第1792号 11/1

カテゴリ:団通信

【今号の内容】

●2022年自由法曹団京都総会が開催されました  平 井 哲 史

●2022年京都総会へのご参加、ありがとうございました。  谷 文彰

●「修学旅行ではみることのできない京都を巡る」  吉川 健司

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●枚方市組合事務所事件・勝訴判決報告  加苅  匠

●執行部のウクライナ戦争観と帝国主義論  木村 晋介

●「十人十色」はアナーキー~「檻」の外にある自由  後藤 富士子

●代々木総合60周年記念ニュース  永尾 広久

●【書籍紹介】11・8川口君事件から50年を経て樋田毅『彼は早稲田で死んだ 大学構内リンチ殺人事件の永遠』  松島  暁

●北アルプス 花の道を歩く(1)  中野 直樹


 

2022年自由法曹団京都総会が開催されました

本部事務局長 平 井 哲 史

1 2022年10月23~24日、京都府京都市九条の京都テルサにおいて、自由法曹団2022年京都総会が開かれました。数十年ぶりの京都での開催となりました。本総会でも、会場とオンライン(ZOOM)を併用しての開催となりましたが、リアル参加を追求した結果、会場参加は約160名、オンライン参加は85名、合計約240名を超え、昨年の総会を上回る人数が全国から集まり、活発な議論が行われました。

2 総会前日の10月22日には、プレ企画として、支部代表者会議と若手学習会に代わる京の町づくりを探訪する歴史ツアーを、それぞれ40名弱の参加でおこないました。また、総会初日の午前中には、労働問題委員会のスピンオフ企画として急遽決まった、KBSテレビ訪問がおこなわれました。

3 総会は、冒頭、今村幸次郎団員(東京支部)、谷文彰団員(京都支部)の両団員が議長団に選出され、議事が進められました。
 吉田健一団長の開会挨拶に続き、京都支部小笠原伸児前幹事長の歓迎の挨拶、京都弁護士会鈴木治一会長、全国労働組合総連合小畑雅子議長、日本国民救援会中央本部岸田郁事務局長、仁比聡平日本共産党参議院議員・福岡支部団員からご来賓の挨拶をいただきました。また、日本宗教者平和協議会の宮城泰年さんからビデオメッセージをいただき、そのほかに全国から合計47本のメッセージが寄せられました。

4 続いて、恒例の古稀団員表彰が行われました。今年の古稀団員表彰の対象者は22名で、うち、東京支部・堀敏明団員、京都支部・小川達雄団員、和歌山支部・由良登信団員、広島支部・石口俊一団員が参加、北海道支部・佐藤哲之団員、東京支部・安原幸彦団員がオンライン参加されました。参加された古稀団員には、吉田健一団長から表彰状と記念品の目録の授与に続いて、ご挨拶をいただきました。

5 その後の議事として、まず、選挙管理委員の尾崎彰俊団員(京都支部)から団員からの団長推薦候補の届け出がなく、9月17日常任幹事会での推薦に基づき団長に岩田研二郎団員(大阪支部)が無投票で再任されたことの報告がなされ、幹事候補の信任投票につき、オンライン参加者には郵便投票が実施されたことが報告されました。
 続いて、小賀坂徹幹事長から本総会にあたっての議案の提案と、情勢認識に関する事前の反対意見を受けての補足説明がなされ、議案書記載の諸課題についておおいに議論をお願いしたいと提起がされました。また、数年越しで検討されてきた団組織の体制強化・団財政の見直しについて、団費を2023年7月以降、月額400円引き下げる提案がなされました。さらに、予算・決算の報告がなされ、本間耕三団員(東京支部)から会計監査について報告がなされました。

6 次に、改憲阻止の運動を盛り上げるための動画コンペの表彰式をおこないました。金賞該当作品はなく、銀賞が、加部歩人団員ほか(東京支部)の『日本の弁護士からロシアの皆さんへ』と題する反戦メッセージ動画と、長谷川拓也団員ほか(神奈川支部)の『【弁護士が解説!たった10分強でわかる】緊急事態条項とは何か?』の2本、企画賞が、加部歩人団員ほか(前同)の『解説 敵基地攻撃能力』と、田井勝団員ほか(神奈川支部)の『【弁護士が解説!たった10分でわかる】敵基地攻撃能力とは?』の2本でした。表彰後、各動画のダイジェスト版を流し、受賞者からスピーチを受けました。獲得賞金をもとにさらに効果的な動画の発表を期待いたします。

7 こうして会場が盛り上がったところで、次の全体会発言5本がなされ、休憩を挟み、分散会討論となりました。
 ① 防衛予算・安保3法等の大軍拡について(尾崎彰俊団員:京都支部)
 ② 辺野古新基地建設を止めるために(仲山忠克団員:沖縄支部)
 ③ 道警ヤジ事件控訴審について(齋藤耕団員:北海道支部)
 ④ 茨城支部での国葬問題の取り組みについて(谷萩陽一団員:茨城支部)
 ⑤ 改憲阻止の講師活動のススメ(青龍美和子団員:東京支部)

8 分散会討論については次号でさらに報告をしますが、初日は、①憲法・平和の課題、②治安・警察問題、③教育問題について、予め本部から依頼した団員にリード発言をしていただき、各テーマにつき活発に討議いただきました。分散会終了後は、仁比ネット・そえクラブ共催の自主企画がおこなわれました。
 2日目は、④市民問題、⑤労働・貧困・社会保障問題、⑥差別問題、⑦構造改革、将来問題、組織問題等について、⑦以外は、予め本部から依頼した団員にリード発言をしていただき、各テーマにつき活発に討議いただきました。

9 2日目の分散会終了後の全体会では、次の4本の全体会発言がなされ、小賀坂幹事長より討論のまとめがおこなわれました。また、分散会の中で、団費の値下げについて、規約第12条で、「総会でこれを定める」となっていることから、きちんと提案をすべきではないかとの意見が出たことを受けて、改めて小賀坂幹事長より、2023年7月から月額400円下げる旨提案し、印刷費や通信費の節減等により赤字にならないようにする旨報告がありました。
 ① フジ住宅ヘイトハラスメント最高裁勝利(金星姫団員と原告:大阪支部)
 ② デジタルマネー払い中心に労働法制について(岸朋弘次長:東京支部)
 ③ インボイス制度の実施延期を求める(永田亮次長:神奈川支部)
 ④ ヘイトクライムのない社会を目指して(福山和人団員:京都支部)

10 その後、規約5条に基づき、活動報告及び決算について承認、活動方針及び予算について採択されました。
 続いて、以下の6本の総会決議を私より提案し、動議により、全体一括ではなく1本ずつの採択に付されました。提案にあたっては、⑥の決議について、分散会の討論を受けて、執行部から一部修正の提案をおこない、採択の結果、それぞれ拍手により賛成多数が確認されて採択されましたが、⑥については、反対および棄権の数を記録に残すべしとの動議により、反対11票、棄権11票が確認されました。
 ① 憲法9条を破壊する岸田政権の大軍拡に断固反対する(案)
 ② 沖縄県民の意思を尊重し、辺野古新基地建設の撤回と、「基地のない平和な沖縄」を目指すことを求める決議(案) 
 ③ 新自由主義に基づく政治から脱却し、貧困と格差を是正し誰もが安心して暮らすことのできる社会づくりのために全力で奮闘する決議(案)
 ④ 零細事業者への増税を強いるインボイス制度の実施に反対する決議(案) 
 ⑤ 差別のない社会を目指し、速やかなヘイトクライム根絶のための速やかな対策を求める決議(案)
 ⑥ 多様な性のあり方の尊重を求め、すべての人が平和に安心して生活できる社会の実現を求める決議(案)

11 採択後、選挙管理委員会の尾崎彰俊団員(京都支部)から、幹事の信任投票の結果につき、候補者全員が信任された旨の報告がなされました。
 引き続き、総会を一時中断して拡大幹事会を開催し、規約6条に基づき常任幹事を選任し、幹事長の互選を行い、今村幸次郎団員(東京支部)が幹事長に選任されることを確認し、ひきつづき、事務局次長の選任が行われました。

 退任した役員は次のとおりで退任の挨拶がありました。
 団長   吉田健一(東京支部)
 幹事長 小賀坂 徹(神奈川支部)
 事務局次長 大住広太(東京支部)
 同     岸 朋弘(東京支部)
 同     安原邦博(大阪支部)

 新任の役員は次のとおりで、時間の関係上、団長および幹事長から挨拶がなされました。
 団長  岩田研二郎(大阪支部)
 幹事長 今村幸次郎(東京支部) 
 事務局次長 髙橋 寛(東京支部)
 同     久保木太一(東京支部)
 同     加部歩人(東京支部)
 同     坪田 優(東京支部)

 再任された役員は次の通りです。
 事務局長  平井哲史(東京支部)
 事務局次長 永田 亮(神奈川支部)
 同     小川 款(千葉支部)

12 最後に、開催地支部である京都支部の新幹事長福山和人団員による閉会挨拶をもって総会を閉会となり、希望者は山宣資料館とウトロ地区視察の半日旅行に出ました。

13 今総会も、多くの団員・事務局の皆さんのご参加とご協力によって無事総会を終えることができました。総会で出された活発な議論を力に、コロナ禍の中で、国民に自己責任を押しつける政治から、自由と人権が守られる社会の実現を求める取り組みに尽力して行きましょう。
 最後になりますが、総会成功のためにご尽力いただいた京都支部の団員、事務局の皆さま、関係者の方々に、この場を借りて改めて御礼申し上げます。ありがとうございました。

【古稀表彰式へご参列頂いた皆さま】

 

2022年京都総会へのご参加、ありがとうございました。

京都支部事務局長 谷  文 彰

1 御礼とご報告
 京都支部、事務局長の谷です。京都では55年ぶりの総会開催となりました。簡単ではありますが、御礼も兼ねたご報告をさせて頂きます。
 まず何より、全国のみなさま、2022年京都総会にリアルで、あるいはオンラインで本当にたくさんの方にご参加頂き、心より御礼申し上げます。経験のないことで至らないこと、ご迷惑をお掛けしたことも多数あったことと思いますが、何卒ご容赦を頂きたく存じます。
 いろいろと大変なこともありましたが、総会を引き受けてよかったと思う点を特に2点、申し上げます。
2 よかった点1:支部の連帯が強まる
 それは5月30日午後11時すぎのこと。1通のメールが届きました。タイトルは「団総会の打診」、差出人は平井事務局長・・・「5ヶ月もないやん!」私は狐につままれたまま直ちに支部のメーリングリストに転送し、意見を募りました。さまざま意見があり、開催そのものに反対という意見はありませんでしたが、スケジュール的に無理があるという意見が多く出されました。どうせやるならしっかり準備して迎えたいということですね。支部総会が10月8日に予定されていたため準備期間が重なるということも背景にありました。
 幹事会はその3週間ほど先だったので、Goとなってもそこから動いては間に合わないと、とりあえず会場を探しました。これが一番大変でしたが、事務局にがんばってもらってなんとか仮予約することができました。MLで意見交換しつつ迎えた幹事会では、せっかく声をかけてもらったのだからできる範囲でやろうということになり、開催へ向けて動き出しました(プレ企画の日が時代祭の日だと気づいたときには「やっぱり無理か」と諦めかけましたが)。
 プレ企画や半日旅行はそれぞれ担当者が準備してくれましたし、団通信の京都支部特集も積極的に投稿してもらえました。当日準備・後片付けにも10名が名乗り出てくれました。ベテラン団員からも55年前の京都総会の様子を教えてもらったり、なんとか清水寺を会場にできないかとご苦労頂いたり(残念ながら先約がありました)、宮城泰年さんにご挨拶を頂くべく調整して頂いたりと、支部をあげて総会を成功させようという雰囲気が日に日に高まっていきました。
 当日もたくさんの支部員が参加し、総会の準備・開催を通じて支部の連帯を強めることができたと思います。
3 よかった点2:団本部の活動をより身近に感じることができる
 もちろん、総会の開催は本部のご尽力があればこそ。準備事項やスケジュールなどを細かく教えて頂き、おかげさまで迷いなく進めることができました。会場の下見には事務局の方が来られ、その後のやり取りもすべてして頂いています。当日の進め方なども丁寧に教えて頂き、スムーズな進行となりました。恥ずかしながら、総会の開催のために本部の方はこんなに尽力されていることを初めて知りました。本部のバックアップがあれば全国どこででも総会・五月集会が開催できますね。
 そして、こうした様々なことを通じて本部の活動やメンバーをより身近に感じることができたというのも大きなことです。会議や学習会をZoomで開催することは参加を容易にする一方で、交流という意味ではどうしても難しくなってしまいます。本部の方と一緒に準備し、中に入って交流することで得られたものがたくさんありました。新団長から、若い次長を関西からといったご発言もありましたが、そういうことにもつながればと思います。
4 次の五月集会・総会でお目にかかりましょう
 もともと京都では会場の問題もあり、フルスペックでの総会・五月集会の開催は無理だと聞いていましたし、私もそう思っていました。そうやってずっと油断していたところに今回のお話を頂いたわけですね(笑)。
 大宴会はなくホテルもみなさま各自でお手配頂くなど、コロナ前と同等の総会ではありませんでしたが、逆にこのような社会情勢だからこそ京都で開催することができたのだと思います。困難な中でも創意工夫で乗り越えていくことができるのだと、改めて確信を持つことができました。もちろん、この規模の集会をハイブリッドで開催するためのスタッフさんのご苦労は大変なものであり、それがあればこその京都総会。改めて感謝申し上げます。
 さて、次の五月集会・総会はどうなるのでしょう。私としても、これまでのような単なる一参加者とは少し違った楽しみができそうです。次の京都総会も、55年は待たなくてもよさそうですね。

 

「修学旅行ではみることのできない京都を巡る」

福井県支部  吉 川 健 司

 今年の京都総会のオプショナルツアー半日旅行「修学旅行ではみることのできない京都を巡る」に参加し、山本宣治資料館と墓碑、ウトロ平和祈念館とウトロ地区の見学という貴重な経験をしたので、企画した京都支部の皆様、特に案内役の福山和人団員への感謝の気持ちを込めて、感想を述べます。
 山本宣治については、戦前の国会において、中国への侵略戦争反対、治安維持法反対等で活躍した国会議員であるという程度の知識はありましたが、詳しい活動などはよく知りませんでした。今回、山本宣治が、生物学、性教育等の分野で先駆的な業績を残した研究者・教育者でもあったこと、また、優生思想がはびこっていた時代に、障害をもって生まれた自分の子どもを大切に育てていたこと、自宅に帰った時は、率先して家族の食事を作っていたことなど、家庭内外において先進的な人物だったことを初めて知りました。
 山本宣治の墓碑は、資料館から約600メートルほどですが、かなりきつい勾配の坂を登るので、歩きやすい靴で行く方がよいでしょう。墓碑の裏に「山宣ひとり孤塁を守る だが私は淋しくない 背後には大衆が支持してゐるから」という墓碑銘が刻まれているのですが、戦前の警察はこの墓碑銘を口実に記念碑であるとして墓碑を倒し、建てることを許しませんでした。結局、墓碑銘をセメントで塗りつぶして建てることが許されたのですが、なぜかすぐにセメントが削り取られ、警察の命令で塗りつぶしては、すぐに削られる、ということが、太平洋戦争の敗戦まで繰り返されたそうです。墓碑が建てられたのが1929年10月ですから、本当に庶民に愛されていたのだなと思いました。
 次は、ウトロ平和祈念館とウトロ地区の見学です。ウトロ地区の成り立ち、2021年8月の放火事件のことは、団通信やマスコミ報道等である程度知っていたのですが、今回の見学によって、改めて日本における在日コリアンへの差別の根深さを思い知りました。
 ウトロ地区の成り立ち等については、団通信1780号、1781号の神原団員の「『ウトロ ここで生き、ここで死ぬ』を勧める」、1782号の大島団員の「京都ウトロ地区の歴史とヘイトクライムを考える学習会に参加して」、1787号の福山団員の「ウトロ現地調査に参加して」、青龍団員の「ウトロ見学に参加して」という投稿や、ウトロ平和祈念館のHP(https://www.utoro.jp/)を参照していただければ幸いです。
 現地を見て実感したのは、周囲と比べてかなりの低地であったことでした。ウトロ地区の成り立ちが、戦前に計画された京都飛行場建設のための土砂の採掘現場であり、低地になってしまったところに朝鮮人労働者の飯場が作られたということからも、当時の朝鮮人への差別意識が窺えます。そのような低地であるために、雨が降る度に水が流れ込み、排水設備も作られなかったため、普通なら単なる大雨で終わる場合であっても、頻繁に床上浸水があったそうです。そのような水害の写真もウトロ平和祈念館の常設展示室に展示されていました。
 また、外部展示として、戦前の飯場が移築されているのですが、薄い板で囲われただけのいわゆる掘っ立て小屋です。6畳一間と土間があるだけで、竈も無く、入居者は最初に竈を作らなければ炊事もできなかったそうです。そして、窓がないのに板壁は薄いので、冬は寒く、夏は暑いという、当時の劣悪な居住環境が容易に想像できるものでした。
 それでも、行き場を失った在日コリアンを暖かく受け入れてくれる場所としてウトロ地区は存在し続け、住民の1/3は飯場の労働者の家族やその子孫ですが、2/3は他地域からの転入者でした。
 2022年4月にオープンした平和祈念館の1階はカフェ、台所があり、住民と来館者との交流のための場所として大切にしているそうです。タイミングが合えば、一緒に食事をすることもあるそうで、相互理解のために、このような場所は本当に重要だと思います。
 ウトロ地区では、既に40戸の市営団地が完成し、残り12戸の市営団地も2023年度に完成予定となっており、既にかなりの住宅が空き家となっていました。
 そして、2021年8月の放火事件は、そのような空き家の1つにされたものでした。幸いにも人が死亡したり、怪我をしたわけではありませんが、延焼により自宅やペットを失った方もいました。実際の現場を見て、放火はやはり恐ろしい犯罪だと感じました。被告人となった青年は在日コリアンに対する差別意識から今回の放火を実行したわけですが、その差別意識はまさしく今の日本社会が生み出したものです。しかし、その青年も、ウトロ地区の歴史を詳しく知っていれば、このような犯罪を実行することはなかったのではないのでしょうか。日本が国策として安い労働力としての朝鮮人労働者を集めておきながら、戦後何の補償もなく放り出し、その後、助け合いながら劣悪な環境で生活していた人々を、強制的に立ち退かせようとし、司法がそれに加担したという歴史を踏まえるなら、そのような日本をつくった一員として恥じ入るばかりであり、放火を実行しようとは思わなかったでしょう。フェイクニュースをなくし、過去の歴史を誠実に学ぶ日本社会を作り上げる努力が今こそ求められている、と思いました。
 最後に、改めて、京都支部の皆様、ありがとうございました。

 

 

枚方市組合事務所事件・勝訴判決報告

大阪支部  加 苅  匠

1 はじめに
 枚方市(伏見隆市長:大阪維新の会)は、2018年12月27日、枚方市職員労働組合(市職労)が組合機関紙に安倍政権や伏見市政を批判する記事を掲載したことを理由として、職員会館内にある組合事務所から退去するように通告した。
 大阪府労働委員会は、2020年11月30日、上記枚方市の対応及び組合事務所の明け渡しに関する団体交渉に応じなかったことは不当労働行為にあたるとして、誓約書の交付等を命じる救済命令を発出した。
 枚方市は府労委命令の取り消しを求めて大阪地裁へ提訴。2022年9月7日、大阪地方裁判所第5民事部(横田昌紀裁判長)は、枚方市の請求を棄却して、府労委命令を維持する判決を言い渡した。
2 事件の概要・経過
 市職労は、1971年から、枚方市庁舎敷地内の職員会館の一部の使用許可を受けて、組合事務所として使用してきた。
 2015年8月、伏見隆氏が枚方市長に就任した後、枚方市は、市職労が市民団体である「戦争法廃止・憲法守れ枚方実行委員会」の構成団体として署名活動に取り組んだことをとらえて、2016年3月に「要請書」を突きつけた。同文書には、職員団体は「職員の勤務労働条件の維持改善を主たる目的にしなければならず、それ以外の『社会的、文化的、政治的活動等』は『従たる目的』であり」、「その手法いかんによっては…他の職員、ひいては本市そのものの名誉を傷つける事態をもたらすおそれ」があるので、「職員団体として常に節度ある活動を求める」と記載されていた。
 また、2016年3月末の市職労への組合事務所の使用許可にあたって、使用目的として「組合事務所としての利用(職員の勤務条件の維持改善及び職員の福利厚生の活動に限る)」との条件を付した。その上で、枚方市は、市職労が毎日発行・配布している組合機関紙に着目し、「職員会館における組合事務所使用について」なる文書を交付して、機関紙の記事内容に「①法案に対する是非のうち、その法が本市職員の勤務労働条件等と密接に関連付けることが困難なもの【具体例】戦争法廃止、TPP断固阻止」、「②特定の個人や政党を名指しで批判するもの【具体例】安倍政権打倒、維新政治反対」などを掲載することは、組合事務所の使用許可条件に抵触すると示した。
 その後、枚方市は、これらの許可条件・基準をてこに、市職労が発行する日刊ニュースをチェックし、戦争法反対や安倍政権・維新政治を批判する記事の内容や表現方法について露骨に干渉を繰り返し、文書で執拗に「説明」を求めた。
 そして、2018年12月27日には、日刊ニュースの記事内容が政治的であるとして、市職労に対し、職員会館の使用許可の取り消しを示唆し、職員会館から退去するよう通告した。
 これに対し、市職労は、団体交渉を申し入れたが、枚方市は、管理運営事項であるとして、団体交渉を拒否した。
3 大阪地裁勝訴判決
 判決は、組合事務所は組合活動の基盤であって、その明渡しを求めることは、組合の活動や運営に重大な影響を及ぼすと考えられることから、「組合事務所の退去による不利益を与えてもなお明け渡しを求めざるを得ない相当な理由があることが必要であり、かつ、明渡しを求めるに当たっては、市職労に対してその理由を説明し、その代償措置等について協議し、十分な猶予期間を設けるなどの手続的配慮をすることが必要」とした。
 そのうえで、「組合活動に関連して、表現の自由の範囲内において、一定の政治的意見を表明すること」は許容されるとし、組合事務所の明け渡しによる不利益が極めて大きいことや直接的な支障を生じさせるおそれがあることに鑑みると、明渡しを求めざるを得ないような相当な理由があったとは言い難いとした。加えて、具体的な説明をしないなど手続的配慮が極めて不十分であり、40年以上にわたって組合事務所として使用してきたことや、別組合(自治労)との間で使用目的制限違反を認めた場合の取扱いに差異があったこと等を踏まえると、組合の弱体化やその運営・活動に対する妨害の効果をもつとして、支配介入にあたると認めた。
 また、行政財産内にある組合事務所に関する事項も、団体的労使関係の運営に関する事項に当たるとして、団体交渉に応じなかったことは不当労働行為にあたると認めた。
4 表現の自由をめぐる闘い
 昨今、自治体が、「政治的中立性」をたてに、市民団体の運動についての後援を取り消したり、公共の場所を提供しなかったりするなど、民主主義、表現の自由を脅かす事例が後を絶たない。
 本件は、上記の例にとどまらず、自治体が職員団体の機関紙の内容をチェックし、その内容が政権・市政批判など市長の意に沿わないことを理由に干渉を繰り返し、しまいには組合事務所の明渡しを求めた事案である。労働組合を嫌悪し、露骨に労働組合の言論内容そのものに干渉するもので、自治体(首長)による労働組合の組合活動の自由、言論の自由の侵害そのものであり、断じて許されるものではない。
中労委では、そもそも職員会館の使用許可に際して条件を付したことや、市が組合の機関紙を確認して組合の活動内容を把握すること自体が支配介入に当たるとの判断を求めて闘っている。
5 おわりに
 枚方市は、地裁判決に対して早々に控訴した。控訴審においても、中労委においても、より一歩進んだ判決・命令を勝ち取るために、市職労及び弁護団は全力で取り組む次第である。引き続きご支援をお願いしたい。(弁護団は、豊川義明、城塚健之、河村学、中西基、谷真介、西川大史、加苅匠)

 

執行部のウクライナ戦争観と帝国主義論 

東京支部  木 村 晋 介

はじめに
 22年総会議案書の議案で、「ウクライナ戦争の原因を作ったのはアメリカを中心とするNATOである」という執行部の見解が示され、本誌上で反響を呼びました。私はすでに本誌前号でこれを批判しました。ここではもう少しさかのぼって、なぜこのように「いつでもどこでもアメリカが悪い」という反米的な論調が団内に根強くあるのか、について、私の考えを述べたいと思います。
戦後の平和運動と反米思想
 冷戦開始後の平和運動の主力となったのは、社会党、共産党などの社会主義政党でした。この両党はマルクスの学説を信じていました。この学説では、資本主義国が独占資本主義の段階になると、必然的に帝国主義になって腐り果てて死滅していくということになっています。死滅した後は理想的な社会主義国に生まれ変わるというわけです。これは必然的な科学的法則とされています。その帝国主義の重要な特徴に他民族抑圧・併合への志向があげられています。独占資本主義国であるアメリカなどのNATO加盟国は、いずれも腐朽して死滅に向かう帝国主義国家であり、必然的に「他民族抑圧・併合」への志向を持っていることになります。そしてアメリカは世界を俯瞰する帝国主義国ということになります(松島暁さんは、アメリカは帝国主義国家、NATOは帝国主義的軍事同盟、と断じておられるので、これに近いのかもしれません)。
 これに対し、ソ連や中国などの社会主義国は、資本主義を革命によって乗り越えた先進国であり、希望に満ちた民主主義国家・平和国家であるとされていました。「アメリカの持つ核兵器は戦争のためだが、社会主義国の持つ核兵器は、常に平和の力として作用する」と国会で主張した政党もありましたし「アメリカ帝国主義は日中両国人民共同の敵である」と主張した政党もありました。そしてヤンキーゴーホームが平和運動のキーワードでした。
社会主義賛美論は消えても
 その後、これら社会主義国の実態が露わになりました。独占資本主義の死滅→社会主義が科学的必然だと証するモデルはなくなり、さすがに平和運動の中で社会主義国を賛美する声は無くなりましたが、この「科学的な帝国主義論」と反米論は残りました。これらの学説が問題の一面を捉えていることは否定しません。
 しかし、こうした「科学的な帝国主義論」を教条的に適用し、私たちを取り巻く情勢を分析しようとすると、「アメリカは必然的に他民族・併合の志向を持つ」のですから、その先入的視点から世界を見ることとなります。その結果、自分が信ずる「科学的な必然性」を当てはめやすそうな事実をモザイク的にピックアップし、論を構成することになりやすい。すると勢い、世界に生起する負の現象のほとんどが、世界を制覇しようとするアメリカ帝国主義の覇権主義に由来するものと見る教条的傾向を生むわけです。そしてそのことは、権威主義国の戦争犯罪や国際法違反行為を軽視することにつながります。
 団の総会議案書のウクライナ戦争観、すなわちアメリカがロシアの弱体化を図るために夢の戦争を継続している、との見方は、これらの学説の教条的な適用に起因する誤りのように私には思えます。
帝国主義論に立たないウクライナ戦争観
 こうした学説の影響を受けていない普通の人は、そのような「科学的な見方」からは離れて、その国が行っている一つ一つの行動が「帝国主義=他民族抑圧・併合」と重なり合うか、是々非々で見ていくことになります。その時にはまず、①アメリカやNATOがロシアまたはロシアの友好国に対して他民族抑圧・併合などの脅威を与える言動を先行して行っていたかが問題になります。次に、②ロシアがジョージアやクリミアで取った行動などが隣国をはじめ国際社会に与えた影響を考えることになります。③そして②に対してNATO加盟国などが行った経済制裁の是非を考えることになります。そこから、④バイデン大統領が中ソとの対決姿勢を強めたことや、ウクライナがNATO加盟を求めた背景を探っていくことになるはずです。このようなスタンスに立ってウクライナ戦争の評価をしたとすれば、今回の議案書のようにはならなかっただろうと思います。
 議案書の論述は、いきなり「バイデンが中ロとの対決姿勢を打ち出した。ロシアの弱体化を目指した」というところから始め、そこに至るまでの重要な事実を捨象しているところに問題の根があると思います。
「親米バイアス」について
 アメリカは世界最大の覇権国家です。覇権主義国家として、非難すべき行動は過去にいくらもあります。しかし、私は歴史に現れた大国の中でアメリカは、一番ましな大国ではないか、と述べたことがあります。松島暁さんはこの私の発言を「親米バイアス」と批判されましたが果たしてそうなのか、議案書のウクライナ戦争観との対比の中で次号に論じたいと思います。

 

「十人十色」はアナーキー
――「檻」の外にある自由

                 東京支部 後 藤 富 士 子

1 なぜ単色の「法律婚」を目指すのか?
 「選択的夫婦別姓」論と「結婚の自由をすべての人に」論に、私は強い違和感を覚える。
 「選択的夫婦別姓」論についていえば、婚姻により96%の女性が夫の姓を選択している現実が「女性差別」「女性にとって結婚の自由が保障されていない」という。だが、それで、なぜ婚姻によって姓を変更しないことが例外である「法律婚」を目指すのか?なぜ「選択的夫婦同姓」制度を標榜しないのか?「婚姻により姓を変更しない」という普遍的な制度を原則とし、「同姓」を希望する夫婦にはその選択を認める制度こそ、普遍的かつ個人の尊厳に基づく法律婚であろう。
 また、「結婚の自由をすべての人に」論は、「同性婚」という特別な制度を作るのではなく、異性間で認められている婚姻制度を同性間でも平等に利用できるようにとの趣旨であり、「婚姻平等」を問うているようである。でも、個人のセクシャリティは本来多様である。したがって、多数派と同じ婚姻制度を利用できなければ「差別」というわけではない。むしろ、「同性婚」の合法化の方が分かりやすいし、現実的であろう。
結局、本来個人の多様性を基礎にした婚姻制度にしなければ解決できないのに、単色の「法律婚」を志向するところに根本的矛盾を内包しているように思われる。翻ってみれば、そもそも「法律婚」は国家が認定する婚姻制度なのだから、その枠組に参入することを忌避する個人がいても不思議はない。だから、優遇された「法律婚」を標榜する人は、私の目には「事実婚」差別主義者と映る。
2 外国の法制に学ぶ
 台湾でもかつては夫婦同姓制度であり、多くの女性が結婚により姓の変更を強いられていた。これが女性差別とされ、1998年、夫婦別姓を原則とする法改正がされている。
 本年6月に杉並区長になった岸本聡子さんは、日本でオランダ人パートナーとの間の長男を出産した。日本で婚姻していないのでパートナーと別姓であるが、仮に日本で法律婚をしたとしても、外国人のパートナーには戸籍がないから別姓になる。つまり、夫婦同姓制度の守備範囲は、夫婦のいずれもが日本国籍を有する場合に限定されている。その後、岸本さんはオランダへ渡り、パートナーシップ登録をした。長男が4歳になったときに結婚したが、夫婦別姓は当然で、自分の姓と夫の姓をふたつくっつけることもできるし、夫の姓に変える選択もある。日本では外国人が長期で住むには婚姻関係がなくてはならないために、日本に移住する場合に備えて結婚したのである。その後、一家はベルギーに移住するが、ここでもオランダと同様である。パートナーシップ登録制度は、税金や相続や親権に関わる事象で法的には婚姻と同じ条件を得ることができる。婚姻を選択しない理由を聞くと、「伝統的には宗教的価値につながっている婚姻をしたくない」「家父長的な価値から自由でありたい」という人もいるし、「え、結婚する必要ってある?」という人もいる。結婚なんてその程度のこと、なのである。
 同性婚についても、台湾では2017年5月に憲法裁判所は「同性婚を認めない台湾の民法は憲法が保障した『婚姻の自由』と『平等原則』に違反するとの初判断を示し、2年以内に同性婚を法制化するよう行政や立法院に命じた。期限まで残り1週間の2019年5月17日、立法院は同性婚を認める特別法を成立させた。
 国連加盟193か国のうち同性婚を認めているのは、2020年12月時点で28か国(英仏独、スウェーデン、ノルウェー、豪州、ニュージーランド、南アフリカなど)で、チリとスイスも2021年に合法化することが決まっている。アジアでは、国連非加盟の台湾のみである。なお、私の記憶では、少なくともフランスの同性婚は、同性婚に限らないパートナーシップ登録制度である。
3 オードリー・タンの軌跡―強制から解放されたアナーキズム
 台湾のIT大臣オードリー・タン氏は、20代でトランスジェンダーだと公表し、「性別なし」という。自らを「保守的アナーキスト」と呼び、「強制から解放されたアナーキズムが理想」と語る。世の中にある多様な価値観を尊重して守ることによって、人々に自分らしく生きることへの安心感を保障し、強制や排除をせずに社会を進歩させることができると言う。
 また、朝日新聞のインタビューで、「多様化した社会の最大の長所は、個人の運命が性別によって決められないことです。ある人が社会にどんな貢献ができるかは、長い時間をかけて考え、ようやく答えが見出せます。でも、ある人の性によって、別の性の人なら取り組めることを経験できなくさせてしまったら、その人は一生、自らの半分の可能性を制限されることになります。自分とは異なる性の人に対する理解が限られてしまうのです。そんな社会で生み出される政策は、多様な人からなる社会の諸問題を解決できません」と語っている。
 結婚は、本来「私事」であり、国家の均一な統制管理になじまない。「私事」にまつわる自由は、「法律婚」という「檻」の外にある。
【参考文献】
石田耕一郎:台湾がめざす民主主義(大月書店)
岸本聡子:私がつかんだコモンと民主主義(晶文社)
(2022年9月27日)

 

代々木総合60周年記念ニュース

福岡支部  永 尾 広 久

惹きつける表紙
 代々木総合法律事務所からニュースが送られてきた。その表紙の絵の素晴らしさに思わず息を呑む。
 私は、全国から送られてくる事務所ニュースは隅から隅まで読んでいる。それは団事務所であるかどうかとは関係ない。いま、日本でどんなことが法律問題になっているのか、各地の事務所ニュースからつかむことができる。
 事務所ニュースの表紙は大事だ。手にとって、頁をめくってみようと思わせるものであってほしい。今回の代々木総合は、第一の関門で、まず合格点。難なく関門を突破する。だって、絵の下のほうに「代々木総合法律事務所はおかげさまで60周年を迎えました」と小さく書かれていて、表紙の大半はドーンと代々木総合の自社ビルが軽いタッチの水彩画が占めている。そして、下のほうに「お気軽にご相談ください」とあり、さらに「裏面に無料相談カードがございます」とある。ふむふむ、なるほど、裏面に黄色いコーナーがあり、切り取って持参したら「初回相談無料」と書いてある。うれしい読者サービスになっている。
 さらに、「ホームページで随時更新中」とも書かれていて、そのアドレスもあるので、ちょっとのぞいてみようという気になる。
 表紙にどんと風景写真をのせ、その下に「社説」みたいな紋切り型で固苦しい社説まがいの情勢と主張を展開するパターンは、あまりにもありきたり感が強すぎて私は嫌いだ。
次は裏面
 実は、私は、いつも表紙のあとは頁をめくることなく、すぐにひっくり返して裏面を読むことにしている。そこに、面白い記事があるかないかで、ニュースの中味への期待度が違ってくる。
 今回は、事務局(樋口紗弥子さん)の「わが家のペット自慢」に心ひかれた。私は犬派なので、「豆柴のオス」の次朗の可愛らしい写真にメロメロになった。飼主の愛情がたっぷり注がれたことのよく分かる男前の次朗が17歳の誕生日を目前にして亡くなったことを樋口さんは残念がっている。その気持ちは良く分かるけれど、次朗がまさに天寿をまっとうして幸せな犬生を送ったことは明らかだ。
 裏面は、事務所の所在図をふくめて、レイアウトも配色もすばらしい。
カラフル、花尽くしの本文
 では、頁をめくってみよう。いやあ、すごい、60周年のロゴマークがあって、どの頁にも木と花とそして軽やかなタッチの水彩画に満ち満ちている。さすがは、かつて松本善明弁護士がいた事務所。ちひろの絵とは少し雰囲気は違うけれど、昆虫の絵をふくめて、それを連想させてくれる。そんな楽しい雰囲気が、ずっとずっと続いていて、頁をめくるのがもどかしくなるほど、うきうきしてくる。
 新宅正雄団員が松本善明さんと共に歌った「心はいつも夜明けだ」という歌詞を紹介している。私が大学に入ってすぐセツルメントで何度も何度も歌った、なつかしさ一杯の歌だ。作曲した荒木栄が大牟田出身というのも東京で初めて知った。こんな思いがけない出会いがあるから、ニュースを読むのはやめられない。
 ただ、編集のプロを自称する私から、あえて苦言を呈すると、長文になったら、小見出しを入れて息継ぎさせてほしい。生駒さん、大井さん、鷲見さん、松本さんは短文だから、息継ぎは必要ない。でも、大崎さん、向野さん、須藤さん、そして羽鳥さん、林さんのように1頁まるまる文章で埋められると、読み手は辛い。ぜひ、小見出しを入れるか、余白をつくって小休止させてほしい。と言いつつ、羽鳥さんのテレビ化もされた「放火冤罪事件」の話は、私もテレビを見たのでイメージがつかめ、興味深かった。
 このニュースではないけれど、「はじめに」、「おわりに」なんてワンパターンの事件紹介文を見せられ、ガッカリすることが多い。ニュースは準備書面とは違う、手にとった人に読む気をおこさせる、気の利いた小見出しが必要なのに、そこを無視して、唯我独尊。頼まれたから書いてやった。読みたければどーぞ、なんてサービス精神欠如の文章がなんと多いことか・・・。
 渡部照子さんは、私と同期同クラス(26期4組)。石川元也団長の下で、団の幹事長もつとめた。「希望の旗を高く掲げて」という一文も心をうつ。「希望はある。希望は私たちが創るのだ」。まさしく、そのとおり。その笑顔に大いに励まされる。
ホームページは今ひとつか・・・
 ニュースの表紙に「ホームページ随時更新中」とあるので、のぞいてみた。残念ながら、こちらは今ひとつだった。代々木総合のカラーを反映しているのだろう、真面目なんだけど、いささか固苦しい。笑いを呼ぶエピソードがほしい。せめて、今度のニュースのように明るく、さわやかな雰囲気にならないものかと思った。
 そして、最後に東京の老舗事務所に対する注文として(実は大阪にもあてはまることだけれど・・・)、地域の拠点事務所として60年間、大いに力を発揮したことは高く高く評価したい。でも、後継者養成の面では、やや弱かったのではないだろうか・・・。代々木総合からどれだけの団員弁護士が巣立っていったのか、全然知らないのに、こんなこと言うと叱られるだろう。でも、あえてメンバーの固定化を打破する努力は十分だったのか、自分のことを棚にあげて、問題提起のつもりで最後に指摘しておきたい。

 

【書籍紹介】
11・8川口君事件から50年を経て樋田毅『彼は早稲田で死んだ 大学構内リンチ殺人事件の永遠』

東京支部  松 島  暁

半世紀を経て実現した街宣
 山添拓さんが先の参院選の選挙期間中、早稲田大学文学部の正門前に宣伝カーを止めて街頭演説をしたそうである。そのことで同僚の緒方蘭さんから「昔は考えられなかったんですか」と聞かれた。確かに50年前の早稲田では考えられなかったと思う。
 当時の早稲田は革マル派の暴力支配下にあった。「日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派」というやたら長い名称が正式名で、「反帝・反スタ」、帝国主義とスターリン主義(日本共産党)の打倒を掲げていた。特に早稲田の文学部は革マル派の全国拠点で、共産党の宣伝カーが早大文学部前で街宣などしようものなら、鉄パイプで武装した連中が大挙して押しかけ、宣伝カーをボコボコにしたに違いない。
革マル派による学園の暴力支配
 革マル派は自治会執行部を握るだけでなく、敵対勢力(と彼らが判断した学生)をキャンパスから暴力的に排除した。ひとたび「日共=民青」と目された学生が文学部キャンパス内で革マル派に見つかろうものなら殴る蹴るは当たり前、授業を受けることはおろかキャンパス内を自由に歩くこともできなかった。暴力支配の対象は、共産党や民青のみならず中核派や社青同、さらには革マルに反対する一般学生にも向けられていた。大学当局は、その事実を把握していながら革マル派の暴力支配を黙認し、むしろ学生の管理・支配に利用していた。
1972年11月8日
 そんな暴力支配下にあった50年前の1972年11月8日、革マル派が文学部2年の川口大三郎君を文学部自治会室に連れ込み、リンチを加えたうえで殺害、遺体を東大病院アーケード下に遺棄した。いわゆる「川口君事件」である。大学当局は川口君が連れ込まれた事実を早い段階で把握していたにもかかわらず何もしなかった。
 大学では革マル派の蛮行を糾弾する集会が連日持たれた。文学部自治会革マル派執行部は学生大会でリコールされ、臨時執行部を選出、委員長に選ばれたのが当時「ヒゲの樋田君」と僕らが呼んでいた元朝日新聞の樋田毅氏である。
 その樋田氏が、昨年11月8日、事件について『彼は早稲田で死んだ 大学構内リンチ殺人事件の永遠』(文藝春秋社)を出版した。(同書は、今年の大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。樋田氏は、朝日新聞阪神支局が襲撃され小尻知博記者が殺害された赤報隊事件の追究班キャップを務め、『記者襲撃』(岩波書店)を上梓されている)。
 私も川口君事件の渦中にあったが、同書で初めて知らされた事実も多くあった。
自治会の未来に禍根を 
 文学部臨時学生大会の前日、東京学芸大学の学生寮で持たれた準備会の席上で、樋田氏が、民青系クラスサークル協議会(CC協)のメンバーに立候補を辞退するよう要請していいたことを初めて知った。大会成功を最優先に考え、立候補を辞退したCC協メンバーの辞退選択は苦渋のそれだったと思う。CC協の一員であり後に児童文学の編集者として活躍するも若くして亡くなった小此鬼則子さんが最後に「私も立候補を辞退します。でも、こんなことは本来、あってはならないこと。誰にでも立候補の権利はあるはず。自治会の未来に禍根を残すことを心配します。」と発言したことが記されている。
革マル派三役のその後
 リコールされた革マル派執行部三役、委員長、副委員長、書記長のその後を樋田氏は執拗に追いかけている。
 革マル派の一員として川口君の学生葬に唯一人出席し、参列者の怒りと悲しみを一身に引き受けていた田中敏夫委員長は、その後ほとんど世捨て人のような生活を送り、樋田氏が田中宅を探しあてときには既に亡くなっていたという。川口君殺害に直接関与し5年の実刑判決を受け服役したS書記長については、直接面談しインタビュー、多くの事実が語られたと思われるが、活字化についての本人の了解がえられず不明のままとなっている。残念である。
 都立戸山高校時代から革マル派に属し、事件後、戦線を離脱した田中委員長に代わって革マル派自治会の委員長代行をつとめた大岩圭之介副委員長は、その後「辻信一」の名で明治学院大で教鞭をとり(現名誉教授)、環境運動家としても活動、大月書店その他から多くの著作を出版している。樋田氏は辻信一とのやり取りにかなりのページを割き、その内容を克明に記しているが、田中委員長とS書記長が自らの行為を悔い、獄中で「自己批判書」を書き革マル派から離脱したのに対し、一言の反省も口にせず川口君事件が何らの刻印も辻の人生に刻んでいないことに驚きを禁じえない。
寛容は自らを守るために不寛容に対し不寛容になるべきか
 文学部の自治会運動は、革マル派の反撃に対し、暴力には暴力でという中核派や社青同ら行動委員会(WAC)系とあくまでも非暴力でという樋田氏らの路線・方向性の違いに由来し、その後分裂を深め、最終的には樋田氏自身も文学部キャンパスから暴力的に排除されてしまう。
 大学当局はこの事件以後、革マル派自治会を自治会とは認めなかったが、革マル派と完全に手を切り、早稲田祭実行委員会・文連・商学部自治会などの公式機関から排除するには事件から四半世紀の時間を必要とした。
 この本を読んだ友人の娘さんが「何かファンタジーのような世界」と評したそうである。とても現実とは思えない、異常な世界が現にあったし、異常な世界が日常化したために、そのことを異常とは感じなくなっていた異常な時代でもあった。

 

北アルプス 花の道を歩く(1)

神奈川支部  中 野 直 樹

富山の北アルプス玄関口
 北アルプスは、富山、新潟、長野、岐阜にまたがる。中央分水嶺はなく、水はすべて日本海に注ぐ。
 富山から北アルプスに入る山道は、宇奈月温泉から黒部峡谷鉄道(トロッコ)に乗ると欅平まで連れて行ってくれる。ここまでは観光。そこから先は、断崖をくり抜いてつくられた水平歩道を仙人谷まで歩き、ここで剣岳に向かうルートと黒部ダムに向かう下の廊下ルートに分かれる。いずれも岳人の世界だ。次は上市市から早月川沿いの道を車で走り馬場島から早月尾根を剣岳に向けて標高差2000m以上を登るルート。このルートは2年に1回開催される、早月川河口からスタートして、北・中央・南アルプスを縦断して、駿河湾の大浜海岸まで走る「トランス・ジャパン・アルプスレース」(TJAR)の最初の山道だ。3つめは、電車・ケーブル鉄道・バスでつながれ観光そのものの立山室堂に向かう黒部アルペンルート。そして奥黒部に入山する折立ルート。
太郎平への道
 2021年8月2日夜、浅野則明、藤田正樹弁護士(京都)と富山駅で合流し、3日、折立到着のバスから降りた。この3人組での山行は2017年夏「南会津の山たち」以来だ。夏らしい日差しが照りつける下、11時、「中部山岳国立公園 薬師岳登山口 標高1356m」と記された白い柱をみながら出発した。樹林帯の急坂に汗を流しながらコースタイムで2時間ほどがんばると、三角点ベンチに到着。1869mだから約500m高くなった。開けた展望地のはずが霧に包まれてしまった。
 今日の目的地・太郎平は2373mなので半分くらいまできたことになる。山歩きをしながらいつも思う。歩いている過程自体が山に魅せられる理由の半分は占めていると頭で考えるのだが、ついついあと目的地までどのくらいだと確認をしてしまう。これは楽しみがあとどのくらい続いてくれるかという意識ではなく、この今のしんどさがあとどのくらい続くのか、というベクトル方向からである。ともあれ、あと半分となった。路傍の、緑の葉が赤くなりかけ、紅紫の花弁がしおれた名も知らぬ花が気になり、写真に収めた。オオシラビソの森となり、木道が湿原を横切って延びる。コバイケイソウの白花、ニッコウキスゲの黄色花が霧の中の点描となっている。
 15時30分、太郎平に着いた。ここは十字路で、左に向かうと薬師岳、五色ケ原を経て立山へ、右に向かうと北ノ俣岳、黒部五郎岳へ、直進すると黒部川源流に下る。
 私たちは、今宵は太郎平小屋で泊りである。その宿泊手続きをする前に大事な儀式があった。3人は財布を取り出し、いずれも900円との値段に決して動ずることなくロング缶ビールを手にし、外のテーブルに座って、4年ぶりの再会と明日からの北アルプスの旅の前途を祝して乾杯した。主観では山の楽しみの2割に迫るが、この楽しみは瞬時に終わってしまうので、客観的には5%である。1泊2食の料金1万1000円を支払い、割当てられた部屋に荷物を運び着替えをした。夕食は17時45分からの予約として、ロング缶を追加し、外に出た。
 雲が切れて青空の窓ができ、右手に夕陽に照らされた黒部五郎岳がちらりとのぞいた。
「太郎平小屋 田部重治」
 小屋入り口にはこのように墨書された木製表札がかかっていた。風雪にさらされ年月を感じさせるいぶし銀のような札である。決して達筆ではないが、味わいある筆づかいである。揮毫者の田部重治氏は、富山県出身、生年1884年、没年1972年の英文学者であり、登山家である。田部氏は山歩きの旅の分野の草分けで、多くの紀行文を著しておられる。田部氏の著作名の1つ「山と渓谷」は、1930年創立された「山と渓谷」社の命名の源となった。
 田部氏を調べているなかで、その業績のなかに秩父の山歩きの開拓があり、そのなかでも「笛吹川を遡る」に著した、山梨・笛吹川の東沢釜ケ沢を遡行して甲武信岳に至るルートを切り開いた、との紹介に目を引かれた。いまでいう沢登りの黎明となった。古い話となるが、私は大学2年の五月連休に、高校時代にワンゲル部員であったというクラスの友人に連れられてこの東沢遡行を行った。当時は地下足袋に草鞋を付けた足回りだった。深い緑色の大淵、なめ岩の連続、わくわく感と緊張感が同時に押し寄せる体験だった。甲武信小屋でツェルトを張り、翌日は、奥秩父連峰を縦走して金峰山から下山した。当時、私は「日本百名山」は意識にもなかったが、この時、故郷の白山、そして前年に登った富士山に次いで、甲武信岳、金峰山を登ったこととなった。
 私は、売店に下がっていた藍染で薬師岳が描かれた手拭いを買った。そこには縦書きの表札文字が横書きに染められている。時折、この手拭いは、私の山歩きにお供してくれている。
くつろぎ
 17時45分からの夕食に3本目のロング缶が並んだ。山小屋の献立はどこでも、食材、水の関係で制約があるが、美味しく食べた。まだ外が明るいので一眼レフカメラを取り出しておもてに出た。歯を磨きながら、高山の夕暮れの変化を眺めた。薬師岳に向かう平原は霧がとれ、圧倒する大きさの山体が姿を現した。薬師峠からぐっと高度をあげる正面の尾根のピークから左に薬師岳本体の稜線と山体が、右側に東南陵の稜線と山体が扇のように開いている。東南稜には道はないが地図には「昭和38年冬 愛知大学大量遭難地点」と記されている。38豪雪のこの年1月、13名全員が死亡した悲劇の場所だ。その白肌が夕陽でほのかに赤くなっていた。空を見上げると、雲は爆風のように天空に突き上げ、西日に焦げ不思議な色彩を発しながら蠢いていた。
 小屋では、奥黒部の山小屋作りの記録フィルムをDVDに編集した映像の上映会が開かれた。
 コロナ禍の定員制限で、畳一枚程度を与えられた破格の布団にくるまって眠りについた。(続く)

【写真提供:中野直樹団員 薬師岳】

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