事件ファイル-1
HIV 薬害エイズ事件

東京支部
水口真寿美 みなぐちますみ
41 期
東京HIV 訴訟、変額保険訴訟、らい予防法人権侵害謝罪、国家賠償訴訟などを担当。1997 年6 月に発足した市民による医薬品監視組織「薬害オンブズパースン会議」の事務局長をつとめる

 1996 年2 月16 日、3 日間と決めていた座り込み最終日、厚生省前の日比谷公園には朝からみぞれが舞い始めた。原告らの体力も限界に近づいていた。
 座り込みの目的はひとつ、「大臣の謝罪をとる」である。各々の持ち場で連絡を待っていた弁護団員のもとに、いよいよ菅直人厚生大臣(当時)が原告らに厚生省内で会うとの連絡が入った。マスコミに顔を出してもよい原告は厚生省の正面玄関から、匿名原告は厚生省裏入口からそれぞれ入場することとし、弁護団員は、誘導と警備のために二手に分かれて走った。
 そして会見。
 狭い厚生省会議室に原告らとともに入った私たちは皆、大臣がどこまで踏み込んだ言葉を口にするのか固唾を飲 んで見守っていた。マイクを握る大臣。「・・本当に申し訳ありませんでした。」大臣が深々と頭を下げたその瞬間、後ろの方で悲鳴にも似た母親の声がした。しばらくすると、あちらこちらからすすり泣く声。歴史的な大臣の謝罪の瞬間だった。しかし、この時点で企業はまだ責任を認めていなかった。1 ヶ月後、私たちは原告や支援者とともに、大阪と東京で被告企業のビルを取り囲んでいた。

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 輸入血液製剤によってHIV に感染した血友病患者が、国と製薬企業5 社を被告として、1989 年に東京、大阪で提訴した薬害エイズ事件は、1995 年3 月に結審、同年10月の裁判所和解所見を経て、1996 年3 月29 日、被告らの責任を明確にした和解が成立し、一応の解決をみた。

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 「薬害エイズは運動で獲った」という人がいる。
 それほどこの事件の運動はすごかった。結審後、若い原告・川田龍平さんの実名公表や弁護団の様々な仕掛けが実を結び、「フツーの学生」「フツーの市民」を巻き込んで大きなうねりとなっていった。毎日どこかで弁護団の誰かか呼ばれて講演をしていた。「人間の鎖」では「あやまってよ95 」のスローガンのもと3000 人の学生が厚生省を取り囲んだ。「ラップのパレード」もあった。「はがきの嵐大作戦」なんて命名した運動もあった。支援者達がどんどん自分たちなりの運動を工夫したのである。もちろん署名も、自治体決議もあったし、「座り込み」もあった。先人に学びながらも既存の組織に依存しない、新しい運動をつくろうとした。政党との距離もしたたかな全方位。「政府与党を動かす」これに何が必要かを考えた。マスコミ対策も当初から担当を決め位置づけた。
 しかし、運動で獲ったというのは、当然のことながら半分正しくて半分正しくない。
 原告番号での原告特定、我が国の裁判史上初の公開法廷に衝立を立てた原告本人尋問、立証準備のための米国への調査団派遣など。様々な工夫と努力を重ねながら、専門家証人尋問を1 ヶ月半毎に1 回全1 日、原告本人尋問を毎週1 回全1 日3 ヶ月集中で行った5 年5 ヶ月に及ぶ法廷。弁護士としての力量を発揮しつくした訴訟活動がなければ、あの裁判所和解所見を引き出すことはできなかった。原告勝訴判決のような和解所見には私たちの法廷活動が確かに反映されていた。和解所見は運動の大きな拠りどころだった。

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 薬害エイズ事件での弁護士活動は和解後も終わらなかったし、今も終わっていない。厚生省の資料隠し発覚に対する国民の怒りを武器に、和解後は舞台を国会に移して証人喚問を実現させた。もちろん弁護団は国会質問用資料を作成して奔走。連日のように記者会見をしては世論を喚起した。この世論の後押しのもと、検察は医師と厚生官僚の起訴に踏み切ったのである。そして現在、弁護団は血液事業の政策提言、厚生省との継続的な医療協議や薬害オンブズパースンなど、制度改革を視野に入れた活動を続けている。

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