです。
3月の国連での諸決議に現れた諸国、とりわけ弱小国の対応についても、よく見れば、弱小国に寄り添って世界を見るということがどういうことを意味するのか、その視点から見ることの大事さと、それが故にロシアが許されてはならないことが改めて示唆されているものです(これらの点については、私には『前衛』5月号特集と同8月号小林俊哉論稿が出色でした)。
ロシアの所業と人類史の道程の関係を、そうした視点から豊富に示し、法律家らしい糾弾を人々に示して行くことが求められているはずです。枕詞では何も言ったことにはならない。
第二に、中西さんも言ってるとおりロシアをどう見るかが重要です。ロシアの思惑と西側の思惑の間にはいって自分の思惑を語るという語りが多いが、こういう事態というのは、結局、情報の的確さと十分性の保証が危ういもので、こうしたときこそ、歴史を見る視点が、尚一層必要なのです。
同じく覇権主義といっても、アメリカのそれと、ロシアのそれと、中国のそれは歴史的な様相の違いを呈しています。今、重要なのは、これまで我々がよく知らなかったかも知れないロシア覇権主義の歴史をよく見ることです。独特の一貫性があることが分かります。ソ連邦崩壊後を見るだけでも、沿ドニエストル・チェチェン・アブハジア・南オセチア・グルジア侵略戦争・ドネツク・ルハンスク・クリミア・そして今回のウクライナ侵略戦争…(チェチェンはロシア連邦領土内共和国でだが、その他は全部、外国領土でだ!)。しかも、その内のチェチェン問題はソ連時代から既に悲惨でした。その前にはアフガンが…。実に、一筋の糸を引くように、そこにロシア覇権主義特有の様相が一貫して貫徹してきたことがよく見えます。侵攻自体のみならず、その口実の構え方、いよいよとなったときの残虐性、テロと戦争とクーデタ的手法等々、至る所で一貫しています。この性格は、NATO拡大問題以前から変わりなく、またその後もそれとは直接関連しません。グ ルジア戦争やアブハジア・南オセチア問題では関連しても良さそうですが、口実にも上がっていなかったと思う。確かに、ソ連崩壊後のほんの一時期、1990年のロシア共産党結成の頃以降の若干の時期、小ロシア主義に回帰する動きがなかったわけではない(石橋湛山の小日本主義よりも多少は現実的に)と言われますが、その短期間を除くと、このロシア覇権主義の伝統が一層露わになってきて、今その一つの極致にあると言えます。残虐の極みもチェチェンをさえ遙かに凌駕…。これらの点とその歴史を度外視する見方は、結局現在の表層をあれこれなで回すだけになって、何の実践的な課題にも結合しえないでしょう。
ロシア連邦を「ならず者国家」と言うかどうかはともかく、中西さんが具体的にも詳述するとおり「ロシアの無法非道な犯罪行為は文字通り『ならず者国家』の所業というほかなく」と言うのは、誠にその通りであって、「こうした認識がまず共有されるべきである。」と私も考えます。「枕詞の中にそのことも含んでるつもりです」ですませられる程度の話では到底なかろう。とりわけ法律家の団体であってみれば尚一層。
(尚、議案書なるものの形式上の問題も別にあるが、それらはまた別のふさわしい機会に。)
(日本史を見るならば、ウクライナ戦況地図を見せられる都度、満州事変後の北支工作、特に冀東防共自治政府・冀察政務委員会の頃の北支方面の地図を想起させられ、よく似てるなあと、戦前日本の満州事変から日中戦争と世界大戦への、ABCD包囲網に責任を転嫁しつつ、実に一貫して突き進んだ一筋の途を彷彿とさせられます。)
ロシアを免責する議案と団内民主主義
東京支部 木 村 晋 介
1 団は本気でロシアを非難しているか
総会議案書にロシアによるウクライナ侵攻問題が取り上げられました。その冒頭に、戦争の責任について、「この戦争に関していう限り、ロシアに一方的な責任がある」とさらりと書かれています。しかしそれ以降には、その戦争の原因を作ったのはNATOとアメリカだという議論が圧倒的な文字数でのべられています。その反面、ロシアがウクライナに与えていた脅威、例えばプーチンがかねてから、ウクライナ人とロシア人は「歴史的に一体だ」と主張し、ウクライナを独立した存在として認めてこなかったこと、ロシアがジョージアで行ったこと、クリミアを力により一方的に併合したこと、などについては全く触れられていません。民主主義国と権威主義国の緊張関係についても、一面的な事実を羅列して、西側が一方的に緊張関係を作り出しているという評価になっています。国際法を無視し続けるロシアにひき比べ西側には力による一方的現状変更など国際法違反がないのにです。
その結果、戦争の原因は圧倒的に西側が作り出しているという記述になっています。責任というものは原因を作った側にあるのが原則ですから、団の上記の記述は全体として西側に戦争責任があるといっていることになります。これは明らかにロシアを免責することにつながると思います。最初に「ロシアに一方的に責任がある」とひとこと書いておけば、あとは何をいってもいいというものではありません。
また、この時期に、ロシアが一方的に宣言した4州「併合」の評価が全く触れられていないことも不思議です。ロシアの開戦の意図がウクライナの領有にあったことが明確になったわけですから、これを書かないでどうするんでしょうか。だいぶ前から「住民投票」が行われ「併合」は確実視されていたと思います。
2 団は陰謀論に与するのか
普通の人がこの議案書を読んだ場合、この戦争についての団のとらえ方はこう映るでしょう。
①アメリカはロシアを弱体化させる戦略を持っていた。
②そのためにロシアに脅威を与え戦争へと追い込んだ。
③アメリカは、自国民の血を流さずに、ウクライナ人の血を流し、金だけ出して戦争をし、ウクライナ兵を使ってロシアを弱体化させようとしている。
④加害者はアメリカであり、ウクライナはその手先であり、被害者はロシアとウクライナ人である。
これは、一種の陰謀論であり、よほどの確証がない限り天下の自由法曹団がその総会議案の中で示唆すべきことではないと思います。たとえば、戦争勃発後の4月26日のオースチン米国防長官の「ロシアがウクライナ侵攻のようなことができない程度に弱体化することを望む」との発言を、自説の論拠とするのは無理でしょう。国際法を無視して侵攻する大国に向けたこの発言は特異とはいえず、民主制国家の大部分の人は、オースチン発言と同じ思いでいるでしょう。団員の大多数もそうであると私は信じています。
次に、アメリカが出している支援額が巨額だから「アメリカの戦争である」という主張についてですが、支援額が巨額だという理由で、ウクライナのこの戦争についての当事者性を否定する(またはあいまいにする)のはおかしいと思います。支援額が巨大なのは侵略国の軍事力が強大だからでしょう。ウクライナは当事者性を失っておらず、支援もウクライナからの要求にもとづいてなされています。世界は、支援を求めるゼレンスキーの痛切な声をきいています。もし団がアメリカなどの支援を非難しこれをやめさせたとすれば、ウクライナの領土は早晩ロシアに併合されるでしょう。その時団は、核兵器の使用をチラつかせる戦犯国家・ロシアの友好団体と評価されます、それは団員として余りにつらい。
私は、団がこのような考えをとっていないことを明確にするような議論を総会でしていただきたいと思います。私は、ウクライナ人の血が流れたのはプーチンが仕掛けた戦争によるものだと思います。アメリカがウクライナ人の血を流させているという議案書の立場は理解不能です。
3 NATO東方拡大問題について
議案はウクライナがNATO加盟を目指したことが戦争を生んだという説をとっています。たしかに、加盟を目指した後に戦争は起きていますが、これは前後関係に過ぎず因果関係ではありません。(私が再三本誌上で論じてきたように)ウクライナが加盟を目指していなくても侵略は起きた、という想定が否定できない限り、因果関係は認められません。法律家なら簡単にわかる論理です。ロシアの侵略目的がウクライナの領土奪取にあったことが露わになった今、この点も合わせてバランスのよい議論が総会でなされることを期待したいと思います。
4 本議案書の扱いと団内民主主義
ウクライナ戦争とこれに対する大国のかかわり方については、団内に様々な意見があるはずであり、この議案書のとる立場は、少なくとも団員の多数の意見を反映しているとは思われません。執行部にあっては、この問題に対する団内の意見を集約するために、時間をかけて丁寧なプロセスをへるべきです。これは、団内民主主義に関する極めて重要な問題と考えます。
所沢から沖縄のたたかいへの連帯!!
―日米政府はなぜ辺野古にこだわるのか―
埼玉支部 大 久 保 賢 一
玉城デニー知事の当選
沖縄県知事選挙で玉城デニーさんが当選したことは本当にうれしいし、大きな励みになっている。私の沖縄とのかかわりは、反戦地主弁護団の一員として、沖縄県収用委員会の公開審理(「米軍用地収用特措法」に基づく軍用地の強制使用手続き)や職務執行命令訴訟(沖縄の米軍用地の強制使用手続に必要な「代理署名」を求めて、村山富市(当時)内閣総理大臣が原告となり、大田昌秀沖縄県知事を相手に提起した訴訟)に反戦地主の代理人として補助参加したことなどにある。
1996年9月には、自由法曹団、青年法律家協会、国際法律家協会、日本民主法律家協会の法律家4団体が組織した「沖縄・横田に関する訪米団」の一員として、米国政府、議会関係者、平和団体に要請活動を行っている。要請の趣旨は、第1に、沖縄特別行動委員会(SACO)の合意を見直すこと。とりわけ、本土への実弾演習を拡散しないこと。第2に、地位協定の見直しと沖縄米軍基地の整理縮小。第3に、日米安保条約の解消への理解であった。その背景にあるのは、従属的な日米安保条約を解消し、対等平等な友好関係を築きたいという願いであった。
それから4半世紀以上が経過している。その間にも何回か沖縄を訪問し、辺野古の座り込みの支援もしてきた。けれども、沖縄の現状は決して好転していない。むしろ、米中対立を受け、悪化していると言えよう。そういう状況の中でも、沖縄の民意はぶれていない。その証が玉城デニー知事の再選である。
所沢からの沖縄知事選応援
埼玉県所沢市には「沖縄県知事選挙⽀援所沢実⾏委員会」がある。前々回の翁長雄志さんの知事選挙の時に結成され、その後も、稲嶺進元名護市長を迎えてのイベントなどを成功させている。玉城さんの今回の選挙でも作動している。8 月 27 日、「沖縄のつどい」が開催され、近隣地域から92名がリアル参加している。講演を予定していた高良鉄美参議院議員がコロナに感染してメインスピーカーが欠けるというハプニングもあったけれど、有意義な集まりになったことは、会場カンパが26万円になったことからも推測できるであろう(一人当たり2800円強は大きい)。
会は、今回の選挙結果を次のように評価している。
沖縄知事選挙でオール沖縄の推す玉城デニーさんが見事当選を果たしました。2014 年の翁長さん、前回の玉城さん、そして今回の玉城さんの再選で沖縄知事選は3連勝。「辺野古新基地建設」や「こどもの貧困化」を争点とした知事選挙で沖縄県民ははっきりと「辺野古新基地 NO」を三度突き付けました。今度は私たちがこの結果を引き取り、私たちの生活の場、政治の場で政治を変えていく番です。この間の皆さまのご協力に感謝するとともに今後も沖縄県民に寄り添い、一層の応援をお願いいたします。
私の開会あいさつ
私は呼びかけ人代表としての開会あいさつをした。その概要は次のとおりである(会のニュースによる)。
デニーさん再選を勝ち取りたいという思いで、皆さんにご挨拶します。沖縄県民の「辺野古新基地反対」という再三の意思表示もかかわらず、しかも技術的に無理な工事だと言われているのに、日本政府はなんとしても基地を造ろうとしています。それはアメリカの世界戦略とそれに同調する日本政府の意図のためと考えます。
近年、台湾をめぐって米中の対立が極めて強くなっています。バイデン大統領は去年の施政方針演説で、「私たちは米国の利益を守り、戦争を回避するために、インド太平洋地域で強力な軍事プレゼンスを維持する。アメリカは歴史上唯一無二の存在である」と言っています。他方で習総書記は中国共産党100年記念講演で「台湾問題を解決し、祖国の完全な統一を実現することは中国共産党の歴史的任務である。…中華民族は5千年余りの歴史を有する」と演説しました。
そして日本とアメリカの共同声明には「日米両国は台湾海峡の平和と安定の重要性を強調する」とあり、「日本は同盟及び地域の安全保障を一層強化するために自らの防衛力を強化することを決意した。日米同盟は揺るぎないものである」とあります。
このように、アメリカと中国は正面から対立し、日本はアメリカとの同盟を表明しています。となると最前線に立たされるのは沖縄です。それゆえに、南西諸島で自衛隊が強化され、辺野古新基地建設が続行されているのです。
今、辺野古基地建設への反対を表明しているデニー知事が再選されれば、米中対立の中で日本とりわけ沖縄を再び戦場にさせないという沖縄県民の意思がはっきりと示され、政権に痛手を与えることになります。第一次台湾危機の際には核兵器が使われようとしました。デニーさんの当選は、米中の対立を超えて、全世界の平和に直結することであり、沖縄や台湾での核兵器使用の危機を排除することであると強調したいのです。その思いを込めて、この「つどい」の時間を共有したいと思います。
結び
辺野古基地は米国の世界戦略に位置付けられている。日本政府はその意図に逆らうことはしない。核とドルへの依存を選択しているからである。その日本政府の選択が、沖縄県民の意思と正面から対立しているのである。米軍と自衛隊が中国軍と対決すれば、沖縄が最前線になることは誰にでも判ることであろう。
台湾危機に際して核兵器が使用されることはありうる。ロシアがウクライナ侵略に際して核兵器使用すれば、核兵器使用の敷居は低くなり、台湾海峡や琉球列島での使用はありうるであろう。
敵基地や敵の中枢を攻撃するということは、その逆の危険性を覚悟することを意味している。それが典型的な戦争である。しかも、戦争容認勢力は、核兵器使用をコントロールできると考えている。限定的な戦術核兵器の使用などを検討しているのである。例えば、最近テレビで見かける防衛研究所の高橋杉雄氏は、北朝鮮との関係ではあるが、米国が抑止力の信頼性を確保するためには、「最も確実かつ迅速に発射前の核兵器を撃破しうるオプション」である核兵器の限定使用さえも万一に備えた選択肢にしていく必要があろう、としている(「『核の忘却』の終わり」、2019年、勁草書房)。
北朝鮮の基地を核攻撃する選択肢の研究が、中国に拡大しないことはありえない。米国政府と軍部だけではなく、日本政府と軍部も核兵器使用を想定しているのである。しかも、日本政府は米国の核兵器先制使用政策に反対していることも忘れないでおきたい。武力での問題解決を想定する限り、核兵器は「最終兵器」として手放すことはできないのである。だから、彼らは、核兵器禁止条約を敵視するし、辺野古地建設をあきらめないのである。
そして、武力衝突は核兵器使用への道を拓くことになる。核戦争に勝者はなく絶滅が待ち受けている。「人類の終わりの時」が近づいてくる。
辺野古基地反対闘争は、沖縄だけではなく、私たちや北東アジアの民衆にとっての死活的な課題なのである。沖縄との連帯は「自分事」として取組み続けなければならないと決意している。
(2022年10月5日記)
田代博之団員(静岡県支部)~追悼特集~
『二人の遠州っ子』
静岡県支部 石 田 享
田代博之さんが亡くなられた。92才だった。渡邊昭さんからの電話があったし、少し遅れて塩沢忠和さんから何か書いてくれと頼まれた。引受けたが困った。ここ2年位、コロナ禍もあり、会って話をすることもなかったからである。そこで、大層昔のことを少しばかり……。
田代さんとの出会いは、今、88才の私が六三制教育改革で新制中学を卆業し、約3カ月の失業の辛苦を経て、社会人として若い労働者となった1950年。大分昔のことである。
浜松市内には米軍による爆撃の跡も残って、例えばジャイアントビルに「ホンダ」が街工場のようにして操業していた頃である。当時は種々の理由で新制高校へ通学できなかったが向学心に燃えた青年男女が大勢いた。他方、早稲田大学出版部は、早稲田が東京専門学校だった時代から大学の講義録など出版し読者を校外生と位置付けて、独学を援助することを行っており、いわば庶民層の知的要請に添う事業を行っていた。私は新制中学時代から旧制中学レベルの早稲田中学講義録に親しんでいたので、その延長のようなつもりで早稲田高等学校講義録を取寄せて校外生となった。浜松支部のこのグループは、一時、遠州尚学会とも称していたことも知っていた。
そこで田代さん達の中央大法科に進んだグループの三人と知り合うことになった。田代さんは多分20才前後だった。結核を患い天竜荘に入所されていたので面識は遅れたが、その一人飯田さんは、当時、大学生の角帽をキチンと冠って浜松市公会堂の例会に出席、加茂さんは小脇に本を抱えて参加され後輩の我々を励ましてくれていた。記憶に残っているのは、加茂さんが時事問題としてコミンフォルムの野坂参三氏批判を論じてくれたことなどがあった。やがて飯田さんは私が修習生になったことをその入院先に報告に行ったとき「君は、俺の分まで働いてくれ」と悲しくも羨しげに言われたことであった。その何日か後に飯田さんは不治の病といわれていた結核で亡くなったことを知った。私は敗戦の約1カ月前、やはり牛込の逓信講習所高等科に籍をおいたまゝ、逓信省官吏練習所に進む夢を抱きながら結核で死亡した叔父のことと併せて、結核の恐しさを痛感し、祖母がよく「勉強するな」と私に繰り返して注意していたことと重ね、田代さんの病気を秘かに案じてもいた。
やがて田代さんの結核は治癒し、司法試験も通り、11期司法修習生として横浜に配属となった。その頃、私は中大真法会の答案練習をしていたが、東横線の元住吉に住んでいた田代修習生の許に練習答案を持参して御高見に接することがあった。また、後日、横浜弁護士会の矢島惣平弁護士から浜松の裁判所で偶々聞いた話では、田代さんは話し好きで、またそれに劣らず弁護修習指導の加藤外次弁護士も大層雄弁な方で夕刻に加藤⇔田代で議論が始まると好一対の論敵で夜遅くまで二人で延々と論戦が繰り返されることがあり、しばしば閉口したらしい。たしかに田代さんは自分の話しに自分で酔うことができる人であった。
弁護士となった田代さんは、やがて総評弁護団員として同期生の三浦久さんなどと共に九州の三井三池大争議に参加し、その渦中で大活躍、新聞の一面に写真が載ったこともあった。また、その頃、三井三池争議関係の事件で意見陳述をした三浦久さんは法秩法で不当にも弾圧された、と仄聞したこともあった。どうやらその三浦意見は田代さんの原稿に基くものであったらしい。忘年会などで田代節と呼んでいた。酔うと三井三池争議の労働歌を歌うのはよかったが、時に空のビール瓶を振り廻すのには隣席の者にとって危険なものであった。
今にして思うと、田代さんの三井三池争議の総評弁護団での大活躍の頃、弁護士となった私は、松川弁護団に加わり、その後永く続くその仕事をするようになったわけである。
総評議長だった太田薫さんは、松川事件国家賠償訴訟の法廷で、60年安保斗争について、安保と三井三池と松川の三つの運動が一つにつながり民主主義運動の大発展となった、と述懐されたものであった。
その二つに「二人の遠州っ子」が弁護士としてかかわっていたわけである。何かとせわしく行動していたその田代さんも、今や安らかに永遠の眠りにつかれた。
さようなら。
2022年10月10日 記
田代博之先生を偲んで
静岡県支部 大 橋 昭 夫
田代博之先生(11期)が本年9月7日、92歳の天寿を全うし、ご自宅で静かに息をひきとられました。
田代先生は、昭和5年(1930)1月27日、静岡県浜名郡笠井町(現在の浜松市)に生まれ、中央大学法学部を卒業し、昭和34年(1959)4月、弁護士登録をし、東京の城北法律事務所に入所し、青柳盛雄先生に師事しています。
田代先生は、今も昔も自由法曹団の活動を体現する弁護士の1人で、昭和39年(1964)には岡崎一夫団長、小沢 茂幹事長のもとで自由法曹団本部事務局長を務め、さらに、静岡県支部でも長らく支部長を務めるなど、団内外の人々から多くの尊敬を集めていました。
田代先生は、大学卒業前後に結核に罹患し、郷里の国立療養所天竜荘で闘病し、その間、浜松市内の司法試験受験生と学習グループを作り勉強し、昭和31年(1956)司法試験に合格しました。
田代先生のお話しによりますと、少年時代は軍国少年であったということですが、結核患者という弱い立場に身を置き、患者会の活動などにも影響されて、将来は新憲法に忠実な社会的に弱い者の側に立った弁護士になろうと決意し、地方で勉強に励まれたとのことです。
田代先生が東京弁護士会に入会し、青年弁護士として一歩を踏み出した昭和34年(1959)は当時の総評が春闘方針として「総労働の立場で独占資本と対決する。」ことを決めるなど、労働運動が盛りあがり、鉄鋼労連、合化労連、全造船、私鉄総連、炭労などが全面スト、時限ストを決行するなど極めてダイナミックな時期でした。
又、この年の3月には「安保改定阻止国民会議」が結成されるなど、労働運動と共に大衆運動も空前絶後といえる程高揚を迎え、こうした中で三井鉱山三池炭鉱では多数の労働者の指名解雇をめぐり、昭和34年(1959)10月以降、断続的にストライキが続き、会社側は昭和35年(1960)1月25日、三池鉱業所全域をロックアウトにし、その後、組合も無期限全面ストに突入しました。
この後、会社の組合分裂工作が熾烈をきわめ、暴力団が導入され、3月29日、第2組合の労働者の就労を阻止するピケ隊の一人であった久保 清さんが暴力団によって刺殺されるという痛ましい事件が発生しました。
自由法曹団百年史年表38ページには「総評弁護団を中心に東京、大阪などから弁護士が派遣され、常時7~8人が待機。ホッパー決戦前には総勢39名が終結。延べにして1500名に達した。」との記載がありますが、多くの自由法曹団員が総評弁護団の名のもとに、団外の弁護士と共に、わが国の労働運動史上に今も残る三井三池争議にかけつけ、三池炭鉱の労働者と連帯し闘ったことは現在の団員にも大きな感銘を与えます。
田代先生は、この闘争に東京から参加し、常駐弁護士として2年間程を現地で過ごしたとのことです。
田代先生は、裁判所に提出する妨害排除の仮処分の申立書や会社側から提出されたホッパー立入禁止の仮処分についての異議申立書の作成など毎日忙しく働き組合員のピケ闘争にも参加し、暴力団や第2組合の不法行為にも対峙したとのことです。
そして、組合員やその家族とも交流し、時には寝食を共にし、友情を培い、来たるべき社会は労働者が主人公の社会であるべきだとの確信を深めたとのことです。
田代先生は、ほとんど私的なことを語る人ではありませんでしたが、懇親の場で青年弁護士時代の三井三池闘争の思い出を楽しく語り、私も楽しくその話しを聞き、自らのあるべき弁護士像と重ねあわせていました。
田代先生は、三井三池争議が終結すると、城北法律事務所に戻り、自由法曹団本部の事務局長に就任し、「在日朝鮮人の人権を守る会」の中心的メンバーとして活躍し、昭和39年(1964)6月には、同会の一員として朝鮮民主主義人民共和国を訪問し、同国で1か月間を過ごしています。
私は、田代先生と一緒に長らく静岡県アジアアフリカ連帯委員会で活動しましたが、田代先生の在日朝鮮人、韓国人に対する暖かい眼差しは格別で、静岡県内の多くの在日朝鮮人、韓国人の尊敬の的となっていました。
田代先生は、当時の自由法曹団の空白地域解消の方針もあって、昭和46年(1971)4月、当時、団員がいなかった郷里の浜松市に戻り、同じく東京合同法律事務所から郷里に戻った石田 享団員と共に浜松合同法律事務所を設立しました。
浜松合同法律事務所には昭和49年(1974)、渡辺 昭団員も加入し、静岡県西部地域の人々の人権を守る砦となりました。
浜松合同法律事務所の入居していたビルの壁面には「憲法をくらしの中に」という垂幕が掲げられていたことが印象に残ります。
田代先生が浜松市に来て扱った著名な事件は「行政法判例百選」に登載されている「伊場遺跡文化財保存訴訟」や「静岡スモン訴訟」が記憶に残りますが、私が忘れないのは田代先生が弁護団長を務めた「遠州じん肺訴訟」です。
この訴訟は、昭和43年(1968)、千葉大学医学部を卒業した海老原勇医師が山村医学研修のために、佐久間ダムで有名な佐久間町国保山香診療所に赴任したことが契機となっています。
海老原医師は、同地にあり既に閉山になった古河鉱業久根銅山、日本鉱業峰の沢鉱業所で働いていた労働者が、採掘の際、肺に粉じんを吸い込み「よろけ」といわれているじん肺症状に苦しんでいることを診療現場で目のあたりにしました。
海老原医師は、じん肺患者の救済や会社の責任を究明するには弁護士の力が必要であると考え、その意を受けたじん肺患者同盟の有志が田代先生と亡名倉実徳団員を頼り、この中で「遠州じん肺訴訟弁護団」が発足し、渡辺 昭団員、森下文雄団員、藤森克美団員、伊藤博史団員、私が、この弁護団に参加しました。
訴訟は、古河鉱業、日本鉱業、間組、飛島建設の4社を被告として、昭和53年(1978)12月11日に静岡地方裁判所浜松支部に提起されました。
原告らが浜松市内から遠く離れた山間地に居住していたこともあり、弁護団会議は原告との打ちあわせを兼ねて、現地の旅館に宿泊して行うことも多く、結審まで浜松合同法律事務所における弁護団会議も無数に開催されました。
田代先生は団長でしたが、書面づくりも率先して担当し、決して手を抜くことはなく、私たち後輩の担当分野にも適確な指示を出していました。
そして、法廷では舌鋒するどく弁論し、被告らの証人を厳しく追及し、原告や傍聴者をうならせていました。
この田代先生の気迫は、三井三池闘争以来のひたむきに働く労働者に対する共感力に支えられており、鉱山労働者やトンネル労働者の肺を侵した会社に対する怒りに発したものでした。
この訴訟は勝訴し、東京高等裁判所で和解が成立し解決しましたが、その後、全国でじん肺訴訟が展開されたことは弁護団の細やかな誇りとするところです。
この訴訟を通じ、私たちは田代先生の弁護士としての矜持を学び、年の差のある後輩団員に対する気配りや思いやりに感謝したものです。
そして、何よりも団長である田代先生が原告の方々やそのご家族から大きな信頼を得ていることを嬉しく思った次第です。
田代先生は普段はおとなしい人ですが、ここ一番の時には弁舌さわやかで、演説がうまく政治家向きの人でした。
田代先生は、遠州じん肺訴訟が提起される直前に「明るい静岡県政をつくるみんなの会」から推薦されて静岡県知事選挙に立候補されました。
静岡県内の民主団体の衆望を担い2期目の山本敬三郎知事に革新無所属の候補として挑戦した田代先生には敬服以外の何ものもありません。
残念ながら当選するには至りませんでしたが、ほとんど自分のことを自慢したことのない田代先生が「36万票を得ることができた。」「自分の背後には36万人がいた。」とニコニコと嬉しそうに語ったことが忘れられません。
当選しそうもない選挙に立候補することが如何に大変であることを知っている私には、この言葉が36万人の人々の思いを肝に銘じ、今後も民衆の弁護士として活動していくという力強い誓いのようにも感じられ、心が明るくなったものです。
田代先生は言行一致の人であり、70代後半や80代になっても、いつも変わらず弁護士活動を続け、最近まで「浜岡原発永久停止弁護団」の団長として、世界一危険な浜岡原発廃炉の訴訟に参加し、又、重慶大爆撃訴訟の弁護団員として東京の会議にも足繁く通いそればかりでなく、中国の重慶にもたびたび足を運び現地の原告の方々と打ちあわせをしていました。
私は原発の弁護団会議の折、重慶市に行ってきたことを聞かされ、「戦争責任」「戦後責任」を果たすため、80代後半になっている田代先生が今もなお、日本人として中国人民のために責任を果たしたいという姿勢に感銘を受け、そのエネルギーに感動したものです。
ここ1年半位、田代先生が弁護団会議に顔を出さず人づてに自宅で休んでいることを聞き、とても心配していましたが、ご逝去という報に接し、大変悲しい思いをしました。
田代先生と私は、平成5年(1993)8月、静岡県弁護士会のヨーロッパ司法調査団の一員としてケルン地方裁判所やケルン弁護士会を公式訪問し、民事訴訟制度を調査し、10日間同宿したことがあります。
その間、私的には国鉄でケルン中央駅から2駅目にあるボンを訪れ、ライン河畔で談笑し、ベートーベンの生家や市内のビアーホールに行き楽しく過ごしたことが思い出されます。
田代先生は90歳になるまで60年以上にわたり現役の弁護士として活躍され、多くの方々のために尽くし尊敬を集めました。
そして、60年安保直前の激動期に団員となられ、団本部の事務局長として自由法曹団の発展に寄与し、又、自由法曹団静岡県支部発足時の団員として県支部の礎を築いて下さいました。
田代先生に心から感謝すると共に、わが国に真の自由と民主々義の確立することを固く信じていた先生の遺志を自由法曹団員として心に刻み、その遺志を引き継いでいくことをお誓いします。
最後になりましたが、田代先生のご指導やご厚情を受けた者として、ご家族の皆様方に対し、謹んで哀悼の意を表します。
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「定額貯金」はなぜ消滅するのか?――郵政民営化の盲点
東京支部 後 藤 富 士 子
郵政民営化前の2007年9月までに預けられた通常貯金は㈱ゆうちょ銀行に引き継がれ、その他の定期貯金や定額貯金等は、独立行政法人郵便貯金簡易生命保険管理・郵便局ネットワーク支援機構(平成31年4月1日に名称変更。以下、単に「機構」という。)に引き継がれた。すなわち、機構に引き継がれた預金の債務者は、株式会社である「ゆうちょ銀行」ではなく、独立行政法人である「機構」であり、その限度で「民営化」されていない。
去る8月2日付朝日新聞に「満期後20年 消える郵貯」という記事が掲載された。機構に引き継がれた定額貯金等について旧郵便貯金法が適用され、満期から20年2か月が経過すると払戻の権利が消滅する。民営化後に消滅した累計は約2千億円、満期が過ぎて払戻されていない残高は今年3月末時点で5916億円、2037年まで続く見通しという。
旧郵便貯金法57条1項は「定額郵便貯金は、預入の日から起算して十年が経過したときは、通常貯金となる。」と規定している。そして、通常貯金について、40条の2で「十年間貯金の預入及び払戻しがなく、かつ、通帳の再交付に係る請求その他公社の定める取扱いがない通常郵便貯金については、貯金の預入又は一部払戻しの取扱いをしない。」とされ、この凍結された通常貯金について、29条で「その後十年間その貯金の全部払戻しの請求がない場合において、公社がその預金者に対し貯金の処分をすべき旨を催告し、その催告を発した日から二月以内になお貯金の処分の請求がないときは、その貯金に関する預金者の権利は、消滅する。」としている。これが「満期から20年2か月」ということである。
そうすると、そもそも通常貯金を㈱ゆうちょ銀行に引き継ぎながら、定額貯金を機構に引き継がせたことが問題と思われる。定額貯金が預入から10年経過して通常貯金となっても㈱ゆうちょ銀行に引き継がれず、独立行政法人である機構に握られたまま消滅の憂き目にあう。すなわち、預金者は、㈱ゆうちょ銀行の通常貯金とは別に、機構にも通常貯金があるということになるが、そんなことを自覚できるはずがない。機構が窓口業務を㈱ゆうちょ銀行に事務委託しているため、預金者に対し、「ゆうちょ銀行」以外に債務者がいるという事実は隠されている。機構が満期から10年後に催告し、さらに10年後にも催告するからといって、そもそも「機構」が自分と関係しているとは思えないだろう。現に「貯金したら一生安心安全と思い込んでいたのに、預けたお金が消えてしまい、私のものでなくなってしまうことは信じられない」と、㈱ゆうちょ銀行の88歳の女性顧客がベテラン行員に伝えている。
このように、民営化前の郵便貯金債務者(公社)を信頼して預金した権利者を、あざとく騙すようなことによって8千億円もの大金が個人から国庫に移るというのは、いかにも不正であろう。どうしてこんなことが罷り通り、是正もされないのか、日本の「法の支配」の後進性を嘆かざるを得ない。
(2022年8月24日)
【書籍紹介】
「統一協会の何が問題か?人を隷属させる伝道手法の実態」
北海道支部 郷 路 征 記
10月末に花伝社から出版されます(880円)。
ご購入をお願いします。
下記のメールアドレスにご連絡頂ければ、申込み用紙をお送りいたします。
こちらを用いて注文すると、送料が無料になり、10部以上であれば2割引になります。
私は、35年間にわたって、統一協会の伝道・教化課程(活動)が被勧誘者である国民の信教の自由を侵害するものであって違法であり、その結果、重大な経済的被害等の被害が引き起こされるのであるとの立場から、統一協会に対する訴訟を遂行し続けてきました。その過程で、統一協会の伝道・教化課程について、その違法である根拠についての解明を進めてきました。
そのような実践を基礎として、現在の事態の発生に、私なりに対処するため、山上容疑者は勿論、山上容疑者の母親も統一協会の違法な伝道・教化課程の
被害者であり、統一協会こそが、安倍元首相の殺害にも責任を負わなければならない、関連する事件全体の真の加害者であることを解明してきました。それが、8月23日、自由法曹団創立100年記念北海道支部特別例会(共催・青法協北海道支部)での、私の講演でした。
その講演の内容を基礎に、では、いかなる方法を講じれば、統一協会による信教の自由の侵害をはじめ、献金被害等の重大な被害の発生を防止することができるのかと言う点について論じたのが、世界10月号の私の論文「宗教カルトの何が問題か?統一協会の伝道・教化をめぐって」です。
この文章は、統一協会の伝道・教化課程の事実に基礎をおいて、そこから、被勧誘者である国民の信教の自由を侵害しているものは何かという視点から、統一協会の伝道・教化課程が違法であると評価されるべき点を抽出し、禁止されるべき事項を指摘したものです。
このような視点によって宗教団体の伝道・教化課程に切り込んだものは外にはないと思われ、そのことによって、有効な再発防止策となっているはずであると思っています。
憲法会議の新パンフレットの普及と活用にご協力ください
改憲阻止対策本部担当次長 岸 朋弘
2022年7月10日の参議院選挙の結果、衆参両院で改憲勢力が憲法改正案発議に必要な3分の2の議席を獲得し、明文改憲の危機が高まっています。その一方で、安倍晋三元首相の国葬の強行、旧統一協会と政治との癒着など、岸田政権に対する批判の声も大きくなっています。
このような情勢や岸田政権の軍拡・改憲の姿勢の問題を広く伝え、明文改憲と実質改憲を阻止するために、一層の取組が求められています。
今般、憲法会議では、従来のパンフレットを改訂し、新(第4弾)パンフレット『9条改憲は許さない!憲法を生かして、平和・いのち・くらしを守ろう』を発行しました。先の参院選後の出来事もできる限り反映し、かつ、これまでどおり図表を多く使用したわかりやすい内容になっています。
各地で普及いただき、学習会活動に活用していただきますようお願いいたします。
※ ご希望の方は憲法会議までお問い合わせ下さい。(1部100円)
℡ 03-3261-9007 / FAX 03-3261-5453
東北の山(8) 和賀岳
神奈川支部 中 野 直 樹
東北のブナの森の命
宮城と山形の県境に船形山(1500m)がある。船形山はかつて白神山地をしのぐブナの森に包まれていたが、60年~70年に林野庁が造林のために3分2を伐採したそうだ。植林された杉とカラマツは根付かないまま放置された。85年に「船形山のブナを守る会」がつくられ、99年生物群集保護林に指定されブナの再生に舵切りされた。
93年、白神山地の一部が世界遺産登録された。このブナ林も82年に着工された青森県西目屋村と秋田県八森町を結ぶ「峰越型」林道計画による伐採の危機に直面した。青森側と秋田側で守る会ができ、ブナの森の手前で林道を食い止めた。
奥羽山脈の中央部、岩手と秋田の県境に真昼山地と呼ばれる山塊がある。この地のブナの原生林も70年代に伐採が始まった。麓の沢内村の高橋喜平氏が「和賀岳の会」を立ち上げ、社会に保護を訴え、81年に自然環境保全区域に指定された。この成果が白神山地の林道をストップし、世界自然遺産登録に連なった。
私たちが、東北の山々でブナの森に癒されることができるのはこのような地元の人々の開発・利権との粘り強いたたかいがあることに思いを馳せなければならないと思う。
真昼山地
北の朝日岳(1376m)、中央の高下岳(1323m)・最高峰・和賀岳(1439m)・薬師岳(1218m)、南の中ノ沢岳(1061m)、主峰・真昼岳(1059m)から成る。非火山性の山塊で尾根はなだらかである。周囲のいくつかの渓に岩魚釣りに入渓したことあるが、深いV字渓谷であり、増水時に退路を断たれた厳しい思い出もある。
秋田側の登山口
2019年9月28日、角館と大曲の中間にある「道の駅なかせん」での車中泊から、真木渓谷沿いの林道に入り、薬師岳登山口に到着。7時45分、ザックを背負って出発。和賀岳までの標高差1100m弱にもかかわらず、コースタイム4時間30分となっている。尾根に出てからの水平距離が10.5㎞と長いことによる。
空には薄雲がかかっており、山上での展望がやや気にかかる。10分ほど渓流沿いの林道を歩くと「甘露水口」と書かれた登山口となった。パイプ通しの湧水を味わった。ここから尾根に上る急斜面の山道に口を開いた呼吸となった。ミズナラの巨木帯からブナの林に樹相が変わり、そろそろ色づこうかなと思案をしているような気配を感じた。ブナ平との標識があるところには幹太いブナの大木も現れた。9時過ぎに倉方と書かれたところを通過した。倉方とは倉庫を管理し、財物の出し入れをする番を意味する。この倉方を過ぎると真昼山地の展望が開けてきた。大きく深呼吸をし、躍動する気持ちに切り替えて高度を稼いだ。やがて尾根の道に出てもうひとがんばりすると薬師分岐に出た。10時前だった。右手にいくと大甲、甲山を経て真昼岳に向かう稜線だ。左手に少し歩むと薬師岳山頂となった。めざす和賀岳は、前山の小鷲倉を経て、はるか彼方にそそり立っている。
尾根の両側面の対照
大きな尾根の山道は草地と笹の中に延びる。進行方向からみて右手(東側)の斜面は急傾斜で落ち込み、低木はなく、草と笹に覆われているが、ところどころ剥げて岩肌がむき出しになっている。冬、豪雪に西側から烈風が吹きつけ、雪が東斜面に吹き溜まり、雪庇をつくる。これが春の雪解けを迎えると土壌を侵食しながらなだれ落ちる。そのため次第に傾斜が急こう配となるし、木が育たないのである。雪蝕地形と言われている。
これに対し、左手(西側)の斜面は緩やかであり、低木とハイマツが斜面を這うように密生している。尾根は秋の領域に入り、山肌が、朱色、黄色、緑色の絵の具の点描に彩られている。これを眺めながらの快適な尾根歩きに自然と足取りも軽くなった。薬師岳から少し下って登り返しとなり、小杉山(1229m)についた。ここから左手に白岩岳(1177m)への稜線が延びている。この白岩岳の懐に幹回り10.1m、樹高25m、樹齢700年の日本最大のブナがあるそうだ。
和賀岳へは右に90度曲がり、残りの標高差200mとなった。距離はまだ2.4㎞もある。
和賀の四季
私の手元に、前述の和賀のブナを守ることに尽力された高橋喜平氏が97年に著した写真集「和賀岳の四季」(岩手日報社)がある。真昼山地の四季それぞれの最も輝いている姿を味わうことができる。このなかの「夏」のページを開くと、珍しいタカネセンブリをはじめ、和賀岳を支える尾根が高山植物の百花繚乱に彩られることが紹介されている。
今は秋。花の栄華が失われた草原は草紅葉に衣替えをしようとしている。そして、西側の斜面では、中腹から稜線にかけて低木の紅葉が絨毯を敷き詰めたような景観を作り出している。秋の彩りに目を奪われながら波打つような稜線を心弾ませながら歩いた。
山頂にて
11時30分、山頂に到着。心配したとおり空は雲におおわれてしまったが、北方面の森吉山、田沢湖、秋田駒ヶ岳、岩手山が展望できた。南の鳥海山は靄がかかり、雰囲気だけいただいた。
山頂で昼食をとる登山者の多くは、岩手県側の高下登山口から登ってきているようである。この高下コースは途中で和賀川本流の渡渉をしなければならないが距離とコースタイムは真木渓谷コースよりも短い。明日、裏岩手の三ツ石山の紅葉を見にいくという女性としばし東北の紅葉見どころ話がはずんだ。
12時15分に下山を開始し、往路を復路とし、14時45分駐車場に戻った。
【写真提供:中野直樹団員 和賀岳】