第1804号 3/11
カテゴリ:団通信
【今号の内容】
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コロナ禍に負けない!貧困と社会保障問題に取り組みたたかう団員シリーズ ㉓(継続連載企画)
●年金引き下げの取り消しを求めた裁判二審も訴え退ける 酒井 寛
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●大通り公園の街頭宣伝の報告 齋藤 耕
●一般社団法人Colaboに対するヘイトクライム 河西 拓哉
●第8回先輩に聞くシリーズに参加して 中山 貴公
●なぜ、朝鮮人虐殺事件に取り組むべきなのか。 神原 元
●「国防リアリズム元年」を読む―国防を「制憲議会」に遡って語ろう― 大久保 賢一
●「家族法制の見直しに関する中間試案」について意見書〈父母の婚姻関係に左右されない親子法の確立〉(前編) 後藤 富士子
●北アルプス 花の道を歩く(6) 中野 直樹
◆幹事長日記 ① (不定期掲載)
コロナ禍に負けない!貧困と社会保障問題に取り組みたたかう団員シリーズ ㉓(継続連載企画)
年金引き下げの取り消しを求めた裁判二審も訴え退ける
愛知支部 酒 井 寛
1 本訴訟の概要
⑴ わが国では、公的年金につき物価スライド制(物価の変動に応じて、年金の支給額を増額又は減額すること)が導入され、公的年金の支給額は前年度の物価変動を反映させるものとされていました。ところで、平成11年から平成13年にかけて物価が下落しましたが、国は、景気対策のために、特例法を制定し、物価スライドによる年金額の減額を行なわず、平成12年度、13年度及び14年度については、前年度の額に据え置くとする特例措置を実施しました。
⑵ 平成16年に公的年金制度の大幅な改正がなされましたが、この中で
「平成12年から14年度の特例措置によって年金額の減額を据え置いた分」については、「物価が上昇しても、年金額の上昇幅を物価上昇幅に比べて低く抑える」というように、物価が上昇する状況のもとで解消するものとされました。すなわち、物価の下落が続き、「物価スライド」の適用によって年金額が減額し続ける状況のもとで「特例水準」を解消することは、全く想定されていませんでした。
⑶ しかし、国は、平成24年に「国民年金法等の一部を改正する法律等の一部を改正する法律」を制定し、「平成11年から13年までの間に物価が下落したにもかかわらず年金額を据え置いたことによって法律が本来予定している水準よりも年金額が2.5%高くなっている」として、物価の増減にかかわらず、平成25年から3年間で合計2.5%、年金支給額を減額することを定めました。
⑷ 本訴訟は、このような年金減額が憲法25条、29条、及び13条に違反することなどを理由に、これを取り消す旨の裁判を求めるものです。
2 第1審判決
2021年3月25日に名古屋地方裁判所において本訴訟の判決が言い渡されました。
その概要は、①堀木訴訟最高裁判決の判断枠組みを用い、立法府の広い裁量を認めた上で、②公的年金「のみ」によって最低限度の生活を保障することが憲法上要請されているとはいえない、③本件の年金減額は、少子高齢化が進行する中での「年金財政の安定化」や将来の年金受給者たる現役世代との「世代間公平の実現」を図るためのものであること等を理由に、著しく不合理とまでは言えないことから、憲法違反には該たらないというものでした。
3 控訴提起
同年4月7日、本件訴訟について名古屋高等裁判所に控訴を提起しました。
本控訴審において、私たちは、第一審判決を踏まえ、主に以下の6点を主張してきました。
① 本件年金減額の憲法25条違反の有無を判断するにあたり、立法府の広い裁量を認める堀木訴訟最高裁判決の判断枠組みから脱却し、厳格な司法審査がなされるべきこと。
② 公的年金制度の水準は、健康で文化的な最低限度の生活を保障する程度のものでなければならないこと。
③ 平成16年改正法が「年金額を引き下げるという方法で特例水準の解消は行わない」と立法した趣旨を踏まえた上で、これを覆すほどの立法事実や合理性が認められるかをきちんと検討すべきこと。
④ 「世代間公平の実現」「年金財政の安定化」というマジックワードを無批判に受け入れるのでなく、その内実を吟味すべきこと。
⑤ 平成24年改正法の立法過程における裁量権行使の態様が、憲法の要請に従った適正なものであったのかという審査がなされるべきこと。
⑥ 新たな主張として、既に生活保護基準を下回るレベルの金額であった国民年金まで更に減額することは、平成24年改正法の適用違憲であること。
4 しかし、本判決は、堀木訴訟最高裁判決の判断枠組みを踏襲し、立法府の広い裁量を認めることを前提に本件年金減額の合憲性を判断しました。
そして、第一審判決と同様に、公的年金「のみ」によって最低限度の生活を保障することが憲法上要請されているとはいえないとして、生活保護基準を下回る年金額を更に減額することも憲法違反ではないとしました。
また、立法過程における裁量権行使の態様についても違憲審査がなされるべきとの主張については、立法機関の立法裁量と、行政機関の行政裁量を同列に論じることはできないとして、この主張を一蹴しました。
更に、平成16年改正法が「年金額を引き下げるという方法で特例水準の解消は行わない」と立法した趣旨を踏まえるべきとの主張については、第一審判決と同様に、明確な理由も示さずに、そのような趣旨とは解されないとしました。
その上で、「世代間公平の実現」「年金財政の安定化」というマジックワードを多用し、さらに「著しく合理性を欠くとまでは言えない」との文言を多用して本件年金減額を合憲と判断しました。
5 控訴審においても引き続き、毎回の口頭弁論において、年金受給者自らが意見陳述を行い、年金受給者が置かれた厳しい生活状況等を明らかにしてきましたが、裁判所は、それらの意見を直視することなく、憲法の保障する生存権の実現について、立法府の広範な裁量に委ねてしまいました。人権救済の最後の砦としての役割を放棄したに等しいと考えます。
6 現在、最高裁判所に上告するための準備を行っています(2023年3月2日現在)。
誰もが人間らしい老後を過ごすための当たり前の権利が認められるよう、これからも闘いを続けます。
大通り公園の街頭宣伝の報告
北海道支部 齋 藤 耕
3月3日、寒風吹く中、札幌大通り公園の近くで、自由法曹団北海道支部として、安保3文書に反対する街宣活動を行いました。
終了後、訴えを聞いていた方が話しかけてくれました。その方は元自衛官で、「自分たちは専守防衛の方針に守られていたが、これからの自衛官はあぶない」と私たちの訴えに共感してくれました。
「一般社団法人Colaboに対するヘイトクライム」
神奈川支部 河 西 拓 哉
私が一般社団法人Colabo(以下、『Colabo』といいます。)の弁護団の一員として関わっている関係で、Colaboが無数の誹謗中傷等により、その活動を妨害されている事件についてお話させて頂きます。
1.本件の概要について
本件は、若年女性の保護・支援活動を目的とするColaboとその代表である仁藤夢乃さん(以下、まとめて「仁藤さんら」といいます。)が、インターネット上で、ある男性から、仁藤さんらの活動は「貧困ビジネスだ」とか「会計に不正がある」などと誹謗中傷をされ、その誹謗中傷をきっかけとして、仁藤さんらが不特定多数のネットユーザーや一部の地方議員、国会議員らからの無数の誹謗中傷等の標的にされていること等により、その活動が妨害されている事案です。
2.Colaboの活動について
Colaboの主要な活動として、深夜に新宿歌舞伎町などの繁華街で様々な困難を抱える若年女性に声をかけ、当該若年女性の状況に応じて、生活相談や、食事・風呂・衣類・住居(シェルター)等の提供、居場所作り、就職の支援など、生活全般についての立て直し支援が行われています。
『様々な困難を抱える若年女性』の中には、家族から虐待を受けている等の理由により家に帰れず、繁華街をさまよっていたところを、いわゆる闇金業者やホストに声を掛けられて、違法な金利でお金を貸し付けられたり、法外な売掛金を作らされるなどして、本来返す必要のない“借金”を返すために風俗店などで働かされる若年女性―とりわけ法的知識や社会常識に乏しい中高生―が少なくありません。そのような女性をシェルター等で保護する場合、居所が知られてしまうと闇金業者等が女性を連れ戻しに来てしまうため、Colaboでは、行政関係者や親族にすら容易に利用者の個人情報を開示しないよう、個人情報の取扱いに最大限の注意が払われています。
3.Colaboへの攻撃について
Colaboへの無数の誹謗中傷は、一人の男性のインターネット上での投稿(以下、「本件投稿」といいます。)をきっかけとして始まりました。その投稿内容は、大要、【Colaboが若年女性に生活保護を不正受給させて“タコ部屋”に住まわせて搾取している】というようなものです。その後、このような認識を前提として無数のネットユーザーから様々な誹謗中傷がなされ、まるでColaboが困難を抱える若年女性を利用して、いわゆる貧困ビジネスにより不当に儲けているとか、その会計に不正があるかのようなデマが溢れ、一部の国会議員や地方自治体議員までもがそのような誹謗中傷に加担するようになりました。
しかしながら、その誹謗中傷のどれもが、およそ合理的根拠に基づくものではありません。あまりにも膨大な種類の誹謗中傷がなされているため、紙幅の都合上、今回は説明を省略させて頂きます。お時間のある方は、Colaboのホームページに弁護団作成の意見書等が掲載されていますので、ご確認下さい。なお、上記男性をColabo及び仁藤さんが訴えた裁判では、上記男性は、真実性の主張立証をすることなく、当該誹謗中傷は意見論評である旨の反論をしています。
Colaboへの攻撃は誹謗中傷にとどまらず、物理的な妨害行為にまでエスカレートしています。例えば、Colaboが若年女性保護のために利用しているバスの駐車場所が上記男性によってインターネット上で晒され、その後、2022年の10月頃何者かによって当該バスが切り付けられるという事件が起きました。2023年1月に入ってからは、ユーチューバーを自称する複数の男性による“凸”(突撃の「突」をもじったネットスラング)行為によって、毎週のようにColaboの若年女性保護活動が妨害を受けるようになりました。当該男性らが「公金チューチュー」などと叫びながらColaboに迫って来ていたことから、Colaboが公金を不正受給しているかのようなデマが、同男性らの“凸”の口実として利用されたことは明らかです。なお、同男性らのうちの一人は、金をもらって“凸”をやっている旨の発言をしております。
また、本件投稿をした男性は、Colaboの弁護団や支援者にスラップ訴訟を起こし、Colaboを擁護する発言をした人をネット上で晒すなどしており、仁藤さんらの活動への妨害はエスカレートする一方です。
4.Colaboへの誹謗中傷等の動機等について
本件投稿をした男性はTwitter上で、今回のColaboに対する誹謗中傷等を行った理由について、『温泉むすめ』を“燃やした”からである旨投稿しております。
『温泉むすめ』は日本各地の温泉街の町おこしのためのキャラクターとしてデザインされたもので、中高生の少女のような見た目のキャラクターをしており、その紹介文に、「今日こそは『夜這いがあるかも』とドキドキしてしまい、いつも寝不足気味」などと書かれていたことからフェミニストの方々を中心に女性差別的である旨の批判が多く集まりました。この時、仁藤さんも『温泉むすめ』を「性差別で性搾取」と批判しており、上記男性は、そのことをもって、仁藤さんが『温泉むすめ』を“燃やした”旨主張し、仁藤さんらへの誹謗中傷を繰り返しているのです。
現実に性搾取される未成年の女性を保護・支援してきた仁藤さんにとっては前述の『温泉むすめ』は特に許しがたいものであったはずで、仁藤さんの『温泉むすめ』に対する批判は真っ当なものですし、仮に仁藤さんと異なる意見を持っているとしても、言論に対しては言論で対抗すべきであり、仁藤さんの批判が気に入らないからといって合理的根拠のない誹謗中傷等でその活動を妨害することは許されません。しかし、Colaboへの攻撃はますますエスカレートし、もはやColaboやその周辺の人達に対しては何をしても良いかのような空気が醸成されつつあります。
5.おわりに
この事件はなかなかわかりにくい事件ですが、女性差別に抗議の声を上げたことを理由に、フェミニストを誹謗中傷や物理的な妨害行為等により、多勢に無勢で黙らせようとするもので、もはやフェミニストに対するヘイトクライムと言っても過言ではありません。重大な事件は本件のほかにも数多くありますが、本件についてもどうか関心を持って頂け れば幸いです。
第8回先輩に聞くシリーズに参加して
東京支部 中 山 貴 公
1.2023年2月27日、長野の岩下智和団員を団本部にお招きして開催された「第8回先輩に聞くシリーズ(労働学習会)」に参加させて頂きました。
岩下団員が手掛けられた丸子警報器事件についてご講話を頂きました。
事件については何となくおぼろげに名前だけは聞いたことがあるような気はしていたものの、ある意味で、自分にとっては、情報媒体の知識として何となく聞いたことがあるくらいの事件にとどまっていたものだったのに、実際に岩下団員からお話を伺うことで、知識としてしか知らなかった事件が、周辺事情や当事者の切実な声や思い等々も学ぶことができ、お蔭様で私の理解も大いなる“飛躍”ができたようで、大変に有難かったです。
また、丸子警報器事件は、同一価値労働同一賃金、広く言えば均等待遇が問題になった事件かと理解しています。ここで私は75期の新人団員でもあるので少し自己紹介を兼ねて経歴を申し上げると、司法修習に入る直前(1年ちょっと前)まで約12年間、世間にいくらでもいそうなごくありふれた普通のサラリーマンをしておりました。そのごく個人的な経験からも、日本はよくメンバーシップ型雇用だと説かれることがありますが、そのようなある種、固陋たる因習のようなものも厳然としてある中で、同一価値労働同一賃金や均等待遇をどこまで、どのように各職場で具現化・実践していくかというのは、極めて切実かつ重要なテーマのように私には思われ(それは個々の労働者にとってもそうであるし、日本の経済・社会といった大きな切り口でも切実かつ重要なテーマであるのではないかと私には思われます)、自ずと講話には深い関心が惹かれました。これは書こうか迷いましたものの、新人の繰り言として聞いていただければと思いますが、この点、私に限らずサラリーマンなりをして働いていれば誰でも、同一価値労働同一賃金や均等待遇について思いを巡らしたくなるケースには遭遇すると思います。例えば、本体から出向して来た、ぶら下がり型の社員は仕事の出来・稼働・成果が全くイマイチなのだが、その人に比べれば数段は仕事の出来・稼働・成果が優れている子会社プロパー社員がいるとして、前者の方が後者より給料・待遇が良く、前者が難なく就くポジションや難なく貰う給料には、後者はどれだけ頑張ってもまずなかなか辿り着くことができないというのは、メンバーシップ型雇用と説かれることのある我が国の職場では、そこかしこで見受け得る現象というか、正直、珍しいことでも何でもない日常茶飯事なのではないかと私は思っています。この国の労働者の待遇は「その人がどうか」ということもあるのだろうけれど、どちらかというとそれよりも「どこにいるか」によって決まる部分の方が大きいのではないかというのが私の偽らざる実感であったりもしますし、私のこの実感に共感して下さる方もそれなりに結構いらっしゃるのではないかしらとも思います。更に余計なことを重ねてしまいますが、昨今、電通・パソナの中抜き問題などが報じられたりしてもしているのも、これらも、ある種、そうした世界線と同根というか、その延長線上の世界線という要素があるのではないかという気も私にはしないでもありません(今のこじ付けにも“飛躍”があるかもしれませんが・・・)。ただ、他方で、かといってシンプルに同一価値労働同一賃金や均等待遇を法制化して法的に強制すれば事は簡単に上手く行くという程に単純で簡単な問題でもなく、経済・社会等に与える各種インパクトも慎重に勘案したりしないといけないでしょうから、本当に、この問題って難しいなと思います。済みません、長くなってしまい、また、話がどんどん拡散して行き大変恐縮に存じます。要するに、同一価値労働同一賃金や均等待遇のテーマは現代においても優れて切実かつ重要な問題であると私は考えていて、そうだから、今回の丸子警報器事件の講話には大変関心が惹かれた、ということを申し上げたかったのでした。
2.さて、上記では、周辺事情や当事者の切実な声や思い等々も学ぶことができて以前より格段にビビットに理解が進んだように思った旨を述べましたが、その具体的な話も少し触れさせて頂きます。例えば、➀会社の150名の社員のうち40名ほどいた臨時・特殊従業員のうち諸事情を考慮して個別に慎重に声を掛けた30名の皆全員が新規結成の組合に加入して町の公民館にやってきた話(そのシーンを実地で体感して感激された岩下団員の回想はとても印象に残るものでした)、②町の全人口(有権者ではなく赤ん坊から皆含めた全人口!)の過半数にも上る1万3000人もの署名が集められた話、③裁判体の構成についての話(参加された団員各位には裁判体の裁判長ら構成員が個人的な知己であられる方も複数名おられ、その方のバックグラウンド(青法協メンバーの方が構成に複数名おられたこと)や実際に話されていた所感等も多少共有してもらえてそれはとても貴重でした)、④弁護士的な感覚からみた事件の特性のようなもの(警報機の工員という面で何個製作したとかいう感じで成果が見え易いタイプのものであったこと(私がサラリーマン時代にしていたバックオフィスの事務系職種などはハッキリと成果が見えづらいので対照的かと思います)、そういう意味では労働・稼働時間の長さといった比較的定量的な指標で正規従業員・特殊従業員の格差を比較し易い面があったこと)、⑤労基法のドラフト時には同一価値労働同一賃金の条文が検討されていた話、⑥(そして何と言っても(?))大家の菅野教授への論文訂正申入れ譚(!)(私もお話を伺い、全くの事実誤認ではないかとの印象を抱きました。このケースの特殊従業員は、いわゆる130万円の壁のようなものを気にするような家計の補助的な働き方では全くなかったでしょうから。この点は全くあり得ない認識だということで岩下団員らが憤慨して訂正申入れされた事情もよく理解できるものだと私でも感じました。そして、席上の議論で、どういう経緯で、このような内容で論文が発表されてしまったかの話もされ、実際に文を書いたのは諏訪教授だったのではないか(?、真偽は不明です)といった所感や分析も大変興味深く伺いました。)このように大変にエキサイティングなご講話でした。大変勉強になりました。
3.席上で私からも気になったことがあったので質問させて頂けたのもとても有難かったです。私は新人団員ですし、これまでのサラリーマン時代の感覚で行くと、部・課長、役員らの年次や社歴の長い上席の方がズラリと居並ぶ席上で新人が発言するというのは大変に憚られますし、ある種、白眼視されるような雰囲気があります。私の発言は、必ずしも、肯定的な面ばかりでない内容を含むものでしたから尚更です。そうであるのに、寧ろ席上では、私が想定していたよりも遥かに好意的・肯定的に私の問題意識を捉えて頂けて、その上でさらに内容を深めて頂けるような闊達な議論がされておられて、その意味でも大変に有難かったです。因みに私が質問させて頂いたのは、上述の菅野論文による批判とも重なる面もあるのかもしれませんが、裁判所が会社の従業員の賃金を決めてしまうことに対する違和感のような感覚についてのものでした。私は個人的な経験としてサラリーマンをしていましたから、(ちょっと変な喩えかもしれないのですが、)会社の監査部門のような部門が会社として決めた賃金やボーナスについて「これじゃ低いからもっと上げて〇〇円にしろ!」とか言って、その通りに実際変わるようなことがあったりしたらどうだろうか?、とかいうような想像や連想を思い巡らしたりしながらご講話を聴いたりしていたものですから、何とも言われも得ぬ違和感を感じてしまったこともあり、(新人が質問するのも出過ぎたことかなと思ったのですが、)つい聞いてしまったのでした。1審判決に則れば150人中約30人の人件費につき固定費として恒久的に上げることになろうかと思うのですが、それが会社のPLや経営上にどのようなインパクトがあるかとかいった計数感覚について職業上特に専門としていないし、経営責任も負わない裁判所が、そのような意思決定をするような結果・様相を呈する事態が本当に良いものなのか率直に違和感が拭い切れない感情があり、素直にぶつけさせて頂きました。この点、席上、今村幸次郎幹事長から、本件については最終的には和解で解決している旨のご指摘や、岩下団員からも会社が潰れるような判決を裁判所は出したりしないし、労働組合としても判決を貰うのはよくなくて話し合いで決着させるべきとの問題意識を持つ向きがある方がいたりすることなどのご指摘があり、大変勉強になり、大変有り難かったです。
以上と同根の観点になりますが、(席上では述べなかったものの)席上、複数回、裁判官を“飛躍”させるというワードが出ていたのにも実は私は多少の違和感を抱いていたのでした。さっきの会社とのアナロジーで行くと、監査部門がそうしょっちゅう“飛躍”する会社が良い会社だとはどうも思えなかったし、そうだと却って困るのではないかとも思えたからです。この点は私の方の認識がまだまだ至らないのかもしれません。ただ、そのような私であっても、監査部門が決然とした態度に出て“飛躍”せざるを得ない局面が(稀にかもしれないけれど)あり得ることは理解できます。そして、本件の題材の「特殊従業員」の待遇は余りにもヒドいもので、そのような決然とした態度による“飛躍”が求められる(もしかすると珍しい)局面に相当するものだという理解をすべきだということであるならば、それもとてもよく理解できるし、その場合に弁護士の立場に当たる者が“飛躍”をさせるように全力で働きかけるべきというのもよく理解できます。最後は何を言っているのか自分でもよく分からなくなってきましたが、締めくくるべく最後は強引にまとめると、多分、監査部門が“飛躍”しなくて済む会社が良い会社なんでしょうし、裁判官が“飛躍”しなくて済むのが良い社会・良い国なのだろうということかと思います。岩下団員も席上、労組の右傾化を憂えておられましたが、今の世の中は、そのような良い社会・良い国から寧ろ遠ざかりつつある気もしなくもありません。というより、私の感覚では、それこそ自由法曹団の大先達の布施辰治先生が大切にされた「任侠」という言葉は「弱きを助け強きを挫く」であるはずが、今の世の中はもう何十年も新自由主義の風潮が蔓延り、その方向で世の中が進み続けていて、寧ろどんどん「強きを助け弱きを挫く」方向になっている気もしなくはないと私は思っています。そういう中にあって、私たちのような弁護士が裁判官の“飛躍”を促す意義というのは寧ろ現代的にも益々重要なかもしれないとも思ったのでした。若輩者が繰り言ばかりを書きました。大変失礼致しました。そして、この勉強会は大変勉強になりました。改めまして岩下団員や企画に携われた関係各位に深く御礼申し上げます。本当にどうも有難うございました。
なぜ、朝鮮人虐殺事件に取り組むべきなのか。
神奈川支部 神 原 元
1 私は、今年2023年は、自由法曹団をあげて「朝鮮人虐殺事件(1923年9月2日~)」の問題に取り組むべきだと思っています。学習会、現地調査のみならず、声明をあげ、政府に再調査を要求すべきでしょう。
では、なぜ、今、我々自由法曹団が、朝鮮人虐殺事件に取り組むべきなのでしょうか。それは、単に当該事件勃発から今年100年を迎えるから、という理由だけにとどまりません。以下、3点にわけて理由を述べたいと思います。
2 第1の理由は、この問題は日本政府が極めて長期にわたり事実を隠蔽してきた重大な権力犯罪であって、事件から100年たった今も、未だ政府による責任ある調査もなければ、被害者に対する公式の謝罪もなければ、政府に責任による追悼碑等メモリアル施設もありません。それどころか、東京都知事は朝鮮人犠牲者追悼式典への追悼文送付を取りやめ、毎年同じ場所でヘイト団体「そよ風」による歴史修正主義的言質を伴った妨害集会が繰り返される始末です。
朝鮮人虐殺事件は単なる「忘却」の段階から、「歴史修正」「歴史改竄」の段階に達しているのです。我々は、なにより、この流れに抗する必要があります。
3 では、なぜ、「自由法曹団が」取り組むべきなのか。団が取り組むべきだという第2の理由は、朝鮮人虐殺の真実を明らかにし、政府に謝罪を求める行動は、他ならぬ我が自由法曹団の未完のプロジェクトだったということです。
虐殺に関連する、自由法曹団の最初の行動は、震災直後の1923年9月20日、東京弁護士会館で震災善後対策協議の総会を開いたことです。その際、団は「震災中における朝鮮人殺害の真相およびその責任に関する件」を決定、調査を決意しています。また、10月初め「在日朝鮮同胞被虐殺者調査会」がつくられ調査を始めると、団の創設者の一人である布施辰治弁護士が顧問格で発起人になっています。
「自由法曹団物語」では、その後の団の活動として「亀戸事件」を中心に描かれています。しかし、たとえば、山田昭次「関東大震災時の朝鮮人虐殺とその後」(創史社2011年)や「風よ、鳳仙花の歌を運べ」(ころから、2021年)によれば、同年11月、団は労働組合の代表らと一緒に荒川放水路の現場で遺骨を掘り起こす作業をし、その際、朝鮮人の遺骨の引き取りを求めたようです。ところが、当時の権力側はこれを認めず、あろうことか、遺体を自ら掘り起こして運び去ってしまったのです。
この年12月、同じく団の創設者の山崎今朝弥弁護士は、「地震・流言・火事・暴徒」の一文を著して朝鮮人虐殺問題を扱い、「僕のこの憤慨は無理だろうか、嘘だろうか、間違っているだろうか」と慨嘆し「鮮人問題解決の唯一の方法は、早く個人には十分損害を払い、民族には直ちに自治なり独立なりを許し、以て誠心誠意、低頭平心、慰謝謝罪の意を表するより外はない」と結んでいます(なお、「鮮人」との表現は差別語ですが当時の文章からの引用ですのでご容赦ください)。
1924年9月、布施弁護士は書簡を発表し、この中で「私共は是非の批判よりも先ず厳粛なる事実の前にひれ伏す敬虔な誠意を以て、鮮人殺害問題の真相捜査検挙処罰の善後策にも臨まなければならない。(中略)此れは私共自由法曹団で着々鮮人殺害問題の真相調査を進めて居る所以なのである」と述べています。しかし、結局、当時の調査は官憲の妨害で頓挫したようです。
そうすると、その課題は、未完のプロジェクトとして、現代の我々団員に引き継がれなければなりません。
4 第3の理由は、朝鮮人虐殺事件は、日本人が引き起こした最大級のヘイトクライム・ジェノサイドであるところ、ヘイトクライムはまさに今日差し迫った課題として我々に突きつけられているからです。
いうまでもなく、その代表例は2021年8月に発生したウトロ放火事件です。ヘイトクライムに至るメカニズムは、関東大震災における朝鮮人虐殺事件と驚くほどよく似ています。それは平素から他民族に差別心を植え付けられた民衆が、デマやヘイトスピーチに踊らされ、犯罪に至るメカニズムです。デマとヘイトスピーチは、常にヘイトクライムの原因だったのに、日本は未だなんの手を打とうともしていないのです。
そうすると、朝鮮人虐殺事件に取り組むことは、ヘイトクライムとの闘いという、新たな、しかし現代的な問題を我々に突きつけます。具体的には、ヘイトクライムやその原因となるヘイトスピーチを規制する取り組み、最終的には人種差別そのものを禁止する法制の整備の課題です。朝鮮人虐殺事件に取り組むとは、同じようなヘイトクライム、ジェノサイドを繰り返さないこと、すなわち、現代の人種差別と闘い、それを規制する法整備に取り組む闘いでなければならないのです。
それこそが、自由法曹団の現代的課題でなければなりません。
「国防リアリズム元年」を読む―国防を「制憲議会」に遡って語ろう
埼玉支部 大 久 保 賢 一
はじめに
毎日新聞の特別編集委員山田孝男氏が「国防リアリズム元年」というコラムを書いている(1月23日付「風知草」)。この人は独自核武装を提唱するほどの核兵器依存論者である。そう見做す根拠は、彼は、昨年11月7日付「風知草」で、北朝鮮が、日米間の連携を崩すため、韓国や日本に限定的に核攻撃を仕掛けるかもしれない。「日本国民は大きな犠牲を払ってまで韓国を守ろうとはしない」と見透かした北朝鮮が「どうせ脅し」とタカをくくる日本人の意表を突き、行動に出るかもしれない。その奇襲に「米国の核の傘」に依存しないで「通常戦力の不備」を補充しながら備えよ、などと書いていたからである。
私は、この「米国の核の傘」に依存しない「非通常戦力」の準備とは、日本独自の核武装の提案と受け止めている。政府が「防衛三文書」を閣議決定する前に設置していた「国力としての防衛力を総合的に考える有識者会議」には、「読売」、「日経」と「朝日」のメンバーが加わって、日本の軍事化を進めようとしていたけれど、「毎日」にもこういう手合いがいることを覚えておいて欲しい。
そういう彼が、日本共産党引き合いにして、国防の在り方を説いている。
防衛論争の変化
山田氏は、ウクライナの戦火と台湾海峡の緊迫は日本人の意識を変えつつある。日本の防衛論争はようやく、憲法解釈から「現実の脅威にどう備えるか」という具体論に移り始めた。共産党をめぐる逸話も時代の一部だ、としている。ここで、共産党をめぐる逸話というのは、日本共産党政策委員会の安保外交部長だった現役党員が、党の日米安保条約廃棄・自衛隊解消路線を否定する著書(『シン・日本共産党宣言』・文春新書)を発行したことを意味している。彼は、共産党員が「具体論」を語り始めたことを歓迎しているのである。
彼は、著者の主張を「アメリカの核抑止力を頼らず、通常兵器による抑止に努め、日米安保条約を堅持せよ」と整理したうえで、非武装中立論よりはリアルだが、非現実的であることには変わりがないとしている。非現実的である理由は「核抑止論は全く無意味」という、日米の防衛実務者が同意するはずもない極論が前提だからだという。彼は、防衛実務者という「軍関係者」の基準で著者を批判しているのである。けれども、次の主張には同意できるとしている。
同意できるポイント
同意できる主張は、①米国が、自国への報復を顧みず、核兵器で反撃する可能性は低い。②米国の核抑止に漫然と依存していては、いざというときに対応できない。③通常兵器による侵略者の排除は当然であるという三点である。独自核武装論者である山田氏が現役共産党員の主張に、部分的とはいえ、同意していることにはいささか違和感を覚えるけれど、両者がいずれかの国から日本に対する侵略がありうること、米国の「核の傘」に不信があること、侵略があれば武力による抵抗を行うということでは共通していることに注目すれば、その違和感は解消されることになる。
核兵器に依存するかどうかという点では、大きな違いがあるけれど、侵略がありうることと武力での自衛ということでは違いはないのである。両者とも「平和を望むなら戦争に備えよ」ということでは共通しているのである。
核兵器依存
山田氏は、更に、その備えの中には核兵器も含ませている。彼は、岸田首相が外相だった2017年6月6日、安倍晋三首相(当時)と国家安全保障局幹部に、核兵器禁止条約会議へのオブザーバー参加を提案したが、反対されて断念したとの取材結果を紹介している。その反対の理由は、核兵器禁止条約が核抑止論を否定しているからである。
確かに、日本政府は、核兵器禁止条約を議論する場所にはいなかった。それだけではなく、核兵器禁止条約を敵視していることは周知のことである。核兵器禁止条約は、米国の「核の傘」を否定しているので、日本国民の命と財産を守れないという理由である。岸田首相は、「核なき世界」の実現はライフワークとは言うけれど、結局は、その路線を継承しているのである。山田氏は、日本政府の核政策を紹介はするけれど、それを批判することはしない。山田氏も核兵器依存論者だからである。そこでは現役党員の意見と違うのである。
日本国憲法制定時の共産党の反対
山田氏は、1946年(昭和21年)の国会で、共産党が「戦争一般の放棄は民族の独立を危うくする」との理由で9条に反対したことを紹介しながら、時代の激動期には安保論議が白熱する。世界の現実を見据えた具体的な論戦が求められているとしている。共産党員も「具体的に語っているじゃないか」というのである。
ここでは、「台湾有事は日本有事」という言説の欺瞞性は問われていない。北朝鮮の「挑発」は朝鮮戦争が終結していないことに原因があることにも触れられてない。ロシアがウクライナに武力行使を仕掛けている原因を分析しないままに、日本にも同様の仕掛けをしてくるかのように語られている。世界の現実を見ろと言いながら、三国の危険性を針小棒大に語り、米国の中国敵視政策の転換や日米に都合のいい国際秩序の維持という中国との「覇権争い」についてはスルーするのである。日本を取り巻く安全保障環境についての歪んだ説明が垂れ流されている。
制憲議会での政府のスタンス
ところで、山田氏は、制憲議会における共産党の態度は紹介しているけれど、その際の政府の態度については何も触れていない。
当時の政府は、一度び戦争が起これば人道は無視され、個人の尊厳と基本的人権は蹂躙され、文明は抹殺されてしまう。原子爆弾の出現は、戦争の可能性を拡大するか、または逆に戦争の原因を収束せしめるかの重大な段階に達したのであるが、識者は、まず文明が戦争を抹殺しなければ、やがて戦争が文明を真剣に憂へているのである。ここに、本章(2章・9条)の有する重大な積極的意義を知るのである、としていたのである(『新憲法の解説』・1946年11月)。
ここで識者とは幣原喜重郎である。彼は、制憲議会において「原子爆弾というものが発見されただけでも、或戦争論者に対して、余程再考を促すことになっている。日本は今や、徹底的な平和運動の先頭に立って、此の一つの大きな旗を担いで進んで行くものである。即ち戦争を放棄するということになると、一切の軍備は不要になる。軍備が不要になれば、我々が従来軍備のために費やしていた費用はこれもまた当然に不要になる」と政府を代表して答弁していたのである(『復刻版帝国憲法改正審議録』・新日本法規出版)。
あわせて紹介しておくと、当時の吉田茂首相は、共産党の野坂参三の「戦争の全面的放棄ではなく、侵略戦争の放棄でいいではないか」という質問に、「正当防衛権による戦争は正当なりとせらるるようであるが、私はかくの如きことを認めることは有害であると思う。…正当防衛権を認めることは戦争を誘発するゆえんであると思う」と答弁したと回想している(『回想十年』・毎日ワンズ)。
まとめ
当時の状況を紹介するのであれば、共産党の態度だけではなく、政府の姿勢を紹介することも必要であろう。日本国憲法の下での国会審議は通算211回目になる。必要なことは、共産党のあれこれを我田引水するのではなく、現実を冷静に見ることと、核兵器という「悪魔の兵器」と手を切る方法を考えることである。
「安全保障環境を考えれば、防衛力の強化は必要だ」ということが当然の前提とされ、問題は財源であるかのような言説が溢れている。確かに、財源をどうするかも論点ではある。けれども、財源があれば、核抑止力を含む防衛力を強化することが必要なのであろうか。
私は、そうは思わない。武力による「国防」の確保は、文明を抹殺することになるからである。そのことは、七十数年前の国会で議論され、憲法規範とされているのである。既に、私たちは、その地平まで到達していたのである。その橋頭堡(橋を守るため築く堡塁)を維持し、さらに世界に広げなければならない。それは、当時の政府の理想であったことを想起しておきたい。そして、核兵器依存論者の妄言に踊らされてはならない。核兵器依存論者に利活用されてもならない。そのことも肝に銘じておきたい。(2023年1月23日記)
「家族法制の見直しに関する中間試案」について意見書
〈父母の婚姻関係に左右されない親子法の確立〉(前編)
東京支部 後 藤 富 士 子
まえがき―意見書の提出にあたって
「家族法制の見直し」について、改正の柱として考えるべきことは、第一に、父母の婚姻関係に左右されない親子法の確立であり、第二に、「国親」思想(パターナリズム)を清算して個人をエンパワーする司法に改革することである。
たとえば、民法766条について、「親権の効力としての面会交流」と「子の親に対する扶養請求権」に分割したうえ、いずれも親子法に規定するという風にならざるを得ないと思われる。また、民法768条財産分与に関しても、いわゆる清算的財産分与であるなら、子の経済的自立に必要な高等教育費用相当額ないし割合を、配偶者である権利者に分与しないで義務者である親に留保させることも必要である。さらに、婚姻費用や養育費について、二世帯になって相対的に貧困化することに照らし、経済的弱者の自立を視野にいれながら、児童手当などの公的給付や税控除などの経済的メリットを含めて父母間の負担の公平化を図るべきであろう。
すなわち、夫婦間の問題についても、父母の子に対する養育責任の見地から見直し、子の福祉を最大化する法制度に改めるべきである。そうすると、現行法の編成自体を大きく改変することになるので、「家族法制の見直しに関する中間試案」について「どの項目に対する意見か」を特定することは困難である。そこで、まず本意見書の射程を絞り、第4(親以外の第三者による子の監護及び交流に関する規律の新設)、第6(養子制度に関する規律の見直し)および第8(その他所要の措置)は射程外とする。
そのうえで、「中間試案」についての「対案型意見」ではなく、あるべき法改正についての「提言型意見」として述べるものとする。
第1 法改正の2つの柱
1 父母の婚姻関係に左右されない親子法の確立
2 「国親」思想(パターナリズム)を清算し、個人をエンパワーする司法
第2 具体的法改正案(骨子)
1 民法第818条3項の「父母が婚姻中は」を削除し、民法第819条を削除する。
2 民法第766条を削除する。
3 民法第820条の2として、監護ないし面会交流の規定を新設する。
その際、親権喪失事由(第834条)や親権停止事由(第834条の2)との整合性が失われないようにする。
4 「養育費」は、民法第4編第7章の扶養に一本化する。
5 民法第768条3項の財産分与の額および方法について、子の経済的自立に必要な高等教育費用相当額ないし割合を、配偶者である権利者に分与しないで義務者である親に留保させることを考慮事項として明示する。
6 婚姻費用や養育費について、子の将来の人生を保障することを優先して、経済的弱者である妻ないし母の生活費として費消されないようにする。そのためには、司法において、私的扶養優先原則を改める必要がある。そして、公助を父母の養育責任の中に取り込んだうえで、負担の公平化を図る。
第3 提案理由
1 家父長的「家」制度の廃止とその限界
日本国憲法第24条に基づき、戦前の家父長的「家」制度は廃止された。しかるに、それが民法改正に反映されたのは極めて限定的であった。法律婚の制度内においてすら男女不平等があるのだから、法律婚の枠内にとどまる形式的男女平等の域を出ることはなかったのである。
法律婚の制度内における男女不平等の例としては、婚姻適齢の男女差、女性だけに課される再婚禁止期間、男性だけに認められる嫡出否認権などがあり、前二者について近年漸く法改正がされた。一方、法律婚の枠内にとどまる形式的男女平等の典型例を2つ挙げるとすれば、民法第750条の「夫婦同氏」原則と民法第818条3項の「父母の共同親権」である。
ところで、日本国憲法第24条2項は、立法の指針として、「個人の尊厳」と「両性の本質的平等」という2つの理念を掲げている。これに照らせば、現行民法は、この憲法的価値観を体現しているとは言い難い。とりわけ「個人の尊厳」についてみれば、全く顧慮されていないと言うほかない。「夫婦同氏」の強制、事実婚差別(婚外子)、離婚・未婚の絶対的単独親権制、離婚を親権喪失事由とする司法の運用等々は、男女差別では説明がつかない。いずれも「個人の尊厳」が等閑視され、「国親」思想による独善的・欺瞞的パターナリズムに司法が毒されている結果としてのみ説明が可能になる。「国親」思想は、構造的に作られる「弱者」(=女、子ども)を国家が保護するのであるが、裁判所が具体的に福祉政策をもっているわけではないこともあって、専ら「強者」である男に負荷することで「解決」とされるのである。また、国家(立法・行政)も、「弱者」が権利主体として自立することを妨げながら、政策による救済の対象を序列化するだけである。
このような、現行法にみられる戦前の「家族法制」の残滓を、どのような理念に基づいて克服していくのかが問われているのであり、「家族法制の見直し」は、実に必然的でタイムリーなものとして立ち現れている。
2 「共同親権」の由来と「共同養育」の普遍性
家父長的「家」制度の下にあった民法の旧規定では単独親権制を採用しており、しかも親権者について第一次的に「家ニ在ル父」、第二次的に「家ニ在ル母」とされていた(旧第877条)。
しかるに、日本国憲法第24条1項は「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。」と定めた。ここで注意すべきは、「夫婦の同等の権利」という概念が、立法上の原則を定めた同条2項の「両性の本質的平等」とは異なる点である。すなわち、夫婦間の「平等」よりむしろ、その前提にあるはずの、夫婦が相互にもつ同等の「権利」を憲法第24条1項は定めていることに注目する必要がある(辻村みよ子『憲法と家族』123頁)。そうすると、現行民法第818条3項が親権者について父母の共同親権の原則を規定しているのは、憲法第24条1項の「夫婦の同等の権利」に基づくものと解される。換言すれば、「共同親権」は、憲法第24条1項に由来するものであるが、その反面として、法律婚の中でしか通用しないものであった。未婚や離婚の場合、絶対的に単独親権が強制されたのは、そのためである。
ところで、現行法の絶対的単独親権制は、子どもの視点が完全に欠落している。父母の都合で離婚したり未婚であるなどの事情により、父母双方が実在しているのにもかかわらず、父母の共同親権の恩恵を享受できない。子どもにとって、「片親家庭」が強いられる。これは、子どもからすれば憲法第14条で禁止される不合理な差別にほかならない。そのことは、結局、子どもの法的主体性(換言すれば「個人の尊厳」)を無視すればこそ平然となしうる法制であろう。
ちなみに、「女性差別撤廃条約」第5条(b)は「あらゆる場合において、子の利益は最初に考慮する」と規定し、第16条1項(d)でも、父母が婚姻しているか否かにかかわらず、父母が負う法的責任は同一・平等とされ、父母の法的責任の決定にあたっては子どもの利益が至上のものとして考慮されなければならないとされている。また、「子どもの権利条約」第18条1項でも、子どもの発達・養育に対しては、親双方が共同の責任を有するとされ、「子どもの最善の利益」の原則が提起されている。すなわち、子どもを主体として父母による「共同養育」が国際人権法のスタンダードになっているのであり、現在では普遍的な原理となっている。
1989年11月20日に国連総会第44会期において全会一致で採択された「子どもの権利条約」は、日本では1994年に批准されている。にもかかわらず、30年近く経過しようとしている現在においても、絶対的単独親権制を廃止しようとしない。日本のこのような異常な停滞は、法律家の「在り様」に潜む深刻な欠陥に起因する疑いが大きい。たとえば、裁判所は、「DV事案」といえば、一律に母の単独親権にしたり、父子の面会交流を禁止したりして、全く臆するところがない。それは、もはや個別事件の解決という司法の機能を喪失して、行政取締法規の適用に堕している如きである。(次号に続く)
北アルプス 花の道を歩く(6)
神奈川支部 中 野 直 樹
見ても茫洋、登っても茫洋
あたりは灰白い砂地となった。花崗岩が砂礫化したものである。真砂岳の西斜面をトラバースした。
水晶岳から眺める野口五郎岳は茫洋として、特徴がない、というか威張っていない。歩いていても威嚇する厳しいところがなく、やはり茫洋している。16時30分過ぎに、平らなところに出た。その南の端に、野口五郎岳(2924米)と記した標識が立っていた。この標識がないとどこが山頂かもはっきりしない。どこまでも茫洋としている。
山岳用語に「二重山稜」という単語がある。通常、稜線は1本のものだが、これが2つに分かれて2重になっている地形を指す。稜線の間が窪地になっていることから「舟窪」とも呼ばれている。この形成原因は、断層により山の一部がずり落ちたとの説が有力である。二重山稜がある山岳として野口五郎岳が挙げられているが、山頂から眺めてもどこが2重なのか、わからなかった。野口五郎岳からは、お前は茫洋というが、節穴の目ではないか、と言われそうだ。
しかし、ここが提供してくれる展望は申し分なかった。今日歩いてきた水晶岳からの稜線、三俣蓮華岳の奥に頭を出す笠ケ岳、鷲羽岳、そして槍ヶ岳、穂高岳、乗鞍岳、北アルプス南部の百名山の雄峰が一望のなかに納まった。
一人藤田さんは物見遊山の気分に浸れない。満身創痍となった靴をどう治療するか。真剣に思案しながら小屋に向かった。
野口五郎小屋の話題
17時、野口五郎小屋に到着。今日は11時間の行動となった。歩く楽しみ(5割)、展望・観察の楽しみ(3割)は100%充足。小屋の主から今年一番の好天気だったと言われて、満足度がさらに加点された。そして缶ビールを仕込んで乾杯する楽しみ(5分)もすぐ実現。残りの、事故・怪我なく、気持ち良い旅ができたか(1割5分)については、藤田靴がやや足を引っ張ることとなった。
藤田さんが小屋のスタッフに靴の状態を見せて相談をしたことから、泊り客の話題となった。誰がみても深刻な状態であり、わが身のこととして何かをしてあげたいという善意が満ちた。藤田さんは小屋からペンチと針金の提供を受けることができた。さらに、16人のツアーのガイドをしている男性から携帯している作業用結束バンド2本、接着材を提供された。このガイド氏の話では、ツアー客のなかに靴がこのような悲惨な状態になることがあるらしく、結束バンドが一番丈夫だとの説明だった。それから夕食までの間そして夕食後も、藤田さんは玄関脇の自炊室にこもり、靴の治療に専念していた。
富士山
私はこの年1月から12月まで、地元の丹沢山系の東端の大山から始めて、西進し、山中湖の三国山ハイキングコースまで都合10回の日帰り登山を行った。そのすべての道中から、いろんな視点と季節の富士山を眺めることが楽しみだった。
日本アルプスに登っているときにも、富士山が見えると誰もが歓声をあげる。私たちもそうだ。
夜のうちに配られたおにぎり2個、お茶、お新香の朝食を食べ、朝6時出発のために小屋外にでた。雲海の中に山島々が浮かんでいた。その奥に逆さお鉢のような富士山シルエットが見えた。手前の右間近にある島は何だろうか。どうも燕岳と有明山のようだ。有明山は、中国残留孤児を描いた山崎豊子氏著「大地の子」で「信濃富士」として登場する安曇野で親しまれている名山だ。
治療を終えた藤田靴は、甲の部分と前部ソールを鉄の針金で2か所巻き、それの2か所を連結している。上からみると「エ」の字のようになっている。残った細引きで、ヒール部分のソールからハイカットの付け根部分を何重にも巻き付けて縛ってある。接着剤によるくっつきは不十分だったようだが一応頑丈そうに見える。健闘を祈って、裏銀座縦走コースに歩み出した。
ライチョウの親子
左手、西側は、東沢谷をはさんで水晶岳から赤牛岳に長大な尾根稜線がのび、その奥に薬師岳のカール状の東面が朝日を受けて美しい。あれ、ハイマツの中に点在する一段高い白い石の上にライチョウがとまっていた。その付近に目をこらすと雛3~4羽がハイマツと草の中をちょろちょろと動いている。母ライチョウが目立つように石の上に立って、見守っているのだ。ライチョウは猛禽類から雛を守るために、霧がわいて視界が悪くなったときにハイマツの中から出てきて食餌行動をすると言われている。今は晴れ上がり視界良好なのに出てきているのは、猛禽類が乗る上昇気流の発生しない早朝の安心があるからであろうか。
母ライチョウは、私たちの動きにも気を配りながら、子どもたちの見守りをしていた。その様子をカメラ撮影したり、動画に撮ったりした。
砂礫地の花々
タカネツメクサ(高嶺爪草)、ハクサンイチゲ、チングルマ、ツガザクラ(栂桜)の白花、ミヤマキンバイ(深山金梅)の黄色、イワカガミの紅色が夏の日差しを浴びている。これらの花は、砂礫地に塊となり、あるいは、草地の中に群落をつくっている。要するに集団生活をしている。
野口五郎から三ツ岳への稜線は、高山植物の女王、コマクサの群生地が続く。群生地といっても、コマクサは孤高の花ともいわれるとおり、群れない。ザレた地にぽつんぽつんと、パセリに似た形状の葉が生えそこからすっと茎が伸びて10センチほど先端に1個ないし数個の花が咲く。紅ないし桃色の4片の花弁は馬の顔に似ていることから「駒草」と命名された。
このコマクサは、他の植物との競争に弱く、コマクサしか生えない栄養の乏しい地に生きる道を選んだ。コマクサの葉は空気中の水分を結露させて根元に送る工夫をこらし、その根は栄養分を探して2~3メートルになるそうだ。過酷な環境で生きることは自ら選択したことであるが、加えてコマクサはケシ科で毒をもつことから、麻酔などの薬草として、乱獲された受難の時代があった。
朝露を光らせたコマクサの、美しく、かよわい姿の道も終わりとなり、9時20分、烏帽子小屋に到着。10時腰を上げて、ブナ立尾根の急坂を下り、13時、高瀬ダムに着いた。(おわり)
幹事長日記 ① (不定期掲載)
今 村 幸 次 郎
1 二度目の幹事長となってから4か月余りが経ちました。コロナやウクライナ侵略によって全世界に「地殻変動」が起きているといわれる激動の時期であったこともあり、本当にあっという間の4か月であったと思います。
2(1)団常幹では、岩田団長の発案による「ゲストスピーカー報告」を取り入れたことにより、全国各地の貴重な活動成果や若手団員の溌剌たる活躍の数々に光があたりました。オンライン併用会議における「ブレイクアウトルーム」も斬新かつ楽しいもので、団長の改革により、常幹や団活動そのものの活性化につながっているのではないかと思います。
(2)かつて次長時代に「孫悟空のような活躍」と称された平井事務局長の行動力は健在で、精力的な仕事ぶりにいつも助けられています。
(3)6人の次長(4月からは福島の鈴木さんが加わって7人)は、多士済々で、新しい発想や工夫に
すごく刺激を受けています。それぞれ非常に積極的かつ意欲的に取り組んでくれており、この新体制になって、各分野で発出した声明や意見書は、すでに15本となりました。それだけ課題が多いということかもしれませんが、月平均3本以上というハイペースです。
(4)専従の皆さんにも、オンライン会議やブレイクアウトルームなどのIT化対応や団通信のPDF化等々、いろいろとご苦労をおかけしていますが、着実にこなしてもらっており、とてもありがたいです。
3 目下の課題は、何と言っても、敵基地攻撃能力の保有をはじめとする大軍拡の阻止です。平和憲法を無視ないし破壊して相手領域を直接攻撃する兵器を常備し、アメリカ軍と一緒になってリアルの戦争を行うようにする、その結果南西地域をはじめとする日本全土が戦場となり焦土化する可能性を著しく高めるという信じがたい暴挙ですが、その危険性や事の重大性が今一つ国民の皆さんに伝わっていないように感じます。
今、執行部として、そのことを広くわかりやすく伝える工夫の一つとして、プロのデザイナーに依頼してイメージキャラクターを制作し、ネット上の動画を活用しての宣伝を企画しています。近く、キャラクターの選定方法や成果物公開のスケジュール等をお知らせできると思いますので、乞うご期待です(坂本基金を活用した第1号プロジェクト)。
4 去る2月25日、革新懇の小田川さんからお声かけがあったので、東京・渋谷で行われた「反戦行進0225/NO WAR MARCH」に行ってきました。この手の行動には珍しく、アパレルや音楽関係者などが実行委員会となって企画したもので、若者、女性、子ども連れ、外国人の姿が目立ちました。サウンドカーを筆頭に約1000人が渋谷の街を歩きましたが、沿道からも、手を振ったり、「戦争反対」「NO WAR」などのレスポンスに唱和するといった反応が見られました。少しずつではありますが、雰囲気が変わってきているのかもしれません
5 ここ数年、ブッダに関する本をよく読んでいます。中村元「ブッダ入門」(春秋社)の「最後の旅」の章(原典は大パリニッパーナ経)にこういうくだりがあります。
ブッダが、当時の強国(マガタ国)の大臣から、「マガタ国王は隣国のヴァッジ族を征伐しようと考えていますが、どう思われますか」と聞かれた時の話です。
ブッダは、それに対して、ヴァッジ族は、①すでに決められたことを破らず、法に従って行動している、②しばしば会議を開き、会議には大勢の人が集まっている、③共同してヴァッジ人としてなすべきことをしているなどヴァッジ族の特質7点をあげ、「ヴァッジ人がこの7つを守っている限り、彼らは繫栄し、衰えることはない」と述べました。
これを聞いた大臣は、「これらのうちの一つを具えているだけでも、ヴァッジ人に手をつけることはできません。いわんやすべてを具えているなら、なおさらです」と言って去っていったとのことです。
ここには、国の安全保障に関する重要な教訓が含まれています。①すでに決められたことを守り、②衆議を尽くし、③共同してやるべきことをやっている国に対しては、どんな強国であっても攻め込んで行くことはできないということです。
私たちには日本国憲法というすでに決められた素晴らしいルールがあります。ここに定められた「平和主義」「国民主権」「人権尊重」を堅固に守ることこそが、国の安全保障(どんな強国であっても攻め込むことはできない)につながるのだと思います。
6 今日本は「失われた30年」などと停滞ないし衰退していると言われています。それは、とりもなおさず、すでに決められていることを守らず、「ウソ」と「ごまかし」と「強行」の政治が続いているからではないでしょうか。続く(不定期)。