第1705号 / 5 / 21

カテゴリ:団通信

【今号の内容】

●広島から5・3憲法リレートークを発信!  石口 俊一

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* 北陸三県支部特集 *
○石川県支部と石川県内の憲法運動について  萩野 美穂子

○「金森俊朗先生のこと」  萩野 美穂子

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●弁護士費用の敗訴者負担問題に関する学習会に参加して  太田 吉則

●Change.orgのオンラインイベント(ウェビナー)を企画参加した感想  和泉 貴士

●「法の支配」と「在野精神」-『私が愛する世界』を読んで  後藤 富士子

●バーチャルの沖縄旅行 2020年5月(前編)  伊藤 嘉章

●北信五岳-戸隠山(2)  中野 直樹

 


 

広島から五・三憲法リレートークを発信!  広島支部  石 口 俊 一

【さあ、今年もやるぞ!と・・・】
 五年前までは、平和運動センターが中心の「輝け九条・活かそう憲法五・三ヒロシマ集会」と、広島憲法会議が母体の「広島憲法集会・マイライフマイ憲法」は、午前と午後に別々に開催していましたが、二〇一六年は「ストップ!戦争法ヒロシマ実行委員会」が主催となり初めて統一して集会を開きました。その後は、「戦争をさせない・九条壊すな!ヒロシマ総がかり行動実行委員会」の主催ですが、主な構成は、一〇〇〇人委員会、県九条の会NW、秘密法廃止NW、広島共同センターと市民運動のメンバー達で、それぞれの立場から率直に意見を出し合い、互いに配慮しつつ集会を準備しました。この間のメイン講師は、落合恵子さん、清水雅彦さん、仲村未央さん、金平茂紀さんと続き、今年は高橋純子さんにお願いして、チラシも出来上がり、さあこれから!という時でした(なお、午後からの集会・マイライフマイ憲法は、講師が木村草太さん・二七回目の憲法ミュージカルは〝情報ソウサ!?―誰がための憲法〟で、こちらも準備万端でした)。

【憲法集会は中止、どうする?】
 ところが、全国同じですが、「密になるな」「換気を」となれば、窓のない公的施設のホールでの開催はアウト、且つキャンセル料は不要だから中止をという施設側の声、それとどれだけ消毒やマスク等の対応をしても感染を防止できるかという悩みや、総じて高齢者が多いことへの配慮もあり、中止を決定しました。それでも、五・三に「憲法」の「け」の字も言わない訳にはいかない、コロナを理由に様々な問題が噴出しているのに何も声を上げない訳にはいかないだろうと、毎月の「三の日」行動と同様に横断幕を持ったスタンディングと街頭宣伝をしようと決めました。
 しかし、状況はどんどん悪くなり、広島のGWの大イベント「フラワーフェスティバル」中止と合わせて不要不急の外出となると、ほとんど人が通らない街角での活動になるので、本来のアピールや訴えの意義がなくて自己満足でしかないではないかとの意見があり、街頭宣伝も中止に。さて、どうしよう?

【街頭がだめなら、その代わりに・・・】
 四月半ばの少人数で集まった事務局会議で、一人平均年齢を下げているJCJ広島支部のKさんから、私たちのメンバーにはユーチューブで集会の様子を流している人がいる、街頭で話す代わりにそのスピーチ映像を流せば、街頭で見聞きしてもらう以上の人たちに訴えを伝えることができるとの提案が。そういえば、スピーチの撮影ができるメンバーもいるぞ、場所はこの事務所で、スピーチする人には何日かの間に分けて来てもらえばいいぞとなると、横から、それなら広島市内に限らずにこれまで連携交流をしている県内各地の総がかりからスピーチ映像を送ってもらおうという声も出て、一気に盛り上がりました。
 スピーチの内容を練る中で、総がかりの世話人だけでなく、今、コロナ問題で大変な状況にある様々な分野からのスピーチもお願いしようと、取り組みが地域的にも分野的にも広がることになりました。そして、このような取り組みをしていることを広島市政記者クラブへ連絡して、多くの市民に伝わるよう依頼文も出しました。
 ただ、慣れないことなので、スピーチする人は緊張気味の映像になり、途中でとちると取り直しをしたので、その繋ぎや全体の編集、タイトル入れなど、ベテランの元テレビ局のJCJメンバーも完成までが大変でした。

【五・三の朝九時に配信開始!】
 憲法リレートークは三部構成。スピーチばかりを見続けるのは容易ではないので、一人五分から七分くらい(でも、実際に話すとついオーバーして)、いろいろな分野や地域を組み合わせました。
 働く親を支える保育園の実情、元国会議員からの目線、広島の映画の自主上映活動を支えている個人事業者(四月からが全部キャンセル!)、自衛隊が議場で高校生と共同演奏した呉から、新婦人の会長、民医連、民商の皆さんから、県北の市議で元小学校教員から学校閉鎖の問題、個人加盟の労組から非正規労働者の問題、三原市や府中市で活動している方から、広島の別姓訴訟の原告から、河合疑惑をただす会の方から、緊急事態条項が必要というデマ宣伝のことや黒川検事問題などを弁護士の立場からなどです。

【今後に向けて】
 今回は五・三憲法集会の代わりでしたが、日常的に県内各地の活動が繋がりあうためにも、総がかりが声掛けをして、労働、医療、保育、介護、生活保護、貧困、被爆、司法、原発、多くの個人の尊厳にかかわる問題を共に訴え広げていく大きな切っ掛けとなりました。アナログ時代の私には「やろう」という声掛けしかできそうにないですが、今度は事前にしっかり準備して話しやすいインタビュー方式でやろう等という意見も出るなどみんなやる気満々です。
 八・六、一一・三などの節目や、憲法審査会が動くかもしれない緊迫した時期に合わせて、集会やデモ、意見広告等に加えた新たな活動を目指そうと考えています。

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* 北陸三県支部特集 *
石川県支部と石川県内の憲法運動について  石川県支部  萩 野 美 穂 子

一 石川県支部について
 石川県支部は、二〇一二年に従来の北陸支部が三つの各県支部に独立してできた支部である。現在石川県支部団員は一二名。金沢合同法律事務所所属の弁護士が七名、残り五名は金沢合同法律事務所を独立した弁護士及びその事務所で採用された弁護士である。二〇期代二名、三〇期代二名、四〇期代二名、五〇期代四名、六〇期代二名とベテランから若手まで幅広い年代にわたっている。ただ、ここ最近の団員の増加はなく、六〇期代後半から七〇期代は不在である。
 今年度は、金沢弁護士会の会長と日弁連の副会長に当支部団員がそれぞれ就任したので、会務を通じて団員としての活動を推し進めていければと期待していたところであるが、就任当初から新型コロナウィルス対応で忙殺されているようである。

二 石川県内の憲法運動について
 石川県内の憲法運動としては、二〇〇四年一二月に発足した「九条の会・石川ネット」が、共社系の県内の労働組合、護憲・平和団体や市民グループ、個々人との間の橋渡し役となり、集会やデモを行ってきた。当支部の団員も事務局や呼びかけ人、賛同人となるなどして、長らくその活動を支えてきた。
 しかし、その後、安倍政権による秘密保護法の強行採決、集団的自衛権行使を容認する閣議決定に危機感を感じ、より機動力のある組織を結成する必要性から、二〇一四年七月に「戦争をさせない石川の会」が結成され、私も事務局員として発足当初から関わることになった。
 その他にも、二〇一六年三月には、安保法制の廃止と立憲主義の回復を求めて「いしかわ市民連合」が結成、二〇一八年三月には三〇〇〇万署名を推進するために「安倍改憲NO!市民アクション・いしかわ」が結成された。いずれの団体にも当支部団員が多かれ少なかれ関わっている。「安倍改憲NO!市民アクション・いしかわ」は、当支部や「戦争をさせない石川の会」、「いしかわ市民連合」、「九条の会・石川ネット」も構成団体となっており、毎年五月と一一月の県内の憲法集会を主催するようになった。また、「安倍改憲NO!市民アクション・いしかわ」が中心になって、毎月一九日の日の昼には街頭署名活動を実施している。 
 私は「戦争をさせない石川の会」の会議に参加しているが、各団体の共同代表や呼びかけ人、事務局員等は兼務している者が多いため、会議では毎回、他団体の取組状況の報告があり、他団体の企画も参加呼びかけを行うなど相互協力の関係が築かれている。
 「戦争をさせない石川の会」としては、発足後、意見ポスターの作成をしたり、小規模の学習会を多数開催したり、映画の上映会を企画したりしてきた。
 最近の活動としては、シリーズ「戦争」と題して、私たちの身近な話題と戦争との結びつきを読み解く小規模な学習会を三回シリーズで企画した。今年は、第一回「オリンピックと戦争」(講師はスポーツジャーナリストの谷口源太郎さん)、第二回「天皇の代替わりと戦争」(講師は牧師の漆崎秀之さん)、第三回「ジェンダーと戦争」(講師は神戸大学大学院教授のロニー・アレキサンダーさん)を予定していたが、四月開催予定だった第二回と六月開催予定だった第三回は、新型コロナウィルスの影響で開催延期とせざるを得なかった。
 また、ここ二年程かけて取り組んでいた石川県内の戦争遺跡・資料館を紹介するガイドブックの作成が大詰めを迎えていた。ガイドブックを今年秋に発刊予定、今年五月三日の憲法集会で大きく宣伝して注文チラシを配布する段取りとなっていた。しかし、新型コロナウィルスの影響で、石川県内の五月三日の憲法集会も開催中止となってしまった。
 「戦争をさせない石川の会」は、これまで、金沢合同法律事務所に集まって、月二回程度会議を行ってきていたが、新型コロナウィルスの影響で今年四月一三日の会議を最後にメーリングリストでのやり取りが中心になっている。現在、ウェブ会議の方法も模索しながら、ガイドブック発刊のスケジュールを見直ししているところである。
 なお、五月三日の憲法集会は中止となったが、今年五月一日、「安倍改憲NO!市民アクション・いしかわ」は、憲法施行七三周年にあたり、ウィルス感染拡大に乗じた安倍政権による憲法改悪を絶対に許さない決意を表明する旨の「憲法擁護声明」を出し、記者会見を行っている。

 

 

「金森俊朗先生のこと」  石川県支部  萩 野 美 穂 子

 石川県内の護憲団体「いしかわ市民連合」(正式名称は「安保法制の廃止と立憲主義の回復を求める!いしかわ市民連合」)の共同代表を務めておられた金森俊朗先生が今年三月二日にお亡くなりになった。三月初め、新型コロナウィルス騒動の中、石川県内の地元ニュースでひっそりと報道されていて、私はこれを知った。

 金森俊朗先生は、全国放送されたNHKスペシャル「涙と笑いのハッピークラス四年一組命の授業」で有名な、金沢市の公立小学校の元先生である。きっとご存知の方も多いに違いない。最近は肺がんで入退院を繰り返していたようで、私は数年前の憲法集会でお見掛けしたきりだった。
 お恥ずかしながら、生前の金森先生について私は地元の名物先生程度の認識しかなく、前記のNHKの番組も見たことがなかった。亡くなられた後になって興味をもち、金森先生の著作をいくつか手にとった。ちょうど学校が全国的に休校となって「学校での学び」についてマスコミがしきりに取り上げ、今春小学校に入学する息子が私にいたこともあって、興味をもったのである。

 特に、金森先生と辻直人北陸学院大学教授の共著「学び合う教室 金森学級と日本の世界教育遺産」(角川新書)は、とても勇気づけられた一冊である。
 簡単にまとめるならば、金森学級の教育実践は、金森先生の特殊な教師としての才能に依拠したものではなく、日本では〝非主流〟とされてきた生活綴方教育・生活教育が根幹にあり、大正自由教育と呼ばれる一連の教育運動の流れをくむ教育実践である、それは、生活の中から身体感覚的に学ぶこと、子どもが自ら学ぶこと、友と学び合うことを大切にする、〝子どもの「内なる声」を育む〟教育実践である、といった内容である。金森学級の具体的実践、金森先生のオランダ講演の再現、金森先生の少年時代や学生時代、「窓ぎわのトットちゃん」で有名な「トモエ学園」をはじめとする日本の生活綴方教育・生活教育の歴史などなど、盛りだくさんな内容である。
 私も、学力向上を目的とした管理主義的な学校教育に対する不安は漠然と感じていた。特に地方は、公立学校以外の選択肢がほとんどない。
 金森先生が、公立小学校の枠組みの中で、保護者や地域も巻き込んでこのような活動を続けてこられたこと、そしてそれは金森先生の特殊な才能によるものだけではないとしたら・・・。私にも、学校が学力向上を至上命令とした教育実践に傾きすぎてしまわないよう、日々の子どもへの関わり方、学校・学童・地域活動への関わり方で実践できるものがあるはずだと、前向きな気持ちになった。
 長い休校期間となり、学校や教育についていろんな観点から考える機会があった方も多いに違いない。ぜひお読みいただければと思う。

 最後になりましたが、金森先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

 

 

弁護士費用の敗訴者負担問題に関する学習会に参加して  静岡県支部  太 田 吉 則

一 市民問題委員会の学習会
 政府は、二〇一九年一二月九日、知的財産に関する訴訟において、勝訴当事者の弁護士費用を敗訴者に負担させる制度の導入を検討する方針を明らかにしました。かかる方針を受け、市民問題委員会は、二〇二〇年三月二四日、坂勇一郎団員(東京合同法律事務所)を講師にお招きして、「弁護士費用の敗訴者負担問題」に関する学習会を開催しました。坂勇一郎団員は、二〇〇〇年一一月から二〇〇四年一二月にかけての司法制度改革の際に、弁護士報酬の敗訴者負担に反対する全国連絡会の事務局としてご活躍し、同制度を廃案に導いた先生です。三月二四日の学習会では、その経験をご紹介いただきました。

二 かつての弁護士費用の敗訴者負担制度に関するたたかい
 司法制度改革審議会が二〇〇〇年一一月二〇日にまとめた中間報告では、「弁護士報酬の敗訴者負担制度は、・・・基本的に導入する方向で考えるべきである。労働訴訟や少額訴訟など敗訴者負担制度が不当に訴訟の提起を萎縮させるおそれのある一定種類の訴訟は、その例外とすべきである」とされていました。この中間報告に対して、消費者団体、公害被害者団体を中心に、訴訟抑制につながると強い批判がおこり、約四年間に及ぶたたかいが始まりました。
 一言に、弁護士費用の敗訴者負担制度と言っても、それには、両面的な制度、片面的な制度、合意に基づく制度といったバリエーションがあります。政府が、「敗訴者が勝訴者の弁護士報酬を負担するのが公平である」との理由で、最初に導入を検討したのは、両面的敗訴者負担制度です。この制度は、敗訴者が勝訴者の弁護士費用を負担するというものですが、「市民の裁判利用に極めて重大な影響を与え、裁判の人権保障機能及び法創造機能を損なう」などと日弁連や市民団体から多くの反対を受けました。なお、片面的敗訴者負担制度とは、日弁連が主張した制度で、例えば、市民に裁判を利用しやすくなるか否かをメルクマールとして、環境侵害行為の差止訴訟などの原告(弱者)が勝訴した場合にのみ、その弁護士費用を敗訴者(強者)が負担するという制度です。
 日弁連や市民団体から多くの反対を受けて、政府は、二〇〇三年一〇月一〇日、合意による敗訴者負担制度に方針転換しました。この制度は、裁判上又は裁判外の合意で、敗訴者が勝訴当事者の弁護士費用を負担する制度です。しかし、この制度に対しても、消費者や労働者、力の弱い事業者などが敗訴者負担条項の削除を求めることは事実上不可能である、「敗訴者負担条項」が盛り込まれた場合には、やはり、弱者の司法アクセスを妨げることにつながる等の理由で、各市民団体から多くの反対を受けました。日弁連も、弱者の裁判を受ける権利の保障が不可欠だとして、消費者契約や労働契約等の類型での敗訴者負担条項を無効とするか、私的契約での敗訴者負担条項を無効とする立法措置を求めました。
 全国連絡会は、二〇〇〇年一一月以降、当時としては先駆的なホームページを開設し、意見書やリーフレットを作成したり、集会やデモ行進、街頭行動、国会要請などを行ったりして、たたかったそうです。その結果、二〇〇四年一二月三日、弁護士費用の敗訴者負担制度を廃案に導きました。

三 講演を受けて
 坂先生のお話をお聞きし、約四年間に及ぶたたかいで、敗訴者負担制度の廃案という成果を導いたことに、とても感銘を受けました。多くの消費者団体や労働組合、市民団体が結束できたことも素晴らしいと思いました。今般の敗訴者負担制度とのたたかいでも、各団体が結束できるといいと思いました。
 しかし、坂先生のお話をお聞きし、今般の敗訴者負担制度には不安材料があると感じました。それは、今般の敗訴者負担制度の導入検討が、知的財産に関する訴訟という、一般市民に馴染みのない分野に限定されているということです。前回よりも市民団体の協力が得られにくいのではないかと心配しています。
 また、今後、知的財産に関する訴訟の特質を分析し、敗訴者負担制度の問題を分析検討する必要がありますが、弁護士の中でも、知的財産に関する訴訟に詳しい弁護士は、ほんの一握りではないかと思います。
 敗訴者負担制度が、他の訴訟類型に波及することを防ぐためにも、今般の敗訴者負担制度の導入に反対する必要性を感じていますが、前回よりも厳しいたたかいが予想されます。そのため、しっかり準備して、この問題と対峙していきたいと思いました。団員のみなさまにおかれましても、今後、知的財産関係訴訟の実情に関する情報提供や署名等のご協力をお願いすることもあるかもしれませんが、その際は、何卒ご協力の程お願い申し上げます。

 

 

Change.orgのオンラインイベント(ウェビナー)を企画参加した感想     
                                 東京支部  和 泉 貴 士

一 コロナ禍のもとでの市民運動とは
 緊急事態宣言以降、集会や学習会を開催したり、会議をすることが難しくなりました。私が関わっている多くの市民運動も停滞を余儀なくされています。緊急事態宣言が解除された以降も、基本的にはこの状況が続くでしょう。そのような中で、別の形で市民運動を発展させる方法が求められていると思います。
 そのような問題意識のもと、電子署名サイトChange.org(チェンジ・ドット・オーグ)が主催するの二つのオンラインイベントに企画を持ち込み、実際にZOOMを使ったオンラインイベント(近時はこういったウェブ上で行われるセミナーやイベントを「ウェビナー」といいます。)を開催してみた経験をご報告します。

二 森友学園疑惑とChange.org
 Change.org(チェンジ・ドット・オーグ)は、無料で使えるアメリカ発祥のオンライン署名サイトです。世界一九か国に三億人の利用者が存在し、日本でも現在六名のスタッフで運営が行われています。既に多くの方はご存じかもしれませんが、森友学園疑惑の渦中で公文書の改ざんを命じられ自死した近畿財務局職員の妻が立ち上げたキャンペーン「私の夫、赤木俊夫がなぜ自死に追い込まれたのか。有識者によって構成される第三者委員会を立ち上げ、公正中立な調査を実施して下さい!」は開始から一日半で一五万人の賛同者を集めました(現在は三三万人。)。
 誰もが生活において感じた疑問や矛盾について、ネット上ですぐに署名活動として立ち上げることができるのが利点です。

三 イベント開催の経緯
 私は近時気候変動の問題に取り組んでおり、公害地球懇という団体から、国際環境NGO FoE Japanの高橋さんという方を紹介していただきました。高橋さんはグレタ・トゥーンベリさんが創設したFFF(Fridays For Future)の日本での活動を支援しています。私と高橋さんとで若者が担うべきこれからの市民運動について語り合っている中で、change.orgのスタッフをしている遠藤まめたさん(LGBTQの活動家でもあります。)が共通の知人であることが分かり、FFFの学生やchange.orgのユーザーに広く呼び掛ける形でオンラインイベントを開催しようということになりました。
 「持続可能な未来を作るためのオンラインイベント」という タイトルで、
 第一弾「持続可能な未来を作るためのオンライン署名サイト一二〇%活用法」(二〇二〇年五月五日)
 第二弾「実際、働きながら環境問題にどう関わればいいの?」(二〇二〇年五月八日)
 という二つの企画を用意しました。参加の呼びかけは口コミとchange.orgのユーザーへの一斉配信メールで行い、ともに四〇~五〇名程度の応募がありました。年齢層は高校一年生から六〇代まで幅広く応募がありました。とくに高校生や大学生などの参加が多かった一方で、環境問題に長くかかわってきた人の応募もあったことが特徴的でした。

四 感想① 電子署名は「拡散し、組織化する」という点では従来の手法と変わらないが、従来とは違う層に拡散することができる
 第一弾イベントでは、遠藤さんを中心に、オンライン署名を活用する手法をみなで勉強しました。
 私たちが従来からかかわってきた市民運動がどうやって要求を実現してきたか、改めて振り返ってみれば、それは「拡散し、組織化する」ことの地道な繰り返しだと思います。裁判を起こし、メディアに訴え行政や政治に働きかけることで世の中に問題意識を拡散し、賛同する仲間を集めて組織を作る。電子署名もそのような昔ながらの手法の延長線上にあります。
 違いは、それをインターネット上で行うということだと思います。例えば、保育園に落ちた人や難病当事者が街で一〇〇人仲間を見つけることは難しいけれど、ネット署名では比較的簡単に賛同者を集めることができます。ネットを使うことで、発信者が直接知らない人や、市民運動に必ずしも近い場所にいない層にも拡散することができます。
 加えて、重要なのは「進捗報告」機能を使って定期的に賛同者に情報を提供し続けることが可能であること。ときには賛同者に呼び掛けてシンポや学習会を開催するなど、リアルな組織づくりの契機として署名を用いたり、イラストレーターや専門家など伝手が無ければ出会えない人をネットを使って広く募集することもできます。電子署名は、拡散だけではなく組織化のツールとしても有効活用できるという点は、新鮮でした。個人的には、電子署名は組織化が十分進んでいない新しい社会問題が「最初の一歩」として活用するのが最も効果的なように思います。

五 感想② 若い活動家を育てるための「入り口」とは?
 第二弾イベントでは、社会を変えたいと思う若者がしばしば直面する、「就活」問題を中心に語り合いました。学生時代は時間があったので活動に好きなだけ取り組めたけれど、就職後も同じように活動に取り組むことができるのか、活動と生活をどのように両立させれば良いのかは、活動にかかわる学生の共通の悩みです。私たちの活動が若者とともにあるためには、若者の悩みを共有しその解決をともに悩むことが必要です。
 この問いに対しては、企画者三名(遠藤さん、高橋さん、私)がどういう紆余曲折を経て現在の仕事を選んだのか、体験を語りながら広く参加者の質問を受け、語り合うことを行いました。第一回と同じくZOOMを使い、質問がある人はチャットに書き込んで貰いました。遠藤さんは地方公務員と活動家の二足の草鞋の生活の苦労と現在の職種につくまで、高橋さんは大手会計事務所に就職したが社会を変えたいと想いを忘れることができずNGOに転職した経緯を語り、私は弁護士を志したきっかけと仕事を通じての出会い、専門家として活動家をサポートする意味について、高尾の自然保護運動を中心に語りました。
 改めて思ったのは、若い活動家を育てる「入り口」として、若者が今悩んでいることを共に悩んでみることが重要であるということでした。あたりまえですが、先入観でダメ出しは論外。まずはきちんと話を聞くことが重要だと思います。
 それに加えて、自分のリアルな体験を自分の言葉で語ることも重要です。若者は、自分のこれからの人生や進路について悩み、参考になる情報を求めています。質問に対する直接的な回答にはならなくとも、経験者が自分の具体的な体験を話せば若者はそれを自身で咀嚼し、活用する力を備えていると思います。

六 まとめ
 緊急事態宣言の中にもかかわらず、高校一年生から六〇代まで、普段以上に幅広い方々と語り合ったことは非常に楽しく、自身のためにもなりました。また機会があったら企画してみたいと思います。

 

「法の支配」と「在野精神」-『私が愛する世界』を読んで  東京支部  後 藤 富 士 子

一 米最高裁判事ソニア・ソトマイヨール
 二〇〇九年、オバマ大統領により最高裁判事に任命されたソニア・ソトマイヨールは、初のヒスパニック系で、しかも女性。二〇一八年一〇月に邦訳刊行された『私が愛する世界』は、彼女が連邦地裁判事に任命されるまでの回顧録である。
 彼女は、一九五四年、プエルトリコ出身の両親のもとニューヨークに生まれた。幼少時より若年糖尿病を患い、八歳にして毎日自分でインスリン注射を打っていた。アルコール依存症だった父を早くに亡くし、母と弟との暮らしぶりは決して恵まれたものではなかった。自らが十分な教育を受けられなかった母は、二人の子どもの教育には熱心で必要な資金を無理してでも工面した。そのかいあって、ソニアは、七六年プリンストン大学を最優等で卒業し、イエール大学法科大学院に進み、七九年に卒業するとニューヨークの地区検事局に就職した。その後、民間法律事務所に勤務し、九二年から九八年までニューヨーク州の連邦地裁、九八年から二〇〇九年まで控訴裁判所で判事を務め、最高裁判事になった。

二 検事助手ソニア
 彼女が最初に「検事助手」?からキャリアをスタートさせたのは、自らの初心を思い出したからだという。弁護士の仕事に興味をもったのはテレビドラマ『ペリー・メイスン』だったというが、そこで言う「弁護士」は、日本のそれとは意義が異なるように思われる。彼女によれば、法廷は「一つの部屋の中で正義を追求する機会」である。そして、彼女の視線は『ペリー・メイスン』のドラマにおいてさえ「判事」に向けられており、キャリアを積む中で目標が「判事」に発展していくのである。
 新米検事助手として二番目に担当した事案は、法律扶助協会の新米女性弁護士ドーンが担当する、妻に対する暴行事件。問題は量刑であり、判事が「一年の実刑」を示したとき、弁護人が青ざめただけでなく、ソニア検事助手も「何かとんでもないことをしたのではないか」と青ざめた。三〇歳を過ぎた被告人は、それまで一度も逮捕されたことはなく、実刑になれば失業して妻を含む家族が路頭に迷うのである。ソニアは、彼を刑務所に送ることは家族にとってマイナスであることを認め、もし弁護人が家庭内暴力に対する必要な措置プログラムを講じて、被告人が定期的にそれに参加し、妻がそれで問題ないことが保証されるのであれば、執行猶予で満足すると事前には予定していなかった意見を陳述し、判事も「それならば、そういう措置を探すように」とドーンに命じた。なお、ソニアが証人として召喚した妻は出頭しなかったが、後に、裁判の日に病院で中絶手術を受けたことを知る。
 また別の事件で、ドーンに助けを哀願された。ドーンの依頼人は、ずっと収容施設で過ごしていたが、喧嘩である男を殺して二〇年刑務所暮らしをした。仮釈放の際に彼が受け取った唯一の支援はバスの回数券。不器用で仕事を見つけることもできず、それが泥棒であることも知らずに、廃屋となったビルから銅管を抜き取って売り糊口をしのいでいた。仮釈放の条件は、たとえ軽いものでも一度の違反で刑務所に送られるというもの。ソニアは、ドーンが求める、試験的に手続を止めるACD(訴状却下の意思留保:一定期間起訴猶予となりその期間が経過すれば訴状は却下される)を認め、彼を就業プログラムに就けた。もし六か月間、問題がなければ告発は却下される。二年後にソニアの前に現れた彼は、仕事を見つけ管理職にまで昇格していた。恋人と結婚し、息子が一人いて、二人目が生まれるという。
 いずれの事件でも、検事としての「職務上の役割」も、当の検事の人間的良心に基づいて処理していいのだ、ということを確信させる。そして、そういう具体的な処理も、担当者個人の資質に還元されるのではなく、「当事者主義」「法曹一元」「ACD」等々すべてが司法制度の基礎の上にあることに思い至るのである。

三 法律家の共通基盤としての司法制度
 ソニアとドーンは、互いに親友になった。ドーンは、生まれながらの公共の弁護士で、下層の人々への支援は、権力に対する不信に根ざしていた。一方、ソニアは、根っからの検事で、規則の権化であった。システムが機能していないとすれば、それと闘うのではなく、修正すべきだと考える。ソニアは、司法のプロセスを信頼し、公正に行われるならば、その結果がどうであれ受け入れることができた。そして、確かに貧しい人々や少数派が犯罪の犠牲になることが多すぎることは知っていたが、この対抗関係のプロセスを階級間の衝突の別名とみることには反対だった。
 また、法曹界の内外に共通してみられる、検事と弁護士はそもそも生来の敵同士だという意見に、ソニアは反論する。両者はより大事な目的を求めて、異なる役割を果たしているにすぎない。それは、「法の支配」の実現であり、役割は相反していても、その存在は法の判断が両者に受け入れられることを前提としている。両者が自分に都合がいいような目的の上位にある、調和のとれたシステムがなければ、最終的に被告も社会も満足しないのだということを確認し、強調しているにすぎない。法律の実務には理想主義の居場所があるのであり、それがこの職業に就く動機となっている。そして、それは疑いなく、私たち法律家の何人かを判事にさせる、とソニアは言う。ちなみに、アメリカでは「ロイヤー」というのは弁護士のことであり、検事は(ソニアはニューヨーク州の)市民の代表である。
 ソニアの述懐は、アメリカの司法制度の枠組を端的に示している。そのシステムを動かしている法律家は、役割が形式的に対立する弁護人と検事という「立場」であっても、「法の支配」の実現を目的とする対等な存在である。そこには、日本の弁護士が金科玉条のように振りかざす「在野精神」は影もない。そして、判事は、理想主義的司法システムにおける「判断者」として、そういう当事者法曹の中から選ばれるのである。この、司法制度における法曹制度こそが「法曹一元」なのである。それは、「在野法曹」である弁護士が裁判官になることではない。むしろ、「在野精神」を払拭しなければ、司法の目的である「法の支配」の実現のために存在することはできないのである。 〔二〇二〇・五・一一〕

 

 

バーチャルの沖縄旅行 二〇二〇年五月(前編)  東京支部  伊 藤 嘉 章

はじめに
 五月集会がないと張合がない。沖縄のオプショナル一泊旅行を楽しみにしていたのに。そこで、バーチャルの旅行記を書くことにしました。
第一章 一日目 
示談書の調印
 土曜日の午前一一時、那覇空港に到着。一二月なのに、ここは暑い。コートをコインロッカーに入れて行動開始。まずは、アグー入りのゴーヤチャンプルのランチにする。もちろん、ビールはお預けで飲み物は水だけ。
 とある高級ホテルで相手方本人と面談。あらかじめ了解を得ていた示談書に調印してもらい、持参した現金の授受が終わった。これで依頼人から交通費をもらった沖縄旅行の目的の半分は無事達成した。
沖縄県立博物館美術館・愛称オキミュー
 自由時間となった。この日は、沖縄県立博物館美術館を見学。なにかで読んだが、博物館美術館の館長が一人いるものの、博物館専属の館長も美術館専属の館長もいない。専属者としては、それぞれの副館長だという。企画展で、他の美術館にそこが所蔵する美術品の貸出しを申し込んでも、美術館専属の館長さんのいないところには、うちの作品は貸せませんと断られるという。現地の建物では、展示施設は、博物館部分と美術館部分は明確に分離されており、入場料も全く別々に徴収しているのに、なぜ、博物館美術館なのか
 この建物の外観は、グスクをイメージしたもののようだ。個人的には、なんてダサイデザインかと思うのですが。
 展示内容は、つい港川人骨の展示を見てしまう。沖縄島の港川遺跡から二万三〇〇〇年前の九体の人骨化石が出土。これより古いものは、沖縄島山下第一洞窟から三万六五〇〇年前の小児の断片遺骨が、石垣島の竿根田原遺跡からからは二万七五〇〇年前の人骨化石がでている。これらの人はどこからきたのか。展示内容からはわからない。誰にもわからない。
企画展示「グスク・ぐすく・旅」
 一一世紀後半頃グスク時代が始まる。それ以前は先島地域と沖縄本島・奄美諸島は別の文化圏であった。このころから琉球列島全体が共通した文化圏となる。また、同時期に金属器の生産や水田などの農耕といった、これまでの生活様式を大きく変える新たな技術も日本本土から入ってきた。これら一連の出来事は大規模なグスクが発生していく下地となった(「琉球王国のグスク及び関連遺産群世界遺産登録二〇周年記念特別展図録」七頁)。
第二章  二日目
座喜味城跡
 今日は日曜日。那覇市から路線バスを乗り継いで読谷村所在の世界遺産座喜味城跡へ。途中で乗り継ぐつもりであったバス路線が廃止されていた。かなり歩いてようやく座喜味城へ。本丸部分には、子どもを散歩させているお母さんがいる。
 付属の展示館・ユンタンザミュージアム(旧称・読谷村立歴史民俗資料館)を見学。本土の縄文・弥生時代並行期の遺物の展示につい目が行ってしまう。スイジガイ、ゴホウラガイ、イモガイの展示があります。スクリューのような突起が五、六個あるスイジガイ。この貝から作った腕輪が出土した長野県須坂市所在の八丁鎧塚古墳を二〇一九年一〇月に見学した。また同年一一月には、福岡県広川市の弘化谷古墳の横穴石室内の石屋形の壁に、スイジガイをイメージした双脚輪状文を画き込んだ紋様を見た。スイジガイの現物の展示を見るのは初めてです。四世紀・五世紀に、本当に沖縄と本土との間にスイジガイ・ゴホウラガイの交易があったのか。
 また、なんと、ここには、弥生時代早期に北部九州に導入されたといわれる柱状片刃石斧の展示があります。太型蛤刃石斧もあったようだか、いまでは記憶がはっきりしない。
沖縄の「風葬」
 沖縄では、かつては、遺体を風葬にすることを初めて知った。数年後、なんと洗骨した上で、厨子甕に入れるという。この甕を龕(ガン)という乗り物に乗せて亀甲墓あるいは洞窟墓に運ぶ。龕の壁板には、仏画や蓮の絵が描いてある。沖縄に仏教がこのように受け入れられていたことは知らなかった。葬儀の新聞広告には、喪主だけでなく、多くの親族の続柄・氏名が記載されることは知っていましたが。
普天満宮へ
 また、路線バスとコミュニティバスを乗りついで、宜野湾市の普天満宮へ向かう。読谷村役場前広場で次のバスが来るのを待つ。役場の玄関を見上げると、シーサーが二基構えている。このような宗教施設を役所に設置することは憲法違反ではないか思うのですが。役所の正門に、こま犬を二頭、あるいは、法隆寺南大門のように金剛力士像二体を設置することは許されるのであろうか。
 途中の経路脇に掩体壕があるというので見に行く。
 やっと琉球八社の一つである普天満宮に着く。熊野権現と、龍神(ニライカナイ)など琉球古神道神をまつる。そんなことよりも、境内地に鍾乳洞の洞窟があるという。しかし、中グスク城に行く時間がなくなりそうなので、洞窟見学は割愛し、タクシーで中グスク城へ向かう。
中城城(ナカグスクジョウ)という跡地へ
 ナカグスクのグスクは城という意味なのだから、ナカグスクといえばいいのではないかと思うのですが。ちなみに、宮城県にある多賀城は、多賀城市にある城だからといって、多賀城城(タガジョウジョウ)とはいわない。
立派な石垣
 沖縄のグスクは石垣が立派だ。本土の城よりも石垣の築造技術が優れているようだ。石垣の角の部分が、本土では算木作りという直角になっている。沖縄では、石垣の傾斜がきついものの、角は丸く優美な造りとなっているのには驚いた。
 帰りはココミュニテーバスで高速道路わきのバス停まで乗る。なんと無料である。(続)

 

 

北信五岳-戸隠山(2)  神奈川支部  中 野 直 樹

切れ落ちた稜線道
 八時一五分、稜線に出た。ここから右は百名山・高妻山に向かう道、左は戸隠山頂への道である。不動避難小屋の前をとおり、稜線の道歩きとなった。すくっと立ち上がった高妻山の美しい山体、ずんぐり、どっしりとした黒姫山、さらに遠くに白馬三山をはじめとした後立山連峰が真っ青な空を天に抱いて目を誘惑してくる。
 九時一五分、一八八二mの九頭龍山に着いた。左側がストンと絶壁となっていた。その高度感に足がすくんだ。ここから先は、周囲の景色に目をやる余裕がなくなった。ひたすら足を踏み外さないように足下を注視し続ける歩行となった。人の腰幅しかない山道の右は許せるが、左端が絶壁続きであり、しかも道端が草付きのためにそこを踏み抜くと奈落の底へ転落し、絶命必至の危険地帯であった。この恐怖感がボディブローのように心を打ち、次第にへっぴり腰の歩行となっているのが自分でもわかった。一〇時、一九〇四mの山頂に着いた。
 実に久しぶりの感覚で気を緩めて、腰を下ろした。真下の戸隠神社奥社への参道と杉並木が直線を引き、その先に戸隠スキー場と飯縄山が視野を支配した。一〇時二〇分腰をあげ、一〇分ほどで八方睨に着いた。北アルプス、志賀高原、谷川連峰までの大展望を楽しみ、目を下に向けると、平さんの姿が見えた。

オイオイ次はどうやって渡るのだ
 とつぶやいた平さんは苦闘していた。再び平さんの紀行文に戻ろう。「巾二、三〇センチしかない。長さ、三、四メートルだが、風でも吹いたらどうする、でこぼこな石につまづきでもしたら滑落間違いなしだよ。びびった私は『蟻の戸渡り』を戻り、崩壊したエスケープルートを探して見ることを決意。しかし、登りの『蟻の戸渡り』は登れても、下るのは怖い。逡巡すること一分。突然空から『だーめ、そっちはだめ、まっすぐしかない。まーっすぐ』という声が降りてきた。振り向くと『戸渡り』を下に見下ろす八方睨の峰で中野さんが腕をバツ印に交差させ、叫んでいる。しょうがない。巾二〇センチの岩尾根の頂につかまり、下は一二〇メートルの絶壁に足場を探しながら、そろそろと横に進む。腕に力が入る。後で聞いたらそこは『剣の刃渡り』というらしい。そこを渡ると峰はすぐ目の前」。
 鳥瞰している者には筋道が見えた。私は大汗をかいて上がってきた平さんに「何うろうろしていたの」との声をかけたと平さんの文章には記載されていた。もしそうだとすると私には猛省すべき油断があった。

オイオイ どうやって下るんだ
 ここから先も平さんの観察・記録に頼ろう。「天気はいい。浅間から八ヶ岳、槍、野口五郎、白馬と見える。食事して、私は元きた道を、一緒の中野さんは初めてのルート。私が先に『刃渡り』を渡り、下から足場を指示。岩尾根にぶら下がった中野さんの足が動かない。右と左の足場が逆だ。『一歩戻って』と指示するが戻れない。足が震えている。中野さんが落ちたら、私はどうしようか、との思いが一瞬頭をかすめる。中野さんの頭も、東京の弁護士遭難の記事が頭をかすめたとのことであった。」
 私の心は稜線歩きのときにすでに高所恐怖という悪魔に取り付かれていた。そのうえに足や手をかけるホールドがどこにあるのか全く見えないナイフリッジの下降で、足が空を切り、頭が混乱の極みだった。ルート探しで右往左往していた平さんの行動をきちんと観察していなかったため足の順序、かける場所がわからない。しかも山靴でないために足先がしっかりかからないし、靴底が滑る。宿の主に心配されたとおりの法則的な重大事態となった。行き詰まり、腕で岩にしがみつきながら、幾度か絶望的な心境に陥りかけた。三点確保が危うくなるのだ。かろうじて、平さんの叱咤激励と指示が命をつなぐ綱となった。なんとか刃渡りの難所を過ぎてすぐに「蟻の戸渡り」。巾五〇センチほどで両側が切れ落ちている。大きく傾いた平均台を立って数メートル下りながら最後の縁でピタリと静止しなければならないバランス感覚と恐怖心との向き合い。時間の感覚が失せた時を経て、ようやく両足で立って普通に歩ける岩場の道になった。あちこちに遭難者の慰霊碑があった。案内標識には「戸隠遭難対策協」と書かれている。平さんのおかげで私はこの悲劇の側に落ちなくて済んだ。
 夜の盗聴法案の対策会議に向かう新幹線に座る私の足は、跳ねるほどの震えが止まらなかった。

 

 

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