第1754号 10/1
カテゴリ:団通信
【今号の内容】
●「自由法曹団百年史」活用の勧め 原野 早知子
●団創立100周年記念出版事業
編集委員会日記(8) 中野 直樹
~追悼~ 篠原義仁団員・藤野善夫団員
●篠原義仁さんと私 岡田 尚
●篠原義仁元団長のこと、藤野善夫団員のこと 萩原 繁之
●「1人の死は悲劇である。
しかし、10万人の死は統計である」 大 久 保 賢一
●次長日記(不定期連載) 辻田 航
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「自由法曹団百年史」活用の勧め
大阪支部 原 野 早 知 子
「百年史」を読んだ
330頁に、簡要に百年が凝縮されている。そのまま戦後史であり、社会運動史であり、また、運動における裁判闘争の歴史である。
「百年史」は実に有益な本である
何が有益かというと、例えば「路上でビラを配る根拠になる判決は何だったかいな?」と疑問が沸いたとき、330頁の本をパラパラめくり、有楽町ビラまき弾圧事件のくだりを見つけ、3~5頁読めば、何が問題で、どのように闘い、判決で何を勝ち取り、その後の運動にどのような影響を与えたかが、あらかた分かるようになっている。
テーマごとに「そもそも」を調べるのにも役立つ。選挙制度がいつ、どこでどうなって現在に至ったかなど、頭に入っている人は少ない。しかし、この本を数十頁読めば把握できる。
また、男女差別裁判で「あの事件はどんな判決で、どう解決したんかな?」などということは、自分の担当した事件が終わって15年以上が経ち、記憶が無くなっているのであるが、これも数十頁読めば思い出すことが出来る。
刑事弾圧であれ、選挙制度であれ、男女差別裁判であれ、そのテーマに特化した書物はいくらでもある。「百年史」でとっかかりを掴み、後は詳しい資料を調べればよい。編者の意図とは異なるかもしれないが、このように、辞書・辞典的に使うことが出来る。
「百年史」の普及と活用のいち提案
このように、手元に一冊置いておけば、長期間役立つ本なので、事務所とお付き合いのある議員や労働組合、民主団体などに宣伝したらいいと思う。「すぐ読まなくても、お手元にあれば、運動について、何か調べたい時役に立ちます」とコピーをつける。
購入してもらうのが難しければ、贈呈してもいいのではないか。新型コロナウィルスのせいで、各種団体との懇親の機会は激減してしまった。飲み会の代わりに本をお贈りすると考えれば、一冊2000円は特に高い支出とはいえないだろうし、業務対策にもなると考える次第である。ただし、これは個人の考えであり、筆者の所属事務所で実現しているわけではない。
「百年史」は、もちろん、戦前の歴史や高野山総会の下りなど、それ自体に十分読み応えがある。活用について団内の積極的な議論を望む。
なお、筆者は、既刊の団物語を読んだことがない不良団員である(今回の団物語だけは読んだ)。にもかかわらず、かような投稿をすることをご容赦いただきたい。
団創立100周年記念出版事業編集委員会日記(8)
神奈川支部 中 野 直 樹
私の大学、司法試験受験の時代
個人的な回想から始める。77年大学に入学した後、知り合った友人らと上田誠吉・後藤昌次郎弁護士の共著「誤った裁判」や公害裁判関係の本に接し、初めて「社会問題」の世界を知った。その世界で自由法曹団員も活躍していたのであるが、自由法曹団という名称も知ることはなった。2年生の78年、「弁護人抜き裁判」法案が浮上した。大学内でも有志による反対運動が生まれ、私も参加した。検事総長の林真琴さんもそのあたりにいた。秋の駒場祭には模擬裁判劇を企画した。シナリオを書いて、東京法律事務所の弁護士に指導を受けた記憶もある。裁判劇の後、メーデー事件元被告岡本光雄さんの講演もあった。
80年から司法試験受験勉強に埋没となった。この頃から、権力による日本共産党排除の空気が強まった。そして刑法「改正」草案が発表され、警察拘禁二法案・国家機密法案が提出された。合格の確信をもてないことに加えて、暗い世相になってきていることは心をブルーにした。
団百年史の中で
「百年史年表」を開くと、80年代中曽根内閣が強引した「戦後政治の総決算」路線とのたたかいが記録されている。この中でも団は、警察国家への危険な動きに抗し、3つの法案に対しねばり強く運動した。この運動は、弁護士会とも連携したこと、全国展開した団員事務所が地域運動として取り組んだこと、刑法「改正」草案を廃止し、警察拘禁二法案・国家機密法案を廃案にしたこと、が特筆される。「百年史」は、第6章の6の冒頭でこの経過を取り上げ、最後に「これらの取り組みを通じて、団は、闘う法律家団体として悪法反対運動の進め方を確立していった。」とし、6点を指摘している。
弁護士となり団員となって
なんとか司法試験を突破し、86年八王子合同法律事務所に入所して団員となった。八王子では、刑法「改正」に反対する連絡会がつくられ、地域の労働組合員、業者、新婦人、救援会等の面々が常時結集し、悪法反対運動の軸となっていた。警察拘禁二法案への取り組みの成果と代用監獄問題については02年自由法曹団物語(下)第4章1「こんな警察にこんな法律をー警察拘禁二法」(小池振一郎弁護士主執筆)に詳しいが、多摩地域でも、弁護士会が武蔵野公会堂で開催した市民集会に取り組んだし、私が弁護士2年目で得た刑事無罪判決事件も「代用監獄における人権侵害事例集」の1つとなった。
国家機密法案に関連し、上田誠吉弁護士が次々と刊行された著作もむさぼり読んだ。86年11月、町田市にお住まいの緒方靖夫氏(当時日本共産党国際部長)宅の電話盗聴事件が発覚し、警察庁警備局をトップとする権力犯罪の責任追及の国賠裁判を攻勢的に展開し、さらに国連人権委員会への通報を行った。警備公安警察の内部からのばく露本も多く出版され、「こんな警察に」はこの頃の流行語となった。
私は弁護士になった途端に、受験時代に強まってきていた、少数勢力を政治的に排除し、治安の対象化する権力の策動に直面することとなった。
「排除」の克服と勝利へ
緒方事件の発覚翌日の朝日新聞はべた記事扱いで以後もマスコミは共産党と警察の敵対関係の側面からの報道に終始した。日本共産党とその同調者の「排除」が色濃かった。この空気を変えていった力は、被害者個人として立ち上がった緒方靖夫さんとその家族であり、事件現場の玉川学園の人びとだった。「心の環境を侵したこの盗聴事件を糾すことも大切な町づくり運動」として「人権と民主主義を考える」住民の会が立ち上がった。
警察拘禁二法案、国家機密法案の反対運動においても、理論的批判とともに、この法律ができると、市民のどのような人権が侵害されることになるのかを、団員の体験、具体的事件をもとに伝えることが大きな力となった。人権の普遍性が「排除」の垣根を少しずつ低くした。それと、権力者の思惑どおりに悪法を通させなかった制度的要因として、衆議院が中選挙区制度であり、投票選択と議席配分が相当程度符合していたことが決定的であった。
-追記-
増本一彦弁護士(神奈川支部)から「読者の声」が団通信編集担当に寄せられました。編集日記中の年代別記述のうちに、弁護士会挙げての反対運動の先頭にたって弾圧事件の闘いの実践から論点を打ち立てて闘った「拘禁二法」反対の闘いの記述がないように思います、との声です。的確なご指摘です。団本部警察拘禁二法対策本部長として奮闘された増本弁護士の眼からすれば「百年史」で独立した章として取り上げるべき団の歴史だとのご意見だと受けとめました。編集の都合上そうはならなかったことの代替にはなりえませんが、日記で触れることしました。
~追悼~篠原義仁団員 / 藤野善夫団員
篠原義仁さんと私
神奈川支部 岡 田 尚
1972年秋、横浜修習で篠原さんと出逢った。
福岡の永尾廣久団員(彼とは同期・同クラス・同実務修習地)と私が中心となって26期青法協の仲間で公害研究会を結成し、当時出たばかりの四日市公害訴訟判決の学習会を始めた。そこには弁護士の参加をお願いし、篠原さんが一番の若手で兄貴分だった。当時、篠原さんは川崎公害の「患者掘り起し」運動(作業)をやっていて、休日になると永尾さんや私は篠原さんの後をくっついて川崎現地を回っていた。あるとき私が突然視野狭窄を起こし気分が悪くなり、篠原さんは心配して今はないが民医連の「四っ角病院」に連れて行ってくれた。休日で病院は休みだったのに出勤していた1人の女性職員が優しく面倒見てくれた。これが後に篠原さんのパートナーとなるひろ子夫人だとは、修習生の身分で招待された結婚式で初めて分かった。
永尾さんは、そのまま川崎合同に入り、私は横浜法律に入った。修習生時代の私は労働事件より公害事件の方に興味があり、横浜法律の入所案内でも「修習時代から公害・司法反動問題に取組んできた気鋭の岡田尚弁護士」と紹介されている。横浜法律入所を決めていた私に年明けから統一窓口を通して九州の事務所から強力な誘いがかかり、私も一時期「九州に行くしかない」と決断しかけたところ、横浜法律が巻き返しにかかった。自宅に事務所の弁護士と共に、なんと他事務所の新人獲得のために篠原さんまでが訪ねてきた。篠原さんと同期の亡伊藤幹郎さんの要請があったものと推測される。「岡田さんは公害をやりたがっている。説得には篠原さんが最適」と。たしかに私の篠原さんに対する当時の想いはあこがれ的なものであった。「横浜に残れ、川崎公害一緒にやろう」と言われた。正直、それで決めたわけではないが、74年4月、横浜法律に入った。後日、篠原さんは若手に「岡田を横浜に残したのは、オレだ」と自慢していたらしいが・・・。
82年3月、川崎公害の提訴。私は常任弁護団に入らなかった。断腸の想いだった。篠原さんと私の間では暗黙のうちに篠原事務局長、岡田事務局次長だった。当時、私は弁護士8年目、その2、3年前から労働事件で手いっぱい総評(現日本)弁護団の組織的にもそれなりの任務を負っていた。とても重責を担えない。川崎公害弁護団には横浜法律から2年後輩の林良二さんを事務局次長として送り出した。篠原さんは恨みがましいことは何も言わなかった。
2005年2月「『九条の会』をきく県民の集い」が開催された。急遽用意した第2会場でもまかないきれない5000名が集まった。これはひとえに篠原さんの超人的がんばりの結果であった。市民の九条へのこの想い、エネルギーを一過性に留めてはならずとして、その年の11月「九条かながわの会」を結成した。事務局長は当然篠原さんで、私もここで事務局次長をやって、川崎公害訴訟のときの篠原さんに対する「債務」の一端を少しでも果たそうと考えた。ところが篠原さんは「県内で組織をつくるなら自分より岡田さんの方がいい。その方が運動が広がる。」といって、私に事務局長を譲った。その後16年間、篠原さんは一事務局員として、毎月1回の事務局会議にもよっぽどでない限り(自由法曹団団長時代も)出席し、中央の情勢という大どころの話から集会の際の細かい準備から「人集め」まで、「創業者」あるいは「実質的代表」として尽力いただいた。いずれも元だが大学教授、TVプロデューサー、新聞記者、労働組合幹部、女性市民運動家等多彩な事務局メンバーと議論しその後の飲み会を楽しみにして、インシュリンを打ちながらの皆勤賞だった。みんな感謝している。
篠原さんがおそらくは事態急変の大変なときだったと思われる8月22日午後8時すぎ「カジノ反対の市長を誕生させる横浜市民の会」の代表世話人として山中竹春候補の選挙対策本部において「ゼロ打ち」の当選確定報を聞いて、私は声をあげない万斉で両手を突きあげていた。
篠原さん、あなたはこの結果を知ることができたのだろうか?
グッバイ、篠原さん サンキュー。
篠原義仁元団長のこと、藤野善夫団員のこと
静岡県支部 萩 原 繁 之
元々はお亡くなりになった順番通りに「藤野善夫団員のこと、篠原義仁元団長のこと」という題にしようと思ったのだが、そうすると、あの世の篠原元団長から「おい、ハギワラ、藤野さんよりオレの方が、期も年も上だぞ」とか苦情をいわれそうな気がして、藤野団員には誠に恐縮ながら、篠原元団長を先に書くことにした。
実は、実際に似たような苦情を言われたことがある。元団長には、かつて、上条貞夫団員とお二人に、当支部の阿部浩基団員だの、大多和暁団員だのとともに闘っていた日本鋼管清水製作所不当配転事件で、大変お世話になった。しかし、近年は元団長よりも、ご子息の靖征団員に、薬害肝炎問題などで大変にお世話になっている。そこで、ちょっとした季節のご挨拶の品をお送りしたときに、靖征団員を先に,ご尊父様を後に書いたところ、団本部常幹の際に、「ハギワラの野郎、俺の名前より、小僧の名前を先に書きやがって」と、いつもながらの雄弁さで苦情を言われたのだ。と、こう書いてきて、あれ、待てよ?実は、ご子息を尊重されてうれしかったのかも……・という気もしてきた。靖征団員のお名前の読み方について「やすゆきさんとおっしゃるんですよね。」とお聞きしたときに「やすゆきっていうんだよ。」と答えられた時も、何だかうれしそうな雰囲気があったような気がする。でもまあ、とにかく、篠原元団長は、かつて団長に就任される頃だったか、もと団本部次長でその後裁判官に任官された,自称「ギジン党員」の山田泰さんが、「篠原さんはサメが泳ぎ続けないと死んでしまうのと同様に、喋り続けないと死んでしまう」と評しておられたとおり、確かに大変に雄弁な方だった(「饒舌な」という表現は差し控えさせていただきます。)。あの雄弁さと、バイタリティー、パワーの塊のような印象に関わらず、団百周年記念イベントを待たずに急逝されたとお聞きして、信じられない思いと、悲しさを覚えるのは、多くの皆さんに共通ではなかろうか。ご冥福をお祈りし、ご子息の靖征団員その他多くの皆さんとともに、後を担って、生きましょう。
藤野善夫団員の訃報も、意外でショッキングだった。
かつて、団の全国会議の後の、一泊旅行に僕が常連のようにして参加していた頃、常に、といってよいほど、藤野団員とご一緒していた。同じ事務所の守川幸男団員も、たいていご一緒で、たまに高橋勲元幹事長ご夫妻もご一緒だったりした。
東京で創立九十周年記念の団総会,つまりちょうど十年前の総会があった際の、総会翌日(一泊旅行の2日目)の東京大空襲ツアーは、参加者が、藤野団員と団本部事務局の薄井さんと僕の三名だけだった、ということもある。ついでに「驚くべきことに、主催支部のはずの東京支部からは参加者、随行員が一人もいなかった。」と、団通信1404号に、僕自身が書いていた。
団の一泊旅行から帰ってしばらくすると、藤野団員は、旅行の際の写真を郵便で送ってくださっていた。その細やかなお心遣いが、とてもうれしかった。
小柄で、僕自身と同じくらいの背丈、但し、僕のようにデブではなく、そして、低音の美声の持ち主。団をやめてしまった僕の元ボスと同期の27期で、時々、元ボスの消息を聞かれた。事件関係などでは、ご一緒させていただいたことやお世話になったという記憶はないのだが、大切な先輩を失ったという悲しみがある。
ご冥福をお祈りし、後を担って、生きていきましょう。
「1人の死は悲劇である。しかし、10万人の死は統計である」ⅰ
埼玉支部 大 久 保 賢 一
6月23日、沖縄の全戦没者追悼式で、中学2年生の上原美春さんが、平和の詩 「みるく世の謳」を朗唱している。その一節にこんな言葉がある。
この空はきっと覚えている
母の子守唄が空襲警報に消された出来事を
灯されたばかりの命が消されていく瞬間を
吹き抜けるこの風は覚えている
うちなーぐちを取り上げられた沖縄を
自らに混じった鉄の匂いを
踏みしめるこの土は覚えている
まだ幼さの残る手に、銃を握らされた少年がいた事を
おかえりを聞くことなく散った父の最後の叫びを
ここでは、母と子が、父と少年が語られている。日常を抗えない力によって奪い去られていった人々のことが、みずみずしい感性で謳われている。
1945年6月23日は沖縄の日本軍司令官牛島満が自決した日である。その日が「慰霊の日」とされている。けれども、その日で戦闘が集結したわけではないし(残存部隊との降伏調印は9月7日)、それまでにも多くの人々が死傷している。
特に、首里の司令部陥落が避けられなくなった5月下旬以降、住民、日本軍、米軍が混在することになった沖縄本島南部の被害は甚大であった。旧東風平町(こちんだまち・現八重瀬町)では、当時の人口の半数近い約4000人が犠牲になったとされている ⅱ
沖縄地上戦での死者は、正規軍人6万5908人、沖縄出身軍人軍属2万8228人、戦闘参加者5万5246人、一般住民3万8754人の合計18万8136人である。戦闘参加者というのは,義男隊,学徒隊,救護班など軍に籍はないが、軍の指揮下に入れられた若者である。彼らと一般住民の合計は9万4千人、沖縄出身の軍人軍属を加えれば12万2千人の沖縄の人が、正規の軍人軍属と共に「鉄の暴風」のなかで死亡したことになる。これに終戦後の餓死者、病死者を加えると、沖縄住民の死亡者は15万人に達するといわれている。県人口の4人に1人が、沖縄戦の犠牲になったことになる。ⅲ
この4人に1人という犠牲と比較しても、東風平町の死者の割合が半数近いということは突出した数字である。また、米国の原爆投下による広島市の死亡率は41.6%±3%、長崎は27.4%という数ⅳ と比較しても異常に高いことになる。参考のために触れておくと、東京都区域の死者数は9万5374人、1944年2月の同区域の人口は665万7620人なので、死亡率は1.4%とされている。 ⅴ
このような数字はあくまでも統計である。けれども、その背後にかけがえのない一人ひとりの人生があったことは間違いない。そのことを上原美春さんは次のように謳う。
私は知っている
礎を撫でる皺の手が
何度も拭ってきた涙
あなたは知っている
あれは現実だったこと
煌びやかなサンゴ礁の底に
深く沈められつつある
悲しみが存在することを
ここでは、一人ひとりの悲劇に想いが馳せられている。私たちは、統計に隠されている一人ひとりの物語を忘れてはならない。美春さんは、私も、あなたも「知っている」ことだとしている。
私が「1人の死は悲劇である。しかし、10万人の死は統計である」という言葉を知ったのは、広田純氏の『太平洋戦争におけるわが国の戦争被害』という論文である。氏は、この論文の冒頭で、湾岸戦争の前日である1991年1月16日に、経済安定本部の戦争被害調査を紹介しながら,私個人のとぼしい戦争体験をも交えて,戦争の悲惨さと愚かしさとを学生諸君に訴えたものであるとしていた。
氏はこの論文を次のように結んでいる。「1人の死は悲劇である。しかし、10万人の死は統計である」というのは、いかにも警句好みのチャーチルらしい言い方であるが、このチャーチルの言葉を裏返しにすると、次のようになる。死者10万人という統計の背後には、10万人分の一人ひとりの悲劇があるのだ、と。
美春さんの詩に戻ろう。
いま摩文仁の丘に立ち
あの真太陽まで届けと祈る
みるく世ぬなうらば世や直れ
平和な世がやってくる
この世はきっと良くなっていくと
繋がれ続けてきたバトン
素晴らしい未来へと
信じ手渡されたバトン
生きとし生けるすべての尊い命のバトン
今、私たちの中にある
広田さんは、10年前に鬼籍に入っている。そして、今、沖縄には「平和の世がやってくる」、「この世はきっとよくなる」信じて、バトンをつなごうとしている少女がいる。
その間にいる私も、バトンをつなぐ任務を果たさなければ、広田さんにも美春さんにも申し訳が立たないであろう。老骨に鞭打つことにしよう。
(2021年6月29日記)
ⅰ チャーチルの警句。広田純『太平洋戦争におけるわが国の戦争被害』(立教経済学研究第45巻第4号1992年)からの孫引き。ウィキには、「1人の死は悲劇である。しかし、100万人の死は統計である」という言葉は、アイヒマン説、スターリン説があるなどとされている。ちなみに、広田氏は「広田基金」を遺し、日本反核法律家協会を支援している。
ⅲしんぶん『赤旗』2021年6月25日付
ⅲ広田論文による。
ⅳ浅田正彦ほか編『核軍縮不拡散の補遺と政治』所収。水本和実『核軍縮と広島・長崎』
ⅴ同上。これは経済安定本部の数字である。広田論文は、経済安定本部の数字95,374人,建設省の調査結果 91,444人、朝日新聞の調査結果114, 000人を紹介している。
次長日記 ♠(不定期連載)
東京支部 辻 田 航
次長の仕事とあまり関係ないですが、「氏名」です。
先日、戸籍の氏名に読み仮名を付けるための戸籍法等の改正について、法制審へ諮問されるとの報道がありました。五十音しかない仮名の方が漢字よりもデータを管理しやすいため、ということのようです(もし読みだけで管理すると、音の同姓同名が増えると思いますが。)。
将来生まれる子については出生届で読み仮名を登録し、既存の戸籍名については一定期間内の届出義務化などが検討されるそうです。例えば私の「航」という名の場合、「コウ」や「ワタル」と読みますが、私は「ワタル」と届け出る必要が出てくるかもしれないようです。
また、出生時の読み仮名については、公序良俗に反しない限り認める案やいわゆるキラキラネームを制限する案も検討されるようです。読み仮名の可否を自治体の窓口が判断するようになると、現場が混乱するかもしれません。
戸籍法を改正するのであれば、夫婦別姓や同性婚などのより根本的な問題こそ取り組むべきではないか、そもそも時代に合わない「家」単位の戸籍は廃止して住民登録制度に一本化すべきではないかなど、色々と考えてしまいます。
法改正とは無関係ですが、私自身の氏名について若干面倒なことがあります。
私の苗字の「辻」は、「一点しんにょう」です(戸籍上もそうですし、生まれてから今まで一点で書いてきました。)。一方、現在PCやスマホで「辻」を入力すると、「二点しんにょう」で出てきます。これ、WindowsだとXPまでは一点が、Vista以降は二点が出てくるのです。
詳しい理由は以下の記事を参照いただければと思いますが、2000年の国語審議会の答申や2004年のJIS(日本産業規格)改定が原因です。
https://mainichi-kotoba.jp/blog-20171223
個人的には、「しんにょう」の非常用漢字を使う人名への影響を想定しない、実に愚かな決定だったと思います。名前を正確に入力しようとすると、フォントを変えたり(私のWindows10環境だと、例えばHG明朝Bフォントは一点にできます。)、二点で印刷後に修正液で点を一つ消したり(そうやっていた裁判所の文書もありました。)する必要があるのですから。
私のような「被害者」には、国会議員の「辻元清美」さんやピアニストの「辻井伸行」さんなどがいます(ちなみに、作家の「綾辻行人」さんやそこから一字もらった「辻村深月」さんは、元々二点だそうです。)。他の字だと、国会議員の「逢坂誠二」さんなども「被害者」です。それぞれ国会議事録やCDジャケットなどを見れば、一点になっているのがわかると思います。
自分の名前というのは毎日のように使うものですので、制度変更は社会に大きな影響(場合によっては禍根)を残します。名前に対する個人の思い入れも強弱さまざまです。
今回の法改正に限らず、氏名に関する議論は、慎重に進めてほしいものです。