新潟支部 大 澤 理 尋
私たち新潟市民オンブズマンは、一九九七年に大阪市で行なわれた全国都道府県議会議員軟式県野球大会に参加した新潟県議会議員らの旅費が公費から支出された問題で、参加議員らを被告とする旅費返還訴訟を提起した。この訴えは、議員が自分たちだけで野球をすることは公務ではなく単なるレクリエーションにすぎないという、素朴な市民感覚から湧き出た怒りに基づいている。議員たちは、野球大会には国体に協賛し国体を盛り上げる意義がある、全国の議員が一堂に会し交流や意見交換をはかる貴重な機会である、大会施設(野球場)の視察を行なうことができスポーツ振興策を検討する上で有意義であるなどと、反論した。しかし、この大会は、国体事務局や文部省が協賛行事として認めているものではなく、また、現在国体自体が十分国民に定着し県議が野球をしなくとも盛り上がっている。全国の議員が一堂に会するのは開会式の時くらいであり、大会の日程上交流や意見交換の場が特に設定されてもいない。新潟県の議員たちだけの交流であればわざわざ旅費を使って大阪府まで来てやる必要はない。雨が降ったら実施せず、組合せ抽選次第で視察先が変わり、試合に勝ち続ければ続行し負ければやめるという「視察」はありえない。ところが、一九九九年六月一〇日、新潟地方裁判所は、県議たちが主張するような判断をしたことには著しい不合理はないという、世紀のミスジャツジをした。私たちは、この「判定」に厳しく抗議し、東京高裁に控訴した。
そして、本年四月二六日、東京高裁は、結論、理由とも、私たちの主張をほぼ全面的に認める逆転全面勝訴判決を出したのである。
本判決は、県議会議員の野球大会への参加の実態を具体的に検討し、公務ということはできないと判示したものであり、国民・県民の常識に合致し、公金の支出の実態を問う厳格な姿勢をみせはじめている最近の一連の下級審判決の流れに添うタイムリーな判決として、高く評価されるべきである。
行政の違法・不当な公金支出をチェックすべき議員が自らのレクリエーションに公金を使うことをはばからないようでは、誠に由々しき事態である。議会に求められるのは、県民のいのちとくらしに関わる事業に公金を振り向ける政策をつくることである。そのためには、議員自らの公金意識を見なおすことが必要である。そして、本判決がその第一歩となることを期待したものの、その思いも伝わらず、県議たちは五月一一日に上告手続をとった。現在、全国市民オンブズマン連絡会議所属の各団体の弁護士へ上告人代理人への就任を要請しているところである。
大阪支部 城 塚 健 之
一、七月九日、尼崎市の園田学園女子大で開かれた学童保育指導員の専門性を考えるシンポジウムにパネラーの一人として参加した。他のパネラーは松原秀一さんという埼玉県富士見市の指導員、松浦善満和歌山大教授(教育学)、コーディネーターは二宮厚美神戸大教授(経済学)である。
一九九七(平成九)年、児童福祉法が改正され、学童保育が同法六条の二第六項に「放課後児童健全育成事業」として位置づけられたが、その具体的内容や水準については何も定めるところがないので、その専門性を追究し、よりよい学童保育を求めていこうという試みである。
当日、「学童保育指導員専門性研究会」が結成され、引き続きシンポジウムが開かれた次第である。
二、しかし、学童保育のなんたるかをまるで知らない素人の私がなぜこのような場に引っぱり出されたのか。
大阪の学童保育指導員のうち、大阪市は父母会の共同保育方式だが、衛星都市では「衛都連」という強力な自治体労働組合の運動を反映して、大部分は自治体直営で非常勤嘱託職員の手によって担われている。
私はこれまで自治体の臨時非常勤職員の学習会のたびに、「非常勤職員は住民サービスの最前線に位置する重要な職責を担っているので、そのことに自信を持って、それに見合った身分の安定と処遇の改善を求めていこう」と訴えていたことから、学童保育の専門性を確保する前提条件について、民間の不安定雇用をめぐる動きも含めて話してほしいという依頼のようであった。
しかし、それだけでは学童保育の専門性を追究するシンポにそぐわない。そこでパネラーを辞退しようとしたが、断りきれず、四苦八苦しながら、当日を迎えることとなった(事前に進行についての打合せ機会がなくぶっつけ本番というのは私のような部外者を呼ぶにしてはいささか問題である)。
当日は、学童保育は高度の公共性を持っているので公務員(正規職員)により担われるべきとの前提に立って、住民に対して十分な水準の保育サービスが提供されるためには、公的資格による担保、学力検査による採用試験、OJT、研修(相互批判)の各場面におけるチェックと研鑽が必要であると論じてみた。世直しをしようという運動体が自主的な研究活動を行うべきは当然であるが、公的な制度である以上ミニマムスタンダードが必要ということである。しかし、やはり素人は素人。底が浅い。しかも私が指導員の採用にあたって学力試験が必要だと強調したところ会場からは疑問も出された。
三、他方、現在の新自由主義的国家改造の方向からすれば(少年問題がこれだけクローズアップされていることから一概にはいえないとしても)、教育や福祉と同様、学童保育は切り捨てられるターゲットである。
運動体は児童福祉法改正を評価するが、地方分権の流れからいえば、学童保育を市町村の事業と位置づけたところで、財源の手当はしないから、「やりたければ自分のお金でどうぞご勝手に」というだけともいえる。実際、現在のトレンドは、「留守家庭」に限定せず、すべての家庭の児童を対象に「健全育成」を図り、その一部に申し訳程度に「留守家庭児童対策」を含ませるというものだそうだ。そうなるとただでさえ乏しい予算がさらに削減される(「その保護者が労働等により昼間家庭にいないもの」という児童福祉法の法文からは逸脱していると思うのだが)。
そもそも「健全育成事業」なる用語が似たような名前の条例を想起させて胡散臭い。非行に走らないよう行政が善導する類になりはしないか。松原氏は、これは「保育」とはいえず誤った性格規定であると指摘していた。
四、これに関連して、二宮教授は、つい最近「社会福祉事業法」が改正され、「社会福祉法」となったことを紹介された。これは行政が自ら社会福祉事業を行わないと宣言したことを意味する。すなわち福祉全般にわたって、介護保険と同様に(保険方式をとるか否かは別として)、行政が一定の金を出すからこれで必要なサービスを民間事業者から購入すべしという方向を明確に示したということである。福祉の市場化である。
そうなると、学童保育も、直営化が進むのか疑問である。指導員を正規職員で、という要求はますます現実性に乏しくなる。むしろ介護保険のケアマネージャーに近くなる。そこで、運動の立て方としても、職務給や全国最低賃金のような形で地位向上を図るべしということになるのかもしれない(なお「地方公務員制度調査研究会報告」は正規職員についても職務給原則の徹底を謳っている)。
五、最後に二宮教授は以下のようにまとめられた。
学童保育指導員の仕事は、「教育(目的意識的働きかけ)」と「コミュニケーション(合意形成的働きかけ)」から成る。このうち、後者については、@科学的真実に即して正確に働きかけること(合理性)、A社会的に妥当な価値判断に基づくこと(正当性)、B気分感情の側面で誠実であること(誠実性)の三要素が不可欠であり、それぞれに勉強が求められる。
また、ここから以下の三点が導かれる。
(1)コミュニケーションの発信者は子どもであり、指導員は聞き手である。「聞き上手」であるためにはアマチュア性、大衆性が求められる。
(2)子どもとの合意に至るためには豊かな知識経験、「知的熟練」が必要であり、これを獲得するためには雇用の継続が不可欠である。
(3)コミュニケーションは当人が判断するしかないから、現場の裁量権が必要であり、これを保障する労働条件が必要となる。
こういった分析は、弁護士の日常業務にもつながるもので、たいへん興味深かった。
六、このようにシンポジウムは冷や汗ものだったが、いい勉強の機会となった。
市場万能主義が席巻する今日ほど「公共性」が問われている時代はない。現在、大阪自治労連弁護団では大阪自治体問題研究所、大阪自治労連とともに「公務と公共性研究会」を発足させ、「民間委託はなぜ許されないのか。公務員が自らの手でやらなければならないとする理由は何か」という論点について研究を始めたところであるが、実のところ大変難しいと感じている。しかし、これは住民の立場から、あるべき自治体を考えていく上で避けては通れない論点である。まだ理解不十分ではあるが、恥をかくことを恐れずに、勉強の機会を広げていきたいと考えている。
大阪支部 上 山 勤
1 五月三〇日、新聞は一斉に、司法改革制度審議会が民事事件の訴訟費用(弁護士費用)について敗訴者の負担とするのを原則とすることで全員一致したと報道した。その後、審議会の議事録などをみると報道は正確でなく、個別には(労働事件・消費者訴訟などは)例外にという意見もだされているようだ。
大阪支部の中ではこの問題について俄然議論が沸騰した。弁護士会の中でも反対を表明する人がアピールを発表したりしている。団の五月集会でも報告したが大阪では審議会をにらんで司法改革大阪市民ネットワークが四月に誕生した。以後、選挙などもあって大々的な活動はできなかったが加盟の労組・市民団体などからの出席をうけて継続的に会合がもたれてきた。そしてこの弁護士費用の敗訴者負担の問題。事務局会議では重要な問題だという事で急遽、八月三日、大阪弁護士会館で学習会を持つ事となった。ネットワーク主催で対象は労働組合・市民団体。
テーマは『弁護士費用敗訴者負担となれば、労働裁判はどうなる?』『諸外国の制度と実情』の二本立てです。
2 問題の所在
審議会ではこの議論が『市民にとって利用し易い裁判所』をめざすという文脈で語られている。果たしてそうだろうか。昨年の論点整理の中にも明確には入っていなくて突然出されてきたこの問題は実は過去にも議論されてきた物である。
@ 歴史的な経過 ーー何を狙って出されてきたかーー
一九五四年 田中耕太郎最高裁長官が、「上訴権の乱用とその対策」という論文でイギリスでは弁護士費用の敗訴者負担制がとられていて上訴率がひくい。わが国はそれをとらないので上訴権の乱用が目にあまる。濫上訴対策として日本もそうすべし、かつ、濫訴の弊をなくすため一審でもそうすべしと主張。日弁連は裁判所の門は広くすべしと反対した。
一九六〇年 最高裁が民訴法等改正試案を創り、そのなかで弁護士強制主義と濫訴の防止を期待して弁護士費用の訴訟費用化があげられた。
同年、東大の三日月章教授が訴訟の促進・合理化のために弁護士費用の訴訟費用化を主張
一九六八年 臨時司法制度調査会が『今後の課題として弁護士強制、弁護士報酬の訴訟費用化及び法律扶助制度の拡充について検討すること』が提案される。
同年、阪大の中野貞一郎教授がa)実体法の与えている権利・義務が訴訟を通じて希釈される、b)濫訴・不当抗争を防ぐ、といった理由で弁護士費用の訴訟費用化を主張。
一九九〇年 法制審民訴法部会設置(部会長 三日月)
一九九一年 同部会が『弁護士費用の全部または一部を訴訟費用に含めるかどうか』を問題として提示。
一九九三年 改正要綱案試案を発表 弁護士費用の訴訟費用化は今回の改正には虎の尾を踏んでまでいれないとされる。
一九九五年 法務省「民訴費用制度等研究会」を発足させる。
一九九七年 同研究会が報告書を発表。
『国民の権利を実質的に保証する観点から弁護士費用の一部の敗訴者負担が望ましい。将来弁護士人口の増加が進んだ段階で本格的に検討する。』
A 以上の経過から明らかな様に、弁護士費用の敗訴者負担という概念は、少なくとも、日本においては訴訟の提起や上訴を抑制するために提唱され、最高裁や法務省が此れを何とか実現すべくこだわり続けてきた代物である。
従って、より国民が利用しやすい裁判所を目指すという文脈でこの概念が持ち出される事に、私は強い違和感を覚える。
3 弁護士費用を原則敗訴者の負担とするのは誤りである
@市民の利用し易い裁判所?
弁護士費用を原則として敗訴者が負担することになれば、勝訴にむけた確信が強ければ確かに訴訟提起を促進するであるう。しかし、勝つか負けるかなんともいえない場合、裁判を手控えるであろう。この後者の場合を見越して濫訴の弊とか上訴の弊を防ぐなどと裁判所はいったのである。
しかし、現実をみよ。社会的・経済的な強者は自己に有利な普通契約約款を押しつけて書面をとりかわす。経済的弱者は約款を拒めば契約に入れないし、請負工事をもらえないしのまざるをえないのである。社会的弱者は自分の権利を守ろうとして、契約文言に文句をいうと場合によっては建物に入居できなかったり、仕事をもらえなかつたりするのである。紛争が起きたとき、社会的な強者はやっぱり、法的な見通しの上でも有利な立場にあることが多いのが社会の現実ではないか。
強いものが利用し易い裁判所をめざすのか。それとも多数の社会的弱者も含めた全体のアクセスを考えるのか・・ここのところが最も大切な点である。
A当事者にとって持つ意味の違い
大企業などでは経済活動に伴い、継続的に訴訟が生じ、裁判は勝ったり負けたりするだろう。トータルすればトントンで経費として経済活動に組み込めるだろう。ところが一市民にとっては訴訟は一生のうちに一度あるかないかである。敗訴した場合に相手方の弁護士費用まで持たされることになるとその提訴抑止力は大きい。
B従前の判例の変更を求める様な訴訟・政策形勢訴訟・住民訴訟・製造物責任訴訟・公害訴訟などはその提起が不当に制約され社会的・経済的弱者はますます不利益を被る。
天下一家の会のねずみ講の裁判提訴・判決↓無限連鎖講防止法の立法化のように法の不備を訴訟を通じて修正させたり、豊田商事・変額保険・ワラント被害などの各種訴訟のように社会的な弱者が社会的強者を被告にして提訴し、新しい権利が訴訟を通じてうみだされていった現実があるが、これらの道を塞いでしまうだろう(ちなみに前記の研究会の中ではこのような現象は一部の事だとしている)。
C 権利目減り論(権利希釈論)への批判
紛争の実際は原被告双方がそれぞれ証拠を分け合って持っていたり双方が無かったりする。証拠調べをして資料が集積された後の結果としての判決で権利の有無が明らかになるような事はいくらでもある。こんな場合権利があったか否かはあとになってわかることであり提訴前から実体法上の権利が明らかに存在していたのではない。後に明らかになった事情に基づいて当初から争うべきでなかったなどというのは後知恵という物である。実態法上の権利は未だ観念的なのであって実現にはコストを伴うのである。
もともと、勝ち負けが当初からはっきりしていれば訴訟にまでならない。訴訟の場合、当事者は手持ちの材料によってそれなりの根拠と信念をもって訴訟活動を行っているから、いろいろやったうえで紛争が一応の決着をみることはよくあることである。結果だけでなく、その過程にも価値があるのである。敗訴したからといってその価値の実現に寄与した敗訴当事者に全部の訴訟費用を負担させることが必然ではない。
4 以上の次第で私は弁護士費用を敗訴者の負担にするなどという事は反対だし、審議会が国民がより利用しやすいということでこのことを持ち出すのは誤りだと考える。社会的な強者・経済的な強者だけが使い勝手の良い裁判所に変質していく事は絶対におかしい。大阪市民ネットワークでもよく議論をしたいと思っている。
東京支部 小 部 正 治
司法総行動は今回で二回目であり、前進と定着が見られた。特に参加者が昨年並みに確保できたこと、改革審では迫力のある要請が出来たこと、最高裁では待機室提供など対応に前進が見られたこと、要請先が予め口頭とはいえ回答を準備して対応したところが多いこと(中労委は後日正式回答有り)など、必ずしも十分とは言えない面も残されているが評価できることである。
1 参加者・参加団体の広がり
当日の参加者は昨年とほぼ同一の約二〇〇人であったが、参加団体数は八九と増加していて、この行動が定着していることを示した。この点は事前に心配したところであるが、成功と評価して良い。
しかし、労働裁判・労働委員会事件を取り組んでいる関係者は若干減少し、裁判をおこしている金融被害者などが増加した。今後、労働組合や公害患者や市民の参加が期待されている。
また、広く知られていない、趣旨がわからないまま参加した、共同要請書と個別要請などの仕組みが理解されていないという参加者からの率直な意見もだされた。その要因として、実行委員会の議論は難しくて参加しても理解できない、争議団や争議組合は自分のことで精一杯でわかりやすくないと参加できないと実行委員会の運営についての問題点が指摘され、同時に当日の展開図を事前の早い時期に配布すべきであるなどの指摘もなされた。
今後は、裁判に関わっているさまざまな団体はもちろん裁判に直接関与していない労働組合・団体にも更に参加呼びかけをする必要があるとともに、実行委員会の持ち方も多くの団体が参加しやすい運営や各団体の要求を懇談する機会をもっと増やすなど事前準備・工夫をおこなう必要がある。
2 「共同要請書」の作成
今回は、参加者団体から出された要請事項に基づき、出来るだけそれを生かす方向で「共同要請書」を作成したので、昨年よりは身近なものになった。しかし、東京地裁・高裁や労働委員会に対する要求に関しては、実行委員会での議論が不十分であり、リアルなものになっていず参加者の要求と必ずしも一致していない面がある。とりわけ、具体的事件を闘っている争議団等の要求は自分の事件に関することがほとんどで「共同要請書」に記載できなかった。
今後は、個別事件に現れている裁判所・裁判制度の具体的問題点を明らかにして共通化し、地裁・高裁等の要請先に実現を迫ることが求められており、そのために要請先ごとに要請事項を事前に協議する分科会等の工夫が必要である。
3 要請における対応・成果と問題点
今回は、最高裁で昨年生じた外で待たされることではなく要請に入れない人の待機場所を最高裁内に設置させることができ、また、警察庁など事前に回答を準備して迎えた要請先が多かったことは成果といえる。最高裁では、待機室で待機中にそれぞれの事件の交流が出来たのでよかったという意見が出された。司法制度改革審議会では、参加者から具体的な生の声で要請することが組織できたが、審議委員に直接面談できる機会がほしいとの意見が出されている。また、地裁・高裁では「共同要請書」に対する要求をして回答を得るという形にならなかったが、参加者の怒りがぶつけられたという良い面もあったものの準備・工夫が必要である。省庁に関しては、文部省など積極的に説明・論争するところもあり、事前の準備も必要であった。中労委に関しては実行委員会内部の連絡不手際で要請先とのアポイント及び「共同要請書」の交付が遅れたため、十分な時間を確保することが出来なかった。なお、後日中労委から回答できなかったことに関して口頭で回答したいとの連絡があり、緊急のことであったので事務局三名が五月二九日にうかがい約一時間回答を受け懇談をした。要請の持ち方、場所、人数に関しては要請先と今後も協議を重ねていく必要がある。
4 今後の活動について
次回以降に関しては「共同要請書」をもっと早く作成して(今年は五月一〇日完成)、相手方はもちろん、参加団体にも配布することにしたい。また、一日の行動が長いという意見もあり検討したい。
今後の活動については実行委員会の企画として各団体の要求を理解し懇談する機会がほしい、また司法制度改革審議会に対してどう対応するのか引き続き意見を表明する必要がある。地裁・高裁などの要請についても年一回では少なく秋にもう一度実施したい等の意見が出された。討議の時間が少なく今後協議していくこととなった。
東京支部 加 納 小 百 合
司法改革審議会があれよあれよという間に急ピッチで進められ、この秋にも中間報告が出されるというここに至って、日弁連が打ち出した「一〇〇万人署名」の集約状況は、六月末時点で、東弁扱いで、ナント、約四〇〇〇名という惨状でした。全体目標の二〇〇分の一…。当の弁護士会の登録弁護士数すら遙かに下回るその数に、「あちゃ…」と思わず目を覆い、見ない振りを決め込みたい(?)という気持ちを奮い立たせ、東京支部も署名運動に取り組むことになりました。その理由は一語に尽きます。「この署名の失敗で喜ぶのは誰か」ということ。早速、東京支部内に「自由法曹団東京支部司法改革問題対策本部」(うっ、長い名称)が設けられ、活動を始めました。七月四日の会議で当面取り組むことになったのは、事務所に署名用紙を置いたり、暑中見舞いに同封したりして依頼者に働きかけるということや、自分でも常に署名用紙を持ち歩くようにしてこまめに集めるということ。自分が関係する原告団や支援会にも働きかけてほしいという意見も出ていました。東京支部の当面の目標は五万人です。これからの季節、お店でビールを一杯飲んでいい気分になりながらも、隣の席の人に「署名なんかしてみません?」と思わず口をついて出る私でありたいと思います。
東京支部 志 田 な や 子
[死刑事件における公設弁護人]
アメリカには、約三五〇〇人の死刑囚が三七州におり、黒人やヒスパニックなど少数民族の死刑囚に占める割合は異常に高い。
最近、アメリカでは死刑囚の冤罪が問題になっている。七六年に死刑が復活してからこれまで、五九八人の死刑が執行され、八七人の死刑囚が無実と認められて釈放された。昨今は、DNA鑑定によって死刑囚の冤罪が次々と明らかになっている。イリノイ州ではあいついで冤罪事件が発覚し、地元紙シカゴ・トリビューンは死刑判決の信憑性を問う特集を企画した。同州における死刑判決事例二八五件を検証した結果、半数近くが次の四パターンのいずれかに該当すると指摘した。担当弁護士の能力・適性に疑問がある場合、減刑を望む他の受刑者の密告があった場合、不確かな「毛髪分析」が証拠採用された場合、そして黒人の被告が白人ばかりの陪審団に裁かれた場合である(以上、『ニューズ・ウィーク』二〇〇〇年六月一四日号)。
アムネスティは、一九九八年からU・S・Aキャンペーンをはじめ、アメリカの死刑囚の問題についても取り上げている。アムネスティは、このキャンペーンのなかで、貧困な者にも「経験があり能力のある弁護人」をつけることを要求している。
死刑事件の被告人の圧倒的多くは、私選弁護人をつけられない貧困層に属しており、公設弁護人の弁護を受けることになる。犯罪の多発のなかで、公設弁護人のかかえる事件は年々増加し、年間三〇〇件もの事件の弁護を担当している者もいる。こうした状況では、死刑に相当する重罪事件であっても、十分な弁護活動をすることは難しい。
[政治的事件における公設弁護人]
さらに、政治的な事件においては、公設弁護人はしばしば政治的圧力に弱いと批判されている。
一九六五年、黒人指導者マルコムXが集会で演説中に暗殺された。多数が事件現場を目撃しており、暗殺犯は五人だった。ところが、犯人として起訴されたのは、黒人三人であった。一人は自分が犯人であると認めたが、他の二人は事件に関係がないと言い出した。裁判の証拠調べでは、他の二人についての証拠がきわめて薄弱であることが明らかになった。犯人であると自認した以外の四人は何者かという疑問がわく。暗殺には、FBIなどの権力機関が間接的にかかわっていたのではないかとも疑われていた。しかし、事実は究明されないまま、起訴された三人全員に有罪が宣告された。
無実を主張した二人の被告人の公設弁護人の弁護活動は、きわめて不十分なものであった。「仕事を最後まできちんとやりとおす意志も能力の持っていなかった」と批判されている。そして「ほとんどの大都市と同じくニューヨークにおいても、国選弁護士(公設弁護人)としての仕事は、比較的安い手数料にもかかわらず、すべての関係者から政治的にうまみのある仕事とみなされている。こうした仕事は信頼できる人々、すなわち、波風を立てない人々に任される。たとえば、政府と警察とは共謀して暗殺を行なったといったことを法廷で証明しようとするような人々は、政治的な支配機構からこのようなうまみのある仕事を任されない。もし、一度でもそのようなことをしようものなら、二度と国選弁護士(公設弁護人)として指名されなくなるだろう」としている(ジョージ・ブレイトマン他『マルコムXの暗殺』、括弧内は志田)。
[「小さな政府・大きな司法」]
「司法改革」論議のなかで、「小さな司法」から「大きな司法」へというキャンペーンが大流行りである。しかし、「大きな司法」は、「小さな政府・大きな司法」とワン・セットの対語の片方なのである。「小さな政府」は、社会保障を削減し、労働者・中小企業家などの権利を保護する規制を緩和する。これによって社会的緊張が高まり犯罪が増加するが、「小さな政府」は重罰化や刑事司法の効率化で対応する。社会不安が政治不安につながらないように、国民をコントロールするための制度が強化される(盗聴法や国民総背番号制など)。「小さな政府」は「大きな権力」を必要とする。政府や財界が主張する「大きな司法」の真の意味は、「小さな政府・大きな権力」の一環としての「大きな司法」なのである。
自民党司法制度調査会が公設弁護人制度の導入を主張するのは、これが「大きな権力」にふさわしいと考えているからである。政治問題化した大事件の被告に波風をたてない公設弁護人をつけることができるし、一般の刑事事件でも現在より「安上がり」になるかもしれない。これで刑事司法を効率化できるというわけである。
今回の「司法改革」で、自民党の主張する公設弁護人制度が導入され、民事訴訟の敗訴者負担制度が導入され公害事件や労働事件の提訴を抑制することができれば、政府や財界の大勝利ということになるだろう。
結婚し子育てしているというだけで、なぜ「特殊従業員」なの?「二五年働きつづけても賃金は高卒初任給と同じ」「正社員と労働時間も仕事も全く同じ。それなのに、賃金は正社員の七割以下」ーこんな差別は私たちで終わりにしたいと立ち上がった二八人の仲間たち。
そして、実質的な正社員化をかちとる全面勝訴判決。胸をドキドキさせ足をふるわせながら法廷で陳述し、全国の職場で訴えるなど、初めての経験の連続。たたかいの中で学び鍛えられながらたくましくなっていった女性たち。それを支えた正規社員の仲間、家族、地域と全国の労働者・労働組合、弁護団。
丸子のたたかいは、労働者として生きること、職場の団結、労働組合のあり方などを私たちに問いかけている。(ちらしより)
丸子争議支援共闘/丸子支援・パートまもる全国連絡会 編集
学習の友社 定価 一〇〇〇円