事件ファイル-2
差別を21世紀に持ちこさない
東京電力人権裁判をたたかって

群馬支部
飯野春正 いいのはるまさ
19 期
元自由法曹団群馬支部長・元群馬弁護士会会長
安中公害弁護団・東電裁判統一弁護団長

企業と憲法

 企業においても憲法の保障する思想信条の自由は守られなければならないと考えるのが、私たち法律家の常識ですが、実は日本の企業では反対に企業の中では憲法は通用しないという「常識」が長い間まかり通ってきました。
 東京電力は世界一の民間電力会社ですが、わが国では反共労務政策のチャンピオンで、思想差別のリーダーであったのです。共産党員、支持者に対する賃金差別は年間で200 万円をこえるという極端なもので、これに加えて転向強要、不当配転、社宅入居拒否から結婚式妨害に至るまでさまざまな人権侵害が公然と行われてきました。
 この人権侵害、賃金差別が憲法に照らし許されないことを裁判の場で明確にし、これらをやめさせようと、東京電力の労働者142 名(後に2 次原告を加え165 名)が立ち上がりました。1976 年10 月のことでした。大企業の反共労務政策の厚い壁に大きく風穴をあけるたたかいが始まったのです。

分散提訴と統一弁護団

 これは賃金差額(同期同学歴者の平均賃金との差額)と慰謝料一律300 万円の支払いを求める損害賠償請求訴訟で、統一訴状により東京、横浜、千葉、前橋、甲府、長野の各地裁に分散提訴しました。分散提訴を選んだのは、各地で自力でたたかいを進めながら地域の広範な人びとと結びつきを強め、世論の支持を得て裁判にも勝利することによって、所期の目的が達せられると考えたからでした。
 原告団は単一組織でしたが、弁護団は81 名の弁護士が都県ごとに弁護団をつくり、その主体性を尊重しながら統一弁護団に結集する方式をとりました。
 統一弁護団は単なる経験交流ではなく、各地の裁判の情勢を分析し、知恵を出し合い、ときに不十分と思われるところを補い合い、共同の作業をすすめてきました。
 会社は反共労務政策を否認し、原告らが共産党員、支持者であることは知らないとし、人権侵害事実を否認しました。また賃金格差の認否を拒み、原告らの賃金が低いのは原告らの職務遂行能力が低く勤務成績が悪いからだと主張して裁判の長期化をはかり、個別立証に入ると原告1 人当たり3 〜4 人のいわゆるあらさがし証人を立てて原告らに悪罵をあびせたのです。このため、私たちはまず総論立証に力をつくしながら支援の輪を広げて会社を圧倒し、その力で個別立証の時間を短縮する作戦をとりました。
 そして終盤では各地の運動の状況や法廷でのたたかいの到達点などを分析して裁判所を決め、連続結審、連続判決をとっていきました。

連続勝訴から全面解決へ

 原告4 名の長野から51 名の神奈川まで原告数には大きなバラツキがあるなかで、93 年8 月の前橋から94 年11月の横浜までわずか1 年3 ヶ月の間に集中して、東京を除く五つの裁判所で当該(1 次)原告94 名全員が勝訴判決をとって、解決交渉に入ることを会社に決断させました。そして自主交渉を進める中でさらに東京地裁で証拠調を終了して「結審直前」の状況をつくり、全面解決(高裁での和解)を実現しました。提訴から19 年を経た1995 年12 月25 日のことでした。
 解決内容は、2 次原告を含め、第1 に職級・職能等級、職位、資格および賃金の是正。第2 に解決金の支払い。第3 に将来にわたって原告らを公平に取り扱う約束です。この結果、在職原告全員がこれまで決して就けなかった主任、副長などの役職に就き、職場での影響力を強めています。賃金は月額で約13 万円是正されました。

自由法曹団の作風

 このたたかいの勝利の要因として、原告団の固い団結と力量、そして強力な支援の運動がマスコミをも巻き込 んで世論をつくったことが挙げられますが、もう一つ自由法曹団の作風が生かされたことだと思っています。
 自由法曹団の作風とは、本来一人ひとりで活動をすることをたてまえとする弁護士が自主的に団結し、労働者・市民と結んで大きな力を発揮すること、加えて個人は名を追わず功を競わない活動のありよう、そして困難はすすんで引き受け、成果は全体のものにする心がまえです。
 この裁判の全面解決の後、1997 年11 月11 日には中部電力の裁判が、次いで1999 年12 月8 日には関西電力の裁判がいずれも全面解決し、電力産業では「差別を21世紀に持ちこさない」との協同の課題が達成されました。

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