第1667号 / 5 / 1
カテゴリ:団通信
●新元号あれこれ雑感 船 尾 徹
●「なるちゃん天皇」と「民が代」― 戦後生まれの天皇誕生! 後 藤 富 士 子
●独自の天皇制論議 その3 令和という元号を考える 上「散る」の意味は何か 伊 藤 嘉 章
●この人は誰だ?? ―「心さわぐ憲法九条」を読んで― 大 久 保 賢 一
新元号あれこれ雑感 東京支部 船 尾 徹
新元号発表とメディア
統一地方選挙の最中の四月一日、安倍政権は「天皇メッセージ」と「退位」を好意的に受けとめる国民世論にかこつけ、首相、官房長官がメディアの前面に躍り出て、「新元号」の発表を自らの政権基盤強化のための「政治ショウ」にしてしまった。安倍流権力の私物化は臆面もなくどこにも露出してくる。天皇家の私的行事であるべきものまで過剰に国の儀式にして天皇代替わりを参議院選に政治利用することを狙っている。
「新元号」発表にあたって、官邸は「有識者懇談会」メンバーがトイレに行くのにも職員が随行し、有識者メンバーや衆参両院正副議長らのスマホを没収し、数時間後に日本中に知れ渡る新元号を、あたかも最高レベルの国家機密扱いにした。
他方、これを報道するメディアも昭和天皇崩御による「一億総自粛」のもとに行われた平成への改元と異なり、「新元号」を横並び一線となって、ワイドショウ、特番を組んで「お祭り気分」で国民を煽り、権力と距離をとるメディアとしての矜持を放棄し、その腐食した惨状を私たちにさらした。
「官邸広報」NHKは、安倍首相のお抱え解説委員が、「首相の思い」を忠実に代弁する形で「令和」のいわれを解説し、「ニュースウオッチ9」では「歴史的決定を行ったこの方に来て頂きました」と安倍首相を持ち上げる。日テレ「news zero」にも録画で安倍首相が登場。有働由美子キャスターは「令和何年まで国を引っ張りたいか」と忖度してこの政権におもねる。産経新聞四月二日朝刊も「(元号決定に至るまで)大変深く悩む時間が長かった」と安倍首相を紹介。メディアトップと首相の会食によるメディアコントロールの効果かと勘ぐりたくもなる。朝日新聞の号外は二〇万部におよんだという。
談話
「平成のその先の時代」の最大の基本課題として九条改憲をめざしている安倍政権は、夏の参議院選にむけて(衆・参同時選挙の可能性も孕んでいる)、天皇代替わりを「奉祝一色」にして国民を熱狂の坩堝のなかに巻き込んで、三分の二を越える安定した改憲議席を確保し、そのうえで改憲を狙っている。
新元号発表の日、安倍首相は、「・・・一人ひとりの日本人が、明日への希望とともに、それぞれの花を大きく咲かせることができる。そうした日本でありたい、との願いを込め、『令和』に決定いたしました。文化を育み、自然の美しさを愛でることができる平和の日々に、心からの感謝の念を抱きながら、希望に満ち溢れた新しい時代を、国民の皆様と共に切り拓いていく。新元号の決定にあたり、その決意を新たにしております」とする談話を発表している。
「平成のその先の時代」を「国民の皆様と共に切り拓いて」、「希望に満ち溢れた新しい時代」へとリセットし、これからもこの政権が幾久しく続くことを国民にアッピールしたつもりなのだろう。
しかし、天皇代替わりによって、平成の時代がかかえ込んだ基本的な問題構造が消失し、安倍首相が宣う「希望に満ち溢れた新しい時代」にリセットされることなど幻想でしかない。
戦後期昭和と冷戦後の時代
天皇代替わりで終焉する平成の時代を、戦後期昭和の時代から区分された「平成史」として総括すべく、さまざまな視点が提起され論議されている。
一九四五年から一九八九年までの戦後期昭和の時代と一九八九年から二〇一九年までの平成の時代とを区分するものとして、スターリンの死、朝鮮戦争休戦を経て冷戦体制が固定化した冷戦期の時代と八九年のベルリンの壁崩壊、翌年のドイツ再統一に続くソ連崩壊による冷戦終結後の時代に区分することに、私には違和感はない。
戦後期昭和の時代は、五〇年代末から九〇年代のバブル崩壊までの冷戦期・冷戦体制のもとでアメリカに従属しながら、アニメ「となりのトトロ」で美しく描かれた日本の原風景を破壊し、経済成長一本槍の路線を走って(安全保障面では軽武装・軍事小国として)、東アジアで圧倒的な経済大国として経済成長を謳歌した。
平成の時代は、冷戦終結後のグローバル化・情報化の進展により生じた国際秩序の変化に対応できず、冷戦期からの発想を引きずってアメリカ追随にひたすら終始し、国内では新自由主義的改革による格差の拡大と貧困の深刻化、人口減少・高齢化、財政赤字の膨張、三・一一後もなお原発再稼働にむかう政治を継続し、政治改革・小選挙区制による権力の集中と政治の劣化を深め、政権与党が平和憲法を破壊する改憲を強権的に進めようとする策動とこれに抗する野党共闘と市民の共同による改憲阻止の運動が激しくたたかわれ、その攻防は現在も進行している。私たちは改憲をめぐって拮抗しているこの時代の現場に立って、日々、それぞれの課題に取り組んでいる。
安倍政権は、この時代に覇権を失いつつあるアメリカに追従し運命を共にすることを異常なほどに進め、アメリカは、日米同盟を前提に改憲圧力を強めさまざまな要求をわが国に突きつけ続けている。こうした基本的な構造・関係は平成後の時代にもリセットされることなく、今なお続いている。
中距離核戦力全廃条約からの離脱と軍拡競争
中距離核戦力全廃条約のもとで、米・ロは陸上配備型中距離ミサイルを展開できない。その間隙を縫って中国は「接近阻止・領域拒否(A2/AD)」戦略に基づいて中距離ミサイルを開発し、この分野でアメリカを圧倒する戦力となっている。こうした動きに対抗してトランプ政権はこの二月、中距離核戦力全廃条約から離脱し、日本政府はこれを追認している。ここであらたに中距離ミサイル配備先が急浮上している。グアムでは遠すぎる、台湾への配備では政治的リスクが大きい、フィリピンは政治的安定性を欠く、そこで、地政学的にも政治的にも日本が最適として、その配備を要求してくる可能性が高い。日米同盟にもとづく在日米軍基地への配備という事態になれば、北東アジア地域全体に波及する米・中軍拡競争の導火線となること必至である。日米同盟のもとでの安倍九条改憲と新防衛大綱、中期防による軍拡路線は、米・中軍拡競争に深くとりこまれる道へと踏み出すことになる。
安倍九条改憲阻止の道
侵略戦争と植民地支配の歴史と責任に正面から向き合わず、安倍九条改憲によって自衛隊を憲法に明記し、アメリカと一体となって「戦争できる国」へと転換することは、日韓、日中の関係を和解と協力へと転換する道を閉ざし続け、米朝が合意した朝鮮半島の非核化と平和体制の構築への動きに主体的な役割を果たせず、この国がアジアのなかでいつまでも孤立し、北東アジア全体の平和な秩序形成に重大な障害物であり続けることを意味する。
軍事力で圧倒的優位を誇っていても、グローバルな覇権を失いつつあるアメリカ、そのアメリカに追従し続ける日本。そんな日米にお構いなくアジアは急激に変化している。二〇年先はどのように変動しているのか。その変動していく先に私たちはなにをみるべきなのか。九条を活かして北東アジア全域の非核化と平和秩序形成をめざした改憲阻止の運動こそ、未来の道を切り拓いていく最も現実的な途なのである。
いずれにせよ野党共闘と市民の共同による参議院選挙を地道に構築するために、私たちひとりひとりが、その良心をかけて声をあげ、この声を大きな奔流にするたたかいの進展にかかっている(四月二二日記)。
「なるちゃん天皇」と「民が代」― 戦後生まれの天皇誕生! 東京支部 後 藤 富 士 子
1 次期天皇になる皇太子は、美智子皇后が定めた「なるちゃん憲法」を指針として育てられた(と記憶している)。多才な美智子皇后は、オリジナル子守唄まで作って歌っていたという。その「なるちゃん」が天皇になるのだ。
考えてみれば(考えるまでもなく)、次期天皇は、戦後生まれの最初の天皇である。彼は、生まれたときから日本国憲法の下ですごしてきた。彼が天皇になってからも、この憲法がますます輝くことを願わずにはいられない。
ところが、下村博文・自民党憲法改正推進本部長は、三月五日、国会内の会合で「新たな御世(みよ)に。新たな国家ビジョン」と題して改憲について講演し、五月の新元号の施行など天皇代替わりにあわせて改憲論議を盛り上げるよう呼びかけた、という(三月六日赤旗)。全くアベコベ、転倒、逆立ちというほかない。
2 去る二月二四日、政府主催の「天皇陛下在位三〇年記念式典」が国立劇場で開かれた。その「おことば」では、象徴天皇の道が如何に険しく難しいかが語られ、美智子皇后の一首を引用して胸中が吐露された。それは「ともどもに平らけき代を築かむと 諸人のことば国うちに充つ」であった。閉会に際して、安倍首相は「天皇陛下万歳」の音頭を取って三唱した。NHKテレビで映し出された天皇の顔は苦渋に満ち、かたわらの皇后はうつむいたままだったという(週刊金曜日三月八日号矢崎泰久「下段倶楽部」)。
平和憲法を守ろうとする象徴天皇と改憲政権の、この冷徹な「亀裂」。「なるちゃん天皇」が改憲勢力に政治利用されないように、主権者である国民は肝に銘じよう。
それには、国歌「君が代」を「民が代」に歌詞を変更することである。「御世」だの「君が代」だのというのは、象徴天皇制にそぐわない。「民が代」なら、天皇自身が気分よく国歌を歌えるはずだ。新元号も、こうした空気を反映したものにしてほしい。
3 「天皇制」をめぐっては、左右の改憲論が賑々しい。右派の改憲論は時代錯誤であり、戦後生まれの天皇が続く中で力を失っていくはずだ。
それに比べ、左派の「天皇制廃止」論は、「護憲」の立場からすると、あまりにも有害である。左派は、政治的リアリズムと法的プラグマティズムに欠けている。それでは、「護憲」は不可能というほかない。〔二〇一九・三・八〕
独自の天皇制論議 その3 令和という元号を考える 上「散る」の意味は何か
東京支部 伊 藤 嘉 章
「令和」は万葉集からだった
万葉集の巻五の梅花歌卅二首井序
「……時初春令気淑風和」から捏造したとのことです。
万葉集中の「時初春令気淑風和」の典拠は、蘭亭序
新元号「令和」の考案者である中西進氏は、大伴旅人の「梅花の歌三十二首并せて序」は江戸時代以来指摘されているように晋の書家王義之の「蘭亭序」をまねたものであるとの学説を発表していました(「筑紫万葉の世界」所収の論文「万葉梅花の宴」一五頁)。
左遷された大伴旅人の心境をあらわした
すなわち、王義之は「暮春之初、会于山陰之蘭亭、……是日也、天朗気清、恵風和暢、…」と、俗悪の世間から離れ、山陰において風雅な隠逸の境地を楽しもうとしていた。
そして、大伴旅人が大宰府に来たのは、流謫ではないが、体のよい追放であった。旅人のその時の心境は、人事を憤るのではなく、端然として姿を崩さず、世俗を超越するのが旅人の常であった。旅人が「蘭亭の序」の真似をして「梅花の歌の序」をつくったのは、隠逸のこころを王義之に合わせようとしたものであり、その暗示が文章の模倣だったのである(中西前掲論文一六頁)。この論文は、「中西万葉論集」第三巻四〇〇頁にも載っています。
なぜ梅花の宴なのか(中西学説の発展)
王義之は、蘭亭の詩会では、四一人の文人が集まって曲水の詩宴を催したのであった。ところが大伴旅人が催した宴は、曲水ではなく、梅花の宴であった。
中国には辺境の望郷の詩として「梅花落」というジャンルがあるという。中西進氏は、「梅花落、春和之候、軍士感物懐帰、故以為歌」という解説を引用して、この軍士を大伴旅人にかえると、都から追われ望郷の思いを抱く大伴旅人の今の心境であるという。
未だ帰らぬ夫をまつ境遇を嘆く妻の歌
さらに、中西進氏は、初唐の「蘆照隣」作の左の「梅花落」の一首を鑑賞して次のようにいう。
梅嶺花初開 天山雪未開
雪処疑花満 花辺似雪回
因風入舞袖 雑粉向妝台
匈奴幾万里 春至不知来
「中国の情詩として女性の立場に立ち、都の女は梅の咲くのを見て、夫のいる雪まだとけない天山のほとりを想像する。一方夫の見る雪景色の中では花が一面に咲くかと疑われ、反面、自分の見ている梅の周りには雪のように花びらが散る、という。
散った花びらは風に運ばれて室内にやって来ては、袖にまつわり、まるで様々な白粉のように化粧台にちりかかる。その中で女は幾万里彼方の匈奴の地にある夫を思い、春は来たのに夫は帰って来ない、と嘆く。
こうした辺境を思う情詩が『梅花落』としてうたわれるからこそ、旅人は梅花の歌会を催し、辺境の悲しみを分かち合おうとしたのである」。
大伴旅人の「梅の花散る」の歌の意味についての中西進氏の学説
だから梅花の宴では、むしろ散る梅をよむのが出題にかなっていた。当の旅人自身が、
「わが園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも」
とよむのもそのためである。
旅人がしきりに辺境を思い浮かべるのは、今自分が都を遠く辺境に配されているという思いからで、先の述べた「隠流」の感と一体の動機が「梅花落」を選択させたのである(中西前掲論文一六頁から)。
この「梅の花散る」の歌からは、おめでたいという思いはとうてい出てこないのです。
首相談話の内容は正しいか
また、梅の花の序からは、首相談話のいう「明日への希望とともに、それぞれの花を大きく咲かせることができる。そうした日本でありたい、との願い」はとても出てこないと思うのです。
学説を変えた中西氏
中西氏は、二〇一九年四月一七日の読売新聞朝刊のインタビュー記事の中で、「令和の典拠となった『梅の花歌三十二首』序文については、多くの専門家が中国の古典である王義之の『蘭亭序』や詩文集『文選』の張衡の『帰田賦』の影響を指摘しています。」との問いに対し、「『梅の花歌三十二首』序文は、『蘭亭序』とは、言葉遣いや全体の内容も違います」と述べて、自己の前掲学説を否定するに至っています。
大伴旅人の梅の花散る歌の意味についての中西進氏の変節
さらに、中西氏は前記読売新聞のインタビュー記事では、序文を書いた大伴旅人の「梅の花散る」の歌について、前掲の自己の学説を忘れたかのように、
「いい歌ですよ。……旅人は、歌でも漢風なものも上手に取り入れながら、大和言葉で優れた表現をした。この歌でも、降る雪を、流れると言っている。ここに文化が発生する。そして、梅でも桜でも、花が散るのは、花びらという形に生存の形を変えることで、あくる年にはまた咲く。そうして生き永らえるのですから、梅も桜もおめでたいのです」という。
「花が散る」から連想するもの
あの「同期の桜」を連想するのは筆者だけでしょうか。
貴様と俺とは同期の桜
同じ兵学校の庭に咲く
咲いた花なら散るのは覚悟
みごと散りましょ
国のため
年号の考案者と中西氏の立場
前記読売新聞のインタビューでは、令和は、中西進氏の名前に限りなく近い人間が考えたと言っていた。考案者は六年前か、もっと前から熟考していたという。
令和が中西進氏の考案であることを認めた二〇一九年四月二〇日付け朝日新聞朝刊では、中西進氏は「元号を考案することは名誉な重みでしょう」という。そして、「梅の花の歌の序」は、「蘭亭序」とは、……文脈や意味がかなり異なるので、典拠にあたるとは思いませんと、前掲論文の内容をやはり否定しています。
出典よりも表現が大事
中西進氏は、前記朝日新聞のインタビューで、「そもそも僕は、出典が何かより、その言葉がどのような表現かの方が大事だと考えます。受容は変容であり、万葉集も単なるものまねではない独自性に到達しています。文化や文明は、変容を肯定的に認めることによって育まれるものです」という。
中西進氏は元号考案という名誉な重荷の中で、自己の学説を変えるという作業までおこなってきたのであろうか。
曲学阿世という四字熟語を思い出しました。
この人は誰だ?? ―「心さわぐ憲法九条」を読んで― 埼玉支部 大 久 保 賢 一
次の四人は誰でしょう。
Aさん。東京大空襲の惨禍を生き抜いた作家。友人からは「反動」と言われながら、昭和史の研究に打ち込んだ人。戦争の実像を知らない人が九条の改正を企てていることを憂いている。憲法を百年生き続けさせたいと夢見ている。
Bさん。高校時代は弓道部。現在は憲法の「伝道師」として講演を続ける長身の弁護士。国民の意思こそが現実を動かす。憲法の条文に期待をかけすぎないようにと語っている。一三条を憲法の要としている。
Cさん。女性弁護士。高校時代の落語研究会のキャリアを生かして「八法亭みややっこ」として活動。茶道や書道もたしなみ、安倍首相に愛国心を強制されたくないと発信。
Dさん。十歳で沖縄戦を体験。高校教師から読谷村長さんとなり、米軍と対峙。米軍基地の中に役場を作る。その後、国政でも活躍して憲法を語る。
この問題は、ノンフィクション作家大塚茂樹さんの「心さわぐ憲法九条」(花伝社・二〇一七年)で紹介されているものです。Aは半藤一利さん。Bは伊藤真さん。Cは飯田美弥子さん。Dは山内徳信さんです。
どういう人たちなのか私なりの紹介をします。
半藤さん(一九三〇年生)は、一九四六年三月六日、「憲法改正草案要綱」が発表されたとき、「たいして何も知らぬまま読み、戦争を永遠に放棄するとの条項に、武者震いの出るほど素晴らしいことのように思えた」、「人類の理想として、地球の明日のために、世界の各国が日本国憲法にならえ、とときどき叫びたくなっている」としています(「日本国憲法の二〇〇日」・文春文庫・二〇〇八年)。
伊藤さん(一九五八年生)は、「いかなる理由があっても、戦争という名前の人殺しに加担したくない」、「私たちの税金はアメリカの戦争に使われてきたのです。…九条改憲を認めてしまえばますますアメリカの戦争に同調することになる」としています(「憲法の力」・集英社新書・二〇〇七年)。
飯田さんは、「遊就館に行って、胸が詰まったのは、たくさんの花嫁人形を見た時です。…戦死した若者の母親が、せめて息子があの世で一人にならないように、好きな女性と添えるようにと奉納したと思うんです。…私にも息子がいますから、その気持ちを理解できないでもありません。…でも、私は、靖国の母にも『母親に二度とこんな思いをさせるな』と声を上げてもらいたい。…私なら、息子を戦争に取られないように、絶対に最後まで抵抗する」としています(「八法亭みややっこの憲法噺」・二〇一四年・花伝社)。
山内さん(一九三五年生)は、読谷村長時代、村長室に憲法九条を掛け軸にし、九九条を額に入れて来客用のソファーから嫌でも見えるようにしていたという。「憲法はすごい力を持っている。…憲法を背負っていれば怖いものなんかありません」としている(マガジン九・この人に聞きたい)。
このように、この四人は、いずれも憲法九条に強いこだわりを持つ護憲派の人たちです。大塚さんは、この四人に対する大きな共感を持ちながら紹介しています。けれども、これらの方たちは、護憲派という括りはできるけれど、その政治的立場ということでは、共通項があるわけではありません。飯田さんは日本共産党の衆議院選挙候補者だし、山内さんは社会民主党です。伊藤さんはリベラルと言われるけれど政党への帰属は多分ないでしょう。半藤さんは「反動」とは言われないけれど、リベラルという人も少ないでしょう。大塚さんが強調しているのはまさにその多様性なのです。
大塚さんは、「護憲という結論を押し付けない。それが肝要です。真摯に話し合えて心が響きあう友が見つかるかもしれない。その人は護憲派かもしれないし、中間派かもしれない、マイルドな改憲派かもしれません」、「九条を守りたいという多士済々の顔触れは全国に存在しています。有名無名を問わず、その声に耳を傾けてみることも必要ではないでしょうか。…憲法の山脈は人間によって支えられています。…人間への旺盛な関心を持ったうえで憲法を読み直したいものです」としています。ここに見て取れるのは、憲法を説く際に、頭ごなしに教条的な議論をするなということのようです。私も、そのことは肝に銘じておきたいと思います。
大塚さんのお父さんは、あの「松川事件」の無罪判決を勝ち取る上で大きな役割を果たした大塚一男弁護士です。私の知っている大塚先生は穏和な方でした。けれどもその息子である茂樹さんは、「子どもの権利条約」を一読したとき、まさにユートピアなので思わず吹き出してしまったとしています。きっと、一男先生は家庭内では暴君だったのでしょう。そのことと、茂樹さんが護憲を押し付けるなとしていることとどのような因果になるのかはわかりませんが、護憲の運動に対する茂樹さんの注文は傾聴に値します。
けれども、私は、憲法をめぐる議論について、あれこれの潮流の存在を認め、相互に一理あるかのように尊重し合うものだとは思っていません。自衛権の行使だとか、人道的介入だとかの名目を問わず、武力による問題解決を承認し、またそのための戦力の保有を認める言説と、それを認めない言説との間には、和解しがたい分岐があると考えているからです。私は、茂樹さんが紹介する四人の護憲派の言説に与します。そして、たとえマイルドであろうとも、戦力の保有を説く言説とは対抗します。もちろん、その言説を弄する人をリスペクトするつもりはありません。むしろその言動の底の浅さや、没論理性などを暴き立てるつもりでいます。武力で物事を解決しようとすれば、核兵器の応酬への道が開かれてしまうし、国家権力による個人の圧殺が避けられなくなると思うからです。日本国憲法九条は一ミリたりとも後退させてはならない規範なのです。本当の平和は、武力だけではなく、相互の敵意が消滅したときに築かれることになるでしょう。そんな時代など来るわけがないと投げやりになるよりも、いつかそんな時代を作りたいと夢見る方が楽しい、と私は思うのです。
それが、私にとって「心さわぐ」ことなのかもしれません。大塚さん。ありがとうございました。(二〇一九年一月二六日記)