団通信995号(9月1日)

生涯を決めた「決断」に至るまで

─山田善二郎著「決断」を読む─

東京支部  上 田 誠 吉

 占領軍の謀略機関・キャノン機関に勤務していた青年・山田善二郎が初めて衝動的な体験に直面したのは、一九五一年一二月二日の朝、機関の施設、T・Cハウスの一室であった。
 呼ばれて、監禁室に入ると、シャンデリアは床に落ち、ベッドには誰もいなかった。傍のトイレから半死半生の鹿地亘を助け出し、ベッドの上で汚れた体を清めた。その時、一通の遺書を見せられた。それには「内山様」に宛てて、「信念を守って死にます」と書かれていた。青年はいう。「わたしは『信念を守って死ぬ』という言葉に強く打たれた。なんとかしてこの人の命を助ける方法はないものかとの思いにかられた」。やがて青年は、鹿地が亡命先の中国から帰国した反戦平和の作家で、アメリカ軍はこの重篤な結核を病んでいた作家を協力者に仕立てあげるために、監禁と尋問をつづけていることを知る。ここにのちの決断の小さな芽が生まれはじめる。この頃、機関には多数の日本・中国・朝鮮の人たちが交替で拘禁と尋問を受けていた。
 山田は退職の機会をとらえようとするが、彼の収入で生活している親たちのことを考えるとそれもままならない。「それだけではなく、自分自身の命さえどうされるかわからない。それは単なる冒険などというものとは到底及びもつかない、危険な行為だった」。懊悩の日々が続いていた。
 しかし、次第に決断への実りは熟していく。鹿地から家族の手紙を預かって、鹿地の自宅を訪ねるが、見つからぬ。これが第一歩であった。次の休日には神田の内山書店を訪ねた。そして、二度・三度と内山完造との連絡が重ねられた。「だが、鹿地が監禁されているT・Cハウスの所在地は知らせなかった。それが原因となって、わたしのことが明らかにされるのをわたしもまた恐れたからだった」。
 山田の行動は自分の安全をもかけた勇気を必要としたが、それと同時に高度の慎重さをそなえていた。
 鹿地の身柄は、キャノン機関からCIAに渡され、その監禁場所も茅ヶ崎のCー31号館に移された。山田もそこに移った。
 山田と鹿地とのつながりは、一層接近していった。鹿地は中国での反戦活動のあらましを語るようになった。山田の決断は次第に固められていく。鹿地は山田に、自画像や手紙、大学ノートなどを託するようになった。
 すでにサンフランシスコ条約は発効して、日本は「独立国」になっていた。占領下から引き続いて、鹿地への監禁を続けていたことは、米軍にとって、一層高度の軍事上の機密となっていた。山田は辞職して、内山書店への訪問をつづけた。一九五二年九月の訪問が最後となった。
 この年一一月、横須賀の米海軍基地に働いていた山田のもとに、鹿地監禁の事実を伝える週刊誌の報道があったことが伝えられた。
 ここで山田は決断を固めて、猪俣浩三代議士に保護を求めるとともにその指導のもとで鹿地救出に立上がる。
 鹿地が釈放されたのは、新聞各紙が一斉に鹿地監禁を報道したこの年一二月六日の翌日のことであった。
 山田は、その後、鹿地をおとしいれた三橋正雄のからむ鹿地事件の救援にあたり、鹿地無罪をかちとり、国民救援会の常任となって、いまはその会長として活動を続けている。本書の後半はその救援活動の活写である。
 決断は一瞬のものではない。芽生えから花を結ぶまでのながい道程には山と谷がつながり、動揺と逡巡を重ねて、やがて固い実が熟していく。青年から七〇歳代となった山田の人生の中に、私はそのことを読みとった。(光陽出版社刊・一八〇〇円)


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