事件の発生と裁判の経過
1952 年1 月21 日午後7 時40 分頃、札幌市南6 条西16 丁目の路上で、札幌市警察本部警備課長白鳥一雄警部が拳銃で射殺されるという事件が発生しました。捜査当局は、同年10 月1 日に当時日本共産党札幌市委員長であった村上国治を事件の首謀者として逮捕し、殺人罪で起訴しました。
11 年後の1963 年10 月17 日、最高裁判所は上告を棄却し、懲役20 年の刑が確定します。さらに2 年後の1965 年10 月21 日、村上国治と弁護団は再審を申し立てました。
再審の審理
この事件の証拠の中心になっていたのは3 個の弾丸です。事件発生の直前、村上国治の指示で拳銃の射撃訓練が行われた、その場所から発見された2 個の弾丸と白鳥警部を射殺した弾丸の線条痕が一致するから、この3 個の弾丸は同じ拳銃から発射されたというのが、検察官の主張でした。3 個の弾丸以外には物証はなく、他は全て不確かな供述証拠です。
再審の審理では、新たな実験と14 の鑑定がなされ、3個の弾丸の線条痕は一致せず、実験場から発見されたという2 個の弾丸は、腐食の状況から見て、偽造された証拠であることが明らかとなりました。
しかし、1975 年5 月20 日、最高裁判所は、弾丸の証拠価値は大幅に減退したが、他の供述証拠だけで確定有罪判決は維持できるという理由で再審を認めず、特別抗告を棄却しました。
支援活動の広がり
村上国治は逮捕されたとき28 歳、以後獄中から17 年、仮釈放後さらに6 年、無実を訴え続けました。支援者への手紙、折々に作った詩は、やがて多くの人々の心をとらえ、再審の段階では支援の輪は大きく広がります。
全国各地の「白鳥事件村上国治を守る会」の会員は、大小の集会、事件の研究会、署名活動、ビラ配り、「白鳥事件新聞」やパンフレットの販売、現地調査、網走刑務所での村上国治との面会等、創意工夫をこらした支援活動に取り組みました。最高裁の段階で、再審開始要請署名は142 万名に達しました。弾丸の鑑定のため、多くの科学者の協力を受け、共同研究が進められたのも支援活動の力によるものです。
再審の弁護活動を直接担当したのは、十数名の常任弁護団ですが、全国の多数の自由法曹団員は、集会での裁判の現状報告、研究会での解説等、支援活動の発展のために大きな貢献をしました。
この大きな支援活動は、やがて法学研究者や日弁連の活動と相まって、「白鳥決定」に至ります。
「白鳥決定」とその後の再審
最高裁の決定は、再審請求を棄却しました。しかしその理由の中で再審について、重要な判断を示しました。@再審の裁判では、新しく提出された証拠だけでなく、他の全証拠と総合して判断し、確定判決の事実認定に合理的な疑いを生じさせれば足りる、A「疑わしいときは被告人の利益に」という刑事裁判の鉄則は、再審にも適用される、という判断です。
このときまで、再審は真犯人を見つけたときなど、極めて限られた事件にしか認められず、再審は開かずの門であるといわれていました。「白鳥決定」は、再審の扉を開く上で画期的な役割を果たしました。以後11 年間に、弘前・加藤老・米谷・徳島・梅田等の事件で再審が開始され、無罪となります。ことに、免田・財田川・松山・島田の4 事件では、確定した死刑判決から再審開始・無罪となり、社会に大きな衝撃を与えました。白鳥以後の事件全て、日弁連人権擁護委員会により進められましたが、弁護団には多くの団員が参加し、活動しています。しかし1993 年の榎井村事件
【*1】を最後に、現在の再審各事件は再び冬の時代を迎えました。新しい力、新しい発想、新しい活動により、もう一度壁を突き崩すことが、今、期待されています。