日立製作所株主代表訴訟

─画期的内容の和解で解決─

東京支部  土 橋   実

一 下水道談合事件と株主代表訴訟の提起
 建設省の外郭団体である日本下水道事業団が主導となって行われた一九九三(平成五)年の電気設備工事の談合事件で、日立製作所は他の重電メーカー八社とともに罰金六〇〇〇万円の判決を受け、これを納付した。また、この事件で公正取引委員会は日立製作所に対し独占禁止法違反により一億七二〇九万円の課徴金納付命令を発し、日立製作所はこれを認めて課徴金を支払った。
 これ対し、一九九八年四月、日立製作所の株主二名が、会社の支払った罰金と課徴金について、当時の会長(現相談役)、社長(現会長)、専務取締役(現顧問)が連帯して会社に損害賠償を支払うよう求め、株主代表訴訟を提起した。
 被告側は、罰金や課徴金を個人に転嫁することは許されないとの主張を展開したが、主張がほぼ出そろった昨年九月、裁判所から職権で和解勧告がなされ、双方で協議を重ねた結果、日立製作所が利害関係人として参加し、一二月二一日に和解が成立した。
二 画期的な和解内容
和解条項は、裁判所の提案に係る格調高い総論を受ける形で形成された。主な合意内容は、被告三名がそれぞれの立場から本件独占禁止法違反事件について責任を明らかにし、本件談合事件に深く関わった当時の専務取締役が法的責任を認め、会社に一億円の損害賠償金を支払い、他の被告二名がその履行を後見することになった。
 また、利害関係人として参加した日立製作所は、本件事件を真摯に反省し、この和解を契機として取締役会の諮問機関として「独占禁止法遵守委員会」を発足させ、今後独占禁止法違反事件を引き起こした取締役・従業員には解任・解雇を含む厳しい処分を行うこと、併せて会社が損害を被った場合には、会社が当該取締役や従業員に対し、損害賠償請求を行うことなどを盛り込んだ解決策を講じることを約束した。
いわゆる総会屋に対する利益供与事件や贈収賄事件に関し取締役が責任を認めた例はあるが、独占禁止法違反事件について取締役が責任を認めたのは、本件がはじめてと思われる。会社に対する損害賠償額が高額であることに加え、法的責任こそ認められなかったものの、当時の最高責任者である会長と社長が社会的責任を認め、損害賠償の支払いが履行されるよう約束したことは重要な意義がある。
三 談合の根絶と今後の課題
 日本の公共事業に談合が蔓延していることは、公知の事実である。この間、住民の責任追及や世論の高まり、諸外国からの批判を受けて、公正取引委員会が積極的な責任追及を行うようになった。政府も、世論の高まりを受けてようやく重い腰を上げ、入札制度の改革や予定価格の公開などに踏み切らざるを得なくなった。  しかし、談合が会社ぐるみで行われている現状では、仮に独占禁止法違反事件が発覚したとしても談合行為を行った行為者は会社によって庇護され、責任追及がなされることはなかった。こうした中で、日立製作所が、今後独占禁止法違反行為を行った者に対し、解任・解雇や損害賠償を含む個人責任の追及を約束したことは、今後同種事案に対する抑止力になると考えられる。
 さて、本年度予算においても、多額な赤字国債を発行した上で、相も変わらぬ公共事業計画が目白押しである。国民一人あたりの借金は、実に五四〇万円にも及ぶ事態をむかえる。政府予算に組みこまれた公共事業には、ゼネコン救済、選挙目当てとしか思えない無駄な事業が多数盛り込まれている。一方、国民の生活に密着する社会福祉の施策は次々と後退させられている。談合防止のための監視活動を一層強化するだけでなく、今後は公共事業の当否や事業の内容について、国民の意思が反映させられるようなシステムを確立することが重要な課題となる。
 下水道談合事件では、全国各地で住民訴訟も取り組まれているが、こうした活動とも連携し、談合行為の責任追及や公共事業のあり方などの政策形成について、引き続き取り組みを続けていきたいと考えている。


日産問題の意見書と現地での要請行動

東京支部  菊 池  紘
東京支部  田 中  隆

 「リバイバルプラン」による武蔵村山工場閉鎖が強行されようとし、労働者への第二次面接が開始されようとしていた一月二四日、自由法曹団は、意見書「労働者の生活と地域経済を破壊する日産リストラ計画・村山工場閉鎖を許すな」を発表しました。
 意見書では、憲法・労働基準法やILO条約やEU指令などの国際法規の見地から労働者の権利侵害を指弾するとともに、関連企業や地域社会への責任を指摘し、日産と国の重大な責任を主張しています。
 一月二四日、自由法曹団は、この意見書をたずさえて現地武蔵村山市での要請行動を行い、鈴木亜英本部幹事長、日産リストラ問題プロジェクト責任者の菊池、東京支部幹事長の田中、現地から吉田健一団員が参加しました。
 現地の訪問先での模様は次のとおりです。
【日産自動車労組村山支部】
 日産労組組合事務所では、労組支部執行委員長の馬場啓一氏が対応し次のように述べました。
@ 意見書では工場閉鎖などの合理化計画を企業が一方的に決めることは許されず、労働組合との協議をつうじて決めなければならないとのことですが、経営危機であることは理解しているので、日産労組は今回の合理化計画はやむを得ないものとして認めるスタンスです。村山工場が残っても、日産が潰れたのでは意味がないのです。
A 工場閉鎖にともなう配転などの諸問題について、労使協議をつうじて労働者の利益を守っていきます。
B 栃木や追浜へ行けない労働者が自らの意思に反して結果として退職せざるをえなくなることは認められません。そういうことがないように労働組合として努力します。
 団の方からは、退職強要などによって労働者が職場を去らざるをえない結果にならないよう、労働組合が力を発揮してほしいと述べました。
【JMIU日産支部】
 ルノーの金属労組の代表がフランスから来日し対応していた時期と重なっていたので、村山工場組合事務所を訪問して意見書を届けました。
【武蔵村山市役所】
 土田三男秘書広報課長が対応し、概要以下の話がありました。
 市にとっても衝撃。実態把握を進めているがまだまだ全貌がつかめず。ようやく、第一次下請からようやく第二次下請けまで調査し、第三次、第四次はこれから進める。下請業者関係はある程度日産オンリーから切り替えていた。地域の商店街などもある程度予想していたためか、さほどの火は吹いていない。ただし、地域への影響はこれから徐々に出てくると思われ、対応を検討したい。跡地利用をどうするかの動きもあるが、一足とびにそこにいってしまうのはどうかとも思われる。弁護士会(三多摩クラブ)にも協力を求めて近隣四市で相談会を実施する。
 市役所での懇談は三〇分以上にわたり、「行政への要請で行政側の方が長く話した」という「めずらしいケース」に。団側では、「大規模なリストラが地域に与える影響や地域からの対応は重要な課題。資料がまとまったら検討させてほしい」と要望し快諾を得ました。
【武蔵村山市議会】
 議会事務局に提出し、各会派への配布を要請しました。「宇治市議会より視察が来るなど、議会としての取り組みも検討」とのこと。
【武蔵村山市商工会】
 高橋茂明事務局長が対応し、概要以下の話がありました。
 商工会は日産も含む地元業者一二〇〇社で構成されている。とにかく実態把握が必要と考え、製造部門だけでなく非製造部門への影響も大きいと考えて会員・非会員を問わず全社対象にアンケート調査を実施している。現在集計中だが、なかには『閉鎖する』という回答も。商工会として『閉鎖するな』とは言えないかもしれないが、二月下旬に近隣市の団体や市民も含む一一団体の共催でシンポジウムを予定している。今日は会長も出る予定だったが所用で・・」等々。
 こちらも懇談二〇分余。「自由法曹団もシンポを企画している。
ぜひ協力しあっていきたい」と要請しました。地域への影響についての視点は共通しており、極めて好意的な反応でした。
【記者会見 立川市役所内三多摩クラブ】
 事前に一報を入れておいただけでしたが、予定時刻にほぼ全社そろっていてカメラも一台入っていました。出席した一〇数社の記者からは、「EU指令」をはじめとする国際法令との関係や、労使協議の問題などに質問が続出し、問題認識と関心はすこぶる高いことがうかがわれました。終了後も「これからも追っていきたいのでなにかあればぜひ」「ホットライン相談の様子を知りたい」など、ここしばらくは「打てば響く」状況と思われます。
 以上、日産労組や地域関係団体、記者団との結びつきも生んだ貴重な要請行動でした。その後の情報では、商工会が企画するシンポジウムは、二月二六日夜に武蔵村山市長も出席する一〇〇〇名規模のものになるとのことです(市民会館大ホール)。団の日産リストラプロジェクトが準備しているシンポジウム(三月二四日予定)や、自治労連関係で検討されているシンポジウムなど、日産リストラをめぐる地域などでの動きが前進しています。


工場閉鎖見直しを求めるうねりを職場、地域から

─日産現地レポート─

東京支部  吉 田 健 一

一 切実な声が寄せられた日産ホットライン
 団では東京支部を中心に、一月七日(金)から二八日(金)の間、八日間(火曜日及び金曜日の夜七時〜九時と一月八日午後二時〜六時)にわたって、無料電話相談活動に取り組みました。立川市の三多摩労働共同会館まで出張してもらい、のべ二〇名の団員に参加していただきました。参加者のみなさんご苦労様でした。  寄せられた相談は一〇件ほどでしたが、一件二〇分ないしそれ以上の時間をかけて不安や悩みが寄せられました。
○八〇歳の老人をかかえてとても移転できない。
○共働きの妻の仕事をやめるわけにはいかない。
○数年前に座間工場(神奈川)が閉鎖になり村山に配転されたが、今度は栃木だといわれても・・・。
○家を購入した多大な家のローンの支払いが残っている。
○面接で配転を拒否すれば不利益な処分とか、解雇されるのではないか。
 村山工場の閉鎖を大前提に栃木や追浜(横須賀)などへの移動を迫られている労働者の切実な声です。
 会社は退職強行などしないことを表明しており、労働者一人一人が「行けない」という態度を率直に表明することが重要であること、第一回の面接で一割の労働者が拒否、三割が態度留保しており、多くの労働者が抵抗する姿勢を明らかにすることによって閉鎖計画の見直しの可能性も開けるのではないかと私たちは考えています。
二 職場に大きな変化も
 全労連が中心となって昨年一一月に現地闘争本部を設置し、週二回工場門前でビラ配布・宣伝活動を続け、JMIU日産支部も少数ながら職場でがんばっています。
 JMIU日産支部の前身である全金プリンス支部に対する組合破壊攻撃、ビラ配布にたいする暴力事件や激しい差別など一九六五年以来解決まで二七年間に及ぶ長期の争議を通じて、工場門前でのビラは二〇〜三〇枚しか受け取ってもらえなかった状況でした。その同じ村山工場(労働者三〇〇〇人)で、一一月に現地闘争本部が配布したビラ二〇〇枚が受け取られたとき、古くから争議を支援してきた組合幹部は「革命」という言葉を口にしました。しかし、その後もビラの枚数は急激に増加し、一月六日には九五〇枚のビラが受け取られるほどになっています。
 リストラ計画に対して見直しを迫るJMIUの労働者にも職場の労働者から大きな期待が寄せられており、一二月二三日の現地集会の様子を報告してくれなどという職制も現れた、といううれしいニュースが伝えられています。
三 いよいよ正念場
 今年に入って一月一一日には、急遽労働大臣が現地視察にはいるなど政府も対応を余儀なくされる事態となっています。
 しかし、政府は日産のリバイバルプランをリストラのモデルケースと位置づけており、産業再生法を適用して事実上支援する動きすら伝えられています。職場では、表向きの説明とは裏腹に、「工場が閉鎖されるのだから配転を拒否しても残る職場はない」などと会社による配転強要が進行しています。
 職場・地域からの反撃がひろがり、プランの見直しを迫ることができるかどうか正念場を迎えています。日本政府やフランス政府(ルノーの株の四四%を保有)にも、プランの見直しや規制を指導するよう迫っていく必要があります。
 全国からのいっそうご支援をよろしくお願いします。
 (なお、日産現地闘争本部のホームページは、http://www.iijnet.or.jp/c-pro/nissan/index.htmlです。全労連ホームページからも入れます。現地闘争本部ニュースや団の意見書も載っています。カンパや激励のメールなど寄せてくだされば幸いです)


【シリーズ】改憲策動粉砕(第三回)

自治体には戦争協力の義務が課せられるのか

東京支部  中 野 直 樹

一 新ガイドライン法の重要な柱に「自治体・民間の協力」がある。
 この問題は、戦争法を遂行しようとする側にとって国民との矛盾と激突するデリケートな課題である。政府は、平成一一年七月、「周辺事態安全確保法第九条(地方公共団体・民間の協力)の解説(案)」を公表した。作成者は内閣安全保障・危機管理室、防衛庁、外務省の三者である。
 この解説(案)に対し批判的検討を加えた文献として、市橋克哉名古屋大学教授による「解説(案)を読む」(自治労連作成学習資料「戦争法の発動をゆるさず、平和を守るために」)、日本共産党国会議員団事務局山崎静雄氏による「自治体・民間動員のための戦争法『解説(案)』を批判する」(議会と自治体九九年九月号)がある。 この二つの論文も参考にしながら、自治体の協力問題を中心に「解説(案)」を紹介し、検討すべき論点を次の三つに分けて整理してみる。
  論点1 自治体への協力要請の法的性質
  論点2 自治体が拒否したときの国の対応措置
  論点3 自治体に要請される事項の種類・内容
二 論点1  自治体への協力要請の法的性質  
 九条一項による協力要請に対し、自治体は拒否することができるのか
1 九条一項は「関係行政機関の長は、法令及び基本計画に従い、地方公共団体の長に対し、その有する権限の行使について必要な協力を求めることができる」とする。
 特別委員会での審議が始まる前の段階では、政府内では次のように意見が分かれていた。
(内閣安全保障・危機管理室長や防衛事務次官見解)
 「協力要請を地方公共団体に対する一般的協力義務を定めたものと解し、この協力要請を、地方公共団体が正当な理由なく断ったときには、国が代執行を行ったり罰則を科したりする強制力を伴うものではないが、違法状態になると考える。」
(運輸省政策課長見解)
 「使用を許すか否かは自治体の判断。もちろん断れる。空港や港の使用は管理者の意向を尊重して行う以外にありえない。」
 しかし政府見解は、内閣安危室長・防衛事務次官の見解で統一されていった。
 たとえば、九九年五月一四日参院特別委員会で、野呂田防衛庁長官は「いわゆる一般的協力義務であります。九条一項にもとづく依頼があった場合、周辺事態という措置の緊急性、それから自治体の長のもっている権限の公共性、他に代替手段を求めることが極めて難しい、そういう環境の中で権限行使を求める。このような求めのあったことを 前提として、その権限について定めた根拠法の個別法令に照らして正当な理由があるかどうか判断される」と答弁した。
2 解説(案)は、一般的な協力義務があるという。一般的協力義務とは、「協力の求めを受けた地方公共団体の長は、求めのあったことを前提として、権限行使を適切に行使することが法的に期待される立場に置かれる」と説明する。その上で、「例えば、公共施設の使用について、許可を行う義務が生じるわけではない。例えば、使用内容が施設の能力を超える場合等、正当な理由がある場合には、協力を拒むことができる。拒否の事由が正当な理由にあたるか否かは、個別具体の事例に即して、当該権限について定められた個別の法令に照らして判断される。」とコメントをする。
3 この解説(案)の説明は、特別委員会における政府答弁をベースにしたものであることは間違いあるまい。
 山崎論文は、九八年時点での政府答弁が「正当な理由があるかどうかは、それぞれの個別の法令に照らして判断される」としていたのに対し、「九条一項の求めがあったことを前提として」との文言が加わったことを重視し、「自治体の長が協力の求めを拒否した場合、個別法令違反というだけでなく、ガイドライン法九条一項違反という二つの違反が発生することになる。これは自治体の長の判断にいっそうの圧力をかけるものである」と指摘する。 
4 これに対し、市橋論文は、解説(案)の説明について「これまでの政府解釈とは異なる」と評価する。
 解説(案)は、地方自治体に「許可を行う義務が生じるということではない」、「拒否の事由が正当な理由にあたるかどうかは当該権限について定められた個別の法令に即して判断される」という。さらに、「本法以外の個別法令に違反する場合に、停止・変更命令等の措置をとることができる旨の規定が置かれているケース」以外には、制裁的措置や是正措置がとられることはない、とも明言している。
 以上の解説内容を法的に表現すれば、自治体は九条一項による必要な協力を求められても、この求めが特別に法的な意味をもって自治体への義務づけを行うことにはならないことになる。つまり、自治体の拒否が違法になるかどうかは個別法令に照らして判断されるだけで、九条一項違反の評価を受けることはないと解される。
 山崎論文は、政府答弁や解説(案)が「九条一項の求めがあったことを前提として」との言葉を盛り込んだ意図を政治的に感じとっている。その危惧するとおり政府は「一般的な協力義務」をかざして自治体に対し圧力をかけてくるであろうが、法的には、それは行政指導の域を出ないものであり、自治体には九条一項によりいささかも法的な義務を負うものでないと解する。
三 地方自治法による「是正の要求」の対象となるのか
 改正された地方自治法二四五条の五は「各大臣は、その担任する事務に関し、都道府県の自治事務の処理が法令の規定に違反していると認めるとき、又は著しく適正を欠き、かつ明らかに公益を害していると認めるときは、当該都道府県に対し、当該自治事務の処理について違反の是正又は改善のため必要な措置を講ずるべきことを求めることができる」と定める。
 法案審議の際に、団対策本部では、周辺事態の際にこの権力的関与が悪用されるのではないかと考えた。白藤博行教授(専修大学)も「「一般法ルール」としての地方自治法に直接基づく関与が可能となれば、周辺事態法案九条一項が法的強制力を伴うものか否かは、国にとってさほど重要な問題ではなくなってしまう」(法律時報七一巻七号)と批判した。
 野田自治大臣は「場合によっては、個別法令の違反に関し、当該事務を担任します主務大臣の請求によって、内閣総理大臣が(現行)地方自治法二四六条の二に基づく是正措置要求を行うということも法律上はあり得る」と答弁した(九九年四月二三日 衆院特別委)。
 この問題をどう解するか。少なくとも、「都道府県の自治事務の処理が法令の規定に違反していると認めるとき」の「法令の規定」には周辺事態法九条一項は含まれないと解される。そして解説(案)が、二の4で紹介したとおり個別法の「規定による措置がとられることが考えられる」と限定的に記しており、一般法の地方自治法はここに含まれないと解するべきではないか。


誌上討論・オウム問題

オウム被害対策弁護団の活動に関わって

大阪支部  杉 本 吉 史

一 私は、これまでオウム被害対策大阪弁護団の事務局長として、教団に道連れにされた子ども達の人身保護請求や、教団に対する損害賠償請求事件等に関わってきた。
 それらの活動を通じて、最も腹立たしく感じてきたことは、一九九五年三月に地下鉄サリン事件が実行されるまで、警察や行政、裁判所の教団の違法行為に対する対応が極めて消極的であり、それが教団の犯罪行為を助長したことである。
 例えば、我々は学齢期の子どもを学校に通わせず、施設内に拘束したままの教団に対して、行政に対して児童福祉法に基づく立ち入り調査を要請したが、結局はなされずじまいであった。また、坂本事件に対する神奈川県警の捜査の不十分さはご承知のとおりである。
 上九一色村富士が嶺地区では、一九九四年七月に二度に渡り異臭騒ぎがあり、住民が富士吉田署に早急な立ち入り捜査を求めていた。同署では、周辺土壌からサリンの化合物を検出していたにもかかわらず、結局強制捜査はなされなかったとされる。
 これらの要因の一つには、警察、行政が、それまでにも「統一協会」をはじめとするカルト集団の被害を無視し、被害者の組織や住民などとの連携がなく、適切な情報を収集する対応を怠ったことがある。
 欧米では、七〇年代から、この新宗教問題について細やかな論議がなされてきたにも関わらず、我が国では宗教活動の名の下で違法が野放しにされ、それをオウムが巧みに利用したのである。
二 例えば、フランスにおいては、一九九五年七月に国民議会内に「セクト調査委員会」が設置され、新宗教運動についての国家的対応についての総合的な検討がなされた。
 その結果提出されたレポートでは、既存の刑罰法規、セクトの法外な金銭要求に対抗する法的手段、家族法上の義務、児童保護規定等で対応すべきものとする。
 ただ、これまではそれらの法的対応が利用されることのなかった実態を認め、セクト的逸脱との闘いにおいて、場面場面で求められる決然とした態度で、それらの既存法規の適用を実行に移すことが求められるとしている。
 さらに、対セクト特例法規を設けて対応することは、平等原則や宗教に対する国家の中立性に反するという。ところが、我が国においては、このような総合的な検討が全くといって良いほど政治の場ではなされなかった。我が国のオウム真理教に対する団体規制の施策は、これとは全く逆の道を歩んでいると評価せざるをえない。
三 一方、オウム真理教は本来であれば被害者に拠出すべき資金や、未だマインドコントロール下にある信者の布施でもって、道場等として使う目的で、次々と物件を購入してきた。そこに出入りする信者は次々と入れ替わり、信者自身の居住意思は不明確である。
 地域住民の住民登録拒否の要請は、教団の活動の実態に根拠づけられている。
 上九一色村の住民たちは、教団と毅然と対決しながらも、教団施設を逃げ出した信者を保護し、子どもの救出を願う信者家族を支援してきた。
 多くの団員が、教団や信者の実情を正確に住民に伝えるためにも、その闘いに関わり、運動を支援していることは忘れてはならない。
 既存法規を活用することを支援する受け皿があってこそ、カルト集団の暴走を抑止できるし、それが機能しないところでは、安易な抑制策を促すことになることを肝に銘じるべきである。


オウム対策法と憲法第二〇条

神奈川支部  根 本 孔 衛

 オウムの教団が関与した大量殺人事件とそれに関しての教団の態度を見ると、教団活動の近くにいる住民が教団の動きに対し警戒心をもち、一連の事件のような惨事が再びおきないようにそれに対する監視等の行動に出ることは人情としても当然である。住民の安全を保持すべき責務を有する権力が、危険の可能性がある限り、その体勢をととのえ、事件がおきたならば迅速、的確な行動をとるべきことは、同様である。しかし、そのためには、何をしてもよいというものではないことは言うまでもない。
 これまでの一連の殺害事件は、オウム真理教団の教理に関連しているかに見え、またそれには教団活動、教団生活がその成因となっていた、と判断して誤りがないであろう。これらの事件を再現せしめないための方策として、二つの方向がある。
 一つは、これら事件の成因にかんがみて、教団の存在自体を否認し、あるいはその宗教活動を止めさせ、抑制するという方法である。
 他は、宗教活動は容認し、それが外部的、客観的な行為として他人の人権を侵害した場合、事毎に処罰し、制裁を加え、これに対しあくまで世俗的観点から対処することである。
 いわゆるオウム対策法には、宗教の文字こそないが、そこでとられる規制の内容からみると、教団活動を抑えることを目標にしている。「世論」も又これを期待しているかのようである。しかしこのような方策の選択が適切であり、妥当であろうか。甚だ疑問である。
 オウム教団が関与した殺人事件の中で、その元信徒を殺害した事件が三件あると報じられている。この事実は、教団が関与した殺人その他の反社会的行動の肯定は、教団の公然とした教義にはなっていず、兇悪事件は教団の一部首脳間ではかられ、一般信徒には秘匿されていたことを意味しないであろうか。これが教団の内外に洩れることをおそれて殺害がおこなわれたと考えられる。そうだとすると、現在裁判にかけられている教団中枢部にあった者以外の信徒たちは、一連の兇悪事件を知らされてはいず、自分たちの信仰するオウム真理教は、殺害行為とは別のものであると考えているのではないだろうか。彼らが、この法律を宗教弾圧と受け取ることは、まず間違いないところである。
 宗教としてのオウム真理教が、科学的知見からの批判に耐えられるものであるか、近代合理主義と良識の立場から容認しうるかの問題は、今度の立法の当否とは別の問題である。しかし、この法律は、我われの目からみて問題性の多い教団から彼らを離れさせ、社会復帰をさせるためには、社会との通路を遮断し、かえってその障害になるとも思えるのである。
 一方、この法律が人権と自由を侵害する危険の大きいことは識者のひとしく認めるところである。憲法二〇条が規定する信教の自由、政教分離原則は、西欧における一六世紀の宗教改革以来、宗派弾圧と宗教戦争が、政治的社会的な安定をもたらさないばかりか、人民の権利と幸福を阻害してきた歴史的経験による近代社会の原則的な確信である。我々の体験についていえば、明治政府の権力によって創出された天皇信仰と国家神道が、「軍事的封建的帝国主義」の精神的基盤となり、支配勢力がそれを国民に強制することにより、国民の思想、信条、良心の自由を奪い、国民を侵略戦争にかりたて敗戦の惨苦に至らしめたことは紛れもない事実であった。
 日本の「国体」護持のための法律=治安維持法は、社会運動の弾圧にはじまり戦争体制の強化とともに文化運動、宗教に対する弾圧にいたった。今度の宗教活動抑制法が社会的動揺の深まりとともに、やがて文化活動、政治活動の弾圧に至らないという保証はないのである。周辺事態法、日の丸・君が代法、盗聴法が成立し、有事立法は日程にのせられている情勢を考慮すれば、その危険性は大きい。
 現にオウム対策法は、規制の対象を宗教団体に限定せず、かって問題をおこした団体に属した者が一人でも入っていれば、その団体は規制の対象となりうるとしている。
 治安維持法による弾圧は、権力の直接的な行使によってのみ行われたのではない。権力側は、日本社会に存在していた共同体的思考を利用し、これと合体して、対象者を一般社会から隔離し、その活動の自由を奪っていくことによって、その威力を発揮したのである。現在においても、昭和天皇死去の際の全国的にみられた「自粛」、神社の祭礼費用の寄付の催促を町内会を通じておこなうことが怪しまれない等、なお共同体的思考は日本の社会に根強く残されている。
 人びとが「世論」に同調しないことをおそれ、また「世間」が多数と異った考えを持つ者を忌み嫌ってこれを排除しようとする傾向も否定できないのである。このような社会的潮流の中で、オウム対策法を考える時、これがもつ危険性について楽観視することはできない。権力側がこの法律を制定していった手口をみると、これを踏台にして次の抑圧法規の立法化が試みられるのは必至である。
 それどころか、この法律自体、国民の監視がゆるめられれば、その運用によって民主主義に対する弾圧法になりうることは識者のひろく認めるところである。自由の享受については、多少の危険性をともなうことは避けられない。オウムの危険を恐れるのあまり、官憲に広範な「取締りの自由」を与えるならば、国民の自由はやがて死んでしまうであろう。我々が、その擁護を責務とする人権は、そのような自由の上に成り立ち、自由と共にある。日本の歴史をみると明治維新前後、日中戦争時、敗戦直後等歴史の転換期、社会的動揺のはげしい時に「新宗教」が続出した。
 その対策としてとられた宗教的抑圧の方法はその歴史的過程の悪化を促進したのである。多くの悪虐行為を犯したオウム教団に対しても、宗教的抑圧の方法はとらず、現出した事実毎に世俗的観点に基づく近代刑事法的手段の強化によって対処すべきであると説くことは、現存の「世論」に逆らう結果になるかもしれない。しかし我々は、法律家として、国民に対して自由と人権のもつ真実の意味を伝え、危険を多少残すことがあっても、宗教的抑圧の道に進まないことが、健全な社会の発展にとって必要である所以を説くことはその使命であろう。


オウム問題について

神奈川支部   滝 本 太 郎

 一〇〇〇字で実のあることを書く能力が乏しいので、できれば、カナリヤの詩のホームページ( http://www.cnet-sc.ne.jp/canarium/ )に掲載してある滝本コメントとか、週刊読売一九九九・一二・一九号の論稿あたりを参考にしてもらえると幸いです。以下、箇条書きに。

  1. オウム集団は、数十人を殺しただけではない。核爆弾にも匹敵する化学兵器サリンを使い、大量無差別殺人をしたもの。数百万人を殺そうとしていたことを軽視した理論は、なんの説得力もない。教団は内部で、死刑となるだろう人は「大いなる艱難を与えられた祝福された魂であるを」と言っている。
  2. オウム集団は、カルト性を下げているものの、「目的のためには手段を選ばない」「真理のための嘘はつくべき」という発想になんら変わりはない。麻原さんの指示がないので、殺人・破壊活動をしないだけ。放っておけば、監禁・薬物くらいはすぐにするだろう。
     今もダミーのホームページ、ダミーサークル、偽ったソフト会社をやっている。
  3. 破壊願望に支配されたオウム集団の思想は、永遠にたたかうべきもの。思想、信教の自由とその思想は殲滅すべきであるということは、別の問題。
  4. 団体規制法は、どんな形でも反対。共産党の提出したサリン法の修正などは、公安委員会という何の判断能力も力もないところに下駄を預けるもの。内務省を復活させたいのか、と思った。
  5. 成立した団体規制法と破産特例法で、数百人を別に組織からはくる方向になろう。
     しかし、数百人は潜ってしまうだけ。偽装解散ぐらいは平気でするのが、オウム集団。まあ、世論は「見えなくなればいい」ということかと思い、暗澹たる思い。
     離れた人も、 麻原さんを信じたままでは、組織から離れようても真の脱会ではないし、脱会していない以上、社会復帰もない。
     真の脱会者にとっては、いい迷惑。
     だから、団体規制法には反対。
  6. 法律的には、破産特例法の方が、はるかに異例の法律である。 観察処分とリンクさせずに、独立の法律とさせたかった所。信者の一部から現世での償いはした方がいいのでは、という現実感を取り戻しつつある発想も予想通り出てきている。
     カウンセリングにもこれならあまり障害にならないので、返す返すも残念。
  7. 組織をどんな形にせよ残したり、信じていては、謝罪する資格はない。
     オウム真理教と麻原さんの思想を許さないからこそ、最後の一人まで付き合いたい思う。

いわゆる団体規制法について

神奈川支部  武 井 共 夫

はじめに 国の責任
 私は、同じ事務所に所属していた坂本堤弁護士が殺害されるという事件があって以来、十年以上オウム真理教と闘い、オウム真理教被害対策弁護団の中心メンバー、坂本弁護士事件の事実調査の責任者として、オウムの色々な犯行、違法行為の実態について、調査もしてきた。弁護団からは、警察当局を初め関係当局に対して、オウム真理教がサリンなども有している非常に危険な団体であるということも指摘してきたが、残念ながら、公安調査庁が何も対応しなかったのは勿論、警察当局も非常に不十分な対応だったということから、凶悪事件になってしまったのであり、国家の責任というものは非常に重大である。
破防法適用の問題
 弁護団は、教団の破産申立を行い、教団の危険な活動の封じ込めに一応成功し、それを踏まえて破防法に関しては、弁護団としては破防法の適用が教団を消滅させる役には立たない、かえって信者の信仰をいたずらに強固、過激なものにしていく危険がある、また破防法適用の法律的な要件である、「継続または反復して将来さらに団体の活動として暴力主義的破壊活動を行う明らかな恐れがあると認めるに足りる十分な理由がある」という要件を満たしているとは言えないということで反対した。
立法はやむをえない
その後、オウム真理教は今回のいわゆるオウム新法提案まで一連の凶悪事件に対する反省、謝罪をすることなく、弁償もしていない。そして、松本智津夫被告への帰依を続け危険な教義を維持し、いわゆる休眠宣言まで非常に活発な活動を行っており、被害者、市民に与える危険性についての不安、危険性は否定できず、特別立法なしで解決できれば望ましいが、立法自体はやむを得ないのではないかと考え、参議院法務委員会の参考人としても、同様の意見を述べた。
 ただし、規制立法によって教団や信者を消滅させる事は絶対にできないし、一部の信者の信仰を強固、過激にしてしまう可能性や元信者の社会復帰が妨げられるという事態が生ずることもあることに留意すべきである。
オウム教団の組織・教義の危険性
 このような立法がやむを得ないかどうかを考える上で、教団がまじめな青年達に薬物をも用いながらオウム真理教の教義を繰り返し繰り返したたき込み、リンチ・懲罰等の恐怖で支配するいわゆるマインドコントロールのシステムのもとで凶悪化を進め、ハルマゲドンという思想やヴァジラヤーナの教えなどの教義の下で、凶悪犯罪を行わせしめたということは、重要である。
 オウム真理教の信者が行った数々の犯行は松本智津夫被告以下の幹部の指示に基づいて組織的に行われたものであり、刑事被告人となった信者は、たまたま教団内で犯行を行う者として指名・指示されたから犯行に加わったもので、その役割は、いわば幹部信者の「手足」とも言えるものである。他の犯行に加わらなかった一般信者との違いは、たまたま指名・指示があったかなかったかだけであるから、刑事被告人は危険だが、一般信者は安全だということにはならないし、一般信者も刑事被告人の犯行をいろいろな意味で支えてきた責任もある。松本智津夫被告外の幹部からの指示があれば、いつ犯行があっても決して教義上おかしくない存在なのである。
団体規制法の問題点
団体規制法は、極めて強力な規制を可能とする法律となっており、憲法の定める国民の基本的人権に最大限配慮し、その適用対象を現実の教団の危険性に対処するために必要不可欠なものに限定することが必須である。そのためには、オウム以外の団体への乱用のおそれをなくし、適正手続の理念に沿った手続の整備をすべきである。
また、無差別大量殺人の定義について破防法を引用している点は、オウム以外の団体への乱用の危険性を懸念させるもので、破防法と切り離すべきである。政治目的が果たしてはっきりあると言えるかどうか松本智津夫被告の供述がまだ正確に得られない中で定義規定において破防法を引用することは、オウム真理教への適用の可能性を狭めることにならないのかということも懸念される。
未遂も含まれる点も、オウム以外の団体への適用の余地を残す心配がある。
適正手続について、観察処分後の立入調査等は、やはり少なくとも事前、あるいはどうしても緊急やむを得ない場合には事後に速やかに委員会の承認を必要とするというような令状主義的なチェックをすべきである。
 再発防止処分に関しては、より強力な規制内容だけにより厳格な適正手続、厳密な法律要件の適用が必要である。
サリン被害防止法案の評価
共産党の提案したサリン被害防止法改正案は、無差別大量殺人行為の定義について破防法の引用をしていないという点、立入検査について国家公安委員会の承認を必要としている点、職権乱用罪の法定刑を重くする点などが、評価できる。
オウム問題の解決のために
 オウム問題を解決するには、勿論排除の論理ではだめであるが、教条主義的な人権主義も通用しないことを理解すべきである。
 そのためには、これまでカウンセリングを実施してきている民間の団体・個人やボランティアに対する援助(研修と資金等)や協力が必要である。
以上、国会議事録からの抜粋にさらに要約をしたもので、小口事務局長が担当した。見出しは原文にはなかったもので要約者がつけた仮のものである。これに武井が表現等手を加えました。


「論点整理」と司法改革の課題

東京支部  高 橋   融

 一二月二一日司法制度改革審議会は、これまでの審議の経過をまとめて、今後同会議が一年六月かけて審議する事項の論点整理を行い公表した。これは、国会において全会一致で可決された司法制度改革審議会設置法により、内閣に設置された同審議会が、国民の期待を一身に受けて六ヶ月にわたり審議し、全会一致でまとめた項目である。これは今後の審議事項を定めたものであるために極めて重要なものである。
 ここでは、次の三点のみを具体的に指摘したい(他にこれらの問題点を生み出す、理念上の問題があると考えるが、これらについてはここでは触れない)。
 一には、この中に含まれているもののみが審議事項であり、それ以外は例外的な場合を除き、排除されるという意味で。したがって重要なものが脱け落ちていないかが、吟味されなければならない。
 二には、この中に入っているものは特別のことがない限り、審議されるから包含されるという意味で。したがって、これまで提起されていなかったものが入り込んでいないかが、吟味されなければならない。
 三には、当面審議事項には入れられたものでも、「論点整理」は取扱う角度や、その位置づけを定めていると見える節がある。これが適正かが吟味されなければならない。
 最後にこれらを踏まえて、全体としてどう見るべきかを考えなければならない。
第一 欠落している問題としては、
@司法(特に裁判)の現状批判、司法行政批判が全くなく、財界の要求が前面に躍り出ている。
 ここには、司法の現状と改革の方向という項目が設けられ、一応は司法の現状が分析されているような体裁が取られている。しかし、その司法の現状批判は掲げられているものの、漠然としていて、司法の作用の核心部分である裁判については、全く具体的批判がない。
 なにごとでも、現状分析とこれに対する批判のないところに改革はあり得ない。これは病状についての診断がなくては、いかなる治療もあり得ないと同様である。大体、司法改革審議会は現状を病気と見ているのか、そうでないのかも分からない。これでは栄養を補うためのビタミン剤ぐらいは出せようが、重篤な患者に必要な手術などはできるはずがない。司法改革はなしえないのである。また、文中で「制度改革を実現する努力が重ねられ、八〇年代末以降顕著」などというが、これは官僚の作文の典型であり、これ自体何を指すか具体的な指摘がないため、何を評価しているのか全く意味不明である。
 これに引き続く、「国民が司法に期待するもの」を見ると、アクセス、ニーズに応じた、適正・迅速な司法的救済は国民の要求であるとともに、現時点では財界の強い要求であることを見ておかねばならない。また、時代状況に適応した適正な刑事司法手続を通じ、安全な社会生活という治安重視は財界の要求そのものである。財界の要求が、正面に躍り出てきているのである。
A刑事司法批判、国際的批判が無視されている。
日本の刑事司法については、学者・研究者から又弁護士を初め実務家からも厳しい批判があるとともに、同旨の国際的批判がなされている。その詳細については繰返さないが、項目だけ挙げても長期間の代用監獄における勾留、自白しなければ認めない保釈、その下での弁護人立会なしの長時間取調べ、戦前よりの旧態以前の調書の密室内での作成され方、その調書の広範な証拠能力の認定、自白調書の極端な尊重、極めて容易に行われる任意性肯定判断、その下での無制限な検察官上訴権の存在、並べ立てれば限がないほどであり、刑事司法においては余りにも人権が弱すぎる。国選弁護を被疑者段階で認めることは前進であるが、そのことをもって、これらの状況を変えることはできない。これらの国際批判について、言葉だけ「人権保障に関する国際的な動向をも踏まえつつ、----検討すべきである。」では済まされないのである。
B警察、検察の問題が全く触れられてもいない。
これに加えて、近時急速に問題化している警察制度のあり方、権力集中的な現行検察制度などは、量的整備以外は全く問題にされてもいず、審議の対象となっていない。
現行公安員会制度は、当初統治主体である国民の公選により選出された公安委員会が警察を管理する民主的制度として導入されたものが、その後改正され、逆に統治主体である国民から警察を切り離す制度として機能し、遂には警察の腐敗に至ったもので、当然に起こるべくしておこっているのである。
 また、検察同一体の原則と公訴権独占と起訴猶予の組合わせによる強大な権限を持ちながら、実際に多くの検察官が代用監獄によりかかった警察官の後追い的な取調べと調書作りに甘んじている矛盾は、早急に解決されねばならない。
Cこれらは、予定された審議の期間が短いために、抜け落ちたのであろうか。そうは考えられないところに問題がある。@は「多角的視点から司法の現状を調査・分析」すべき審議会の基本姿勢の問題であり、ABは、視角を変えて、治安維持の視点から次項のような取上げ方をされているからである。 第二 新たに提起された問題としては、
 犯罪捜査と公判手続の強化の問題がひそかに提起されていることである。私たちは東大の刑事法の教授であるとともに、盗聴法の学問的推進者であった井上教授が、審議会委員に任命されることに反対してきたが、それはこのような事態を恐れてであった。検察官出身者の水原氏や同教授に対応して刑事手続における人権を主張できる人材が欠けているのである。この空白を利用して前項ABで挙げた問題が抜け落ちて、他方で治安重視の観点から、このような取上げ方が行われるのは、司法制度改革審議会の最も陥ってはならないことである。
第三 私たちが制度的な改革目標の二つの焦点として掲げている@法曹一元の問題とA陪審制の問題について、特徴のある明確な差がつけられていることである。  法曹一元については、「法曹一元の問題は、裁判官任用制度に関係しつつも、それに局限し得るものではなく、法曹人口、法曹養成制度、弁護士業務の在り方等も含めて司法(法曹)制度全体の在り方と深くかかわっているというべきであろう。」と位置づけ、裁判官任用や裁判官の独立の保障の問題とも関わる問題として「幅広く検討する」課題とされている。
 他方、陪審制については、一般的に、「司法の分野においても、主権者としての国民の参加の在り方について検討する必要がある。」とした後、「司法を国民により身近で開かれたものとし、また司法に国民の多元的な価値観や専門知識を取り入れるべく、これら現行制度の在り方について見直すことはもとより、欧米諸国で採用されているような陪審・参審制度などについても、その歴史的・文化的な背景事情や制度的・実際的な諸条件に留意しつつ、導入の当否を検討」とされている。
 ここから直ちに、法曹一元は実践的検討課題とされたが、陪審制については、「歴史的・文化的な背景事情や制度的・実際的な諸条件に留意」と言う障害物を設けて、「導入の当否検討」まで貶められたと言うのは、言い過ぎかもしれないが、しかし、当たらずと言えども遠からずであろう。
 最後に一言、今ほど私たちが声を上げることを求められている時期はあるまい。団員諸賢のご協力をお願いしたい。


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