大阪支部 雪 田 樹 理
横山ノック前大阪府知事に対して、損害賠償を請求した事件は、被告の答弁がないまま、一九九九年一二月一三日に判決が言渡された(確定)。被告は、代理人が出席したものの、「答弁しない」と発言するに終始する、異例の裁判であった。
判決の内容は、被告に対して、@原告がわいせつ行為により被った精神的苦痛に対する慰謝料として二〇〇万円、A被告が虚偽告訴を行い、虚偽内容の記者会見をして全国に報道させて原告を大衆の好奇の目に晒したという名誉毀損行為による慰謝料として五〇〇万円、B第一回口頭弁論期日以降の記者会見等における名誉毀損行為による慰謝料として三〇〇万円、C弁護士費用一〇〇万円の合計一一〇〇万円の賠償金の支払いを命ずるものであった。
セクハラ事件としては最高水準の賠償金額といわれたが、内容的には、セクハラ自体に対する慰謝料は二〇〇万円に過ぎない。判決は、執拗かつ悪質であり計画性も窺われる。海外ブランド品の交付により解決を図ろうとするなど原告の人格を蔑視する態度を取っているなどと指摘したが、損害額としては、これまでの裁判例の水準にとどまるものであった。弁護団は裁判所にはもう少しセクハラによる精神的被害への理解をしてほしかったと考えている。
他方、名誉毀損行為による被害については、予想を越える損害額であった。裁判所は、@現職の知事の立場にある権力者が、わずか二一歳の女子大生を虚偽の事実により罪に陥れようとした極めて特異かつ異例な違法性の強い行為。A芸能活動、参議院議員を経て、大阪府知事という極めて高い知名度を有しており、自らの発言がメディアを通じて直ちに全国に報道されることを充分に認識して、虚偽の事実を一方的に流布させた。B公開の法廷においては反論の機会を十分に与えられながらこれを行使せず、他方で記者会見や大阪府議会等で原告を誹謗した手法は、著しく社会常識を逸脱した行為であると言わざるを得ない。「判決により相手方に何らかの金員を支払わなければならないことは不愉快極まりなく、一円たりとも払いたくない」と述べながら、他方で「八〇〇億でも支払う」と不見識な発言をするなど、民事訴訟による紛争解決を全く無視し挑戦する姿勢を示した。C訴訟記録閲覧制限の決定を理由として、裁判で十分に反論できなかったなどとする被告の発言は民訴法の規定や裁判所の決定の趣旨を意図的に歪曲したと疑われても仕方がない極めて不当なものとした。裁判所の怒りが現れている判決であった。
被告の不当な訴訟回避戦術ゆえではあろうが、紛争解決機能を無視された裁判所が、真正面から司法の役割を確認した判決であった。この判決文によって、個人的には、同じ法曹としての裁判所への信頼が少し回復された気がした。また民事裁判の内容が大きく影響したものと思われるが、引き続いて現職知事の強制わいせつ罪による起訴、府知事辞職という事態となったことは、みなさんご承知のとおりである。
現在、弁護団は、引き続き、刑事公判における性犯罪被害者の権利保護に関する弁護活動を行っている。
団長 豊 田 誠
一九九九年一二月二〇日、自由法曹団元団長佐藤義弥さんが逝去されました。八二歳(大正六年生)。
その生涯は、労働運動と一九五二年からの弁護士活動(司法修習四期)を通じて、労働者と国民のための、自由と人権の確立に捧げられたものであったといってよいでしょう。
佐藤さんは常に、全農林を中心とする官公労働者の権利闘争の中心にあり、また、松川事件などの弁護活動などでも大きな役割を果たしてこられました。
上田誠吉さんの後を継ぎ、一九八四年の雲仙総会から、五年にわたり、団の団長として、その重責を担われました。
「私は、誰の批判でも、意見でも謙虚に聞き、我をはらないで、いつでも受け入れる用意があるということです。これは戦争直後、労働運動にたずさわった中で経験的に覚えたことかもしれません」(団報一二一)。
佐藤さんは、団長就任のあいさつで、こうのべられ、団内の自由闊達な論議と団員の創造的活動をなによりも大事にされました。
佐藤さんは、実に懐の深い方でした。そして、第二の反動攻勢期といわれた時代の団活動を、その懐の深さで束ねて牽引してこられたのです。
私たちは、いま、団の重鎮を失いました。
その深い悲しみをのりこえて、団の発展を互いに誓いあうことが、佐藤さんのご遺志をつぐことになるのだと思います。
佐藤さんのご冥福を祈ります。合掌。
東京支部 上 田 誠 吉
松川事件の第一次上告審の調査官報告書に、弁護人上告趣意書(五五・九・三〇)のうちの「力作」として一五人の名があがっている。そのうち田中吉備彦をのぞく一四名は、当時の東京合同法律事務所の弁護士であった。さらにそのうち岡林、青柳、小沢の三人をのぞく一一名は戦後に弁護士になった少壮の人たちであった。
佐藤さんもその一人であった。死刑四名、無期二名を含む二審判決(五三・一二・二二)の重圧はたえがたいほどのものだった。
その翌年一月の事務所の新年会のあと、居合わせた若い弁護士達は、酒を酌み交わしながら、どうやってこの誤判をうち破っていくか、を論じながら夜更けまで論議をつづけた。明るい展望を語るものはいなかったが、事務所はこの事件の上告審に全力をあげてとりくむほかはない、という気持ちは通じあっていた。
やがて週一回の研究会が続けられる。そして論点の分担が決められた。佐藤さんの分担は八月一五日と一六日の国鉄・東芝間の連絡謀議にかかわる部分で、のちの判決で原判決破棄の理由に直接つながる論点であった。
五五年八月には、伊東の海光莊という質素な宿屋で二〇日間にわたる合宿をして上告趣意書を執筆した。調査官報告書はこれら二つの連絡謀議について「事実誤認の合理的疑が高度である」として佐藤さんらの上告趣意を容れていた(もっともこの報告書は他に連絡謀議が存在したという想定のもとに有罪を維持すべきだ、とする途方もない結論を出していた)。
最高裁での弁論は、五八年一一月五日から二六日まで一〇回にわたっておこなわれた。
佐藤さんは一一月一二日に「一五日謀議について」、一四日に「所謂八月一六日謀議」について弁論をしている。この弁論と併行して、のちに佐藤さんが深く関与する古巣の全農林警職法事件が進行していた。一一月五日、最高裁弁論が始まった日に、最高裁の隣の農林省の前で警職法改悪に反対する全農林の集会がおこなわれ、弁論が終わりに近づいた一一月二二日に、この集会が国公法に違反するということで、全農林の幹部の一斉検挙がおこなわれた。
佐藤さんは年長で、私たちの兄貴分にあたっていたが、いつも腕を組んで若い日々をともにした。かえりみて、精神的にも身体的にもいちばん充実した日々をともにしていた。
東京支部 駿 河 哲 男
佐藤さんとの気楽な二人旅はもう夢かと思っていたが、昨年に入り、体調が大分回復して、春四月と秋一〇月中旬に、いずれも房総で三連泊、さらにその間ご夫妻と伊豆でこれも三連泊の起居を共にすることができた。食欲も飲酒も私並に十分であった。ただ子どもの時からずっとそうだったのであろう。人参だけはいつものように食べ残していた。
出会った人との別れが、いつどのような風に訪れるかは、その時にならないと分からない。今の冬が越せるかどうか心配と案じていたご子息嘉記弁護士から「急な話で」と一二月二〇日に訃報の電話連絡を受けたのであるが、その二日前に「関心があれば読んだら」と送った文庫本につき佐藤さんと一〇分くらい話し合ったばかり。
それまでと余り変わりない話しぶりに、この分ならまだ大丈夫と思っていた矢先であった。致命は「心臓」とのこと。二人兄弟の兄上が五〇歳そこそこで亡くなられたとき、朝日新聞が大見出しで「癌の権威、癌で逝く」とその早逝を惜しみ、また母上も癌で亡くなられているので、若い頃から癌については神経質なほど用心していた。その甲斐あってか癌ではなかったようである。
ところで、佐藤さんの業績と人柄は、団長退任前後に企画された「佐藤義弥、その時代と軌跡」を出版する会著作の一九九〇年(平成二年)発行本(発行所イクォリティ)の中で多くの方たちが交々語られていて、巾が広く奧が深い。いま私が付け加えたいものは何もない。
その佐藤さんと私の関わりは丁度五〇年前に遡る。クラスは違ったが、司法修習同期。一年二カ月の実務修習班で一緒になり、その頃の写真を見ると、よく隣り合って写っている。検察実務修習時代、二人の美女修習生の間の席に居り、彼女らに信頼され、その身の上相談にまで楽しげに乗ったりして仲間から羨ましがられ、また指導検事からはしきりに検事任官を勧誘されたりもする人気者だった。
修習後、佐藤さんは弁護士、私は裁判所と分かれたが、私の一〇年の裁判所時代も交流は絶えることなく、私の弁護士転進は佐藤さんと金綱さん(昨年同じく亡くなる)両名のご指導のお陰である。
佐藤さんが、仕事を離れた七五歳の頃からは、どちらが先立つにせよ、よくぞここまで生き長らえてきたものとお互いにもろもろ思い浮かべながら楽しく別れようと語り合ってきた。
飾るところなく、鷹揚にみえて実は細心の思いやりを私たち夫婦にまで長年にわたりかけてくれた心優しい兄貴分であった。奥さんが淋しくなることであろう。
東京支部 四 位 直 毅
佐藤義弥さんが、忽然と逝去された。
佐藤さんというと、なぜか私はきまって、大きな麦ワラ帽子をややあみだにかぶり腰にタオルか手ぬぐいをぶらさげて夏の日の霞が関界隈を闊歩される姿と、よく懐中に収めておられた大ぶりのガマグチのことを思いだす。
一見村夫子然とした風貌の下に、ものごとを鋭く見ぬく眼識と叡智が秘められていた。大柄の体躯にふさわしい包容力を具えてもおられた。
佐藤さんと行を共にされた小沢茂さんは酒仙、対する佐藤さんは酒豪、と評された。お二人が四谷に開設された事務所は当初、酒屋さんの二階ではなかったか。床板のふし穴から階下の店のにぎわいと香気がリアルタイムで直結していた、という。この話には妙に実感があった。
佐藤さんはエピソードの多い人だった。一杯の席で上田誠吉さんが再々語り、佐藤さんがにやっとしたり反論もしくは訂正補足されたいくつかの定番があった。詳細は省くが、どれもほのぼのとしてお二人の友情と佐藤さんの人となりをほうふつとさせるものであった。
佐藤さんの人と業績は「佐藤義弥 その時代と軌跡」で語られている。
残部僅少につき、まだお読みでない方は、団本部事務局または四谷事務所に問い合わせて、ぜひ入手一読されることをお勧めする。
私にとって佐藤義弥さんは、慈父などという固くるしいことばよりも、いつも「やあ元気か、いっぱいやるか」と破顔一笑してうけとめてくれる親父のような存在であった。
ご冥福をお祈りしますとか安らかにお眠りくださいと型どおりに結ぶよりも「佐藤さん、この時代の日々を元気よくやりますよ!]とお声をおかけする方が佐藤さんにはよく似合う、と私は思う。
東京支部 荒 井 新 二
佐藤義弥さんとは、いくつかの弾圧事件裁判をご一緒させてもらったが、やはり私の本部事務局長の期間(八六、八七年)に団長としてご指導してもらったことが印象深い。そのなかで一番の思い出といえば、京都五月集会の最中、奥様と娘さんである富岡恵美子弁護士とご一緒の桂離宮の見学であろうか。私も未見であったので、団長慰労という口実で京都支部の当時の中尾事務局長と支部事務局のかたにお願いし特別に見学の機会をつくってもらった。佐藤さんも、桂離宮におおいに興味があったご様子で、熱心に見て回りたびたび質問も説明者にされた。はたからみていて佐藤さんご家族のなか睦まじさは羨ましいものであった。
その後佐藤団長の退任を祝って、歴代の三役を中心に鎌倉の「花村」で酒宴をもった。
「花村」は当時、ちょうど古刹である明王院で仮営業していたが、そこに佐藤さんご夫妻をお招きした。週一回鎌倉の寺社めぐりをする佐藤さんの話を聞き、ぴったりな場所と思われたからである。佐藤さんはこころに何割か遊び心を持てと人にもよく言われたが、寺社散策もそのひとつであったと思われる。
当時の団も今におとらず国家秘密法、拘禁二法、国鉄の分割民営化問題、労基法の改悪、借地借家法改悪そして売上税(消費税)など目白押しの悪法に対し、その阻止のために全力で活動していた。中曽根内閣の戦後総決算路線に対決していく集会やデモが活発にもたれた。月に四、五回は電話で佐藤さんに、そんな集会にでて団長としての挨拶や会議出席をお願いした。佐藤さんはいつも、はい。わかりました。行きます。連絡ありがとう。ごくろうさんですな。と言われ、即座に引き受けてくれた。
そんな集会、デモには、会場の日比谷野音などにごく少人数で団旗をもって出かけた。
会場での佐藤さんの演説は、いつも短く、他の演説と異なり決して高い調子でもなければ大げさな抑揚がある訳でもなく、実に淡々として、しかし堂々と肝心なことだけを述べるという風であった。その内容は、といえばきまって労働者に連帯し、激励するものであった。大柄の身を少し曲げて、どちらかというと訥々としたその口調に、私などは団長挨拶はいつもいいなあと感心していた。他の演説がそうでないぶん余計団の存在感が光るのである。団の民主勢力のなかの存在意義を一身に体しているようにみえた。そういう演説の際には、会場真ん中あたりに陣取る全農林労働組合の旗が大きく振られ、その周辺から歓声と拍手がひときわ高くおきた。彼らから誇るべき大先輩として、佐藤さんは間違いなく敬愛されていた。団の役割や独自性あるいは運動体との位置や信頼関係といったものを、佐藤さんの演説は自ずと体現していたのではなかったか、と今にして思う。
私のことで恐縮だが、佐藤さんの演説に救われたことがある。故安田叡団市民問題委員長が亡くなったとき、事務局長の荒井が死なせたんだ、という心ない話が私の耳にも届いた。安田さんが電話をして私と連絡をとろうとしたときに事務所で突然倒れたのは事実であったし、確かに事務局長として安田さんに様々無理なこともお願いした。人の死に遭って、もって行きようのないくやしさと怒りが、こんな心ない軽口を生んだとは思う。自分の配慮に抜かりがあったのではないか、という思いが拭いきれなかった私にとって、とてもやり切れぬ話であった。安田さんの告別式の会場となった葬儀場の植え込みで、遺影に向かって佐藤さんが弔辞を読んでいるのを遠くに見ていた。切れ切れに聞こえてくる声の佐藤さんは、「あなたの人生のさいごのエネルギーを団のためにさかれ、見事に団の活動を指導されたことに団は深く感謝します」と述べていた。佐藤さんのあの淡々とした弔辞は心にしみわたり、思わず涙があふれとどめようがなかった。嬉しかった。生前佐藤さんに話はしなかったが、心底救われたと思った。この後私は腹をきめて、団通信に追悼文を載せ、安田さんの団の活・uト阿鮠椶靴・颪@・妥弔気鵑話蝶萋阿幌佑譴燭判劼戮董⊆蠍・韻箸靴拭・・w) 佐藤さんから頂戴する年賀状には常に一言書き添えられている。事務局長のときには「いつもニコニコして活動してくれてありがとう」と書かれたものを戴いた。口の悪い久保田昭夫団員に、いつもそんなに怖い顔をしていると誰も団に寄りつかなくなるぞ、と脅かされ、仏頂面は二年間はやめておこうと心掛けていたときのことである。佐藤さんは他人のひそかな苦労がわかる人だと感心したことがある。かえりみれば佐藤さんは、いつも周りを掛け値なしに大事にし、褒めるところを大きく評価し、皆を激励し奮起をうながす、そういう人であった。佐藤さんの弁護士としての仕事の業績など私が言うのはおこがましいことであろう。幸いにも団長として親しく指導を受けた幸せのついでに言わせてもらえば、佐藤団長は極めて個性的な組織人であった。その面でも、高い資質もお持ちであった、と思うのである。
あらためて佐藤さんに心をこめて感謝し、お別れをしたい。
佐藤さん。わかりました。ありがとうございます。ごくろうさんでした。合掌。
東京支部 小 部 正 治
3 鳩山の小沢論文批判の特徴
鳩山論文は小沢論文の批判をしているので、対応するように以下のとおりまとめる。
@第九条の改正の具体的条文について
小沢論文は自衛隊が軍隊かどうか言い逃れている、もっと踏み込むべきという。むしろ、自衛隊は軍隊であるとはっきり認め、第九条に「陸海空その他の戦力は保持する」と明記すべきである。その後に「侵略戦争はしない」「徴兵制はとらない」と書いた方がクリアーになる。「未来永劫自国の領土の中に他国の軍隊がいることを当たり前と思う国は本来ない」、「自分たちの国は自分たちが基本的に守るという環境をつくっていくべき」と主張する。
A「国際平和」について
小沢の発想は「現実の国連の姿を無視した、非常に理想的な話」で、「常備軍構想はしょせん絵空事に過ぎない」のは明らかと反論する。「アメリカは自分の国益しか見ていない」のに、「国連といえば正義と考えるような国連万能主義は極めて危険」とし、小沢試案で「気になるのは、アメリカに対する信頼があまりに無邪気すぎるという点」で、「ニューリベラルも基本的には親米である」が、「裏も読まないままアメリカに唯々諾々と従う姿勢から、我々は解放されなくてはならない」と厳しく批判している。
B「公共の福祉」と「基本的人権」に関して
「気になるのは」、「公共性が基本的人権に優先すると明確に規定していること」で、「国家の権限で公共の福祉を盾に何でも行ってしまう懸念も出てくる。この部分には国家の管理をより優先したいという為政者的、国家主義的な発想が垣間見れ」る。
「基本的人権は保障されなければならない第一番目のものであり、公共の福祉はそれに続くものだ」として、「この点が総保守対ニューリベラルの端的な違い」という。
C「参議院の改革・終身議員制」について
現実の衆議院と参議院のねじれ現象を小沢は問題にするがそれは「参議院の任期を六年から四年に」短縮すれば解消できる。また、法案審議の能率性を上げたいというのは政権与党の驕りで、「勲章を与えた人間を参議院の終身議員にするという発想は、特権階級を復活させ、腐敗構造を作る恰好の契機となる」と批判する。
「参議院はなるべく政党色を出さない方がいい」ので、「アメリカの上院のように各県二人あるいは四人選出するという仕組みにしたほうがよい」「参議院は地域の声をしっかりと反映させるような制度がいい」という。
D「天皇の国家元首論」・「首相公選制」について
小沢の天皇元首論を批判し、「いまなぜ象徴天皇を国家元首とあえて言い切る必要があるのか」、「象徴天皇としての天皇の存在を国民みんなで認めて尊敬していけばいい」という。
また、小沢論文が天皇が国家元首であるが故に「首相公選制は天皇廃止を前提とする以外に、採用できない」と主張することに反論し、首相公選制こそ導入すべきと主張する。その理由は「国民一人一人が選んだ総理大臣であれば、その総理に対して選んだ人の責任感が生まれる。政治に対する尊敬と責任を復活させるための手段としても望ましい」という。象徴天皇と首相公選制は矛盾せず、憲法改正が必要だが、それを憲法改正の第一段としてやればいいという。
E「憲法改正条項」について
小沢論文に対して「改正が難しいから簡単にしろという。これは無茶苦茶な話」と批判する。同時に、「憲法改正の議論がいままであまり自由にされてこなかったのはおかしい」、「時代の流れの中で改正の論議を大いにやって、数年間に一度くらいの割合で改正されたほうが自然だと考えるくらい」という。しかし、「国会議員の過半数でいいとなると単独政権を握った政党が常に憲法改正をしやすくなる。それでは最高法規である憲法が不安定になるリスクを伴う」と主張する。
4 字数の関係で要約しすぎた嫌いがある。是非現物にふれて見ていただきたい。
京都支部 飯 田 昭
1 九七年一二月(第一次)と九八年一月(第二次)に地域住民計四六〇〇名が申立てていた京都市を相手方とした市原野ごみ焼却場建設差止め仮処分事件は、事実上の証人尋問を含む一三回の審尋を経て、九九年七月に結審していたが、九九年一二月二七日、総ページ四八四ページ、理由だけで二九九ページに及ぶ膨大な決定書が交付された。
本件は京都市が市域東北部の市原地区(名勝鞍馬、貴船にも近い)に京都最大規模の七〇〇トン(当初計画は九〇〇トン)のごみ焼却場(全連続燃焼式ストーカー炉)を、地元住民・自治連の反対を押し切って強行しようとしていることに対して、その差止めを求めた裁判で、九六年一二月に先行して本裁判を提訴していたが、九七年二月に市が強制着工に踏み切ったため、本訴と仮処分が並行して進められてきた。
主要争点は、@交渉経過の中で市が二度にわたって特別委員会(自治連の交渉窓口)に交付した「回答書」(九一年一〇月)・「確認書」(九二年一一月)の契約・確約としての法的効力の問題、A新規清掃工場建設の必要性、B複雑、谷間地形の市原地域での工場稼働により排出されるダイオキシンや塩化水素等による住民の健康被害のおそれであり、契約・確約に基づく差止め請求と人格権・環境権に基づく差止め請求が被保全権利の二本柱になる。
なお、本訴の方は既に住民代表、行政の担当者(論点@)、植田和弘京都大学教授(論点A)、宮田秀明摂南大学教授(論点Bのうちのダイオキシン問題)、藤井健京都産業大学教授(論点Bのうちの気象状況)を終え、現在塚本恒雄京都大学教授により、論点Bに関して最新技術であるホットマック・ラプタッドを使用した予測により環境基準を超える塩化水素が検出された事実の立証中である。
また、工事は二〇〇一年稼働開始を目指して、躯体自体はできあがりつつある。
2 仮処分決定を迎えるに該って、住民側は五万人を超える要請署名を裁判所に持ち込み、当初の決定予定(九月)は、「理由が膨大になるため」との理由で大幅に遅れた。
主文は「却下」であり、内容的にも不当な点や科学的に明白な誤解が多々ある。他方で、決定中に示されている判断のワク組みは、全国的にも利用できると思われる部分もあり、また、本訴や抗告審での追加立証により逆転の可能性を残すものでもあるので、紹介する。
なお、運動的には九九年一二月には公正取引委員会による談合を理由とした独占禁止法に基づく排除勧告(九九年八月)を受けて、一二月には川崎重工との間のプラント契約(計約二四八億円)の解除等を求めた住民監査請求(第一次一一一三人)が提起されている。
また、本年二月六日投票の京都市長選挙において、革新側候補がごみ政策の根本的転換と共に、市原野ごみ焼却場の建設工事の一旦中止を重点公約の一つとして掲げる状況になっている。
3 仮処分決定の概要
(1)契約・確約に基づく差止め請求(論点@)については、市自ら「確約」と表現していた清掃局長名義の「特に環境アセスメントのための現地調査等重要な作業につきましては、事前にその説明を十分に行い貴特別委員会のご了承を得て進めてまいります。」との「回答書」につき、住民側が「特別委員会の同意を解除条件とする本件事業にかかる環境アセスメントのための現地調査等の重要な作業の中止義務を債務者が負うという法的効果が生じたと期待したであろうことは想像に難くはない」としながら、「債務者が特別委員会の同意を得るよう最大限に努力する方針を示したものであり、『確約』の文言は、市が右方針について最大限尊重する旨の特別委員会との間で守るべき道義的な約束との趣旨で用いたものと解すべきものであって、その内容が法的効力を有するものとみることはできない。」として、法的効力を否定し、行政法上の「確約の法理」も未だ確立した概念では無いとして、認めなかった。
(2)人格権・環境権に基づく差止め請求(論点A、B)については、人格権について、一般的には受忍限度を超える被害の発生の立証責任は債権者側にあるとしつつ、本件においては、施設の稼働により一定量の有害物質特にダイオキシン類が発生し、環境に拡散されることは避けがたいこと、居住地域と施設の近接により拡散による債権者の身体への到達は避けがたいこと、ダイオキシン類は微量でも人間の健康を損なうことについての一応の疎明がなされたとして、「そうすると、債権者らが、本件施設の稼働の必要性が無いことを疎明した場合には、これ以上本件施設の建設・稼働により生命・健康に侵害が生じることにつき疎明するまでもなく、本件施設建設についての差止め請求権の存在が疎明されたものと言うべきである。」とした。
また、債権者が右必要性が無いことの疎明ができない場合でも、債務者が全ての資料を所持していることより、債務者の側において、被害発生の高度の蓋然性が無いことについて、疎明しなければならないとしたが、債務者が右一応の疎明を行った場合には、立証責任は債権者側に戻るとして、メルクマールとしては国や京都府、市の環境基準、指針を挙げた。
この判断の枠組みのうち、必要性が無いことを疎明できたごみ焼却場については、性能、安全性の問題にかかわらず、差止めを認めるとの部分は、裁判所の認定手法のレベルにおいては、画期的なものと評価できるのではないか。
また、事業者(行政)が全ての資料、情報を所持していることから、安全性の立証責任を第一次的には事業者(行政)に負わせている点も、妥当なものと言えよう。
ところが、決定は具体的な認定においては、新規清掃工場建設の必要性を認めてしまった。九九年六月に京都市はごみ処理の新基本計画を策定し、一二年間で一五パーセントの削減目標を立て、これによれば計算上も二〇〇一年から二〇〇四年まで、わずかに不足するだけで、それも立替え時期、方法の調整等により実際上は支障を来さないにもかかわらず、決定は市が最終盤に至って主張した(それ迄は旧基本計画により必要性を主張していた)。清掃工場の耐用年数は三〇年であり、廃止して新規に建設する方が安全性の面からも合理的との主張を受け入れた。
更に、市の実施した複雑地形には正確に対応できない不十分な環境影響評価手法(プルームモデル)について、厚生省マニュアルに準拠しており、これによると環境基準を下回ることより、債務者側の疎明ありとし、他方、住民側の実施したホットマック・ラプタッドによる初期実験結果については、信用性に欠けるとしてしまった。
なお、この部分の認定には、科学的に明白な誤解がいくつもある。
4 今後の方向
仮処分の決定結果は、行政が事業主体となったごみ焼却場の建設差止めの先例となるべく、膨大な主張、立証を積み重ねてきた住民・弁護団にとっては、残念極まりない。しかしながら、判断の枠組みからは今後の立証により、本訴や抗告審での展望、そして仮に全面中止までできなかったとしても規模の大幅縮小を含む解決に向けての展望は残して、第二ラウンドに入る。
とりわけごみ減量に本気になって取り組めば、新規清掃工場の必要性が無いことは勿論、既存の清掃工場も将来は縮小していくことができることや、仮処分段階では間にあわなかったが、塚谷教授によるホットマック・ラプタッドによる正式実験では、塩化水素につき明確に環境基準を超える結果が出ていることは重要な点である。
広島支部 井 上 正 信
北朝鮮ミサイル問題は現在進められようとしている国交回復交渉でも最重要課題になる。日本だけの問題ではなく、周辺諸国や米国、イスラエルの安全保障にかかわる問題である。それにも関わらず北朝鮮ミサイル問題に関する実態を含めた解明と、それに基づく外交戦略を論じたものが少ない。一発のミサイル実験で交渉が停止し、外交路線が右往左往するのである。北朝鮮のミサイル能力の真相を分析し、北朝鮮が弾道ミサイル開発にかける戦略を事実にもとづき解明し、それに対して適切な外交戦略を立て、我々の一貫した北朝鮮政策をたてなければならない。
米国の「憂慮する科学者連盟」の機関誌(九八年四月二日)に掲載された、ディビド・C・ライト上級研究員の論文「北朝鮮はミサイルを交渉により廃棄するか」は極めて優れたものであり、我々が北朝鮮問題に取り組む上で、大変に参考になると思われる。実は、この論文は九八年四月五日朝日新聞で簡単に紹介されたものであり、私はその直後入手していた。朝日新聞の紹介は、北朝鮮のミサイル脅威は誇張されており、北朝鮮はミサイル問題を米国との駆け引きに使っている可能性が高い、というものである。忙しくて読む暇がなかったが、正月休みに読み、とても新鮮で説得力があった。もっと早く読むべきであったと後悔している。
論文は北朝鮮ミサイル計画に対する一般的見方に対し、北朝鮮はミサイル計画を経済再建と国際社会への復帰、制裁緩和などとの取引材料にする、としている。北朝鮮のミサイル能力とりわけノドン・テポドンについての軍事技術的な分析も加え、ノドン配備とか、テポドン開発の完成とかいった見方は根拠のないものとし、米国衛星で発見されたテポドンの実物大模型は米国に発見させるための模型にすぎず、北朝鮮は米国衛星の探知能力を逆用して、交渉を促進させようとしている、との認識を述べる。戦争の戦術としてよくとられる「欺騙作戦」なのである。
論文は、北朝鮮がミサイル計画を交渉により制限するという根拠としていくつかの重要な事実を指摘する。その中でとりわけイスラエルとのミサイル輸出禁止交渉の詳細な経過は、あまり知られていない内容であるだけに興味深いものである。
論文が出版された時期が九八年八月のテポドン(と一般には見られている)発射事件の前なので、この論文の見地からこの発射実験をどの様に見るかは議論しなければならないであろう。しかしその場合でもこの論文の見地にたってこの発射実験の意味を考えることができるし、その後北朝鮮が米国との交渉で、ミサイル発射実験の停止をとりあえず合意し、ペリー報告が発表されたことなどから、この論文の見地の正しさが裏付けられたのではないかと考える。
もっとも、この論文の立場は、ペリー報告が選択肢として検討し、排除した路線即ち北朝鮮に対してミサイル開発停止の見返りを与えるという路線であり、現在の米国の北朝鮮政策とは異なったものである。
一月一三日付け朝日新聞(大阪本社版)に米国商業衛星イコノスがとらえたテポドン発射施設の衛星写真についての記事が載っている。全米科学者連盟(FAS)が写真を分析した結果の論文を掲載し、朝日の記事がそれを紹介している。インターネットのFASのホームページから論文を取り寄せてざっと目を通した。実証的な分析結果によると、大変に貧弱な施設で、とても恒久的で多数回の発射実験ができる代物ではないことが解明されている。北朝鮮ミサイル能力は常に誇張され、時にはデマのたぐいまでまことしやかに主張されることがある。ライト論文も北朝鮮ミサイル能力が誇張されていることを証明している。ライト論文と併せて読めば一層おもしろいと思うのである。
北朝鮮問題は新ガイドライン反対運動にとって扱いにくい問題である。団員の中でも意見が分かれるであろう。この論文を検討することで、我々の北朝鮮問題に対する理論的水準は高まることは間違いないと思う。ガイドライン・周辺事態法反対運動に関わっていられる団員諸氏には是非勧めたい論文である。関心のある方はお申し込みくだされば、論文(英文二二頁)と下手な参考訳(一八枚)をコピー代と郵送料でおわけします。
お申し込みは電話・FAX・Eメールでどうぞ。
電 話 〇八四八・二五・二六三三
FAX 〇八四八・二三・六四一〇
FASの論文と資料をご希望の方はEメールで送信します。また日本国際法律家協会へも同じものを送っていますので、事務局の馬淵さんへ申し込まれてもよい。インターネットを使う方はFASのサイト(http://www.fas.org/)へアクセスされたい。