第1755号 10/11
カテゴリ:団通信
【今号の内容】
- 「台湾有事」の何が問題か
-台・中・米をめぐる情勢と課題 松島 暁
- 「森友学園 赤木ファイルを読む~国政の私物化はこうして始まった~」
講演会が開催されました 栄田 国良
- 「検面調書」(検察官捜査)は必要か? 後藤 富士子
- ♣幹事長日記⑥(不定期連載)
Band on the run 小賀坂 徹
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「台湾有事」の何が問題か-台・中・米をめぐる情勢と課題
東京支部 松 島 暁
1 台湾有事とは何か
最近さまざまな箇所で「台湾有事」が語られはじめている。3月16日の「2+2」や4月16日の「日米共同声明」では「台湾海峡の平和と安定の重要性」が強調され、『令和3年版防衛白書』には、インド太平洋地域における米中の軍事動向として「台湾」の項が新設され「台湾情勢の安定は、わが国の安全保障や国際社会の安定にとって重要」だと記された。
「台湾有事」とは何か、どのような事態を想定しているのか、一義的に明確なわけではなく、論者によってかなりニュアンスに違いはあるのであるが、さしあたりここでは、台湾海峡あるいは台湾本土での軍事衝突が起きることとしておく。
そもそも中台間に軍事衝突が起きうるのか、また、その場合にアメリカの軍事介入があるのか等については様々な意見がある。これらについての見解の相違はあっても以下については異論がないと思われる。
第1は、中台間に軍事紛争が起きた場合、中台とりわけ台湾側に多くの人的被害が出るであろうこと、第2に、アメリカが軍事介入すれば、日米同盟のもと存立事態ないし重要影響事態として日本が戦争に巻き込まれることは避けられないことである。
2 台湾有事の何が問題か
私たちの周囲では、第2の米軍の介入と日本への波及が多く語られる。しかし、その前に、第1の「中台間の軍事紛争」そのものについて正面から向き合うべきだと考える。
もっとも、中台間に武力衝突など起きない、起きるはずはないと考えている人々にとってはある意味、このような問いはナンセンスなのかもしれない。虚妄の想定のもとで騒ぎ立てているだけと映るのかもしれない。願わくばそうあって欲しいが、後述の諸要因を考えると最悪の事態を想定しなければならないところに来ているのではないかと思う。
中台間の武力衝突—台湾に対する海上封鎖の実行、あるいはミサイル攻撃や空爆の敢行、そして上陸作戦の実施—いずれの場合であっても台湾本土や湾岸沿いの中国本土で莫大な人的被害を引き起こすであろう。中台間の軍事力の比較からは圧倒的に台湾側の被害が大きいものと思われるが、その台湾には平和裏に民主化を勝ち取った2300万の人々が暮らしている。かつての沖縄戦では沖縄住民の4人に1人が犠牲になったと言われる。中台軍事衝突が起きればその被害は、沖縄戦あるいはそれ以上の悲劇が起きかねない。私たちはそのことに先ず目を向けなければならない、その事態を想像しなければならないと私は考える。
3 台湾とは何か
台湾という存在は、私たち、日本、中国にとってどのような存在なのであろうか。台湾とは何かをと問うことは、「台湾有事」を云々するうえでの必要最小限の「礼儀」であると思う。
台湾とは何か、ある人にとっては魅力的な観光地かもしれないが、歴史的には、台湾は日本の近代史における最初の植民地であるとともに、中国にとっては香港と並ぶ「屈辱の近代」の象徴である。他方、台湾の人々にとっては別の意味を有する。1949年の中国革命によって蒋介石国民党は、台湾に逃れ大陸反攻の拠点とするとともに、外省人(蒋介石)政権は内省人を支配下においた。2.28事件をはじめ、その支配に逆らう者、反抗のリーダーを担う可能性のある教師・弁護士・知識人らに「白色テロ」を加えた。それはほとんど「根絶やし」というに等しいものであった。1987年の解除まで実に40年の間、台湾は戒厳令下にあった。
しかし、台湾の人々、内省人たちは、国民党支配対し粘り強く抵抗、多くの犠牲を出しながら、政権交代と民主化を勝ち取るとともに、台湾人としてのアイデンティティを育んだ。その台湾に今現在、そうした人々が2300万人も暮らしているのであり、その事実こそが私たちの出発点であるべきだと思う。
以上の出発点にたって、台湾有事の可能性、それを引き起こす要因、どこが震源地なのかが明らかにされるべきである。
4 台湾有事はガセか
「6年以内に中国が武力侵攻する」(米インド太平洋司令官の議会証言)等の言動は、軍事予算を確保したい軍・防衛族の意図的フェイクだとの意見、あるいは失敗のリスクからは中国もいきなり侵攻するほど愚かではないとして、台湾有事の可能性は高くはなく、その危険を低く見積もる見解も有力である。もちろん利権確保や予算獲得的要素がまったくないとは思わないし、中台による衝突要素がないことこそが望ましいのではあるが、はたしてそうなのかである。
中国は、「『台湾独立』分裂活動には武力の使用を含むあらゆる必要な措置を取る」(2019.1.2「台湾同胞に告げる書」発表40周年記念大会での習近平演説)としており、台湾が独立に動くようであれば中国は躊躇せず軍事侵攻するであろう。しかし、少なくとも現在の中台の軍事力、アメリカが台湾独立を支持しないと言い続けていること等からは、台湾が全体として独立に舵を切る可能性はきわめて低い。台湾独立を理由に軍事衝突を予測し、台湾サイドに軍事衝突の危険性要因があるとすることは、今日の情勢認識としては誤りであろう。この点、大陸を追われた蒋介石が「1つの中国論」から本気で大陸反攻を考えていた1950年頃の台湾とは違うのである。
5 習金平は現状に満足できるか
台中間には「92コンセンサス」なるものが存在する。1992年に中台双方の事務レベルの折衝過程で形成されたとされるもので、中国側はこれを「一つの中国原則を口頭で確認した合意」と解釈し,台湾国民党は「一つの中国の中身についてそれぞれが(中華民国と中華人民共和国と)述べ合うことで合意した」のだと解釈している。また、李登輝元台湾総統は両岸関係を「特殊な国と国の関係」としたのに対し、中国はこれを二国論だとして批判している。いずれにせよ現実には台湾海峡をはさんで2つの国または国類似の組織が曖昧な関係のまま向き合っている。
前述のとおり、台湾が明確に独立に舵を切ることは現状としては可能性が低い。他方、北京政府が、両岸関係の現状に不満ではあっても強力に変更を行わないとすれば軍事衝突は回避できよう。しかし、問題は、外交工作で台湾を国際空間から閉め出し、台湾周辺海空域からの軍事的恫喝を加え、台湾国内の混乱を助長、抵抗意志の弱体化などの国内工作を活発化しても、それでも台湾サイドが「一国二制度」すら受けいれなかった場合に、習金平政権は曖昧な現状を受けいれ続けることができるかにある。
習金平政権を特徴付けるもの、それは「中国の夢=中華民族の偉大な復興」である。習金平は、党創立100年式典で、「中華民族は世界における偉大な民族であり、5000年以上長く続いてきた文明の歴史を有し、人類の文明進歩のために不滅の貢献を遂げてきた」、その中国が、異民族支配(清朝)のもと、「1840年のアヘン戦争以降、中国は徐々に半植民地、半封建社会となり、国家は屈辱を受け、人民は苦しみ、文明はほこりにまみれ、中華民族は前代未聞の災禍に見舞われた」と演説した。この災禍と闘い革命の発端を孫文(孫中山)がつくり、中華民族の偉大な復興を中国共産党が完成させようとしている。残された最後の屈辱が「台湾」であり、台湾の統一なくして中華民族の偉大な復興=中国の夢は実現されないのである。
また、中国軍エリート層には軍事統一への支持が強まりつつあるうえに、中国市民の70%が「台湾を統合するための武力行使を強く支持する」、37%が「戦争になるとすれば、3~5年以内にそうなるのが最善だ」とする調査結果もあり、市民のナショナリズムが強硬論を下支えしている現実がある。
もちろん台湾侵攻にはアメリカ軍の軍事介入、アメリカ軍との軍事対決というリスクはともなう。アメリカが介入しない、介入があっても排除できると判断したとき、中国は躊躇なく軍事侵攻するであろう。この点で、近時の米軍のアフガン撤退のドタバタは、北京政府に誤ったメッセージ送った可能性がある。
6 情勢認識と課題
以上の情勢認識からは、優先的な要求課題は「習金平政権は、台湾の軍事統一をあきらめ現状の両岸関係を前提とした平和的共存を受け入れよ」であり、副次的に、台湾に対し、間違っても独立に動くことがないことを求め、米国には、台中の緊張を煽り軍事力による問題解決を図るな、これが私たちの要求であり運動目標となる。
「森友学園 赤木ファイルを読む~国政の私物化はこうして始まった~」講演会が開催されました
宮城県支部 栄 田 国 良
2021年8月25日、宮城県では、仙台市福祉プラザにおいて、「森友学園 赤木ファイルを読む」実行委員会の主催で、赤木俊夫さんの妻である赤木雅子さんが国らに対して提起している損害賠償請求訴訟の代理人弁護士である生越照幸弁護士を迎えて、「森友学園 赤木ファイルを読む~国政の私物化はこうして始まった~」と題する講演会(以下、本講演会といいます。)が行われました。
本講演会は、赤木俊夫さんが公文書の改ざんの経緯を記し、遺したとされるいわゆる「赤木ファイル」を読み解き、国政の私物化について考えることを目的とするものです。
本講演会は、自由法曹団宮城県支部の団員であり、国政の私物化について問題提起を行っている「桜を見る会」を追及する法律家の会のメンバーでもある小野寺義象弁護士による「桜を見る会」問題に関する報告、及び、同じく団員である山田忠行弁護士の挨拶で、幕を開けました。
講師の生越照幸弁護士からは、①温厚で正義感のあった赤木俊夫さんの人柄、②赤木俊夫さんが、上司から公文書の改ざんを強制され、嘘に嘘を重ねざるを得ない状況に陥り、多大な精神的苦痛を負い、自死したこと、③赤木俊夫さんが亡くなられた後、赤木雅子さんは、国らから、赤木俊夫さんが自死するに至った理由を伝えられることがなかったこと、④赤木ファイルの存在が明らかになり、開示された経緯などについてご講演いただきまして、そして、自死した赤木俊夫さんと、赤木俊夫さんの遺志を継ぎ、国らに対して訴訟を提起している赤木雅子さんの想いについても伝えられました。
本講演会の最後には、生越照幸弁護士より本講演会のテーマである国政の私物化について問題提起され、生越照幸弁護士ととともに、本講演会の参加者一同が国政の私物化について思いを巡らせました。参加者は、国政の私物化について、今後も考えることを続けていくのではないかと思っております。
本講演会は、国政の私物化に関して、私たちに大きな問題提起をするものであり、問題提起の結果として、国政の私物化に対する抑止力へと繋がるのではないかと思います。そういう意味において、本講演会を全国でも開催していただきたいと思っております。
「検面調書」(検察官捜査)は必要か?
東京支部 後藤 富士子
1 私の「被疑者取調」修習
私は、この20年程、刑事事件をやっていないが、ダイナミックなアメリカの司法に比べて日本の司法は、なぜかくも「澱んだ」というか「乾涸びた」というか、要するに「つまらない」のかと考えて、40年以上前の経験を思い出している。
私は、1979年に東京地検で検察修習をした。自分としては、それがスタンダードと疑わなかったし、指導担当の検事からも文句を言われなかったから、特段の問題意識をもたなかったが、今振り返ると、弁護士になってからの被疑者接見と殆ど同じ取調をしていたことに気が付いた。まず「どうしてこの場にいるのか?」を聞くが、これは弁護人の接見でも同じである。つまり、「員面調書の確認」ではなく、被疑者とオリジナルに面接聴取する。そして、最後に「勾留の執行状況に不便がないか?」を必ず聞いていた。これも、弁護人の役割である。
たとえば、最初の質問で、別件で取調検事(新米の女性で、庁舎の3階にいた)から被害者に謝罪に行くように言われ、謝罪に行く途中に本件を起こして私の面前に居ることが判明した。それで、私が調書を作成して指導検事に伝えたところ、3階にいる当該検事が早速降りてきて、「私に責任がある」というようなことを言う。本件を引き取られては被疑者に不利益になるので、そうならないようにした(「関係ないでしょ」と言ったような気がする)。少し言語障害がある男性(「美容院」と「病院」の区別が解り難いなど)だった。最初に指導検事が修習生(私)の取調に同意を求めた際、「嫌だ」と言ったが、面食らった指導検事が押し切ったのである。彼は、私が3階の女性検事と年恰好が同じだったから拒否したのだ、ということが理解できた。
また、最後の質問では、代用監獄でトイレが和式のため、膝が曲がらない被疑者は「便秘になって苦しい」という。それも調書に取ったうえ、指導検事に「拘置所に移してあげてください」と申し入れた。
こうして思い起こしてみると、検察官の取調は、なくてもいいのではないかと思ったりする。むしろ、「自白の強要」や「証拠の改ざん」を検事がするなんて、「なくてもいい」どころではなく、「ない方がいい」と言える。
2 「袴田事件」「三鷹事件」における「検面調書」の犯罪的威力
「袴田事件」の1審判決(死刑)は、多数の員面調書の任意性を否定し、ただ1通の検面調書の任意性を認めたもので、それだけでも上訴で有罪判決が覆ってしかるべきものだったと聞く。
また、1949年7月の「三鷹事件」(無人電車暴走転覆、6人が即死、20人が重軽傷)では、同年8月1日に竹内景助さん他6名が逮捕され、同日、武蔵野警察署で岡光警部が取調、翌日から岡光警部と田中検事の取調、同月6日からは連日平山検事の取調があり、同月16日に平山・田中検事、17日に田中・平山・磯山・屋代検事の共同取調、18日に平山検事の取調があり、20日に府中刑務所に移監され、それ以降、同年9月5日まで平山検事の取調、翌6日以降は神崎検事の取調である。
なお、同年8月23日付の起訴状では、竹内被告が他の7名の国労組合員と共謀したとされているが、竹内被告以外の7名には明白なアリバイがあったため、50年8月の1審判決は、共同謀議・共同正犯は「空中楼閣」と決めつけ、7名を無罪、竹内被告の単独犯行と断定し無期懲役とした。51年3月の2審で死刑判決、55年6月、最高裁は8対7で上告棄却、死刑確定。56年2月、本人再審申立て、66年10月に審理が進む兆しが見えたが、67年1月、脳腫瘍のため45歳で獄死した。2011年11月、遺族が再審請求(第2次)、2019年7月、再審請求棄却、翌月異議申立、東京高裁第5刑事部に係属中である。
このように、今なお再審事件として「生きている」死刑判決の証拠とされたのは、任意性が疑われる「検面調書」にほかならない。こんな無駄な不正義が司法を席巻していてよいはずがない。
翻って、アメリカで弁護人の立会いが認められるのは、警察官による取調であり、そもそも検察官は取調をしない、公判中心主義である(と認識している)。私が検察修習の公判立会い検事の下で修習した放火事件では、火元が特定できなかったので、その旨具申して、補充捜査をしている。こういう活動の方が、よほど生産的で、ロイヤーに相応しい意味あるものだと思う。
そこで、「検面調書」は必要ですか?と問いたい。
(2021.8.17)
♣ 幹事長日記 ⑥(不定期連載)♣
Band on the run
小 賀 坂 徹
中学でギターを弾き始め、高校でバンドを組んだ。バンドといっても今のようにオリジナル曲を作って演奏するまでの才覚はなかったので、もっぱら洋楽のコピーで、その目標は文化祭のライブで演奏することだった。
本格的にバンドを組む前の高校1年の秋、初めてそのライブに出た。この時は2人組でアコギ2本とブルースハープ(ハーモニカ)というシンプルな構成だった(今風にいうとアンプラグド。こういうと随分カッコいいな)。当時ビートルズが解散してから10年近く経っていたのだけど、というか10年経ったからこそともいえるが、ボクのように中学の時から遡ってビートルズを聴いているヤツが思いのほか多いことを高校に入ってから知った。この時の相手ともそんな話の延長から一緒に組むことになった。ビートルズナンバーは、コード進行はいたってシンプルだったから、文化祭ではアンプラグドでもカッコよくできる曲とポール・マッカートニーのソロになってからの曲を5.6曲演奏した。
その1曲目がALL MY LOVING。”Close your eyes and I’ll kiss you…”と始まるラブソングで、日本語ではとても恥ずかしくていえないけど、英語だと何のてらいもなくシャウトできる。いい曲だ。ここに近くの女子高(名は雙葉学園といった)の女の子を招待し、その娘がその時連れてきていた年上の女の子と、その後付き合うことになった。
ちょっとだけ言い訳すると、ボクの学校は普通の県立高校で男女共学だったけど、男女比がいびつだったので、1学年8クラスのうち4クラスが男子クラスだった。高校1年の春、入学式の直後、ボクはそんな事情を全く知らないまま、突然男子クラスに配属されたのだ。もともと男子校だったら諦めもつく。しかし、男女共学の学校に入学して、今日からきらびやかなハイスクールライフが始まるのだと胸躍らせていた初日(これはかなり盛っている。きらびやかな「青春」みたいなものへの憧憬はほとんどなかったったけど、それでも淡い期待はあったのだ)に、男ばかりの教室に詰め込まれたショックは今でも忘れられない(これは完全なる事実)。だから同じ学校の女の子と知り合うチャンスはほとんどなく、駿府城のお堀をへだててすぐ近くにあった女子高にお世話になっていたというわけだ(何の言い訳だ)。
その高1のライブの後、もう一つ意外な副産物があった。それはそのライブを見ていた同級生から「一緒にバンドやらないか」と声をかけられたことである。それから彼の知り合いとボクの知り合いとを集めて、4人編成のバンド(ギター2,ベース、ドラム)ができた。ボクはギターと歌を担当した。そして翌年キイボードを加えた5人編成のバンドで文化祭のライブに出演した。この時、最も練習してそれなりにウケたのが、ウイングスのBand on the runだった。このタイトルは逃走というよりは、ビートルズ解散後、若干低迷していたポール・マッカートニーが新しいバンドとして走り続けていく決意を感じるもので(on the runをそう訳しても間違いではあるまい)、とても好きだった。
「一緒にバンドやらないか」と声をかけてきた彼は、その後大学の憲法の教員となった。10年ほど前に東北大学から慶應に移ってきたので、彼の担当する法科大学院のゼミで、実際に担当した事例を題材に憲法訴訟の実務について講義させてもらったこともある。そこに研究者の卵だった若き日の山本龍彦教授も参加していた。今でも彼とは年に何度かは飲みながら憲法状況の話をする。意見がぶつかることも少なくないが、やはり専門の研究者の思索に感心させられることは多く、たくさんの刺激をもらっている。
人との出会いは偶然だけど、そこから思わぬ付き合いが始まり、とても大切なものになっていくことはままある。ボクは元来とても人見知りで、しかもとても面倒くさがりなのだけど、できるだけ人との出会いみたいなものは大切にしていきたいと思っている。それが、団というボクにとって特別な存在の中でのものであればなおさらなのだ。
何号か前の「日記」で、今年に入って9割もの期間、緊急事態宣言等が発出されていたので、執行部の人間関係も仕事に特化した淡白なものにならざるを得ないことを嘆いた。そしてその状態のまま、何人かは目前に迫った総会で退任することになっている。その総会も前日に「100周年のつどい」があるので、いつもより時間はなく、挨拶も短時間になってしまうだろう。だからここでボクが知っている範囲で、退任が予定されている皆さんのことを書いておきたいと思う。
まずは馬奈木次長。彼とは掛け値なしで5月集会の時に1度会っただけだ。会議は全部リモート参加なんだけど、こいつはずっとカメラをオフにしたままなので、ただ声を聴いているだけだった。だから執行部になってから初めて5月集会で「生馬奈木」をみた時は緊張と感動が入り混じった気分だった(人見知りだから緊張するのだ)。ボクも神奈川で原発訴訟をやっているし、事務所には彼の配偶者もいるから、彼の様々な話は好むと好まざるとにかかわらず入ってきていて、こいつは本当はどんなヤツなんだろうかと思ったままお別れだ。なんか納得いかん。でも土地利用規制法の時には、団の声明等の起案に留まらずメディアにも多く登場し、国会で参考人にもなっている。まさに面目躍如で、やる時はやるという感じだったが、彼の力からして「やる時」が少なすぎたのではなかったか。
太田次長は静岡県支部所属で、それだけでも価値がある。彼とは最初から静岡で是非飲もうといっていたけど結局叶わなかった。彼は市民問題委員会の担当で、民事裁判のIT化の問題を次長としては一手に引き受けてくれた。また少年法改定などでは静岡から国会要請などにも参加してくれた。真面目で誠実な人柄であることは間違いないが、時々悪そうな顔をのぞかせる事があり、そこのところを掘り下げてみたかった。静岡県支部総会の後に飲んだけど、なかなかの酒豪だった。
辻田次長は、憲法、治安警察などを担当し、今度の総会で議論する死刑の決議の取りまとめをしてくれた。常に落ち着いた感じで、感情を露にするところを見たことがない。老成した感じだが、ボクが知らないだけで溌剌としたところもたくさんあるんだろう。もっと知りたかったよ。彼は毎月各メディアの世論調査を詳細にまとめてくれていて、常幹の資料でみた方も多かったと思う。その緻密なまとめぶりはなかなかで、事務所の先輩でもある田中隆団員の選挙分析などの名人芸を引きつぐとしたら彼しかいないのではないかと思っている。
そして何といっても平松事務局長。幹事長と事務局長という関係で文字通り二人三脚でやってきた。ボクはそれまでほとんど本部の活動に関わってなかったし、何より東京の事情や人物に全く疎いので、随分と助けてもらっていた。頼りない幹事長のせいで苦労も多かったのではないかと思う。彼もあまり感情の起伏をみせないで淡々と仕事をするタイプで、学術会議問題の意見書で日本のアカデミアの歴史を掘り下げた労作は彼の個性が表れていた。彼とはもっとも多くの時間を共にしたし、表に出ない様々な課題についても悩みを共有してきた。大した回数ではないが酒も一番飲んだ。彼の心の真ん中には揺るぎない信念や定見があるのは確かだが、奥ゆかしい彼はそれをなかなか見せない。結局、そうしたところに踏み込むこともできないまま退任の時を迎えることは本当に残念だ。
こうして振り返ってみると、結局みんなのことをよく知らなかったという悔いしか残っていないことに気づく。ボクたちがチームとして走り続けていくためには、きっともっと多くの時間が必要だったのだろう。