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カテゴリ:団通信
【 2019年愛知・西浦総会 ~特集~ 】
*いま私たちが向き合う諸課題について徹底的に討議し、前進の糧とするため、ぜひ愛知・西浦総会に参加しよう!
泉 澤 章
*2019年自由法曹団愛知総会へのお誘い 田 原 裕 之
*半日旅行・一泊旅行へのお誘い 三河武士の地から尾張徳川への旅 荒 川 和 美
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●「松川事件」を学ぶ「70周年記念全国集会」参加の呼びかけ 鶴 見 祐 策
●法廷における手錠腰縄の廃止に向けて(その3) 山 下 潔
●雇用によらない働き方を40年~公文都労委命令について 中 野 和 子
●参議院選挙関連のテレビ報道はわずか0・5% 佐 藤 真 理
●貧困・社会保障問題委員会主催事例報告学習会のご報告 鹿 島 裕 輔
●「共同親権制の導入」か、「単独親権制 の廃止」か? 後 藤 富 士 子
●2019年石川県・能登五月集会旅行記 ・3部 5月集会の読書日記と4度目の能登の旅 伊 藤 嘉 章
【 2019年 愛知・西浦総会 ~ 特集 ~ 】
いま私たちが向き合う諸課題について徹底的に討議し、前進の糧とするため、
ぜひ愛知・西浦総会に参加しよう! 幹事長 泉 澤 章
全国の自由法曹団員の皆さん、参院選挙もひとまず終わり、少しはお盆休みがとれたでしょうか。
選挙結果については、この夏、様々なところで分析がなされ、議論になったことと思います。今回の選挙は、改憲の実現をかかげた安倍政権との全面的な対決となりましたが、残念ながら後退してしまったり、突破できなかった壁に歯ぎしりする場面もありました。しかし、全体的にみれば、事前の悲観的な予想に反して、一人選挙区での野党共闘候補が三二選挙区中一〇選挙区で勝利をおさめ、改憲派に三分の二議席の突破は許しませんでした。市民と野党の共闘の前進として、この成果は率直に評価すべきではないでしょうか。もちろん、これで安倍政権が改憲をあきらめるわけもなく、秋の臨時国会へ向けて、あらたな改憲策動が始まることは間違いありません。衆参憲法審査会でも、丁々発止のやりとりが続くことでしょう。私たちを取り巻く世界情勢も、朝鮮半島情勢をはじめとして、刻々と動いています。あらたなたたかいの幕開けを、心身ともにリフレッシュした状態でむかえたいものです。
さて、九月に入り、総会のお知らせとご案内を差し上げる時期となりました。
今年の総会は、一〇月二〇日(日)から二一日(月)、愛知県・西浦温泉で開催されます。それに先だって一九日(土)には、例年どおりプレ集会も開催されます。このプレ集会では、「三菱挺身隊訴訟から徴用工裁判へ」と題して、戦時中における朝鮮半島からの強制連行・強制労働問題をとりあげます。この問題は、昨年の韓国大法院判決への対応とも関連し、日韓両政府の関係が悪化した原因とされており、特に注目されています。集会では、三菱女史挺身隊訴訟を担った団員と、韓国からお招きした弁護士からお話をお聞きします。戦争がいかに人びとの人生を踏みにじるのかを理解し、安倍政権とそのとりまきをはじめとする歴史修正主義者らの言説に対抗するためにも、ぜひ多くの団員に参加していただきたいと思います。
総会では、昨年の総会以降、自由法曹団が課題としてきたことにどう向き合い、取り組んできたのか(また、取り組めなかったのか)について、徹底して討議したいと考えています。自由法曹団全体として取り組んできた改憲阻止のたたかいについては、一日目の全体会で愛敬浩二名古屋大学大学院教授(憲法学)の講演をお聞きし、その後の各分散会においては、全国各地からできるかぎり多くの団員が発言し、意見交換できるよう、工夫した運営をしたいと考えています。
もちろん、自由法曹団が全国的な課題としてきたのは、改憲阻止のたたかいだけではありません。民意を無視して進められる米軍基地建設、人びとの生活を圧迫しながら膨脹する軍事費、治安に名を借りた人権弾圧、なお解消されない差別とヘイトスピーチ、年々悪化する労働条件と賃金の実質低下、格差社会と貧困化の拡大、次々再稼働が容認されてゆく原発と取り残されてゆく被害者等々、様々な悪法、悪政と対峙し、人権を護る団員のたたかいが、全国各地で繰り広げられています。この一年間のたたかいを振り返り、さらにこれからの取り組みについて徹底した討議をするため、二日目もできる限り多くの団員が発言できる機会を設けたいと考えています。
愛知支部ではこの間、どうすれば多くの団員が興味関心をもって総会に参加できるかについて、真剣に討議を重ねてきたと聞いています。私たちもその積極的な姿勢に呼応して、全国津々浦々から西浦温泉に集まろうではありませんか!
爽やかな秋空の下、愛知・西浦総会にてお会いしましょう。
2019年自由法曹団愛知総会へのお誘い 愛知支部(支部長) 田 原 裕 之
本年一〇月二〇、二一日、団総会が愛知県・西浦温泉で開催されます。愛知での総会開催は一九六八年に開催されてから半世紀ぶりです。
それだけ、愛知はインパクトが弱いのかもしれませんが、インパクトのあることが二つあります。
一つは、この六年間の入団者数。三八名で、東京に続いて全国二位です。
もう一つは、不況の中で「元気な愛知」と言われます。二〇一六年、愛知の工業製品出荷額は四五兆で四〇年連続全国第一位。第二位神奈川の二倍を超え、三倍近い。
現在は、輸送機械、つまりトヨタがトップですが、その歴史は軍需工場に始まります。
そのため、第二次世界大戦中の空襲被害も甚大でした。
名古屋では一九四五年だけでも五回の大空襲があり、五月一四日の空襲では当時国宝だった名古屋城天守閣が焼け落ちました。名古屋市の二四%が焼土となり、市の中心部や軍需工場が多かった地域は五〇%以上が焼土となりました。名古屋空襲の日を制定しようとしても、どの日を名古屋空襲の日とするか決められないと言う声があるくらいです。
県内に目を向けると、もっとも大きかったのは豊川海軍工廠の空襲です。豊川海軍工廠は当時東洋最大規模と言われており、米軍の攻撃標的となりました。一九四五年八月七日(広島原爆の翌日、長崎原爆の二日前)にはB29、一二四機の爆撃を受けて壊滅。わずか三〇分の爆撃で約二七〇〇名の死者を出し、その中には学徒動員された生徒五〇〇名弱、朝鮮徴用工(犠牲者数不詳)も含まれています。
その跡地には、二〇一八年六月、海軍工廠平和公園が開設されました。広島、長崎に次ぐ、日本で三番目の平和公園。地元には供養塔があり、犠牲となった朝鮮徴用工の名前も刻まれていますが、現在、日本名表記となっています。地元では、本名(朝鮮語の氏名)で表記させる運動が進められています。
支部は、実行委員会を結成。「まなぶ・つながる・つくる」を支部スローガンと決め、「参加してよかった」と思える総会にするために支部挙げての取り組みを始めています。実行委員会ニュースも発行しています。
支部プレ企画(一〇月一九日)は、朝鮮徴用工問題を取り上げます。韓国の弁護士も招くことになりました。
総会の開催地の西浦温泉は豊川海軍工廠があった豊川市の近くです。オプショナルツアーは、この豊川海軍工廠跡地を含むコースとしました。記念ミュージアムには、五〇〇ポンド爆弾の破片や、女子動員学徒が着ていた制服などが展示されています。海軍工廠の施設の一部が残っています、取り壊しの動きもあり、「海軍工廠跡地の保存を進める会」などの保存運動とのせめぎ合いがあります。「見るなら今」です。
日頃の活動その成果を持ち寄って、お集まりいただきたい。二〇一九年秋の情勢にかなった西浦総会、参加してよかったと実感していただける愛知・西浦総会とすることをお約束し、全国の団員の皆さまの参加を呼びかけます。
【半日旅行・一泊旅行へのお誘い】
三河武士の地から尾張徳川への旅
豊川海軍工廠平和公園、豊川稲荷(半日ツアー、一泊ツアーとも)、湯谷温泉泊、ピース愛知、徳川美術館、名古屋城(一泊翌日) 愛知支部(幹事長) 荒 川 和 美
一 豊川海軍工廠平和公園
日本海軍の航空機や艦船などが使用する機銃とその弾丸の主力生産工場として、昭和一四(一九三九)年に、愛知県豊川市に設置したのが豊川海軍工廠です。終戦間際の昭和二〇(一九四五)年八月七日、アメリカ軍のB二九爆撃機による空襲により、二五〇〇人以上の方々(朝鮮人徴用工を含む)が犠牲となった悲しい歴史が刻まれた場所です。豊川市では、戦後五〇周年の平成七(一九九五)年に平和都市宣言をし、この場所で戦争の悲惨さと平和の尊さを伝えることを目的として、平和公園が整備しました。公園内には、豊川海軍工廠の建物や防空壕跡などの当時を偲ぶ遺構、海軍工廠の歴史・戦争遺跡について学ぶ平和交流館などがあります。
二 豊川稲荷
日本三大稲荷のひとつと言われ、正式名を「妙嚴寺」、山号を圓福山とする曹洞宗の寺院です。寺院ですが鳥居があります。一般的に「稲荷」というと、「狐を祀った神社」を想像される方が多いでしょうが、鎮守は、豐川吒枳尼眞天(とよかわだきにしんてん)です。豐川吒枳尼眞天が稲穂を荷い、白い狐に跨っていることから、「豊川稲荷」が通称として広まったそうです。
三 湯谷温泉
奥三河と言われる新城市にある渓谷の出で湯です。周囲は鳳来峡と呼ばれる風光明媚な景勝地で、宇連川の両岸に旅館が立ち並び、桜・新緑・紅葉などが四季折々に板敷川の清流に映え、刻一刻表情をかえる渓谷として有名です。涌き出る鳳液泉は、一二〇〇年前より万病に適するものといわれ、数多くの人々に親しまれている湯です。
四 戦争と平和の資料館ピースあいち
名古屋市名東区にある資料館です。ある故人の寄付をもとに、多くの市民の力で、二〇〇七年五月にオープンしています。あの戦争を忘れないように資料を集め、記憶をつなぎ、それらを展示している資料館です。戦争から教訓を学び、二度と再び戦争をしないように、平和のために行動するきっかけとなるように願って運営されているとのことです。
五 名古屋城、徳川美術館
愛知と言えば、名古屋、そのシンボルは、一六一五(慶長二〇)年、徳川家康によって建てられた名古屋城。金のしゃちほこ、大天守、絢爛豪華な本丸御殿、城郭として国宝第一号に指定された名城です。
名古屋城は、尾張徳川家の居城として栄えました。徳川美術館は、侯爵徳川義親の寄贈にもとづき、伝えられた数々の重宝いわゆる「大名道具」をそっくりそのまま収め、展示・公開している他に例を見ない美術館です。収蔵品は徳川家康の遺品を中心に、代々の遺愛品や、その家族が実際に使用した物ばかり一万数千件余りにおよび、当時の大名家の生活ぶりを知ることができます。
六 おわりに
愛知県については、多くの方は、歴史上は、織田信長や徳川家康の出身地、独特の名古屋弁くらいの認識と思いますが、全国的にはあまり知られていない施設や名所を選び、歴史に触れていただきながら、自由法曹団らしく、戦争と平和を考える機会にもなるような企画にしました。存分にお楽しみかつ学んでいただければ幸いです。
「松川事件」を学ぶ「70周年記念全国集会」参加の呼びかけ 東京支部 鶴 見 祐 策
一 集会の概要
九月二一日(土)と二二日(日)の二日にわたり「松川事件七〇周年記念全国集会」が開かれる。会場は福島大学。実行委員会(HP:松川運動記念会で検索できる)の主催だが、福島大学松川事件研究所のほか全国労働組合総連合、日本国民救援会と自由法曹団も名を連ねる。チラシに触れた団員もおられると思う。
一日目は午後(一二時四五分)の開演。映画監督の周防正行氏が「冤罪をなくすために」と題して講演される。再審法改正の運動も視野のお話と思う。二日目は午前から布川事件元被告の桜井昌司さんら登場のシンポがあり、午後は「記念塔セレモニー」のほか原発被災地視察(オプション)も予定。松川資料展や映画鑑賞もある。
二 松川事件と松川裁判
「松川事件」とは七〇年前(一九四九年)の八月一七日未明、東北本線の松川駅の近くで上り列車が脱線転覆して乗務員三名が殉職した事件である。警察・検察合同の捜査本部は、国鉄(JRの前身)労組の一〇名と東芝労組の一〇名の労働者を順次逮捕して列車転覆致死事件の罪名で起訴を強行した(最終一二月四日)。「松川裁判」である。
一審の福島地裁、二審仙台高裁とも死刑・無期を含めた有罪判決(二審は三名が無罪)を言渡すが、上告審の最高裁大法廷は弁論(一〇日間)の弁論を開いて破棄差戻し、差戻後の仙台高裁がほぼ全面的な調べ直しを行い全員の無罪を言渡し、最高裁が検察の再上告を退けて確定した。一九六三年九月一二日。一四年の苦闘が実った勝利だった。元被告らが提起の国賠訴訟でも裁判所は、元被告らの「無実」を確認のうえ国(法務大臣)に損害賠償を命じて決着した。
三 松川事件の真相と本質
「戦後最大の冤罪事件」と言われながら、この事件の真実と裁判の実態が知られていないことを気づかされる。捜査を誤った結果の「冤罪」とは違う。最初から先進的な国鉄と東芝の労働者に狙いを定めていた。事件から間もない時期に国警福島隊長(新井裕)は「二つの幹線と一〇本の支線を一本にできればしめたもの」と記者団に語っている。すでに労組の幹部を標的とする筋書きを用意していた。捜査首脳は彼らの無実を知っていた。だから「権力犯罪」であり、「政治的謀略」なのだ。
当時の日本はアメリカ占領軍(GHQ)の施政の下にあった。極東の反共基地の構築を目指したアメリカは、日本政府に「経済安定九原則」の実行とドッチプランに基づく官公庁と企業の労働者の大量首切りを強行させるとともに一九四九年を節目に労働運動と民主運動の鎮圧に乗り出した。同年一月の総選挙で共産党が躍進(三五名当選)したことにも神経を尖らせた。四月に公布の団体等規正令(後の破防法)は共産党の非合法化も視野に入れていた。
とりわけ炭鉱と発電を擁する福島は戦略の重要な拠点だった。県都には軍政府が置かれ日本の検察と警察を配下に法務担当の軍人が睨みを利かしていた。裁判所も埒外であり得ない。共産党の県委員長も呼び出された。高級将校が党員名簿を要求し「これは作戦命令だ」「七日以内に提出しないと軍事法廷にかける」と脅したという。その場を逃れた委員長は即日姿を晦らます。事件発生の「何日か前だった」という。
鉄道の管理は米軍の専権だった。下り列車の運休が現場作業に必須の条件だったが、ダイヤ変更の経緯を日本側は誰も知らない。米軍に纏わる謎が尽きない。
事件が起こるや内閣官房長官(増田甲子七・内務官僚で勅撰の福島県知事)が「共産党の仕業」を示唆する談話を発表した。これも政治謀略の一環であろう。
四 家族会の結成
裁判では「自白」の捏造や各被告のアリバイなど検察の筋書きの矛盾が露呈した。しかし新聞・ラジオは、専ら警察・検察に乗じて「真犯人」と書きたてた。氾濫するデマで「被告」と家族は孤立を強いられた。団結が急務だった。支援者の尽力で家族会が結成された。岡林辰雄弁護人が語った。「無実はあなたがよく知っている。家族が立ち上がって訴えれば国民はきっと分かってくれます。それが裁判に勝つ何よりの力になります」と。これを契機に家族は街頭や駅前に立ち不馴れなメガホンをとり衆人の白眼視に耐えて訴え始めた。それが「松川運動」の起点となった。
五 弁護団の拡大と知識人の参加
一審は主に岡林弁護士と大塚一男弁護士が奮闘された。二審から吉田三市郎団長はじめ新たな団員が参加したが、被告の呼び掛けで仙台弁護士会の袴田重司会長を先頭に三三名もの弁護士が参加したのが転機をもたらした。福島からも安田覚治弁護士ら一〇名、自由人権協会の海野晋吉弁護士のほか全国からも多数の弁護士が参じて弁護活動の幅を広げた。また被告の手記「真実は壁を透して」が広津和郎氏と宇野浩二氏の目にとまり知識人の支援が世論を動かす兆しをもたらした。
六 「無罪」から「公正」の要求へ
二審の過程では検察が「自白」と符合しない「継目板」二枚を隠匿し、一審の裁判長が入手した身体障害の被告の診断結果を隠して判決を強行したことなど、検察と裁判所の不正が露呈した。「裁判の公正」の要求が起こった。それが「自分には有罪か無罪かは分からない」と遠巻き留まった人々を引きつけた。「無罪要求」に代わり「公正要求」の署名運動が救援運動の幅を広げる転機となった。これまで運動に距離をおいた国鉄労組や総評大会でも「公正裁判要請決議」が相次ぐ変化をもたらした。
七 最高裁に向けた闘い
最悪の二審判決に怒りと絶望が交差したが、国鉄労組と東芝労組が「裁判やり直し」を決議し、広津氏が判決批判の執筆を開始され、総評も本格的な支援に乗り出した。出版、映画、演劇など多彩に展開された。極度の緊張は弁護団だった。刑事事件で死刑・無期の原判決を覆した大法廷の前例は皆無であり、当面の相手は「反共主義」で人後に落ちない長官(田中耕太郎)が蟠踞する最高裁だった。立ち向う渾身の闘いとなった。
その間に救援運動の再興の過程で新たな展開があった。検察が秘匿する「諏訪メモ」が暴露された。これこそ捏造構想の骨格「連絡謀議」の虚構を暴く不動の物証だった。世論の高まりを背景に異例の取寄せと弁論での閲覧を実現させ破棄差戻の判決(評決七対五)に結びつけた。勝利の転機となった。
八 学ぶべき多くの教訓
広津氏による記念塔の碑文には「官憲の理不尽な暴虐に対して俄然人民は怒りを勃発し、階層を超え、思想を超え、真実と正義のために結束し、全国津々浦々に至るまで、松川被告を救えという救援運動に起ちあがった」と記される。
松川の教訓は多彩だが、私たちの視点では「大衆的裁判闘争」が重要であろう。松川運動は日本に「大衆的な裁判批判」の道を拓いた。松川資料に集積の人々の発言に「守る会」草の根運動の原点が見出せる。「何をすべきか」の自問に始まる。それが献身的で独創的な行動を導き出す根源となった。また現場を踏査し実験に参加し「でっち上げ」を体感し説得力を磨き周辺に浸透を可能にした。酵母の増殖に似ている。それが未曾有の壮大な闘いに発展した。それを先達の体験談から読み取ることができる。
その教訓を今後に活かし発展させたいと思う。
法廷における手錠腰縄の廃止に向けて(その3) 大阪支部 山 下 潔
一 法廷における解錠に画期的な大阪地裁判決
(大阪地裁令和元年五月二七日判決確定)
要旨は、公開法廷において人身拘束を受けている被告人は、傍聴人に手錠姿を見られたくないことは、法的に人格的利益である。憲法一三条の人間の尊厳としての人格権を認めたものと考えられる。 なお、この大阪地裁判決の前に、
「人間の誇り、人間らしく生きる権利」(大阪地裁判例時報平成七年一月三〇日号 判例時報一五三五号一一三頁)がある。
この判決は、憲法一三条に国際自由権規約七条を補完して、人格権として最高裁で確定した。今回の大阪地裁判決はさらに独自に内容を深化したものである。
二 判決は被告人の法廷における解錠について三つの具体的方法を指摘している
①法廷の被告人出入口の扉のすぐ外で手錠等の着脱を行うこととし、手錠等を施さない状態で被告人を入退廷させる方法、②法廷内において被告人出入口の扉附近に衝立等による遮へい措置を行い、その中で手錠等の着脱を行う方法、③法廷内で手錠等をほどいた後に傍聴人を入廷させ、傍聴人を退廷させた後に手錠等を施す」こと。
三 判決は最高裁判所総務局から各裁判所所長宛通達を出していることをふまえて、裁判長は、「被告人の要望に配慮し、身柄拘束についての責任を負う刑事施設と意見交換を行うなどして、手錠等の解錠及び施錠のタイミングや施錠及び解錠の場所をどうするかという点に関する判断を行うのに必要な情報を収集し、その結果を踏まえて弁護人と協議を行うなどして具体的な方法について検討し、具体的な手錠等解錠及び施錠のタイミングや場所について判断し、刑務官等に対して指示することが相当」であると。
結論としては、裁判官の法廷警察権の行使には広範な裁量が認められることを前提として、裁判官らの措置は国賠法上の違法と評価することはできないとして棄却された。しかし、この大阪地裁の判決は、手錠・腰縄を施された被告人の姿を見られないようにしてほしいという弁護人の申入れに対し、何らの協議等をすることもなく対応しない裁判官の措置を相当でないと判断した点で、極めて画期的な判決である。
四 現在近弁連大会決議がされ、大阪弁護士会にPTが発足している。大阪地裁、京都地裁、大津地裁、静岡地裁浜松支部などにおいて、①②などの方法がとられ、徐々に運用の変化がみられている。兎に角、監獄法施行後一一三年ぶりの判決であり、刑事弁護人は被告人の人間の尊厳確保のために、法廷における解錠の申込みを実践することが肝要である。
雇用によらない働き方を40年 ~公文都労委命令について 東京支部 中 野 和 子
二〇一九年七月三一日、全面勝利の命令が全国KUMON指導者ユニオンの委員長に交付された。相談を受けてから約一〇年の歳月がかかった。感謝と共感の声はユニオンのHPに掲載されている。組合員数は全指導者一万五〇〇〇人ほどの内約六〇〇名である。
公文はテレビCMも行い著名な教育産業であるが、団員にもかつて通っていた方、お子さんを通わせている方もいるであろう。この教室指導者は、株式会社公文教育研究会に雇用されているのではなく、フランチャイズ契約を締結している。
もともと、自宅で専業主婦が内職のように行うというビジネスモデルであり、指導者のほとんどが女性である。そして、自立して生活できるだけの収入は得られないほど、ロイヤリティが高額である。
売上の四〇%をロイヤリティとして納めるため、児童数減少傾向の中収入が減る中赤字の指導者も多数いる。また、週二回だけ教室を開けばよいという誘い文句で始めた指導者が多いが、実際には、ほぼ週四〇時間働いてる常況があった。
さらに、契約上、三〇〇m以内には教室を会社は作らないというテリトリー権が指導者にはあるが、小学校数、児童数ともに大きく減少しているにもかかわらず、過去四〇年間変更がない。そのため、近隣教室の新設は大きな収入減につながる。しかし、会社は、一方的に「普及率」なる指標を策定し、事前相談もなく近隣教室を新設してきた。そのため、廃業した指導者、赤字に苦しむ指導者が続出した。
また、一教科の会費は会社が一方的に定め(都労委審問中にも一方的に値上げを決定した)、会社が決めた費用しか父母から徴収できず、冷暖房費名目でも禁止された。無料体験学習は学習者が無料なだけでなく指導者も無償奉仕になる。
フランチャイズ契約では、指導者が直接指導する義務が規定されている。また、公文式では、国語と英語は音読チェックを指導者がしなければならない(補助者も可)。プリントも宿題も指導者が採点し、次にどこまで進行させるか進度を決めなければならない。公文式では、「ちょうどの学習」をさせることになっており、その「ちょうど」とはどの程度なのか、個々の児童・生徒に合わせて教材をセットするために時間を要する指導者が多い。
最近の問題として、ベビーくもんや幼児対応、困難児童・生徒を学校から紹介されるとか、親が託児所代わりに教室に長居させることがある。保護者対応も様々であるし、子どもの安全対策も昔と異なり必要になってくる。
このような様々な問題を抱えていた指導者たちが、教材内容も理解していない、児童の指導もできない会社の事務局の給与の高さに怒りを覚えたことが活動の始まりであった。
公文式では小学生で高校教材を学ばせるという目標があり、そのような優秀児を輩出する指導者は冊子で全国に紹介される。教科数(児童数ではなく国語、算数という契約教科で評価される)が多い指導者も全国ランキングで紹介される。
委員長は、御年八〇歳の超ベテランであり、多々優秀児を輩出している全国でも有名な指導者であるので、全国の指導者に対しても求心力がある。
他の執行委員も六〇歳を超える指導者が多いが、これは指導者全体の年齢層が高いこと、若い人は収入が少なくユニオンどころでないことにも起因している。
ユニオン結成前の二〇一〇年、「教室運営を考える指導者の会」を結成し、実態の把握のために、全国の指導者に呼びかけて、税務申告などに基づき収入調査を実施し約七〇〇名から回答を得た。これをもとに会社と協議しようとしたが、「ロイヤリティについては話さない。」と言われた。二〇一四年八月、やはり労働組合にしようということで、組合を結成し、会社に通知して団体交渉を申し入れたがやはり、同様に、団体交渉ができなかった。
そこで、宮里邦雄団員に弁護団に入っていただき、二〇一七年二月一七日、都労委に不当労働行為救済申立をした。
都労委は、判断にあたり、指導者の大半を占めている年収四〇〇万以下の低収入層を観察し、フランチャイズ契約がライセンス契約の側面だけでなく、会社の事業として公文式教室発展を目的としていることに着目し、「指導者なくして公文式なし」との紹介文のとおり、事業組織への組み入れを認めた。
都労委は、一貫して契約文言や金銭の移動、納税方式など形式にとらわれることなく、実態として報酬の労務対価性、広い意味での指揮監督下の労務提供などを認定している。
顕著な事業者性については、年収四〇〇万円以下の者が大多数であること、原則二教室までしか開けず利益が限定的であること、利益は限定的にもかかわらずリスクは全て指導者が無制限に追うことなどから、否定した。
コンビニの中労委命令と判断の視点が異なるのは、①フランチャイズ契約者のどの層に着目したか、②フランチャイズ契約を単なるライセンス契約とみたか(会社の事業をどのようにみたか)、③形式だけで判断したか、④個人契約であるか、法人を併用していることを認めたか、⑤利益の限界という点に着目したか、というところであろうか。
さっそく八月三日にユニオンが団体交渉を申し入れたものの、会社が直ちに拒絶し、中労委に再審査を申し立てると全指導者に通知しているので、中労委に審査が移ることとなる。
参議院選挙関連のテレビ報道はわずか0.5% 奈良支部 佐 藤 真 理
一 二〇一九年参議院選挙は、国民の暮らしと日本の未来がかかる歴史的な選挙であった。とりわけ、安倍首相が、「憲法を議論する政党を選ぶのか、全く審議しない候補者を選ぶのかを決めて頂く選挙だ。」と絶叫するなど改憲問題を初めて前面に立てて臨んだ国政選挙であった。
ところが、投票率は五割を切り、四八・五%に留まり、戦後二番目の低さであった。朝日新聞は、「政党が『棄権』に負けた」との社説を出し、「候補者すべての得票の合計を棄権が上回ったことになる。議会が民意を正確に反映しているか疑われかねない。」として、「まず問われるべきは、有権者を引きつけることができなかった政党、政治家の責任だ。」と指摘した。
二 しかし、政党・政治家の責任を問うこと以上に、マスコミの責任、とりわけNHKの責任が問われるべきである。
選挙戦の中盤、七月一三日から一五日までの三日間は、土日祝日の三連休であったが、驚いたことに、NHKは一四日(日曜日)の朝九時から七〇分間の各党代表者の討論会を企画しただけで、政見放送、経歴放送を除いて、選挙関係の報道を全く行わなかった。消費税引き上げ問題、年金など社会保障問題、イラン沖への「有志連合」問題、日韓関係、改憲問題など七つの論点について、与野党七党の代表に順次聞いていくというやり方で、各論点について、一〇分程度の議論に限られ、各党の発言は、自民党の萩生田幹事長代行以外は、わずか一分程度で、議論が深められることはおよそ不可能であった。三連休のNHKテレビは、テニスのウインブルドン大会の男女決勝、大相撲などのスポーツ番組、芸能ニュース、グルメ番組やバラエティー番組などに支配されていた。
三 NHKを含む在京の地上波テレビ六局が参議院選挙公示後の一七日間に行った選挙関連の放送の総合計はわずか三六時間八分に過ぎなかった。三六時間というと、六局のテレビ放送時間全体のわずか〇・五%に過ぎなかったのである。三年前の二〇一六年参議院選挙時より五時間二二分減少、六年前より一三時間一〇分減少と、テレビの選挙報道は減り続けているのである(エム・データ社の集計)。
投開票日の七月二一日には、各テレビ局は「開票速報」を長時間に亘って放送したが、全議席が確定した翌朝には、吉本興業の反社会勢力「闇営業」問題一色で、参議院選挙の総括番組は見られなかった。
四 二〇一七年一二月六日の最高裁大法廷判決は、「放送は、憲法二一条が規定する表現の自由の保障の下で、国民の知る権利を実質的に充足し、健全な民主主義の発達に寄与するものとして、国民に広く普及されるべきものである。」と判示した。
国民の知る権利に奉仕し、民主主義の前進に寄与する公共放送を標榜し、国民から放送受信料を徴収しているNHKならば、普段はスポーツや娯楽番組が多いとしても、国政選挙期間中は、選挙に関する報道の量を飛躍的に増やすのが当然ではないか。少なくとも、連日、夜間のゴールデンタイム(午後七時から一〇時)の半分程度の時間を選挙関連報道に充てる、週末は日中も含めてさらに十分な時間を選挙報道に充てるべきであろう。選挙報道は、情勢分析ではなく、争点を中心にして、政党間の議論、有識者及び各世代や各界各層の代表者、関係者も含めた討論会、ディベートなどを企画すべきである。
五 戦前、「大本営発表」の道具とされて侵略戦争に加担した痛苦の歴史の反省の上に、基本的人権の尊重、恒久平和主義の憲法のもとで民主主義の前進、発達に寄与するものとして発足したのがNHKである。
ごく短時間の政党討論会と各党首の街頭演説の切り貼りなどでお茶を濁す、NHKの現在の選挙報道は、争点や現政権のウソと偽りの政権体質の顕在化を避けようとする、政府与党寄りの「アベチャンネル」の象徴と批判されなければならない。
吉本騒動にみられるように、視聴率優先で、CM収入に依存する民間放送の限界が露呈されつつある今日、NHKを「政府の広報機関」から、国民の知る権利と民主主義の前進に寄与する「市民的公共放送機関」に変えていくために、奈良地裁で闘われている放送法第四条遵守義務確認等請求訴訟は極めて重要である(団通信一六五七号参照)。
六 早晩行われる総選挙に向けて、市民連合と五野党・会派の一三項目の「共通政策」を柱に、さらに市民と立憲野党の連携を強化し、「野党連合政権」を目指す共闘の構築が喫緊の課題となりつつある。 上記「共通政策」の一三番目に「国民の知る権利を確保するという観点から、報道の自由を徹底するため、放送事業者の監督を総務省から切り離し、独立行政委員会で行う新たな放送法制を構築すること。」が盛り込まれている意義はきわめて大きい。(二〇一九・八・一六)
貧困・社会保障問題委員会主催 事例報告学習会のご報告 事務局次長 鹿 島 裕 輔
自由法曹団では、生活保護行政に関する問題を始めとする貧困・社会保障問題に取り組んでいる団員が全国各地に多数います。各地で取り組まれている団員の活動を学び、今後の活動に生かすべく、貧困・社会保障問題委員会では事例報告学習会を企画し、七月二四日(水)に団本部にて実施しました。
今回は、生活保護行政の運用について考えるべく、東京立川市生活保護廃止自死事件の調査団の団員である東京・佐藤宙団員に調査団として行った活動について報告してもらいました。同事件は二〇一五年一二月一〇日、東京都立川市で生活保護を受けていた男性が、就労指導違反を理由とする生活保護廃止処分後に自殺したという痛ましい事件です。一通の共産党市議団へのFAXにより事件が発覚し、自由法曹団も呼びかけ人となって調査団が結成され、真相究明と再発防止のために調査や東京都、立川市への申入れが行われました。調査団や市議会議員が東京都や立川市に説明を求めましたが、事実関係が明らかにされなかったため、調査団による情報公開請求や市内無料低額宿泊所や地元不動産屋、支援団体への聞き込みなどの調査が行われました。このような調査団の地道な調査活動の結果、男性が軽度の知的障害等を抱えていた疑いがあったこと、福祉事務所が援助者の個別の事情を無視した機械的・画一的でかつ不可能な就労指導を行っていたこと等の事実が明らかになりました。この調査で明らかになった事実関係を踏まえて、立川市へ申入れ、懇談を行った結果、市の主催で軽度障害を持つ方の支援についての研修が行われるとともに、就労指導違反を理由とする停止・廃止の際に再申請や不服申立てができることや相談機関等が記載されている書面を交付することを市に約束させるという画期的な成果を得ることができました。
佐藤団員による報告を踏まえて、改めて就労指導がもつ意義を考える必要があると思いました。就労指導違反による保護停止・廃止をする場合、援助者が要保護状態にあることに変わりはありません。そのため、就労指導違反による保護停止・廃止は極めて例外的な処分であり、仮に同処分を行うとしても慎重な手続を経て行わなければいけません。そして、世の中には個別の事情により働きたくても働くことができない人がいます。今回の男性も一~二年ごとに職場を変わり続けており、就労意欲はあるが建設的な人間関係を構築することが苦手等の一つの職場に留まることができない要因があったと窺われます。そのような個別の事情を考慮することなく、機械的・画一的な就労指導を行うことは許されません。福祉事務所の職員は、この就労指導がもつ重大な意義を認識し、就労指導のあり方を考える必要があると思います。そして、その背景には、「就労支援による保護廃止」人数の目標値が設定されているという問題があります。厚労省は、平成二七年三月三一日付社会援護局保護課長通知(社援保発〇三三一号第二二号)「就労促進計画の策定」において、「稼働能力を有する被保護者」の就労促進計画の策定・推進にあたり、生活保護利用者の就労による収入増による生活保護廃止者数等の目標値を定めるよう各自治体に求めています。そのため、各自治体で目標数値が設定されていることにより全国で同種事件が発生する危険がありますので、全国でも立川市と同様の取り組みが必要であると思います。
今回は上記事件のほかにも、東京・林治団員から東京都大田区福祉事務所による就労指導違反を理由とする生活保護停止事案、多摩市福祉事務所による水際作成事例が報告され、群馬・赤石あゆ子団員より住宅扶助(敷金等)支給申請却下処分に対する審査請求事例が報告されました。いずれも生活保護行政の運用のあり方を考える上で、大変重要な事例であったと思います。
今後も貧困・社会保障問題委員会では、今回のような学習会を開催し、各地の団員が関与する事例を収集し、その事例から生活保護行政を始めとする貧困問題について考え、今後の活動に役立つように努めるとともに、一人でも多くの団員が貧困・社会保障の問題に興味・関心を持ち、各地で同問題に取り組む契機となるよう、引き続き活動を続けていく次第であります。
「共同親権制の導入」か、「単独親権制の廃止」か? 東京支部 後 藤 富 士 子
一 民法は、父母が婚姻中のみ共同親権としており、父母が法律婚をしていない場合や離婚した場合、父母のどちらか片方の単独親権としている。婚姻中のみであっても父母の共同親権とされたのは、単に「両性の平等」というだけでなく、それが「子の福祉」に適うと考えられたからである。その根本には、「家」制度が否定され、夫婦・親子という家族構成員個人が尊重される「家庭」が措定されている(憲法二四条)。
一方、未婚や子の出生前に父母が離婚したときには、一義的に子を産んだ母の単独親権とされ、父母の協議または家裁の審判により父を親権者とすることができるが、いずれにせよ単独親権である。この場合、子が生まれた時点で父母が法律上の夫婦でないために、共同親権を是とする「家庭」が存在しない。これに対し、子が生まれた後に父母が離婚した場合、共同親権から単独親権に変更される。この場合には、共同親権を是としていた「家庭」が消失するのである。
すなわち、共同親権か単独親権かの区別は、専ら父母が法律婚関係にあるか否かによっている。それは、法律婚のみを「正統な家庭」とみなし、「家庭の在り方」の多様性を許容しない。だから、父母が法律婚関係になくても、実質的に共同親権行使が可能か否かは一顧だにされない。そして、父母が法律婚関係にない場合には、法制度として単独親権制こそが子の福祉に適うと擬制されている。
しかしながら、これでは、父母が法律婚関係にあるか否かで親権について極端な差を設けることになり、父母にとっても、子にとっても、社会的身分により社会的関係において差別されることにほかならず、憲法一四条に違反する。また、別の視点でみれば、離婚や未婚を「家庭の在り方」として異端視することでもあり、個人の尊重と幸福追求権を定めた憲法一三条にも違反する。
二 父母が婚姻中は共同親権とされたのは、それが子の福祉に適うとされたからである。それでは、父母が法律婚関係にない場合には、共同親権は例外なく子の福祉に反するのであろうか?
一九八五年に日本でも発効した女性差別撤廃条約一六条一項(d)は、子に関する事項についての親(婚姻をしているかいないかを問わない)としての同一の権利及び責任を定め、あらゆる場合において、子の利益は至上である、としている。また、一九九四年に日本でも発効した児童の権利条約一八条では、①子どもの第一次的養育責任は親にあり、国はその責任の遂行を援助する立場にあるとする基本原理を定め、②子どもの発達・養育に対しては、親双方が共同の責任を有するとしている。
これらの規定からすれば、父母が法律婚関係にないからといって共同親権制が排除される理由はなく、むしろ共同養育が子の福祉に適うと前提されている。そのうえで、親権の行使が子の福祉に反する場合には、父母が法律婚関係にあるか否かに関わらず、また、共同親権であるか単独親権であるかに関わらず、国の介入が認められる。実際、民法でも、親権喪失・停止や管理権喪失の審判が制度化されているが、離婚が親権喪失事由とはされていない。
しかるに、婚姻中は父母の共同親権であったものが離婚により単独親権となるのは、父母のどちらか片方について離婚を親権喪失事由とするものであって、「子の福祉」が論じられる余地がない。換言すると、婚姻中は父母の共同親権が子の福祉に適うとされているのに、離婚によって単独親権となることが子の福祉に適うと論証することは不可能である。
三 ところで、昨年七月一七日の記者会見で、上川陽子法務大臣は「親子法制の諸課題について、離婚後単独親権制度の見直しも含めて、広く検討していきたいと考えています」と述べた。私は、「離婚後単独親権制度の見直し」=「離婚後単独親権制の廃止」と受け止めたが、憲法学の木村草太教授は「共同親権制度導入」と言い換えて論難している。
私がこの一〇年余り主張してきたのは、「離婚後単独親権制の廃止」である。それは、ある日突然に妻が幼い子を連れて失踪する「離婚事件」が頻発し、離婚紛争として想像を絶する悲惨な家庭破壊・人間破壊が繰り広げられるのを目の当たりにしたからである。すなわち、離婚が成立していないのに、事実上片親の親権行使が不可能になる事態が生じ、「婚姻中は父母の共同親権」という民法の規定は踏みにじられる。しかも、裁判所がそれを違法としないばかりか、離婚判決では連れ去った親を単独親権者に指定するのである。こうなると、「離婚後の共同親権制導入」などと寝言を言ってはいられない。「単独親権制の前倒し」を止めさせるしかないのである。しかし、離婚前に子を連れ去るのは、離婚後の単独親権者になるためである。したがって、「離婚後単独親権制」がある限り、「連れ去り」「引き離し」の横行を防ぐことはできない。
また、離婚後単独親権制では、離婚と単独親権者指定が同時決着しなければならない。そのことが、離婚紛争の解決手続を荒廃させ、親にも子にも全く理不尽な辛苦を強いている。この理不尽で不合理な手続を解消するためには、離婚後単独親権制を廃止すれば足りる。すなわち、離婚後の共同親権の具体的なあり方について、家裁の手続により解決すればよいのである。民法七六六条は、それを想定している。
こうしてみると、「共同親権制度の導入」と「単独親権制の廃止」と、問の立て方によって答えが正反対になりうることが見て取れる。実際に生起する「リアル」に基づいて論理を構築しなければ、理屈だけの「バーチャル」に打ち勝つことはできない。法律には素人の当事者が、「離婚後単独親権制の廃止」(民法改正)という正確な目標を掲げて運動することが極めて大切と思われる。〔二〇一九・四・七〕
2019年石川県・能登五月集会旅行記・第3部 5月集会の読書日記と4度目の能登の旅
東京支部 伊 藤 嘉 章
帰りの車内の読書 その一
集会の書籍売り場で買った本に本庄豊著「『明治一五〇年』に学んではいけないこと」(二〇一八年発行)がある。
私は「万葉集は反逆の書か」(団通信一六六八号)に、「明治天皇殺害を企てたとして大逆罪で一九一一年に処刑された幸徳秋水が死に臨みて作れる歌……があったとしても、一九四五年まではとても公表することはできなかったであろう。」と書いた。
ところが、幸徳秋水には、短歌ではないが、辞世の漢詩があるという(本庄豊の前記著・六八頁)。
区々成敗且休論 区々たる成功失敗且く論ずるを休めよ
千古唯応意気存 千古 唯応に意気に存すべし
如是而生如是死 是の如く生きて 是の如く死す
罪人又覚布衣尊 罪人又覚ゆ布衣の尊きを
但し、この漢詩がいつ公表されたかはわかりません。
帰りの車内の読書 その二
次に大久保団員から購入した同人著の「『核時代』と憲法九条」(日本評論社・二〇一九年五月発行)を読む。
一泊旅行の食事会で、大久保団員から酒の勢いとおもわれますが、私にこの本を贈呈するとの話があった。しかし、私としては、タダでもらうと、書評で言いたいことが書けなくなることを恐れ、贈呈を固辞して次の日に売価一七〇〇円で購入した次第であります。領収書があります。
大久保団員とは意見を異にする傍流部分は流し読みして、核兵器をなくすにはどうしたらよいかとの核心部分を心して読もうとしたところ、缶ビールではあるがだんだん酔いが回ってきたようだ。この話は次回にしよう。
行きの車内の読書
東大教授品田悦一著「万葉集の発明 国民国家と文化装置としての古典」(二〇一九年・令和元年五月新装版発行)を読む。「万葉集は一八九〇年(明治二三年)前後の十数年の間に発明された」ことを論証する本であるという(同書十五頁)。
作者層 「天皇から庶民」までのあらゆる階層にわたる。
表現の特徴 「素朴」な感動を「雄渾」な調べで「真率」に表現(二五頁)。
百年も長持ちした優秀な発明である(三一九頁)。
帰宅後の読書「ゼロの焦点」
一泊旅行の夜の食事会で、M団員が「ゼロの焦点」のボートを漕ぎ出す最終場面をけなす発言をする。また、この団員は、「あれが能登金剛です」と説明した巌門の売店の店員に「ボートを漕ぎ出したところはどこですか」と聞いていた。こだわりがあるようだ。
私も、日ごろから松本清張の小説は推理小説としては二流であり、人を殺しすぎると思っていた。ゼロの焦点では四人も殺している。但し、占領下の戦後の風俗に関連した人間模様というテーマからすれば読むに値するのではないかと応答した。
文庫本の解説者平野謙も「いわゆる本格的な推理小説としては『ゼロの焦点』は隙間のある不十分な作品にすぎない、ともいえるのである。しかし、……『ゼロの焦点』は……一個の文学作品としてはやはり松本清張の秀作のひとつだ、というのが私の意見である。」という(前出「ゼロの焦点」四七九頁・以下は前出書のページ数のみを記載する)。
「ゼロの焦点」は文学作品か
夫なき新妻鵜原禎子は能登金剛の崖の上に三たび立つ。
一回目 検視写真は夫ではなかった(一四一頁)ときのこと
「断崖のうえで、禎子は暗い海の凝視を続けているうちに、夫の死がこの海の中にあるような気がしてきた。その泡だっている波の下に、夫はひっそりと横たわっているのではなかろうか。海の暗い色が自然にその錯覚を起こさせた」(一四三頁)。
二回目 夫の遺書「永遠の煩悶をもっておまえの前から消える」(三〇九頁)
「海の方を見ると、いくつもの岩が立って海に突き出ている。鑑賞的にみれば、なるほど能登金剛の名に値しそうな景色だったが、今の禎子には海原の墓場のようにしか思えなかった」(三一八頁)。
三回目 犯人も犯行の動機も全てわかったあと
一 「わずかに裂けた雲の一部分だけは、あたかも荒涼とした北欧の古い絵を見るように、いつまでも黄色い光が残っていた。その淡い光線のために、黒い一点は、人間の目から、消え去らないでいた」(四六八頁)。
M団員が指摘したのは、ここの部分ですか。
二 「禎子は、いつぞや、現在立っている場所と、百メートルと離れていない岩角に立って、心にうたった詩が、この時、不意に胸によみがえった。
とどろく海辺の妻の墓
In her tomb by the sounding sea !
禎子の眼を烈風が叩いた」(四七〇頁)。
感想 表現がわざとらしい。松本清張は志賀直哉を目指していたのだろうか。
まとめ
夫なき新妻鵜原禎子には「ひとり……かなしとおもへり能登の初旅」(清張の歌碑から)であった。
私には、四度目の能登の旅である。
一度目 四十年前の司法試験合格記念の能登旅行
このときは、和倉の先の穴水から山越えで輪島まで行く七尾線に乗った。昭和四三年の時刻表添付の地図によると、国鉄の路線が、穴水から輪島へ行く七尾線と、穴水から能登半島の先端近くの蛸島まで行く能登線とに分かれていたことがわかる。
夜になって、私が乗った輪島行きの車内には天井に白熱灯がともり、他に客がいなかったような気がする。
二度目 二十年以上前か。家族旅行で能登一周。
当時は、穴水から蛸島まで国鉄から第三セクターになった能登鉄道能登線が運行しており、「縄文真脇駅」でおりて、真脇遺跡の木柱列を見た。
その二週間くらい後か、現天皇が皇太子であったときに、真脇遺跡を「ごほうもん」した映像がテレビで放映されていたことをなぜか覚えています。
三度目 二〇一三年和倉温泉の加賀屋で行われた団の総会。
私は、総会前に一人で、羽咋駅から路線バスを乗り継いで巌門に行き、遊覧船に乗った。下船後、ベンチに座って缶ビールを飲んでいたので総会に遅刻したかもしれない。
四度目(今回) 交通事故の被害者になった始めての旅となってしまった。(完)