団通信998号(10月1日)
第五福竜丸元乗組員のC型慢性肝炎に船員保険の適用認められる
静岡県支部 阿 部 浩 基
- 静岡では、毎年、三月には三・一ビキニデーの集会が開かれ、九月の久保山愛吉さんの命日には墓前祭が行われているが、平和問題に不熱心な私は出席したことはなく、かろうじてカンパに協力することで、罪の意識を濁していた。
- 数年前、平和委員会から、第五福竜丸乗組員で慢性肝炎で苦しんでいる人の補償問題につき、弁護士として知恵を貸してもらいたいと言われ、この問題で熱心に調査活動をされていた聞間元医師にあった。
ほとんど何も知らない私に聞間医師は一時間ほどレクチャーをしてくれた。その内容は、第五福竜丸事件など過去の事件でいまさら何もすることないのではないか、と思っていた私にとって、ちょっとした衝撃だった。
例えば、ビキニの水爆事件で死の灰を浴びたのは第五福竜丸だけでなく、ほかにも多数の漁船が死の灰を浴びているにもかかわらず、その全容ほとんど調査されていないこと、第五福竜丸の乗組員はすでに死亡した人も生存している人もほぼ全員肝臓障害を患っていること、肝臓障害の原因はC型肝炎であり、これは急性放射能症に対する治療として行われた輸血が原因と思われること、科学技術庁放射線医学総合研究所では第五福竜丸乗組員に対し定期健康診断を行っており、生存者一三人中一二人がC型肝炎ウイルスに感染していることをつかんでいながら、本人には知らせていなかったこと、などである。
- さて、相談の具体的内容は次のとおりであった。
静岡県在住の元乗組員小塚博氏も慢性C型肝炎で治療中であるが、治療費は自分で負担していた。広島、長崎の原爆の被爆者については被爆者援護法で治療費などは国が負担することになっているが、第五福竜丸の被爆者には被爆者援護法は適用されない、何とかならないか。
まず考えたのは、水爆実験をした米国に対して損害賠償請求できないか、ということであった。慢性肝炎になったのは最近だから、時効問題はクリアできる、立入禁止海域の設定が甘かったということで、過失も成立する、見舞金はもらっているがこれを仮に和解金だとみても当時は慢性肝炎になるということは予見できなかったから、この点も大丈夫だ、…しかし、これは考えただけで終わってしまった。
次に考えたのは、労災にならないか、ということであった。船員の場合、船員保険法が適用されるので、法律上は「職務上」の疾病、負傷という用語になる。隕石でも落ちてきて当たったならばともかく、水爆事件の死の灰を浴びて、急性放射能症になり、それに対する治療として受けた輸血でC型肝炎になり、慢性肝炎になったのだから、これはいけそうだと思った。聞間医師も因果関係については、医学上も当然認められる、という認識であった。
- こうして、一九九八年九月一七日、船員保険の療養の給付の申請を行ったが、翌年一月二五日、不承認とされた。理由は、小塚氏の場合、昭和三二年三月に「社会通念上の治癒」となったから、その後に再発した病気は別疾病の取り扱いになるが、再発した時点では船員保険の被保険者資格を喪失しているから、療養の給付はできないというものであった。
確かに、小塚氏は被爆の治療後、元気になり船に乗って働いていた。しかし、C型肝炎というのは、急性期の後、長い休止期があってしかる後に慢性肝炎へと進行していく病気であり、一時的に治ったかに見えてもそれは病気の進行過程にすぎない。そいう病気なのである。その休止期をもって「社会通念上の治癒」があったとし、その後の再発(病気の進行)別疾病だというのでは、医学的な常識に反する。C型肝炎の病態の解明されたのは、最近十年くらいのことであるから、四〇年以上も昔ならば、社会通念上治癒したと言えたかもしれないが、現在では、治癒とは言えないことは医学的な常識である。
なぜ医学的にも因果関係があると認められるのに、「社会的通念上の治癒」なる概念をもって因果関係を切断して救済を否定するのか。理解に苦しむ決定であった。
不服なので、社会保険審査官に審査請求をしたが、平成一一年五月二六日、同じ理由で審査請求は棄却となった。
「社会通念上の治癒」なる概念は昭和二九年、同三〇年の通達に根拠を有するとのことであった。慢性C型肝炎の病態などわかっていなかった時代に作られた基準を慢性C型肝炎に適用するのはますますおかしい、と思った。
- やむなく社会保険審査会に再審査請求し、平成一二年五月二五日に公開審理が行われた。
予定時間は二時間、傍聴人も三〇人くらい来てくれ、部屋は満杯となった。残念ながら小塚氏本人は体調が悪く出席できなかったが、元乗組員の大石又七氏が代理人として出頭し、当事者の立場から切実な意見を述べられた。
職務上の解釈、相当因果関係論など法律問題は私が担当し、医学的な問題は聞間医師が担当して、意見を述べたり、質問に答えたりした。
予期に反し(?)、審査委員の方々が、綿密に記録を読んでおり、当方と保険者側双方にたくさんの質問をしてくれたおかげで、問題点が明らかになった。「社会通念上の治癒」という概念も本来は同一の疾病では二度治療を受けられない場合に、治癒後の再発だから別疾病だとして保険適用して労働者を救済するための規定であることもわかった。残念ながら、というか恥ずかしながら事前には知らなかった。
結果に期待を抱かせる非常に充実した審理だった。
- というもののやはり結果は心配であった。再審査請求も棄却されたら、訴訟をするしかないが、小塚氏の体力と気力が訴訟に耐えられるか、みんな心配していた。
社会保険審査会の決定は七月三一日付けで、代理人には八月四日に知らされた。
「処分を取り消す」 やっと認められたのである。
ちょうど原水爆禁止世界大会の開幕日であり、大会本部を通じて開会総会で七〇〇〇人の参加者を前に発表され、松谷訴訟につぐ成果として拍手を浴びたとのことである。
この決定により、第五福竜丸の元乗組員のC型肝炎に対し船員保険が適用されることになった。それとともに、被爆者援護法では見送られたビキニ被災者の問題を改めて提起することになった。
─組合にも慰藉料三〇〇万円
千葉支部 白 井 幸 男
守 川 幸 男
一 事案と判決の概要
大型トレーラーによる運送業会社、若松運輸と鉄構運輸のもとで働く運転手六人は、三年前の分会結成を機に、脱退強要と団交拒否、配車差別を含む仕事差別と賃金差別、一時金不支給、出勤停止処分の乱発等を受け続けた。これに対し、処分の無効確認と不法行為に基づく損害賠償請求をした事案で、千葉地裁(及川憲夫裁判長)は九月一三日、ほぼ完全勝利の判決を宣告した。
労働組合(運輸一般千葉地域支部、のちに建交労千葉県本部千葉合同支部)に対しても、団結権侵害に基づく損害賠償請求八〇〇万円に対して慰藉料として三〇〇万円を認め、結局認容額は総計一〇〇〇万円を超えた。
労基法では、出勤停止処分についてはその上限に規制がなく、解雇の方法によらないで、法の盲点を突いた巧妙で悪質な懲戒処分が乱発された。処分は、分会長と書記長の各一一回の出勤停止処分を含め、合計四四回、二〇九日にも及び、月によっては支給額が数万円、という労働者もいた。
これまで組合員と組合は、懲戒処分無効確認と仮払仮処分、一時金仮払仮処分、不当労働行為救済申立(完全勝訴で中労委命令待ち)等をたたかってすべて勝ってきた。会社からは、役員の自宅付近での街宣行動に対する損害賠償(一〇万円だけ認められてしまった)、取引先への要請書の送付に対する差し止めと損害賠償(いずれも棄却)などを起こしてきた。そのような中で、この裁判は天王山としての位置づけであった。
二 判決の評価
- 判決は、「組合を敵視した一連の行為」について「その期間も長期に及び態様も執拗かつ悪質」で、「強度の違法性がある」として、労働組合法七条一項、二項、三項違反をすべて認めた。
- 組合結成直後の一回だけの役員宅付近での街宣行動や取引先への要請書の送付を理由とするものも含め、すべての懲戒処分について無効とした。
うち、役員宅付近の街宣について判決は、「会社の信用までをも著しく傷つける行為とはいえない」とし、また、取引先への要請書の送付については、「ある程度強硬な態度を取ったこともやむを得ない」とした。
- 各原告労働者は、組合結成前の平均賃金との差額を差別賃金として請求したが、この算定方式自体は基本的に是認できる、とした。差別を受けた以降の懲戒処分の場合、その直前の平均賃金を算定基礎とされたら救済額は著しく低くなるから、この判断の持つ意義は大きい。
ただ、その額については七割の限度で認容したにとどまったが、それは原告労働者に落ち度があったとしたわけではなく、「不況の影響がある程度の影響を及ぼしている可能性が否定できない」としたのみである。
- 労働組合自体の被った損害を認め、団結権侵害の慰藉料として三〇〇万円を認めたことは画期的である。
三 最後に
労基法で減給について金額等の制限があるのに、出勤停止の上限について規制のないことは問題であり、法改正が必要である。
会社は不当にも、控訴した。これまで、やむなく組合や会社を辞めた人も多い。生活費も底をついてなおがんばった組合員に敬意を表したい。全面勝利に向け、さらにたたかいは続く。
大阪支部 笠 松 健 一
- 坂本修団員が司法改革議論に参加する旨宣言され、長文の意見書を発表された。団通信紙上でも早速後藤富士子団員との紙上論争が展開されている。規制緩和の最前線で闘っておられる坂本団員の現状分析はさすがに鋭く、司法をめぐる政財界の狙いを的確に分析されている。
しかし、坂本団員の意見書には、最高裁の狙いをどのように位置付けてこれとどのように対応すべきかという問題点が抜けている。また、「当面の緊急要求」を設定して闘うべきか否かについて、私の意見は坂本団員とは少し異なる。次の団全国総会では、団の司法改革提言が確定されそうな状況であり、「当面の緊急要求」を設定するか否かは、今後の団の活動にとって極めて重要な問題であるので、この点について私見を述べたい。
- 坂本団員は、政界・財界の規制緩和を軸とする司法改革の狙いについて、厳しく現状分析をされている。この分析は基本的に正しいと考える。また、これと対抗する我々市民の側の勢力が、拮抗するまでに至っていないという点も、坂本団員の指摘する通りである。
しかし、これに最高裁の官僚裁判官制度の堅持という政策が絡んで、司法改革課題の各論点によってそれぞれの意見分布が異なり、審議会内の議論状況は極めて錯綜した様相を呈している。そのため、政財界と最高裁とに対して、各論点毎にどのように対応するのかは、非常に難しい問題である。
なお、最高裁の政策は、官僚裁判官制度の堅持という点に集約され、かつ一般市民を愚民と見るものである。この点に関連して、九月一八日の市民の司法参加についての審議の中で、石井委員が普通選挙制度に触れ、国民が普通選挙権を持つのは問題であるという趣旨の発言をしたと伝えられている。我が国民主主義の根幹に関わる普通選挙制度について、それを否定するかのような発言をする委員が審議会の中にいることは、極めて問題と言わなければならない。
最高裁の愚民政策と共に、徹底的に批判を加えなければならない。
- 次に、坂本団員が提起する「当面の緊急要求」である。
坂本団員は、当面の緊急要求として、
- 裁判官の独立の保障による公正適正な裁判の実現
- 裁判官等の大幅増員による早くて丁寧な裁判の実現
- 刑事手続の国際人権水準への引き上げ
を掲げる。2・3については私も賛成したい。これらの改革は急務であり、また、戦略的にも有効だからである。
まず、裁判官の増員については、司法制度改革審議会でも増員の必要性が取りまとめられており、増員の方向で審議会の答申がまとまるものと考えられる。しかし、裁判官の増員については、最高裁は最後まで抵抗し、大幅増員ではなく微増で済まそうと必死になってロビー活動をするであろう。我々は最高裁のこの抵抗を許してはならない。
世論で最高裁を包囲し、裁判官の大幅増員を是非とも実現しなければならない。審議会も裁判官の増員方向を打ち出しているのであるから、裁判官の大幅増員を緊急要求に掲げて闘うことは、戦術的に見ても有効である。
- また、刑事手続の現状は絶望的と言わざるを得ない。捜査段階においても、公判段階においても、現状は被疑者・被告人の人権侵害の場となっている。これを改めさせることは、正に緊急の課題である。弁護活動の強化、捜査の可視化、代用監獄の廃止、全面証拠開示の実現、裁判官・検察官の人権教育等、緊急に改革を要する。
ところが、審議会の議論を見ると、刑事司法の問題点を正確に問題指摘できる委員は選任されていない。中坊委員は権力と対峙する刑事弁護の在り方を主張してはいるが、あまり説得力ある議論を展開していない。水原委員は検察官出身、刑事法学者の井上委員は盗聴法推進の中心人物である。審議会委員の中で、刑事司法の問題点を正しく指摘できる者はほとんどいないのである。そのため、審議会委員の刑事司法に関する認識は極めて低い。これが審議会の論点整理にも大きく影響しており、刑事司法に関する論点整理には、治安維持と迅速な裁判しか掲げられていないのである。本年夏の審議でも各委員の認識の低さが改めて露呈された。
マスコミ・世論を見ても、刑事司法の在り方については、治安維持と被害者救済に偏っている。治安維持と被害者救済が重要であることはもちろんであるが、被疑者・被告人の人権保障が極めて重要であるという刑事弁護の重要性の認識が、まだまだ不充分である。
このような状況下で、弁護士会内が刑事弁護のガイドラインをめぐって対立している状況は、全くの不毛と言う他ない。今我々が議論して運動すべきは、刑事弁護活動の重要性である。人権擁護のために弁護士は権力と対峙しなければならない。この弁護士の活動が、警察・検察という巨大な国家権力の濫用を防止し、市民社会全体の人権保障に大きく寄与していることを、我々は審議会委員にも、市民にも強く訴えかけて、緊急に刑事司法の改革を実現しなければならない。刑事弁護のガイドラインについて激論を交わしているのは、賛否いずれも刑事司法に深く関わり、刑事司法の活性化を望む人たちである。直ちに、この二つの勢力が結集して刑事弁護の重要性を訴える運動に取り組むべきであり、それができれば、必ず市民と審議会委員の理解を得、重要な制度改革が実現できるはずである。ガイドラインをめぐる対立は、国選事件や公的被疑者弁護のための最低限の推薦基準(接見は一回以上すること、記録の検討をすること等)でまとめて終結し、刑事弁護に積極的に取り組む弁護士全員が、弁護活動の重要性を訴える活動に取り組むべきである。弁護士会内部で分裂している時ではない。
このような趣旨で、刑事司法改革は緊急要求として掲げるべきである。
- しかし、裁判官の独立の保障のための改革を、当面の緊急要求として掲げることには反対である。なぜなら、この要求は、法曹一元実現の三つの重要な柱の一つとして法曹一元実現要求の中に含まれているものであり、裁判官の独立性の確保だけを緊急要求として掲げることは、法曹一元実現運動全体にとって、逆に障害となるからである。
法曹一元の本質は、裁判官の給源・裁判官の選任・裁判官の人事の三点を改革することにある。この三点は、一体的に実現されなければならない。給源だけが問題なのではない。選任方法の民主化と人事の自由化も一体なのである。特に選任と人事は、最高裁事務総局が持つ人事権限そのものであり、これを分離して改革しようとしても無理であろう。改革を実現できる政治状況を作り出し、裁判官人事の問題は一体として一挙に改革しなければならないと考える。
ドイツの裁判官制度は、選任方法と人事の点で、我々が提起している法曹一元にかなり近い。裁判官は、裁判官のポストが空いたときにそこに応募して選任される。一旦選任されれば、他のポストに応募しない限り、昇進・昇給・転勤はない。この制度が裁判官の独立性を保障している。しかし、それでもあくまでもそれはキャリア制である。当事者経験の豊かな法律家の中から裁判官を民主的に選任すると言う制度ではない。
もし我々が、裁判官の独立を保障する制度の実現を当面の緊急要求として掲げ、法曹一元実現は将来的な課題とした場合には、それはキャリア制の存続を我々が承認することとなってしまう。そのような運動方針は、結局はキャリア裁判官制度の廃止には結びつかない。
逆に言えば、裁判官の独立を保障する制度の確立が可能な政治状況であれば、それは法曹一元の実現が可能な政治状況なのである。私には、裁判官の独立の保障は実現できるが、法曹一元の実現は将来的な課題とせざるを得ないという政治状況がイメージできない。我々は、司法の民主化要求を掲げて長く闘ってきた。その中で裁判官の独立が保障できる政治状況は全くなく、裁判官の独立はますます切り崩されていったのである。
法曹一元の実現は、もちろん簡単ではない。しかし、審議会の夏の集中審議で裁判官のキャリア制の問題点が指摘され、判事補廃止には一致しなかったものの、裁判官の給源の多様化・多元化の必要性、裁判官に対する信頼性を高めるための任用の工夫、裁判官の独立性に対する信頼性を高めるための人事の透明性・客観性を付与する工夫の三点が必要であるとの取りまとめは、これを突き詰めれば、裁判官のキャリア制の廃止に結びつかざるを得ないのである。それに向かっての我々の運動の構築こそが急務である。裁判官のキャリア制の改革に関する裁判官の独立性の確保の方策は、当面の緊急要求として掲げても「当面」実現できるものとはいえないし、この緊急要求は、かえって法曹一元実現の障害となるのである。従って、私は坂本団員の意見書を高く評価するものであるが、「当面の緊急要求」として裁判官の独立性の確立を掲げることには反対せざるを得ない。
─笠松団員意見への回答
東京支部 坂 本 修
笠松健一団員から「『当面の緊急要求』を掲げるべきか」という「団通信」への投稿原稿をお送りいただきました。この問題は団総会での論点の一つとなっていますので、とりいそぎ私見をのべることにしました。
- 笠松団員の「坂本団員の意見書には最高裁の狙いをどのように位置づけてこれへどのように対応すべきかという問題点が抜けている」という指摘はそのとおりであり、私の意見書の欠陥のひとつだと思います。政府・財界・自民党らの新しく、より大きな狙いと特権司法官僚制を維持し、国民の司法参加を可能な限り阻止しようという最高裁の動向との間には矛盾があり、その点を重視し、私たちの要求実現に活用すべきだと私も考えます。最高裁の姿勢に徹底的に批判を加えるべきだということにも異論はありません。
- 笠松団員意見の「四」の「刑事司法」についての司法審の論議不足と「刑事司法」改革を緊急要求として掲げるべきであるという点についても異論はありません。私の意見書も同じ主張をし、団の「提言(案)」でこれらを制度改革要求から「除外」したのはあらためるべきだとしているのです。
- 結局、意見の分かれるところは、「裁判官の独立の保障のための改革」を「当面の緊急要求」として掲げるべきかどうかの点です。私は意見書(四一頁以下)で「裁判官の独立の保障による適切な裁判の実現」を要求として掲げるべきだと主張しました。その具体的な骨子は@裁判官会議を本来のあり方に戻す、A裁判官の市民的自由の干渉の禁止、B差別人事の禁止、その手段となっている裁判官の給与の「こきざみ昇級」制度の禁止、C「判検交流」の禁止(少なくとも関与事件からの回避)などです。
たしかに、笠松団員の言うように法曹一元が実現すれば、裁判官の独立は大きく改善されるでしょう(但し、その場合でも@〜Cの改善はなお必要です)。だが、だからといって、法曹一元の実現までの間、@〜C(他にもいくつかありますが省略)の要求はすべきでないのでしょうか?「現実に日々、直面する裁判を少しでもまともなものにしよう」「そのために裁判官の独立侵害をストップさせよう」という要求は広く労働者、市民、そして私たち弁護士のなかにあります。すでに司法審に文書で提出されている司法総行動の要求にも、国民救援会の要求にも、公害弁連の要求にも、そして現職裁判官らの日本裁判官ネットワークの要求にも同趣旨の要求が盛りこまれているのです。運動は目の前の切実な要求を掲げることによって広く発展するのであり「除外」すべきではないし、団がこれら団体と異なる立場をとるべきでもないと考えるのです。
こうした要求を掲げることが「法曹一元実現運動にとって逆に障害になる」という笠松団員の指摘は、私にはまだ理解できません。緊急要求と抜本要求と切り離してたたかえと私はいっているのではありません。もちろん、両者は結合してたたかわれるべきです。そのことは「逆に障害になる」のではなく、前者のたたかいは後者の要求を広く国民的要求にする上でプラスだと考えるのですが、ちがうのでしょうか。
もちろん、前者の要求なら後者のそれとちがってたやすく実現すると私は考えているのではありません。しかし、今回の司法改革問題を機会に、後者とともに前者の要求にも新たな光があたり、国民の関心は拡がっています。司法審も論議の対象とする段階になっています。最高裁は自らの人事のあり方を司法審でもとわれているのです。いま、掲げてたたかう方がはるかに有利だと私は思うのです。
総会でぜひ論議したいものです。
(追記)私がまだ大変迷っているのは裁判官の増員要求についてです。「判事補」を増やすことになる増員要求はすべきではないということなのかどうかです。
─弁護士は「役人」になどなりたくない─
東京支部 後 藤 富 士 子
一、戦略なき「弁護士任官」運動
昭和六三年、法曹一元論者である矢口洪一・最高裁長官は、「弁護士経験一五年以上、五五才以下の者から判事を採用する」ことを提唱した。その後、中坊公平・日弁連会長が司法改革運動の目玉として、「弁護士経験五年以上の者から裁判官・検察官に任官する」という弁護士任官運動を推進した。
矢口型が、弁護士経験一五年以上としているのは「完成された職業人」と認めるに足る要件であるし、五五才以下としているのは、裁判官の任期一〇年と定年六五才という規定から来ているもので、まさに一元判事型弁護士任官である。これに対し、中坊型は、検察官への任官も裁判官への任官と同じように考えていること、弁護士経験年数を五年に短縮したこと、在職期間としては一〇年未満でもよいとしたことなどからして、日弁連要綱型の弁護士任官である。そして、この二つは、アイデアとしては全く別物である。中坊型では、判事補や検事に弁護士経験を要求するのだから、判事補や検事の地位が弁護士よりも高いことを承認しなければなるまい。のみならず、戦前にはなかった、半人前の「裁判官もどき」というべき判事補への任官に弁護士経験を要求するなど、まったくもって狂気である。それにもかかわらず、日弁連が申し入れた「弁護士経験年数の短縮」や「任官時の年令上限の引上げ」に最高裁が応じたのは、それで弁護士任官者が増えることを期待したからであろう。ところが、現実には、弁護士から裁判官になる者は年間数人にとどまり、今や「開店休業」の状態である。
日弁連の推進した「弁護士任官」運動は、戦前・戦後を通じて在野法曹が提唱した法曹一元が、判検事任官者=他者に弁護士経験を要求するだけの「弁護士経由任官」運動にすぎなかったものを、弁護士が自ら任官していくという主体的なものに転換したのであり、そのコペルニクス的転換は評価できる。そして、任官者を増やすために任官要件を緩和したり、任官しやすい条件づくりをしたりと、やれるだけやってみたものの、結局、駄目であったことを認めざるを得ない。そして、今や、この弁護士任官の低調な実績が、法曹一元の実施を決断させることの障害となる始末である。
翻って、弁護士任官運動の敗因を考えると、この運動は、「弁護士が裁判官や検察官になる」こと自体を自己目的化したものであり、戦略的位置づけを欠いていた。
二、「弁護士任官」運動の後遺症
司法制度改革審議会の日程に追われて、日弁連は、「弁護士任官」運動の総括もしないまま、「法曹一元」運動に雪崩込んでいった。当然のことながら、「弁護士任官」運動の総括をきちんとしなかったことは、「法曹一元」運動に深刻な後遺症をもたらしている。
その一つは、早々と降参して、「任官者への弁護士経験義務づけ」とか「判事補の弁護士事務所での研修」などと、再び弁護士の主体性を放棄して、「他者への注文」運動に退行している潮流である。これは、未だに「弁護士任官」と「法曹一元」の区別がつかないことに起因している。なお、「判事補の弁護士事務所での研修」などは、修習期間短縮などにより未特例判事補をもてあましている現状で、最高裁が行うべき研修を弁護士が肩代わりするものであり、司法改革どころか合理化下請けというべきであろう。
あとの一つは、中坊さんが審議会で提唱したように、法曹一元を実現するのに必要な数の判事任官者を確保するために、弁護士会の推薦を受けた弁護士に「任官義務」を課するという見解である。
しかしながら、弁護士法に規定をおいたところで履行強制の方法はないし、何よりも、自由人であるはずの弁護士が、かような法万能主義に依拠していることは驚きである。翻って、法曹一元は、裁判官が官僚制の下におかれるべきではないという主張なのだから、キャリアシステム下での弁護士任官が進まないのは当然であろう。弁護士は、任官者よりも劣っているから弁護士になった、のではない。そんなコンプレックスは時代錯誤である。自由に生きたいから、「役人」になることを拒否したのだ。そういう弁護士に、累進制を廃止しないままの裁判官への任官を強要するなんて、とんでもないことである。プライドがあるなら、弁護士任官を推進するために、なぜ、判事の累進制廃止を主張しないのか。最初から独立して訴訟行為を行える弁護士が、数年とはいえ経験を積んだ後に、なぜ、「一人で裁判することができない」判事補に任官しなければならないのか。こんな支離滅裂なことをやっていて、法曹一元が実現するはずがなかろう。
三、「弁護士が裁判官になる」ということ
司法審の夏の集中審議の結果、法曹一元は新たな局面を迎えている。即ち、私たち推進派が知恵を絞るべきことは、「法曹一元」とか「判事補廃止」という言葉を使わずに、同じ目的を実現する道筋を見出すことである。
これに対し、目標を一段下げて設定しようとする向きもある。例えば、前述した「任官者への弁護士経験義務づけ」や、「裁判官人事の透明化」や、「職権特例の即時廃止」などであり、この延長に法曹一元があるというのである。
しかしながら、「職権特例の即時廃止」というのなら、特例判事補の数に匹敵する判事を弁護士から供給しなければならず、仮に判事の累進制が廃止されて一元化されたとしても、現在の数の弁護士にはおよそ不可能なことである。同様に、「判事補の採用停止」を決断できる見通しもついていない。そして、「弁護士任官者が子飼い裁判官に取って代わる」ことを法曹一元と考えるから、それができない限り、判事の累進制を廃止できないと思い込んでいて、「裁判官人事の透明化」にトーンダウンするのであろう。
ところで、現行裁判所法は、判事の任命資格を極めて高いものとして地位を飛躍的に高めた。その趣旨は、憲法に基づき「独立して職権を行使」する裁判官は、「完成された職業人」であるべきとしたのである。「完成された職業人」には身分的上下の別もなく、もはや昇進・昇格もない。即ち、判事は一元なのである。そして、「弁護士経験一〇年以上の者」は、この「一元判事」になれるのである。
「百聞は一見にしかずハワイツアー」の参加者に感銘を与えたサブリナ・マッケナー判事は、企業の弁護士を七年程した後、ハワイ大学の教授を経て判事になった人であるが、ご自身も判事在職を名誉に思っているし、社会的にも最も尊敬される職業が裁判官だということである(医者や弁護士よりも、ダントツ一位)。現に、判事一つのポストの募集があると、一〇〇人以上の有資格者が応募するという。「一元判事」とは、こういうものなのである。
日本の現行法においても、判事は栄光ある職であり、私たち弁護士は、一〇年以上の経験を積んで「成熟したオトナの法曹」になれば、この栄光ある職に就任する機会が与えられている。一元判事への任官は、弁護士の名誉ある権利であって、義務ではない。
二宮厚美「自治体の公共性と民間委託」(自治体研究社)
大阪支部 城 塚 健 之
現在、行財政改革・福祉構造改革の大合唱の中で、自治体業務の民間委託・アウトソーシングが進められている。その行き着く先は、介護保険制度に示されるような福祉・住民サービスの市場化である。そこでは万人が賢い消費者であることを要求される。新自由主義の人間観(自己責任に基づき自由競争に耐えうる強い個人)の反映である。これが国民にとって不利益であれば、私たちは闘わざるをない。しかしその理論的支柱はどこにあるのだろうか。
「本書のきっかけは、保育・給食・清掃等の民間委託にどう反撃していくか、という問いかけにあった。」この問題は「自治体の仕事を公共性の視点からどう評価するか、という問題にいきつく。いいかえると、保育・給食・清掃等はなぜ自治体が直接に担わなければならないか、その理由はどこにあるのか、という問題が重要な争点にならざるをえない。」「ところが一口に保育・給食を自治体の公共性の視点から評価するといっても、それ自体、自治体の公共性とは何かという肝心な点が明らかになっていて初めて可能な作業である。」しかし「現代の社会科学は『公共性とは何か』について明快な回答、または一定の合意・定説を確立しているとは言い難い状況にある。」(「あとがき」より)。
この難問に挑んだのが本書である。
二宮教授によれば、公共性の基準は、何よりも住民の人間的なよい暮らし(well-being)=「発達」〔潜在能力(capability)の発揮〕保障に求められる。しかし、その範囲は予め決まっているものではなく、住民評価(合意)によって定まる。
そして公務労働は住民とのコミュニケーション労働であり、住民の評価能力を育てる人権保障的性格を持つ。住民はvoice(発言)の権利を行使し、自治体はこれに応答する責任がある。これが住民自治である(他方、市場においては消費者はexit(退出)の権利、すなわちA社がいやならB社を選ぶという意味の権利しか有しない)。
こうした公務労働に求められるコミュニケーションは非定型であり、知的熟練と現場の裁量権、すなわち専門性を要する。これは短期低賃金雇用では確保は困難である。
そして自治体の業務が公務労働として担われるべきとの住民合意を得るためには、こうした専門性を、具体的な業務に即して明らかにしていく必要がある。
以上が本書の素人的要約であるが、やはり本書を読んでいただきたい。本書は地方自治と公務労働を考えていく上では絶好の書である。
なお、新自由主義が要求する憲法改悪は何も九条問題だけではない。それは国民主権、基本的人権尊重、平和主義という大原則を、危機管理、自立した個人、国際貢献といったイデオロギーで変容しようとするものである。従って、私はこうした「自治体の公共性」をめぐる問題も憲法問題と不可分のものと位置づけて取り組む必要があると感じているのであるが、いかがであろうか。
本体一五〇〇円 お問い合わせは自治体研究社(Fax 03-3235-5933)
自由法曹団通信のINDEXにもどる