<<目次へ 【意見書】自由法曹団
2001年9月
自 由 法 曹 団
[目 次] 第1 はじめに 1 司法制度改革審議会が最終意見を発表 2 何が改革されるべきなのか (1) 新憲法の制定と司法の新しい役割 (2) 憲法と国民に背を向けた裁判所 (3) 自民党・財界による反動的司法政策 3 司法改革をめぐる「2つの流れ」 (1) 国民のための司法改革と自民党・財界のための司法改革 (2) 自民党・財界の狙いー新自由主義的司法改革 (3) 改革審の設置の契機 4 最終意見は国民のための司法改革の声にどれだけ応えているか (1) 規制緩和、構造改革路線に偏した「基本理念と方向」 (2) 官僚司法の根幹は維持しつつ財界の要求は取り入れる (3) 官僚司法の病巣には目を向けず 5 せめぎ合いのなかで一定の国民の要求も採用 (1) 裁判官制度改革での前進的提言 (2) 国民の司法参加の推進 6 国民の運動こそ国民のための司法改革を実現するカギ 第2 裁判官制度の改革 1 はじめに 2 現在の裁判官制度の抱える問題点 (1) 最高裁判事の人選の非民主性・不透明性 (2) 裁判官の任命・人事、司法行政を利用した裁判官に対する官僚的統制 (3) 裁判官の大幅な不足と負担過重 3 審議会最終意見に対する評価と団の改革提案 (1) 「給源の多様化、多元化」について (2) 「裁判官の任命手続の見直し」について (3) 裁判官の人事制度の見直し (4) 司法行政のあり方の見直し (5) 裁判官の大幅増員 (6) 最高裁判所裁判官の選任等の在り方の見直し 第3 「国民の司法参加」の推進 1 なぜ国民の司法参加が必要か 2 国民の司法参加のあり方 (1) 選択制を基本とした陪審制を全ての事件で導入するべき (2) 陪審制導入にあたっては陪審員の適正な判断を保障する制度が必要 3 最終意見の内容 4 裁判員制度の導入について (1) 裁判員制導入に際して留意すべき危険性 (2) 裁判員制度創設の条件 5 全ての訴訟類型に国民参加を実現すべき 6 検察審査会制度の改革 7 最後に 第4 司法基盤の整備 1 法曹人口について (1) 法曹人口増加についての自由法曹団の基本的態度 (2) 法曹人口の大幅増員と同時に進められるべき改革 2 法曹養成制度について (1) 現行の法曹養成制度の本質的問題点 (2) 法科大学院を中核とする新たな法曹養成制度の内容と問題点 (3) 法科大学院「構想」の具体的検討 (4) 私たちの要求 第5 国民の権利を実現する裁判制度の改革 1 「民事司法制度の改革」について (1) 全体について (2) 「民事裁判の充実・迅速化」について (3) 「専門的知見を要する事件への対応強化」について (4) 「民事執行制度の強化−権利実現の実効性の確保」について (5) 裁判所へのアクセスの拡充について (6) 裁判外の紛争解決手段(ADR)の拡充・活性化について 2 「刑事司法制度の改革」について (1) 刑事司法の現状と問題点 (2) 最終意見でこうした問題点の改革の方向性は示されたのか (3) 最終意見の具体的提言の特徴ー「刑事裁判の充実・迅速化」の問題点 (4) 公的費用による被疑者弁護制度について (5) 公訴提起のあり方 3 労働裁判の改革 (1) 司法制度改革審議会の最終意見 (2) 団の改革提案 4 司法の行政に対するチェック機能の強化 (1) 最終意見について (2) 自由法曹団の提案 第6 裁判から国民を締め出す弁護士報酬の敗訴者負担に反対する 1 最終意見に至る経過 2 訴訟提起、及び応訴に対する重大な萎縮効果 3 社会的・経済的不平等の拡大 4 敗訴者負担導入の本当の狙い 5 弁護士報酬敗訴者負担制度を導入する必要はない 第7 弁護士制度の改革について 1 弁護士制度改革についての審議会の最終意見 2 最終意見の弁護士像・弁護士の役割 3 弁護士の活動領域の拡大 4 弁護士会運営の透明化と弁護士自治 5 弁護士倫理等に関する弁護士会の態勢の整備 (1) 綱紀・懲戒委員会の委員構成の見直し、弁護士以外の委員の増加 (2) 綱紀委員会の弁護士以外の委員への評決権の付与 (3) 懲戒請求者が綱紀委員会の議決に対する異議申出を棄却・却下された場合に、 国民が参加して構成される機関に更なる不服申立ができる制度の導入 6 隣接法律専門職種の活用、企業法務等の位置付け等 第8 国民を排除した司法改革推進体制は許されない 第9 国民のための司法改革を実現するためにーわたしたちの決意 1 重大な局面を迎える司法改革 2 ますます強まる「せめぎ合い」 3 わたしたちの決意 |
司法制度改革審議会(以下「改革審」と言います)は、本年6月12日、わが国の司法制度全般にわたる制度改革について最終意見を発表し、政府に提出しました。最終意見は、司法が果たすべき役割、裁判制度のあり方、司法にたずさわる法曹3者(裁判官、弁護士、検察官)のあり方、その養成方法、国民の司法への参加のあり方など重要な問題について意見を述べています。
わたしたち自由法曹団は、1921年神戸で使用者の激しい搾取とたたかうために労働争議に立ち上がった労働者を支援するために全国から集まった弁護士を母体に結成されました。その後80年間、一貫して国や大企業による人権侵害から労働者、国民の権利を守るため、全国各地で国民とともに無数の裁判闘争や悪法阻止闘争に取り組んできました。そうした立場から今回の改革審の最終意見に対するわたしたちの見解とあるべき司法改革についてのわたしたちの考えを以下述べたいと思います。
司法改革を論じる場合、大事なことは何が改革されるべきなのかを国民の立場に立って現状から分析することです。そうでなければ、現実と離れた「改革」となり、決して国民のための改革にならないからです。
第二次世界大戦の敗戦と新憲法の制定によって、戦後日本の政治経済社会の構造は大きく転換しました。絶対主義的天皇制は崩壊し、国民主権の民主制が導入されました。司法も大きく変わりました。明治憲法では、天皇主権のもとで、裁判も「天皇の名」で行われてきました。国民の権利は天皇から与えられたものとされ、法律によって容易に制限される不十分なものでした。裁判は、上から与えられるもので、国民の権利を守るものではありませんでした。これに対し、現在の日本国憲法は、国民主権の原理にたち、国民こそ国の主人公とすることから、国民一人ひとりが人間として尊重されることを政治の究極の目的としました。国民の人権に対する最大の侵害行為である政府による戦争は永久に放棄されました(第9条)。裁判の使命は、国民の基本的人権を守るために、特に国家からの干渉から個人の人権を擁護することにあるとされたのです。裁判所に国会が制定した立法を違憲無効とする権限を与えたのもこうした理由からです(違憲立法審査権)。
しかし、戦後56年がたち、裁判はこうした憲法の期待した役割とはかけ離れた存在となっています。わたしたちは、労働争議や革新政党に対する弾圧事件(松川事件)、人間らしい最低限の保障を求める社会権訴訟(朝日訴訟)、公害・薬害事件(水俣病、大気汚染、スモン)などをはじめ実に多くの住民訴訟や行政訴訟、国家賠償請求など手がけてきました。少なくない訴訟で裁判所内外での徹底した運動を基礎に国民世論の支持を得ながら勝利判決を得てきました。しかし、多くの事件で裁判所は国や大企業の利益を擁護、追随する判断を繰り返し、国民に冷たく、常識のない裁判が続いています。また、労働、公害事件は典型ですが、一般事件でも裁判の救済を受けるまでに数年から数十年もかかる状況があります。最近では、3歳の子どもを育てながら働いていた共働きのお母さんが、1988年に会社から片道2時間もかかる場所に転勤を命じられたため、育児や夫の仕事の都合で転勤命令を拒否したところ、会社がこの女性労働者を解雇したというケースで、裁判所は、このような転勤命令も有効とし女性に転勤を受忍する義務があるとし、解雇を認めた事件があります(ケンウッド事件)。この事件は最高裁まで争いましたが、最高裁でも解雇を有効とする非情な判決が出されました。しかも、最高裁判決の言渡は、2000年1月で提訴から実に11年以上経過していました。また、1967年に、定時の退社時間直前に会社から残業を命じられ、用事があったので1時間だけ残業してあとは拒否して退社した男性社員に対し、会社が「今後残業を拒否した場合はいかなる処分も受けます」との反省文を書くよう強要し、それを拒否した同社員を「残業命令は拒否できるという考えを改めない」との理由から懲戒解雇したケースで、最高裁は1991年にこの解雇を有効しました(日立製作所残業拒否解雇事件)。解雇は本来自由になしうるとして解雇された労働者の側に解雇に値するような行為や落ち度がなかったことの立証の責任があるという判決も出されています(東京魚商業協同組合解雇事件)。少年による殺人事件の有無が問われた事件でも「犯人が残した唾液の血液型(AB型)と逮捕された少年の血液型(O型,B型)が違うにもかかわらず、犯人の唾液は被害者の垢と混ざって異なる血液型になった」等と検察の認定にあくまで迎合する判決も出されています(草加少年えん罪事件)。
また、憲法違反が争点となった事件でも憲法判断を回避し、現行憲法が「憲法の番人」として司法に与えた違憲立法審査権を行使しないケースも相次いでいます(自衛隊違憲訴訟、議員定数訴訟等)。
つい最近、ハンセン病国家賠償訴訟で、国の行政責任や国会の立法不作為の責任を認める画期的な判決が出されました(熊本地裁)。判決を受けた原告の元患者らは、「司法が役割を果たしてくれた」と喜びを語りました。これこそ司法の本来の役割を示すものと言えますが、こうした判決は残念ながらきわめて例外的なのです。
どうしてこういう判決が続くのでしょうか。裁判官が国や大企業におもねるような状況を生み出したのは、歴代自民党政府、財界の司法政策にあります。最高裁は1960年代に官公労働者の争議権を禁止した法律が労働基本権を保障した憲法に違反する疑いがあるとしてその適用範囲を狭く限定した画期的な判決を相次いで出しました(全逓東京中郵事件、都教組事件)。これに対し、政府、自民党は、最高裁を左翼に偏向していると非難し、最高裁を政府の政策に従わせるため、最高裁判事の任命権を利用し、政府の意向に従う判事を送り込むなどしました。こうしてこの時期を境に最高裁は時の政権に服従し、下級審の裁判官に対してもさまざまな官僚統制を行って裁判を政府や大企業の利益に偏ったものに変えていきました。最高裁は、裁判官の採用、任地、昇給昇格などの人事権を利用して裁判官の差別人事を行い、最高裁の意向に従う物言わぬ裁判官作りを行いました。憲法や基本的人権を大切にしたいと考える良心的裁判官は、差別され昇給を遅らされ他の裁判官よりも「月給で14、5万円少ない給料を5年以上続けられる」などの屈辱的な扱いを受けたのです(「裁判所を変えよう4.4東京集会」での安倍晴彦元裁判官の証言)。良心的裁判官が所属していた青年法律家協会に対しては、「政治的団体」とレッテルをはり脱退強要など徹底した弾圧がされました。水害、労働、公害事件など政治的影響の大きい事件では、最高裁が裁判官会同や裁判官会議などを通じて判決の内容を裁判官に示して裁判内容まで統制してきました。裁判官を法務省に出向させ、訟務検事として行政側の代理人をさせるという人事交流(判検交流)を行い、行政追随意識を裁判官に植え付ける政策もとりました。官僚統制をやりやすくするために裁判官の人数も少数に押さえつけました。最近、検事が捜査情報を判事に漏洩した事件(福岡高裁)が発生しましたが、それはこうした人事交流がもたらす癒着の構造が背景にあります。
官僚統制により裁判所内に自由な空気が失われ、上意下達意識が裁判官に植付けられていきました。そのなかで裁判官のなかで人間的な関係が希薄となり仕事に追われるという状況も生まれています。判事が少女買春をして逮捕された事件(東京高裁)や東京地裁の現職裁判官が事件処理に終われ過労自殺したとの悲劇も報道されています。これらの事件の背景には、こうした裁判所の状況があるのです。
政府自民党・財界のこの司法抑圧の政策の弊害はきわめて大きなものとなっています。まさに、こうした官僚的裁判官統制を廃止し、憲法と基本的人権に忠実な裁判を実現することがいまもっとも求められる改革なのです。
今回の改革審が設置されるに至った経緯には、司法改革を求める2つの要求、流れがありました。第1は、上記のような歴代政府自民党による司法抑圧政策をやめさせ、最高裁による中央集権的裁判官統制ではなく、国民の司法参加を進め、憲法と民主主義、基本的人権に忠実な裁判を実現しようというものです。これは裁判を経験した当事者の実感であり、日弁連など弁護士会が長年要求してきたものです。いわば、国民のための司法改革を求める流れです。これに対し、第2に、司法を国の財政政策に協力させ、企業の経済活動や治安維持のために利用しやすくしようというものです。これは規制緩和や構造改革という政治的経済的要求に基づくもので、いわば自民党・財界のための改革を求める流れです。
自民党、財界は、90年代になって、世界規模での経済活動の展開、国際的自由競争の激化という情勢のもとで、これまでの自民党の利益誘導的政治、国民生活を保護するための福祉や各種規制が企業の国際競争力の足かせになったことから、規制を緩和し、国家の財政負担を軽減するいわゆる新自由主義の政策に転換しました。これは国家社会構造をかえるものです。規制を緩和し、紛争を事後的に調整する、国民は自分で自分を守る責任を強調されました(自己責任社会)。小選挙区比例代表制を導入した政治改革は、新自由主義政策が必然的に国民に苦痛を強い、国民の反感を買う危険があることから自民党の政権基盤を強化するために行われました。政治改革は、規制緩和、構造改革、行政改革と対を成すものでした。こうした自民党・財界の政策のもとで、国際競争に打ち勝つ法的解決能力と規制緩和の後に残る「弱肉強食社会」において現出することが予想される紛争の多発化、秩序の混乱に対処する機関として司法を「改革」することが企てられたのです。司法の役割を「事後監視・救済型の経済社会を構築していくため、三権の一翼を支える司法制度を新たな事後監視・救済型社会に適格に対応することができるように抜本的に改革することは必要不可欠である」(2001年5月自民党司法制度調査会「21世紀の司法の確かなビジョン」)との記述は自民党の要求を端的に要約したものです。また、これと連動して政府の行政改革推進本部規制改革委員会は弁護士自治を剥奪する攻撃をかけてきています。これは悪法阻止や人権擁護のために大きな力を発揮してきた弁護士会を弱体化させ、国家権力に対し無力なものにする意図を含むものであることは明らかです。
以上のように、自民党・財界の司法「改革」は新自由主義政策に基づくもので、決して国民の権利を伸長させるという考えに立つものではありません。しかも、新自由主義政策は、大企業の国際競争力を強化することを目的としており、軍事的には自衛隊の海外での武力行使を要求し(新ガイドライン法の導入)、経済的には福祉切り捨て(医療・福祉予算の削減)、経済的弱者に対する保護の撤廃(労働法制の改悪)、そして憲法の人権規定や平和主義の改悪にまで連なるものです。わたしたちは、こうした新自由主義の政策には断固反対します。そして、自民党・財界のめざす司法改革の方向にも反対です。
わたしたちは、改革審が設置されるにさいし自民党・財界のめざす司法「改革」ではなく、国民のための司法改革を実現することを要求しました。改革審設置法についても、これが自民党・財界の要求に従うものであってはならず、司法の憂うべき現状を改革するためのものにしなければならないとの立場を表明しました。
1999年6月、改革審設置法が国会で成立しました。設置法は、自民党司法制度調査会の動きを受け内閣の閣議決定を経て同年2月国会に出されました。こうした経緯からみて設置法が自民党・財界の主導のもとで成立したことは否定できません。ただし、国会審議のなかでは、改革審設置法成立にあたって「基本的人権の保障、法の支配という憲法の理念の実現に留意すること、特に、利用者である国民の視点に立って、多角的視点から司法の現状を調査・分析すること」が決議され(参議院付帯決議)、「司法制度の改革は、単に規制緩和などを推進していくために必要であるという観点からだけ行われるものではなく、・・国民にとって、身近で利用しやすくわかりやすい司法を実現するという観点から行わなければならない」(陣内法務大臣)との政府答弁もなされ、憲法と国民の視点からの一定の制約も付け加えられた上で成立しました。
では、改革審の最終意見は、国民の司法改革の要求に応えているといえるでしょうか。最終意見は、司法への国民参加を強調し社会における司法の役割を大きなものにしていく方向を示しており、これは官僚的裁判統制や司法の役割が小さく抑えられてきたこれまでの状況を転換するものとして積極的に評価できます。しかし、その司法改革の理念や打ち出された制度改革の内容は、「2つの流れ」の観点からすれば、自民党・財界の要求に軸足を置いており、国民の要求に立ち入ったものとはなっていません。詳しくは各項目で詳しく述べますので、ここでは以下要点について指摘します。
最終意見は、司法改革を行うにあたっての「基本理念と方向」で、今回の司法改革を「政治改革、行政改革、地方分権推進、規制緩和などの経済構造改革などの一連の諸改革」の「最後のかなめ」であるとしました。「一連の諸改革」は、「この国のかたち」の再構築をめざすものとされ、国家機構改革としては行政改革に続き司法改革が提案されています。最終意見は、「規制・調整型社会から事後監視・救済型社会への転換」を強調し、司法の役割は「法の支配の理念に基づき、すべての当事者を対等の地位に置き、公平な第三者として適正かつ透明な手続きにより公正な法的ルール、原理に基づいて判断を示す」とされています。これは、前述した新自由主義がめざす社会構造とオーバーラップするものです。ここでいう「法的ルール」とは、労働者の権利を切り捨てるルール(労働法改悪)、大型店の出店を自由化し小売商店をつぶすルール(大店法改悪)など規制緩和による弱肉強食社会のルールにほかなりません。「法の支配」についても「権力の恣意的支配から国民の権利を守る」という従来の理解ではなく、国民を国や大企業などの強者と「対等の地位」において形式的に平等に扱うという歪んだ理解をしています。司法が立法や行政を抑制し、国民の基本的人権を守るという本来の司法の役割は後景に退いています。
最高裁による中央集権的官僚統制を根本的に廃止するためには、司法研修所を卒業し裁判官に任官したもの(判事補)が、10年間裁判所のなかで最高裁の監視のもとで「修行」し、10年を経て判事になる判事補制度を廃止し、裁判所の外で法律実務経験を積んだ弁護士などから裁判官を選ぶ法曹一元や素人である国民自身が裁判官となる陪審制を導入することが必要です。しかし、最終意見は、この導入をしませんでした。違憲立法審査権が行使されていないこと、行政機関の行為に対する裁判で司法が適正にチェック機能を果たしていないことに対する改革も今後の課題として先送りしています。
財界が要求していた、民事裁判の審理促進、知的財産権などの専門的事件処理の強化、刑事裁判の迅速化による治安強化などは取り入れられています。国民を裁判からかえって遠ざける弁護士報酬の敗訴者負担制度の新設も中間報告より内容が多少薄められたとはいえ導入されました。弁護士報酬の敗訴者負担制度は、国民を裁判から遠ざけるだけでなく、弁護士報酬の負担に耐えられる者と耐えられない者とを差別し国民の中に不平等を生む機能ももっています。特に、刑事裁判の迅速性の強化は、新自由主義経済のもとで今後ますます社会的混乱が発生し治安が乱れることを予想した治安強化を意図したものといえ、まさに「基本理念と方向」の描く社会と連動したものです。
改革審は、審議において、司法の現状、とくに官僚裁判官統制の実態、判検交流、裁判官会同、違憲立法審査権の不行使などに関する事実の調査は一切しませんでした。官僚司法制度の実態を直視することを避けたとしか思えません。「規制緩和に資する司法の実現という結論先にありき」というほかありません。これは、先に引用した国会決議や国会答弁にも反したものです。わたしたちは、今後の立法作業に対し、最終意見のこうした問題点を厳しく批判し、改悪を許さないたたかいをしなければならないと思います。
しかし、前述したとおり、最終意見は、国民の切実な司法改革の要求と運動を反映し、司法の現状を積極的な方向に転換していく内容も含まれています。
裁判官制度改革では、判事補制度の廃止はしなかったもののいくつかの前進的な提言がされました。下級裁判所の裁判官は最高裁の指名した名簿によって内閣が任命することになっていますが、この最高裁の指名にさいして国民からなる諮問機関を設置し最高裁に適任者か否かの意見を述べさせる制度の新設、裁判官の人事評価に関して評価権者、基準を明確化・透明化し、評価内容を本人に開示して、不服がある場合は不服申立権を認めるとする人事制度の見直し、原則としてすべての判事補に裁判官の身分を離れて一定期間他の職種で多様な経験を積ませる制度の新設、裁判官の給源を多様化するため弁護士任官を推進するなどです。新制度の運用いかんいよっては、官僚的裁判官制度を変えさせる突破口となる可能性があります。
国民の司法参加では、刑事裁判で裁判員制度を新設しています。これは、一定の刑事事件について職業裁判官と素人裁判官で対等の立場で審理し、有罪無罪の評決を行い、量刑も行うというものです。陪審制にはほど遠いものですが、将来陪審制を実現するきっかけになりうるものです(ただし、裁判員制度が正しく機能するには現在の刑事訴訟法手続きを大幅に改革することは不可欠です)。検察審査会についても現在は審査会が起訴相当としても法的拘束力がないため結局検察官が起訴しない事例が多いのですが、一定の議決に対し法的拘束力を付与する制度を新設するとしています。
この前進は改革審が自民党・財界の要求に軸足を置きながらも、司法官僚制度の弊害の改革を求める国民の広範な要求を無視できなかった結果であると思います。
司法は国民の人権を守るためのものであり、国民がその主人公です。司法改革をめぐって自民党・財界のための司法改革と国民のための司法改革とのせめぎ合いはこれからも立法過程を通じてますます強まるでしょう。最終意見に盛り込まれた前進的な提言も立法内容や運用如何によって無力化、有害化する危険があることも警戒しなくてはなりません。前進的内容を文字通り実現することはわたしたちの運動の強さにかかっています。わたしたちは、労働者、社会的弱者、そして広範な国民の側にたって前者の改革を許さず、後者の改革を実現するために努力する決意です。同時に、わたしたちは、法律実務家として、国民のための司法を実現するために弁護士としてなすべき責務も自覚しなければならないと考えています。そのために自由法曹団として司法改革に対する見解を明らかにし、司法改革にどう取り組むかを明らかにする必要があると考えます。
以下、改革審の最終意見を検討するとともに、こうしたわれわれの見解を明らかにしたいと思います(なお、本冊子は最終意見に対する単なる批評ではなく、司法改革についてのわたしたちの見解を述べる目的から作成するものであり、そのため構成は最終意見の項目立てに必ずしも対応していません)。
審議会最終意見は裁判官制度の改革として、給源の多様化、多元化、裁判官の任命手続の見直し、裁判官の人事制度の見直し、裁判所運営への国民参加、最高裁判所裁判官の選任等の在り方の見直しの5点を挙げています。このなかには現在の裁判官制度の抱える問題点を改革する上での手がかりとなり得る注目すべき点がいくつかあります。以下では、まず現在の裁判官制度の抱える問題点を指摘した上で、審議会最終意見に対する私たちの評価と私たちの改革提案を述べることにします。なお、最終意見のうち「裁判所運営への国民参加」については積極的に進めるべきものとして特に異論はないので、その他の点について意見を述べます。
憲法は国民の基本的人権を厚く保障するとともに、それが侵害された場合の救済を裁判所に強く期待しています。とりわけ、行政事件に対する裁判権や違憲立法審査権を付与して、行政や立法に対するチェック機能、憲法の番人としての役割を求めています。 しかし裁判所の現状は憲法が期待したこのような役割を果たしているとは到底言えません。裁判所は行政事件、労働事件などにおいて、一部の例外を除き国や行政、大企業寄りの判断を下し、国民の人権救済を拒否してきました。憲法が問題となった事件でも立法や行政に追随して憲法解釈・判断に対して消極的姿勢を取り続け、憲法に照らして立法や行政をチェックするという役割を十分に果たしてきませんでした。
このような現状に至った最大の原因は、最高裁事務総局という司法官僚が司法行政を通じて裁判官に対する中央集権的官僚統制を行い、裁判にとって最も大事な裁判官の独立を著しく損なってきたことにあります。また、現在の裁判官制度が最高裁判所判事を含め裁判官の給源・任用・人事のあらゆる面において国民的基盤を有しないため、裁判所・裁判官が国民の置かれた状況や社会の実態、国民の裁判所に対する期待などから遊離してしまったこともその原因です。
以上2つの点、すなわち、最高裁事務総局による中央集権的官僚統制と国民的基盤の弱さが、現在の裁判官制度の抱える大きな問題点です。この2つの点の是正こそが裁判官制度改革の中心的テーマでなければなりません。これらの点について以下具体的に述べていきます。
最高裁判所は、1960年後半から1970年代初めの一時期を除き、ほぼ一貫して国民の基本的人権の擁護や行政・立法のチェック、違憲立法審査権の行使に対して消極的な姿勢を取り続けてきました。司法権のトップである最高裁がそのような姿勢を取っているため、当然下級裁判所もその影響を強く受け、消極的姿勢を取るものが大多数です。また折角下級裁判所が国民の人権保障や憲法擁護の点からみて優れた判決を出しても最高裁がそれを取り消すことが度々あります。
司法権のトップとして下級裁判所に対して判決や人事・司法行政を通じて強い影響力を持つ最高裁判所の判事や長官の人選は、憲法上内閣が決定することになっていますが、その実際の人選過程は全く不透明です。1970年代初め、公務員労働者の労働基本権に一定の理解を示し争議行為を全面的に禁止した法律を憲法に適合するよう限定解釈した最高裁に危機感を抱いた政府・自民党は、最高裁判事に対する政治的な人事を行い、当時の憲法に忠実な最高裁を政府、行政寄りの最高裁に転換することに成功しました。そしてそのまま現在に至っています。
また15人の最高裁判事の構成も、最高裁発足当時は裁判官出身5名、弁護士出身5名、学識経験者5名でしたが、その後は弁護士出身・学識経験者の比率が減少し、検察官・政府官僚出身者の比率が増加しています。
最高裁のあり方を改革するためには、こうした最高裁判事の人選のあり方を見直すことが必要不可欠です。
下級裁判所の裁判官の任命や人事、その他の司法行政を最高裁事務総局という司法官僚が事実上独占し、しかも裁判官統制の手段として悪用しています。任命・人事について言えば、修習生等から判事補への任命、判事補から判事への任命、裁判官の人事評価、裁判官の任地・配属・昇任(部総括裁判官、所長・長官など)・昇給(特に判事3号俸以上の昇給)などにおいて、思想・信条による差別、判決内容による差別が行われています。たとえば、公職選挙法の戸別訪問全面禁止規定を国民の参政権を侵害するものとして違憲とした裁判官や被告人の無罪推定原則に忠実に従い無罪判決を出した裁判官が昇任・昇給において差別されたり、転勤やポストにおいて冷遇されたケースは数多くあります。また、修習生から判事補を採用する際にも、国や行政、裁判所の現状に批判的な意見をもつ人間の採用を拒否してきました。こうしたことが長年行なわれ、不利益を恐れる裁判官が最高裁事務総局の考える方向に従う傾向が生まれています。
また、裁判官と法務省・検察庁との人事交流も頻繁に行われ、その結果、裁判官の国・行政に対する仲間意識・一体感が醸成され、そのことが行政事件・公害事件などでの国・大企業寄りの姿勢の原因となっています。
さらに、行政事件や労働事件、公害事件などをテーマとして裁判官会同・協議会が行われ、国や行政、大企業に有利な方向に裁判官の考えが統制・誘導されてきました。これらの会議は最高裁事務総局が主催し、これまで公害事件、行政事件、国家賠償事件、労働事件などをテーマに再三開かれていますが、被害者、国民、労働者の側に不利な方向で最高裁事務総局の考える模範解答が示され、意思統一がなさることがほとんどです。そしてこれらの会議で示された見解がその後の下級裁判所の判決を実際に左右していると思われる例が数多く見られます。
こうした裁判官の任命・人事、司法行政を利用して最高裁事務総局を中心とする司法官僚は、自分たちの意に添った人間だけを裁判官とし、また、意に添った方向で裁判官を統制・誘導・養成してきました。こうした官僚的裁判官統制の結果、裁判官の独立が失われ、裁判官の中に最高裁判決や実務の先例、最高裁事務総局の示す方向に盲従し、事案における具体的な事実関係や利益考量を踏まえた妥当な解決を目指すという本来の司法の役目を放棄する傾向が生まれています。
もともと憲法は、裁判所が国会や行政機関から不当な干渉を受けないように司法権の独立を定めるとともに、裁判所内部においても個々の裁判官が独立して裁判を行なえるよう裁判官の身分保障を規定しました。しかし現実には、官僚裁判官制度が維持されたため昇任・昇給などの人事を通じて裁判官の中に上下関係が持ち込まれ、裁判官の独立が損なわれました。さらには、裁判官の任命・人事、司法行政を事実上独占した最高裁事務総局がその権限を悪用して裁判官に対する中央集権的官僚統制を強めてきました。従って裁判官制度のあり方を改革するためには、裁判官の任命・人事、司法行政のあり方を透明化・客観化して濫用の余地のないものとするとともに、裁判官任命・人事権や司法行政権を特定の者が独占してそれを通じて裁判官を支配することがないようその行使を分権化・民主化する必要があります。
裁判官の数が不足していることは明白です。日本の裁判官の数が簡易裁判所の裁判官も含めて約3000人に過ぎないのに対して、アメリカは約1万4000人、イギリスは約6700人、ドイツは約3万3800人、フランスは約9800人と言われており、日本は裁判官の数においても諸外国と比べて極めて少ない状況にあります。
裁判官不足の結果、裁判官が200件ないし300件もの事件を抱えてその処理に日々追われ、当事者に十分な主張・立証を尽くさせ、裁判官自身が十分に考え抜いて判断することが困難になっています。そのため、拙速な審理やずさんな判決、和解の押し付けなど重大な弊害が生じています。現職裁判官からも、忙しすぎるためゆっくり考えたりする余裕がない、審理や和解においてともすれば結論を急ぎ強権的になるきらいがある、判決は簡略化や肩すかしの傾向を帯びる、1件1件の事件を大切に扱うことが軽視されてしまい、回ってくる事件をこなせるかどうかが裁判所内部での裁判官に対する評価の基準になっている、そのため当事者の人権に深い配慮をし、必要とあれば違憲の判断をし、あるいは判例を変更させるべく努力するということができにくくなっていると言う声が上がっています。
また、裁判官の大幅な不足と負担過重が、裁判を担当している現場の裁判官から司法行政に関心を持つ精神的・時間的余裕を奪い、前述した最高裁事務総局による中央集権的官僚統制を容易にしている面もあります。
従って裁判官を大幅に増員して、すべての裁判官がじっくり自分の頭で考え、判断できるための精神的・時間的余裕を確保する必要があります。
最終意見は、今回の審議会の最重要課題の1つであった判事補制度の廃止、法曹一元の導入を結局見送っています。裁判官制度改革にとってもっとも重要な改革を避けたものとして批判を免れません。この点について私たちは審議会に対して強い怒りを覚えます。審議会の最終意見にとらわれず引き続き判事補制度の廃止、法曹一元の導入を検討すべきです。
最終意見は、法曹一元に代わる方策として「多様で豊かな知識、経験等を備えた判事を確保するため、原則としてすべての判事補に裁判官の職務以外の多様な法律専門家としての経験を積ませることを制度的に担保する仕組みを整備すべきである。」と提案しました。
最終意見のこの提案は、法曹一元の趣旨を「裁判官以外の多様な法律専門家としての経験を積んだ者の中から選ぶことによって、多様で豊かな知識、経験等を備えた裁判官を確保する」ということに矮小化していると言わざるを得ません。私たちが判事補制度を廃止すべきと考える理由は、単に裁判官が裁判官以外の法曹経験や裁判所外の社会での経験に乏しく、その結果社会の実態に対する理解が不十分であるということだけではありません。判事補制度は、裁判官として採用された後は定年まで裁判所内で経験を積み重ねてその職務を行うという官僚裁判官制度を前提にした制度であり、司法修習を終えた後10年間の判事補は、いわば裁判所内における官僚裁判官としての見習い期間として位置付けられているのです。しかし官僚的裁判官制度及びそれを補完するための判事補制度は、それ自体不可避的に裁判所内に上下関係をもたらすものであり、憲法が司法にとってもっとも重要と考えた裁判官の独立を損なう危険性を極めて強く持ちます。そして前述した最高裁事務総局による中央集権的官僚統制は、官僚的裁判官制度の下で裁判官の人事権を最高裁事務総局が独占しているために起こった弊害なのです。そこでこのような官僚的裁判官制度及びそれを利用した最高裁事務総局による中央集権的裁判官統制を抜本的に改革する方策として、判事補制度の廃止、弁護士からの判事任命(法曹一元)が強く求められたのです。
従って官僚的裁判官制度自体に何ら手をつけないまま「判事給源の多様化、多元化」だけを提案した最終意見は、裁判官制度の抱える真の問題から目を背けるものと言わざるを得ません。
私たちは、最終意見が裁判官制度改革の1つとして掲げる「裁判官の給源の多様化、多元化」を意味あるものとするためには、「裁判官の職務以外の多様な法律専門家としての経験」を原則として弁護士に限定し、弁護士経験を5年以上有することを判事任命の条件とすべきだと考えます。裁判官制度改革として重要なことは、「他の法律専門家としての多様な経験・知識」という点ではなく、むしろ、弁護士という官僚的統制から離れた立場で法曹としての経験を積むことです。この点で最終意見が「給源の多元化を求める裁判所法第42条の趣旨にかんがみれば、判事補、弁護士以外の法律専門職である、検察官、法律学者からの判事への任官も活発に行われていくのが望ましいことは言うまでもない。」と述べている点については異論があります。
最終意見が、「裁判官の職務以外の多様な法律専門家としての」「職務経験と同視できる程度に、裁判官の資質向上のために有益であると認められる経験も含まれうる」とした点は、もしこれが行政官庁や企業法務での法曹資格に基づかない職務経験を念頭に置いているのであれば問題だと言わざるを得ません。そのような「経験」は、現在でも行政・大企業寄りの裁判所の姿勢を一層悪化させる危険性があります。
最終意見が「特例判事補制度については、計画的かつ段階的に解消すべきである。このためにも判事を増員するとともに、それに対応できるよう、弁護士等からの任官を推進すべきである。」とし、弁護士から裁判官を積極的に任官させる方針を提起した点は評価できます。私たちは、弁護士からの任官を積極的に推進していくことが裁判所を改革するためにも必要であると考えます。
ただ弁護士からの任官を推進していくためには、これまで進まなかった原因を1つずつ取り除いていく必要があります。裁判所側の要因としては、これまで行なわれてきた思想等による差別的な任官拒否をなくすため弁護士任官のための手続を透明化・明確化すること、裁判官に対する官僚的統制、負担過重、遠距離転勤などを是正し、弁護士から任官しやすくなるよう条件整備をすることが必要です。その一つの方策として、非常勤裁判官制度を導入することも検討すべきです。この制度によって裁判官の職務を経験した弁護士がさらに常勤裁判官として任官するという効果も期待できます。
弁護士側の要因としては、それまで経営していた法律事務所や受任していた事件の引継ぎや退官後再び弁護士として活動する場合のバックアップなど個々の弁護士の努力だけでは対応困難な問題について弁護士会として組織的な対応をする必要があります。私たち自由法曹団も弁護士任官の推進のために積極的に努力していく考えです。
最終意見は「法曹有資格者や学識経験者等の人材を、判事を補佐して当該判事の担当する事件全般にわたって審理や裁判を助ける、いわば判事付きの調査官として任用する可能性を含め、調査官制度拡充の方策を検討すべきである。」としています。しかし、このような制度、とりわけ「学識経験者等」の活用は、当事者の見えない場所で裁判官が調査官から影響を受け心証を形成するおそれがあり、裁判の公正を害するものとして強く反対します。現在東京地裁や大阪地裁などにおいて国税庁の課長らが税金裁判のための調査官として活用されていますが、そのことが裁判の一方当事者である国・税務署側に偏った判決を招く一因となっている疑いが強くあります。このような現状に鑑みるなら、最終意見の提案する調査官制度の持つ問題点は明らかです。専門的知識を要する事件への対応については、裁判官の大幅増員によって裁判官が自ら研究して心証を形成するための精神的・時間的余裕を保障することが本筋であり、調査官制度は調査官まかせの裁判をもたらす危険性もあります。
最終意見は、「最高裁判所が下級裁判所の裁判官として任命されるべき者を指名する過程に国民の意思を反映させるため、最高裁判所に、その諮問を受け、指名されるべき適任者を選考し、その結果を意見として述べる機関を設置すべきである。」としています。
下級裁判所の裁判官の任命は最高裁の裁判官会議によって決定することになっていますが(裁判所法12条)、実際には最高裁判事がその適否を判断することは不可能であり、事実上最高裁長官と最高裁事務総局がすべてを決定しています。そして最高裁事務総局はその権限を濫用し、任命を通じて思想差別を行い、憲法擁護・人権保障を裁判所の使命と考える人物、行政や裁判所の現状に批判的な人物などの任命を拒否してきました。そしてそのことが裁判官の独立に重大な悪影響を与え、裁判官に対する統制の手段として利用されていることは前述した通りです。判事補への採用を拒否された元修習生が採用拒否の違法性を主張して裁判を提起し、既に判決も出ていますが、訴訟では最高裁は採用を拒否した理由を一切明らかにしていません。このような現状は極めて問題だと言わざるを得ません。
従って最終意見の提案は、これまで不透明・不公正に行われてきた裁判官の任命手続を改革する手がかりとなりうるものとして評価できます。ただ最終意見は任命手続の見直しを「国民の裁判官に対する信頼感を高める観点から」見直すとしていますが、重要なことは、現在最高裁事務総局が行っているような恣意的な差別・選別を許さない制度に改革することです。そしてそのためには、裁判官指名諮問機関が、最高裁をはじめとする裁判所から独立した公正・中立な存在であること、機関の構成・人選が公正かつ民主的であること、機関が実質的な審議・判断をできるような制度とすること、他方でこの機関が裁判官の独立を侵害することのないように配慮すること、この機関の選考によって適任とされなかった志願者に対する理由の説明・不服申立制度の整備などが重要です。とりわけ、この機関による選考を実質的なものとするための十分な工夫を行わなければ、現在の最高裁裁判官会議の二の舞となり、最高裁事務総局による決定を追認するだけに終わりかねません。
また、これまで最高裁事務総局が中央集権的に人事権を掌握してきたことや任官だけでなく転勤差別等も官僚統制の手段としてきたことを考えれば、これを徹底して改革するためには裁判官指名諮問機関は1箇所ではなく少なくとも各高裁所在地毎に設置し、かつ任命だけでなく任地・転勤など人事異動も諮問の対象とするべきです。
最終意見は「裁判官の人事評価について、評価権者及び評価基準を明確化・透明化し、評価のための判断資料を充実・明確化し、評価内容の本人開示と本人に不服がある場合の適切な手続を設けるなど、可能な限り透明性・客観性を確保するための仕組みを整備すべきである。裁判官の報酬の進級制(昇給制)について、現在の報酬の段階の簡素化を含め、その在り方について検討すべきである。」と提案しました。
これまで裁判官に対する人事評価はその手続も内容もまったく明らかにされず、それが裁判官統制に利用されてきました。また裁判官の報酬が23段階にも細分化されていることが、裁判官の間に上下関係を持ち込み裁判官の官僚化を促進し、また、昇給(特に判事3号俸以上への昇給)が差別と統制に利用されてきました。従って最終意見の提案は、裁判官の人事制度の濫用による裁判官統制を防ぐための手がかりとなりうるものとして評価できます。この点は今後絶対に実現すべき課題です。わたしたちは、裁判官の報酬は本来一律であるべきで昇給を認めるにしても3段階程度の緩やかなものにすべきと考えます。そしてそれに当たっては現場の裁判官の意見を十分に聞くことが必要だと考えます。現職裁判官による裁判官ネットワークもさまざまな提案を行っています。
しかし、裁判官の人事評価の結果に基づいて誰がどのような手続によって個々の裁判官の任地・配属・昇任・昇給を決定するのかという問題については最終報告は全く触れていません。この問題は人事評価の問題とともに非常に重要な問題です。
裁判官に対しては、判事補として採用した後も、どこの裁判所で職務を行うのかという任地・転勤の問題、どのような種類の事件を担当するのかという配属の問題、裁判長となる部総括裁判官の指名、地裁・家裁の所長、高裁の長官などへの昇任などさまざまな人事が行われています。このような人事の在り方それ自体が官僚裁判官制度に不可避なものであり、裁判官の序列化・官僚化をもたらし裁判官の独立を損なう危険性をもつものです。この点では、前述のとおり任地・転勤など人事異動も国民が参加する諮問機関の諮問の対象とするべきです。昇任、昇給、配属などについても裁判官の独立を損なわないよう改革すべきです。
裁判所法では各下級裁判所の司法行政はそれぞれの裁判所の裁判官会議によって行うものとなっています(高裁・裁判所法20条、地裁・同法29条、家裁・同法31条の5、簡裁・同法37条)。裁判官会議による裁判官自治は裁判官の独立を守るための制度的保障として定められたものです。ところがこの裁判官会議による自治は戦後一貫して形骸化され、現在は各下級裁判所の長官・所長は最高裁が一方的に決定し、また部総括裁判官の指名、配属などの司法行政は長官・所長が一方的に決定しています。この司法行政・人事システムによって、裁判官会議から長官・所長へ、そしてさらには最高裁事務総局へと多くの権限が集中しています。このような中央集権的官僚的人事制度を改革しない限り、裁判官に対する官僚統制も、裁判官の独立の回復もありえません。
そこでまず、下級裁判所の部総括裁判官の指名、配属その他の司法行政については、各裁判所の裁判官会議によって決定するものとすべきです。また最高裁による高裁長官、各地裁・家裁の所長の指名に当たっては、あらかじめ当該下級裁判所の裁判官会議の意見を聞きそれを尊重するものとすべきです。司法行政・裁判官人事において自治と分権を図ることが中央集権的官僚統制を防ぐ最も重要な改革です。裁判官の人事や司法行政が裁判官会議という公開の場での民主的な討論を経て決定され行使されることが、その適正さ・公平さを確保する上でも、また裁判官の独立の保障のためにも極めて重要です。
本来最高裁事務総局は裁判の裏方として庶務的仕事に従事するための部署だったはずです(裁判所法13条)。それが人事権などの司法行政権をすべて独占し、最高裁事務総局への異動が出世コースと見なされるようになっています。
従って、人事権などの司法行政権は最高裁及び各下級裁判所の裁判官会議に属することを改めて確認し、現在の最高裁事務総局は廃止すべきです。裁判の裏方としての庶務的仕事については、そのための権限に限定した部署を新設し、そこには裁判官以外の裁判所職員を当てるべきです。そしてそれに伴い、裁判実務を離れ最高裁事務総局で司法行政に専従する裁判官の数(1999年12月1日時点で56人)を大幅に削減すべきです。
これまでの内容を公開するとともに、これまで行ってきた具体的な事件を念頭においた裁判官会同・協議会は禁止すべきです。裁判官相互の研鑚のために必要であれば、テーマを具体的な事件を念頭におかない一般的なものとし、開催形態も最高裁事務総局がテーマや参加者を一方的に決めている現状からすべての裁判官に開かれたものとし、かつ、内容を裁判所外にも公開することが必要です。
裁判官が法務省に出向し、国を当事者とする訴訟で国側代理人を務めたり、検察庁やその他の行政省庁において国側の立場で職務に就くいわゆる「判検交流」は廃止すべきです。1999年10月1日時点で143人(うち法務省が101人)もの数の判事・判事補が行政省庁などで勤務していますが、これは裁判官総数2871人(1999年10月1日時点)の5%にも上り、このような人事交流が長年積み重ねられることが裁判官に与える影響は重大です。
この点について最終意見は、「第5 裁判官制度の改革」の次に「第6 法曹等の相互交流の在り方」の章を設け、「法律専門職(裁判官、検察官、弁護士及び法律学者)間の人材の相互交流を促進することにより、真に国民の期待と信頼に応えうる司法(法曹)をつくり育てていくこととすべきである。」としています。最終意見は、裁判官から検察官への転官が活発な反面、弁護士や検察官などから裁判官への任官者数が僅少であることや弁護士から検察官への任官が皆無に近いことが問題であるかのように理解していますが、この問題は、国や行政に対してチェック機能を果たすべき裁判官がチェックの対象である国や行政の一員として活動し、その後一定期間を経て裁判所に戻り再び裁判官としての職務を行う点にあります。このような人事交流が、憲法が裁判所に対して国や行政に対するチェック機能・違憲立法審査権の行使を期待している趣旨に明らかに反する点がまさに問題なのです。従って、現在行なわれているいわゆる「判検交流」は直ちに禁止すべきです。
裁判官の数については少なくとも現在の2倍にすべきです。現職裁判官からも、すべての裁判官が今の手持ち事件数、処理件数が半分程度になればもっと納得の得られる審理、判決ができるのにという強い願望を持っているとか、裁判官の数を倍増すべきだとの声が上がっています。裁判官の増員については、本意見書の第4の1の「法曹人口」の中で詳しく述べますので、ここではこれ以上触れません。
最終意見は、最高裁判事の「選任過程について透明性・客観性を確保するための適切な措置を検討すべきである。最高裁判所裁判官の国民審査制度について、国民による実質的な判断が可能となるよう審査対象裁判官に係る情報開示の充実に努めるなど、制度の実効化を図るための措置を検討すべきである。」としていますが、この点は評価できます。ただ、最高裁裁判官の選任や国民審査の在り方の見直しにとどまらず最高裁判所の機構改革について広く検討すべきだと考えます。具体的には以下の点を検討すべきです。
最終意見でも触れられている昭和22年当時裁判所法の規定に基づき設けられた裁判官任命諮問委員会の制度も参考にして、最高裁判事の選任過程において透明性・客観性を確保するとともに、その選任に国民の意思をできるだけ反映する制度を今後早急に具体化すべきです。
またその際には、最高裁判事の出身分野が、裁判官や検察官、行政官僚出身者などに偏っている現状も見直し、最高裁発足当時の裁判官出身5名、弁護士出身5名、学識経験者5名に戻すべきです。また検察官・政府官僚出身者を最高裁判事とすることは、刑事事件においては検察官の訴追の批判的検討、民事・行政事件においては行政のチェックが裁判所の重要な任務であることから考えれば、避けるべきです。
現在の最高裁判事に対する国民審査制度には、国民にとって審査対象の裁判官に関する情報がほとんどない、それにもかかわらず積極的に×印を付けない場合(つまり白紙投票)にはすべて信任と扱われるなどの問題点があります。
最高裁判事に対する国民の民主的コントロールを充実するため国民に分かりやすい制度とする必要があります。具体的には、審査対象の裁判官に関する情報提供を充実させること、信任票と棄権投票とを区別できる制度にすることなどを検討すべきです。なお、棄権投票が多い結果生じる弊害を理由に現状を肯定する意見もありますが、国民審査の重要性に鑑みれば、防止策については別途講じることとすべきです。
最高裁調査官は最高裁判事の判断に非常に大きな影響を与えていると言われていますが、調査官にエリート裁判官を当てるという現在の制度では、最高裁の判断がどうしても今の裁判所実務を前提にしたものとなりがちです。そこで調査官の人選を弁護士にも広げることが必要です。
なお、現在は個々の最高裁判事にそれぞれ専任で付く調査官はいないため、最高裁判事が独自性・創造性を発揮しにくい状況にあるため、個々の最高裁判事の指示のもとに判事を補助するスタッフとして充実させることも検討すべきです。
本来裁判所全体の司法行政は、司法権のトップである最高裁の裁判官会議によって議論され決定されるべき事項です(裁判所法12条)。しかし実際には、最高裁判事が事件処理に手一杯の状況で司法行政に積極的に関与する余裕がないこと、司法行政について検討するために必要な情報はすべて事務総局が持っており最高裁判事には独自の情報源もないため事務総局に対する指導性を発揮しにくいこと、裁判官出身判事とそれ以外の判事との間には司法行政に関する知識において格段の差があることなどから、最高裁の裁判官会議は形骸化し、長官(裁判官出身者がなることが多い)と事務総局からの提案を追認するだけに終わることが多いと言われています。
こうした現状を改革するためには、前述したように、各下級裁判所内の裁判官人事や司法行政についてはその裁判所の裁判官会議に委ねること、裁判官の任命については裁判所から独立した裁判官指名諮問機関を設けること、最高裁事務総局を廃止することなどの機構改革が必要です。それに加えて、最高裁の裁判官会議において司法行政について実質的な議論がなされるよう最高裁自体の機構改革が必要です。
現在の日本の司法は、憲法で保障された国民の権利を実現する「人権の砦」としての役割に背く重大な問題を抱えており、官僚司法の弊害は極限に達しています。官僚裁判官による国民の良識に反する判決は、民事、刑事、行政、労働などあらゆる類型の裁判で後を絶ちません。
労働裁判においては、大企業の利益を優先させ、憲法や法が保障する労働者や労働組合の権利を無視した非常識な判決が後を絶たず、行政訴訟についても、住民提訴事件の多くは門前払いされ、実体審理に入った事件もほとんどが原告敗訴しているのが実情で、行政に対する司法のチェック機能は全く形骸化しています。
刑事裁判においては、ひとたび起訴されれば99%を超える異常な有罪率のもと「絶望的」といわれて久しく、「疑わしきは被告人の利益に」の原則は完全に形骸化し構造的に冤罪が生み出されています。一般市民事件や消費者事件においても、国民の良識とかけ離れた、国民の願いに背く判決は後を絶ちません。
こうした現在の官僚司法を抜本的に転換し、国民のための司法を実現するには、裁判官制度の改革と並んで、主権者国民が司法に直接参加することが必要です。
司法は裁判という形で市民の権利を実現し、何が正義かを明らかにする社会において極めて重要な決定過程です。その決定過程が一握りの官僚裁判官に独占され、決定過程から市民が全く排除されていることは、民主主義社会における司法のあり方として極めて異常です。司法が国民の良識にかなった、国民の権利の砦にふさわしい役割を果たすには、ひろく国民が訴訟手続に直接参加し、裁判内容の決定に関与する制度が構築されるべきです。
私たちは、国民の司法参加の最も徹底した制度である陪審制度を基本に据えて、民事、刑事、行政、労働等、全ての訴訟手続に国民が参加する制度を早急に具体化すべきであると考えます。
陪審制度は、国民の中から無作為抽出で選ばれる陪審員のみによる評議によって、刑事事件の有罪・無罪、民事事件の勝訴・敗訴の結論を決める制度です。普通の社会生活をおくり、多様な経験を持つ多数の市民が、対等な立場で議論をして裁判の結論を決めるこの制度は、最高裁の官僚統制のもとにおかれ、社会経験も限られた、少数の職業裁判官のみによる判断に比較してはるかに優れています。そして何より、裁かれる国民の目線・視点にたった判断、国民の良識を反映した判断が実現する可能性が大きく広がります。
国民参加の制度としては、陪審制のほかに、職業裁判官と市民が合議をして裁判の結論を決する「参審制」があります。しかしこれは陪審制と比較して極めて不十分な国民参加形態といわざるを得ません。
陪審制度が事実問題について陪審員の評議に最終判断が委ねられている制度であるのに対し、参審制度は判決の最終判断のイニシアティブと責任が裁判官に帰属する制度であり、諸外国の運用実態からみても国民の主体的・実質的関与が十分に確保されているとはいえず、形式的な国民参加となる危険性が高い制度です。
日本の司法を抜本的に改革するためには、最も徹底した国民の参加制度である陪審制度が導入されるべきであり、民事・刑事・行政・労働などすべての裁判において、国民の選択制を基本として陪審制度を実現すべきです。
陪審制度導入に際しては、公平な裁判を受ける国民の権利を確保する見地から、国民の適正な判断を保障するための制度的保障と、万一の誤判に対する救済手段が必要不可欠です。
国民の適正な判断を確保するためには、@公正な陪審員を選定する慎重な選定手続、A事前の全面的証拠開示・直接主義・口頭主義の徹底等、わかりやすい充実した審理の実現、B裁判官の公正な訴訟指揮と適切な説示(刑事事件の無罪推定に関する説諭はとりわけ重要です)、C日常的な司法教育の実現が必要です。そして誤判・冤罪に対する救済手段に関しては、現行制度同様、事実問題に関する上訴が認められるべきです。
最終意見は「司法の国民的基盤を更に強固なものとして確立すべく、国民の司法参加を拡充する」とし、「訴訟手続は司法の中核をなすものであり、訴訟手続への一般の国民の参加は、司法の国民的基盤を確立するための方策として、とりわけ重要な意義を有する。すなわち、一般の国民が、裁判の過程に参加し、裁判内容に国民の健全な社会常識がより反映されるようになることによって、国民の司法に対する理解・支持が深まり、司法はより強固な国民的基盤を得ることができるようになる」としました。最終報告が国民の司法参加、なかでも訴訟手続への国民参加を重要なものとして位置付けた点は評価すべきであると考えます。
最終意見は上記のような基本的方向性を示したうえで「このような見地から、差し当たり刑事訴訟手続について(中略)、広く一般の国民が、裁判官とともに責任を分担しつつ協働し、裁判内容の決定に主体的・実質的に関与することができる新たな制度を導入すべきである」とし刑事重大事件に限って、「裁判員制度」を導入することを提起しました。
陪審法停止以降、一般国民が直接裁判に参加する制度がまったく存在しなかった日本の司法制度において、戦後初めて一般国民が司法に参加する制度の導入を提起した点では、一歩前進と評価できます。特に、裁判員を、選挙人名簿から無作為抽出した一般国民から選任するとした点、裁判員は評決権を有し裁判官と基本的に対等な権限を持つとした点は、広範な国民による実質的な参加を提起するものとして、重要です。
しかし、官僚主義的司法の弊害が極限まで達し、陪審制の実現を求める大きな世論が沸き起こったにもかかわらず、審議会が陪審制度の導入を一切見送り、わずかに刑事重大事件にのみ裁判員制度を導入するという、極めて限定的な国民の司法参加を提起するにとどまったことは、不十分といわざるを得ません。前記のとおり、現在の日本の官僚制度を根本的に転換するためには、全ての訴訟類型に司法参加制度を導入すべきであり、中でも、最も徹底した国民参加の制度である陪審制度の具体化が必要です。
最終意見の提起した裁判員制度は、選挙人名簿から無作為抽出される一般国民を母胎として具体的事件ごとに選出される裁判員が評決権をもって評議し、評議においては裁判官と基本的に同等の権限を有し、裁判官とともに有罪・無罪の決定及び刑の量定を行なうものです。裁判員と裁判官の人数比率、評決方法等具体的な制度設計が全く白紙の状態であり、制度設計はこれからです。
自由法曹団は、審議会の提起した裁判員制度を当面の出発点とし、これを国民が実質的に訴訟手続に参加できる制度として運用・発展・拡充させ、全ての訴訟類型への陪審制度の実現につなげていくべきであると考えます。しかし、裁判員制度には、陪審制度につながる司法民主化の方向性への前進面がある一方で、具体的制度設計及び運用によっては、以下の通り国民参加が形骸化し現行刑事司法の重大な改悪につながりかねない危険性もあります。とくに、わたしたちは、裁判員制度によって国民が刑事裁判手続きに関与するには被疑者・被告人の防御権が十分保障されず、捜査機関が作成した調書を重視する現行刑事訴訟手続きを根本的に改めることが大前提であると考えます(詳細は第5、2「刑事司法制度の改革について」で述べます)。
「裁判員制」では一般市民と職業裁判官が評議をして結論を決めることになりますが、特別の専門的知識・経験を持たない一般市民が評議において職業裁判官と対等な議論を展開できるか危惧があり、職業裁判官の過度の影響とイニシアティブに基づく結論となる危険性があります。そして、実際の評議において職業裁判官と裁判員の対等かつ実質的な議論による結論が得られたか否かは「評議の秘密」により一切検証不可能です。「裁判員制度」同様、一般市民が参加する参審制度を採用しているフランスでは職業裁判官の過度の影響を考慮し、一般市民との対等な議論を実現するため、職業裁判官3名に対して9名の参審員が加わって12人で審理・判決する制度を採用していますが、そのフランスの参審制度ですら職業裁判官の過度の影響が指摘されています。
最高裁はこれまでの審議会に対する意見表明の機会のたびに、国民の司法参加を敵視し、これを阻止する態度を鮮明にし、国民の事実認定能力に対する露骨な不信感を示してきました。このような最高裁による中央集権的官僚統制が個々の裁判官に及んでいる現在の日本の官僚司法の実情に照らせば、個々の事件で「評議の秘密」が確保された評議過程において、裁判官が市民の影響力を徹底的に排除し、裁判員を名目的な飾り物にし、国民参加を形骸化させようとする危険性が高いといわざるを得ません。
そのような形だけの市民参加は、かえって不当判決を主導した職業裁判官の責任を免罪し、裁判批判を封じ込め、裁判所の問題性を糊塗する負の役割を果たすこととなります。
一般市民である裁判員が実質的に裁判に参加するには、裁判員に理解可能な公判中心の直接主義・口頭主義の審理が行われることが不可欠の前提であり、現在の「調書裁判」では、裁判員の事実認定に対する実質的な関与は不可能です。直接主義・口頭主義の実現は、実質的な国民参加の必要条件であり、かつ、絶望的といわれて久しい現在の調書裁判の根本的変革であり、さらに国民に分かり易い裁判を実現するために極めて重要です。しかしながら、実際の運用において検察官が書証中心の立証を改めず、裁判所が伝聞法則に関する従来どおりの運用を続けるならば、従来どおりの調書裁判主義が罷り通ることとなります。これでは裁判員は公判廷における心証形成をなしえず、事実上事実認定を裁判官に白紙委任し量刑判断のみにわずかに裁判員の意見を反映するという事態になりかねません。それでは国民の司法参加は完全に形骸化するうえ、調書裁判主義は根本的になんら変革されないこととなります。
一般国民が裁判に参加し公判で心証を形成して判断することを可能にするため、裁判員制度では短期間での集中証拠調が想定されます。当事者が協力して連続開廷等の態勢をとる必要も生じることになります。
しかし、第1に「刑事司法制度の改革」の項で述べるとおり、現行の被疑者・被告人の人権、当事者性を無視した捜査や身柄拘束の実態を抜本的に転換することなしに集中審理を行うことは、被告人に過大な負担を課すもので容認できません。
第2に、「裁判員の負担」を理由として、裁判所が「迅速化」を強調し、訴訟指揮等を通じ、十分な弁護側の立証活動や反対尋問権の行使を制限する危険性があります。
私たちは、裁判員制度の導入にあたって被告人の防御権、弁護権が侵害されることは絶対に容認できないと考えます。
いうまでもなく刑事裁判は被告人に対し、国家権力が刑罰権を科しうる強力な権力発動を伴う司法作用であり、刑罰権行使は、死刑、無期,有期懲役という極めて過酷な人権侵害を伴います。それゆえに刑事裁判には無実の者に誤って刑罰を科すことのないよう、慎重な手続により被告人の十分な防御権、弁護権が保障されたうえで行われなければなりません。
国民の司法参加を実現するのは、何よりも納得のいく公平・公正な裁判を保障するためであり「国民参加」のために、裁判の当事者が犠牲を被ることは本末転倒です。
粗雑な刑事手続により刑事被告人の権利が侵害され冤罪が拡大することは、絶対に容認できません。
裁判員制度が創設されるとした場合、国民の司法参加を実質的・主体的なものとして充実させ、発展させていく必要があり、裁判員制度を陪審制度に近づけていくことが求められます。同時に被告人の裁判を受ける権利、刑事手続上の権利は後退させることは絶対に許されません。その観点から、裁判員制度創設にあたっては以下のような条件が必要であると考えます。
最終意見は、裁判員制度は刑事重大事件を対象とするとし、被告人の選択権を認めないとしていますが、なぜ裁判員制度が重大事件に限定されるのか、合理的な理由は皆無です。また、重大事件では裁判員制度しか選択できず、その他の事件では被告人がいかに希望しても裁判員制度の裁判を受けられないという根拠は全くありません。
最終意見は選択制を認めない理由を「新たな参加制度は、個々の被告人のためというよりは、国民一般にとって、あるいは裁判制度として重要な意義を有するが故に導入する」としていますが、これは本末転倒の議論であり、刑事裁判においては手続により不利益を受ける可能性のある被告人の裁判を受ける権利・防御権こそ最大限尊重されるべきです。被告人が裁判員の審理をあえて望まない場合にはその意思を尊重するべきでこれを否定する合理的理由はないと考えます。よって、対象事件を全ての否認事件に拡大し、被告人の選択制とすべきであると考えます。
なお、最終意見が提起する裁判所の判断による裁判員制度の除外手続きを認める余地を残していますが、これは恣意的判断を許す危険が高く、容認できません。
裁判官と裁判員の立場には圧倒的差異があり、実質的対等性を確保するためには、少なくとも職業裁判官の3倍以上の裁判員が参加する必要があります。
調書裁判主義を抜本的に転換し、直接主義・口頭主義が実現することは、裁判員制度の核心部分であり、これが実現しなければ国民の主体的・実質的関与など到底不可能です。そのために、調書裁判主義が蔓延する現在の実務は抜本的に改革すべきであり、検察官面前調書に関する刑事訴訟法321条1項2号本文後段、自白調書に関する322条はいずれも廃止すべきです。
国民の裁判への主体的・実質的参加を実現するためには、口頭主義を徹底し、連日開廷の集中審理を行うことも必要になります。しかし、集中審理には、後述するとおり(第5、2「『刑事司法制度の改革』について」)、被疑者・被告人の身柄・捜査についての抜本的改革が不可欠です。また、集中審理の前提として弁護側の十分な準備が保障されなければならず、十分な準備期間の保障、検察官手持ち証拠の全面的証拠開示が絶対に必要です。
また、必要な審理は全て尽くされなければならず、「裁判員の負担」を理由として証人尋問及び尋問時間が制限されるようなことは絶対に許されません。
イ 裁判員選定手続においては、被告人・弁護人に裁判員候補者への質問の機会を十分に保障し、被告人・弁護人側に専断的忌避権を認めること。
ロ 評議に先立ち職業裁判官は裁判員に対して、無罪推定の原則、黙秘権、適正手続保障の重要性、刑事訴訟の諸原則の説明、事実認定・評議にあたっての注意、争点整理に関する説明を十分に行なう必要があり、これは公判廷において当事者立会いのもとに行なわれること。
ハ 被告人に不利な決定をするには評議参加者の8割以上の賛成を必要とする特別多数決を必要とすること。
ニ 裁判員が一定期間裁判に拘束されることを考慮し裁判員に対し裁判に専念するための経済的、身分的な保障制度を設けること。
ホ 控訴審においても国民参加制度を導入すること。
ヘ 被告人・弁護人の防御活動を保障するために速記制度の充実すること。
最終意見は、国民の司法参加の重要性、とりわけ訴訟手続への国民参加の重要性を指摘しながら「差し当たり」として刑事重大事件への裁判員制度の導入を提起するのみで、他の訴訟類型については何ら国民参加の具体的提起をしませんでした。これは極めて無責任といわざるを得ません。官僚司法の弊害は刑事事件に限らず、民事・行政・労働など全ての事件に顕在化しており、事態を漫然と放置することは許されません。全ての訴訟類型において市民参加の制度構築が具体化されるべきです。
特に、労働裁判については労働参審制の導入が具体的に審議されたにも関わらず、具体化されず、最終的には「雇用・労使関係に関する専門的な知識経験を有するものの関与する裁判制度(ヨーロッパ諸国で採用されている労働参審制を含む)の導入の当否についても早急に検討を開始すべきである」とするに止まりました。
また、官僚裁判官による行政追随の判決が後を絶たず、本来最優先で国民参加を実現すべき行政事件について、最終意見は「司法の行政に対するチェック機能を強化する方向で行政訴訟手続を見直すことは不可欠である」との認識を示すのみで、そのための具体策を一切提起せず、国民参加制度の導入を全く具体化していません。
今後の立法作業では全ての裁判における市民参加を具体化すべきですが、特に労働・行政事件に関しては、最終意見を一歩進め、必ず、国民参加制度が創設されなければならないと考えます。
検察官の起訴・不起訴は恣意的になされており、起訴・不起訴裁量の民主的コントロールは極めて重要です。検察審査会の議決に対する拘束力の付与はこの点で、妥当な改革であると考えます。
国民の司法参加を名実ともに実現するためには、訴訟当事者としての弁護士の努力が極めて重要になります。連続開廷、直接主義・口頭主義の実現、国民にとってわかりやすい裁判内容の実現など訴訟当事者である弁護士が果たすべき役割は非常に重要です。
私達は、国民のための司法改革を実現するため、全ての裁判における国民参加を求めるとともに、名実共に国民が主体的・実質的に裁判に参加出来る制度が実現するよう制度構築及び運用において最大限の努力をするものです。
最終意見は、法曹人口の増加について、「現行司法試験合格者数の増加に直ちに着手し、平成16(2004)年には合格者数1500人達成を目指すべきである」「法科大学院を含む新たな法曹養成制度の整備の状況等を見定めながら、平成22(2010)年ころには新司法試験の合格者数の年間3000人達成を目指すべきである」「おおむね平成30(2018)年ころまでには実働法曹人口は5万人規模に達する」との結論を出し、しかも「新司法試験の合格者数を年間3000人とすることは、上限を意味するものではない」と述べています。
私たち自由法曹団は、1998年10月に発表した「21世紀の司法の民主化のための提言案」において、法曹三者のどれを見ても、現状では法曹人口の不足は歴然としているとして、裁判官、検察官の増員とともに弁護士人口の大幅な増大が必要であると提言しました。
従って私たちは、基本的人権が正しく守られるために必要な数の弁護士を増やすことは賛成です。
しかし、必要な法曹人口はそれぞれの国の法律関連職種のあり方やその数にも影響されるはずですし、また、それぞれの国の司法制度がどれだけ国民の権利と要求の実現に応えたものになっているかでそれに従事するのに必要な法曹の人数も左右されるはずです。例えば日本の場合法律事務を取り扱う資格としては、弁護士以外にも司法書士(約1万7000人)、税理士(約6万3000人)、弁理士(約4000人)、行政書士(約3万5000人)、社会保険労務士(約2万5000人)、公認会計士(約1万2000人)が存在し、その総数は15万6000人にも上ります。そして日本と諸外国とでは弁護士と隣接法律関連職種との職務区分が異なっており、単純に弁護士の人数だけを国際比較することは誤りです。
ところが最終意見は「今後、国民生活の様々な場面における法曹需要は、量的に増大するとともに、質的にますます多様化、高度化することが予想される。その要因としては、経済・金融の国際化の進展や人権、環境問題等の地球的課題や国際犯罪等への対処、知的財産権、医療過誤、労働関係等の専門的知見を要する法的紛争の増加、「法の支配」を全国あまねく実現する前提となる弁護士人口の地域的偏在の是正(いわゆる「ゼロ・ワン地域」の解消)の必要性、社会経済や国民意識の変化を背景とする「国民の社会生活上の医師」としての法曹の役割の増大など、枚挙に暇がない。」と増員の必要性を述べていますが、以上の点について、十分比較検討した形跡は認められませんし、指摘された点の具体的内容も明らかではありません。したがって、審議会が国民の権利と要求の実現を図るための法曹の質と量について十分検討したとは思われませんし、新規法曹年間3000人という数値目標が法曹人口全体にどのような影響を与えるかについても十分な検討をしたとは思われません。しかも年間3000人というのは上限を意味しないとしていますから、こうした際限なき増員論に立った結果どのような影響を及ぼすのかについての検討は不可欠です。
昨年11月1日の朝日新聞の試算によると、2003年ロースクール開校(最終意見ではロースクール開校は2004年としているので1年ずつずれる)、2006年最初の卒業生、2007年第1期生誕生と仮定すると、法曹人口は、2014年に4万5000人、2037年には10万人突破、2046年以降は12万人で横ばいになると報道されています。
この試算が概ね正確であれば、審議会が当面の目標と考えたフランス並みの5万〜6万人は早晩達成し、その後はそれを大幅に越えることが確実です。審議会は、年間3000人の新規法曹を誕生させた場合法曹人口がその後どうなるかについてこのような検討を行ったのでしょうか。それだけの法曹人口に見合う要求が果たして国民の中に存在するのでしょうか。また、これから法曹人口の増加に伴って国民が裁判に救済を求めることも増大するのでしょうか。年間3000人の新規法曹を誕生させるには、これと併行してこの点についての検討と対策が必須となってきます。
法曹人口増員を考える場合忘れてはならないことは、弁護士人口を増員するだけでは、国民にとって利用しやすくその権利を実現する司法は実現し得ないということです。弁護士や司法による救済を受ける権利を保障するためには、以下のような改革を法曹人口の大幅増員と同時併行で行うことが必要です。とりわけ、法曹人口について具体的な数値目標を提案した現時点でおいては、以下の諸々の改革についても、単にその必要性を指摘するだけでなく、数値目標や実施期限を明記した具体的な提案が必要です。
法曹人口大量増員を自己目的化することなく、何が国民にとって利益となるのかという観点から計画的な増員を検討することが求められています。
第1に、法曹人口の増加が単なる弁護士人口だけの大幅増加に終わらないようにし、裁判官や検察官の大幅増員を必ず実現することが必要不可欠です。そのことが確実に実現されるように、法曹人口を増員するにあたっては、国民にとって必要な裁判官や検察官の総数を議論し、当面到達すべき数値目標を決めること、及び、その数値目標にいつまでに到達するのか、そのために毎年裁判官と検察官を新規に何人ずつ増加させるのかの増員計画を具体的に策定することが必要です。裁判官大幅増員の必要性やその具体的方策については、「裁判官制度の改革について」で述べましたのでここでは繰り返しませんが、ただ一つ指摘しておきたいことは、日本の裁判官の数が簡裁裁判官も含めて約3000人に過ぎないのに対して、アメリカは約1万4000人、イギリスは約6700人、ドイツは約3万3800人、フランスは約9800人と言われており、日本は裁判官の数においても諸外国と比べて極めて少ない状況にあることです。ある現職裁判官も、現在の裁判官の負担過重な状況から裁判官を倍増し、手持ち事件数を半分程度にする必要があると提案しています。
ところが審議会は、裁判官不足については十分な審議を行っておらず、法曹全体の人口については諸外国の人数を細かく挙げて比較しているにもかかわらず、裁判官の数については何ら実証的な検討を行っていません。最終意見では、最高裁が向後10年程度の期間に500名程度の裁判官の増員が必要と述べていることを無批判に引用していますが、この程度の増員では到底国民に求められる水準に達するとは言えません。少なくとも早期に倍増することが必要です。
また同時に、裁判所職員や検察庁職員についても、必要な総数は何人かの数値目標、その数値目標に到達する目標年度とそれまでの毎年の増員人数を具体的に定める必要があると考えます。なお中間報告は、裁判官や検察官については「大幅な増員」としながらその他の職員については「適正な増員」として表現を区別していますが、これがもし、職員の増員については大幅に増員する必要がないとの意味であれば問題です。これら職員についても大幅に不足しているのが現状であり、全司法等の労働組合からは、毎年職員の大幅増員を要求として掲げていますが、ほとんど実行されていないのが実情です。
また、正確な記録に基づいた正しい裁判を実現する上で現行の速記官制度は重要な役割を果たしてきましたが、最高裁は、速記官の養成を停止して外注による録音反訳方式を導入し、裁判調書の簡略化を進めています。その結果、証人尋問調書の正確性の低下などの懸念も生じており、最高裁は、速記官養成を直ちに再開・拡充すべきです。
第2に、法曹人口を増大させるだけで、直ちに全国各地にくまなく弁護士がいきわたるということにはなりません。こうした弁護士の地域偏在の問題の克服は、弁護士や弁護士会だけでは解決不可能であり、その解決のためには、国や地方自治体による公的支援が必要不可欠です。
イ 弁護士の地域偏在の解決の方策
弁護士の地域偏在の問題については、現在弁護士会は様々な努力を行っています。しかし、この問題は日本全体における人口や経済の偏在、地方の過疎化問題と密接に関連しています。弁護士は経済的には事業者に過ぎず、そのため、経営が維持しやすい人口や経済の集中する都市に偏在することはある意味では当然ともいえます。もちろん、過疎地において弁護士による法的援助を受ける権利が十分保障されていない現状の持つ重大性を認識して現在弁護士会は努力を行っていますが、その解決を、自ら事務所経営を維持しなければならない事業者に過ぎない弁護士やその組織である弁護士会だけに頼ることは不可能であり、その解消のためには国や地方自治体などによる公的支援が不可欠です。例えば北海道のような極めて範囲が広く人口密度の低い地域や交通手段が限られ移動に時間を要する離島などにおいては、弁護士が個人の力で事務所を構えることは極めて困難であり、国や地方自治体による公的援助なくしては、国民の裁判を受ける権利を保障することは不可能です。
現在指摘されている対策としては、法律相談センターや公設法律事務所の設置、それに対する公的支援がありますが、これらについては早急に具体化する必要があります。また、その他にどういう方策がありうるのかについては、まず実態調査とその原因の分析が必要です。
また弁護士の地域偏在は、最高裁や法務局による地方切り捨てとも密接に関係しています。これまで最高裁や法務省は、簡易裁判所、地裁・家裁の支部、登記所などの公的司法関係施設の統廃合を進め、地方における司法的救済を受ける権利を損なう方向での政策を推進してきました。たとえば最高裁は、1988年5月に簡易裁判所を101庁廃止しています(1947年の簡裁設置時の575庁から現在は438庁に減少)。また1990年には41庁の地裁・家裁の支部を廃止しています。
さらには、全体的な裁判官や職員不足のため、大都市部等に人員を集中し支部において人員を削減することが進められ、裁判官が常駐しない地裁・家裁支部が生じています。その結果法廷開廷日や調停日が非常に限られ(月1回や2回という裁判所もある)、地方における市民が裁判所を利用しようと思っても利用しづらい状況が生まれています。そしてそのことが更なる裁判所離れを招くという悪循環に陥っています。
弁護士過疎問題の解決は、最高裁や法務省による司法過疎推進政策の転換なくして実現できるものではありません。司法過疎推進政策を転換させ、地域の隅々に国民が司法サービスを享受するための司法関係施設を設置させることが必要です。せっかく弁護士が地域に増えてもそこに裁判所がなければ弁護士はその役割を十分に果たすことが出来ません。
最終報告は、これらの点について具体的な提案を行っていませんが、国民の裁判を受ける権利を保障するためには、裁判所その他の司法関係施設の地域偏在の解消が不可欠です。
ロ 経済的理由による裁判を受ける権利の侵害の解消の方策―法律扶助制度の拡充
経済的理由により裁判を受ける権利が十分保障されていない状況を解消するためには、法律扶助制度の大幅拡充が不可欠です。いくら弁護士人口が大幅に増員されてもこの点が解消されなければ国民による弁護士の利用は増加しません。今年民事法律扶助法が成立しある程度拡充されましたが、欧米に比べると非常に不十分です。例えば、本年度の民事法律扶助事業関連予算は前年度の約6億円の約3.5倍の約22億円になりましたが、諸外国の法律扶助制度に対する国庫負担は、イギリスで約1146億円(94年度)、フランスで約182億円(93年度)、ドイツで約363億円(90年度)、アメリカで約462億円(94年度)、スウェーデンで約45億円(93年度)となっており、日本は欧米に比べて大きく立ち遅れています。法曹人口について欧米と比較しフランス並みにすると言うのであれば、法律扶助に対する予算も欧米並みにするべきです。ところが残念ながら最終意見では、民事法律扶助制度の充実の必要性を抽象的に指摘していますが、何ら具体的な提案をしていません。この点でも、審議会の法曹人口に関する議論が大幅増員先にありきで、増員した後どうやって国民の裁判を受ける権利を実現するのかについての責任ある議論が不足していると言わざるを得ません。
現在の日本の民事法律扶助制度には、以下のような問題があります。
第1に、現在の民事扶助制度は給付制ではなく立替制で、世界に例のない原則償還制となっており、しかも償還義務免除には厳しい要件が定められていることです。そのため、事件が解決しても経済的利益を得られない事件の場合には、利用者にとって償還義務が大きな負担となっており、その結果、法律扶助制度の利用を手控えるという事態も生じています。
しかし、事件解決によって経済的利益が得られなくても弁護士による援助を必要とする事件は無数にあります。例えば、離婚事件の中には、相手が無資力で慰謝料や財産分与はおろか養育費すら取ることは不可能だが、どうしても離婚したいとして扶助を利用しているケースがかなりあります。また、加害者が無資力なことがほとんどな犯罪被害者からの受任事件、家庭内暴力事件(ドメスティック・バイオレンス)、ストーカー被害事件などの場合には、被害の深刻さから弁護士による法的援助が必要不可欠ですが、費用の問題が弁護士依頼へのネックになっています。
しかし他方で、このような事件の処理をすべて弁護士や弁護士会のボランティア活動・プロボノ活動に依存することは限界がありますし、それによって救済される事件がごくわずかにとどまってしまいます。中間報告は「弁護士制度の改革」において「弁護士の公益性」を強調していますが、そのことが、国民の裁判を受ける権利の保障の責任を専ら弁護士に負わせ、国や地方自治体の公的責任をうやむやにするための口実に使われてはなりません。
従って、原則償還制を改め、経済的に弁護士費用の負担能力がない国民も弁護士による法的援助を受けることができるようすべきです。このことは、すべての国民に等しく裁判を受ける権利を保障する上でも、国民の基本的人権を守る上でも極めて重大です。また、経済的理由により裁判を受ける権利が十分保障されていない現状の解消について国が第1次的責任を負うことからも当然です。市場の自由競争に委ねていたのでは救済されることのない社会的弱者の権利を救済するための司法改革こそ、今求められているのです。
第2に、扶助対象事件や扶助対象層が限定されていることです。現在の制度は、刑事事件や少年事件その他一定の事件が除外されていること、扶助対象層が所得階層の下から2割の層とされているため予算規模も小さいことなどの問題があります。
第3に、扶助制度を利用した場合に弁護士に支払われる費用が通常の事件よりも極めて低額なことです。扶助事件だからといって通常の事件よりも事件処理に要する手間と時間が軽くて済むというわけではなく、結局扶助事件を受任した弁護士の犠牲的精神の下で制度が維持・運営されている面があります。もちろん弁護士や弁護士会が国民のために努力することは当然だと考えますが、社会的弱者の裁判を受ける権利を保障する立場にある国や行政の責任を軽視して、それを弁護士・弁護士会のボランティア活動・プロボノ活動に肩代わりさせるような制度となっては限界があります。「法の支配」を全国あまねく実現するために弁護士人口を大幅に増加させるというのであれば、弁護士が「法の支配」を実現するための制度的基盤構築にも意を用いるべきです。
第3に、国民の裁判を受ける権利を保障するためには、単に弁護士の利用を容易にするだけでは到底実現不可能であり、司法全体を国民に利用しやすく、国民の期待にこたえるものにしていく必要があります。
私たちは、裁判所を含む現在の司法システムが国民にとって権利実現のための実効的な制度になっていないことが国民の裁判を受ける権利侵害の最大の原因であると考えます。従って、裁判所を含む現在の司法制度が国民の裁判を受ける権利に応えていない現状とその原因を分析し、それを改革することが必要不可欠です。そしてそのためには、憲法と国際人権法から見て、本来司法によって救済されるべきであるにもかかわらず司法制度の不備によって現在救済されず放置されている国民の人権・利益にはどういうものがどの程度の量あるのかの分析を、国民による裁判その他の司法システムの利用状況を欧米諸国での利用実態と比較しながら行うことが必要だと考えます。その上で、国民が自己の権利を実現するために利用したいと思えるような実効性のある司法システムを作ることが必要です。現在の裁判所や裁判の抱える問題点や抜本的改革については「第2『裁判官制度の改革』について」で詳しく触れていますのでここでは省略します。ここで一つだけ指摘するなら、現状の低すぎる損害賠償額の改革、アメリカでの懲罰的慰謝料のような制度の導入、団体訴権・クラスアクションなどの集団的提訴を容易にする制度の導入などについて積極的に検討する必要があります。このような制度によって、これまで裁判所を利用したくても利用できなかった国民の裁判を受ける権利を実現するルートを作るなら、そのことによって国民の弁護士や司法への要求の高まり、ひいてはこれまで泣き寝入りを強いられていた国民の人権救済に繋がると思われます。
第4に、弁護士人口の大量増員が国民にとってプラスとなる面とともに、どのような弊害が予想されるのかというマイナスの面についても十分検討し、そのような弊害が少しでも予防・軽減できるような対応策を検討すべきであると考えます。
この点に関して言えば、まず最初に、法曹の大量増員が法曹の質の低下を招いてはならず、その点で法曹養成制度の改革や法曹となった後の継続的研修などが重要であると考えます。なおこの点については、次の「法曹養成制度について」の項で詳しく述べています。
また、弁護士人口の大幅増加によって弁護士の経済的な困難が増え、これまで弁護士や弁護士会が果たしてきた人権擁護活動に対する取り組みが弱くならないかとの懸念があります。弁護士や弁護士会による人権擁護活動を促進するような支援策を考える必要があります。
さらに、弁護士人口の大幅増加に伴い弁護士の非行が増加し、国民に被害を与える可能性もあります。このような事態を防ぐためには、弁護士会による自治機能を強化し、弁護士会が自浄能力を十分発揮できるようにすべきです。なお、この問題については「第7、弁護士制度の改革について」において詳しく述べます。
現行の法曹養成制度は、司法試験に合格した者が司法修習生となり、司法研修所での講義と実務修習を中心とする1年半の司法修習を行うというシステムになっています。前述のように司法試験がすべての国民に公平に開かれていること、また司法修習生に国庫から給与が支払われていることから、このようなシステムの中で法曹界に多様で幅広い人材を輩出してきています。また、司法修習生が法曹三者のすべての実務修習を行うという統一修習の下で、法曹三者の相互理解が深まり、法曹一元の基礎を築いてきました。
現状の司法修習制度は、こうした利点を有するものではありますが、他方看過しがたい重大な問題点があります。それは、現行の司法研修所の運営を最高裁が独占的・排他的に行っていることの弊害です。弁護教官の任命さえ最高裁が行い、弁護士会がイニシアティヴを持てないのが現状です。こうした中で、司法研修所での教育は裁判実務(主として民事裁判)が中心となっており、著しく偏ったものとなっています。
さらに問題なのは、司法修習修了者の中から判事補を採用するという現行の裁判官任用システムの下で、最高裁が判事補の任用権限をフリーハンドで持っていることの弊害です。最高裁はこのシステムを最大限利用して思うがままに修習生を差別・選別し、司法修習生に対する管理・統制を貫徹してきました。また神坂修習生の任官拒否に代表されるように、最高裁は修習生の思想・信条を理由とする差別・選別を公然と行っています。こうした中で、任官希望者を中心とする多くの修習生が最高裁の「評価」を気にして極度に萎縮し、修習生の自主的研究活動さえ自由に参加できないという深刻な結果をもたらしています。
また、修習期間が2年から1年半に短縮されたことにより詰め込み教育が強化される中で、修習生のストレスは著しく増大し、病気になるどころか急死する事例さえ複数生まれているのです。まさに司法研修所の閉塞状況は極限に達しているといっていいでしょう。
さらに、最近の報道によれば、実務修習中に修習生を自衛隊に体験入隊させ、小銃・機関銃を持たせるとか、日の丸掲揚に直立不動の姿勢で立ち会わせるというような驚くべき事態まで起きています。
法曹には国民の基本的人権に対する深い洞察力が求められていることは先に述べたとおりですが、こうした素養は上からの官僚的教育で生まれるものでは決してありません。修習生が自主的研究活動をのびのびと行い、社会の実状や社会の諸問題の実態に幅広く接し、その中で自由闊達に意見交換をすることなどが保障されてはじめて身についていくものです。最高裁の与える教材を熱心に勉強し、最高裁の求める「答え」をひたすら探求していくだけでは、国民に身近な人権感覚の豊かな法曹は決して生まれません。今、緊急に求められているのは、こうした最高裁が独占的に管理・運営する司法研修所の現状の変革であることは明らかです。
最終意見は、新たな法曹養成制度として「法曹養成制度に特化した教育を行うプロフェッショナル・スクールである法科大学院を設けることが必要かつ有効である」とし、法科大学院構想を打ち出しました。しかし、最終意見には、これまで述べた司法研修所の問題点の指摘はまったくないもので、この新たな法曹養成制度の改革案は、法曹人口の大幅増員への対応策であることは明らかです。したがって、法曹養成制度として、どうして法科大学院が有効であるのかという理念的な検討はなされていません。国民の基本的人権を擁護し、社会正義の実現の担い手である法曹を養成するという視点に立った時、はたして法科大学院が有効であるのかという疑問は払拭できません。とりわけ、法科大学院構想のベースになっているのが文部省(現・文部科学省)の「法科大学院構想に関する検討のまとめ」であり、文部科学省は、予算配分権限を利用した大学に対する管理統制及び大学の格差化を押し進めていますから、法科大学院構想がこうしたことに一層の拍車をかけるのではないかという強い懸念が、現場の大学関係者から表明されています。
法科大学院構想は、こうした根元的な問題点をはらむものではありますが、すでに各地で法科大学院の設置を前提とした具体的な準備作業がスタートしています。したがって、ここでは最終意見に示された法科大学院構想の具体的な問題点について検討することとします。
最終意見の構想する法科大学院を中核とする法曹養成制度の基本的な流れは次のようになります。
学部(4年)→法科大学院(原則3年)→新司法試験
→司法修習(1年半?)→法曹資格の取得
司法修習をどの程度の期間行うかについては、最終意見では明確に述べられていませんが、現行と同様の1年半とすれば、法曹資格を取得するまで最短でも8年半を要することになります。
ここで最も懸念されるのは、法曹をめざす者に対する経済的負担の増大です。現在の学部における学費・生活費に加えて、高額になることが予想される法科大学院における学費と生活費の負担が加わり、さらに司法修習における給与の支給についても「貸与制への切替えや廃止」を含む検討をすべきとしてますから、法曹になろうとするものは最短でも8年半の学費・生活費の負担を覚悟しなければなりません。これでは、法曹になれるのは経済的に裕福な階層に限られてしまうおそれが極めて強く、資力に乏しい階層から法曹になる途は事実上閉ざされてしまうでしょう。
最終意見では「奨学金、教育ローン、授業料免除制度等の各種の支援制度を十分に整備・活用すべき」としていますが、その具体的な内容は明らかではありません。奨学金は現在でも利子付ですし、教育ローンとなれば、その返済の負担はますます増大するでしょう。これでは、法曹資格を取得した時点で多額の借金を背負ってしまい、法曹となった時点でその返済に汲々としなければならなくなるのは必定と言わなければなりません。こうなれば、法曹に期待される社会的役割を十分に果たすことは不可能であり、とりわけ社会的「弱者」のための活動はできなくなってしまいます。
この点が、最終意見の構想する法曹養成制度の最も重大な問題点であると考えます。このようなことにならないよう、少なくとも司法修習においては現行どおり給与を支給すること、法科大学院での学費については相応の国庫補助をして多様な階層から入学が可能とするための具体的対策が不可欠です。こうした具体的対策が講じられないのであれば、私たちは法科大学院の設置について反対せざるを得ません。
法科大学院構想で不可避的に生じる経済的負担の増大に対して、改革審の中間報告では、司法試験の受験資格について、次のように述べられていました。
「(経済的事情等の)やむを得ない理由により法科大学院への入学が困難な者に対しては、法科大学院を中核とする新たな法曹養成制度を整備することの趣旨を損ねることのないよう配慮しつつ、別途、法曹資格取得を可能とする適切な例外措置を講じるべきである。」
ところが、最終意見では、何の理由付けも述べられないまま、この部分が次のように変更されています。
「経済的事情や既に実社会で十分な経験を積んでいるなどの理由により法科大学院を経由しない者にも、法曹資格取得のための適切な途を確保すべきである。」
経済的事情で法科大学院に入学することが困難な者に対して、法曹資格取得の途を閉ざさないという発想は理解できます。しかし、より抜本的には経済的事情によって法科大学院への入学ができないという事態をなくすため、前述した国庫補助に加え、夜間大学院・通信制大学院のような多様な形態をとる等の実効ある措置が取られなければならないと考えます。
これに対し「実社会で十分な経験を積んでいる」というのは何を指すのかについては、明確に述べられていません。しかし、最終意見の弁護士制度の改革の項で「企業法務等の位置付けについて検討し、少なくとも、司法試験合格後に民間等における一定の実務経験を経た者に対して法曹資格の付与を行うための具体的条件等を含めた条件整備を行うべきである。」と述べられていること、財界等から企業法務の担当者に対して法曹資格を与えるよう強い要求があること等に鑑みれば、「実社会で十分な経験を積んだ者」とは企業法務に携わった者を指しているとみて間違いないでしょう。さらには、官僚経験者なども考えられます。このように企業法務の担当者や官僚経験者を優遇し、こうした者に対して法科大学院を経なくとも法曹資格を与えるような特別扱いをすることは容認できません。そもそも法曹は、国民の基本的人権の擁護と社会正義の実現のために資格を与えられた者です。新たな法曹養成制度として法科大学院を設置するのであれば、その中で求められるものは、現実の社会の中で、いかに基本的人権を擁護・実現していくのかという法的素養でなければなりません。そうした素養は、企業法務などの実務経験の中で、単純に育まれるものでは決してありません。こうした教育を抜きに企業法務の実務経験者を優遇するということでは、国民の期待する法曹は生まれません。
また法科大学院構想は、その当否を置くとしても、学部と法科大学院を有機的に関連させての「プロセス」としての法曹養成を指向するものとして考えられていますから、このような企業法務経験者等に優遇措置を与えることは、そもそもの構想からしても矛盾しています。したがって、このような企業法務経験者を優遇するバイパス論は、明らかに公正さを欠くとともに、国民の望む法曹の養成とは矛盾するものですから、採用すべきではありません。
法科大学院への入学者選抜は、入学試験のみによるものでなく「学部における学業成績や学業以外の活動実績、社会人としての活動実績等を総合的に考慮して」合否を判定するとされています。思わず「内申書」による成績評価ということを想起するような記述です。「内申書」による成績評価は、学生が担当者の評価を過度に気にする余り、その活動を萎縮する傾向にあることは一般的に指摘されていることです。このようなもとで学生の自由な研究活動、社会的諸活動に対する萎縮効果が起きるとすれば、法曹に必要な自主独立の精神、社会的な事象を批判的に検討する資質は育まれません。また「学業以外の活動実績」の名のもとに思想・信条を理由とする差別、選別があってはならないことは当然です。
現在の司法研修所のような自主的活動を抑制する管理統制が、学部や法科大学院にも及ぶとすれば、国民の求める法曹は生まれません。入学者選抜は、その公正さや透明さが確保されるものでなければなりません。
法科大学院構想の基本は、入学者選抜・教育内容や成績評価等については、各大学院の自主性に委ねるとしながら、その水準を維持するために第三者評価の仕組みを構築することにあります。その意味で、第三者評価は法科大学院構想の中でのひとつの要ともいうべきものですが、最終意見では、第三者を構成するものは何か、設置基準・教育水準・成績評価等の具体的基準をどう定めるか等については、何ら具体的なことは述べられていません。
法科大学院に対する第三者評価を実施するとしたのは、法科大学院の修了者の大半が法曹資格を取得するものとして構想されていることとの関係で、その教育水準等を担保することが必要という発想に基づくものと思われます。
しかしながら、今回の法科大学院構想は、法科大学院修了後に司法試験を実施し、さらにその合格者は司法研修所での司法修習を行うこととされていますから、アメリカのようにロースクールの卒業と法曹資格が直結するシステムと同様に考えることはできないはずです。むしろ第三者評価の機関の構成及び内容如何によっては国家権力が教育内容等に介入してくる危険が濃厚です。特に財政援助についても「適切な評価」を前提とされていますから、予算配分を口実とした介入のおそれは大きく、そうなれば学問の自由・大学の自治は危機に瀕することになるといわなければなりません。 今回の法科大学院構想のベースになっている文部省(現・文部科学省)の「法科大学院(仮称)構想に関する検討のまとめー法科大学院(仮称)の制度設計に関する基本的事項ー」は、第三者評価として以下の項目をあげています。
・組織と運営(経済的基盤、自己評価システム、運営体制など)
・教育課程(教育目的、カリキュラム、成績評価、教育方法、修了要件、授業日数など)
・教員組織(教員の資格、専任教員数、学生・教員比、実務家教員の数ないし比率など)
・入学者選抜(受験資格、入学試験、情報開示、定員に対する入学者数、学生支援制度など)
・施設設備(講義室、研究室、図書館などの施設、図書雑誌などの整備)
・その他(適当な事務組織の設置)
また、第三者評価を実施する機構には文部省が加わることが当然とされ、定期的に評価(認定)を実施した上、「その結果を踏まえて是正勧告や場合によっては認定の取消しも行うもの」とされています。これほど多岐にわたる項目について、文部省等が定期的に評価を実施し、認定の取消しまで行うことになれば、先に述べたように国家権力の学問の自由、大学の自治等への介入を導くといわざるを得ません。
教育水準等の担保のため第三者評価が必要であれば、最低限、その機構は国家権力から独立した、民主的な構成であることが必要であり、「外部有識者」の名のもとに文部官僚等が入り込むことは許されません。また実務教育の水準確保という観点からは、弁護士会がそこに加わることが不可欠です。さらに評価の項目についても、基本的には外形的なものにとどめるべきであり、教育内容等への介入にならないことが必要です。
【カコミは最終意見の引用です】
@ 入学者選抜
入学者選抜は、公平性・開放性・多様性の確保を旨とし、入学試験のほか、学部における学業成績や学業以外の活動実績、社会人としての活動実績等を総合的に考慮して合否を判定すべきである。 |
入学者選抜について、公平性・開放性・多様性を確保するということは首肯できますが、考慮されるべき「学部における学業成績や学業以外の活動実績、社会人としての活動実績等」というのは何を指すのかあきらかでなく、結局各法科大学院の自主的判断に委ねてしまっています。
入学者選抜について各大学院の自主性を尊重するというのはひとつの見識ですが、「学業以外の活動実績」の名の下に思想・信条等を理由とする差別があってはならないこと、学生の自主的活動等に対する萎縮効果を及ぼしてはならないことは、既に述べたとおりです。このことをはっきりさせるとともに、基本的には公平な入学試験によって選抜すべきと考えます。
A 教育内容・方法 ○法科大学院では、法理論教育を中心としつつ、実務教育の導入部分(例えば要件事実や事実認定に関する基礎的部分)をも併せて実施することとし、実務との架橋を強く意識した教育を行うべきである。 ○法科大学院では、その課程を修了した者のうち相当程度が新司法試験に合格するよう充実した教育を行うべきである。 ○厳格な成績評価及び修了認定の実効性を担保する仕組みを具体的に講じるべきである。 |
「実務教育の導入部分」「厳格な成績評価及び修了認定とそれらを担保する仕組み」等については、具体的に述べられていないため評価のしようがありません。教育内容については、法学の専門知識の習得とともに、基本的人権についての深い洞察力を持ちうるものが必要であることは先に述べたとおりで、こうしたことが強く意識される必要があります。また「実務教育の導入部分の実施」については、例えば判例の結論をたたき込むような現行の実務の運用を無批判に追随するものであってはならず、それに対する批判的精神が養われるようにしていかなければなりません。
B 教員組織 ○法科大学院では、少人数で密度の濃い教育を行うのにふさわしい数の教員を確すべきである。 ○実務家教員の数及び比率については、カリキュラムの内容や新司法試験実施後司法修習との役割分担等を考慮して、適正な基準を定める必要がある。 ○教員資格に関する基準は、教育実績や教育能力、実務家としての能力・経験を大幅に加味したものとすべきである。 |
法科大学院における教員、とりわけ実務家教員の確保は重大な問題です。法科大学院は実務教育の導入部分を実施するとされていますから、実務家を積極的に教員に登用すべきことは当然でしょう。法曹三者のうち、裁判官・検察官は国庫による身分保障がなされていますからその人口を拡大していけば質の点はともかく量的な問題は克服できるでしょうが、弁護士はそういうわけにはいきません。現在の司法研修所においても、弁護教官は事実上手弁当で行っているのが実状ですから、何らかの財政的手だてを講じない限り、多数の教員の確保は不可能です。
また最終意見は「実務化教員としては、狭義の法曹に限らず、適格を有する人材を幅広く求める必要がある」としています。ここで想定されているのは、企業法務の担当者や官僚などです。しかしながら、法科大学院が法曹養成のための教育をする機関である以上、実務化教員の中核は法曹でなければならないのは当然であり、さらにその中心となるのは実際に市民と直接に法律問題に接している弁護士でなければなりません。法曹一元を展望すれば、なおさら弁護士の教員の重要性は明らかでしょう。また、そうした意味からも弁護士の教員は社会の第一線で活動しているものでなければならず、裁判官や検察官を退官したばかりの弁護士を安直に教員に採用することは戒められなければなりません。
C 公平性・開放性・多様性の確保 ○地域を考慮した全国的な適正配置に配慮すべきである。 ○夜間大学院や通信制大学院を整備すべきである。 ○奨学金、教育ローン、授業料免除制度等の各種の支援制度を十分に整備・活用すべきである。 |
多様なバックグラウンドを持つものに法曹への道を開くために、法科大学院において、公平性・開放性・多様性を確保しなければならないということは首肯できます。しかし、法科大学院は設置基準を満たしたものを認可するという建前で構想されていますから、夜間大学院等の多様な形態を取るべきと謳ったところでどの程度実効性があるのかは疑問です。
多様な階層から法曹になる道の閉ざされることのないよう、法曹となろうとするものに対する経済的な負担を軽減するための具体的な方策が重要であることは先に述べたとおりです。「奨学金、教育ローン、授業料免除等の支援制度の活用」という曖昧な中身でなく、国庫補助を中核とした経済的負担軽減のための具体的な制度設計が不可欠です。
さらに大学等が、法科大学院を設置・運営するための公的資金による財政援助については「適切な評価の結果をふまえて」行うとしてますが、その「適切な評価」の内容は明らかになっていません。財政援助を口実とした政府等の教育内容への介入は絶対にあってはならないことは言うまでもありません。
D 設立手続及び第三者評価(適格認定) ○法科大学院の設置認可は、関係者の自発的創意を基本としつつ、設置基準を満たしたものを認可することとし、広く参入を認める仕組みとすべきである。 ○入学者選抜の公平性・開放性・多様性や法曹養成機関としての教育水準、成績評価・修了認定の厳格性を確保するため、適切な機構を設けて、第三者評価(適格認定)を継続的に実施すべきである。 ○第三者評価を実施する機関の構成については、法曹関係者や大学関係者等のほかに外部有識者の参加によって客観性・公平性・透明性を確保すべきである。 |
第三者評価の問題点は既に述べたとおりです。
E 司法試験 ○司法試験を、法科大学院の教育内容を踏まえた新たなものに切り替えるべきである。 ○適格認定を受けた法科大学院の修了者には、新司法試験の受験資格が認められることとすべきである。 ○経済的事情や既に実社会で十分な経験を積んでいるなどの理由により法科大学院へを経由しない者にも、法曹資格取得のために適切な途を確保すべきである。 ○適格認定を受けた法科大学院の修了者の新司法試験受験については3回程度の受験回数制限を課すべきである。 |
法科大学院を設置しつつも司法試験を残すという構想である以上、法科大学院の修了を司法試験の受験資格とすることは当然の帰結ということになるのでしょう。しかし、ここでは、法科大学院を経由せずに司法試験を受験する例外を認めてしまっています。経済的事情で法科大学院に入学が困難となるようなことがあってはならないことは先に述べたとおりで、例外措置を設けるより、このようなことのないよう抜本的な措置を講じることが先決問題であると考えます。また、「実社会で十分な経験を積んでいる」という名のもとで企業法務の実務経験者等を優遇するバイパスを設けるべきでないことも、先に述べたとおりです。
受験回数制限については、その必要性や内容について実証的な検証を踏まえて提言すべきです。
F 司法修習 ○新司法試験実施後の司法修習は、修習生の増加に実効的に対応するとともに、法科大学院での教育内容を踏まえ、実務修習を中核として位置づけつつ、修習内容を適切に工夫して実施すべきである。 ○給費制については、そのあり方を検討すべきである。 ○司法研修所の管理・運営については、法曹三者の協同関係を一層強化するとともに、法科大学院関係者や外部の有識者の声を適切に反映させる仕組みを設けるべきである。 |
司法修習において実務修習を中核とすることは当然です。現在の司法修習が裁判官養成に偏していることは先に指摘したとおりであり、法曹三者について公平に修習できるものとする必要があります。また、法曹一元を前提とし、とりわけ弁護修習を充実させる必要があります。
「集合修習(前記)と法科大学院での教育の役割分担」については、前述した実務の運用に対する批判的精神を養うという観点から、法理論教育の途上にある法科大学院生に対してなされる実務教育の内容には慎重な配慮が必要です。したがって、集合修習(前記)を廃止し、それにあたるものをすべて法科大学院に委ねることには賛成できません。
現行の給費制について、廃止ないし貸与制への切り替えと言った見直しは、法科大学院の設置によって、ただでさえ法曹をめざすものに対する経済的負担を増大させることになるのですから、このような見直し措置はますます資力の乏しい者に対する法曹への途を閉ざすことになるものであって、容認できません。
最高裁が司法研修所を独占的に管理、運営していることの深刻な弊害は前述のとおりです。したがって司法研修所の運営については「法曹三者の協同関係の強化」というレヴェルでなく、最高裁の独占的運営を排し、法曹三者が対等に運営していくことを明確に打ち出さなければなりません。法曹一元の実現の観点からは、弁護士会の関与について一層重要になるのであって、このことを明確にする必要があります。
法科大学院構想は、現状の法曹養成制度を抜本的に変革するものです。しかも、その具体的な議論がいまだ成熟したものとはなっていません。したがって、その構想を具体化するにあたっては、十分に慎重な検討がなされなければなりません。
私たちは、法科大学院構想について、これまで述べてきたように、最低限、以下の事が確保されなければならないと考えます。
@ 経済的事情によって、法曹への途が閉ざされることのないような充実した国庫補助の体制の確立すること。
A 企業法務の実務経験者等を優遇する「バイパス」措置はとらないこと。
B プロセス重視という名目での、思想・信条による差別を排除し、学生の自主的諸活動に対する萎縮的効果をなくすこと。
C 「第三者評価」による学問の自由・大学の自治に対する侵害を排除すること。 さらに
D 法科大学院の教育内容・カリキュラムは、憲法と基本的人権の擁護の重要性を身につけることを基本にすること。
E 実務家の専任教員は、第一線で活動する弁護士を十分な質と量で確保し、それに必要な財政的基盤を確立すること。実際に進行している計画では、弁護士の専任教員が「潰しが利く」などとして裁判官や検察官を退職したばかりの弁護士に偏る傾向にあることが指摘されているが、これでは十分な教育は期待できません。法科大学院が設置される場合には、法曹の後継者の養成のために私たち自由法曹団としても責任を持つ必要があります。
F 全国の国民が等しく司法の救済を受けうるようにするために法科大学院を全国各地に適正配置するべきこと。
国民が民事司法に対して自らの権利が迅速に救済されることを望むのは当然のことですが、その際に最も重要なのは国民の正当な権利が現実に救済される裁判であるということであって、結論が迅速に出されるだけの裁判ではむしろ弊害の方が大きいといえます。
したがって、個人とりわけ社会的弱者が十分な主張・立証をすることが可能な手続が必要です。そのためには、大企業や国の証拠隠しなどを許さない事前の証拠開示を含む証拠収集手続の充実・強化などがどうしても必要だと考えます。この点の改革がないままに「迅速さ」を追求しても、社会的弱者の権利・利益が救済されない結果になることは明らかでしょう。
審議会の最終意見は、われわれの危惧を現実のものにしました。民事司法の根本的な改革のために必要な制度改革については、ほとんど前進はなく、制度の部分的な手直しにとどまっていて、極めて不十分な内容になっています。この点は強く批判されなければなりません。以下、具体的に指摘します。
民事裁判の充実・迅速化の問題に関して言えば、新民事訴訟法制定後民事訴訟の審理期間が全体として短縮しているのは事実だとしても、民事訴訟で遅延しているのは国や大企業を被告とする訴訟が多く、その中でも特に遅延が顕著なのは、労働事件、公害事件、薬害事件などの集団事件なのであって、その遅延の原因は主として、国や企業が事案の解決に必要な証拠を多数所持しているにもかかわらず提出しない、逆に証拠隠しをする、被告側証人が明白な偽証をする、それにもかかわらず、裁判所は適切な訴訟指揮をせずにこれらの事態を放置しているなどの点にあるのであって、その点の実態把握と分析をした上で、早期に証拠を収集して、それに基づく攻撃・防御を実際上も可能にする適切な制度を構築しない限り、訴訟の促進を図ろうとしても無意味だと考えます。
その意味で、懲罰的損害賠償、クラスアクション、ディスカバリーなどの制度は非常に有用だというべきです。また、労働事件、公害事件、薬害事件などについては、現実に即して、主張・立証責任を国や大企業の側に転換するなどの措置が特に必要だと考えます。
このような訴訟の遅延の真の原因を見据えて制度構築をしないかぎり、審理の促進に外形的に役立つように見える制度のみを取り入れても、とりわけ経済的・社会的弱者の権利・利益が切り捨てられる中で審理だけが促進される危険が大きいと考えます。
われわれは従来から以上のような主張を繰り返し行ってきましたが、審議会の最終意見においては、一般論として「訴えの提起前の時期を含め当事者が早期に証拠を収集するための手段を拡充すべきである」(15頁、16頁)と指摘しているにすぎず、その手段として例示されているのは「ドイツ法上の独立証拠調べ」と「相手方に提訴を予告する通知をした場合に一定の証拠収集方法を利用できるようにする制度」(16頁)だけです。最終意見でも指摘しているとおり、ドイツ法上の独立証拠調べとは「訴え提起前においても、法的利益がある限り、証拠保全の目的を要件とすることなく、一定の事項につき、『書面による鑑定』を求めうる制度」に止まり、証拠隠しに対する実効性はまったくなく、証拠収集手続を質的に拡充する意味を何ら持ちません。
結局、審議会は、真の意味での司法改革に値する、制度改革の根幹に関わるような制度(前記の懲罰的損害賠償、クラスアクション、ディスカバリーなど)の創設や主張・立証責任の転換については、まったく提言を行わず、著しく不十分な内容でしかありません。
最終意見において、一定の事件について審理期間・開廷間隔の一律の法定化を肯定していない点は当然と考えます。
各事件は事件毎に争点、証拠などがまったく異なる以上一律の法定化は不合理ですし、審理期間が長くなる要因としては、短期間に裁判官が異動する、会社側が証拠隠しをする、証拠開示が不十分である、主張・立証責任の分配が不合理であるなど、単に期間の長短の問題ではなく、主に現在のシステム上の問題があるのであり、このようなシステム全体の改革を抜きにしたままで、審理期間のみを法定化してもまったく意味がないからです。
また、計画審理の充実については、一般論として異論はありませんが、審理期間の法定化の問題と同様に上記で指摘したシステム全体の改革抜きではむしろ危険です。計画審理を充実するためには、証拠が一方に偏在する状況を根本的に変革するような証拠収集手続の創設、一定事件についての主張・立証責任の転換が不可欠だと考えます。
なお、最終意見において、「簡易な訴訟」の迅速な処理として「地方裁判所において、訴額等を基準として通常の訴訟手続とは別に簡易迅速な処理を可能にする裁判手続を導入すべきであるか否かについては、将来の課題として引き続き検討すべきである」とされている点については、訴額が小さくても事案が複雑な事件はいくらでもあるので、訴額のみを基準にして「簡易」か否かで割り切ることは到底できませんし、また、簡易な手続では当事者の納得を得ることが困難な場合もあると考えられますので、その必要性については慎重に検討すべきです。
いずれにしても、審理期間の短縮や計画審理を一般的にいくら強調しても、それだけではまったく不十分であり、事前の証拠開示や主張・立証責任の見直しが伴わなければ、実効性は持ち得ません。その意味で、最終意見は強く批判されるべきです。
前述したとおり、最終意見では何ら提言していませんが、新民事訴訟法の文書提出命令や当事者照会などでは不十分ですから、アメリカのディスカバリー(事前の証拠開示)を参考にした制度については、積極的に導入すべきです。
大企業を相手方とする訴訟においては、前述のとおり、企業側が証拠を隠すという事態が常態化しており、これを打破する上でディスカバリーのような制度は極めて有効だからです。例えば、賃金差別事件について、賃金格差の主張・立証責任が労働者側が負わされるにもかかわらず、会社側が同期同学歴入社の他の従業員の賃金に関する証拠をまったく提出せず、そのために審理が大幅に遅延している実態があります。このような実態を考えれば、力関係のまったく異なる当事者間の公平のためにも、真の意味で充実した審理を行うためにも、訴訟の迅速化のためにも、事前の証拠開示は必要不可欠です。また、主張・立証責任の転換も当然必要です。
われわれは、従来から、以上の主張をしてきましたが、前述のとおり、最終意見では、ディスカバリーなどの事前の証拠開示制度の導入については、まったく提言せず、極めて不十分な内容になっています。われわれは、改めてディスカバリーなどの制度の創設、主張・立証責任を現実に即して転換することを要求します。
専門的知見を要する事件についての対応を強化する一定の必要性はあると考えますが、この点については、まず鑑定制度を充実・強化することを鑑定費用の低減化を含めて考えるべきです。その際には、鑑定に対する当事者の反論・反証の機会を十分に保障すべきであり、鑑定人に対する当事者の尋問を制限することを安易に認めるべきではありません。
他方で、最終意見は、専門家が裁判官とともに事実認定、法的判断に実質的に関与する形での、「専門委員制度」の導入の在り方を検討すべきであるとしています(17頁)が、これはいわゆる「専門参審制」とほぼ同じ制度だと考えます。
しかし、「専門参審制」は、一般国民が司法判断に実質的に関与する制度(陪参審)とまったく異なるものであり、国民の司法参加としての意味をまったく持たないこと、いかなる形でいかなる内容の専門知識が裁判官に提供されるか当事者にはまったく分からず、反論の機会が実際上奪われる結果になるため審理の公正さ・透明性がまったく担保されないことなどから、その導入には強く反対します。
権利の実現の実効性確保や強制執行妨害行為に対する適切な対処は当然ですが、他方で正当な権利者の執行抗告などの不服申立手続も現行法で十分なのか検討すべきです。
また、家庭裁判所の家事事件の調停・審判だけでなく、離婚訴訟の判決の実効性の確保は重要だと考えます。とりわけ、子どもの養育費の不払いがあっても支払の確保が図られていない現状を改革する制度を諸外国の例も参考にして、早急に創設すべきです。
最終意見でも、以上の点は一応触れられていますが、民事執行については、債権者の立場の強化に重点が置かれすぎているきらいがあります。また、養育費などの支払確保については、子の福祉の問題として重要であり、抽象的にではなく、どのような制度が考えられるかを具体的に提言すべきであったと考えます。
弁護士報酬の敗訴者負担について、われわれは、裁判所へのアクセスを拡充するものではなく、逆に、国民を裁判から遠ざけるものと考えますので、別に、検討します。
それ以外に、提訴手数料の低減化、民事法律扶助の一層の充実、裁判所の夜間・休日サービスの導入等については、異論はなく、特に民事法律扶助については、より一層の拡充が必要であり、とりわけ、償還制ではなく、給付制を原則とするよう改められるべきです。
ADRについては、特定分野に関し、有用な場合があるとは考えます。しかし、まず、基本にすべきは、裁判所による紛争解決の実効性を高めることなのであって、これをおざなりにして、ADRの拡充・活性化を言っても本末転倒だと考えます。この点を踏まえて、ADRの制度設計を考えるべきです。
刑事司法の目的は、「公共の福祉の維持と基本的人権の保障をまっとうしつつ、事案の真相を明らかに」する(刑訴法1条)ことにあります。基本的人権の保障のために、刑事手続において適正手続を保障すべきことは憲法上の要請です。したがって、実体的真実の発見と適正手続の保障は、決して並列的なものではなく、あくまでも憲法・刑訴法の定める適正手続の保障の上での真実の発見ということを意味します。これが憲法・刑訴法の予定する刑事司法の姿です。しかしながら、現状の刑事司法は「絶望的」といわれる程、こうした理念からはほど遠く、被疑者・被告人の手続保障は後景に追いやられているのが実状です。
その要因の一つは、捜査機関の捜査のあり方にあります。我が国においては、国際的にも批判の強い代用監獄制度が依然として維持され、逮捕・勾留された被疑者は、基本的に警察のコントロール下に置かれています。そこで、自白偏重の捜査−身柄拘束を利用した自白の強要−が一般化しているのです。すなわち、警察では密室での取り調べがなされ、それを監視するための制度的な保障(弁護人の立会権・テープ録音・ビデオ録画等)は何もありません。また被疑者国選弁護制度がないこと、弁護人との接見交通が制限されること等により、身柄拘束を受けた被疑者が十分に弁護人の援助を受ける保障もないのです。さらに、警察による接見妨害、証拠隠滅、被疑者の権利行使に対する圧力等も依然として後を絶ちません。
本来、こうした捜査機関の活動に対しては、令状主義によって、裁判所が司法的にチェックすることが期待されているのですが、裁判所の令状審査は形骸化し、およそ捜査機関に対するチェック機能は果たされていません。1996年の統計では、裁判所の令状発布に対する却下率の割合は、わずか0.12%ですから、ほとんど捜査機関の請求がフリーパスとなっているといわなければなりません。さらに、起訴後の保釈請求に対しても、権利保釈の除外事由の「罪証隠滅のおそれ」を極めてルーズに解釈するため、被告人が事実を争っているだけで保釈が認められないなど、まさに「人質司法」と呼ばれる実態がまかり通っているのです。
さらに、公判においても、伝聞法則(他人から伝え聞いたことを内容とする証言を証拠とすることや、裁判外で作成された供述調書等を裁判での証言に代えて用いることを原則として禁止したもの)が形骸化し、捜査機関が作成した調書の取調が中心となり、直接主義・口頭主義の要請はほとんど機能していません(いわゆる「調書裁判」)。また、検察官手持ち証拠の開示のための法律上の制度が存在しないため、被告人・弁護人と検察官の武器対等の原則も実現していません。こうした中で、99%を超える異常に高い有罪率が維持されているのです。まさに刑事裁判は「有罪確認の場」と化しているといっても過言ではありません。
このように自白中心主義・人質司法・調書裁判と呼ばれるのが現在の刑事司法の実態であり、憲法・刑訴法の理念とおよそかけ離れています。「絶望的」という指摘は、残念ながら的を射ていると言わざるを得ません。そして、何よりこうした実態が、誤判・冤罪を産み出す基礎となっているのであり、その是正・改革は急務です。
ところで、こうした我が国の刑事司法の問題点のほとんどは、国際人権(自由権)規約委員会の審査及び勧告において、たびたび指摘されている事柄です。1998年10月の第64会期・国際人権(自由権)規約委員会における日本に対する最終見解では、わが国の刑事司法について、次のように厳しく指摘し、勧告をしています。
「委員会は、未決勾留が警察の管理の下で最大23日まで延長でき、早急に、効果的に司法の管理に入らず、被疑者は23日の間に保釈が許されないこと、尋問の時間や長さを規制する規則がないこと、勾留されている被疑者に対して助言、援助する国選弁護士がいないこと、刑事訴訟法39条第3項の規定により弁護人の接見に重大な制限のあること、取り調べに被疑者の選定による弁護士の立ち会いが認められていないこと、(国際人権B)規約第9条、第10条、第14条に規定された権利が未決勾留について十分保障されていないことに深く懸念する。委員会は、日本の未決勾留制度を規約第9条、第10条、第14条に適合するようただちに改正するよう強く勧告する。」
「委員会は、代用監獄制度は、警察の捜査に関与しない部署の管轄となるとはいえ、別個の管轄ではないことに懸念する。これは規約9条、14条に規定された被拘留者の権利が侵害される機会が増える可能性がある。委員会は、代用監獄制度は規約のすべての要件に適合するように改善することという第3回定期報告書審査後表明した勧告を再度行う。」
「委員会は、刑事裁判での多数の有罪判決が自白に基づいている事案を深く懸念する。強要によって自白を引き出す可能性を除去するため、委員会は警察による拘束下、または代用監獄に拘束されている被疑者の尋問は厳重に監視し、電子的手法で記録することを強く勧告する。」
「委員会は、刑事法では検察側が捜査段階で入手した証拠を裁判において提出する意図を持つもの以外は開示する義務はなく、弁護側が裁判のどの段階においてもこれら証拠の開示を請求する一般的権利がないことに懸念する。委員会規約第14条第3項の保障に従い国は弁護権が妨げられないよう弁護側が関連資料すべてにアクセスできるよう法律並びに規則を整備することを勧告する。」
審議会の論点整理は、「公正な国際的ルールの形成・発展に積極的にかかわっていかなければならない」と述べていますが、我が国の司法の中で、こうしたいわゆるグローバルスタンダードに最も立ち遅れているのは刑事司法の分野です。「論点整理」の立場に立つとしても、我が国の刑事司法に対するこうした国際的な勧告を真摯に受けとめる必要があることは、言うまでもありません。
このようにわが国の刑事司法については、構造的ともいえる問題点が随所にあり、改革すべき点は多岐にわたっています。そして、これらが国際的にも強く非難されているのも前述のとおりです。
現状の刑事司法を、本来の憲法・刑事訴訟法の予定する姿にするためには、これまで述べた「人質司法」「自白中心主義」「調書裁判」と呼ばれる我が国刑事司法の病理を抜本的に改革する必要があります。以下、最終意見でこうした問題がどのように扱われたのか検討してみます。
この問題について最終意見は「被疑者・被告人の身柄拘束に関しては、代用監獄の在り方、起訴前保釈制度、被疑者と弁護人の接見交通の在り方、令状審査、保釈請求に対する判断の在り方など種々の問題の指摘がある」としながら、「そうした指摘をどのように受け止めるかについては、現状についての評価の相違等に起因して様々な考え方がありうることから、直ちに具体的結論を得ることは困難である」とするにとどまっています。そして、結論として「制度面、運用面の双方において改革、改善のための検討を続けるべきである。」と述べるだけです。最終意見は結局のところ、これらの点については、すべて問題を「先送り」して、具体的な改革についての提言をなすことを放棄してしまっています。
しかし、ここであげられている「問題点」は、先に述べた「人質司法」の内容そのものであって、現在の刑事司法の病理の一つの中核をなす問題点であると同時に、先に述べた国際人権(自由権)規約委員会からも厳しくその改善を指摘されている事柄です。こうした重要問題について、審議会が「結論を得ることは困難」として切り捨てる態度は、結果として「人質司法」といわれる深刻な現状を追認することにほかなりません。
代用監獄の廃止、起訴前保釈制度の導入、接見妨害をなくすための実効ある措置の導入、令状審査・保釈請求の判断の抜本的改善等は、早急に実現されなければなりません。これらは、適正手続の遵守という観点から重要であるとともに、審理の充実・迅速化という点の前提とされるべきものです。
最終意見において「被疑者の自白を過度に重視する余り、その取調べが適正さを欠く事例が実際に存在する」「わが国の刑事司法が適正手続の保障の下での事案の真相解明を使命とする以上、被疑者の取調べが適正を欠くことはあってはならず、それを防止するための方策は当然必要となる」という認識を示したのは正当です。こうした認識を前提として、取調べの適正化を積極的に押し進める必要がありますが、問題なのは、抽象的な論評にとどめずに、そのための具体的方策をどう提案するかです。
取り調べ課程で、被疑者・被告人に違法行為が行われたり、自白を強要することが後を絶たないのは、それが「密室」で行われているからにほかなりません。したがって、それを防止するには、取り調べ状況の録音・録画や弁護人の立ち会いを認めることによって、取り調べ課程を可視化(客観的状況を第三者が認識可能なものとする)していけばよく、こうしたことは諸外国では既に取り入れられています。
ところが最終意見は「取調状況の録音・録画や弁護人の取調べへの立会いを認めるべきとの意見」については、「現段階でそのような方策の導入の是非について結論を得るのは困難であ」るとして、「将来的な検討課題」へと棚上げしてしまっています。何故、現段階で結論を得るのが困難なのかについての合理的な説明は何もありません。
最終意見において述べられている具体的な提案は、「取調べ過程・状況につき、取り調べの都度、書面による記録を義務づける制度を導入すべきである」というものです。しかし、この提言は、取り調べ状況の録音・録画等と比べて、取り調べ課程の可視化という観点からは遙かに不徹底なものであり、抜本的改革とはほど遠いといわざるを得ません。もちろん、こうした記録の義務づけが無意味であるとはいいませんが、むしろこれだけでは、自白を強要した捜査官自らが、被疑者が任意に供述したという作文による「記録」をすることによって、自白の任意性の争いがより困難になることが逆に危惧されます。
現在、取調べの適正を確保するための制度的な措置がないため、結果として被告人が自白の任意性を争うことが極めて困難になっているのが実状ですし、そのために審理が長期化する弊害を生じていることも既に述べたとおりです。
取調べの適正を確保することは、こうしたことを抜本的に是正することに繋がるものですから、そのためには、取調状況の録画・録音、弁護人の立会が不可欠であり、さらには弁護人選任権の実質化、被疑者への権利告知の実効化のための方策が具体化されなければなりません。
最終意見は、伝聞法則の「運用を誤った結果として書証の取調べが裁判の中心を占めるようなことがあれば、公判審理における直接主義、口頭主義を後退させ伝聞法則の形骸化を招くこととなりかねない」と指摘しています。しかし、既に述べたように、現状の刑事裁判は「書証の取調べが裁判の中心を占めるようなことがあれば」とか「伝聞法則の形骸化を招くこととなりかねない」というようなものではなく、「書証の取調べが裁判の中心を占めていて、伝聞法則は既に形骸化している」のです。最終意見には、こうした危機的状況の認識が欠如しているために、改革についても「関連諸制度の在り方を検討しなければならない」というほとんど何も言っていないに等しい抽象論にとどまってしまっています。
伝聞法則を実質化していくためには、検面調書の特信性や自白調書の任意性の立証には、既に述べたような取り調べ状況の録音・録画等の客観的証拠によらなければ、これを認めてはならない等の立法提言を含めた踏み込んだ改革が不可欠です。 このように最終意見においては、現在の刑事司法の深刻な病理である「人質司法」「自白中心主義」「調書裁判」という実態についての抜本的改革は、ほとんど見るべきものはないといわざるを得ません。
最終意見の刑事司法制度の改革の冒頭で述べられ、かつ最も多くの分量をさかれているのは「刑事裁判の充実・迅速化」ということです。しかし、ここで示されている改革提言には到底看過できない重大な問題があり、現状の「絶望的」状況をさらに悪化させる危険が強いといわざるを得ません。
最終意見は刑事裁判の充実・迅速化の基本的な方向として「真に争いのある事件につき、当事者の十分な事前準備を前提に、集中審理(連日的開廷)により、裁判所の適切な訴訟指揮の下で、明確化された争点を中心に当事者が活発な主張立証活動を行い、効率的かつ効果的な公判審理の充実を図ることと、そのための人的体制の整備及び手続的見直しを行うこと」と述べています。
しかしここでは、刑事裁判の充実・迅速化を阻害する根本要因は何かという問題意識が決定的に欠落しています。
現状の刑事裁判の充実・迅速化を妨げている根本要因は、1の「刑事司法の現状と問題点」で述べた自白中心主義・人質司法・調書裁判ということのすべてが妥当するのであって、この点を改善していかなければ刑事裁判の充実・迅速化は実現できないのは当然です。例えば、事前準備を充実するといっても、被疑者・被告人が代用監獄での不当な身柄拘束を受け、弁護人との接見交通権も制限され、保釈請求も制限されている実態の中で、どのようにして事前準備を充実させるというのでしょうか。また、伝聞法則が形骸化し、捜査段階での供述調書がいとも簡単に証拠採用され、その調書の取り調べが中心となっている公判の実態を放置しておいて、どのようにして当事者が活発に主張立証を行うというのでしょうか。また、取り調べ過程が可視化されず密室で行われているため、自白の任意性・信用性を争う場合は、被告人と取調官の双方から取り調べ状況についての供述を求め、さらに供述内容と他の証拠との矛盾や整合性といった観点から判断せざるを得ないために審理期間が長期化するのです。
したがって、こうした問題点を克服することこそが、刑事裁判の充実・迅速化を導くための抜本的な改革ですが、後に詳しく述べるように、最終意見ではこうした点の改革についてほとんど見るべきものがないことは既に述べたとおりです。
最終意見では「第1回公判期日の前から、十分な争点整理を行い、明確な審理の計画を立てられるよう、裁判所の主宰による新たな準備手続を創設すべきである」とし、そのために証拠開示を拡充することを求めています。証拠開示の問題は後に述べますが、現状の刑事司法の実態の下では「証拠開示の拡充」のみで十分な事前準備を行うことはできません。それは、既に述べたような「人質司法」と呼ばれる実態そのものが、被告人・弁護人の事前準備を阻害している最大の要因なのであり、これについての抜本的改善が不可欠なのです。
「裁判所の主宰による新たな準備手続」という内容はまったく不明確ですが、これまで指摘した「人質司法」の抜本的改善がないまま、裁判所主導の争点整理や審理計画が行われるとすれば、被告人・弁護人が十分な準備、打ち合わせもできないまま「争点」が限定されてしまい、それに基づく「審理計画」を押しつけられる危険が強いと言わざるを得ません。
そもそも被告人・弁護人と検察官とでは、圧倒的な力の差があるのであり、被告人・弁護人にとって、例えば証人を探し出したり、その証人に法廷で証言してもらうよう説得することなど多大な苦労があります。ところが、第1回公判期日前の準備手続の中で「争点」や「証人」が限定されてしまうとすれば、被告人・弁護人にとってほとんどまともな準備もできないまま拙速に公判が進められてしまうことになります。これでは「審理の充実」とは正反対であり、適正手続の侵害とともに実体的真実の発見にとってもマイナスです。まさに、被告人・弁護人の十分な準備ができないまま、「迅速な処罰」のみが進められることになり、新たな誤判を生み出すことになりかねないものといわざるを得ません。したがって、このような実態を放置したままで、新たな準備手続を創設し、争点や証人等を限定することには反対です。
最終意見では、充実した争点整理を行うために「証拠開示の時期・範囲等に関するルールを法令により明確化する」と述べられています。
何らかの方法であれ、証拠開示を法令によって制度化することは大きな前進であり、積極的に実現が図られなければなりません。その上で問題となるのは、どの範囲で証拠開示を認めるかにあります。
証拠開示の範囲・方法を巡っては、審議会内部でも厳しい意見の対立があり、第三者の名誉・プライバシー等を理由に、開示されるべき証拠の範囲を限定しようという意見も有力に主張されています。最終意見では、「証拠開示に伴う弊害の防止が可能となるものとする必要がある」とするのみで、具体的な方向性は明らかにしていません。
刑事裁判における被告人・弁護人と検察官の圧倒的な力の差を考えれば、証拠開示の範囲・方法は、原則として事前全面開示がなされなければ、武器対等の原則は実質化されません。また、現状では、検察官は公判廷で取り調べる予定の有罪立証に必要な証拠しか開示しないため、実体的真実発見の観点に立っても重大な支障があります。こうした中で、検察官の開示すべき証拠を限定的にすることは、証拠開示の実効性そのものを危うくするといわざるを得ません。
したがって、検察官手持ち証拠の事前・全面開示が原則とされなければならず、それを前提に第三者の名誉・プライバシー保護についての合理的な方策が別途検討されるべきです。
但し、証拠開示の問題だけで、被告人・弁護人の事前準備が十分にできるわけではありません。したがって、証拠開示を制度化したからといって、前述した事前準備手続を導入していいということにはなりません。証拠開示の問題は、事前準備手続の創設とは別のそれ独自の問題として議論される必要があります。
最終意見は「公判は可能な限り連日、継続して開廷することが原則」とし、「連日的開廷を可能とするための関連諸制度の整備を行うべきである」と述べています。そして、その具体化として、刑事事件を専門に取り扱う常勤弁護士の配置や個々の弁護士又は弁護士法人との契約を行うことがあげられています。
これについても、保釈も容易に認められず、被告人と弁護人の打ち合わせもままならず、十分な準備もできないままで、連日的開廷を確保するとなれば、充実した審理と正反対になることはこれまで述べたとおりです。
集中して審理を行うこと自体は意味のあることですが、そのためには人質司法等の実態を抜本的に改善することが不可欠の前提です。それがないままに、連日的開廷の確保のみが先行することには反対です。
最終意見は「被疑者に対する公的弁護制度を導入し、被疑者段階と被告人段階とを通じ一貫した弁護体制を整備すべきである」とし、公的費用による被疑者弁護制度の導入を明言しました。
逮捕・勾留された被疑者段階において、弁護人による援助がなされないために、虚偽の自白を強要されるなどの問題点は古くから指摘されており、こうしたことが冤罪を生む構造的な問題点のひとつとされています。弁護士会では、当番弁護士制度を発足・運用し、自主的にこの問題に対処してきましたが、審議会において被疑者に対する公的費用による被疑者弁護制度の導入に踏み切ったことは、大きな前進として歓迎すべきことです。
しかしながら、ここで問題なのは導入のための具体的制度をどのようにするかにあります。
刑事弁護の基本的な使命は、被疑者・被告人の基本的人権の擁護にあることはいうまでもありません。そのために、必要に応じて捜査機関や検察などの活動をチェックし、憲法・刑事訴訟法等に依拠しながら権力側と対峙していくことは必要不可欠です。こうした自主的で、権力から独立した弁護活動が豊かに展開されてこそ「公共の福祉の維持と個人の基本的人権の保障を全うしつつ、事案の真相を明らかに」する(刑訴法1条)という刑事訴訟の目的を初めて達成することができるのです。したがって、公的費用による被疑者弁護を実施するにあたっても、弁護活動の自主性・独立性を保障するための弁護士自治が不可欠であり、弁護の内容そのものを国家機関が管理・監督するようなことがあっては絶対になりません。公費投入の名のもとに、刑事弁護活動が権力によるコントロールを受けるようなことになっては、刑事司法は死滅するといっても決して過言ではありません。
この意味で、公的費用による被疑者弁護の運用は、これまでの被告人国選弁護制度と同様に弁護士会の自主的運営に委ねられなければなりません。弁護活動の質の確保の問題も、弁護士会の自治に委ねられるべきもので、公権力による「ガイドライン」の制定等の方法によってコントロールを受けてはならないことは先に述べたとおりです。
この点につき、最終意見は「公的弁護制度の運営主体は、公正中立な機関とし、適切な仕組みにより、その運営のために公的資金を導入すべきである」と述べています。しかしここでの「公正中立な機関」や「適切な仕組み」というものが具体的にどのようなものが想定されているのかについては明確に述べられてはいません。
審議の中では「運営主体を法務省の監督下に置くべきである」、あるいは「公費投入に見合った弁護活動の評価・コントロールが必要」等の意見も出されているように、一部に「公的資金を投入するにふさわしいもの」という名の下に、弁護活動を権力的にコントロールするシステムと抱き合わせにしようとする指向があることも否定できず、この点に関して重大な危惧を抱かざるを得ません。
先にも述べたとおり、憲法・刑訴法の予定する刑事訴訟の目的を達成するためには、公権力から独立し、時に公権力と対峙する弁護活動が不可欠です。したがって、公費による被疑者弁護制度は、基本的に弁護士会や法律扶助協会などの自主的運用に委ねるべきであり、弁護活動を権力的にコントロールするようなシステムとの抱き合わせは断じて容認できません。
また、中間報告は「少年審判手続への公的付添人制度の導入についても積極的に検討すべきである」としています。少年審判手続に付添人がつく割合は極めて少ないのが実状ですから、この点も是非積極的に実現すべきです。しかしながら、具体的制度の運用については 公的費用による被疑者弁護制度と同様、付添人の活動を権力的にコントロールするようなことがあってはならないことは当然です。
最終意見は「検察審査会の一定の議決に対し法的拘束力を付与する制度を導入すべき」としています。 現在は、検察官が公訴権を独占していますが、検察官の公訴権行使についてのチェック機能を強化することは必要です。また、国民の司法参加という観点からも、この点は積極的に進めるべきものと考えます。しかし、より抜本的には大陪審(起訴陪審)の導入が検討されるべきでしょう。
最終意見は、労働関係事件に関する改革に関して、以下の3点を提案しています。
a 労働関係訴訟事件の審理期間をおおむね半減することを目標とし、民事裁判の充実・迅速化に関する方策、法曹の専門性を強化するための方策等を実施すべきである。
b 労働関係事件に関し、民事調停の特別な類型として、雇用・労使関係に関する専門的な知識経験を有する者の関与する労働調停を導入すべきである。
c 労働委員会の救済命令に対する司法審査の在り方、雇用・労使関係に関する専門的な知識経験を有する者の関与する裁判制度の導入の当否、労働関係事件固有の訴訟手続の整備の要否について、早急に検討を開始すべきである。
以上の提案はいずれも抽象的で、結局審議会で議論された様々な改革案はそのほとんどが先送りにされています。審議の中で大きな争点となった労働事件における参審制の導入についても結局検討課題で終わっています。また、審理の充実・促進にとってもっとも重要な証拠収集手続の拡充について何ら具体的な提案がなされないまま審理期間の半減、計画審理の推進などが提案されており、拙速に陥る危険性もあります。
最終意見の内容について私たちは非常に不満ですが、最終意見が検討課題とした点については少なくとも今後できるだけ早急に検討を始め改革の方策を具体化していく必要があります。私たち自由法曹団は昨年12月に「労働裁判改革のための意見書―労働者の権利救済のために―」を作成し審議会に提出していますが、今回改めてその要旨を紹介します。
私たちは労働裁判の改革としては、まず労働者の権利を簡易迅速に救済するための制度を作ることが必要だと考えます。次に、労働者の権利救済を妨げている裁判所の審理や判断のあり方を改めることです。またわが国では、裁判所が労働委員会による不当労働行為救済命令を軽視し簡単に取り消す異常な状態が生じているので、労働委員会の救済命令に対する司法審査のあり方の見直しも重要な課題です。
労働関係の民事・行政事件は年間新規事件数が3000件前後であり、近年増加傾向にあるとはいえ実際に発生している労使紛争のほんの一部に過ぎません。大部分の労働者は結局泣き寝入りをしているのが現状です。泣き寝入りの原因としてまず考えられるのは、事案が単純で争点も明確な事件ですら、手続きが複雑なため弁護士をつけることが必要となり、また結論が出るまでに時間がかかるため、多くの労働者が裁判を起こすことを断念しているためです。
そこで、労働者が自己の権利を守るためにもっと簡単に利用できる裁判制度を作ることが必要です。具体的には、現在の訴訟手続とは別に、賃金不払い事件や理由のないことが明らかな解雇事件などのような比較的事案が簡明でその処理にそれほど時間を要しない事件を念頭に置いた、簡易労働訴訟制度を導入すべきです。これは民事訴訟における少額訴訟のように、本人訴訟を念頭において、提訴のための書類をある程度定型化し、しかも審理回数を2ないし3期日に限定したものとすべきです。
簡易迅速な労働紛争解決制度としては、裁判制度の他に、最終意見も触れている、労働調停制度や裁判所外での紛争解決手続(ADR)なども考えられますが、これらはいずれも労使が合意に達しない場合には紛争を解決することはできず、結局裁判所の手を借りることが必要となります。従って、これらの制度を設けることの意義は否定しませんが、これらは裁判手続に代替しうるものではなく、労働者が裁判による解決を望む場合には容易に裁判が提起できる条件を整えることが基本だと考えます。
労働者が泣き寝入りをしているもうひとつの理由は、労働者が裁判で勝つためには多大な苦労を必要とするため、いきおい審理が長期化せざるを得ず、これらの事情があいまって労働者が裁判を起こすことに躊躇しているためです。
現在の労働裁判の抱える最大の問題は、審理や判断の在り方にあります。すなわち、裁判所の判断内容が企業側の利益を優先し、労働者の権利やその生活、労働組合の活動に対する理解に欠けるものが多いこと、審理の進め方が労使間での証拠の偏在を無視して労働者側に過重な立証責任を負わせ、また使用者側による引き延ばしを許していること、その結果審理が長期化していることなどです。
そこで私たちは、抜本的改革として、@労働裁判における陪審・参審制の導入、A法曹一元の導入が必要だと考えますが、その他、B労働裁判のための特別な手続を設けること、C労働実体法を整備すること、などが必要と考えます。
@の陪審制・参審制導入については、原則として素人裁判官のみで構成する陪審制が望ましいと考えますが、労使紛争の特殊性から労働裁判には労使の代表を裁判官に加えた参審制を併用するのが妥当であると考えます。そのうえで、a)賃金不払い事件や理由のないことが明白な解雇事件については前述した簡易迅速な労働訴訟制度を新設するとして、その他の十分な審理が必要な事件について、訴えを提起する労働者側に参審制と陪審制のいずれの審理を受けるかを選択できるようにすること、b)参審制は、現在の労働委員会のような職業裁判官と労使双方から選出された素人裁判官によって構成し、素人裁判官にも評決権を与えること、c)労使から選出される素人裁判官については、出身母体等による人選の公正を確保できるような民主的な手続・客観的で公正な基準を定めること、などが重要です。現在の労働委員会のように連合系労働組合出身者が労働者委員を独占するようなことは決してあってはなりません。
Aの労働裁判のための特別な手続としては、a)労使間での証拠の偏在を考慮した強力な証拠開示制度を設けること。例えば現行法上の文書提出命令の範囲を大幅に拡大したり、証拠保全手続の要件や範囲・効力を拡充強化するなど。b)主張・立証責任の有無に関わらず事案を解明するために裁判所が使用者に対して求釈明を行うことができるようにし、労働者側に申立権を付与すること、などが考えられます。
Bの労働実体法の整備としては、a)労働分野に関する実体法の整備が不十分なため労働事件の多くは判例理論による判断が行われていますが、判例理論が労使の利害をバランスよく考慮したものとなっていないため、立法によってその要件などを明確にすることが必要です。具体的には、労働契約法・解雇規制法・労働者保護法・差別禁止法などが考えられます。b)併せて実体法の中に、立証の困難さや証拠の偏在を考慮した立証責任の転換規定ないしは推定規定を設けることが必要です。
第1に、現在裁判所が労働委員会による救済命令を尊重せずいとも簡単にその判断を覆している現状を改革することが必要です。私たちは、労働組合に対する迅速な救済という趣旨から、労働委員会の救済命令に対する司法審査に実質的証拠法則を採用し、労働委員会の認定事実を立証する実質的な証拠があるときは、裁判所はそれに拘束されるようにすべきだと考えます。審議会の審議においては、最高裁や法務省は、労働委員会における手続が裁判所の第一審に代替し得ると評価しうるほどのものではないとして否定的意見を述べましたが、実際に労働委員会における審理を経験している私たちの実感から言えば、労働委員会における審理は地裁での審理に準じたものとなっており、実質的証拠法則の導入は何ら問題ないと考えます。
第2に、現在の労働委員会による救済命令制度が、地労委、中労委、東京地裁、東京高裁、最高裁と事実上5審制となり、不当労働行為からの早期救済を図るという制度本来の趣旨に逆行している点を改革する必要があります。そこで取消訴訟について審級を省略し、中労委命令に対する取消訴訟の管轄を東京高裁とすべきだと考えます。その他、早期救済を図るための改革として、中労委による地労委命令の履行勧告(労働委員会規則51条の2)が単なる「勧告」に過ぎない現状を改め、使用者がそれに従うべき義務を負うことを法律で規定すること、東京地裁が労働委員会命令を軽視しなかなか緊急命令(労働組合法27条8項)を出さない現状を改め、原則として緊急命令を出すべきことを法律で規定すること、地労委や中労委の審理の遅延を改革すること等も必要だと考えます。
最終意見は、司法の行政に対するチェック機能の強化について、「行政に対する司法審査の在り方に関して、『法の支配』の基本理念のもとに、司法及び行政の役割を見据えた総合的多角的な検討を行う必要がある」としつつ、何ら具体的な改革の方向性を示すことなく、「政府において、本格的な検討を早急に開始すべきである」とするに止まりました。
これは明らかに不十分との批判を免れません。
行政訴訟の現状は司法消極主義、行政追随主義として国民の強い批判を受けています。
行政訴訟の多くは当事者適格の極端な制限や処分性についての著しく狭い解釈を理由として門前払いされており、国民の裁判を受ける権利が著しく侵害されています。そして仮に狭き門をくぐって実体審理に入っても、原告の勝訴率は極めて低く、このため事件数も諸外国に比べて著しく低いのが現状です。司法が行政の違法・不当を是正して国民の権利を守るという国民の人権の砦としての役割を果たしていないことは、現代の司法の最大の問題の一つに他なりません。審議会にはこの点にメスを入れることが期待されていたものですが、最終意見は国民の期待に答えていないと言わざるを得ません。
最終意見は「司法の行政に対するチェック機能を強化する方向で行政訴訟制度を見直すことは不可欠である」とし、審議会における議論の中で挙げられた具体的な課題として「行政訴訟手続に関する諸課題」を挙げ、この中で、「原告適格、処分性、訴えの利益、出訴期間、管轄、執行不停止原則等」、「義務付け訴訟、予防的不作為訴訟、行政立法取消訴訟等の新たな訴訟類型の導入」、「不服審査前置主義の整理・検討」を指摘しています。
これらの点について、最終意見が改革の方向性を示しつつも、結論を明示しなかった点は不十分と言わざるを得ません。審議会が示した方向性はいずれも、重要な問題であり、後述の通り直ちに改革・導入が行われるべきです。
最終意見は「この問題に関する具体的な解決策の検討は、事柄の性質上、司法制度改革の視点と行政改革の動向との整合性を確保しつつ行なうことが不可欠」であるとし、「そもそも司法による行政審査の在り方を考えるには、統治機構の中における行政及び司法の役割及び司法の役割・機能とその限界、さらには三権相互の関係を十分に吟味することが不可欠である」と述べています。しかし、行政の司法に対するチェック機能の抜本的強化は「行政改革の動向」如何に関わりなく進められるべきであり、また、極端な司法消極主義のもと、違憲立法審査権も行政への司法のチェックもほとんど機能していない現状にあって「司法の限界」「三権相互の関係」を強調することは、改革を妨げるものにほかなりません。改革は司法独自の観点から行なうべきであり、行政追随・司法消極主義からの脱却こそが改革の根本に置かれるべきです。
最終意見が改革課題として掲げているのは、前述の「行政訴訟手続に関する諸課題」のほか、「行政訴訟の基盤整備上の諸課題への対応」(具体的には専門的裁判機関の設置、法曹の専門性強化,法科大学院における行政法教育の充実)のみです。
ここにおいては、行政訴訟の原告勝訴率が極めて低く、司法が行政へのチェック機能を果たしていない根本原因に何らメスが入っておらず、この根本を変革する改革は何ら提案されていません。
第1に、官僚統制を受けたキャリア裁判官による訴訟運営・判断が、行政訴訟における行政寄りの判断を生んでいる現状を鑑みるなら、司法の行政へのチェック機能の強化のために最も必要とされるのは、法曹一元、陪審制の導入です。
しかし最終意見が「行政訴訟の基盤整備上の諸課題」として掲げるのは専門化のみであり、法曹一元、陪審制という司法の民主化の視点は全く欠落しています。特に、国民の期待の高かった行政事件・国家賠償請求事件への国民の司法参加については、陪審・参審とも導入が全く提起されていない点は極めて不十分です。
第2に、判検交流により、裁判官が訟務検事として行政事件で行政の代理人として訴訟活動を遂行し、その後裁判官に復帰して行政訴訟を判断するという事態は公然と行なわれ続けています。これは、裁判所と行政の癒着にほかならず、行政寄りの司法判断を生み出すものであると同時に、国民の司法への信頼を著しく損ねています。司法が行政に対するチェック機能を公正に果たすためには、行政訴訟における判検交流は直ちにやめるべきです。しかし、最終意見には判検交流の廃止は全く提案されていません。
第3に、原告敗訴の原因として、行政が情報を隠匿し、行政訴訟において、行政側が提訴した住民に十分な証拠開示を行なわず、行政処分ないし決定に至った経過を十分に説明しないという問題があります。
行政事件訴訟法を改正して、行政決定に関連する行政手持ちの全資料・記録の事前・全面的証拠開示を実現し、後述のとおり最終決定の説明責任を行政に課す必要があります。しかし最終意見はこの点に関し全く言及していません。
第4に行政法規に定められた行政行為の広範な裁量権が行政行為の是正を阻んでいるという根本問題です。
わが国の行政法規は、行政庁の裁量の幅が極めて広く、争いになった行政処分が裁量の範囲内であれば違法にはならないとされています。しかも、行政処分が違法といえるか否かの判断基準も行政法規には明確にされていません。これでは国民が行政処分の違法性を立証することは極めて困難であり、これが行政追随の現在の司法の姿勢とあいまって、司法が行政庁の裁量に属する行為を覆すことはほとんどない現状を作り出しています。
司法によるチェック機能を回復するには、こうした広範な行政裁量を極力限定し、適法性の要件を明示し、違法性の判断基準を明確化することが不可欠です。 第5に、行政訴訟が民事訴訟の一類型とされ、行政処分の違法性の立証責任を原告−国民に課している現行の立証責任分配を根本的に改める必要があります。行政上の決定・処分の最終判断に関する説明義務を行政に課し、行政が決定の適法性・妥当性に関する立証に失敗すれば当該決定を違法とする立証責任の転換が図られるべきです。しかし、この点も最終意見には何ら指摘されていません。
これらの根本問題にメスを入れ、抜本的に改革することなく、行政訴訟に関する改革を単なる「入り口論」にとどめるのでは、司法の行政に対するチェック機能が実現することはありえません。最終意見は根本的な改革への道筋を示す責務を怠ったものというほかありません。
イ 国民の訴え提起を抑制する「入り口要件」に関する行政事件訴訟法の規定の改正
現行の原告適格の極端な制限、処分性、訴えの利益に関する著しく厳しい要件、解釈により、多くの行政訴訟が実体審理に移行することなく却下されています。
こうした実情は、国民の裁判を受ける権利を大きく制限するものです。当事者適格・処分性、訴えの利益に関する要件を大幅に緩和する行政事件訴訟法の改正を緊急に行なうべきです。
原告適格については、行政事件訴訟法9条を改正し、「法律上の利益」を「現実の利益」に改めるとともに、公益代表訴訟を制度化すべきです。同法10条の「法律上の利益」も原告適格にあわせて広げるべきです。また、処分性についても行政事件訴訟法3条2項の「行政庁の処分その他公権力の行使に当たる行為」との規定を改正し、ひろく行政上の意思決定を取消訴訟の対象とすべきです。
また被告の特定が困難な現状を改革すべく、被告を明確化する措置を講じるべきです。
ロ 行政訴訟の専属的管轄権の廃止
行政訴訟の専属管轄権を廃止し、国民が通常の民事訴訟と行政訴訟を選択的に提起できる制度とすべきです。また大阪国際空港訴訟判決のように民事訴訟では国の航空管理権を侵害するとされ行政訴訟では原告適格なしとされる事態が生じないよう併行提起も認めるべきです。
ハ 不服審査前置主義の廃止
現行の不服審査前置主義は迅速な行政救済を阻み、国民の行政訴訟提訴を抑制する機能を果たしています。不服審査前置主義をすべて廃止し、国民の自由選択とすると共に、現行の不服審査制度の充実・強化を図る必要があります。
ニ その他訴えを容易にする改正
処分を知ってから3ヶ月とされている出訴期間を大幅に延長し、原告の住所地の裁判所に行政訴訟を提訴できる管轄制度の改正を行なう必要があります。あわせて訴えの実効性を確保するため、現行の執行不停止原則を根本から改め、執行停止を原則とすべきです。執行停止に関する内閣総理大臣の異議の制度も廃止すべきです。
行政事件訴訟法を改正し、義務付け訴訟、予防的不作為訴訟、行政立法取消訴訟等、新たな訴訟類型を導入すべきです。特に、現在の行政は民主的過程を経ずに行政が決める政令、省令、告示によって規律されているのが実際で、これら行政立法に基づく行政措置が国民生活に大きな影響力を及ぼしており、これら行政立法を取消訴訟の対象とすることは重要です。
行政庁の裁量の幅が極めて広く規定されている現行の行政法規を、抜本的に改正し、行政裁量を極力限定し、適法性の要件を明示し、違法性の判断基準を明確化することが極めて重要です。
行政の手持ち証拠の事前・全面開示を実現し、最終決定についての説明義務を行政に課し、適法性の立証責任を行政側に転換すべきです。
現在の行政追随、司法消極主義を転換するには、官僚裁判官が行政の違法性を判断する現在の体制を根本から改めることが不可欠です。根本的な転換は法曹一元を実現し、行政事件・国家賠償請求訴訟その他国・地方公共団体を被告とする全ての訴訟の全てに陪審制の導入を行なうことです。
最終意見は刑事重大事件にのみ裁判員制度を導入すると提起しましたが、行政事件・国家賠償請求訴訟その他国・地方公共団体を被告とする全ての訴訟にこそ、司法の民主化は必要であり、国民が司法参加する制度の構築は急務です。
国民の司法参加の制度構築とともに、当面緊急に行なうべき改革として、行政事件には、弁護士出身の裁判官を少なくとも必ず一人は関与させることとし、行政事件に関する判検交流を即時停止することが必要です。
こうした抜本的な改革をすることなく、行政裁判所を設置したり、各地裁に行政専門部を設置することは、行政追随主義を一層強化することにつながり、反対です。
また、租税事件について、東京地裁・大阪地裁の行政専門部には課税庁から調査官が派遣され、裁判の公正を甚だ損なっています。租税事件に関する地方裁判所調査官の制度は、直ちに廃止されるべきです。
審議会の審議と平行して政府は、地方自治法242条の2第1項の改悪案を法案化し、土地収用法の改悪を強行しました。これは国民の行政に対する訴え提起を抑制し、行政処分に対する国民の不服申立を抑圧するものであり、司法の行政に対するチェックを一層後退させる改悪であって、審議会の改革の方向性に逆行するものです。
行政処分に対する国民の不服申立を抑圧する立法は他にも、沖縄米軍用地特別措置法改悪等、様々なものがあります。
司法の行政に対するチェック機能を強化するためには、地方自治法242条の2第1項の改悪案を白紙撤回し、国民の不服申立を抑圧する諸悪法を総合的に見直すことが必要です。
以上のとおり、これら行政への訴え提起を広く認め、行政裁量を狭め、基準を明確化し、立証責任を行政に転換する法改正を早急に開始し、年限を決めて集中的に改正を行なうことが必要です。しかし、法改正作業を行政機関の官僚のみに委ねてしまっては、行政の司法審査を抜本的に強化する法改正を実現することは到底できず、実効性は期待できません。
一般国民、消費者、学者、法曹三者に中央省庁、自治体関係者を加えた検討機関を早急に発足させ、年限を決めて早急に検討を行なうべきです。
最終意見は「裁判所へのアクセス拡充」の項の「利用者の費用負担の軽減」のひとつとして弁護士報酬の敗訴者負担の導入を提案しています。
審議会は中間報告において「弁護士報酬の高さから訴訟に踏み切れなかった当事者に訴訟を利用しやすくするものであることから、基本的に導入する方向で考えるべきである」とし、この制度の原則導入を提起し、「労働訴訟、少額訴訟など敗訴者負担制度が不当に訴えの提起を萎縮させるおそれのある一定種類の訴訟はその例外とすべきである。」とし、一部の類型の訴訟に限って例外とすることを提案しました。
しかし中間報告のこの部分に対しては弁護士会その他の法律家団体だけでなく多くの市民団体から審議会に批判が寄せられました。私たちも中間報告に対する意見書の中で反対意見を述べています。
その結果最終意見では、弁護士報酬の敗訴者負担を一律に導入するとの見解は改めましたが、それでもなお「勝訴しても弁護士報酬を相手方から回収できないため訴訟を回避せざるを得なかった当事者にも、その負担の公平化を図って訴訟を利用しやすくするとの見地から、一定の要件の下に」弁護士報酬の一部を敗訴者に負担させる制度の導入を提言しています。
しかし最終意見が導入の根拠とする訴訟の利用促進効果は極めて限られた種類の事件や経済的強者にしかもたらされず、多くの事件や国民にとってはむしろ重大な萎縮効果をもたらす結果となり、私たちは弁護士報酬の敗訴者負担制度の導入については全面的に反対です。
そもそも訴訟を提起する前に確実に勝利できるとの見通しを立てることのできる事件は極めて限られています。多くの事件では勝つか負けるか見通しが不明確なまま起こすものです。このような実態を踏まえた場合、弁護士報酬の敗訴者負担制度が導入されたならば、多くの市民にとっては、勝った場合に相手から自分の弁護士報酬を取れることを期待して訴訟を起こしやすくなるよりも、負けた場合相手の弁護士報酬まで負担しなければならないことを恐れて訴訟を断念することは明らかです。とりわけ、労働、公害、薬害、基地、消費者、医療その他、市民が企業や国、自治体等の行政を相手にする訴訟では明白な萎縮効果を生むことは間違いありません。こうした事件での市民の側の勝訴率は極めて低い現状にあります。その原因は決して市民の側が「濫訴」をしているからではなく、企業や国・自治体などの行政が、訴訟の行方を左右する証拠を明らかにせずこれを隠す一方で、市民・労働者・被害者にとっては証拠を収集することが困難なために、訴訟手続上極めて不利な立場に置かれているためです。しかも、最高裁を頂点とする官僚的司法制度の下にあって、裁判官による企業や行政を重んじる極めて偏頗な訴訟指揮と判断が横行しています。このような不公平訴訟の現状を放置したままでの弁護士報酬の敗訴者負担制度の導入は、政策形成訴訟や証拠の偏在する事件における訴訟の提起を大幅に減少させることになるでしょう。同様のことは控訴を提起する場合にも当てはまります。
また、萎縮効果は訴訟提起する場合だけでなく訴訟を提起されてこれに応訴する場合にも生じます。訴える側に形式上証拠が揃っているような事件では、実態としては訴える側に公序良俗違反など不当な事情があっても被告として訴えられ敗訴の危険があるため弁護士報酬の負担を恐れて応訴せずに泣き寝入りするという事態が十分考えられます。例えば、サラ金事件では、利息制限法の制限利率を超える利息は原則として支払う義務はないとの判例理論が確立していますが、これも裁判で争ったことで生み出された理論であり、当初はサラ金業者は契約書をたてに利息を請求してきたのです。もし、弁護士報酬敗訴者負担が導入されれば、こうした判例理論を生み出すことができなくなるおそれがあります。
弁護士報酬の敗訴者負担による訴訟萎縮効果は、経済的弱者により一層厳しく作用することになります。すなわち、国や地方自治体にとっては、仮に訴訟で負けたとしても相手方の弁護士報酬は税金から支出することになり訴訟提起に何ら萎縮効果はありません。また企業の場合には、訴訟に負けた場合の相手方弁護士報酬の負担を経済活動上のコストに組み込むことができ、とりわけ企業規模が大きいほどそのコストが企業に与える影響は小さくなります。ところが一般市民、労働者、公害・薬害・医療過誤・消費者事件などの被害者にとっては、訴訟に負けた場合相手方の弁護士報酬を負担しなければならないことは重大な脅威です。現在ですら自ら依頼する弁護士費用が準備できず泣き寝入りをしている市民が数多くいるにもかかわらず、その上弁護士報酬の敗訴者負担が導入されたならば、経済的弱者が訴訟を利用することは不可能となります。
では弁護士報酬の敗訴者負担によって訴訟提起が促進されるのはどういう種類の事件でしょうか。結局それは、あらかじめ自己に有利な証拠を確保することのできる社会的・経済的強者による事件、例えば、銀行やサラ金などが起こす貸金請求事件、企業や信販会社などが消費者相手に起こす事件など極めて限られたものとなるでしょう。
最終意見は「裁判所へのアクセス拡充」の項の「利用者の費用負担の軽減」のひとつとして弁護士報酬の敗訴者負担の導入を提案していますが、実際には、「企業にとっては利用しやすい司法。市民にとっては利用しにくい司法」を目指すものとなっています。
弁護士報酬敗訴者負担に対する以上述べたような懸念は決して私たちの勝手な憶測ではありません。もともと弁護士報酬の敗訴者負担制度は「訴訟促進策」としてではなく「濫訴防止策」として提案された制度なのです。また1995年12月に設置された法務省の「民訴費用制度研究会」で弁護士報酬の敗訴者負担制度の導入の可否が検討された際にも、訴訟提起に対する萎縮効果があること、一般に勝訴率が低いとされる判例変更を求める訴訟、製造物責任訴訟、国家賠償請求訴訟、住民訴訟、いわゆる政策形成の訴訟等については訴え提起が不当に抑制され、また、社会的・経済的弱者はますます不利益を被るおそれがあるなどの反対意見が出されました。その結果同研究会は、法律扶助制度の充実等を見た上での将来の課題としました。
ところが審議会ではこれまで行われてきたこうした議論の経過を全く無視して、弁護士報酬の敗訴者負担があたかも市民にとって訴訟提起促進効果をもたらすものであるかのように主張してその導入を図ろうとしています。しかも、中間報告で原則導入を提案した後多くの市民団体から反対意見が寄せられたにもかかわらず審議会は最終意見においても弁護士報酬の敗訴者負担制度の導入に固執しています。一体なぜ審議会はここまで弁護士報酬の敗訴者負担制度導入に固執しているのでしょうか。
その本当の狙いは、国や地方自治体、企業が自分たちを被告とする市民・労働者からの訴訟を抑制することにあります。その狙いをはっきりと述べているのが経営法友会の「司法制度改革審議会中間報告に対する意見書」(2001年1月18日)です。経営法友会は新日鐵の取締役が代表幹事で企業800社の企業法務担当者によって組織され、所管官庁や関係団体に意見具申等を行っている研究団体ですが、その上記意見書では「弁護士報酬の敗訴者負担は、濫訴の歯止めとして有効であり支持したい。(中略)中間報告が指摘する政策形成訴訟、労働訴訟、少額訴訟などを詳細に検討することなく例外扱いすることを提言しているのは理解に苦しむ。(中略)国や公共団体のみを被告とする場合を指すならまだしも、企業や個人が被告に入っているものまでもその範疇に含めることには合理性がない」と述べています。
つまり企業側は弁護士報酬の敗訴者負担が企業に対する訴訟を抑制するものとして歓迎しているのであり、しかも最終意見がその導入を一定の事件に限定するかのように提言したとしても、今後企業側・経済界から全面一律導入を強く求めてくることは火を見るより明らかです。
最終意見は、中間報告での原則導入を改め、「一定の要件の下に」導入するとしました。しかし既に述べたように、敗訴者負担導入によってほとんどの事件は訴訟提起に対し萎縮効果をもたらすのであり、また訴訟促進効果があるごく一部の事件については導入によって経済的不平等の拡大をもたらすという弊害が大きく、いずれにしろ導入する必要性はありません。
最終意見は、司法制度を支える法曹の在り方の中で特に弁護士制度改革を重視し、検察官や裁判官の在り方と比較して多くの頁を割いて弁護士制度に関して具体的な提案をしています。
最終意見はまず総論として「弁護士の社会的責任(公益性)」について述べ、
a 弁護士がその公益的使命にふさわしい職業倫理を自覚し、自らの行動を律すべきこと、
b 通常の職務活動を超えて、公共性の空間における社会的責任(公益性)を自覚すべきこと、
c プロボノ、アクセス改善、後継者養成、そしてとりわけ公務就任を通しての司法運営への貢献を求め、
d 活動内容についての透明性の確保と国民に対する説明責任を果たすこと、
等を強調しています。
そして各論として、
e 弁護士法30条の兼職・営業許可制の届出制への変更
f 綱紀・懲戒制度の適切な運用と弁護士倫理遵守の確保
g 弁護士へのアクセス拡充のための相談センター設置、弁護士報酬の透明・合理化、弁護士広告と弁護士情報の公開と拡大
h 弁護士業務の共同・法人化、総合事務所化(ワンストップサービス化)
i 弁護士業務の国際化・外国弁護士との提携
等を提言しています。
なかでも特に重視する弁護士会の在り方については、弁護士会運営の透明化、倫理に関する態勢整備、隣接専門職の活用、企業法務の位置付けへの積極的提言となっています。
わたしたちは審議会の想定する弁護士像・弁護士の役割に対しては違和感を覚えざるを得ません。戦後これまで弁護士や弁護士会は、国や行政、大企業などによって顧みられなかった社会的弱者の立場に立ち、その人権を擁護するため、さらには人権侵害を生み出す社会の歪みを正すべく活動してきました。これは多くの弁護士が弁護士法1条1項の規定する「基本的人権を擁護し、社会正義を実現する」使命を実践してきたからに他なりません。
こうした弁護士・弁護士会の活動は、社会的弱者の権利救済の面でも、国や行政、大企業による横暴を正すという点でも大きな役割を果たしました。冤罪事件、労働事件、公害環境事件、消費者事件、過労死事件など、弁護士による人権救済活動が大きな成果を挙げた例は数多くあります。最近では、子どもや女性、高齢者や障害者、外国人など少数者の人権、新しい人権のための活動も活発に行っています。規制緩和路線が一層進められ、国や地方自治体による社会的弱者切り捨ての政策が進められようとしている現在の状況を見るなら、弁護士による社会的弱者の立場に立った人権擁護活動の重要性は今後一層強くなると考えられます。
従って私たちは、弁護士制度の改革を論ずるに当たっても、このような活動を一層強化し発展させる方向で検討されるべきだと考えます。ところが残念ながら審議会での議論を見ると、これとは違った方向で議論されていたように思われます。そこで私たちは審議会の中間報告に対する意見書の中で、
イ 社会的弱者救済のために弁護士・弁護士会が戦後の日本社会の中で果たしてきた大きな役割が見据えられていないこと、
ロ 弁護士の「在野性」・「人権擁護の守り手」の役割よりも、官と協力しての「法の支配」の役割が強調される傾きがあること、
ハ 弁護士の使命を「公共性の空間における公益性」という抽象的な内容に求めた結果、これまで弁護士が果たしてきた社会的弱者の権利擁護、基本的人権の保障という役割が軽視されていること 等の危惧を指摘し、慎重な検討を求めてきました。
最終意見を見ると、私たちが既に指摘した問題点が改善されるどころか、弁護士の公共的使命や弁護士及び弁護士会が司法権の一翼を担うものであることが中間報告以上に強調され、国家権力や社会的強者に抗して社会的弱者の人権の守り手としての在野法曹の使命や、その基盤である弁護士自治への理解が一層後退したものになっており、重大な問題をはらんでいると評価せざるを得ません。
次に意見書の提起する具体的諸問題のうち、私たちが特に問題と思う事項について触れることにします。
最終意見は、「弁護士が個人や法人の代理人、弁護人として活動するにとどまらず、社会的な要請に積極的に対応し、公的機関、国際機関、非営利団体(NPО)、民間企業、労働組合など社会の隅々に進出して多様な機能を発揮し、法の支配の理念の下、その健全な運営に貢献することが期待される」として、弁護士法第30条第1項に規定する公務就任の制限及び同条第2項に規定する営業等の許可制については、事前規制を廃止し、自由化すべきである、その際の弁護士倫理の在り方については届出制を残した上で別途講じるべきであると提案しています。
しかし私たちは、弁護士法第30条による上記制限は弁護士の職務の独立性を保護し、ひいては先ほど述べた弁護士の在り方を維持しようという趣旨の規定であり、無制限な自由化は取るべきではないと考えます。同条第1項の公職就任の制限も、第3項の営業等の許可もいずれも、弁護士が国や行政機関、企業の組織の一員となってしまい、その職務の独立性が侵害され、ひいては弁護士全体の在り方に悪影響を及ぼすおそれがあることからそれを制限したものです。そしてその意義は現在も失われていません。
最終意見が指摘するような、弁護士が社会の様々な場に進出しその社会的責務を果たすための方策としては、公務就任や営業活動などの完全自由化ではなく、許可制を維持した上で許可の基準の緩和・範囲の拡大によって対応すべきだと考えます。同じ公務就任と言っても、裁判官や検察官のようにその職務の独立性が保障され携わる職務も司法という国家権力の行使を抑制することを本旨とする公職に就く場合や労働委員会の公益委員などのような準司法機関の場合と、行政を自ら推進する行政機関の組織の一員となる場合とでは全くその意味は異なります。また営業活動と言っても千差万別です。従ってこれらの違いを無視し完全自由化とすることは弁護士の在り方に重大な問題を生じさせるおそれがあります。この点について最終意見は、届出制を残した上で倫理研修、綱紀・懲戒制度の適切な運用等により対処すべきであるとしますが、許可制を廃止した場合には、兼職する職業の種類や兼職に就いた後の職務遂行の在り方について弁護士会のコントロールが十分及ぶか疑問であり、弁護士会の自治にとっても重大な悪影響を与えると考えます。
以上により私たちは、最終意見の完全自由化の提案には反対です。
最終意見は、「弁護士会の活動の公益性にかんがみ、弁護士会運営の透明性を確保し、国民に対する説明責任を実行することが重要である。具体的には、例えば会務運営について弁護士以外の者の関与を拡大するなど広く国民の声を聴取し反映させることが可能となるような制度の拡充や、その意思決定過程の透明性の確保、業務、財務等の情報公開の仕組みの整備などを行うべきである。」としています。
私たちは、国民に信頼される弁護士・弁護士会を築く方向で改善を行なうことには異論がありませんが、もし審議会が現在の弁護士会の運営を不透明で国民に対する説明責任を果たしていないと評価しているのであれば異論があります。最終意見は弁護士会の運営と並んで裁判所及び検察庁の運営への国民参加も指摘していますが、その内容を見ると、弁護会士への提言は他の二者に比べて詳細です。しかし弁護士会はこれまでも活動に対する理解と協力を得るため運営への国民参加、活動内容の公開を進めてきました。他の法曹二者よりもはるかに進んでいると自負しています。従って、現状を正確に踏まえた上で法曹三者への国民参加について議論する必要があると考えます。
とくに、弁護士会への国民参加を議論するに当たっては、弁護士自治・弁護士職務に対する国家的・権力的介入の口実を与えるものにしてはなりません。私たち自由法曹団を含む多くの弁護士や弁護士会は、戦後これまで弁護士法1条が定める「基本的人権を擁護し、社会正義を実現する」という使命を果たすべく努力してきました。そして、刑事事件はもちろんのこと、それ以外の分野でも国や行政に対してその責任を追及したり、時々の政策を批判するといった、国や地方自治体との対立関係・緊張関係をはらむ問題について国民の立場に立って活動してきました。また、公害裁判や薬害裁判、労働事件などでは、大企業による横暴とそれを放置した国の責任を追及し、社会的弱者の人権救済のために闘って来ました。また、弁護活動がその時々の世論の理解を得られないような場合であっても、それに抗して基本的人権の擁護のために活動することも弁護士の使命です。
もし仮に、弁護士や弁護士会が裁判所や法務大臣等の監督に服していたのではこうした活動を行うことはできなかったでしょう。まさに戦前はそうでした。私たち自由法曹団の先輩は、戦前、治安維持法違反の被告人の弁護活動をしたことを理由に自らも同法違反とされ度々投獄されました。そういった困難な中でも国民のための弁護活動を行ってきた自由法曹団の先達の活動は我々にとって大きな誇りですが、しかし、そのような悲劇を二度と繰り返してはならないと考えます。弁護士会による弁護士自治は、弁護士自らの利益のために必要なのではなく、弁護士や弁護士会が弁護士法1条に定める「基本的人権を擁護し、社会正義を実現する」という使命を国家による権力的介入を恐れることなく十分に果たすことができるために必要不可欠なのです。その意味で弁護士自治は、裁判所にとっての裁判官の独立に匹敵する重要なものです。
従って、最終意見が提案する、弁護士会運営の改革に当たっては、それが弁護士会による弁護士自治を侵害することのないよう十分注意する必要があります。なお、弁護士会の運営への国民参加について、総合規制改革会議(議長宮内義彦オリックス会長)が「外部役員」の導入に向けて9月から検討を開始すると報じられています。しかし、弁護士会の会務運営は弁護士会の意思形成そのものであり、弁護士自治を侵害する危険性が強いと思います。会務運営を公開することや後述する綱紀・懲戒手続きに国民が関与する機会を保障することによって国民に対する透明性を保障することで十分であり、かつこれによって弁護士自治との調和を保つべきであると考えます。
最終意見は弁護士会の綱紀・懲戒手続に関して詳細な提案をしています。私たちは、調査・審査が円滑・迅速に進むように、対象とされた弁護士の協力義務を明確化することや委員を増加するなどして体制を整備・強化することについては、進めるべきであると考えます。また、懲戒請求者の手続参加の拡充やこれに対する情報提供の強化等の一層の配慮、懲戒処分の過程・結果等に関する公表の拡充などについても、賛同できます。しかし、最終意見が提案している以下の3点については、慎重な検討が必要であると考えます。綱紀・懲戒制度は弁護士会による自治の根幹をなすものであり、前述したような弁護士自治の重要性に鑑みるなら、その改革に当たっては弁護士自治や弁護士による職務活動に対する不当な干渉となる危険性をできる限り排除する慎重な配慮が必要です。
私たちは、一般市民から選任された委員を綱紀・懲戒委員会に参加させることには賛成ですが、綱紀・懲戒は弁護士自治の根幹であることから、委員の過半数を弁護士選出委員としている現在の制度は変更すべきではないと考えます。従って、一般市民選出委員を参加させる方策としては、委員全体の人数を増やすか、全体の人数をそのままにするのなら現在裁判所や検察庁から選出されている委員の数を減らし、その代わりに一般市民選出委員を選ぶようにすべきだと考えます。
私たちは、現在でも懲戒委員会において弁護士以外の委員に評決権が付与され、特段問題がないことから、綱紀委員会においても弁護士以外の委員に評決権を付与しても支障はないと考えます。但し、委員会の構成自体については過半数を弁護士委員とする制度は維持すべきであると考えます。
私たちは、単位会及び日弁連の綱紀・懲戒の各委員会において国民の参加を図っていることから、これ以上さらに最終意見が提案しているような制度を新たに作ることは屋上屋を重ねるものでその必要性はないと考えます。もし仮にこのような制度を設ける場合には、その機関の判断には拘束力を持たせるべきではなくあくまで再度の調査・審理を勧告するというものとすべきです。また、いかなる制度であっても、異議申出の棄却・却下について裁判所に提訴できるという制度は許されないと考えます。そのような制度では、弁護士会の運営、綱紀・懲戒を裁判所の監督のもとに置くことになり弁護士自治を破壊することになるからです。
最終意見は、隣接法律専門職種に対して、訴訟手続の関与を含む一定の範囲・態様の法律事務の取り扱いを認めることを提案しています。また、司法試験合格後に民間等における一定の実務経験を経た者や特任検事・副検事・簡易裁判所判事の経験者に対して、法曹資格を付与するための制度整備を行うべきとしています。このうち後者の提案は、司法試験合格後企業法務を経験した者に対して司法修習を免除するという特例を設けること、特任検事・副検事・簡易裁判所判事の経験者に対して、ロースクール合格及びそこでの教育、司法試験合格及び司法修習を免除するという特例を設けることにほかなりません。
しかし、そもそも弁護士法72条が法律事務の取り扱いを弁護士に限定したのは、国民の権利や財産に関わる事務の取り扱いをそれにふさわしい試験と修習を経た有資格者に限ることで国民の権利や財産を保護しようという趣旨です。とりわけ弁護士の場合、修習終了後も弁護士会による指導・監督に服するため、そのことを通じて国民の権利や財産を侵害するような行動が未然に規制されることが期待できます。しかし隣接法律専門職種や企業法務や特任検事・副検事・簡裁判事の経験者の場合には、法律事務を扱うにふさわしい能力の担保をどうするのか、その行動を指導監督する自治的組織が存在せず、監督官庁による上からの行政的・権力的監督に服していることによる弊害をどうするのかなどが全く明らかではなく、慎重な検討が必要だと思われます。
また、企業法務経験者や特任検事などに対する安易な法曹資格の付与の提案は、最終意見自身が「21世紀の司法を支えるにふさわしい質・量ともに豊かな法曹」を養成するために新しい法曹養成制度として法科大学院制度の新設を提案し、また司法試験及び司法修習の改革を提案していることと大きく矛盾するものと言わざるを得ません。
私たちは、最終意見自身が法曹人口の大幅増員を提案していることから、国民の権利と要求の実現に応えるための方策としても弁護士が対応する方向で改革が検討されるべきであり、安易に法律事務を取り扱う資格や法曹資格の付与を緩和すべきではないと考えます。また仮に隣接法律専門職種を活用する場合には、その質の向上・能力担保のための制度を整備すること、監督官庁からの自治の確保が必要だと考えます。
また、最終意見は、弁護士と隣接法律専門職種その他の専門資格者との総合的法律経済関係事務所(ワンストップ・サービス)の推進、外国法事務弁護士との提携・協働の推進、外国法事務弁護士等に関する制度及びその運用の見直しなどを提案していますが、この提案についても弁護士自治に対してどのような影響を与えるのかについての慎重な配慮が必要だと考えます。なぜなら、弁護士以外の隣接法律専門職種その他の専門資格者の場合には、弁護士会のような完全な自治は与えられておらず、それぞれの団体は監督官庁の監督に服しています。そのため、弁護士と他の職種が同一の事務所を構成した場合、協働している他の職種の監督官庁の監督に当該弁護士が服するという結果になるおそれがあるからです。そのことは弁護士が他の職種や法人に雇用されている場合には特に問題が大きいと考えられます。従ってこのような制度を認める場合には弁護士自治を侵害しないよう慎重な検討が必要です。
外国法事務弁護士との提携・協働も同様の問題があります。
最終意見は、最後に今後司法改革を実現していくために「内閣に強力な推進体制を整備」することを提起しています。しかし、「強力な推進体制」の構成についてはまったく触れていません。
最終意見では、重要な改革であるにもかかわらず個別具体的な内容について明確な方向が出されず、立法における課題とされた事項も多数残されています。例えば、国民の司法参加に関する新たな制度(裁判員制度、裁判官指名に関する諮問機関制度など)、弁護士報酬敗訴者負担制度、労働関係事件の対応強化策、行政の司法に対するチェック機能の強化等々です。特に、裁判員制度については、国民の司法参加を進めるうえで大きな意義付けをされているにもかかわらず、裁判員と職業裁判官の人数、裁判員の具体的選任方法、前提となる捜査・公判手続きの改革(被疑者の身柄拘束や取り調べのあり方、証拠開示、調書の証拠制限など)などは白紙の状態となっています。これらについて立法作業がどう進められるかはきわめて重要であり、立法内容如何によっては、制度の内容が大きく変わる可能性もあります。
7月1日に司法制度改革推進準備室が発足し、秋の臨時国会にも司法制度改革推進本部設置法(仮称)提出の予定とされています。現在、推進体制の骨格も明らかにされていませんが、伝えられるところでは、推進本部は閣僚で構成され、別途顧問会議を学者中心に設置するとされており、推進本部の構成メンバーに消費者団体、労働組合、市民団体などの代表の参加が保障されていません。準備室は推進本部ができた際事務局となる予定ですが、そのほとんどが各省庁の出向者とされており、このままでは推進体制は事実上官僚と一部学者メンバーで占められ、国民の代表は排除されることになります。
これが事実とすれば、こうした推進本部の体制は、国民の司法改革にそむくものであり、最終意見が強調している国民の司法参加を進めるという基本理念にも反するものと言わざるを得ません。準備室では、法律家団体、市民団体、消費者団体などの申し入れに対し、改革審の審議の段階と立法作業の段階とは異なる旨の回答をしています。しかし、最終意見が、裁判員制度について「この制度が所期の機能を発揮していくためには、国民の積極的な支持と協力が不可欠となるので、制度設計の段階から、国民に対し十分な情報を提供し、その意見に十分耳を傾ける必要がある」と述べているのは、立法化作業の段階においても国民の意思を反映する体制を要求するものであり、推進体制の構成から国民を排除するのはこれに反することは明らかです。
したがって、わたしたちは、立法化作業にあたって、@司法改革推進本部の構成メンバーに消費者団体、労働組合、市民団体など国民の立場を代表する者を参加させること、A司法改革推進本部の会議を公開する等、情報公開を徹底するとともに、パブリックコメントや公聴会を積極的に実施するなど、市民の意見・要望を反映させる制度を設けること、B推進体制の設置内容、時期など今後の立法作業の進め方について十分な情報を提供することを強く要求するものです。
最終意見は、司法制度改革を推進するために内閣が総力をあげて取り組むことを求め、内閣のもとに「強力な推進体制を整備すること」を最後に求めています。伝えられるところでは、今後3年間で司法改革関連法を成立させるとされています。4月に成立した小泉内閣は、構造改革の実行を政策の前面に掲げています。小泉首相は、改革審から最終意見を受けたときに、司法改革を「国家戦略の一環として位置付ける」と述べ、その決意のほどを表明しました。自民党内には国家戦略本部が設置され、本部長に小泉首相、最高顧問に中曽根、宮沢、橋本、河野、森の歴代自民党総裁がすわり、事務総長には保岡興治前自民党司法制度調査会会長が就任しています。構造改革を標榜する同内閣が、構造改革等諸改革の「最後のかなめ」である司法改革を文字通り政府の重要課題として立法化を急ピッチで進めることは容易に想像できます。司法改革をめぐる情勢は今後重要な局面に入っていきます。
こうした情勢のなかで司法改革をめぐる「2つの流れのせめぎ合い」が、ますます強まっていくことは必至です。わたしたちは、自民党・財界が、硬直した最高裁の官僚司法体制に対しその一部の変更を要求することがあっても、その「改革」要求が国民の利益とは反する方向の新自由主義政策に根ざしていることや歴代自民党政府が行ってきた司法抑圧と労働者・国民の裁判闘争に対する敵視政策が現在も変更されたわけではないということを忘れてはならないと思います。最終意見のなかに盛り込まれた前進的改革も常に後退、変質させられる可能性があること、国民の権利の擁護者として活動してきた弁護士、弁護士会に対する弱体化攻撃も警戒する必要があると考えます。
官僚司法体制を廃止し、司法を国民のための制度に改革することは、間違いなく国民の要求に根ざしており、国民世論の力を結集することによって、国会で国民のための司法改革を前進させることが可能であると考えています。
そして、わたしたちは、国民のための司法改革を一歩でも前進させるために法律家としてわたしたち自身もその責務を自覚しなければならないと思っています。そうした観点から弁護士任官や被疑者・被告人の公的弁護制度、弁護士過疎対策、法科大学院での法曹養成等について自由法曹団としても積極的に取り組む必要があると思います。
主権者は国民であり、司法は国民のものです。わたしたちは、これからの立法化作業で国民のための司法改革を実現するために全力を上げる決意を表明するとともに、広範な国民的運動を全国で巻き起こすことを呼びかけるものです。
2001年9月
編 集 自由法曹団司法民主化推進本部
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