事件ファイル-7
1世紀にわたる人権侵害
ハンセン病国賠事件

東京支部
中西一裕 なかにしかずひろ
42期
薬害エイズ訴訟、過労死事件、政教分離訴訟等に取り組むほか、弁護士会でも司法試験改革問題などの司法問題で活躍している。自由法曹団では事 務局次長を2 年務めた。

3 地裁で国賠訴訟提起

 1996 年に廃止された「らい予防法」の強制隔離政策による被害の回復を求めて、熊本、東京、岡山の3 地裁でハンセン病元患者らが国家賠償請求訴訟を提起し闘っています。自由法曹団からも豊田誠団長以下多くの団員が弁護団に参加して活動しています。

「日本のアウシュビッツ」

 ハンセン病はかつて「らい病」と呼ばれ、末梢神経が侵される細菌感染症です。戦後は科学療法により完治するようになりましたが、以前からその感染力は極めて弱いことが知られていました。
 ところが、富国強兵政策を進める明治政府は、ハンセン病患者の存在を国辱と考え、1907 年以来、法律によってハンセン病患者を療養所に強制収容し、生涯にわたり強制隔離する政策を進め、特に昭和のファシズム期には「民族浄化」の名の下で全国で警察力を動員して患者摘発を行いました。軽症で普通の社会生活を送っていた多数の患者を含め、1 万名にものぼる患者らが強制隔離されて自由を奪われ、「療養所」という名の強制収容所で所内作業や強制労働に従事させられたのです。法的根拠のない断種手術や中絶も横行しました。過酷な収容生活の中で多くの患者が死亡し、まさに「日本のアウシュビッツ」といっても過言でない人権侵害が行われたのです。

戦後も長く続いた強制隔離政策

 しかも、こうした強制隔離政策は戦後も継続しました。ハンセン病患者らは、戦後、自らの人権回復に立ち上がりましたが、厚生省は戦前の法体系をほとんどそのまま引き継ぐ「らい予防法」を、1953 年、患者らの強い反対を押し切って成立させたのです。その後も、療養所内の一定の待遇改善がはかられたものの、1996 年3 月の法廃止まで強制隔離政策の基本的枠組みは存続しました。そのため、ハンセン病患者らはいわれなき差別と偏見、恐怖の対象となりつづけ、その親族を含め就職や結婚で厳しい差別を受け、患者の多くは親兄弟とも縁を絶たざるを得ませんでした。
 現在、全国約7000 名のハンセン病元患者らはほとんどが60 〜70 代以上の高齢者ですが、その多くは帰るべき故郷や身を寄せる子孫もなく、療養所でひっそりと余生を送っています。社会から文字通り完全に疎外され、人間として社会の中で生きる権利を否定されたハンセン病患者らが、真に社会復帰し人として生きる権利を回復するためには、国が真摯に反省・謝罪して患者らの名誉回復をはかる具体的施策を講じ、元患者らに対し十分な補償を行う必要があるのです。

法律家の責任として

 日本国憲法の下で、このような人権侵害を長きにわたり許してきたことは、法律家全体の責任ともいえ、私たち自由法曹団員としてもその使命を痛感するところです。
 訴訟では、現在、ハンセン病に関する国内外の知見の推移、強制隔離政策による被害の実態、除斥期間論などの争点をめぐって厳しい攻防を行っており、被害実態を記録したビデオの法廷での上映、療養所の検証、療養所関係者の証人尋問等、旺盛な活動を展開しています。同時に、北は青森から南は沖縄まで全国の療養所にいる元患者らから埋もれた被害を掘り起こし、訴訟と運動の輪を広げていくことが大きな課題です。そのため、私たち弁護団員は各地の療養所を繰り返し訪問し、原告や元患者らと交流を深めています。
 薬害エイズ事件のときも差別と偏見の壁を裁判闘争によって打ち破り、大きな運動で国と製薬企業を包囲して成果を上げましたが、この事件は90 年にわたる強制隔離政策によって歴史的に積み上げられた分厚い壁を打ち破る、より重い、しかしやりがいのあるたたかいといえます。多くの若い力の参加を期待しています。

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