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教育基本法「改正」問題についての意見―教育基本法にそった教育こそもとめられている―自 由 法 曹 団 |
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遠山文部科学大臣は2001年11月26日に中央教育審議会に「新しい時代にふさわしい教育の在り方」を諮問した。
私たちは,教育基本法,子どもの権利条約に立ち返り,一人一人の子どもが大切にされる教育の実現をこそ求められていると考える。
自由法曹団の提言と意見―教育基本法,子どもの権利条約に立ち返り,一人一人の子どもが大切にされる教育の実現を―
1 いま教育改革に必要なことは「政府・財界にとって必要な人づくり」「教育財政の圧縮」「教育産業への門戸開放」という視点でなく,なによりも,子どもたちの学習し成長する権利を中心におきながら,子ども一人一人の人格の全面的発達をどう実現するかという教育基本法,子どもの権利条約に立ち返ることである。 |
教育基本法は,教育憲法とも称されている。立法当時,高橋文相は1947年3月13日の衆議院本会議の提案理由の説明において,「この法案は教育の理念を宣言する意味で教育宣言である,あるいは教育憲章であると見れましようし,又今後制定されるべき各種の教育上の諸法令の準則を規定するという意味におきまして,実質的には教育に関する根本法たる性格をもつものであると申し上げうるかと存じます。」と述べた。 また,教育基本法の立法に携わった当事者による辻田力・田中二郎監修/教育法令研究会著『教育基本法の解説』は,教育基本法の性格について,「本法は,教育勅語に代わる教育宣言的な意味と,教育法における基本法即ち教育憲法的な意味とをかね有するものということができよう。」としている。
このように教育基本法が教育憲法であることは,最高裁判所1976年5月21日旭川学力テスト事件判決も「教基法は,憲法において教育の在り方の基本を定めることに代えて,わが国の教育及び教育制度全体を通じる基本理念と基本原理を宣明することを目的として制定されたものであって,戦後のわが国の政治,社会,文化の各方面における諸改革中最も重要な問題の一つとされていた教育の根本的改革を目途として制定された諸立法の中で中心的地位を占める法律であり,このことは,同法の前文の文言及び各規定の内容に徴しても,明らかである。」と判示して確認した。
教育基本法は前文と11条から構成されているが,日本の教育の重要な理念と原則を示している。
1 民主主義と平和主義の教育
教育基本法は,日本国憲法の「民主的で文化的な国家の建設,世界平和と人類の福祉に貢献」する理想の実現のために,「個人の尊厳を重んじ,真理と平和を希求する人間の育成」を教育の目標とする(前文)。この目標を達成するために「教育は,人格の完成をめざ」すこととされ(1条),このような教育は「あらゆる機会に,あらゆる場所において実現しなければならない」(2条)。
2 人権としての教育
憲法第26条の国民の教育を受ける権利を前提にして,教育の機会均等(3条),義務教育9ヵ年制(4条),男女共学(5条)などを掲げる。
3 学校の公共性と身分保障
国公私立学校は「公の性質」をもつものとされ,教員は全体の奉仕者であり,そのために,教員の身分保障,待遇の適正が保障される(6条)。
4 教育行政の任務と限界
教育行政は「教育は,不当な支配に服することなく,国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきもの」との「自覚のもとに,教育の目的を遂行するために必要な諸条件の整備確立を目標」とする(10条)。
教育基本法に示された原理・原則は,教育についての国際的な動向と軌を一にするものであり,今日においても十分有効性をもつものである。
1 子どもの権利や教育に関する国際文書としては,以下のものがある。
(1)国連「子どもの権利に関する宣言」(第14回総会,1959年11月20日)
(2)ILO・ユネスコ「教師の地位に関する勧告」(特別政府間会議採択,1966年9月21日〜10月5日)
(3)ユネスコ「国際理解,国際協力及び国際平和のための教育並びに人権及び基本的自由についての教育に関する勧告」(第18回総会採択,1974年11月19日)
(4)ユネスコ「軍縮教育世界会議最終文書」(1980年6月13日)
(5)ユネスコ・国際成人教育会議「学習権宣言」(1985年11月20日)
2 国連「子どもの権利に関する条約」(第44会期総会採択,1989年11月20日)
子どもの権利条約は,このようにこれまで蓄積されてきた宣言・勧告・条約などの国際文書を集約して,教育の目的を(a)人格,才能,精神的・身体的能力の最大の発達,(b)人権および基本的自由の尊重,(c)親,子どもの自身の文化的アイデンティティー・言語・価値の尊重,居住国と出身国の国民的価値や自己の文明と異なる文明の尊重,(d)諸人民間,民族間,国民間,先住民間の理解,平和・寛容・性の平等・友好の精神のもとでの自由な社会における責任ある生活の準備,(e)自然環境の尊重と明示する(29条)。
3 これら国際文書では,子ども自身に成長発達権があること,子どもには教育に対する権利があること,教育は,子どもの人格,才能並びに精神的及び身体的能力をその可能な最大限度まで発達させることをめざすべきであることがうたわれている。即ち,教育の目的は,子ども自身の人格完成にあり,教育権は子どもの権利であることが確認されているのである。教育基本法はまさにこうした現代の国際的な動向を先取りしているのである。
教育基本法「改正」の主張は改憲論とほぼ連動しこれと一体となって進められてきている。このことは歴史的経緯からも,内容的にも共通性があるという点からも,さらに「改正」論者の発言からも明らかである。
教育基本法の「改正」の試みとしては次のことがあげられる。
(1)1949年 教師,学生のレッドパージのための教育基本法第8条の改正案の検討
(2)1956年 「臨時教育制度審議会設置法案」の国会提出
(3)1960年 荒木万寿夫文相による教育基本法再検討の主張
(4)1964年 内閣にもうけられた憲法調査会における「改正」論議
(5)1974年 総選挙における田中首相の教育基本法全面「改正」発言
(6)1975年 西岡武夫自民党文教部会長による教育基本法廃止論
(7)1980年代 地方議会での「教育基本法改正」決議
以上のうちとりわけ(2)については,本格的な「改正」の試みであった。
この審議会は内閣におかれ,「教育に関する現行制度に検討を加え,教育制度並びにこれらに関連する制度に関する緊急な重要政策を総合的に調査審議する」ものと位置付けられた。当時の清瀬一郎文相によれば,その主要な狙いには第1に教育基本法の改正,第2に国(文部大臣)の教育内容に関する責任,監督権の確立,第3に大学をはじめとする学校制度の再検討の3点であるとされた。また鳩山一郎首相は「現行の教育制度は占領下という特異な情勢下に行われ,わが国の実情に即しない点もあるので憲法改正を待たずに提出した」と答弁している。この法案が提出された第24回国会には憲法調査会法案が提出されたことは周知のところである。国会は与野党の激しい対決の場となり,結果的にはこの法案は審議未了で廃案となったのである
1「押しつけ」論
いずれも「改正」の理由として憲法及び教育基本法が占領軍によって「押しつけられた」という問題点をあげている
すなわち教育基本法は占領下という特異な状況下で制定され日本国民が自主的な立場で行ったとはいえないので再検討する必要があるというのである。例えば岐阜県議会が80年に採択した教育基本法改正要求決議は次のように述べている。「この法律は被占領下に制定されたため,今日の独立国家の国民を教育する基本法としては必ずしも適切ではなく,とりわけ「伝統の尊重」「愛国心の育成」などの理念が欠けている」と。まさに「押しつけ」憲法論と同一論調である。
2「国情との不一致」論
1は内容的には日本の国情にあっていないとの論に通じる。すなわち,教育基本法の目指す人間像は「コスモポリタニズム」に基づく「無国籍」のものであって,日本の歴史・伝統・文化を踏まえたものではないという主張である。
このように教育基本法はわが国情にあわないという一方的な決めつけを行う論旨は,その「改正」によって新しく盛り込むべき内容としては「愛国心」「道徳教育」「宗教的情操」「家庭教育」などを強調することになる。
この点でも改憲論に相通じるのである。
3 今回の教育基本法「改正」が憲法「改正」と一体のものであることは,「改正」推進側が公言している。
1 中曽根康弘氏のシンポジウム「教育改革の目指すもの」の基調講演(2001年11月5日)
同氏は概略次のように述べている
(1) 教育基本法と憲法は不可分に結びついている。そしてそれらが国家の基本体系,精神体系をつくっていく。
(2) 憲法改正は既に国会で手がけているから,当然教育基本法改正というものは,まず第一に取りあげられなければならない問題である。
(3) 現行の教育基本法は,どの国にも通用する人間論・人格論からできていて,日本の歴史的・伝統的文化の尊重と国家・社会といった公の概念が全くない。これで果たして,日本国民として立派な子どもが育つのか,それがポイント
(4) 20,30,40代に憲法改正論が強いことは,日本の将来の喜びを感じさせる。教育基本法は憲法に先駆けて,その根をつくる大事なこと。憲法が幹でその根っこが教育基本法だから,まず根を造る必要性がある。
2 教育改革国民会議での議論
教育改革国民会議で出された改正が必要とする理由も次の4点だったという(藤田英典「新時代の教育をどのように構想するか」岩波ブックレットNo.533)。
(1) 現在の基本法は,50年も前の占領下で制定されたもので,現代の社会状況や教育課題に照らし十分なものではない。新しい時代にはふさわしい,独自の基本法をつくるべきである
(2) 郷土・国家・民族の伝統・文化に対する誇りの育成,宗教的情操の涵養など,国民教育としての重要な側面が盛り込まれていない。家庭教育の重要性が明示されていない。
(3) 現行法10条の「教育は,不当な支配に属することなく」行われるべきだという規定が,文部行政や校長の指導に反対するための根拠として一部集団によって濫用されている。
(4) 教育基本法以外にも種々の基本法があるが,その多くは基本計画の策定や財政措置等についても規定しているのに教育基本法にはそうした規定がない。
とりわけ(1)(2)については国民会議でも盛んに主張されたという。ある委員は「教育基本法は近代的人間像をもとにつくられている。三千年前から『人間は未知なる存在』という人間観から哲学や宗教が生まれたが,戦後このような考え方が全くなくなった。さらに文化,歴史,芸術をないがしろにしてきたことが大きな問題であり,この2つの理由から改正すべきだ」と述べ,またある委員は「教育基本法を含めた戦後の国家,社会,日本人の生き方を根本から問い直さなければならない。教育基本法もその様な観点から全面的に書き直す必要がある。」との趣旨で発言している(河上亮一著『教育改革国民会議で何が論じられたか』草思社208頁〜209頁)。このような発言から明らかなように,改正論者は憲法にもとづく戦後民主主義及び近代ヒューマニズムあるいは科学にもとづく教育を否定しているのである。そしてまた教育基本法に郷土愛,民族,国家の伝統や美徳等を書き込むというのは,具体的には教育内容まで踏み込んで国家の干渉を許すことであり,教育基本法の性格を根っこから変えることになる。
このように,国民会議の大勢の意見は憲法的価値観への否定的見解の下に,教育基本法「改正」を主張し,それが提言されたといえよう。
教育基本法「改正」論者は,今日の教育の危機について,あたかも教育基本法にその原因があるかのように主張するが,むしろ教育基本法をないがしろにした教育行政が行われてきたことこそが問題なのである。以下教育基本法をないがしろにした教育行政のうち,1,教育の目的を「人材育成」と位置づける「人づくり政策」の下での教育改革と2,教育に行政の支配介入を強める管理主義的な方向の最近の教育改革の二点にしぼって,問題点を指摘する。
1 1990年代財界の望む教育改革の方向
(1)1985年以降企業は,必要な時必要な人材を必要なだけ雇用する労働力の流動化政策をとるようになった。
日経連は1995年5月「新時代の『日本的経営』―挑戦すべき方向とその具体策」において,労働力市場の流動化についての具体的構想を示した。労働者を3グループに分割して,管理・統制するとされている。エリート層といえる「長期蓄積能力活用型グループ」は終身雇用が原則であるが,労働者の6割以上を占めると想定される「雇用柔軟型グループ」は,「有期雇用契約,時間給,退職金・年金なし」ということで不安定雇用者として想定される。
(2)これに対応して企業が求める人づくり政策は,終身雇用の正社員を大量に雇い入れていくという人材養成から,雇用流動化に対応する大量の不安定雇用者を必要とする政策へと転換されつつある。従って,小・中・高校における「平等」「画一的」公教育の体制は,かえって足かせとなった。同時に,発展途上国型の画一的教育体制こそが,教育荒廃と様々な子ども達の問題を生んでいる温床であると言うようになった。
1990年代に入り財界は,1991年6月「『選択の教育』をめざして」(経済同友会),1993年7月「新しい人間尊重の時代における構造変革と教育のあり方」(経団連),1993年7月「わが国の企業に求められる人材と今後の教育のあり方」(東京商工会議所)
等を発表し,「多種多様な個性・才能を重視」した「選択の教育」へ,「教育の規制緩和と選択の自由」「学校のスリム化」等を主張し始めた。
これは特に,1996年の経団連「創造的人材の育成に向けて求められる教育改革の機能と構造」,1995年経済同友会「学校から『合校』へ」等に端的にあらわれている。
これに応じ,政府も1997年年頭に橋本内閣が,これまでの五大構造改革に新たに教育改革を加えて「六大改革」とし,更には教育分野での「規制緩和推進計画」(1997年3月)や,中教審答申の発表等を通じて教育制度の弾力化,教育内容の多様化,教科書制度の改善などの政策を次々と掲げた。
そこでは,中小企業や大企業の底辺労働力をつくるような教育と,エリートをつくるような教育とは峰が違うのだから,一元的なピラミッド型の教育体系から「多峰型の」教育体制をつくる必要があると主張する。また公教育(学校)がやらなければならないことを縮小し,家族や地域にもっと責任を持たせる「学校のスリム化」も提言されている。公教育が分担してきた基礎的な教育部分を削って全体を縮小し,財政負担も少なくしようというのである。
これに基づき,既にいくつかの制度が実施されている。
中学校・高等学校においては,「横の多様化・複線化」が先行実施されている。また東京都足立区・品川区等では,学区の選択制が実施されている。また「飛び入学制度」(当初は飛び級進級も言われたが,反対が強く採用されなかった)「中高一貫教育の実施」が既に実施のはこびとなる等,改革は可能なところから急テンポで進められている。
また,「ゆとり」を確保するために,早期選別教育・それに対応した学校制度の多様化・複線化が言われている。つまり子ども達は「能力」に応じて多様な教育を与えられるべきで,数学ができない者に,無理して数学を教える必要がない。文科系に行こうとする者に理数を教える必要がない。必要がないものをたくさん教え込みすぎているので「ゆとり」がなくなっている。また,やりたくない子に無理にやらせようとするからストレスがたまるし,親の子に対する『幻想』が競争に追い立てて,いじめや不登校問題がおこる。そこで学校は,公教育としての必要最小限の基礎的なことを教育し,後はやる気がある子どもは,そのようなコースを選択し,そうでない子どもは「分に応じた」を選択できるようにする。こうして「選択の自由」の名の下に,早期に「能力」に応じた「選別」を行う(早期に棲み分ける)こと,それによって,その後に「ゆとり」が生まれるのだと主張している。それの具体化が2002年春からの学習指導要領の3割削減であるといわれている。
2 1990年代教育改革と教育基本法「改正」論
(1)高等学校における選択幅の広い教育課程の編成,単位制高等学校の拡大,中学校についての選択履修幅の拡大など,それぞれの段階での「横の多様化・複線化」がすすめられ,同時に「ゆとり」の中で「生きる力をはぐくむ」という大義名分の教育改革が実施されてきた。しかし,これらの改革によっても,従来から社会的な問題となっている不登校や学校内における暴力行為発生事件数,公・私立高等学校中途退学者等の数も一向に減少しなかった。
むしろ新たな教育の荒廃が指摘されている。それは子ども達を「学びから逃走させ」,勉強意欲,学校外の勉強時間の低下,学力の低下を招いている。日本の小学生,中学生の学校外での学習時間は急激に減少しており,いまや世界で最低レベルであるといわれている。
学びからの逃走は小学校高学年頃から始まっていて,その傾向は中学校の学年段階を通じて,少数の勉強熱心な子どもと,大多数の勉強嫌いの子どもに二極分化されている。多くの子どもは自らの「能力」に早々と見切りをつけ,将来への希望を持てない(持たない)状態に置かれる。その結果,社会的な事柄や知的な事柄に対する関心が持てない状態にある。しかもそれは,親の所得階層と比例しており,親が低所得の子ども程,勉強時間・意欲の低下が大きく,人生出発のプラットホームに立つために必要とされる学力すら身につかないまま,労働市場へ投げ出されているという,教育における階層化がもたらされていることが指摘されている。
(2)1990年代後半には日本の企業の海外進出が,教育に新たな要請を持ち込んできた。
1990年代初頭から,資本の海外進出の本格化にともない,その安全と利権の保護のための施策を求める動きが強まっていた。当初は,「国際貢献」の名のもとに,自衛隊派遣や米軍の後方支援を強化するための法制度の整備がなされた。そして,将来展望として,憲法「改正」に向けた地馴らしと,国民意識の改編も必要となってきた。国旗・国歌法の制定,憲法調査会の設置等とともに,教育に対してもナショナリズムを涵養するという課題が課せられたといえるのではなかろうか。
(3)政府が首相の私的諮問機関として教育改革国民会議をつくったのは,こうしたいくつかの要因による改革路線修正の要請に基づいている。国民会議の答申には,教育が子どもの可能性を開花させ,主権者としての自覚にもとづき,子どもが自ら社会と歴史を切り開く力を育てるという視点は希薄で,早期の「能力」による選別と棲み分け,社会への適応と日本人としての自覚等を打ち出している。また現在の教育崩壊の原因を,自由と個人のみを強調した戦後教育基本法体制に求め,規範教育・奉仕の義務化と並んで教育基本法「改正」を謳っている。
こうした一連の「人づくり政策」は子ども自身がもつ学習権を保障するのではなく,企業や国家に「役立つ人材づくり」という点から教育をとらえる点でも,子どもの権利としての学習権を保障している教育基本法をないがしろにした教育政策といえる。
基本的人権保障を理念とする現行憲法の精神に則った教育理念を示している現行教育基本法のもとでは,教育行政の教育内容への支配・介入に関しては慎重であるべきことが,常に意識されてきたところであった。
教育基本法制定当時の解説をみても,戦前の教育制度は,「教育行政上の権能を中央政府に統轄」していたが,この結果,「地方の実情に即する教育の発達を困難ならしめるとともに,教育者の創意工夫を阻害し,ために教育は画一的に流れざるを得(ず)」,また,「教育行政が教育内容の面にまで立ち入った干渉をなす事を可能にし」,その結果「時代の政治力に服して,極端な国家主義的又は軍国主義的イデオロギーによる教育・思想・学問の統制さえ容易に行われるに至らしめた制度であ(り)」,「このような教育行政が行われるところに,はつらつたる生命を持つ,自由自主的な教育が生まれることは極めて困難であった」とされ,このような歴史的反省から,現行教育基本法10条は,教育と教育行政を分離して,教育行政の教育内容・方法への介入・支配を禁じ,教育行政は「教育内容に介入すべきものではなく,教育の外にあって,教育を守り育てるための諸条件を整えることにその目標を置くべきだ」とする趣旨であるとされていた(前掲 辻田力他監修「教育基本法の解説」)。
しかし,その後,政府・文部省は「支配の手続が法律で定められた合法的なものであれば,・・・内容の正当性を推定せしめ不当な支配とはならない」とか,「教育は教育行政そのものである」とか,現行教育基本法「第10条1項の教育には教育行政も含む」とする行政解釈をして(文部省地方課法令研究会編著,全訂学校管理読本),学習指導要領や教科書検定などの形での,実質的教育内容介入が行われてきた。
その様な中でも,例えば旭川学力テスト最高裁大法廷判決(1976年5月21日)などでは,「…教育に対する行政権力の不当,不要の介入は排除されるべきであるとしても,許容される目的のために必要かつ合理的と認められるそれは,たとえ教育の内容及び方法に関するものであっても,必ずしも同条の禁止するところではない」とされ,学習指導要領は「必要かつ合理的な」「大綱的基準の設定として是認することが出来る」とされたが,一方で「教育行政機関が行う行政でも…『不当な支配』に当たる場合があり得ることを否定できず…教育関係法律は教基法の規定及び同法の趣旨,目的に反しないように解釈されなければならないのであるから,教育行政機関がこれらの法律を運用する場合においても,…教基法10条1項にいう『不当な支配』とならないように配慮しなければならない拘束を受けているものと解される」とされた。
そのため,教育行政機関による教育内容統制が,あまりに細目にわたり,詳細に過ぎたり,法的拘束力をもって地方公共団体を制約して教育に関する地方分権を制限したり教師を強制することがあれば,教育基本法10条に違反する可能性があり,教育行政は,教育の条件整備・外的事項が基本であり,教育の内的事項に関しては,大綱的基準にとどめるか,指導助言にとどめるべきであるという問題意識のもとに,同条は,教育内容統制の慎重性を基礎づける裁判規範性をもってその規定の運用がなされてきていた。
しかしながら,実際には,既に進行している教育行政による教育内容介入統制に伴って,教育の現場に不当な支配がもたらされ混乱に陥っている現状が見受けられる。
例えば,学習指導要領の「法的拘束力」問題を媒介に,国旗・国歌法が制定されたこととの関係で,学習指導要領に基づいて国旗・国歌を指導しようと強制する事態が発生し,学校現場で,子どもや保護者,教師の思想信条の自由を侵害したり,子どもの意見表明権を軽んじたりといった混乱がもたらされている。
かつて教科書裁判で問題化したように,教科書検定による教育内容介入の問題性は,子どもの学習への権利の制約の問題となるばかりでなく,アジア諸国の国民からも注目されるところであり国際的な理解・協調・平和の観点からも問題を招いている。
また特に,2002年4月から実施されている新学習指導要領の学習内容の削減にともなう「学力低下」への懸念が,子どもや保護者に不安をもたらしている。
そして最近では,教育改革国民会議の最終報告に「教員の資質向上と学校運営の改善」とあるところに基づき,昨年,地方教育行政組織運営法「改正」によってなされた「不適切教師」配転・免職制度の新設をとおして,各教師の教育内容に介入していくことを「合法化」する動きが顕著である。以上のような教育行政のあり方は教育基本法をないがしろにしているといわざるを得ない。
1 諮問の内容
諮問は,前文について,法律全体の在り方に即して検討を行う必要があるとする。
さらに,教育の基本理念を@時代や社会の変化に対応した教育という視点,A一人一人の能力・才能を伸ばし創造性をはぐくむという視点,B伝統,文化の尊重など国家,社会の形成者として必要な資質の育成という視点から検討するとする。
2 前文の変更が意味するもの
1 人間の育成をめざす教育基本法
教育基本法前文は「個人の尊厳を重んじ,真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに,普遍的に個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。」とする。
また,1条では「教育は人格の完成」をめざし「平和的な国家及び社会の形成者」として「国民の育成を期す」とされている。
2 人材の育成をめざす諮問
これに対し,諮問は,「理由」として「東西の冷戦構造の崩壊後,世界規模の競争が激化する中で,我が国の経済,社会は時代の大きな転換点に立っている。このような厳しい状況の中で,21世紀に向けて,我が国が果敢に新しい時代に挑戦し,国際社会の中で発展していくためには,国の基盤である教育を改革し,新しい時代にふさわしい人材を育成することが急務の課題となっている。」とする。ここには教育の課題は「新しい時代にふさわしい人材の育成」にあることが明確にされている。
教育が,子どもを「人間」として育てるのか,何かの役にたつ「人材」として育てるのかでは質的な違いがある。
また諮問は「人材の育成が重要」との観点から「人は一人一人違っているということの価値を再確認して,一人一人が持っている能力・才能を伸ばしていく」ことを強調している。そこには,できる子を早く見出し,その子の能力を伸ばす教育を行うべきとの立場がある。差別と選別の教育を助長することになりかねない。
さらに「諮問」では,検討の視点として,「伝統,文化の尊重など国家,社会の形成者として必要な資質の育成」ということが言われている。
教育は何よりも,まず「人間」を育てること,そしてその人間の人格の完成をめざして行われなければならない。勿論,その結果として「平和的な国家形成者」が育ち社会に貢献することになるのであるが,最初から何かの役に立つ「人材」として育てることを目的としてはならない。戦前の「お国のために生命を捧げる」「国家有用の人物を錬成する」ことを目的とした偏った国家主義的教育を改めようというのが,教育基本法のねらいであった。さらにそこには,単に国家にとってだけ有用な国民としてではなく,広く国家及び国際社会を含む社会の形成者としてふさわしい条件(真理と真義を重んじ,個人の価値をたっとび,勤労と責任を重んじ,自立精神に充ちた)を具えた心身ともに健康な人間を育成することが要請されているといえる。こうした教育によって育成された人間こそ国際人であるとともに,真に日本国民としても誇れる人間になるのであり,このような人間にはじめて普遍的であるとともに,しかも個性豊かな日本文化を創造することが出来るのである。
日本文化や伝統をも大切にすることは大事である。しかし,日本の文化や伝統を強調するあまり,日本の国や日本国民が,他の国々の人々より優秀だと考え,他国の人々を見下げる偏狭なナショナリズムであってはならない。また,世界に通用する普遍的な文化の形成者を育てることを目的としている教育基本法は,現在の国際化社会では十分対応できる基本法である。教育はひとりひとりの子どもを大切にして,そのひとりひとりが本当にその能力を発展させ,人格を完成させることが重要なのであり,最初から「能力には違いがある」として「できない子にはそれなりの」教育をすればよいというような選別教育は憲法の理念に全く反するものであり,国民が願う教育とも大きく隔たるものといえよう。
1 義務教育(第4条)
1 諮問の内容
諮問は,「義務教育は近代国家における基本的な教育制度として憲法に基づき設けられている制度であるが,制度の在り方について,例えば,一人一人の能力の伸長を図るという視点,あるいは家庭の果たすべき役割と学校教育との関係といった視点から,議論する必要があると考える」とする。
2 諮問の問題点
この諮問が想定していることは必ずしも明確ではないが,現在の「9年間」「普通教育」「義務教育」の制度のコア部分は維持しつつも,たとえば教科や進路の選択のバリエーションを豊富にする等により,これらの制度の実質的な改変(希薄化・空洞化)の答申を期待しているとも考えられる。
そこでは,「一人一人の能力の伸長」・「家庭の果たすべき役割と学校教育との関係」等の言葉によって理由付けがおこなわれるであろうし,「例外的に」「特例として」「部分的に」などといった修飾語が付せられるであろう。しかしながら,小学校・中学校などの公教育・義務教育という段階は,人間が社会生活を営むうえで必要な最低限の基礎知識・基礎学力をつける場であって,すべての子どもが自立して生きていくための力を身につけるためにおこなわれるべきものである。近代社会におけるこのことの重要性が自覚されたからこそ,これを全ての国民の権利として保障し,反面において保護者の義務ともしているのである。
高等学校が普通科と職業科とに区別されていることは周知のことがらであるが,近年にいたってはさらに多くのコース設定に分けられている。そして,現在ではこれは義務教育段階にまでおよぼされ,中学では,先んじて導入された実技4教科をこえて国語・数学・理科・社会までに選択教科制が設けられ,さらには社会と理科の一定分野では小学校5年6年でさえもおこなわれるにいたっている。すなわち,誰もが等しく教育を受けられるはずの小学校・中学校において,子どもによって内容が異なる教育がおこなわれることが既に現実となっているが,義務教育にそれらを持ち込むことは問題である。
2 宗教教育(第9条)
1 諮問の内容
「諮問」は,宗教的な情操をはぐくむという観点から,教育基本法第9条(宗教教育)の見直しを求めている。
2 諮問の問題点
(1)第9条(宗教教育)を見直す動きは,戦後,国家神道体制,言い換えればナショナリズムの復活を目指す動きと呼応して行われた。
例えばすでに,新憲法の審議過程において政教分離と信教の自由規定が不動のものであることが明白になったとき,この規定のもとでは,「教育勅語」教育を支えた「宗教的情操教育が否定される」ことを懸念し,第90回帝国議会衆議院において,「宗教的情操に関する決議」(1946年8月8日)がされたが,その提案理由の中で,「終戦後ノ無秩序,道義ノ頽廃,或イハ不公平ナル食糧ノ配給等ハ皆宗教的自覚ガナクナツタカラ」とした上,「我ガ皇室ハ『兄弟二友』ト教エテ居ルノデアリマスガ,何レモ愛ヲ隣人ニ及ボスコト」と述べられている。ここには,宗教的情操を媒介として「教育勅語」の道徳原理を復活させる意図がみられる(衆議院議事速記録29号「官報号外」昭和21年8月16日437頁)。
今日,教育基本法「改正」の内容として,宗教的情操教育が強調されているのも,ナショナリズムの復活を目指す意図からである。
国旗・国歌法の成立,小泉純一郎首相の靖国神社公式参拝,「つくる会」教科書の出現という今日的動きは,明らかにナショナリズムの復活を目指す動きとみることができる。その動きの中核をなしているのが日本会議である。日本会議は,1997年5月に「日本を守る会」と「日本を守る国民会議」が統合して設立された。その設立趣意書の中では,「世界有数の経済大国を誇った我が国も,かつての崇高な倫理観が崩壊し,家族や教育の解体などの深刻な社会問題が生起し,国のあらゆる分野で衰退現象が現出している」として,「我が国の良き伝統・文化を次代を担う青少年に伝える啓蒙運動を強化することが求められている」と述べられている。そして,「家族制度の軽視や行きすぎた国家と宗教の分離解釈」などを理由に新憲法の制定を求めている。
宗教的情操教育を認める方向で教育基本法第9条を見直そうとする議論は,憲法「改正」をはかろうとする姿勢と同一の動きということができる。
(2)宗教的な情操をはぐくむという観点から教育基本法第9条を見直すことは,政教分離原則(憲法第20条,同第89条)に違反する。
すなわち,教育基本法9条は,1項で,「宗教に関する寛容の態度及び宗教の社会生活における地位は,教育上これを尊重しなければならない。」と規定し,2項で,「国及び地方公共団体が設置する学校は,特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない。」と規定する。
この規定は,憲法20条(信教の自由,国の宗教活動の禁止),および89条(公の財産の支出又は利用の制限)の規定をうけて,学校教育上,信教の自由をどう保障し(9条1項),その前提としての政教分離がいかに適用されるべきかを示して,学校教育の宗教的中立性(9条2項)を宣言したものである。
もちろん,本条は,国公立の学校が宗教教育や宗教活動をすることを禁じた規定であって,私立学校に適用されるわけではない。
8条(政治教育)とならんで,宗教的中立性が規定されていることは,戦前の国家神道体制が,学校教育を通じて国家的宗教を強制したばかりか,これを侵略地の諸国民に強制し,学校が国家規模の宗教教育の布教所として軍国主義と極端な国家主義の思想教育の場となったという,日本の特殊な歴史的経験を背景としている。
この観点から,宗教的な情操をはぐくむという観点からの見直しの是非が検討されねばならない。
(3)では,一般的宗教教育や特定に偏らない宗教教育=宗教的情操教育であれば認められるのであろうか。
立法の経緯及び憲法の規定する政教分離原則の趣旨からみて,宗教的情操教育は許されない。
また,宗教的情操教育が許されるか否かの議論は,戦前の宗教教育行政の歴史を踏まえてなされなければならない。
わが国では,教育と宗教は戦前の国家神道体制のもとできわめて特殊な展開をとげてきたことを考えると,宗教的情操教育を国公立学校で行うことは,新憲法の国民主権,政教分離原理と到底相いれない。
以上のとおり,宗教的情操をはぐくむという観点から教育基本法第9条を見直すことは許されないと言うべきである。
1 諮問の内容
諮問は,@ 家庭教育や社会において行われる教育については,社会教育に関する規定(7条)の中で触れられているが,家庭や地域社会等の教育に対する役割の重要性を十分踏まえ,その役割を明確にする観点から議論する必要がある,A 学校教育に関する規定(6条)について,学校についても,その役割や教員の使命について明確にする観点から議論する必要がある,としている。
2 社会教育に関する規定の見直しに含まれる問題点
諮問中の,「教育の原点は家庭にあり,基本的な生活習慣や倫理観,自制心,自立心など基礎的な資質や能力を育成する場として,家庭が教育に対して果たすべき役割はとても大きいものがある」との前提についてはあまり異論はないであろう。
しかし,それは各家庭において親が自覚を持って行うべき事柄であって,国や地方公共団体から強制されるべきものではない。教育改革国民会議報告の提言のなかには,家庭ごとに「しつけ3原則」と呼べるものをつくる,家庭教育手帳,家庭教育ノートなどの改善と活用を図るなど述べているが,まさにこのような干渉こそ,家庭における教育の独自性を否定し,画一化をもたらすものである。このようなやり方では,1人ひとりの才能を伸ばし,創造性に富む人間を育成することは困難である。
また,家庭の事情も千差万別であり,現実に親の労働状況・経済状況から家庭教育を十分出来ない家庭は存在するのであって,そのような家庭の子どもについては,地域や学校がフォロウすべきであり,それが公教育の課題でもある。また,十分な教育機能を発揮するためには,労働時間や男女の労働のあり方その他の社会的条件の整備が不可欠なのであり,それらを解決しないまま,いたずらに家庭教育に過大な役割を負担させることは,教育の市場主義を強めひいては階層化社会を創りだすものであるから避けるべきである。
3 学校教育に関する規定の見直しの問題点
教育改革国民会議第2分科会では,学校規定の見直しの一環として,新しいタイプの学校の提案のなかで,「新しいタイプの公立学校(コミュニティ・スクール)の可能性の検討を示唆している。これは,「公設民営」型の学校(アメリカのチャータースクール)を目指すものと思われる。
しかし,当該制度は,地域独自のニーズ,教育の多様化の名目の下に行われてはいるが,明らかに教育の市場化を進めるものであり,また他方では日本国民として国政に参加し,決定していくための最低の教育レベルを子どもに確保するという公教育の基本的命題をもなし崩し的にうやむやにしていくものであり問題である。
4 教師の使命の強調
教師の使命は,子どもに日本国民として国政に参加して判断しうる基本的知識を授けることであると思われるが,諮問の内容からは,さらにどのような使命を想定しているのか明確でない。
しかし,戦前の教訓からも明らかなように,過度の使命の強調は教師に対する統制の強化として利用される可能性があるので,問題がある。
1 諮問の内容
諮問は,@「教育行政(10条)については,教育が不当な支配に服してはならないとの原則を維持しつつ,教育振興基本計画の在り方とともに,国,地方公共団体の責務について,その適切な役割分担を踏まえて,教育施策の総合的・計画的な推進が図られるよう,明確にする観点から検討する必要がある」。A 教育基本法の在り方に関する諮問と併せて「教育振興基本計画の策定」に関する諮問がなされ,そこでは,「教育に関する施策の基本的な方針として」の「教育の目標」,「目標を実現するための教育改革の基本的方向」,この目標達成のための具体的施策を示すべき事項として,「初等中等教育の教育内容等の改善,充実」に関する事項,「教員の資質向上と学校運営の改善」に関する事項,「高等教育の整備充実」に関する事項があげられ,「総合的かつ計画的に教育施策を実現するために必要な教育投資の在り方」,及び「計画の推進に関して政府及び地方公共団体の役割,政府及び地方公共団体の連携」について検討する,としている。
2 教育内容統制につながる危険
上記二つの「諮問」を全体としてみるならば,「教育内容」に関する事項,「教員の資質向上と学校運営に関する事項」をとおして,「不当な支配に服してはならないとの原則は維持しつつ」,とはいいながらも,教育行政が教育内容介入を行う意図が明らかにされていると見ざるを得ない。
本諮問は,教育基本法10条を,教育内容統制に関して改組・拡大しようとするものであって,教育基本法の歴史的原点に係わる重大な変更・「改正」を目指すものと言わざるを得ない。
教育の条件整備を超えて,教育内容に関して,国が一律の基準を設け,教育行政をとおして,地方公共団体や教育関係者にこれを強制し押しつけていくことには,教育の本旨に照らして問題があることは,前述したように現行教育基本法の制定当時の解説(前掲 辻田力他監修「教育基本法の解説」)に述べられているとおりである。
3 国の教育財政負担を地方自治体に押しつけるもの
本諮問はまた,「国と地方公共団体の役割分担の見直し」を謳っているが,これが,国の財政赤字を解消するため,国の教育に関する財政負担を軽減し,地方公共団体に財源を渡さずに国の教育予算を削減して,国の教育行政上の条件整備義務を軽減する目的に出たものであるとすると,教育の機会均等を保障する公教育の在り方として問題があると言わざるを得ない。公教育は,国と地方公共団体が,地方の実情に応じてそれぞれになうべきものではあるが,地方財政の如何によって教育の質が異なってくる事態は避けるべきであり,むしろ,地方財政の格差を補完して,全国どの地方にあっても,必要・充分な教育の質が確保されるよう条件整備を行うに必要な財政的保障を行うことが必要である。
また,併せて諮問されている教育振興基本計画の検討にあっては,教育投資の在り方についての検討が含まれているが,ここで単純な費用対効果の議論がなされるとすると,教育効果は,その場で即効的に現れるものではなく,その子どもの10年後,20年後に効果が現れるという性質のものでもありうるので,経済原則優先の効率主義による費用対効果論による検討が相応しくないことは言うまでもない。
1 いじめ,不登校,学級崩壊,非行問題などに象徴される子どもをめぐる深刻な状況は,日本の教育の構造的現象となっており,教育改革問題は,教育に関わる人たちはもちろん,広く国民的重要課題となっている。
子どもたちをめぐる教育環境は,弱肉強食の競争・マネー万能・暴力やセックス情報の氾濫など,現代社会にも大きく影響されているが,同時に学校自体が,このような社会に深く組み込まれながら,過密で競争的な教育を通じて,子どもたちにストレスを蓄積してきたのが特徴である。
2 いま政府の手で押し進められている「教育改革」は,基本的には,政府・財界の人づくり政策の貫徹であり,子どもたちがおかれている深刻な状況を,子どものたちの自律性・人格や人権を尊重することによって克服しようとするものではない。
学習指導要領による中央集権的な教育制度や,多人数学級での詰め込みと競争教育の弊害については,教育関係団体を中心に,粘り強く改善の運動が取り組まれてきた。政府が押し進める「教育改革」は,子どもたちが置かれた現実や,これらの運動に影響されつつも,より本質的には,自らの人づくり政策を貫徹する方向にある。
3 文部科学省は,「ゆとり」教育と称して,学習指導要領の内容の3割削減,学校5日制を実行してきているが,「ゆとり」の下に教育の階層間格差が生じ,教育における「平等」がそこなわれていることは前述のとおりである。一方で,国旗・国歌法が制定され,家庭の躾,道徳教育の強化,奉仕の強制など,復古的で従順な人づくり政策が押し進められている。また学内では,校長を中心とした管理体制を強化し,教員評価を通じての教員管理を強化しようとしている。このような体制が強化されるならば,子どもたちの自律性や人格の尊重は,わきにやられ,より管理的な学校体制がつくられていく危険性がある。
「自由な選択」の名の下で,現実には「できない子」は放置され,「できる子」は一層競わせる結果となり,学校が抱えている矛盾が一層拡大する危険性がある。
少人数学級についても,国の財政責任で対応するのでなく,矛盾の解消を一切自治体に負わせようとするのは全く無責任である。規制緩和による公教育の教育産業への無制限の門戸開放政策は,国の公教育に対する財政責任を放棄すると同時に,公教育を教育産業に委ねようとする無責任な政策といえる。
4 現在進められている「教育改革」は,形を変えた管理と競争の学校を形成しようというものであり,また公教育に対する国の財政責任の放棄と,教育産業への無制限門戸開放など,政府・財界の思惑を色濃く反映したものとなっている。
このような「教育改革」は,現代の教育・子育て問題の矛盾を解決するどころか一層深刻な事態においやり,明るく健全な子どもの成長を願う,親や国民の願いとは相いれないものであり,人類が到達した子どもの権利条約が示す「子どもの自律性,人格の尊重」を基本とする理念と相いれず「子どもの最善の利益の確保義務」からも著しく逸脱するものである。この意味において,21世紀を担う国民的な教育理念とはなりえないものである。
5 教育基本法の「改正」はこうした「教育改革」を押し進めるための法改正であって,国民のねがう教育改革とはかけ離れている。
いま教育改革に必要なことは「政府・財界にとって必要な人づくり」「教育財政の圧縮」「教育産業への門戸開放」という視点でなく,なによりも,子どもたちの学習し成長する権利を中心におきながら,子ども一人一人の人格の全面的発達をどう実現するかという教育基本法,子どもの権利条約に立ち返ることである。
今まで検討してきたように,進められている「教育改革」と教育基本法の「改正」は,日本の子どもたちがおかれている困難な状況を克服するものでなく,逆に一層深刻な事態に追いやる危険性がある。私たちは,今回の教育基本法「改正」に強く反対するものである。
以上