第1816号 7/11

カテゴリ:団通信

【今号の内容】

●関西建設アスベスト大阪2陣・3陣地裁判決報告  馬越 俊佑

●トランスジェンダーとスポーツ(後編)  渥美 玲子

●~書評~ 感動した本の紹介
泉康子著『天災か 人災か? 松本雪崩裁判の真実』
(言視舎,2023,3刊)長野県支部中島嘉尚団員の偉業  石川 元也

●静岡県支部 定時支部総会開催のご報告  小笠原 里夏

●団長日記 ② 
「元気をもらった静岡県支部総会」 岩田 研二郎

●花トレッキング―佐渡島(前編) 中野 直樹

●~朝鮮人虐殺問題学習会の告知「関東大震災100年・朝鮮人虐殺問題を考える」学習会と
フィールドワークのご案内  永田 亮

●構造改革プロジェクトチーム学習会企画のお知らせ 中川 勝之


 

関西建設アスベスト大阪2陣・3陣 地裁判決報告

大阪支部  馬 越 俊 佑

第1 はじめに(判決の概要) 
 令和5年6月30日に、関西建設アスベスト大阪2陣・3陣訴訟の大阪地裁判決(石丸将利裁判長)がありましたので、報告いたします。
 同判決は、被害者73名中64名(原告数129名中104名)について被告建材メーカーの責任を認め、過去最多である被告建材メーカー12社(エーアンドエーマテリアル、ニチアス、ノザワ、エム・エム・ケイ、日鉄ケミカル&マテリアル、太平洋セメント、大建工業、日東紡績、パナソニック、神島化学、日本インシュレーション、積水化学)に対して、総額9憶4297万7827円(遅延損害金別)の支払いを命じる原告勝訴判決を言い渡しました。
 令和3年5月17日に出された最高裁判決は、建材メーカーらの警告表示義務違反や市場シェアを基にした確率計算を用いて原因企業を特定する立証手法の合理性、さらに、特定された建材メーカーらの共同不法行為責任(民法719条1項後段類推適用)を認める画期的な判断をしたものの、責任期間の始期、シェア何%を採用すべきか、各被害者ごとに責任を負う建材メーカーらの集団的寄与度(責任割合)、基準慰謝料額等については統一的判断を示しませんでした。また、最高裁は、解体業従事者に対する建材メーカーの責任を否定し、さらに、京都1陣訴訟大阪高裁判決、大阪1陣訴訟大阪高裁判決では認められていた屋外作業従事者について建材メーカーの責任を否定しました。そのため、多くの課題が残され、現在も各地で訴訟が継続しています。
 本判決は、最高裁判決後の下級審判決としては、北海道2陣訴訟地裁判決、北海道1陣訴訟高裁判決、京都2陣訴訟地裁判決、神奈川1陣差戻審高裁判決に次ぐ、5つ目の判決となります。
第2 前進した点
 本判決は、初めてパナソニックと日本インシュレーションの責任を認め、過去最多の建材メーカー12社の責任を認めました。
 また、責任期間の始期については、他の判決で昭和50年とする判断が散見される中、吹付作業従事者との関係では昭和46年4月1日、屋内作業従事者との関係では昭和49年1月1日とした点は、医学的知見の確立状況などに基づき救済範囲を広げたものであり、これまでの判決を前進させています。大阪2陣原告には、昭和50年で就労が終わっている原告がおり、国との関係では救済されませんでしたが、本判決が責任期間の始期を遡らせて認定したことにより、救済対象とされました。
 さらに、本判決は、アスベスト被害の深刻さ等を正面から受け止め、基準慰謝料額を死亡の場合は2950万円とし、上記の責任割合も平均で50%越えるなど高く認定しました。これまでの下級審では、基準慰謝料2600万前後、集団的寄与度30数%とする判決が多かったことに鑑みると大幅に前進させています。石丸裁判長は、判決要旨の読み上げに際して、マスクを外して、原告ら、被告らの顔を見ながら、深刻なアスベスト被害についても丁寧に言及しました。また、判決文においても、詳細に被害の実相を認定しており、裁判官が被害者らの被害を正面から受け止めた結果が、基準慰謝料額の大幅な増額等に結び付いたと言えます。
第3 克服すべき課題
 しかしながら、本判決には今後克服すべき課題もあります。
 まず、外装材を取り扱う職種について、「特段の事情」としての例外は認めたものの、結論として被害者3名との間で建材メーカーの責任を否定しました。屋外作業も屋内作業と同様に大量の粉じんにばく露していたこと、そして、このことは建材メーカーも良く知っていたこと等を、これまでも具体的かつ詳細に主張立証してきましたが、今後もこの点でのさらなる立証活動が求められています。
 また、解体作業従事者3名についても、最高裁判決をそのまま踏襲し、建材メーカーの責任を否定しました。建材メーカーが、自社が製造する建材に石綿が含有している事実や石綿関連疾患罹患の危険性等を様々な方法で解体作業従事者に伝達することは十分可能であって、何よりそのような対策を一切怠っていた建材メーカーらの責任を否定することは、大きな問題です。
 さらに、3名について原因建材・企業の特定が立証されていないとして建材メーカーの責任を否定しましたが、この点の克服も今後の課題です。
 裁判所には、何よりも、被害者らは、いずれも30年、40年前から多くの建設現場で働くなかで多種多様な石綿建材からの粉じんにばく露したという事実や、被告建材メーカーらの多くが自らの石綿建材の製造販売量や石綿使用量を隠し続けているという本件の特質、特徴を踏まえた公平、公正な判断が求められています。
第4 さいごに
 本訴訟では、平成28年の提訴後、約7年が経過し、被害者73名のうち、すでに49名が亡くなっています。このうち、提訴後に亡くなった被害者は21名にも及び、原告らの「命あるうちの救済を」の願いは切実です。
 本判決は、上記のとおり、前進はありつつも、まだまだ残された課題があります。私たちは、責任が認められなかった被害者9名の救済と共に、建設アスベスト訴訟の早期全面解決へ向けて、これからも全力で取り組んでまいりますので、皆様におかれましては今後ともご支援、ご協力のほど、よろしくお願いします。

 

トランスジェンダーとスポーツ(後編)                                             

愛知支部  渥 美 玲 子

1、国際陸上競技連盟(世界陸連)の決定 
 2023年3月23日、世界陸連のセバスチャン・コー会長は、トランスジェンダーの女性が国際大会で女子カテゴリーに出場するのを禁止した。
 そして、「男性として思春期を過ごしたトランスジェンダーの選手について、3月31日以降は女子の世界ランキング大会への出場を認めない」と発言した。
 但し、世界陸連は、今後1年間、ワーキンググループを設置し、トランスジェンダー選手の出場指針に関してさらに検討する予定で、コー会長は「永遠にだめだと言っているわけではない」と説明。今回の決定は、「女子カテゴリーを守るという包括的な原則に基づくもの」と述べた。
 これまでの規則では、トランス女性は、競技前の1年間、血中のテストステロン(男性ホルモン)を1リットル当たり最大5ナノモルに抑えれば、女子カテゴリーに出場できたが、これを大きく変更させることになった。
 コー会長は、「異なる集団間でニーズや権利が対立する場合、決断は常に困難だ。だが、何よりも女性アスリートの公平性の維持が必要だという見解は変わらない」、「身体的パフォーマンスや男性がどのように有利なのかについて、科学は今後数年間で必ず発展し、私たちの指針となるだろう。証拠が増えれば、私たちは方針を見直す。だが、最も重要なのは陸上競技における女子カテゴリーの公正だ」とした。
 この決定により、次回のオリンピック・パラリンピックの陸上競技の参加基準に変更があると思われる。
2、その他のスポーツ競技状況
 国際水泳連盟(FINA)は、世界陸上連盟に先駆けて、2022年6月19日、世界選手権大会が開催されているハンガリー・ブタペストにおいて臨時総会を開き、新方針を決定した。その内容は、トランス女性選手が男性の思春期をわずかでも経験していた場合、女子のハイレベル競技会への出場を認めないこと、それらの選手はテストステロンを減らす薬物療法を受けても、「生物学的女性よりも相対的にパフォーマンス面で有利」だとした。また、性自認が出生時の性別と異なる選手のため、競技会で「オープン」というカテゴリーの設置を目指すことも決めた。この新しい方針は、FINAのメンバー152人の71%の賛成で可決された。
 国際ラグビーリーグ(IRL)は、2022年6月21日、トランスジェンダー選手の女子国際試合出場を禁止すると発表した。多様な選手の受け入れに関する調査・研究を進める間の措置だとしている。
 イギリスのラグビーフットボールリーグとラグビーフットボールユニオンは、女性だけが出場する試合へのトランス女性の出場を禁止した。
 国際自転車競技連合(UCI)は2022年6月16日、トランスジェンダー選手の資格基準を厳格化し、トランス女性が女子のレースに参戦するための資格獲得期間を2倍に延ばした。この決定は、最新の科学知識からの情報を基にしたものであるとしている。 
 UCIは、「サイクリングのパフォーマンスにおいて、筋肉の強さとパワーが重要な役割を担っていることを踏まえ、UCIはテストステロン値を下げるための移行期間を12か月から24か月に延長することを決定した」と説明した。
 具体的には、これまでの規則ではテストステロン値を12か月間で1リットル当たり5ナノモル以下にすることになっていたが、今後は24か月間で1リットル当たり2.5ナノモルまで下げる必要があるとした。
 しかしながら、自転車競技では、このように参加資格が厳格化されたものの参加自体の禁止はなかったので、今年も多くのトランス女性が優勝した。
 たとえば、2023年4月30日、アメリカのニューメキシコで開催された自転車競技「ツール・ド・ジラ」において、トランス女性のオースティン・キリップスが優勝した。
 彼女は2019年から自転車競技を始めたが、今回のツール・ド・ジラのロードレースの優勝賞金は男女同額で、なんと3万5000ドル(約470万円)だったので、「こうなってくると賞金目当てで参加してくるサイクリストも出てくるかもしれない。トランスジェンダーの枠も設けるなど対策をしたほうが良いのかもしれない」という意見もでたほどである。
 また、2023年6月10日、アメリカ・ノースカロライナ州で開かれた自転車レースの競技「BWR」の女性カテゴリーで、トランスジェンダーの選手、オースティン・キリップスが優勝した。この選手の生物学的な性別は男性で、大差をつけて敗れた2位の女子選手が大会後に「カテゴリーを分けるべき」と言及。大会の公式サイトなどによると、起伏が激しい約210キロのコースで実施する大会で、女子プロ部門の優勝賞金は5000ドルである。キリップス選手は序盤からレースの主導権を握り、2位と5分の差をつけて優勝した。キリップス選手は国際自転車競技連合(UCI)の公式イベントでトランス女性であることを公表しており、2022年から女性部門でレースに出場している。他方、2位のペイジ・オンウェラー選手はインタビュー中に複雑な表情を浮かべ「オースティンにはかなわなかった。パワーが比べものにならない。カテゴリーを分けるべきだ」と言及したという。
 このように自転車競技においてトランス女性が優勝しているので、たとえば、従来自転車競技にて輝かしい成績を上げた女性のハンナ・アレンスマンは、キリップスに負けたため、シクロクロスから引退した。彼女はアメリカでは25回優勝しているエリートで、2023年米国チーム選考レースで4位だったが、3位と5位はトランス女性だった。彼女は「どんなにハードにトレーニングしても、アンドロゲン化された体の不当な利点を持つ男性に負けなければならない」と発言したという。
 2023年5月26日、イギリス自転車連盟は「トランス女性の女性カテゴリーへの競技参加を禁止すること」を発表した。同連盟によると、規則を厳格化するのは「スポーツの公正さを守るため」で、選手を「女性」と「オープン」のカテゴリーに分けることを決定し、女性カテゴリーは、出生時の性別が女性である選手、およびホルモン療法を開始していないトランス男性のみ対象になるという。UCIは、現在も血中テストステロン値を2年間、1リットル当たり2.5ナノモルまでに抑える基準を提案してるので、イギリスは、これを変更したことになる。
 またイギリスのトライアスロン連盟は、2022年、イギリスのスポーツ団体では初めて、トランスジェンダーの選手が出場できる「オープン」カテゴリーを新設した。
 イギリスの陸連は、今年2023年2月、出生時に女性とされた選手たちのために女子カテゴリーを法的に守る法改正を望むと表明し、すべてのトランスジェンダーの選手は、オープンカテゴリーで男子選手と競技することが認められるべきだとした。
 このように世界の動きを見ていると、少なくともスポーツの各種目においては、トランス女性を女性枠ではなく、新しい「オープンカテゴリー」に参加するようにしている。

 

~書評~ 感動した本の紹介
泉康子著『天災か 人災か? 松本雪崩裁判の真実』(言視舎,2023,3刊)
長野県支部 中島嘉尚団員の偉業

大阪支部  石 川 元 也

 著者は、山岳ノンフィクション作家、都合で、今春3月の上梓となった、山岳と法廷を結ぶ人間ドラマ、見事な大衆的裁判闘争の物語でもある。
 中島団員は、私の高校の後輩にあたる縁で贈呈を受けた。
 この物語の舞台は、1989年3月、北アルプス五竜遠見の支尾根、長野県山岳総合センター(県教委の管下)主催の「冬の野外生活研修会」、参加者は県立高校の山岳部生徒と顧問教諭(いずれも初心者)、講師2人はベテラン登山歴を誇る、その第一班は講師の先導のもと教諭六名が横一列に並んで雪深い傾斜面を輪カンジキを履いてラッセル(雪を踏み分けて進む)を始めた時、上方から雪崩が起きて講師と四名の受講者が下方の深い雪の中に閉じ込められた。他の班員たちにより直ちに4名は救出されたが、最後の一人は、1,7メートの雪の底で65分間も閉じ込められ、帰らぬ人となった。犠牲者は、松本蟻ケ崎高校の新任教諭(24歳)、4月から山岳部顧問に予定されていた。
 実は、事故の原因を突き止めた人がいた。事故の翌日、犠牲者の高校時代からの親友(県立高校の教諭)の父親、信濃山岳会のベテラン山岳家は、事故現場を見渡す地蔵の頭に立って付近の山や谷あいを見渡して、ここ1週間、自然発生の雪崩は起きていないことを確認した。事故現場に渡って、掘られた穴も見て、そこから見上げる急な斜面でどんな訓練をやったのかと疑問を持った。彼は長い登山歴の中で2度も雪崩にあって、雪崩には必ずキッカケがあると体得していた。家に帰って、教諭の息子から、横一列になって登攀訓練をやったらしいと聞いて、「それは人工雪崩だ。雪崩を起こす訓練をやったようなものだ」と息子に言っていたのである。
 葬儀後から、総合山岳センター所長らは、母親に対し、事故は自然発生によるもので不可抗力であったとの説明を繰り返した。当日の主任講師も、毎週土用日に訪ねてきては同じ説明をするが、母親は納得しなかった。
 5月、中島弁護士を訪ね、2時間きいてもらい、悲しみを共有してもらう。その後も知事に手紙で訴えたがらちが明かない、中島弁護士に再度相談する。中島も山にはずぶの素人だ、一緒に勉強しましょうと、分担を決める。母親は、参加者から当日の訓練状況の聞き取りをする、親友は雪崩の本などを集める、中島は、親友の父親から事故翌日の現地視察の状況を聞き、事故と同じ日ごろに事故現場を案内してもらうことに。こうして中島らも、90年3月18日第1回現地調査を行った。現地調査といっても、大変だ。松本から1時間40分余り大糸線の駅で降り、ゴンドラ、リフトを乗り継いでさらに登って五竜遠見の支尾根・地蔵の頭から谷を隔てた訓練斜面に至るのだ。そこで、急斜面での登攀訓練が刺激して雪崩を起こしたという説明を受ける。さらに、雪崩の専門書などの読み込みに全力を挙げる。3人での学習会も続けて、ようやく主催者の注意義務違反の事実と法的構成に確信を持つに至った。
 中島は小笠原、山内、上条団員や若手弁護士らで一〇名の弁護団を編成する。
 こうして、1990年11月22日、母親を原告、長野県を被告として、慰謝料3000万円、逸失利益7363万円余、支払い受けたものを控除して9118万円余の国家賠償請求訴訟を提起した。
 さらに提訴後、勤労者山岳連盟(労山)の雪崩事故防止の講習会の開催の責任者中山建生存在を知り、松本に来てもらっての説明の上、事故と同じ時期、91年3月16日、原地での調査会が行われた。当日は、中島ら弁護団4名、中山以下労山関係4名、原告、親友とその父、訓練参加者ら5名が参加した。中山の現地での調査と雪崩の機序の解明は明快であった。積もった雪の断面を開いて幾層にもなる雪の一番の弱い層(弱層)が斜面の上下に連なっている、その一角を刺激すれば、上部に伝わり、刺激に耐えられぬ上部の雪が切れて雪崩を起こすのだと。
 さらに、雪崩の専門学者の協力も得られた。
 裁判は、一年後、証人尋問に先立って、裁判所の現地検証が行われた.92年3月16日、裁判長は怖がって地蔵の頭から動かず、谷を隔てての事故現場からの原告側、被告側証人の説明を聞く。中島は、原告側中山の説明が裁判官らの心証をつかんだと実感する。
 その後の被告側証人は、豊富な登山歴を誇るものの、雪崩は自然現象で不可抗力だとくりかえす、中島らの反対尋問に、雪崩の対策や準備は考えもせず何もしていない、「要は経験と勘だけだね」と念を押される状況。原告側の証人は、雪崩の機序と雪崩防止の手立てを明らかにし、裁判官の異動で、現地を見ていない裁判官らの心をつかんだ。
 毎回の法廷の傍聴人は支援者で満席、支援者の会も結成され、支援者らの現地調査も繰り返される。中島は言う「裁判の勝負には法廷活動は50%だ、後の50%は法廷外の支援の力だ。傍聴の延長としての署名活動をしようと」。裁判所あてと県知事あてと文面も変えての署名だ。多くの署名を集めるのには、犠牲者の所属する長野県高教組の支援を取り付けようと、母親とともに長野市まで出かけること3回も、ようやく支援を取り付ける。最終的に、18万の署名、実に長野県民の一割にも及ぶ署名の数だ。
 法廷の最後の締めくくりは原告の尋問だ、父の死後母や弟の面倒を見、教師としては生徒への思いの深い先生だったと。
 94年11月21日の判決の核心は、雪崩教育者中山建生の証言を入れてのものだった。雪崩による事故を防止すべき注意義務を怠ったこと、本件訓練斜面の地形、積雪量から雪崩の発生が否定しがたい時、横一列のワカン歩行・もがき登高が積雪に強い刺激を与え、雪崩発生の原因となったと認定した。賠償額は、慰謝料が2000万、その余は争いもなく、8486万円の支払いが命じられた。県の控訴がなく確定したことは、18万の署名の力が示していたといえよう。
 この判決の報道が、「雪崩の発生原因―人為的誘発を初判断」と画期的判決と報じた。ただ全国紙の紙面扱いが小さかったことは残念だ。判例時報1585号は「専門家である指導講師の雪崩発生の危険に対する調査の不十分な点に過失があるとした点に特色がある。」とする。
 この判決の5年半後、2000年3月5日、富山県で大日岳雪崩死亡事故が、文部省(当時)の登山研究所が主宰した大学山岳部リーダー研修会において発生し、二人の大学生が死亡した。事故の真実究明を求める父母が、中島を探しだした。かくて、松本裁判の中島チームによっての提訴が、2002年3月、勝訴判決は2006年4月となる。こちらは中島団員によって、団通信1246号に報告される。
 さて、泉康子本には、中島嘉尚団員の経歴について「SL機関士志望から弁護士に」という一章を挙げている。中島は、小学生のころから鉄道少年であった。また宮沢賢治の詩を愛読する少年であった。蒸気機関車の懸命さと賢治の詩心が二重写しになって、貨物列車の機関士になろうと志した。
 1967年4月、大学卒業して国鉄に入社したが、蒸気機関車はその前年に廃止されていた。半年の新人研修ののち、駅勤務に配属され、国労の組合員にもなった。
 1年半余り後、当時の「委託研究員制度」による試験に合格した。委託研究員とは、年に数名が東大に委託されて、一年間職場を離れて研究に集中し、その成果を論文にまとめて提出するというものだった。幹部職員へのコースでもあったろう。中島は、大学での労働法研究のベースの上に、2年近く見てきた国鉄の労使関係の現状をおいて「より良い労使関係の形成」をテーマに設定して、試験に合格したのだった。
 69年4月から70年3月までの委託研究員生活は、まず、委託先の東大は69年1月の安田講堂占拠事件など大学紛争の最中で、委託先は一橋大学に変更され、労働法学者蓼沼健一教授のもとでの研究となった。一方、国鉄では、72年の分割民営化の前夜で、マル生運動のピーク時であった。生産性向上の名のもとに、合理化、人員削減、国労つぶしの不当労働行為が横行していた。その労務対策の常務理事県職員局長に真鍋洋が就任した。中島の研究論文のテーマは「公労法下における判例の変遷について」に絞られていった。
 70年4月、中島たち委託研究生の研究発表会が開かれ、30分ずつの発表がなされた。中島は、公労法の判例をいくつか紹介したあと、結びの言葉として「より良き労使関係を作るには、まず国鉄の使用者側が合法的でなければならない」と述べた途端、真鍋職員局長が声を荒げて叫んだ。「国鉄にそんなのはいらない。そんなことをいう奴は、裁判官か弁護士になればよい!」。これが中島にとって運命的な転換点となった。司法試験を受けて弁護士になろうと道を決めた。
 その直後、慣例に反して、最も忙しい有楽町駅に配置された。露骨な見せしめ人事だった。勤務後は司法試験の勉強に専心した。翌71年4月には東京旅行センターに転勤になり夜遅くまでの勤務となったが、その年の司法2次試験の短答式と論文試験に合格した。秋の口述試験のための一週間の休暇申請も、嫌がらせを受けて、前夜遅くまで激務を押し付けられて、口述試験に臨む体力も保持しかねて不合格となった。国鉄の不当労働行為の積み重ねは、ついに、10月11日、公労委の不当労働行為の裁定が下り、労働委員会の救済命令も出て、国鉄総裁はこれを受諾し、10月23日、真鍋人事局長を更迭した。
 それを見届けて、中島は、12月末国鉄をやめた。口述試験対策に集中して翌年秋合格した。27期修習生として、大津を現地修習に選んだ。そこでも多くの逸話があるが、本で読んでもらいたい。修了後はふるさと松本に登録した。弁護士としての中島は公害・環境問題に頭角を現し、アメリカ調査団やら全国弁連での役割も果たしている。
 この本の出版社は、言視舎という見慣れないところで、大阪梅田の紀伊国屋ではおかれていたが、本屋に注文してぜひ読んでほしい。

 

静岡県支部 定時支部総会開催のご報告

静岡県支部  小 笠 原 里 夏

1 4年ぶり! 1泊2日での開催
 当支部では毎年6月に定時支部総会を開催しています。伝統的に宿泊付きで開催していたのが、コロナ禍で2020年から半日開催を余儀なくされてきました。今年はようやく浜松の舘山寺温泉にて待望の1泊2日開催を復活させることができました。
 今年は本部執行部からは岩田団長にお越しいただき、冒頭、団本部の主な活動の様子をお話いただきました。常幹の持ち方の改革や執行部の多様化・重層化をはかる取り組み、組織としての団の分析と将来像に関する団長のお考え等、支部団員にとっては新鮮なお話をたくさん伺いました。ちょうど常幹決議の内容やオンライン分散会(ブレイクアウトルーム)の在り方を巡って議論が紛糾した6月常幹の後だったこともあり、同常幹に出席した団員からの意見が出されたりして、双方向のやり取りができたことも意義深かったと思います。
2 メイン企画「袴田事件」報告と初めての支部総会決議
 「自慢になってしまいますが、」(支部長談)この1年間、当支部団員は、次々に素晴らしい成果を勝ち取ってきました。その活躍の筆頭が、小川秀世団員を中心とした「袴田事件」における再審開始決定の獲得です。
 当支部総会では2日目の午前中にその年のメイン企画を実施します(2018年には八法亭みややっこ師匠にご出演いただきました)。今年の支部総会のそれが小川秀世団員による袴田事件報告となることは必然でした。
 袴田事件は1966年に静岡県内で発生した一家4人が殺害された強盗殺人・放火事件ですが、小川団員はこの事件の第一次再審請求段階から弁護団の柱として弁護活動を続けています。このほか、これまでベテラン団員も弁護活動に関与したほか、何名かの若手団員も弁護団に加わっています。
 小川団員は約40年間一貫して、袴田氏の有罪判決の根拠となった、犯行着衣とされる「5点の衣類」が捜査機関によってねつ造された証拠であることを主張してきました。この「5点の衣類」は、様々な観点から犯行着衣とはなりえない代物だったのですが、再審請求当初は「ねつ造を立証する方法が見つからなかった。」と小川団員は振り返っていました。また警察がこんな大がかりなねつ造をするはずがないという「偏見」が弁護活動の障害になったとも分析されていました。
 しかし、小川団員は「ねつ造」を確信されていました。また、「ねつ造」を立証しない限り再審開始を勝ち取れないことを知っていました。そして数十年をかけて、とうとう「ねつ造を立証する方法」に到達されて、袴田氏を救済したのです。その偉業を思うと胸が震えます。
 ゲストとしてお越しいただいた袴田巖氏の姉ひで子氏は、再審開始が決まった今も巖氏が拘禁症状から脱せず妄想の世界に生きていることをお話されました。その上でひで子氏は、「ここまで来たら、無罪獲得を急ぐことはありません。それよりも、巖のような冤罪の被害に遭う人が出ないように、今回の事件がしっかりと教訓になるよう、制度の整備をお願いします。」と訴えられていました。
 その後の議事の審議において、我々は「袴田事件の早期無罪確定の実現と再審法改正の実現を求める」支部総会決議を採択しました。当支部で、総会決議を採択するのは初めてのことです。
3 多彩な事件報告
 先に述べたとおり、この1年を振り返ると支部団員の活躍は特筆すべきものがあり、地元新聞の一面にも、支部団員の写真や名前、コメントが何度掲載されたか分かりません。
 旧優生保護法国賠請求訴訟の静岡地裁における勝訴判決報告は、試行錯誤で原告団・弁護団を組織していく様、全国での訴訟の状況、転機となった大阪高裁判決のインパクト、除斥期間突破の意義等、終始ダイナミックな内容でした。
 生活保護減額処分取消請求訴訟の静岡地裁における勝訴判決報告では、行政権の「広範な裁量」に切り込んでいく厳しい闘いの展開や、全国の訴訟の動きを見据えながらの訴訟戦略の選択を興味深く聞きました。
 浜岡原発静岡訴訟、静岡県リニア工事差止訴訟や静岡市内の公園における大規模工事の差止を求める住民訴訟の事件報告も若手団員からありました。
 質問や意見交換も織り交ぜながら、あっという間に2時間が過ぎました。
4 懇親会その他
 懇親会では以前は恒例となっていた事務所毎での近況報告が4年ぶりに復活できました。逮捕時に捜査機関が被疑事実を教えない場合は国賠請求していますとか、身柄事件は全件勾留理由開示請求していますとか、リニア差止め訴訟では雄大な南アルプスの自然環境を守るために人類を代表する構えで取り組んでいますとか、自分の水準では考えもつかないほどの情熱で弁護活動に取り組んでいる仲間の姿を見て、この支部で団員として活動できる幸運をかみしめる時間となりました。
 今年度も旺盛な支部活動を展開していきたいと思います。

 

■事務局通信

団長日記 ②「元気をもらった静岡県支部総会」

岩 田 研 二 郎

 1月の東北ブロック総会に続き、6月23日に浜名湖で開かれた静岡県支部総会にお招きいただきました。沼津、静岡、浜松の地域で活動する68名の団員の半数の30名以上がほとんどリアルで参加(オンラインも数名)され、若手の団員も多く、会場いっぱいのにぎやかな総会にびっくり。宴会での事務所ごとの自己紹介は「結婚しました」「病気と付き合っています」など家族のような和やかな雰囲気で、老壮青の信頼のおける仲間の集まりである団のよさを実感しました。日弁連の犯罪被害者支援委員会でご一緒した白井孝一団員(25期)とも20年ぶりにお会いできました。
 静岡法律事務所は、本部の将来問題委員会でも、ホームページでの積極的な採用戦略が話題になるほど若手の採用に力を入れておられ、「静岡法律事務所は、どんな修習生を求めているの?」との問には、「素朴な正義感を心のどこかに秘めている人」「静岡の地に根をおろしてもいいと思っている人」との答えで、幅広く門戸を開いています。
 静岡合同法律事務所は、事務所の営業時間外(9:00~17:30以外の時間)や休業日でも市民が連絡できて、初めての依頼や悩み相談ができる専用電話「弁護士スマホ相談(法律相談のお問い合わせ)」がホームページで公表されて市民アクセスのニーズに応える取組をしています。これも弁護士の数が確保できているからで、「数は力」と思いました。
 一日目は、団員の事件活動の報告でしたが、とりわけ南アルプスの水資源や生態系を破壊するリニア中央新幹線工事の差止め訴訟、浜岡原発関連訴訟の報告は、静岡県の支部ならではの報告でした。
 二日目は袴田弁護団の小川秀世団員(36期)の報告が圧巻。地元弁護団として、最初から確信していた「捜査官の証拠ねつ造」を立証するために努力されてきた経過がわかりました。小川団員の情熱あふれる話は、若い団員の心をうったのではないでしょうか。同じ情熱が、佐野雅則団員(60期)の全件勾留理由開示申立の実践に継承され、また70期以降の若い団員たちに引き継がれていく様子を目の当たりにしました。浜松市内で巌さんと暮らしておられる袴田ひで子さんも挨拶にお越しになり、「巌の48年の苦労が無駄にならないよう再審法の改正を」と訴えられる姿に、一日でも早い無罪確定で安心していただきたいと思いました。
 静岡県支部からは、すでに、本部事務局次長として佐野雅則団員(2013~2015年)と太田吉則団員(69期、2018~2020年)が務めていただきました。「オンライン時代で地方からの次長を」との呼びかけに応えて、4月から次長(原発問題委員会担当)を務めている福島支部の鈴木雅貴次長(65期)に続き、静岡県支部の事務局長の小笠原里夏団員(57期、はままつ共同法律事務所)を今年の秋に、支部から本部次長に出して頂くことが報告されました。佐野団員の挨拶で、小笠原、佐野、鈴木の3人は、いずれも静岡の磐田南高校の同窓生とわかり、「磐南」高校コンビの活躍を期待しています。弁護士経験年数の様々な事務局次長の重層化で執行部体制も強化されるでしょう。
 宴会の合間に舘山寺温泉からの燃え上がる夕焼けが撮影できたほか、翌日の夜明けにも、湖面を照らす朝焼けも撮れ、大満足でした。

 

花トレッキング―佐渡島(前編)

     神奈川支部  中 野 直 樹

花の百名山
 私の山・書籍コレクションの中に、朝日新聞社・週刊「花の百名山」とのタイトルの高山植物のボタニカルアートと写真、そして田中澄江氏の紀行文を組み合わせた冊子30冊がある。2004年発行だ。
 ベースとなっているのは、田中澄江氏が1977年から「山と渓谷」に連載した「花の百名山」シリーズのエッセイである。私の手元にあるものは、97年に文芸春秋社から発行された単行本・「花の百名山」田中澄江(愛蔵版)である。
 田中氏は1908年生で、劇作家、小説家、エッセイストと紹介されている。田中氏は小学校5年生の秋に登った高尾山が初体験だそうだ。67年から山歩きの女性同好会「高水会」を主宰し年50回の山登りを実行し、全国から100の花名山を選んで、流麗な文書で、山に登り花を観る楽しみを著している。巻頭の山には高尾山・フクジュソウが選ばれている。日本で一番の集客の山、私が登った回数が一番多い東京の名山。深田久弥氏の「日本百名山」とは選定基準が異なるが、「花の百名山」には「日本百名山」から36山登場している。95年には一部を入れ替えた「新・花の百名山」が刊行された。
ドンデン高原
 23年5月14日8時40分、私たちは登山口に着いた。私たち、とは京都の村松いづみ弁護士、花岡路子京都第一法律事務所事務局長、そしていつもの相棒・浅野則明弁護士と私である。着いた、ところは佐渡島のドンデン山荘(標高880m)である。
 ドンデンとは奇妙な名である。ユーラシア大陸から離れた大地はいったん海底となり、そこから隆起した佐渡島はHという字を上下にずらしたような形であり、その北半分に大佐渡山地、南半分に小佐渡山地が屋台骨となっている。最高峰は大佐渡山地の金北山(1172m)である。ドンデン山荘から金北山を経て白雲台までの約13㎞、コースタイム7時間の稜線道は、雪解けの五月連休前後から多種類の花に飾られる花名山、稜線の両側に日本海を見下ろせる景勝トレッキングコースとして人気が高い。当初の「花の百名山」には選出されていなかったが、その後の入れ替え戦で勝利し、「新・花の百名山」の一員に昇格した。 
 コロナ禍になって1年に2~3回のツアーを重ねている4人組は、花トレッキングというとても素敵なことばに憧れてこの縦走路にやってきた。
雨にも負けず
 椎崎温泉の宿の夜は雨降りとなった。朝になっても無情の雨だった。ドンデン山荘についても、どんでん返しは起こらず、雨雲の中だった。でも、はるばる海を渡ってきた私たちは、雨にめげるわけにはいかない。山荘のトイレを使わしてもらい、少しの期待をかけてスタッフの男性に今日の気象見通しを聞いたところ、午後は低気圧が抜け雨は収まるが風が強まること、強風のときには無理をせず来た道を戻るか、エスケープルートを降りてこい、と言って、地図に記載のないイモリ平からの道を教えてくれた。目印テープが付けられているとのことだった。
 私たちは、山行では一番ブルーな気分となる出発時から雨具上下を着こんで足元にはスパッツをつけて、9時過ぎに雨中に歩み出した。しばらく車道を歩いた後に、深い霧というか雲の中に立つ「金北山縦走路入口、花の百名山」の標柱から山道に入ると泥でぬかるんだ下り道となった。木の枝や幹につかまりながら慎重に滑り止めの足場を確認しながら足をおろす。ヌルヌル道は上りとなり青ネバ十字路を通過し、滑らないように見つめ続ける足元には、ニリンソウ、ヒトリシズカ、カタクリ、シラネアオイが迎えてくれるが、雨に打たれ、しょげたように首を下げているので、こちらの心も高揚しない。
風にも負けじと
 10時20分、マトネ(938m)との柱が立った稜線に出た。ここからほとんど平らな稜線歩きだ。おおいに期待していた日本海を見下ろせる景観はなく、風が待っていた。
 小股沢のコルを過ぎると、先行していたグループが次々と引き返してきた。口々に、立っていることが難しいほど強い風で危ないと判断した、と言って いた。なるほど、ツンブリ平、ブイガ沢のコルという奇妙な名の地点までいくと、うなり声をたてた風が待ち構えており、先頭を行く村松さんは体重が軽いためによろめき飛ばされそうな状況となった。山歴が浅い花岡さんは悲鳴を上げる。ザックにかけた防雨カバーがはずれて、バタバタと旗音をたてちぎれて飛んでいきそうだ。
どうする私たち
 頭を下げ、足を踏ん張りながらじりじりと前進し、11時50分イモリ平に着いた。山荘で教えられたエスケープルートの分岐である。ここで4人は進むべき方向について鳩首。登山者には悪条件を覚悟でここまで来たのだから最後まで歩きとおしたいとの心理が働くものであるが、既に花トレッキングの価値の実現への気持ちを喪失した村松さん、京都第一法律事務所の大世帯の個性を調整する苦労を日々重ねている花岡さんの、安全側に立った撤退の意見に正当性があり、前進をあきらめた。
 御影石に水場との案内が書かれており、そちらへの下り道をのぞいてみると木の枝につけた目印テープが続いていた。これが言われたエスケープルートのようだ。地図に記載されていないルートのためどのあたりに着くのかも不確かだったが、ここから下山することとした。

 

~朝鮮人虐殺問題学習会の告知
「関東大震災100年・朝鮮人虐殺問題を考える」学習会とフィールドワークのご案内

差別問題委員会 担当次長 永 田  亮

 1923年9月1日発生の関東大地震の際に「朝鮮人が各地で放火」などのデマが流れ、軍や警察、自警団の民衆により多くの朝鮮人、中国人が虐殺され、同時に日本の社会主義者や労働運動家が虐殺されました。虐殺の実態は多くの資料により実証されていますが、事件から100年が経過する今も、政府による正式な調査も追悼碑等もなく、それどころか、東京都知事からの追悼式典へのメッセージが取りやめられるなど、これを捏造として虐殺の歴史をなくそうとする人々がいます。
 自由法曹団は、関東大震災直後に「震災中における朝鮮人殺害の真相及びその責任に関する件」を決定して調査を開始し、自由法曹団の創設者である布施辰治弁護士は「在日朝鮮同法被虐殺者調査会」の発起人ともなっているなど、朝鮮人の虐殺について最大限の取り組みを行ってきた歴史があります(「自由法曹団物語・戦前編」をご参照ください)。
 入管法改悪による外国人差別、京都ウトロ放火事件等のヘイトクライム、トランスジェンダーを中心とした性的マイノリティ排除など多くの差別が深刻化する現在の日本社会において、朝鮮人虐殺という重大なジェノサイドは過去のことではありません。
 関東大震災100年という節目において差別の問題を学ぶべく、LAZAKとの共催で、以下の学習会とフィールドワークを企画いたしました。

①   【プレ学習会】
関東大震災朝鮮人・中国人虐殺100年~歴史の事実を知り現代に生かす
日 時 8月3日(木)18時00分
講 師 加藤直樹さん(ジャーナリスト)
内 容 『九月、東京の路上で―1923年関東大震災 ジェノサイドの残響』『TRICK トリック 「朝鮮人虐殺」をなかったことにしたい人たち』の著者であり、事実を伝え続けるジャーナリストの加藤直樹さんをお招きし、当時何が起こったのか、その原因は何か、そして、歴史の教訓を現代に生かすために何をすべきかを考える企画です。ぜひご参加ください。

②【フィールドワーク】
関東大震災朝鮮人・中国人虐殺100年~歴史を繰り返さないために事実を語り継ぐ
日 時 8月27日(日)午後1時*ほうせんかの家に集合  *午後4時頃解散予定
場 所 ① ほうせんかの家訪問
追悼碑前にて西崎雅夫さんのお話(一般社団法人ほうせんか理事)
河川敷を移動、虐殺現場の説明
② 横網町公園
関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑
宮川泰彦さんのお話(9.1関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式典実行委員会実行委員長・自由法曹団弁護士)
③ 東京都復興記念館 見学
共 催 自由法曹団、在日コリアン弁護士協会
内 容 関東大震災時の朝鮮人・中国人虐殺につき、小池都知事は、事実かどうかの判断は歴史家に委ねるとの姿勢を改めず、虐殺犠牲者を悼む式典への追悼文を2017年以降、送っていません。日本政府も事実関係を把握することができる記録が見当たらない、新たな調査をする考えはないとしています。一方で、悲劇を繰り返さないために、歴史の事実を語り継ぐ取り組みをしている人たちがいます。墨田川のほうせんかの家、横網町公園を巡り、虐殺の起こった地域で犠牲者を追悼するとともにこれからの活動を考えます。

 

構造改革プロジェクトチーム学習会企画(@7/25・18時)のお知らせ

構造改革PT 事務局長 中 川 勝 之

タイトル:水道民営化学習会
日  時:2023年7月25日(火)18:00~20:00
場  所:自由法曹団本部(懇親会予定)+Zoom
 斎藤幸平氏の「ゼロからの『資本論』」に「20世紀後半、高度経済成長期が終わりを迎え、資本主義経済の停滞が顕著になると、各国は公共事業の民営化や規制緩和による市場の自由化を進めていきました。いわゆる「新自由主義」政策です。」「民営化の実態は特定企業による権利独占であり、「商品」の領域を広げる現代版の「囲い込み」なのです。」等と書かれ(46~50頁)、読まれた団員も多いと思います。
 構造改革PTは、2009年末の社会保険庁解体とたたかう中で、新自由主義とのたたかいを強化すべく2010年に結成され、規制緩和、民営化、道州制・地域主権「改革」等の問題に取り組んできました。
 4月の統一地方選挙では維新の会が議席を増やす等、新自由主義を進める勢力の伸長もありますが、全国各地で新自由主義を許さないたたかいも繰り広げられています。
 そこで、構造改革PTは新自由主義とのたたかいをさらに広げ、強化すべく、尾林芳匡団員(東京支部・八王子合同法律事務所、構造改革PT座長)から、「水道民営化」をテーマに直々に話していただく学習会を用意しました。
 尾林団員は、民営化問題を全国各地で講演していますが、団員向けにお話しするのはめったにない機会です。
 新人・若手はもちろん、それ以外の団員も大歓迎です♪
 水道民営化(質疑応答含め90分程度)の後、デジタル改革、公園民営化等のポイント等の報告、意見交換等もしますので、あわせてご期待下さい。

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