第1803号 3/1

カテゴリ:団通信

【今号の内容】

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コロナ禍に負けない!貧困と社会保障問題に取り組みたたかう団員シリーズ ㉑ ㉒(継続連載企画)

 ●宮崎でも勝訴・この流れがさらに全国へ広がれ  山田 秀一

●自動車保有をめぐる鈴鹿市生活保護停止処分事件  芦葉 甫

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●大阪大学非常勤講師「雇止め不当」無期転換を求めて提訴  鎌田 幸夫

●山添拓さんと語る会を開催しました  野呂 圭

●「自由法曹団の活動」のご紹介~特に新人・若手団員の皆様~  平井 哲史

~学習会感想特集~

●「トランスジェンダーについて考える学習会」に参加して  今村 幸次郎

●トランスジェンダー学習会に参加しました  杉島 幸生

●「トランスジェンダーについて考える学習会」に参加して  辻田 航

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~追悼~宮里邦雄団員を偲ぶ

●優れた見識と優しい人柄  上条 貞夫

~追悼~山口貞夫団員を偲ぶ

●追悼の辞“山口貞夫先生を偲ぶ”  中島 晃

●山口貞夫弁護士の逝去を悼んで  莇 立明

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コロナ禍にまけない!貧困と社会保障問題に取り組みたたかう団員シリーズ ㉑・㉒(継続連載企画)

 

宮崎でも勝訴・この流れがさらに全国へ広がれ

崎県支部  山 田 秀 一

1 全国で5番目、ついに宮崎でも勝訴判決
 2023年2月10日、宮崎地方裁判所は、宮崎生存権裁判において、生活保護基準引下げ処分を取り消せという原告らの請求を認容する判決を言い渡しました。
 本裁判は、2014年9月に宮崎市内の生活保護利用者4名(提訴時)が、宮崎市を被告として、2013年から3回に分けて行われた生活保護基準の見直しを理由とする保護変更決定処分(生活保護費引下げ)の取消等を求めて提訴した裁判です。
 全国29地裁で提起された同種訴訟(30件)において、生活保護基準引下げ処分の取消しを認容した判決は、2021年2月22日の大阪地裁判決、2022年5月25日の熊本地裁判決、同年6月24日の東京地裁判決、同年10月19日の横浜地裁判決があり、本判決はこれに続き5件目です。
 本判決は、厚生労働大臣が物価下落を理由にこれとあわせて生活保護基準を引下げるとするいわゆる「デフレ調整」の根拠とした物価下落の計算過程において、①特異な物価上昇が起こった平成20年を起点としたこと、②生活扶助相当CPIという独自の計算により、被保護世帯の消費の実態とはかけ離れた物価下落率を算定したこと、③デフレ調整として生活保護基準を引下げることについても、専門的知見に基づく適切な分析及び検証を行うことが必要であるのに、これをなさずにデフレ調整を行ったこと等を指摘し、これらの点で生活保護基準引下げの厚生労働大臣の判断過程及び手続に瑕疵があると判断しました。
 そして、原告らの置かれた厳しい生活実態を真摯に受け止め、国が行った生活保護基準引下げをなしたことに関し、厚生労働大臣の裁量権の逸脱・濫用を認めました。これは生活保護受給者に対し憲法25条の定める健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を保障する画期的な勝訴判決です。
 生活保護制度は他の諸制度や諸施策と連動しており、保護基準はナショナルミニマム(国民的最低限)として生活全般に極めて重大な影響を及ぼすものです。本判決でも「生活保護受給世帯の96%の生活扶助費が減額されることとなることに照らせば、その影響も重大といえる」と判示しました。
 ただ、残念ながら、「ゆがみ調整」については、本判決でも、厚生労働大臣の裁量権の範囲内にあるとしました。これまでに取り消しを認めた4判決のうち、「ゆがみ調整」まで裁量権を逸脱していると判断したのは、熊本地裁だけです。本判決は、もう一歩踏み見込んだ判断まではしませんでした。
2 全国的な流れを受けた宮崎訴訟の勝利
 前述のように、宮崎訴訟の判決前に、4つの地裁で取り消しを認める判決が出ていました。特に、熊本、東京、横浜と立て続けに取り消しを認容する判決が出たことは、宮崎訴訟判決にも大きな影響があったと思います。
 国は、大阪地裁、東京地裁判決がいかに間違っているかを強く反論しましたが、熊本地裁への反論はなく、横浜地裁の判決は結審後でしたのでこちらも反論する余裕はありませんでした。
 年金訴訟は、大阪の判決が出るまで連敗が続いていました。しかし、たとえ負けた訴訟でも、生活保護基準の引き下げがいかにいい加減な計算方法によるものであるかを裁判所にわからせるために全国の弁護団が粘り強く理解主張し続けたことが、一連の勝訴判決につながったと思います。具体的には、全国の裁判が進む中で、研究者の意見書が次々と出てきて、それを全国の裁判で証拠として提出し、それに基づく主張を展開することで、裁判所がこの生活保護基準引き下げのやり方がいかにでたらめであるかが次第に明らかになってきたのだと思います。
 そして、宮崎地裁でも取り消しを認めたことは、今後の裁判にも大きな影響を与えると思います。
3 忘れてはいけない原告らの生活の厳しさ
 宮崎訴訟において、原告本人尋問を行いました。その打ち合わせの中で、一人は、昼間家にいると電気代がかかるので、図書館やパチンコ屋に行って(パチンコはせず、休憩室に行く)一日過ごす生活をしていたり、もう一人は、水道代を節約するために、近くの公園に水を汲みに行っているということを初めて知りました。恥ずかしそうに話をしてくれた原告ですが、こんな節約の限界を超えた生活をしている原告らに国がどれほどひどい仕打ちをしたのかと改めて思いました。
4 最後に
 裁判長は、判決を読み上げた後、判決言い渡しまでに長い期間を要してしまい、そのため、この判決を聞くことができなかった原告がいることを非常に残念に思います。と付け加えました。訴訟の途中で亡くなった原告への思いであるとともに、国はもっと早く解決するために努力して欲しいというメッセージではないかと弁護団は受け取っています。
 今後も他の地裁で、勝利が続くことを期待しますが、国はいつまでも争わず、生活保護基準をもとに戻すべきだと思っています。

 

自動車保有をめぐる鈴鹿市生活保護停止処分事件

三重支部  芦 葉  甫

1 生活保護受給者には、原則として、自動車の保有が認められていない。
 しかし、公共交通機関が発達しているのは、東京、大阪などの一部である。三重県は、車がなければ、生活は困難である。そして、公共交通機関の利用者数の減少、収益確保のために運行本数を減少させることも、珍しいことではない。新型コロナウイルスの蔓延以降、タクシーの台数は激減し、最大歓楽街である四日市市ですら、流しのタクシーは、見かけなくなった。
2 2022年10月、11月、鈴鹿市は、2件の生活保護停止処分を行った。原告らの代理人は、小久保哲郎弁護士、太田伸二弁護士、馬場啓丞団員及び当職の4名である。まず、当事者をご紹介したい。
⑴ 1件目の事件は、80歳女性(「膀胱腫瘍によるぼうこう機能障害」で身体障害者手帳4級を所持する身体障碍者)と54歳男性(難病の下垂体前葉機能低下症を患い、「疾患による体幹機能障害」で身体障害者手帳2級を所持する身体障害者)の親子である。男性の通院のため、自動車(2007年式国産大衆車 走行距離88、800km)の保有が認められていた事案である。鈴鹿市が自動車の保有を認めた唯一事例であった(裁判中に、保有を認めないとの見解を示した。)。
 処分の理由は、“運行記録票(年月日、使用時間、キロ数、運転経路、用件(具体的に)、運転者、同乗者を記載する書式)を作成し、提出せよ。”との指導指示に違反したことである。
 なお、女性は、三重弁護士会に人権救済申立をしていたところ、三重弁護士会は、2022年7月21日、「保有が認められた自動車を利用する度に、運転記録票に必要事項を記録すること」、「記録した運転記録票を毎月福祉事務所に提出し、担当ケースワーカーによるメーターの点検を受けること」を求める行政指導について、親子らの移動の自由及びプライバシー権を侵害するものであり、自動車の利用を男性が通院で利用する場合に限定するという保有条件を変更した上で、行政指導を中止するよう勧告した。
 鈴鹿市社会福祉事務所は、かかる勧告を無視し、2022年9月29日に処分を行ったのである。
⑵ もう1件は、70歳単身女性(四肢体幹機能障害を患ったことにより身体障害者手帳1級を所持する身体障害者)である。
 処分の理由は、“自動車の見積書を2社分提出せよ。”との指導指示に違反したことである。ちなみに、生活保護申請をした2019年7月8日時点で、自動車の見積書(ディーラー関与)は提出済みであり、当時ですら、売値がつかず、むしろ処分費用がかかる内容であった。
 2022年10月20日、1件目の事件で、執行停止認容決定が下された。そして、同月31日、冬季加算が認定され、処分は回避できたと安堵した矢先、翌月1日に処分が下されたのである。
3 いずれの事件においても、法律構成は、ほぼ同一である。すなわち、①生活保護法違反の指導指示であり、そもそも生活保護停止処分権限を有しないこと、②裁量権逸脱濫用による生活保護停止処分であることである。
③手続違反、④通達の違法性等については、提訴の迅速性を優先し、訴状段階ではあえて触れていない。準備書面にて主張を追加中である。
4 本稿で記しておきたいのは、執行停止申立における注意点である。1件目の事件では、「判決宣告まで」を終期として、執行停止の申立ての趣旨を起案した。これは、審級ごとに執行停止の判断を下すという行政事件訴訟法28条を踏まえたものである。
 しかし、かかる申立ての趣旨は、誤りである。1件目の事件では、我々も、裁判所も気づかなかった。上記申し立てでは、不都合な事態が起こり得る。そのことに、2件目の事件で執行停止の申し立てをする際、気が付いた。
 すなわち、取消訴訟の全部認容判決を得た場面を想像されたい。判決宣告時は、裁判所前で原告代理人が旗を出し、支援者とともに歓喜の時を過ごしているだろう。しかし、原告には、厳しい現実が待っている。処分の効果が復活するからである。なぜなら、執行停止の効力は、「判決宣告まで」との終期とする以上、執行停止の効力が終わってしまうからである。そして、控訴期限が経過(もしくは上訴権放棄)をしなければ、判決は確定しない。本案で勝っているのに、原告は、生活保護停廃止処分の効力を受けるという矛盾を招くのである。
 我々は、この矛盾を解消するため、2件目の事件で、申立ての趣旨を再考することとした。調査し、検討した結果、「本案の第1審の判決言い渡し後60日が経過するまで停止」とした。これならば、行政事件訴訟法28条に反せず、かつ上記不都合の生じない表現であろう(参考にした裁判例は、東京高決平成28年2月1日賃金と社会保障1662号59頁)。
 裁判所も終期の問題に気付き、申し立て通りに認容した。思わぬところに、落とし穴があると気が付いた瞬間であった。どこかのタイミングで、1件目の執行停止事件も終期を修正する予定である。各地で行政事件に関わる際、本件を“他山の石”として活用されたい。
5 …と、当初は、ここで筆を置くつもりであった。
 だが、2023年2月24日、当職に1つの情報が飛び込んできた。
 すなわち、支援者から「1件目の当事者に、再び“聴聞通知書”が届いた。」とのことである。直近のケースレコードには、「指導内容が履行されなかった場合は、生活保護が停止・廃止になる可能性がある旨を伝え…」と記されていたので、聴聞通知書が発送される事態を想定できていないわけではない。だが、当事者は、裁判闘争中である。しかも、執行停止に至っては即時抗告が棄却され、認容決定が確定している。ちなみに、今回の指導指示内容は、2件目の当事者と同じ、“自動車の見積書を2社分出せ。”である。
 団員の先生方が本記事を御笑覧される頃、当職らは、3度目の執行停止申立等の準備に追われているかもしれない…。

 

大阪大学非常勤講師「雇止め不当」無期転換を求めて提訴

大阪支部  鎌 田 幸 夫

1 大阪大学の非常勤講師である4名の原告が、語学等の授業を担当し、半年ないし1年の有期労働契約を反復更新し、通算5年を超えたので、労働契約法18条1項に基づき無期転換権を行使したところ、大阪大学は、非常勤講師らとの間の契約は、2022年4月に雇用契約に切り替える以前は、委嘱契約(準委任契約)であったとして無期転換権の発生を否定し、2023年3月末をもって雇止めすると予告したので、2023年2月9日、期間の定めのない労働契約上の権利を有することの確認と2022年4月1日以降の減額された賃金の支払いを求めて大阪地裁に提訴しました。
2 本件訴訟は、大阪大学側の二重の脱法を許さない闘いです。
 第1の脱法は、非常勤講師が実質労働者であるのに、契約形式を委嘱契約(準委任契約)として、労働法の適用を免れようとしていることです。原告のうち2名は、旧大阪外国語大学の非常勤講師のときは労働契約で就労していましたが、2007年10月に大阪大学と統合された際に委嘱契約に切り替えられました。契約形式の変更の前後で原告らの就労実態に全く変化はありませんでした。その後、2022年4月1日、大阪大学は、文科省の指導を受けて、原告ら4名を含む非常勤講師を委嘱契約から労働契約に切り替えましたが、やはり、その前後でも原告らの就労実態に変化はありませんでした。
 労働者性は、就労実態に照らして客観的、実質的に判断されるべきところ、非常勤講師は、大学が決定するカリキュラム、授業期間、授業回数、講義室、受講者等に従って、シラバス、授業計画・授業資料の作成、授業の実施、試験問題の作成・採点・成績評価等を行なう「授業担当教員」として就労してきたのです。学校教育法上も学長の指揮監督下にある者でなければ「授業担当教員」になることはできないとされています。非常勤講師の就労実態は、指揮監督下で就労する労働者であり、大学側が、契約形式を委嘱契約とすることで、強行法である労働法を脱法することは許されません。
 第2の脱法は、労働契約法18条施行後10年となるので、非常勤講師の無期転換権行使を回避するため2023年3月末で雇い止めを通告してきたということです。
 仮に、非常勤講師が準委任契約であれば、5年の無期転換を定めた労働契約法18条や10年特則を定めた大学教員任期法(以下「任期法」といいます)の適用はないはずです。にもかかわらず、大阪大学が、非常勤講師を10年経過前に一律に雇止めする(その後、半年間のクーリング期間を設けて公募する)のは、非常勤講師の実質が労働者であるがゆえに無期転換を回避する目的であることは明らかです。大阪大学の理事も、5年上限、10年上限を設けたのは、非常勤講師として業務に従事した期間も労契法18条の適用を受ける可能性を完全に否定できないからであると述べています。
 なお、私も弁護団の一員である羽衣学園事件・大阪高裁判決(令和5年1月18日言渡)は、任期法が、「私立大学については任期を定めることが合理的な類型であることを明確にする趣旨で立法され、その後、労働契約法18条1項所定の通算契約期間を伸張するための要件とされていることを考慮すると、『先端的、学際的又は総合的な教育研究であること』を示す事実と同様に、具体的事実によって、根拠づけられていると客観的に判断し得ることを要する」と限定的な判断枠組みを示し、介護福祉士の養成課程の講師であった控訴人の職務について「研究という側面は乏しく、多様な人材の確保が特に求められる教育研究の職に該当するということはできない」とし、任期法4条1項1号の該当性を否定し、労契法18条1項によって5年で無期転換していることを認めて、労働契約上の地位確認と賃金支払いを命じました。
 本件においても、原告らの語学等の授業は、大学以外から「多様な人材の確保が特に求められる教育研究の職」に該当するということはできないのであって、任期法4条1項1号に該当せず、労契法18条1項の5年無期転換の適用があり、原告らはすでに無期労働契約となっており、雇止めすることはできないというべきです。
3 今回の提訴は、2023年3月末で改正労契約法施行後10年を迎える大学等の期間雇用教員等が雇止めの危機にさらされている、いわゆる「2023年問題」と時期的に重なり、大きく報道されました。記者会見で原告らは「なんら問題行動がないにもかかわらず雇止めされることに強い憤りを感じる」「不安定な非常勤講師は、劣悪な労働条件のもと、何の身分保障もないまま、常に生活の不安を抱えながら生きています。原告となった4人以外に、声を上げることすらできない、非常勤講師が何十人もいます」「大阪大学には労契法18条で定められた無期転換という最低限のルールを守ってほしい。この国に生きる同じ人間として認めてほしい、という思いでいっぱいです」と訴えました。大阪大学は、この非常勤講師の声に真摯に耳を傾けて欲しいものです。
 大学は、「学術の中心として、広く知識を授けるともに、深く専門の学芸を教授、研究し、知的、道徳的及び応用能力を発展させることを目的」とし、「その目的を実現するための教育研究を行い、その成果を広く社会に提供することにより、社会の発展に寄与する」(学校教育法83条)役割がありますが、法の抜け道を探し、弱い立場にある非正規労働者の権利を蔑ろにすることは、大学の設置目的や役割からも到底許されないことです。
 今後、原告団、弁護団は、大阪大学による労働法の脱法を許さず、非常勤講師の無期転換による雇用の安定を目指して、全国の非正規雇用の皆さんと連帯して勝利を目指しますので、全国の団員の皆様のご支援をよろしくお願いします。
(弁護団は、中村和雄、中西基、冨田真平、喜久山大貴、鎌田幸夫)

 

山添拓さんと語る会を開催しました

宮城県支部  野 呂  圭

 2023年2月10日、自由法曹団宮城県支部の団員有志の呼びかけで、日本共産党の参議院議員で団員でもある山添拓さんをお招きし、「山添拓さんと語る会」を開催しました。
2 「語る会」を開催した経緯
 2021年衆議院選挙、2022年参議院選挙で立憲民主党や日本共産党などの立憲野党が議席を減らしたことを受け、支部団員の中から、立憲野党間の基本政策の違いなどによって野党共闘も限定的になっており、このままで良いのかとの問題提起がなされました。その中には、野党共闘推進のために、日本共産党の基本政策・方針(例えば、自衛隊廃止、共産主義・社会主義社会の実現、政党名など)を見直すことも必要ではないかとの意見もありました。
 この問題意識を宮城県支部の団員から山添拓さんに伝えたところ、山添さんも快諾していただき、今回の「語る会」の開催に至りました。
3 「語る会」の内容は語り尽くせない
 当日は大雪の中、山添さんに仙台までお越しいただき、仙台中央法律事務所で午後6時15分から約2時間の意見交換を行いました。
 まず、山添さんから、臨時国会閉会後に安保関連三文書、日米首脳共同声明という大軍拡に向けた動きを次々に行いながら、通常国会においても専守防衛との関係を説明しない政府への批判、他方で日本が戦争に巻き込まれる危険を指摘すること自体がナンセンスという雰囲気が国会の中にもあるという報告がありました。また、野党共闘については、現在は再構築の局面であるとの認識も示されました。
 続いて、質疑・意見交換が行われ、連合との関係、支持拡大策、日本維新の会や参政党等の新興政党が支持を広げている理由、自衛隊のあり方、党名変更の是非、委員長の定期的な交代制導入など様々な論点について議論が交わされました。
 折しも松竹氏除名処分の直後でもあったことから、当然この点についても議論がありました。
 意見交換に引き続き行われた懇親会でも議論は尽きませんでした。それだけ多くの課題があり、皆、問題意識を持っていたということになります。
 懇親会がお開きになったのは午後11時、外の雪はやんでいました。
4 まとめに代えて
 多種多様な意見を出し合えたことは有意義でした。そして、山添さんも最後まで私たちの質問意見に付き合っていただき、感謝申し上げます。山添さんと直に話をしてみて、こういう人が激戦区でも当選するのだなあと思いました。

 

「自由法曹団の活動」のご紹介~特に新人・若手団員の皆様~

事務局長  平 井 哲 史

 例年、登録から五月集会までの間の常任幹事会で、新入団の申し込みと承認が続きます。
 もっとも、「入ったはいいものの、自由法曹団って何をしてるの?何をするの?」という声を耳にします。
「団の活動って?」
 団の活動は、毎月の常任幹事会において、各分野を見渡して、どういうことをするのかを議論して決めていますが、具体的には、全国的な取り組みは、本部執行部の呼びかけ、あるいは本部各委員会からの呼びかけとして、FAXニュースやMLで流されます。また、各支部の取り組みは、本部からの呼びかけの具体化も含めて、支部のMLやFAXニュースなどで呼びかけられます。そして、このように重層的に呼びかけられるものを受け止めて各団員・各事務所で工夫をしながら実行することで、団の諸活動は組み立てられます。このため、「団の活動」と言ってもぼわーっとしてイメージがしづらいかもしれません。
 また、特に地方会においては会務が忙しく、団の支部としての独自の活動というのはなかなかなく、弁護士会として行動することが多いのが実情かと思います。
HPを見てみよう
 そんなわけで、「自由法曹団って何をしてるの?」となりがちになりますが、なにも隠れて活動をしているわけではなく、公開されています。
 団のHPの「お知らせ」欄や「新着情報」欄、さらには「団員専用ページ」に入ってカレンダーを見ていただくと、活動内容がわかるかと思います。また、トップページの下部にあるジャンル別のコーナーから、それぞれの分野での活動内容がご覧いただけます。
委員会のご紹介
 そして、それぞれの分野別の委員会ではどんなことをしているのか、イメージを持っていただくために、昨年、各委員会から自己紹介の記事を出していただきました。掲載号と執筆者、表題は次のとおりです。
号  執筆者     表題
1775 中村和雄  労働問題委員会
1775 緒方 蘭  将来問題委員会
1776 井上洋子  国際問題委員会の紹介~自由闊達を信条としています
1780 本田伊孝  構造改革PTの紹介
1780 瀬川宏貴  市民問題委員会の紹介
1781 小川 款  教育問題委員会へのお誘い
1790 三澤麻衣子 治安警察問題委員会へのお誘い
1790 林 治   貧困・社会保障問題委員会の紹介
 このほかにも、改憲阻止対策本部、原発問題委員会、差別問題対策委員会、広報委員会、組織財務委員会があります。
 HPから過去の団通信を拾って各委員会の紹介文をご一読いただき、委員会にご参加いただければ幸いです。(

 

「トランスジェンダーについて考える学習会」に参加して

幹事長  今 村 幸 次 郎

1 はじめに
 「トランスジェンダーについて考える学習会」(2月1日開催)に参加したので、感想を述べます。講師は大谷大学などで教員をしておられる西田彩先生で、私のように、これまであまり深くこの問題を考えたことのなかった者にも、大変わかりやすく、よく整理された内容の講演でした。
2 トランスジェンダーとは
 まず、トランスジェンダーとは何かということです。トランスジェンダー(の人)とは、「出生時に割り当てられた性別とは異なる性自認の人」「出生時に割り当てられた性別と異なる性別で生きている人(生きようとしている人)」のことです。そこには、トランス男性、トランス女性、ノンバイナリー、Xジェンダー、クエスチョニングなどが含まれます。トランスジェンダーの人の割合は、人口の約0.7%と言われています。
3 トランスジェンダーの人と社会生活
(1)ジェンダーアイデンティティの確立
 性自認は、本人の自由意思では選択・変更することができないものです。他者によって矯正することもできません。大多数の人は、出生時に割り当てられた性別と性自認が一致しているので(シスジェンダー)、あまり自分の性自認について考えたことはないでしょう。しかし、これが異なっている人の場合、自身のセクシャリティを肯定的に捉えられない、自己肯定感が育めない、人生の展望がもてないなどの葛藤・苦痛が生じることになります。
 そこで、いろいろ試して生きようとしたりしますが、その中で、やはり「自身の帰属意識にしたがって生きていきたい」というところから、斉一性と連続性が安定した性同一性を獲得することによって、ジェンダーアイデンティティ(性自認、性同一性)が確立するとのことでした。
 このような性自認は、人格を構成する重要な要素です。これを否定することはその人の人格を否定することになってしまいます。大多数の立場にいるシスジェンダーとしては、この点に特段の留意が必要だと思いました。
(2)性別移行
 そのうえで、トランスジェンダーの人が、自己の帰属感覚を抱く性別で生きていこうとすると、性別移行をすることになります。
 性別移行には、①性表現の移行(服装、髪型、言葉遣いなど)、②性的・身体的特徴の移行(ホルモン治療、性別適合手術、整形手術など)、③社会的性別の移行(通称名使用や戸籍名変更、戸籍性別の変更など)という段階があり、また、その人のおかれた家庭環境、身体の状態、基礎疾患の有無、医療アクセス、経済状況、学校や会社との関係など様々な事情に基づく個人差もあるとのことでした。
(3)性別移行と社会生活
 こうした性別移行のプロセスの先に社会生活があります。性別移行をせずに、その性別での社会生活が築かれるわけではありません。当事者によっては、数年単位のプロセスを経ることもあるそうです。
 「今から女」といえば、直ちにすべてのことを認めなければいけないということではありません。性自認や性別を自称した瞬間に性別移行のプロセスが完了することもありません。
 この点は、西田先生の講演の中でも、非常に重要なポイントだったと思います。
 私たちは、この性別移行のプロセスをよく理解して、個別具体的にどのような支援ができるかを考えていかなければなりません。このような支援に関し、東京弁護士会の「性の平等に関する委員会」が「職場における性別移行ガイド」の例を公表していますので(東弁HP)、大変参考になります。
 ともすると、「性自認の尊重=トイレ利用の尊重」という誤解に基づき、「自分を女性だと思う男性は誰でも女性トイレに入れるようになってしまう」といった言説がなされることもありがちですが、このような言説は、性別移行のハードルを引き上げ、トランスジェンダー当事者の生活をより困難なものにしてしまうので注意が必要です。トイレ利用の話は、あくまで性別移行のプロセスが進む中で個別に出てくる話なのです。
 なお、性別適合手術は、成人でないと受けられず、合併症や後遺症のリスクもあります。経済的な負担も大きく、長期療養も不可欠です。他方で、ホルモン療法によっても身体違和が大きく軽減することがあるようなので、性別移行の過程において、性別適合手術を受けるかどうかは、西田先生ご指摘のとおり、その人のライフプランの中で決めるべき事柄かと思います。
4 「トランス女性が女子トイレを使うこと」への「不安」をどう考えるか
 この点は非常に悩ましい点だと思います。しかし、ここで改めて確認しなければならないことは、トランス女性は女子トイレに入りたいがために性別移行するのではなく、帰属感覚が生じる性別で社会生活・人生を送りたいから性別移行するということです。その性別移行のプロセスに応じて、トイレや施設利用の問題が出てくるのです。もちろん、そうした個別具体的な配慮や対応を考えるにあたって、シスジェンダー側の不安や懸念に配慮することは必要なことだと思います。 
 しかし、それは、やはりその状況や場面、環境や当事者の希望等を考慮して個別具体的に調整すべき事柄だと思います。
 抽象的な不安又は(性自認が女性と宣言した人が皆女子トイレに入ってくるというような)誤解に基づく不安があるからといって、「女子トイレの利用は戸籍上の女性に限る」といった取扱いをすれば、それは、性別移行が完了しそれまで恒常的に利用できていた日常生活の一部を禁止することとなり、高度なプライバシー情報である身体の状態をアウティングさせることになってしまいます。
 そのようなアウティングにより、その人の生活と人生を奪うことは許されません。
 また、実際にトイレ利用の禁止まではしなくても、「トランスジェンダーといえば女子トイレ入り放題」などの言説を流布することは、意図的な「トランス排除」であればもちろんのこと、誤解に基づくものであったとしても、トランス当事者の尊厳や人間性を深く傷つけ、その平穏な生活を奪うものにほかなりません。
 私たちは、性の多様性に思いを致し、「一人一人がその人として尊重される社会」の実現を目指して取り組むことが求められていると思います。

 

トランスジェンダー学習会に参加しました

大阪支部  杉 島 幸 生

1、トランスジェンダー学習会に参加しました。
 差別問題委員会開催のトランスジェンダー学習会にZOOM参加しました。講師はトランスジェンダー当事者(トランス女性)である西田彩さんです。西田さんの話は、トランスジェンダーとは何かを一言で言うことはできず、それは多様な性のあり方を含む幅のある概念であるということから始まり、当事者が求めるものが性認識の同一性(安定性)であり、さまざまな葛藤や悩みを経てようやくそれを得ることができるものであること、また、ようやくそれを得ることができたとしても心ないアウティングひとつで破壊されてしまうこと、それは当事者にとって、とりわけ移行途中の当事者にとって恐怖に他ならないことなどがリアルに語られました。当事者の生の言葉にはやはり重みがあります。私も大変勉強になりました。その点で西田さんには感謝しなければなりません。講演はアーカイブで見られるようですから、少しでも関心のある方(できれば関心のあまりない方も)はぜひご覧いただきたいと思います。
2、とは言っても…
 とは言っても気になる点もありました。そのひとつは批判的意見に対する反駁が少し雑ではないかということです。例えば、西田さんは、「トランスジェンダリズム」を批判する人たちは多様なあり方をもつトランスジェンダーをひとまめにしていると反論されていました。しかし、私の知るところでは、そうではなく、そうした人たちは、多様な存在であるはずのトランスジェンダーについて「性自認」だけを根拠にその多様性を無視して一律に扱うべきとすることを批判しているのです。有効な批判はその主張を正確に理解するところからはじまります。これではもともと共感を感じる人にとっては「そうだ、そうだ」とうなずくことができたとしても、そうでない人は「それ誰のこと言っているの?」と反発するのではないかと思いました。また女性スペースにトランスジェンダー女性が登場することに不安を表明する女性たちに対し、「抽象的不安」にすぎないと一刀両断されているところも気になりました。これでは、そうした女性たちから「私たちの思いを無視している」と言われても仕方がないようにも思います。またトランスジェンダーと言われる人たちの思いを伝えようとするあまり、疑問や批判を感情論で押し流そうとするところがあるように見受けられました。これも私には少し受け入れにくいところでした。
3、それは私たち法律家の仕事なのではないでしょうか
 もっとも、自分によせられた疑問や批判を客観的に受けとめて、冷静に議論することを当事者に求めるのは酷なようにも思います。当事者の果たすべき役割は、そこではありません。当事者の思いに寄り添いつつも、そこから普遍的なものを見つけ出し、社会的な要求にまで高めていく、それは私たち法律家の仕事なのではないでしょうか。そのためには一方当事者の話にしか耳を傾けないようではいけません。どうして女性スペースにトランスジェンダー女性が登場することに不安を表明している女性がいるのか、どうすればその不安を解消することができるのか、それをトランスジェンダー女性の思いと両立させることはできないのか、私たちが学ぶべきこと、考えるべきことはたくさんあります。トランスジェンダーが多様な性のあり方なのだとすれば、社会や私たちの対応も多様であっていいはずです。それを一色に塗りつぶすようなことは、誰にとっても幸せなことではないように思います。
4、差別問題委員会にのぞむこと
 多くの団員にとって、この問題はなじみがたいところがあるような気がします。これまで考えたこともない問題に触れたとき、人は多かれ少なかれ混乱するものです。時には誤解や無知からの発言などもありえます。それを「間違いだ」、「勉強不足だ」、「差別だ」などと決めつけないで欲しいのです。それでは、人をこの問題から遠ざけてしまいかねません。また今回は、トランスジェンダー当事者からの話を聞かせていただきました。大変によかったと思います。委員会のみなさんにはご苦労様でしたと言いたいと思います。しかし、トランスジェンダーをめぐる議論はこれだけではありません。今回の議論に批判的な意見をもつ方からの話もぜひ聞きたいなと思います。また西田さんは性同一性障害の方に対してトランスジェンダーの中で特権を求めていると批判されていました。そうした方の声もぜひ聞ききたいところです。多様な意見に触れるなかで、自分の頭で考えてつかんだ「答え」こそが、その人にとって「正しい答え」だと思うからです。大変ではありますが、委員会には、そうした企画についてもぜひ考えていただきたいなと思いました。

 

「トランスジェンダーについて考える学習会」に参加して

東京支部  辻 田  航

1 はじめに
 2月1日に開催された差別問題対策委員会の「トランスジェンダーについて考える学習会」に参加しました。
 講師の西田彩先生には、盛りだくさんな内容のスライド(全118ページ!)を用いながら、基本的な問題から解説していただきました。以下、講演の中で私が重要だと思った点を挙げつつ、感想を述べたいと思います。
2 トランスジェンダーの説明について
・「心の性と体の性が一致していない人」という説明は不正確
・現代では「出生時に割り当てられた性別とは異なる性別で生きている人(生きようとしている人)」といった説明がされる
・トランスジェンダーという属性のポイントは、「出生時に割り当てられた性別側には帰属感覚を抱けない」こと
・反対の性別に帰属感覚を抱く場合は、トランス男性/女性というあり方になるが、反対の性別にも帰属感覚を抱かない人もいる(ノンバイナリー等)
【感想】今まで「心の性」という説明が不正確であるとは思いつつ、これに代わる良い表現がわからなかったのですが、「帰属感覚」の説明が私にはとてもしっくりきました(子どもに対する説明としては、なかなか難しいかもしれませんが…)。
3 トランスジェンダーの統計的理解
・トランスジェンダーの割合は、人口の0.7%未満
・中出もトランス男性/女性の割合は、人口の0.3%未満
・当事者の絶対数が少なく、多くの人が実際に生活をともにしたことがないため、勝手なイメージが語られがち(思考実験の材料にされやすい)
【感想】私にもまだまだ思い込みがあるはずです。「勝手に想像するな」と肝に銘じたいと思いました。
4 性別移行について
・性別移行の目的は、出生時に割り当てられた性別の割り当て直し
・性表現の移行、身体特徴の移行、社会的性別の移行という3つの側面がある
・性別移行は段階的なものであり、いきなり完了するものではない
【感想】性別移行におけるハードルは、性別移行のプロセスを理解した上で捉えないと、誤った理解に陥ることがわかりました。
5 トランスジェンダーに関する歴史的経緯
・1990年代前半までの日本では、トランスジェンダーに関する情報源は少なかった
・1995年に「性同一性障害」という診断上の疾患名が登場
・2001年に「3年B組金八先生」で性同一性障害がテーマになり、認知が広がる
・2004年に性同一性障害特例法が成立
・2010年以降、文科省が対応を始める
・2018年、お茶の水女子大がトランス女性へ門戸を広げる決定
・2022年のICD-11で「性同一性障害」は廃止されて「性別不合」へ
【感想】日本でトランスジェンダーの社会的な認知が広がったのが2000年代という点が、世代による理解の差につながっているように思いました。当該「金八先生」を見ていた私からすると、社会問題として“新しい”とまでは感じないのです。
6 「性同一性障害」について
・「性同一性障害」は診断上の疾患名(だった)
・「トランスジェンダー」は当事者が自信の属性を説明する言葉
・前者はいずれ適用が外れるが、後者は一生続く言葉
・性同一性障害は、診断という権威による規範化を生み、当事者間を分断した面もある
【感想】言葉の区別や使い方には気を付ける必要があると再確認しました。また、当事者間に分断が生まれた経緯も理解できましたが、第三者がそれに乗じるような行為は厳に慎むべきだとも感じました。
7 「アウティング」について
・「アウティング」とは、本人の同意がないまま「性的指向」や「性自認」「性別情報」などを他者に暴露すること
・アウティングは当事者の生活や人生を奪うものであり、当事者にとって死活問題
・性別適合手術を受けなくても、ホルモン治療などで容姿的・社会的には移行後の性別として平穏に生活できる当事者も多い
・他者が性別適合手術の有無などに基づいてジャッジすることは、アウティングにつながる
・アウティングされることなく、自己同一性を保った社会生活を維持することは、憲法13条で保障された権利である
【感想】アウティングを防ぎ、当事者の平穏な生活を守ることは、個人の尊重や幸福追求権を定めた憲法13条の要請だと理解しました。トランスジェンダーを巡る問題を議論するには、アウティングという観点が不可欠ということでしょう。
8 おわりに
 学習会を通じて、トランスジェンダー差別が当事者の憲法上の権利を脅かすものであることが明らかになりました。次に団がすべきことは何でしょうか。
 私は、団には、トランスジェンダーという「人民の権利が侵害され」ている以上、その「権利擁護のためにたたかう」(自由法曹団規約2条)責務があると考えます。
 今回の学習会を経た団が、抽象的な議論に終始することなく、行動を起こしていくことを期待します。

 

~追悼~宮里邦雄団員を偲ぶ

 

優れた見識と優しい人柄

 東京支部  上 条 貞 夫

1 宮里邦雄さんは、私と同じ法律事務所の7年後輩でしたが、法律論の造詣が深く、やがて東京共同法律事務所を設立して自立された後も、私は労働事件で新たな法律問題に当面する度に、宮里さんに問い合わせて法律論のポイントを指摘して貰うことが、長年にわたって続いていました。何年も続いたJAL解雇争議の関係でも、しばしば宮里さんに法的な意見を求めていました。それほど、誰よりも頼りにしていた存在でした。
 これまで、思い出に残る事件を振り返って見ると、日立電子の出向拒否・解雇事件で、最初、私の力不足で東京地裁・仮処分事件が敗訴。何とか本訴で、「出向は本人の同意原則」と勝訴したものの、その控訴審・東京高裁で相手は、全面的に巻き返す論陣を構えてきました。高裁で逆転されたら大変。ここで、宮里さんに代理人に加わってもらい、宮里さんの本当に緻密な弁論で防戦。最後は、こちらの納得できる和解で解決したのです。
 また、スカンジナビア航空事件で、東京地裁が「変更解約告知」という一昔前ドイツで流行った論法で整理解雇を認めた、その抗告審の弁護団に私が参加して高裁に提出した「意見書」も、弁護団に図る前に、宮里さんに見て貰ってOKでした。全国的な支援をうけた争議は、高裁の結論が出る前に、全面勝利しました。 
2 いま振り返って、国鉄労働組合が、官公労働者のストライキ権をめぐる最高裁の判例傾向に関って、国労弁護団の「スト権調査団」を、ヨーロッパ各国とアメリカ、イギリスに派遣したとき(1973年)、宮里さんと私は、ドイツ、フランス、ベルギー、オーストリアの産別労組を訪問して調査した旅を、懐かしく思い出します。日本の国労と国際交流の深かった各国の産別労組本部役員は、各国のスト権の制度と運用の実情を詳しく答えてくれました。調査の合間に、宮里さんと一緒にドイツ酒場でビールを痛飲し、昔覚えたドイツ民謡を歌い続けた雰囲気も、忘れられません。ドイツで寄贈されたドイブラー博士の著作を、帰国後、読み通して視野が広がった、痛快な実感を覚えました。
 それはさて置き、その旅の途中、私の、とんでもない失敗があります。ベルギーの労組と懇談した際、昼食に、生まれて初めて本物のワインを御馳走になって飲み過ぎて、帰り道、酔いが回って市電の車道に寝てしまった。あと覚えていませんが、宮里さんが、私を担いでホテルまで運んでくれたのです。翌日、オーストリアに移動しても、二日酔で全然、調査の仕事になりません。現れたドイツ人の通訳氏は、「あゝ、今日はパウゼ(Pause=ひと休み)ですね」と一言だけ。
3 昨年暮れ、宮里さんの東京共同法律事務所ニュースから、宮里さんが仕事を休まれていることを知りました。パウゼなのか、早く恢復してほしいと願っていたのに、その後、逝去されました。本当に、残念です。いまはただ、御冥福を祈るばかりです。
 でも宮里さんは、どこかで、いつもの優しい笑顔で私たちを見守っている、そういう思いが胸をよぎります。
【東京支部ニュースと共有します】

 

~追悼~山口貞夫団員を偲ぶ

 

追悼の辞“山口貞夫先生を偲ぶ”

京都支部  中 島  晃

 昨年末暮れもおしつまった12月28日、団員の山口貞夫先生が亡くなられた。享年89歳であった。2月11日が誕生日だったから、満90歳を向かえる直前であった。
 小生は、1969年4月に弁護士となり、山口貞夫法律事務所に入所して2年間、山口先生のもとで指導を受けた。西も東もわからなかった小生が、53年余もの間、団員弁護士として曲がりなりにも仕事を続けることができたのは、山口先生の薫陶のおかげである。そうしたことから、山口先生が間もなく卒寿を迎えるにあたって、何かお祝いをしなければいけないと考えていた矢先であった。いましばらく、お元気でいてほしかったという思い切なるものがある。以下、山口貞夫先生を偲んで、ここに追悼の辞をささげるものである。
 いまから19年前、山口先生が古稀を迎えた際、自由法曹団が古稀団員の表彰をするにあたり、小生は団報に山口先生の経歴を紹介したことがあるが、それに乗せた「略歴」を以下に再録させていただく。
 山口貞夫先生は、1933(昭和8)年2月、7人兄弟の下から2番目として東京で生まれ、間もなく京都市南区に転居した。中学校卒業後、1948(昭和23)年4月、昼は町工場で働きながら、夜は定時制高校に通った。17歳の時、一緒に働いた町工場の仲間10数人とともに労働組合を結成し、初代執行委員長に選出された。
 定時制高校卒業後、1952(昭和27)年4月、金沢大学に進学し、56(昭和31)年3月、金沢大学法文学科卒業後、翌57(昭和32)年、国家公務員行政職上級試験と司法試験に合格し、58(昭和33)年4月、司法修習生(12期)となった。司法研修所に入って間もなく、青年法律家協会に入会した。
 1960(昭和35)年4月、27歳の時に弁護士登録をし、京都弁護士会に入会した。63(昭和38)年に自由法曹団に入団し、京都支部設立に参画した。当時の団員は、柴田滋行、莇立明、能勢克男、中村三之助、小林為太郎、平田武義弁護士らだった。
 1964(昭和39)年、31歳のときに、青法協京都支部設立に参画し、初代支部長になった。
 ここで少し補足すると、山口先生は、それまで所属していた坪野米男法律事務所から独立して、山口貞夫法律事務所を開設し、そこに青法協京都支部の事務局がおかれたことから、先生の事務所には多くの司法修習生が毎日のように出入りすることになり、民主的法律家を養成するうえで、大きな役割を果した。それは何よりも、山口先生が司法修習生をいつも笑顔で事務所に迎え入れ、温かく歓待したことによるものである。
 そのために、時間的にも経済的にも相当の負担になったと思われるが、山口先生はそうしたことを全く感じさせることなく、修習生に接してきたのは、人をやさしく包み込むような見事な天性をもっていたとしか言いようのないものであった。その意味で、青法協京都支部の事務局事務所でもあった山口法律事務所は、一時期、多くの司法修習生が集まる梁山泊の様相を呈していたと言っても過言ではない。
 山口先生が弁護士となったのは1960年4月であるが、ときあたかも60年安保闘争の最中であった。京都ではさまざまな労働争議に関連して、次々と刑事弾圧事件がひきおこされたが、山口先生はこれらの弾圧事件の弁護を引き受けて奮闘し、多くの事件で無罪判決を勝ち取った。
 これについては、他の弁護士による追悼文でも紹介されているので、ここでは割愛させていただく。
 山口貞夫法律事務所は、その後洛陽法律事務所に名称を変えたが、先生のもとで指導を受けた弁護士は小生も含めて9人に及んでおり、先生が亡くなられた時点でも洛陽法律事務所には2人の若手弁護士が所属し、先生は最後まで後進の指導にあたってこられた。
 ここで山口先生の趣味を紹介しておこう。山口先生の趣味は実に多彩であり、囲碁5段で京都弁護士会ナンバーワンであり、またゴルフの腕前も相当なもので、コンペでいくつもの優勝トロフィーを持ち帰り、かつては、麻雀や競馬でも大いに鳴らしたといわれている。晩年は山歩きを趣味とされ、京畿(けいき)ウォーキングクラブの会長として、100人を超える会員を組織して、毎月1回定例の山歩きを楽しみにしたと聞いている。先生は、このようなさまざまな活動に取り組むかたわら、わが国の政治と経済の行方に心を痛められ、日本が再び戦争への道を歩もうとしていることを鋭く批判されてきた。
 先生は、決して経済的に恵まれた環境のもとで育ったわけではない。それにもかかわらず、向学の志を捨てず、働きながら定時制高校で学んで大学に進学し、卒業後も勉学を続けて、国家公務員行政職上級試験と司法試験に挑戦して、見事合格していることは、先生の志の高さを物語るものである。
 また先生は、弁護士としての活動において、数々のすぐれた業績をあげてこられた。しかし、それだけではなく、さまざまな活動に取り組まれ、それぞれの分野で一流になることを目指し、それを達成してきた。しかも、先生はそれについて特段肩肘張ることなく、実にさりげなく、しなやかに成し遂げていった。そうした先生の生き方は、まことに見事というほかない。
 そしてなによりも、いささかも権威をおもねることなく、弁護士として人権の擁護と民主主義の実現をめざして歩み続けた先生の生涯に心から拍手を送りたい。山口先生安らかにおやすみ下さい。
(本稿は、京都弁護士会会報に載せた拙稿「山口貞夫先生を偲ぶ」に加筆修正をしたものである。)

 

山口貞夫弁護士の逝去を悼んで

京都支部  莇  立 明

 昨年末28日、山口貞夫弁護士の逝去の知らせが飛び込んできた。まさかと驚いた。ここ2年程前から、事務所に近況をお尋ねすると担当の方から「本人は、元気にしています、皆さんによろしく」との伝言を聴いていたので安心してきた。突然の訃報であった。
 山口さんは、僕より一つ上で89歳。もともと、身体は学生時代からやや華奢で、あまり丈夫そうでなく食事も細かった。この10数年、会うと「俺はあちこち悪いのだ」と半分冗談めいて口癖のように言っていた。でも慎重居士であり、そして、何事にも特異な才能を発揮する彼の活動振りをみてきた僕は、本当は丈夫な人なんだといつも安心して見てきたので、先に逝ってしまうとは、言い様のない淋しさである。
 山口さんは、金沢大学法文科に1952(昭和27)年入学の4期生、僕は、その1年後に入学した5期生、共に司法試験を目指して来た仲間であった。金沢大学は旧4高を継いで戦後発足した新制大学だ。1期生には団の先輩で中田直人という誉高い秀才がいた。
 僕は、金沢市から10数キロ離れた田園地帯の実家から、電車でトコトコと通学していた。
 山口さんは京都市に実家があり、金沢では、入学以来、市内の「北斗寮」という学生寮に入っていた。彼は、そこで、多様な学友に恵まれ、法律の勉強のみならず、マージャン、囲碁、その他の社会勉強でも大いに鍛えられた様に見える。田舎出の僕なんかと違い、金沢人の人情の細やかさをも知られたと推測する。
 山口さんは、実家のある京都に戻って弁護士登録をされた。1960年(昭和35年)であった。1年前に坪野米男弁護士事務所に僕が入っていた。そこへ、僕の勧誘で入所して戴いた。
 千本今出川下がる西入るの「しもたや風」の町屋で、坪野先生の居宅でもあった。
 周辺一帯は西陣織りの織機の音が絶えない木造家屋が連なっていた。
 山口さんは京都へ帰った気楽さ、気安さもあってか、直ぐに坪野事務所の家族的雰囲気に馴染まれた。二人の可愛らしいお嬢さんもおられた。
 折しも、日米安保条約の国会強行採決で安保反対デモは街頭に溢れていた。坪野先生は、元々の政治家志向であり、時勢を買って社会党の衆議院議員に京都1区でトップ当選され、国会へ出られた。法律事務所は、その政治的後始末のように無料法律相談の市民で溢れ返った。山口先生の入所は僕にとっては有難い助っ人であった。僕ら二人は、毎日、夜遅くまで働きに働いた。
 そして、その翌年、僕は坪野事務所を退所することとなった。東京の自治労法律相談所から京都へ出張して京都府職労刑事弾圧事件の弁護活動に従事していた柴田滋行弁護士と共同の事務所を新たに造ることとなった(今の京都第一法律事務所の前身である)。
 山口先生には、申し訳ないと思ったが、僕の退所は、京都で一回り大きい民主勢力の要請に答えたるための飛躍でもあった。右肩上がりの経済動向の中、反動勢力による働く者に対する権利侵害、弾圧は増加の一途をたどっていた時代であった。
 当時、京都の団員としては、戦前に雑誌「土曜日」の編集発行などの文化活動で治安維持法による弾圧を経験された能勢克男弁護士や猛進型の小林為太郎弁護士らの活動があったが、その承継の上に、我々、戦後派の仕事が生まれていたといえようか。時代に照応した役割を果たすべき責務が多かった。その先頭部隊の一人でもあった山口先生の占めた役割、果たした貢献は大きかった。
 思いつくままに。山口先生が主任弁護士として活躍された1、2の事件を挙げれば、
1 関西競馬労組刑事弾圧事件。1960年(昭和35年)11月、京都競馬の馬丁さんたちの労組は淀の京都競馬場の菊花レースを控えて年末1時金・出走手当などを要求してはストに入った。競馬界はパドック(下見)を省略して菊花賞レースを強行しようとした。組合はこれを阻止すべくピケを張った。ピケの阻止対象の中には今をときめく武豊騎手の父で魔術師と言われた武邦彦騎手(当時は見習い騎手)も入っていた。5人の組合員が威力業務妨害、暴行傷害容疑で逮捕され、最高裁まで闘った。無罪1、他は有罪。山口先生は法廷で「下見を省略した競馬は公序良俗違反の賭博にすぎない」「被告人たちの所為は、免責さるべきである」との無罪論を堂々と展開された。
2 全自交京都地連京聯労組第1次刑事弾圧事件。1961年(昭和36年)4月、京都の8つのタクシー単一労組2700人が統一して100日に及ぶストライキを決行して、「完全月給制、8時間労働制の確立」を目指してたたかった。実態は、独占企業の経営者は増車を重ねて豪邸に住み、高級クラブに出入りをし、労働者は「馬の鼻面にニンジン」の政策のもとで「神風タクシー」とあだ名され、24時間労働のノルマ制賃金に喘いでいた。
 事件は、経営者が試用運転手(非組合員)を使って組合の分裂を画策し、その中心人物への抗議行動が暴力行為として5人の若い組合員が逮捕、起訴された。二人が無罪、他は執行猶予付き有罪で控訴審で確定した。山口先生が主任として活躍、苦労された。
3 その他、京都教職員組合の勤評反対闘争事件、旭丘中学3職員免職事件など、などの多くの弁護活動を担当された。
 振り返れば、山口先生は、一見飄々とした人柄であった。短兵急な処はなくて、激高されたお姿を見た人はいないであろう。何事にも冷静を旨とされ、事物を多面的に観察されて評価される習性を身に付けておられた。それは天性のものとも思われた。囲碁、将棋、マージャン、ゴルフなどには余人の追従を許さない才能を発揮された。
 また、多くのお弟子さんを育成されてその人望の高さも衆目の一致する処であった。中島晃、高田良爾、川中宏弁護士らが京都で就職したのも修習生の頃に山口先生の薫陶を受け京都に骨を埋める覚悟を決めたことによると言われる。
 あまりにも凡夫である僕は、才あった山口先生が、先に逝ってしまったことに途方に暮れているのである。(2023・1・12)

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