分科会討議の際だった特徴は、前述のとおり司法民主化分科会が画期的な盛況となったことである。討議も活発で、あらゆる角度から問題が論じられ、国民各層への働きかけのさまざまな試みも紹介された。
明文改憲分科会では、「改憲勢力」の動きとこれへのたたかい、沖縄・ガイドライン分科会では沖縄の基地強化、着々と進められるガイドラインの具体化とこれに対するたたかい、労働問題(A、G)分科会ではリストラ、解雇を中心とする攻撃について立法、裁判双方から具体的な事件検討も含めて討論がなされ、その他の分科会でも充実した討論が展開された。
三 新人学習会
五月二〇日には、午後一時から五時まで新入団員あるいは入団を検討中の弁護士の参加のもと、新人学習会が開催された。豊田団長の挨拶のあと、愛知支部・原山恵子団員が講演した。原山団員の話は人柄が伝わってくる暖かみのあるもので、参加者に印象深いものであった。続いて行われた中谷雄二団員の講演は、事件へのとりくみ方について多くの教訓を含むもので困難を突破してきた講師の力強い活動を彷彿させるものであった。ベテラン団員の参加もあり、興味深く二人の話に聞き入っていたのが印象的であった。
四 法律事務所事務局員交流会
五月二〇日、新人学習会と並行して事務局員交流会が開かれた。鈴木幹事長の挨拶のあと、静岡県支部の白井孝一団員が講演をされた。続いて「新人研修」「地域運動」「クレサラ」の各分科会に分かれて交流した。
五 二日目全体会
全体会の場を借りて拡大幹事会を開催し、四月常幹で承認された九名のほかに新たに一九名の入団を承認した。
全体会では、憲法調査会と明文改憲策動の状況、沖縄の基地強化の策動と県民のたたかい、東京都の災害対策を口実とする治安出動訓練、労働裁判の危険な動きについてそれぞれ発言をうけた後、幹事長が特に発言を求め、「司法民主化のために力を合わせたたかいに立ち上がろう」との特別の訴えをした。
- 全体会で採択された決議は次の通りである。
- @ 「神の国」発言をした森首相の退陣を求める決議
- A 憲法調査会を通じての改憲策動の反対する
- B 海上基地建設に反対し沖縄の自然を守る決議
- C 警察の腐敗・犯罪行為の再発防止のため警察の抜本的民主化 を求める
- D 少年法改悪に反対する決議
- E 静岡空港建設の即時中止を求める決議
- F 新ガイドライン関連法=戦争法の静岡県内における具体化の動きに抗議し、平和を求める静岡県民のたたかいを支援する決議
- G 会社分割法案及び労働契約承継法案に反対し、企業組織再編に伴う労働者保護のための立法を求める決議
六 なお五月集会全体会では議長を静岡県支部・大橋昭夫団員、埼玉支部・南雲芳夫団員の二名が議長をつとめられた。
この集会の成功のために準備段階から、半日旅行、一泊旅行まで静岡県支部(田代博之支部長、塩沢忠和事務局長)の団員、事務局の皆さんはじめ関係者の方々にはたいへんお世話になりました。この場を借りてあらためて心からの感謝の気持ちを表明する次第です。
石原都知事発言と危機管理
東京支部 田 中 隆
一 東京 二〇〇〇年四月
石原慎太郎都知事の「三国人」発言がとんでもない差別発言であることは言うまでもないが、これが差別問題だけにとどまらないところに深刻さがある。
まず、日程を追っておく。
四月 九日 石原都知事・練馬第一師団で「三国人」発言
四月二一日 東京都・災害演習(九月三日)の概要を発表
四月二六日 東京都・東京都震災予防条例全面改正の「中間まとめ」を策定。
この三つの発言・発表は密接にリンクしており、石原発言とは防災演習や条例改正の準備を打ち出されたものと見ることができる。その三つを重ね合わせたとき、どのような「絵」が浮かび上がり、どのような国家像にいきつくかが本稿のテーマである。
二 四・九石原発言
「三国人・外国人が凶悪な犯罪を反復しており、災害時には騒擾事件が予想される。警察力では限りがあるので、自衛隊に出動してもらって治安の維持にあたる。九月三日には敗戦後の日本ではじめての大演習をやる。国家にとっての軍隊の意義を第一師団に示してもらいたい」というのが石原発言の要旨である。
その後、「三国人」という表現だけは撤回されたが、「外国人」と言っても本質は全く変わらない。権力側が差別や排外主義をあおることの危険性は、むしろ「支持する」という声がかなりあるところに存する。
大災害などの緊急事態のときに絶対にあってはならないのは、不安をあおってパニックを引き起こすこと。阪神・淡路大震災のとき、震災対策本部を組んでずいぶん自治体を批判したが(筆者が事務局長)、兵庫県も神戸市もパニックをあおるなどという馬鹿なことはしなかった。この一点だけでも、石原都知事は政治家失格というほかはない。
問題はそれにとどまらない。石原都知事が言っているのは、「災害時の騒擾の危険を言い立てて、治安面での軍隊の必要性を強調し、災害訓練で軍事プレゼンスを示す」ということ。これは九月三日の防災演習計画と密接につながっている。
三 九・三防災演習
マグニチュード七・二の東京直下型が発生したこと想定し、震災初動と直後二〜三日のいわば機動対応訓練を予定する。そのために陸海空の自衛隊数千人を動員し、一気に都心に終結させる。計画に曰く、「練馬から大江戸線を使って陸自の部隊を都心に移動させる」。「三自衛隊連携での集中をはかる」とも言うから、海自の輸送艦で陸自の部隊を東京湾から上陸させるかもしれない。こうなると災害出動訓練とはいっても治安訓練の様相を帯びる。
留意すべきは「防災の日」は九月一日で、この演習はこれまで東京都や近隣自治体が積み上げてきた防災訓練の延長ではないこと(防災「訓練」は九月一日に神奈川を主会場に別途行われる)。「九月三日」は、「首都には政府と連携した特別の対策が必要」とのことで政府と都知事の協議によって東京都に持ち込まれたもの。だから、首相が緊急災害対策本部長として参加し、政府側は内閣安全保障・危機管理室が中心になる。そこにつないだ東京都側のブレーンは九九年一一月から東京都の参与に就任している志方俊之元陸将、これは推察だがまず間違いなかろう。
四 震災予防条例改正
その一方で進んでいる震災予防条例の全面改正。
四つのポイントの冒頭に掲げられているのは、「『自らの生命は自らが守る』という自己責任の原則の明確化」、そのために、災害発生時の都民地震の防災行動力を高めるという。その次が、「他人を助けることのできる都民」の確立で、三、四に本来の災害対策のはずの「迅速な応急・復興」と「地震に強いまちづくり」が位置づけられる。
これではただですら貧しいこの国の災害対策・救助のパブリックの責任は、完全に後景に追いやられる。震災対策本部でこの国の「自助努力」論を激しく批判したが、まさか「生き残る」ことまで「自己責任・自助努力」と打ち出そうとは、考えもしなかった。あの避難所や仮設住宅の被災者を思い浮かべるとき、慄然たる思いを禁じえない。
五 三つのリンクとその延長
この三つはリンクしている。少なくも大震災の場面を想定すれば必然的にリンクする。
@ 凶悪犯罪を続けている三国人・外国人が暴動を起こすと叫ぶ。
A そのために、自衛隊を本格投入して軍事プレゼンスを示す。
B 都民には「自分の命は自分で守れ。自分たちで守れ。それが責任だ」と叫ぶ。
これがなにを言っていることになるかはもう論評するまでもあるまい。新自由主義の手法にウルトラライトの色づけをすると、かかる悪夢が生まれるでも言えようか。
問題はこれが石原慎太郎個人の「悪い夢」では片付けられないこと。五月にはいって読売新聞社が発表した「改憲第二次試案」には、「自衛隊のための軍隊」の明記と並んで、「緊急事態条項」の新設と「地方自治体と住民の自己責任」の明確化がうたわれている。
石原発言の延長線にこうした改憲シナリオがあることも明らかだろう。災害対策も危機管理も、すでに改憲イデオロギーの射程にあると考えねばならないのである。
(二〇〇〇年五月二六日脱稿 五月集会発言に補筆)
石原都知事に「三国人」発言で抗議と申し入れ
事務局次長 南 典 男
石原都知事が陸上自衛隊の記念式典で、「不法入国した三国人、外国人が非常に凶悪な犯罪を繰り返している」、「すごく大きな災害が生じ起きたときには大きな騒擾事件ですら想定される」、「災害の救急だけではなしに、やはり治安の維持も一つ皆さんの大きな目的として遂行していただきたい」と発言したことに関し、自由法曹団は団東京支部と共に、五月一六日、石原都知事に対しこれに抗議するとともに、謝罪と都知事の辞任を求めました。
抗議と申し入れに参加したのは、豊田誠団長、小口克巳事務局長、松井繁明東京支部長、田中隆東京支部幹事長と私の六名です。都知事側から対応したのは中村正彦知事室長で、右の文書を受理するとともに、石原都知事に伝えることを約束しました。
九月三日には、都の防災訓練に本格的に自衛隊三軍の出動が予定されています。今後、抗議の声を強めていくことが重要です。
事務所の中国研修旅行
北海道支部 高 崎 暢
一、中国人への強制連行・強制労働は、アジアへの侵略行為を進める中で、極度に不足した国内の労働力を補うためになされたもので、約四万人の中国人が意に反して日本に連れてこられたものである。
そのうち北海道では、約一万七千人が、過酷で、非人間的な強制労働をさせられ、三千四七人が再び中国の地を踏むことはなかった。それは約五人に一人の割合である。
このように、強制連行と強制労働は、企業側の強い要請を受けた政府の閣議決定に基づいて実施され、侵略戦争遂行のために行われた戦争犯罪そのものである。その責任を追及しているのが中国人強制連行北海道訴訟である(詳細は五月集会特別報告集参照)。
二、昨年秋、私たち弁護士、職員合計一四名は、強制連行訴訟の関連で、侵略戦争の事実をこの目で確かめるために中国へ行ってきた。
七三一部隊跡、九・一八歴史博物館、撫順戦犯管理所、盧溝橋抗日戦争記念館等を訪ね、平頂山事件被害者の話を聞いてきた。
いずれにも日本軍国主義の侵略の爪痕が生々しく残されていた。
参加者みなが、再び戦争を起こしてはならないという気持ちになった。
以下、参加者の感想を引用する。
三、「日本の侵略の跡をたどる入り口として、抗日戦争記念館、盧溝橋へとバスは向かった。日本による全面侵略の契機となる盧溝橋事件など本当にあったのだろうかと思えた。両側には、獅子の像がずらりと並び、まるで橋の記憶を封印しているかのようだ。
抗日記念館で見た、日本人による中国人への虐殺行為や暴行の数々は強烈に訴えてきたのとは逆に、静かに、深く心に刻み込まれていくように感じられた。私達と同じ日本人が、人間として踏み外した行為をしてしまった時間があったのだと愕然としながらも、真っ直ぐに受け止めなければいけないと思った。
「日本国内にいるときよりも、強烈に自分が日本人であるということを意識させられた。」「ハルビンの七三一部隊の跡を訪ねた。資料館には、七三一部隊が中国人捕虜に対して行ったむごたらしい生体実験の様子や、数々の細菌実験、隊員達の当時の写真など多くの物が陳列されていた。そして、そこから数分の所にある『丸太(捕虜)』の遺体を焼却したとされるボイラー室の遺跡も見学。撤退時の破壊作業のため大破し不気味な姿でそびえ立っていた。この地で、私達日本人が悪魔と化し、人を人として扱わず、数々の残虐行為を行ったのかと思うと胸が締めつけられ、ここまで残酷になれるのかと、憤りさえ感じた。」「撫順の平頂山では、残虐な被害にあった八百体にも及ぶ遺骨に慰霊を捧げた。銃を向けられ恐怖にゆがんだ顔の労働者、守ろうとする母の腕の中でうずくまる子、このような表情をもった一体一体からは沢山の叫び声が聞こえてくるようで、その姿から当時の悲惨な光景が浮かび心が凍る思いがした。数少ない生存者である楊さんの証言は、余りに悲惨で言葉を失った。最後に訪れた九・一八歴史博物館では、日本では伏せてしまう悲惨な写真等が展示され、日本の侵略の姿が順をおって日本語も加えて説明され、この一週間廻って来たものが集約されているようであった。
この研修を通し、教科書では学べない人々の感情が伝わってくるようで、このような現実を知ることが戦争を学ぶ事ではないかと考えさせられた。
また楊さんの最後の言葉にもあったように、日中友好の為にまずしなければならない事は、私達戦争を知らない世代が、もっと真実を知る事、そして認める事ではないかと思った。」
四、この秋、団は中国訪問団を企画しているという。多くの団員が参加されることをお勧めする。学ぶこと、考えさせられることがたくさんあり、意義深い時間を持つことは間違いない。
「刑事弁護ガイドライン」の危険性について
東京支部 渡 辺 脩
一、私は、本年五月一日付で、「刑事弁護に『ガイドライン』はないー弁護権つぶしの画策を打破しようー」と題する意見書を日弁連刑事法制委に提出した。
生きものであり、生成発展・流動する訴訟に規格を作り、枠をはめ込むことは本質的に誤っている。また、警察・検察・裁判所がまともに機能していることを前提とし、弁護人の在り方を問うことに重点をおくのは問題のすり替えも甚だしい。日弁連刑事弁護センター(刑弁センター)の「刑事弁護ガイドライン研究会」(研究会)が進めている一次原案はそういう作業であった。それは、弁護権の確立ではなく、「弁護人の基本的義務」を第一章に位置付け、「弁護権」の用語さえ否定する制約先行の提案で、私見は、その作業の中止を求めたものである。
二、この一次原案の根底には、@「司法機関の一翼たる」弁護人の地位とA裁判所に対する弁護人の「協力義務」を認める考え方が横たわっている。弁護人の「真実義務」も明確には否定されていない(実質承認か)。
私は、私選・国選を問わず、「司法機関」の一員として刑事裁判の法廷に立つつもりは金輪際ないし、それを懲戒で強制されることになれば、弁護士資格を賭けてたたかうことになるだろう。これは、そういう性質の問題なのだ。
それは、一九七七年から七九年にかけて、「弁護人抜き裁判特例法案」(以下、特例法案)を廃案に追い込んだ時、日弁連が、最高裁・法務省側の強い要求を斥けて、最後まで譲らなかった最大の争点であった。
三、日弁連は、右二項目の根本問題に関し、「弁護士自治の問題に関する答申書」(理事会承認)で、基本的な考え方を明示し、必要な制度上の手当も実行した(「日弁連五十年史」一二六頁以下)。
研究会は、その闘いの歴史を全く無視している。この闘いの歴史は、団内でも知らない人が多いのではないか。
ところで、研究会は、一次原案に対する会内の反対が強力になっていることを考慮したのか、本年五月一一日付二次原案を作成した。これは、全面的書き直しだが、一次原案のどこを、どんな理由で改めたのかについて、何も説明していないし、前記一・二項の根本問題がどうなったのかもよく分からない。重要問題がいい加減に扱われる可能性が強いという不信感も高まっている。何といっても、刑事弁護に「ガイドライン」を設けてはならないという命題に反しているのだ。
本年六月の刑弁センター合宿で刑弁センター一次案を確定するという計画は維持されているのだから、危険な状況は少しも変わっていない。
四、私の批判に対して、「劣悪な国選弁護」の改善マニュアルから出発したのだから、「誤解だ」という議論がある。しかし、私は、現実に登場した考え方の誤りを批判したのである。もともと、「劣悪弁護」は、極端な場合、懲戒で処理されるべきで、「証拠隠滅」などとともに、「弁護活動」の問題ではないのだ。
この「刑事弁護ガイドライン」作りは、何よりも、自民党司法制度調査会小委や法務省などがしきりに提言している「適正弁護」の要求・一審判決二年以内の法制化案等の策動と実質的に連動している点で、罪が深いのである。
このような「弁護権つぶし」の画策は、「オウム関連事件」の裁判開始の当初から、「オウム利用の策動」として、予期されていた事態である。
私は、その事態が到来した時、「特例法案」の修羅場を熟知している弁護士が、オウム裁判の困難な現場に立っていないと歴史の教訓を「現代の課題」とすることは出来ないとも考えて、「麻原国選」を引き受けた。それを説明出来る状況を迎えたことは不幸であり、刑弁センターの関わりは予想外のひどさである。
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