東京支部 大 森 夏 織
昨年四月一日、改正男女雇用機会均等法の施行日、JAL客室乗務員二五名が東京女性少年室に均等法上の調停申請した事件について、四月一日の調停申請から七月二九日の調停開始決定までの間については「『東京女性少年室』は、女性労働者の頼もしい救済機関のはずじゃないの?」というサブタイトルのもと各所で愚痴らせていただいた。今回は、「機会均等調停」と勧告された「調停案」の顛末についてご報告することになった。
調停は昨年八月から一一月の七回で二五人申請人数名づつからの事情陳述をし、今年一月の八回目に「紛争の問題点と調停委員会の見解」が示されて事実上「結審」し、九回目の二月一四日に「調停案受諾勧告書」が出され、三月一四日に、こちら申請人側は正式に調停案の受諾を拒否した。つまり「終わった」わけである。なお、下記の文章は、「民主法律」二四〇号掲載原稿(一月二〇日付)に、調停案勧告をふまえて修正加筆したこと、ご了承いただきたい。
調停は「申請したら開始」が原則では?
まずそもそも、四月一日に申請して七月二九日の開始決定まで四ヶ月かかったのはなぜか。それは一杉一子東京女性少年室長が「女性労働者と会社の紛争」について東京女性少年室が不必要なチェックを入れたためである。
改正雇用機会均等法一三条では、「…紛争について関係当事者の双方または一方から調停の申請があった場合において、当該紛争の解決の必要があると認めるときは、機会均等調停委員会に調停を行わせるものとする」と定めており、当事者の申請があったときには原則として調停を開始することになっている。にもかかわらず、四月以降、東京女性少年室長一杉一子氏は「申請人の皆さんは、自分の昇格差別についての不満・苦情を会社に正式に申立しましたか?もし正式な申立をしないで調停申請したならば、会社はあなた方申請人の不満を事前に認識できないから、それは『紛争』とは認められない可能性があります。よって調停の対象にはできず、調停不開始かもしれませんよ」という認識を示していた。この室長の非公式見解は、これを知った多くの弁護士から強い批判を浴びた。
つまりは、せっかく「事業主の同意」要件を廃止したにもかかわらず、女性少年室長が調停開始決定の判断権者とされているために、本来は女性労働者から申請されたら開始要件(一年以内の紛争、他の救済手段を求めていない、集団的な労使紛争に絡んでいない)を満たす限り原則的に開始されなければならないはずの調停なのに、室長の判断で「調停開始対象ではない」と排除しうる危険性が、現行の雇用機会均等法には残っていることを身をもって感じた次第である。
代理人はひとりしかダメ?
調停開始前に、弁護士が申請人の委任状を持参したところ室から突っ返された話、この報告は各所で憤慨と励ましの声をいただいてきた。
今回、またもや代理人関連の憤慨エピソードをご披露したい。
その一。調停開始後には均等法施行規則上代理人制度が存在するから、さすがに委任状を突っ返されるとは予想していなかった。しかし。東京女性少年室に申請人二五名各自の弁護士六名に対する委任状を事務員に提出してもらいにいったところ、その事務員が委任状を持ち帰ってきた。いわく、東京女性少年室は「代理人の数は原則ひとりの申請人あたり一名にして下さい」と言い、また「(均等法規則上、委任状記載が求められている)『代理人の住所』について、住所といえば住民票の所在地だから弁護士は自宅の住所を記載しなければなりません」と言い、委任状の受領を拒否したとのこと。事務員もわが事務所の辣腕所員だけあって三〇分も押し問答してくれたそうだが、東京女性少年室は譲らなかった。弁護士の数に制限?弁護士の住所として自宅を書く?均等法施行規則一〇条には、代理人や補佐人の数を制限する規定はどこにもないのに。仕方なく東京機会均等調停委員会あてに「代理人に関する要望書」を提出したところ、調停委員会はすんなり六名の弁護士の代理人就任を許可し、また事務所の住所でよしとされた。当たり前である。すんなり許可するくらいであれば、最初から理由もなく、「代理人弁護士は一名限定」などと制限する必要もないのでは?東京女性少年室のこの対応が「嫌がらせ」だったのか「杓子定規」だったのか、今だにわからない。
調停らしくない調停と、調停委員にふさわしくない調停委員
改正にかかわらず、機会均等調停委員会は都道府県女性少年室に設置され、調停委員は労働大臣に任命されることに変わりはない。
その結果、労働省女性局(都道府県女性少年室の監督機関)の意をくんだ委員が選ばれることになって、調停委員会は女性少年室長が主導して運営されている。
調停がどんなふうに行われるかをイメージしていただきたい。あたかも刑事法廷調停委員会が、あたかも法廷の裁判官のように正面に委員長を真ん中に三名並び、女性少年室長以下の女性少年室メンバーが、法廷でたとえるところの検察官席に並んでいる。対峙する弁護人席には速記者が並んでいる。調停の場所は、ホテルのだだっぴろい会議室等(というか小バンケット)を借りて行われる。このコストもかなりのものであろうし、ほんとに女性労働者が救済制度として普通に利用しようと思ったら、こんなやり方は到底できないであろう。
調停委員三名の女性労働者の雇用差別に関する見識も低い。例を挙げる。申請人各自に毎回呼出状が送られてくるのだが、ここで調停委員会が予定している申請人からの「聴取事項」の中に、「病休、産休、育児休業、生理休暇等の休暇の取得状況について」という項目があり、事前提出を義務づけられた陳述様式の中にこれら休暇の取得日数を書き込まなければならないことになっていた。こちらの疑問、つまり「どうして申請人が例えば生理休暇をとったかどうかを申告しなければならないのか?生理休暇は労働基準法で女性労働者に保障されているんじゃないの?まさか会社が『申請人らは生理休暇をいっぱいとってるから昇格できないんです』とでも抗弁しているんだろうか?」を調停委員会に質問状としてぶつけたところ、何と委員長の回答は「会社からはまだ事情聴取していない。調停委員会の関心として『女性労働者が男性労働者に比べ、突発的に休みやすいという状況があれば会社としても不利益があるのではないか』と思ったから」。ちなみに女性が多数を占める「客室乗務員」のシフトを組むにあたり、当然JALでは(他社でもおそらく)必ず年間生理休暇取得状況を数字として出して、誰かが生理休暇を申請しても差し支えないように余剰人員シフトで体制を組んでいる。つまりあらかじめ「客室乗務員」は生理休暇の取得を前提として勤務体制が予定されているのだ。会社でさえ抗弁しないような、労働基準法違反のお節介を調停委員会がするのは不適切極まりない、と意見書を提出した。
東京機会均等調停委員会の委員長は中労委の会長代理経験、かつ婦少審のメンバーとして均等法を制定・改正してきた、そういう意味では「この畑の長い」若菜充子氏という女性弁護士であり、一見あたかも女性労働者の救済機関のかたちは整っているようだが、この若菜氏は、率直に申し上げるが、上記の「生理休暇等エピソード」をはじめとする女性労働者差別問題に対する不見識・その質問態度・進行についていちいち室長の顔を見なければ決定できない態度、およそ全てにおいて不適任極まりなかった。
このような、調停委員の選任の不透明さ、官主導の限界を反映した結果の指導力のなさ、東京女性少年室の調停委員三名の女性労働者の労働問題への造詣の深さや経歴という観点での人選上の不適切さ、について、実際に「どうしてもっと女性労働者の差別問題に詳しい有識者を機会均等調停委員に選任しないのか」という素朴な疑問が各方面からあがっており、JAL事件を通じて実感した。(つづく)
神奈川支部 三 木 恵 美 子
「女性の家・サーラー」とは、主として外国籍女性のためのシェルターである。
一九九二年九月に設立した動機は、「日本に行けば工場で仕事ができる」とだまされてタイ王国などから来日したところ、管理売春を強要された女性たちが逃げ出してきて出国までのひとときを過ごす場所を確保したかったというところにある。このころのシェルターの状況は、まさに、野戦病院といった雰囲気で、常時数人の女性たちが駆け込んできた。新しい利用者が駆け込んでくると、まずとにかく食事をしてもらってお風呂に入ってもらって着替えをしてもらって、第一次聞き取りをさせてもらって、タビエンバーンという本人の同一性を証明する書類をタイから取り寄せる手続の申請書を作って、そして眠ってもらって翌朝を迎えるという毎日が続いた。
多くの女性たちは、安心して眠りはじめるとマグロのように眠り続けることが多かったが、なかには恐怖心が拭えきれずに何日も眠れなかったり、悪夢を見て夜中に叫び出す人もいた。精神を病んでいる人もいて、夜中に自殺しようとしたりすることもあり、台所にあった包丁を全てタオルに包んで金庫に入れ、それで救急車を呼んだこともあった。体の方も病んでいる人があって、HIVならば緊急に対応しなくても一気に悪くなりにくいし、一旦認定されれば医療費がかからないのでよいが、肝炎にかかって目玉の白目の部分まで黄色くなっている人が来たときには医療費がどうのとか在留資格がどうのとか四の五の言う暇もなく、入院先を探した。このように心身のいずれかを病んでいる人は、逃げてきたというよりは、管理売春元から放り出されたというのに近い状態だった。病気があればそれに一応対応し、そうでなければ平均して一週間から一〇日程度で、同一性を証明し、旅券はもちろん管理売春元に取り上げられているから大使館から渡航証明を取り寄せ、帰国便を予約して航空券をもって渡航証明をもって入国管理局に付き添って出頭し違反調査を受け、帰国便に乗るところまで付き添うという慌ただしい毎日を、専従とボランティアのスタッフが千本ノックのように繰り返していた。
一九九五年くらいから、サーラーの利用者は様変わりしていく。まず、日本人と婚姻しているがその連れ合いから暴力を受けていてそれから逃れてきたという女性たちが増えてきた。そして、その女性たちは、殆どの場合、子どもたちをつれてきた。子どもたちは日本国籍を持っていることも多く、このころから私たちは「外国人女性のためのシェルター」という言い方をやめた。一人の女性が三・四人の子どもを連れてくることもあり、シェルターの中は乳児院と保育園が一緒くたになった状態だった。母子でやってくる人たちを相部屋にするわけにもいかず、いつもおつきあいさせていただいている民間のシェルターに入れていただくようお願いしたり、婦人相談所の一時保護や母子寮入寮をお願いしたりして、何とか回していただく状態になった。横浜では、婦人相談所も母子寮も、外国籍かどうかに関わらず入れていただけたので、要は順番待ちして空きがあるかどうか、母子寮に一組が出てくれれば、もう一組がサーラーに入れるという状況が、これは現在も続いている。このころから現在までには、殆どの親子は日本に定着することを希望しているので、生活設計をして、場合により生活保護の手続きをとり、そして住居を決め、保育園を決めるという、かつてとは様変わりした仕事が増え、並行して、離婚して親権をとるための調停と訴訟が激増した。
これらの複雑な手続を要するため、一組の母子の滞在期間が長期化し、確かに野戦病院ではなくなったけれど、別の難しさがたくさんあることに気がついた。
最近は、子どもたちがかなり大きい母子もあり、転校の手続や転校先の学校との調整が必要で、なんと、「家庭訪問」の時期にはいくつかの学校の先生がサーラーを訪問されるという事態に至った。一五歳以上の男の子を連れてきた人もいて、協力してくださる個人の家に泊まっていただいたこともあった。さらに、高校受験などの進学の相談もある。
また、イスラム教徒の女性たちまでが逃げてくるようになり、食事の仕方からして問題となった。これまではタイの仏教とフィリピンのカトリック、南米のカトリックという組み合わせが主力でさしてトラブルもなく、食事も利用者が単独ないしは共同して作って食べていたが、ムスリムには食生活や日常の祈りなどで特別の配慮が必要なので、ムスリム母子が一組でも利用されているときはほかの母子との関係調整に気を使わざるを得ない。
このように、日本における外国人社会の多様化と定着化が、サーラーの利用者に如実に反映している。
そして、以前は、もっぱら、外国人の中の口コミネットワークによってサーラーを知って逃げ込んできていたのが、日本人の紹介できたという人が顕著に増えてきた。その場合の日本人とは、元外国人で今は日本国籍を取ったという人ではなく、市役所や区役所の職員、医師やケースワーカーなどの医療関係者、そしてはたまた近所に住んでいる日本人が見かねて逃がした等々。そういう意味でも、日本における外国人市民が日本に定着し、日本人の側もそれにだんだん慣れてきたという状況が見える。
日本における外国人社会の変化と成熟の速度は、日本人社会の同時期における変化と比べて、よい方向でも悪い方向でも、圧倒的に速い。私の実感では、一九九二年からの八年間の間に、日本人社会の三〇年分くらいの変化があったような気がする(ちなみに一九八七年に関わりはじめてから今までの一三年間では、五〇年分くらいの感じがする)。歴史的事実としては八年なのだが、利用者の方は、単身女性から赤ちゃん連れ、子連れ、大人になりかけの子どもたち、中には孫のいる人までやってくるようになったし、大きなビジネスをやっていたり高価な物を持ってやってくる人も現れるようになった。
まあ、とにかく、彼女たちとつきあっていると、毎日ワクワクドキドキの連続で、決して飽きたり慣れたりはしないのである。
広島支部 佐 々 木 猛 也
昨年九月一一日、広島弁護士会、広島市、広島県医師会の共催で標記のシンポジウムを開催した。
弁護士会の平和推進委員会委員が二派に分かれ、「核の傘」必要論と不要論の立場から四つのテーマ(核の傘は必要か、核の傘の信頼性、核の傘からの離脱、国際法・憲法と核の傘)についてディベートをするという内容である。
核兵器の廃絶を求めるわれわれは、今、核の傘の下にある。そもそも核の傘とは何なのか。国民は核の傘をどのように考えているのか。核の傘があった方がなんとなく安全だと考えているのか、離脱すべきと考えているのか。核の傘はどこに向けられているのか。核の傘は本当に機能するのか、またしているのか。核の傘の下にありながら、核兵器の廃絶を求めることに矛盾はないのか。核の傘と非核三原則の関係をどう理解すればよいのか。核の傘の見直しがない限り、核兵器廃絶の訴えは国際的説得力を伴わないのではないか。
核の傘から離脱したときこの国の安全はどうなるのか。離脱の道はどう準備すれぱよいのだろうか。シンポジウムはそのような疑問を出発点とした。
第一テーマは、北朝鮮の核兵器開発と弾道ミサイルの脅威、中国やロシアの軍事的脅威をどう見るか、これに対する核の傘の有効性と軍事的緊張拡大のおそれはどうか、地域紛争や大量破壊兵器を持うテロリストの脅威に核の傘は有効に機能するのか。
第二テーマは、冷戦終結後においてポ核の傘は必要なのか、核の傘は安全保障の手段として有効に機能するのか、信頼し得るものか、それは核兵器に対する抑止なのか通常兵器や大量破壊兵器も抑止するのか、通常戦力での防衛と核の傘、核先制使用の問題。
第三テーマは、核の傘からの離脱とは何か、そのプロセスはどうか、離脱の日米同盟に及ぼす影響はどうか。
第四テーマは、憲法と核武装、国際法上の武力行使禁止の原則と核抑止論、国際司法裁判所の勧告的意見と核抑止論。などを論じたものである。
ディベートのなかで、広島大学原医研・鎌田七男教授による核兵器の残虐性の医学的見解を聞き、最後に金子熊夫・東海大教授の講演でまとめたシンポジウムは内容豊かなものであった。
非核三原則の法制化、核兵器廃絶を求める国民と、アメリカの核抑止力すなわち核の傘への依存をもってこの国の安全保障政策とする政府、その問には深い溝がある。溝がありながら国民的論議はされず、非核三原則と核の傘との関係は暖昧模糊のままであり、核の傘について広く国民の問で論議されることを願ってのシンポジウムであった。このシンポジウムの内容は小冊子(五〇〇円)にまとめているので興味ある方は、広島弁護士会に注文を。
広島弁護士会はこれまで、国際司法裁判所の勧告的意見が出る前の九五年三月、「核兵器の使用は国際法に違反しないのか」、出た直後の九六年九月、「いまこそ核兵器廃絶をー国際司法裁判所の勧告的意見を受けてー」の二つのシンポジウムを、広島市、広島県医師会の協賛と共催で、開催してきた。
本年二一月、新ガイドラインを巡る問題(有事シナリオで平和は守れるか、国の安全と国益、日米の軍事態勢と国際法の適合性、自治体と国民に及ぼす影響など)を考えるシンポジウムを行う予定である。
担当事務局次長 神 田 雅 道
文部省に対し「卒業式・入学式において君が代斉唱、日の丸掲揚を強制する措置を撤回することを求める」申入れ活動をしましたので報告します。
1、卒業式シーズンを迎えて全国各地から日の丸・君が代法制化の際の政府国会答弁に反し、文部省や実施状況調査の名前で実施の強制を指導し、また、横浜市教育委員会が思想調査まがいのチェックシートを教育現場に送るなど、まさに思想信条の自由を侵害する強制を公権力が行っている事態が生じています。そこで、急邊文部省要請を行い、祝いの式に強制・混乱が持ち込まれる一番の当事者である子ども達向けのアピールを作ろうということになりました。
三月七日の団事務局会議において案を討議し内容を確定しました
(アピールについては反響も含め次号に)。
2、申入れは三月一〇日午前一〇時三〇分。一〇分前に地下鉄銀座線虎ノ門・文部省前集合で予定時間に鈴木幹事長、小賀坂次長、森脇事務局員と私の全員揃い堂々と文部省の扉を開けました。
前もって石井郁子衆議院議員へ要請伸介を依頼していましたのでスムーズに受付はできました。「陳情」扱いなのだそうです。また、国会議員の紹介がなければ面会はしないということです。知らなかった。相手は小学校係長鍋島氏。見るからに現役合格のキャリアと思わせる外見年齢二〇代後半の係長さんでした。こんなに若いとは。知らなかった。
3、挨拶もそこそこに要請をしました。
鈴木幹事長がまずはじめに強制の事態が生じている問題につき、申入れの趣旨を述べて口火をきり、小賀坂次長が横浜の強制の実態、また一父親としての立場でも発言し、神田が一斉起立、一斉斉唱は強制であると抗議しました。また、大阪で右翼団体が卒業式に参加させるよう学校に強要している問題でも、文部省に責任ある対応を求めました。鍋島係長の回答「いろいろな意見があることはわかりました。法制化以前と(教育現場での)指導は変わってはならないという立場です。」(一これだけ。)文部省の小学校係長には表情がない。知らなかった。
4、一五分間という短い時間に限られた要請活動を終え喫茶店へ
写真班として活躍した森脇事務局員の感想「いやあ、弁護士って話がうまいですね。感心しちゃった。
某弁護士「あることないこといつも言っているから。」
鈴木幹事長「団の弁護士はこういうのは得意なんですよ。陪審制が導入されたら団員は本領発揮できると思うんだ。」コーヒーでのどを潤し、申入れの感想を話して解散しました。
いろいろと勉強になった要請活動でした。
文部省への申入書と子ども向けアピールは常幹資料及びホームページをご覧ください。各支部でも、また団員の身近なところでもご活用ください。
幹事長 鈴 木 亜 英
諌山博団員が「スパイ告発」を出版した。諌山団員といえば、権力犯罪と闘う硬骨漢のイメージが強いが、その諌山団員が自ら体験した、五つの権力犯罪を語る。菅生駐在所爆破事件、直方スパイ事件、芦屋スパイ強要事件、緒方共産党国際部長宅電話盗聴事件、日本共産党本部盗み撮り事件である。菅生事件、直方事件、芦屋事件は弁護士として、盗聴事件、盗み撮り事件は参議院議員としてかかわってきたものである。
弁護士にとって、ある事件が自分の生き方やライフワークを決めることがある。諌山団員にとって、弁護士二年目に担当することになった菅生事件二審弁護団への参加こそ「長い弁護士生活にとって、決定的な出来事」であった。「市木春秋」と名乗るスパイ戸高公徳を追う弁護団の努力はやがて交番爆破犯とされた活動家の二審無罪へと結実する。「菅生事件の経験は、私に実に多くのことを教えてくれました」と著者のいうとおり、菅生事件裁判の展開は劇的であり、真相究明の楽しさを教えてくれる。
文章の端切れの良さは絶品である。著者の日頃の話術そのままに簡明で、テンポよく、著者の思いが刻々と伝わって来る。
戦後日本共産党に対するスパイの数は彪大なものになろうが、「事柄の性質上、スパイが公然と摘発されるのはきわめて稀なこと」であり、「裁判所や国会を舞台としてスパイの責任を追及したたたかいは、戦後の日本では数えるほど」しかなかったから、本書に取り上げられた五つの事件はいずれも大変重要な事件であった。そのほどんどにかかわった著者はある意味で幸運である。身の程も顧みず広言すれば、この五つの事件と正面から取り組んだことがいまの著者をつくったとさえいえるのではないか。
スパイ事件にはいろいろな切り口がある。警備公安警察の情報収集、謀略と事件の握ちあげ、スパイ工作と籠絡、証拠隠滅・真相隠し・責任回避などである。いずれも結社の自由を脅かし、善良な人々を不幸に追い込む許し難い権力の犯罪である。この五つの事件はそうした様々な側面を実にわかりやすく私たちに伝えてくれる。
今日ほど警察の不行状が明るみに出た時代はこれまではなかった。国民の批判も厳しさを増している。私は二二年前緒方宅電話盗聴事件を引き受けた。そのとき嘘に嘘を重ねる警察に対し、私たちは月並みな表現ながら「嘘つきは泥棒のはじまり」と非難した。しかし、今や神奈川・新潟県警などで頻発する犯罪と嘘の繰り返しに対し、国民は「嘘つきは警察のはじまり」と椰楡するようにさえなっている。二二年前警察庁との摩擦を恐れた検察庁は警察トップに至る刑事責任追及を断念した。しかし今新潟県警のあのていたらくに対し、国民は警察庁トップの処分をしなければ容赦しなかった。 このことを考えると、私たちの批判はあながち徒労ではないと痛感させられる。そうした中、権力内部からも「警察改革」が叫ばれている。キャリアシステムや警察監視機構の改善などに焦点があてられているようだ。その対象となる警察はといえば、いまや頭を低く垂れ、嵐が通り過ぎるのを待っているかに見える。しかし、本当の警察改革は何か。著者は終章「日本の警察は再生できるか」でその病巣を的確に指摘している。それはスパイ事件の背後にある「すべてが警備公安優先」となっている警察の構造そのものである。警察人事の不公正、身内かばいと秘密主義、独善的な批判拒絶体質、こうした病的現象に対し、著者は綱紀粛正だけではなく、警察から完全に独立した第三者機関による監視、監督、査察が緊急の課題と提起している。
私の「思想調査事件」の学習会に諌山団員がわざわざ福岡から駆けつけてくれた。諌山団員の講演を聴いた私の事件の支援者たちー依頼者など普通の市民で構成され、諌山団員が共産党の元議員であることすら知らないーが何人も、私に「あの人はどういう人ですか」と尋ねてきた。難しい話をあんなにわかりやすく話した人をみたことがないといって感謝してくれたのである。
「スパイ告発」は弁護士だけでなく普通の市民にも充分分かってもらえる本だと思う。時宜を得た出版をうれしく思う。
光陽出版社「スパイ告発-裁かれた五つの犯罪」一三〇〇円(祝別)
みちのく赤鬼人こと 宮城県支部 庄 司 捷 彦
一冊の詩集を紹介したい。
こんな詩がある。題は『闘う人々の輪の中に』《私はいる/闘う人々の輪の中に/私のすみ家も/私の未来も/私の墓場も/ここにある》短い詩である。だが、確かな視点がある。己の思想の位相を見据える作者がいる。たった六行で己を語りきった見事さ。こんな詩に出会うと作者の潔さが胸に刺さり、「まいったなー」という気分になる。著者は詩人なのだと納得させられる。団員諸兄はこの詩をどう受けとめるのだろうか。
『アジェンデは死んだ』と題する七〇年代初頭の古い詩がある。
《一九七三年九月/アジェンデは死んだ/機関銃を握りしめ/壮烈に 男らしく闘いながら むきだしの暴力が/彼の生命をうばっても/そのしたたりおちる鮮血は/誰も とめることはできない(略)》このニュースが如何に強い衝撃で世界を駆けぬけたか。当時共産党の候補者活動に専念していた作者は、アジェンデと同じ地平を目指していた。民主連合政府という地平を。この詩には慟哭とファシストヘの憤怒が込められている。この詩を読んだ作者の後援者は「私に音楽的才能があれば、この詩にふさわしい旋律をつけたい」と記しているという。同じ時代を生きた団員諸兄の感想をお聞きしたいと思う。
林豊太郎君を悼んで、との副題を持つ『ある晴れた日に』という作品には《前触れもなく容赦もない死は暗殺と同じだ/若い彼にはなすべき多くのことが残されたままだ (略) ある晴れた秋の日彼を失った大きな空白の中で/私達はひたすら湖へ向って漕ぎ出す船を見ていた》と詠われている。ご存知の方も多いと思うが、青森での団総会の直後に急逝された団員林豊太郎弁護士を悼む詩である。《暗殺だ》との言葉には有為の未来を切断された無念さ(それは期待の大きさの裏返しでもあろう)がにじみ出ており、また、空白を自覚しつつ沖の船を見つめる姿に、仲間たちの呆然自失の深さを知る。若い同志を失うことは絶え難い悲しみである。弁護士林豊太郎と知友を得ていた団員諸兄の感想を知りたいと思う。
本書には他にも、親しく交わった人との惜別を語った数編の詩が収められている。いずれにも作者の優しさと毅然とした人生への姿勢が滲み出ていて、読み手に深みある感動を伝える。《貴女の大きな愛の延長線にこそ/今の私があるどあらためて思う》と記す『母に捧げる』は一例である。
さらに、自然を語り、身近な風景(飼い猫とのしみじみとした別れや、家族への愛など)そして身近な人々が闊達に語られている。
すべての詩を紹介することは無理である。六五もの詩が収められている詩集なのである。それでも一五五頁に収まっているのだから、一編の詩は短い。これらの詩群の全体的な印象を言えば、無理な抽象的言辞を弄することなく、日常的な言葉で語られながらも、中心的な言葉にさりげなく込められている寓意の深さ、言葉の結晶度の高さである。冒頭に掲げらている『辺境にて』で《ここは 日本の全てがそうであるように 辺境であり》と語る時、辺境とは、国の政治から疎外されている全ての地域を指し、したがって、この国のあらゆる町に住む人々との深い共感の可能性を示している。このように、詩を鑑賞する側にも、言葉に込められた寓意を理解する感性が求められる。読み手はそれぞれの経験に照らして、作者の言葉に秘めた寓意にどこまで迫ることが出来るかが、詩という表現形式と対時する鑑賞者の楽しみであり、スリルでもあるといえるのではないだろうか。団員諸兄よ!「寓意への兆戦」試みてはいかが。
私はこの詩集での最高の寓意を、本の表題にもなっている《大いなる日に》という言葉に感じた。それは、青春の憧れ・夢だったものであり、同時に、今日の時点で現実感を獲得しつつある「民主連合政府の実現」を語っているのではないか、と私には思われたのだ。
最終連の《その大いなる日の/招待状は忘れまい》との確固たる言葉と、そして、この詩について作者が『わが妻に捧げる歌でもある』と記すのを知れば、自然に著者ご夫妻の御健康と御長命を祈念する心持ちとなるのである。自分もまたその日を作者と共に迎えたいと望むこと切なりである。団員諸兄はこの詩に、《大いなる日に》との言葉に、何をイメージするだろうか。
同書にある、伴侶由子さんの「解説」の一文は、ご夫妻の越し方と啓児先生の近況が、短い言葉の中で、的確にまとめておられる。
この文も感動的である。私もお二人についてはこの文で初めて知ったことが多いと言っていい。にも拘らず、この著作は作者から私のもとへ直接に送られてきた。「前略 畏友守屋克彦氏より、貴兄に是非私の詩集を送ってくれるようにいわれて」と記された手紙を添えて。守屋さんの思いやりに驚きつつ、拙くも詩をつくり続けてきた私には過分な贈り物といわなければならないであろう。
伴侶由子さんは記している、「今どき詩を読んでもらうのはなかなかむずかしい」と。確かに、詩をよむ人は少なく、詩集を購う人は更に少ない。だが、大抵の人は石川啄木を知っており、彼の作品の幾つかを諳んじている。宮沢賢治も、中原中也も、北原白秋・西条八十などなども。
更に言えば、詩集を編むことはつくり手の勝手だが、それを世に出す(出版)には、経済的な決断が必要であるばかりでなく、心理的にもおのれの恥部を白日に曝すにも似た心情を克服せねばならない。この葛藤を知る人は更に更に少ないだろう。心優しき集団、自由法曹団の諸兄よ。詩集の生れ出ずる葛藤を深く御推察され、せめてこの一冊はお手元に求められんことを。
それにしても、なぜ人は詩をつくり、なぜ人は詩を読むのだろうか。
この形式こそが差し迫っている心情を率直に吐露する形式であり、隣人への真筆な伝達の手段であると、多くの詩人は考えてきたのではないだろうか。読み手・聞き手はそこから生きる力を得てきたに違いないと私は思う。ホメーロスの昔から、人は詩によって歴史を語り伝え、詩によって情念を語り伝えてきた。だから、詩は声高く読まれることが原始の形だったのだ。それが民衆の要求に叶ってもいたのであろうと思われる。
いま私の胸に沸き起こるのは、団五月集会の会場で、詩「大いなる日」を、声高く朗読してみたい、という欲求である。
そして、なによりも、この本が団内のベストセラーになることを期待したい(ついでに私の本も少しは買ってほしいと願うのは過ぎたる望みか?悪乗りか??)。
『詩集一大いなる日に』冨森啓児著
二〇〇〇年二月 かもがわ出版刊 定価一七一四円+税
【問合せ先】かもがわ出版 (団本部にもあります)
東京支部 鶴 見 祐 策
資本主義的近代化を目指した明治政府は地租改正を行って土地所有権の法制度を導入するまで日本の山林はもっぱら周辺住民たちによる利用の対象であった。山裾の部落の人達は入会権による山の恵みを共有してきた。それが奪われた。その問題をめぐって岩手の一山村では半世紀以上にわたり山地主に対する農民の熾烈な闘いが続けられた。小繋事件と呼ばれる。自由法曹団との関わりで言えば、大正六年に布施辰治弁護士が農民の代理人となって法廷闘争を開始した。その後、戦中、戦後を通じて民刑の裁判が続くことになる。山地主に加担した警察権力による農民弾圧が凶暴を極め、岡林辰雄、竹澤哲夫弁護士らが弁護にあたった。戒能通孝、渡辺洋三、黒木三郎教授ら学者をはじめ、丸岡秀子、日高六郎ら広範な文化人が農民支援に立ち上り、戒能教授が都立大教授を辞して弁護士登録をしたうえ、弁護人として最高裁で入会権の弁論を展開した。
それら支援の人々の努力で闘いの経過を伝える小冊子が一九六〇年から二二回にわたり発行されたが、その表題が「北方の農民」である。それが長い期問をおいてこのたび復刻されたわけである。もとより農民の不屈の闘いの記録であるが、入会権に関する学術的な研究や日本の近代化の一断面を知るうえでも有益な文献に違いないと思う。
ところで私の関心はほかにもある。私が弁護士なりたてのころ、ある先輩から「これが本当ものだ」と示された一冊があった。岡林弁護士の盛岡地裁における弁論であった。いま見ると竹澤弁護士による紹介の形をとっている(復刻版三一五頁以下)。「半世紀にわたったものは単なる入会権論争ではありません」「部落民の血みどろ闘いであり」「生きんがための入会を力をもって押さえつけようとした警察及び山地主の弾圧の歴史であります」そして中国の故事(その内容は岡林先生の追悼文で紹介されている)を引用したあと、「願わくば部落をこわさない裁判をしていただきたい」「それは被告人全員に無罪の判決をされることであります。その無罪を判決されるところの法律的な根拠はそなわっております」と結ばれている。
岡林弁護士は「事実」の論証を重視された。それが大衆的裁判闘争の基本とされた。ここでは小繋山の恵みに依拠して成立ってきた部落と農民の生活そのものが、その「事実」なのである。「法律的な根拠はそなわっている」としながら、ご自身は法律論をされていない。その責任を裁判所に委ねている。そして裁判所は森林法違反の無罪判決で応えたのであった。
この弁論を味読するだけでも価値がある本のように思うので紹介したい。
最初は限定だったが、引き合いが多く復刻委員会では五〇〇部ほど増刷したとのこと。レンガ通り法律事務所内(東京都港区新橋三ー七ー三ミドリヤ第ニビル八階/電話〇三ー三五八〇ー九三四四)
に復刻委員会の事務局がある。頒価は三五〇〇円である。
東京支部 渡 辺 脩
一、本年一月一七日付「朝日新聞」社説は、麻原公判に関し、「早期判決に智恵を絞れ」と題して、検察側に一七の訴因から殺人・同未遂を除く未審理五事件の起訴を取り下げるよう求め、裁判の長期化防止策などを提案するとともに、弁護活動を激しく非難した。「相変わらず微に入り細に入るを続けている」のは「限度を越えている」とし、「弁護士会が推薦した国選弁護団が担う、国民注視の裁判がこのありさまでは、弁護士会が唱える『市民感覚の息づく司法』の実現も説得力に欠けよう」というものである。麻原弁護団は、全員一致の意見により、同月二八日、公判終了後の定例記者会見で、反論のアピールを団長である私の名前で発表するとともに、それを日弁連会長以下の関係各方面に広く送った。
二、その全文は「法学セミナー」本年四月号(二二〇頁)に掲載されているが、その概要を摘記すると、次の通りである。
昨年一一月四日、坂本郁子さんのお父さんの大山さんが、TVで、「決められた筋書きの自白では何があったのか分からない。裁判はいくら時間がかかってもよいから必ず真相を明らかにしてほしい」旨強調されていたことを思い出す。
三、この社説の弁護団非難は、基本的に、大山さんの右の願いを無視することに通じている。さらに、今回の「アピール」では、特に次の二点が考慮された。
麻原弁護団の現実の仕事は、記録の保管から公判調書のユビーまで、東京弁護士会をはじめとする三会と職員の献身的な援助がない限り、一日も続けることができない。この弁護活動にとって、弁護士会内の理解が不可欠になっている。
四、また、たとえば、本年二月九・一〇日(一四五・一四六回)の公判では、VX事件の被害者N氏の血液から検出された毒物が、サリン以上の猛毒とされているVXではなく、農薬のスミチオンであったという事実が暴露・追及された。慶大法医学教授の鑑定が同大学病院のカルテに記載されていたのだ。マスコミ報道は、ついに一言も、この点を伝えていない。地下鉄サリン事件では、もっと大きな謎が提起されている。これらの状況こそ報道で知られるべきではないのか。