大王製紙、秋田進出を中止
秋田県支部 沼 田 敏 明
寺田秋田県知事は、昨年一一月二七日、大王製紙の秋田進出断念を発表しました。平成元年に大王製紙秋田工場の誘致が発表されてから一二年目のことです。誘致計画が明らかになると「秋田の海と空を守ろう」という住民の反対運動が広がり、近隣の天王町も町を挙げて反対し、漁協の大半も誘致反対に回りました。
しかし、秋田県と秋田市が誘致の姿勢を改めなかったので、平成四年、二つの住民団体が協力して一七〇名程の原告団を結成し、大王製紙誘致反対住民訴訟を秋田地裁に提起しました。県の工業用水をダンピング同然の廉価で供給するための四四〇億円に及ぶ県・市の補助金差し止めと同社専用の県営産廃処分場の建設差し止め(その後、損害賠償請求)を求めたものです。
平成九年三月、秋田地裁は、四四〇億円の補助の内二四〇億円の支出を差し止める画期的な判決をしました。右補助が、地方公営企業法の独立採算制と受益者負担の原則等に違反することを認めたものです(損害賠償は棄却)。
こうして、県・市と住民の双方が仙台高裁秋田支部に控訴しました。同高裁は三年余の審理を経て、平成一二年七月結審し、判決言渡を間近にして頭書の進出断念が発表されるに至ったものです。進出中止は、訴訟を含む住民運動の発展もその一因ですが、低成長時代の到来などが背景にあると見られます。
秋田湾地区は、一九七〇年代に苫東・むつ小川原・周防灘・志布志とともに巨大開発基地として指定されましたが、これまで「化鉱・木材コンビナート」、「鉄鋼コンビナート」、「大王製紙誘致」と三たび開発に失敗しました。県は、これまで工場用地・工業用水・処分場・港湾施設などの整備に先行投資を続け、その額は既払分と未払分(償還ベース)を合算して一、〇〇〇億円近くに達すると思われます。苫東、むつ小川原、秋田湾と相次ぐ巨大開発の破綻は「外来型開発」モデルの失敗を立証しました。今後は、地域と住民を中心とした「内発的発展」の多様化が追求されるでしょう。私たちは、前記訴訟の後処理とあわせて、工業用水の上水転用、環境に配慮した工場用地の活用などについて引き続き住民運動を闘っていきたいと思います。
津地方裁判所熊野支部平成一二年一二年二六日判決は、六二歳の女性の交通死の逸失利益について、就労可能年数の一二年間、年二%の利率による中間利息の控除を認めました。
福岡地裁平成八年二月一三日判決(判例タイムズ九〇〇号二五一頁)が一六歳の女子の逸失利益を年四%で控除し、東京高裁第三民事部平成一二年三月二二日判決(自動車保険ジャーナル一三五二号)が、七歳男子について年四%での中間利息の控除を認め、その後、長野地裁諏訪支部平成一二年一一月一四日判決が二九歳男子について年三%の利率の控除を認めました。
今回の判決は、さらにこれをおしすすめ、年二%の利率による控除を認めたものです。年五%と年二%では、金利差によって約三〇〇万円弱の差額が出てきますが、この増額分を含め、填補額を控除して約二九三〇万円の支払いを命じました。
昨年一一月の三庁共同提言後も東京地裁を中心として、年五%の利率に固執する判決がだされている中で、交通死の被害者に犠牲をしわ寄せする不当判決が続いています。三庁共同提言は、若年者の逸失利益の算定方法の矛盾は、ホフマン係数とライプニッツ係数の対立の違いのように描いていますが、名古屋高裁平成四年六月一八日判決が認めた表計算方式もあり(判例タイムズ八〇〇号、判例タイムズ七一四号の「逸失利益の算定における中間利息控除方式の問題点について」参照)、奈良地裁平成五年六月一六日判決(判例タイムズ八二九号)や岡山地裁平成六年二月二八日判決(交通民集二七巻一号二七六頁)も出ています。
中間利息の控除は、あくまで、市場金利の実態を前提にして、現金を市中銀行に預金すると増殖していく社会経済的実態に照らして、被害者の損害賠償金の受け取りすぎを防ぐという趣旨で設けられたものです。このことは、損害賠償裁判の歴史的経過からしても明らかです。東京地裁昭和四六年五月六日判決(交通事故民事裁判例集四巻三号)は、わが国ではじめて年五%の利率によるライプニッツ係数を採用したもので、これをきっかけに一斉に東京地裁とその影響を受けた地裁でのライプニッツ係数による中間利息の控除がはじまりました。それまでは、裁判所はホフマン係数を採用していました。東京地裁のライプニッツ係数方式の根拠とされたのは、利息は利息を産み、市中銀行で複利で増殖していくのだから、ホフマン係数で計算すると、若年者の場合、現在利益に換算して一括して受領した元金が生み出す金利が多額となる不合理があるので、市場金利の実態にあわせて複利で計算すべきだという理論でした。しかし、東京地裁の理論が妥当したのは、市場金利が年五%をうわまわっていた平成五年一月までのことです。市中金利が年五%を下まわる超低金利の異常事態が恒常化し、平成一二年八月にゼロ金利政策が解除されても、政府・与党が超低金利政策を改める意思はないことが明らかな現在、年五%台の市場金利に復活することは、短期的にはあり得ないことです。このような超低金利政策のもとで、全国で年間約二万人も発生している交通死の遺族や後遺障害で悩む多数の交通事故被害者が、何故に年五%の複利計算による利率で中間利息を控除されなければならないのか、その合理的な説明はつかないのです。
大蔵省の平成一二年九月二五日付けの国債及び借入金並びに政府保証債務残高は合計で五五五兆円となっています。これは、過去に例をみない巨額の赤字財政であり、その負担は、現在世代だけではなく、将来世代に残される「負の遺産」となっています。政府・与党が巨大公共事業に名を借りた放漫な財政支出を続け、ばらまき行政と非難されてる補助金行政を続ける限り、巨額の赤字財政を増大させることはあっても、減少させることはありません。共同提言後の東京地裁の裁判官は、過去における五%以上の利率の期間と、現在の超低金利時代の期間の長短の比較をして、年五%の理論的破綻を糊塗しようとしていますが、それは、倒産の憂き目にあった企業家が、昔の栄光の日々を思い出して、いつかは同じような栄光の日々がかえってくると夢想しているのと同じことです。
被害者側の弁護士が、年五%の実務慣行に妥協しているときではないと思います。保険会社寄りにおおきくシフトし、加害者のモラルハザードまで引き起こしている交通事故損害賠償のあり方を根本的に見直していく時期だと思います(二%のライプニッツ係数の係数表は、川人博団員から提供を受けました。そのほか、岩田研二郎団員ほか各地の団員から資料提供をしていただきました。ありがとうございました)。
一、全国的に注目されている田中新知事に対して団支部がどのようなスタンスをとっているのかについてよく聞かれますので、知事になりそこねた私の感想を述べることにします。
二、私が一九八四年知事選に立候補したときに「県民の会」を結成し、それ以来現職知事との一騎打ちの選挙を続けて来ました。
今回は、初め民主党参院議員(元副知事)が立候補する動きがあり、「県民の会」としても、統一のための接触を図ってきましたが、前知事側が翼賛体制を固めているのに、立候補発表がなく、選挙が近づき、このため「県民の会」は、独自の候補者を公表しました。
ところが、八月下旬田中氏が突如立候補することになりました。
私は、田中陣営の幹部と非公式に接触していました。しかし、田中陣営は、「政党・団体と一切推薦をもらわない、勝手連でやってくれ」となってしまい(それでいて連合だけには推薦要請をした)、統一できませんでした。しかし「県民の会」も田中氏の女性関係などを問題にして必ずしも積極的ではなく、私は、政策で一致するのであれば、統一のためのアプローチをもっととるべきではないかと云っておりました。
三、田中氏は、選挙が進むにつれて、「浅川ダムなどの一時凍結」などを主張するようになり、「県民の会」の政策と接近してきました。
私は、この十年間、「県政研究会」の代表として、「全国一の借金」「全国トップクラスの土木偏重・福祉軽視」など県政の実態を調査して発表する活動を続けて来ました。
それだけに、田中知事が私たちの政策をどんどん取り入れてることは大歓迎です。
四、田中知事は、まことにざっくばらんです。
県弁護士会も訪れて来て、武田会長(団支部幹事長)と和気あいあいの懇談をしました。そのときも、田中知事自身が、上條支部事務局長と、松本深志高校で同級であったとなつかしそうに言ったそうです。
五、田中知事が一時中止を表明した浅川ダムなどは、団支部があげて裁判闘争に取り組んできただけに私たちも我が意を得たりと思っています。
私も取り組んでいる下諏訪ダム裁判などでは、県側の代理人弁護士が、次の準備書面提出について、「新知事の意向を確かめないと」といって、延期を公判廷で要望してきています。
長年にわたって苦難の裁判を続けてきた住民は、盛り上がってきています。
田中知事は、じん肺訴訟原告団に対して、じん肺根絶を願うメッセージを送ってくれました。全国的にたたかわれているなかで、知事のものは初めてです。
六、しかし、田中知事に対する包囲網はすさまじいものですが、これに対するバックアップ体制はできていません。
田中知事が浅川ダム一時中止を指示したところ、建設省から出向していた土木部長は、莫大な金額の補助金返還を国に対して、また、損害賠償を業者に対して、しなければならないと発言し、撤回を公然と求めています。
これに対して、団支部は見解を発表して、土木部長の発言に法的な根拠がないことを明らかにしました。
土木部長らが知事の意向に逆った発言をし続けるとしたならば、これに対する見解も発表する予定でいます。
長野県支部は、これまで知事を批判する法的見解を連発してきましたが、知事を擁護するために土木部長の職務専念義務などを解明する新たな課題に取り組まなければなりません。
近日中に田中知事との懇談を実現させ、協力関係を築いて行きたいと考えています。
団通信では各地における裁判闘争が紹介されている。各地で困難なたたかいに奮闘されている団員各位の報告からは学ぶものが多い。しかし、かねがね残念に思っているのは、それらの報告に裁判官名の記載がなされていないことが多いことである。これは団通信に限ったことではないが、これでは、こんな立派な判決を書いたのが誰なのか、あるいはこんな不届きな裁判をしたのが誰なのか、さっぱり分からない。裁判の紹介にあたっては、「裁判所」といった非人格的名称ではなく、裁判官個人名を表示してほしい。そして、弁護団員名はもちろんのこと、場合によっては相手方の検察官や代理人名も表示してほしい。
私がこんなことを言うのは次の理由からである。
1、日弁連人権擁護大会シンポの委員として基調報告の原稿を書いているときに、当時、出身委員会である刑事法制委員会の委員長をされていた石川元也団員からご指導戴いた中に、「裁判例を紹介するときは関係した裁判官、検察官、弁護士の名前を書け」というのがあった。人の顔の見えない文章ほどつまらないものはないということである。すべては人間の営みであるから当然のこととはいえ、非常に強烈な印象が残った。
2、東大阪市職労が、後に逮捕され辞職した清水前市長の不当労働行為に対し損害賠償訴訟を提起することになったとき、豊川義明団員は、清水前市長の個人責任も追及すべきと主張し、被告に加えることになった。豊川団員が強調していたのは、「国家賠償法が公務員の個人責任を免責したため、官僚組織が腐敗した。企業もまた同じ。私たちは組織だけではなく、責任者(トップ)の個人責任をもっと追及しなければならない」ということであった。ちょうど日本共産党緒方氏宅盗聴事件で実行行為者たる警察官の個人責任を認める東京地裁判決が出たばかりのころだった。
3、先日、大阪において、自由法曹団と民法協の共催で企業再編型リストラ事件交流会を実施したが、東京から参加された松井繁明団員は、東京地裁の整理解雇法理を崩す一連の決定を批判するビラを裁判所周辺に裁判官名を表示して撒いたところ、某裁判官が、「名指しで批判されるなんて耐えられない」といって故郷に帰っていったというエピソードを紹介された。聞くところによると裁判所周辺でまいたビラは裁判所内部で回覧されているそうである(大阪地裁の場合)。裁判官はそういうものに神経質になっているのである。もちろん名指しで批判されるのが困るような裁判官には辞めてもらった方がよい。
こうした理由から、私は、いろんな文書を書くときにはできるかぎり裁判官の氏名を(できる限り陪席裁判官も含めて)表示することにしている。
ちなみに、民法協では一一月二九日、司法制度改革審議会に対し「労働裁判改革に関する意見」を提出した。一二月一日の審議に間に合わせようとやっつけで作ったので、不十分さは否めないが、大阪らしい独自性を出そうと、大阪地裁労働部でも最近増えている労働者の生活に配慮をしない判決を、松本哲泓裁判長のみならず陪席裁判官名も全員表示して紹介し、具体的に批判しているのが特徴である(労旬一月号に掲載予定)。
これはひとつのささやかな試みではあるが、私たちは意識して裁判官の個人名(裁判長のみならず陪席裁判官も含めて)表示を心がけるべきだと思う。
──官僚法曹の限界──
東京支部 後 藤 富 士 子
1 暴行罪で逮捕
昨年一一月一七日、司法シンポの懇親会の後、事務所に戻って仕事をしていたら、夜一〇時頃、M警察署から電話で、ふるい依頼者のS氏が暴行容疑で逮捕されたということだった。翌日の土曜日の午後に陪審フェスティバルが予定されていたので、検察官送致があるかと思ったが、幸いにも午前中に接見できるとのことだった。
翌日、午前一〇時頃にM警察署に到着し、接見の申込をしたところ、刑事が出てきて、検察庁へ行っているという。私が抗議すると、刑事もまずいと思って、朝私に連絡しようと事務所に電話をしたというが、連絡がつかなかったという。私は、検察庁へ行ってまた行き違いになるのを恐れ、一時間後に検察庁にS氏がいることを確かめて、地検(支部)へ向かった。
地検では、五〇期の女性検事が令状当番だったが、接見の施設がないという。平日であれば、地裁支部に刑事被告人が押送されてくるので、裁判所の仮監獄で接見するのだが、土曜日なのでそれもできないという。私は、待合室のドアに鍵を掛けて接見させるように要求したが、看守(警察官)の数が少なくて、警備上とてもできないと言いつつ、「私にできる最大限のことは、近くのK警察署の接見室で行ってもらうことです」とのこと。検事は、M警察署が接見の約束をしたのが悪いからと言って、異例の扱いをしてくれたわけである。
これでやっと会えるとホッとしたのも束の間、更に驚いたことに、地検から最寄りの(徒歩一〇分位)K警察署へS氏の身柄を移動させるのに、M警察署から車と看守を呼ぶと言うのだ。渋滞していると、地検に来るまでに一時間以上かかるというので、昼食しながら待つように言われた。結局、私がK警察署でS氏と接見した頃には午後二時半になっていた。
2 勾留請求
検事はK警察署にいた私に電話で、勾留請求を三時までにしなければならず、接見が終わるのを待てないので、「勾留請求させてもらいます」と言ってきた。私としては、勾留請求をさせないために事前の接見を求め、検事もそれを了解していたのだが、時間の制約に勝てなかった。
接見すると、被疑事実についてS氏は否認しており、どうも「被害者」という二〇歳の青年が暴走族らしく、ひどいクラクションに眉を顰めて睨み付けたS氏に因縁をつけてきて、殴っていないのに「右拳で左の顎あたりを一発殴られた」と主張している。逮捕の経過についても異常で、むしろS氏が「おやじ狩り」にあったのではないかとさえ思われた。
私はS氏に、勾留手続について一通り説明し、否認していると勾留されることを「全く不当なのだけれど、実務がそうなっている」ことを話した。S氏が保釈のことを尋ねてきたので、起訴前の保釈は制度がないことも教えた。「否認すると勾留される」ことを前提として、それでもなお否認するのか、S氏に腹を決めてもらった。
接見終了後、処遇についての要望事項があったので検事に電話してみると、どちらからともなく、ちょっと話そうということになった。私は、陪審フェスティバルに参加できなくなったこともあって、逮捕後の速やかな接見が保障されない人的・物的施設の不備(地検に接見室がないこと)を先ず非難せずにはいられなかった。検事も「私は、接見を妨害したとか、自白を強要したとか言われたくはない」と言って、刑事訴訟法を大学で専攻したというだけあって、弁護活動に対して正当な理解を示した。更に、本件について意見交換したところ、検事曰く「罪状が軽微だし、被害者も悪いのだから、否認しなければ勾留請求しなかったと思う」と。私は、「そういう見解こそ『人質司法』といわれる所以でしょう。否認しているからといって、ちゃんとした証拠があれば起訴できるんだから、在宅でやればいい。任意捜査が原則でしょ」などと反論したが、この良心的な検事でも「否認事件は必要的勾留請求」という不文律(?)に勝てないようであった。結局、検事は、できるだけ早期に被害者を呼んで事情をきいてみることを約束して、別れたのである。
3 準抗告ーー否認は罪証湮滅のおそれあり
二二日も検察庁へ押送されていたので、勾留状謄本の交付申請をして地検へ行ったところ、予想に反して担当検察官が変わっていて、副検事であった。接見の申出をしたところ、まだ取調べには時間があったせいか、裁判所の仮監獄で接見することができた。副検事は、被害者からの事情聴取をまだしていないとのこと。
S氏はフリーのグラフィックデザイナーで、被疑事実の前後の状況を整理して客観的に供述することが不得意なところがあり、弁護人の私がS氏の立場に立って疑問をぶつけてようやく「一連の事実」を聞き出すことができる状態だった。これでは取調べ官に、「被害者」がおかしいのではないかとの疑いを抱かせることはできないだろうと思われた。そこで、検察官の取調べのときには、私が聞き出したような一連の具体的事実を話すように、被疑事実だけについて「やってない」ということを言っても無駄だから、前後の事実を重視してもらうようにアドバイスした。また、S氏は、勾留されるなんて夢にも思っていなかったし、仕事のキャンセルを苦にして、「認めると、どうなるのか」という話になった。私は、「多分、略式罰金になるだろうけど、それは前科です。認めるなら勾留請求のときに認めていれば、勾留されずにすんだのに。そのことは、最初の接見の時にも話したでしょ」と叱咤激励したが、どうみても罪状に照らしてS氏の受ける不利益は大きすぎて「否認を貫け」などとは言えない。どうするかは本人に決めてもらうしかないのである。
こういう状況で、私も勾留について不服申立をする必要を感じ、二四日昼前に勾留に対する準抗告を申立てたが、裁判官と面会する時間の調整がつかず、一旦M警察署でS氏と接見して再び裁判所へ戻ったが、三時をちょっと過ぎてしまったところ、裁判官が勾留質問に入ってしまって、また三〇分程待たされた。面会したのは、まだキャリアの浅い女性判事補だったが、弁護人の主張をある程度受け止めているような雰囲気だった。けれども、午後七時半に事務所にファクスされた決定は「棄却」であり、否認していることから「被害者ら関係者に働きかけるなどして罪証を隠滅すると疑うに足りる相当な理由がある」というのである。
4 認めたから不起訴
二七日は勾留満期で朝から地検へ行った。接見を申し出ると、裁判所の公判がないので午後三時頃からの勾留質問まで仮監獄は使えないとのこと。副検事は、「私が居てますけど、私の部屋でよければ・・」と言う。満期なのだから、どうしても接見しなければならないので、S氏の承諾を取るように求め、結局、副検事の部屋で会うことになった。私は、「これを接見というのでは、まずいのではないですか。取調べに弁護人が立会っていることにして、三人で議論しましょう」と言いながら部屋へついて行った。そして、被害者から聴取した結果を踏まえた検察官の意見を聞くと、S氏が否認したままでは「勾留のまま公判請求」するしかないと言う。「認めたらどうなるか」と聞くと、略式罰金一〇〜二〇万円で即日釈放するという。S氏は、なかなか決断できずにいたが、最終的に「身柄拘束がいつまで続くかわからない」恐怖に耐えかねて、略式罰金を受け入れることにした。その結論を見届けて、私は退席した。
事務所へ戻ると、被害者の住民票が届いており、検察官に教えてもらった住所と違っていることが判明した。略式罰金を納めても、正式裁判請求の道があるし、そうでなくとも確定刑事記録を取り寄せておく必要があると考えたので、副検事に電話してみた。すると、意外なことに、S氏は「処分保留のまま釈放」されたという。私は耳を疑ったが、副検事がそのような処分をした理由は、結局、S氏が被疑事実を認めたことによって、当該検察官の裁量権の範囲に入ってきたということのようである。つまり、本件被疑事実は、女性検事や刑事も言っていたように、認めても勾留も起訴もしなくてもよいような事案なのに、否認しているばかりに不起訴裁量が許されないというのであろう。
5 公訴権の民主化ーー国家独占主義の見直し
結果的には不起訴とはいえ、一〇日間ほぼ張りつきで、私の消耗感も激しかった。というのは、不起訴は、被疑者と弁護人の正当な主張・活動がもたらしたものではないからである。反対に、被疑者・弁護人が司法権力に屈伏したことによって得られたのである。
また、私が会った刑事、検事、副検事、裁判官の誰もが、比較的弁護人に好意的な対応をしてくれたわけで、罵るべき相手ではなかったことも、日本の刑事司法の暗闇の深さを私に思い知らせた。否認さえしなければ勾留も起訴もされないような嫌疑で、否認すると、なぜ、「いつまで勾留されるかわからない」「公判で争っても無罪をかち取れる保証はない」という恐怖にさらされなければならないのか。これで「当事者主義」だなどと、よくも言えるものだと思う。結局、検察官も裁判官も、自らに与えられた権限を正当に行使することができないのだ。何のことはない、検察官が勾留請求しなければいいのだし、起訴しなければいいのだし、裁判官も勾留しなければいいのだ。こういう当然のことを、彼らはしないのである。
「いい人」である彼らが、どうして、そうしないのかを考えると、彼らが官僚だからということに尽きる。
その意味で、裁判官の「非官吏化」や陪審制と併せて、公訴権の民主的コントロールの方策(例えば大陪審制度)を検討すべきであろう。
─法律事務所法人化総会に向けて
東京支部 坂 井 興 一
多年検討されて来た頭記議案が、二月九日の日弁連臨時総会に掛かっている。理事会は前年度の二〇〇〇年三月にその時点での基本方向を決議し、今年度六月には残された支所(従たる事務所)問題を、そして一二月に今総会議案を承認している。この問題については既に高山さん達の会から、弁護士法人の権利・法務大臣の解散請求・支所・懲戒等についての種々の疑問が提起され、また、総会議案は結局のところ弁護士自治と独立の破壊に通じる司法審路線への協力の強制である旨の反対意見が流されている。理事として六月・一二月決議に係わり、いずれも賛成票を投じた者の一人として、この間の経過と受け止めようについてご紹介する機会を得たく、投稿した。
一、これまでの経緯
法人化問題は一〇数年来の課題であり、私の属する東弁では、所謂「事務局法人」への代表取締役就任の営業許可申請を不可とする単位会の対応を契機に、三人以上の社員等を要件とする法人化推進の意見書を提出していた。日弁連では九三、四年頃から本格的な取り組みが始まり、九八年六月には三回目の全単位会意見集約が行われた。この時には従たる事務所について、恐らく一般的には問うまでもないこととし過疎地に限ってのものを問い、それさえも反対が多く、社員要件では一人を希望する会が多かった。そして同年一二月には立法化の推進が決議され、二〇〇〇年に入っての三度の決議に連なるのであった。そのうち六月理事会の支所問題について、小生のような大都市部選出の理事は単位会の立場で述べるべきことがなく、採決ではそれ以外の会を中心に反対一七、棄権三となっていたが、今回一二月のものは合わせて七になっていた。
二、一二月理事会の経過
ここでの当初(一一月)提案では、六月理事会の際には未成熟で議論のしようのなかった所謂一人法人についてこれを認め、然も要求するやに取れる内容となっていた。そのことについて私は、法人化の濫用から弁護士自治を掘り崩す恐れを感じていたため、末尾引用の趣旨の修正意見を述べた。然し、一人法人については各会の希望はあるものの、法務省側のガードが堅くその実現の可能性が事実上考えにくい状況がハッキリして来たとのことで、私の修正意見の趣旨が理由中に付加されたことで了解することとし、議案に賛成した。一二月理事会での反対票の減少をどう見るかについて言えば、事実上六月理事会で骨格についての態度決定が済んでしまっていたことや、この間の状況・協議・内容等の煮詰まり、後述する弁護士自治堅持についてのそれなりの態度確認等が反映されていたことによると受け止めている。
三、批判意見について
高山さん達の受け止めようについては、些か定点的なものを感じているが、間違ったものだとは思っていない。主として問題にされている支所の件については、元々弁護士会側が求めたものではなく、当分の間、まともな需要も考えにくいものだからである。法務省側の言い分は、規制緩和の立場と準則主義からすれば、法人一般が可能なものを規制するのは如何か、と云った講学的論理によるもののようであって、如何にも為にする嫌みな議論に聞こえる。法人そのものについて、例えば提携屋やサービサー的なものによる脱法的なものも危惧される。支所については、これから先々、高裁所在地都市などへの専門店的なブランド展開が起きることを心配するのも故なしとはしない。その時果たして弁護士会は何処まで適正な対応と監督が出来るのか。
法案骨子が確定せず、当然のことながら会則会規がどうなるか、二重登録を巡る様々なことの交通整理がどうなるか、そうしたことの行方が不確かなのが今の状態である。それを法人化実現に向けて押し込むためとは云え、総会に於いて漠たる方針を決議するのは如何なものかとの疑問は有り得るところである。然し、いつまでも限定された人しかこの問題の議論に関与しないのでは、会内民主主義から見てこれ又如何なものかともなり、今総会になっている。
総会での態度決定を閣議決定や改革審の中間報告等の押し詰まった背景事情を理由としてやるのでは、何となく引っ掛かりがある。さりとて内容の判然としないことにも如何ともし難いものがある。一二月一九日の東弁会員集会でも半ば当然のことながら、Q&A的なところで詰まってしまっていた。これから先、弁護士法人は現実態として実在的なものになるのか、それとも擬制的なものでしかないのか、それも分からない。土台これは自分達だけで決めれるものでなく、又、監督官庁問題が生じるものに明確な答えなど不可能である。だからこそ、議案自体も漠たるものになっているのであって、理路整然たる装いのQ&Aも、本来その程度の意味しかない筈のものである。
四、議案の意味するもの
1、そうしたアバウトなものと云う前提で受け止めれば、こんなことになろうか。
イ、解散請求権・・・法人に対する何らかの介入は排除出来ないだろう。ビジネス法人で税法など諸種の便益のあり得るものに、システムとして自己規律だけで十分という主張は、自治権を特権的なものとする態度に連なる。これがいやなら法人化要求は出せない。要求を出さないのも有り得る態度ではあるが、ご存じのように外の状況は今更引っ込めるとも言いにくいものになっている。
ロ、支所問題・・・これも答弁通りであろう。連合体に亀裂をもたらす恐れのあるものは願い下げにしたいところだが、ここは踏ん張って、以降の過程での会則会規改正対応の中で強く縛ることを予め宣言して置くしかない。
ハ、法人の議決権・・・法人特有の問題があり、規制がある以上、関連決議についての議決権の否定は自己矛盾であろう。
ニ、法人の懲戒・・・法務省側の干渉とビジネス論理の貫徹を極力制限するために、総論や原則論がまだしも出しうる弁護士会の権限を強調するしかないであろう。
2、私のこうした議論の仕方が些か乱暴であることを認めるに吝かではないが、これからのビジネスロイヤーに対しては、弁護士会は果敢に弁護士会の論理を突きつけて行くしかない。それが果たして何処まで可能なのか、出来ないことは最初から止めて置くべきなのか。それは確かに立ち止まって考える価値はあろう。一〇数年来この件を眺めて来て、この一年に限っても何度も係わった私の結論は、「もう潮時」と云うことになる。係わっていなかった方がどう判断されるべきかについてまで、私如きがあれこれ言うのはどうかとは思っている。
五、理事会で言ったこと、言いたかったこと
理事会で一番言いたかったことは一人法人に関わる問題であり、それはどうも論議の必要性が小さくなってしまったので、理事会提出済み意見書の再現のようなことはやめたい。然し、その他全般に共通するところの、法人格濫用の防止・法務省やビジネス界からの不当干渉の排除・弁護士自治の確保と云ったことについて、弁護士会はしつこく、体裁構わず言って貰いたい。どの途、今の段階で事態は尚流動的であり、確かなことが請け合えない以上、これから先の会則会規での取り決めになるとはいえ、弁護士会は法人に対し遠慮会釈なくビシバシと果敢に対応して貰いたい。そのことを予め宣言して貰いたい・・・とそんなところなのであります( 付記、私の理事会提出修正意見主文です。これとほぼ似たようなものが、議案理由中のはじめにの末尾に取り込まれています)。
「尚、本基本方針による法律事務所法人化制度を実現するにあたり、当連合会はこの制度が弁護士業務と法律事務所経営に対する利用者の信頼をいささかも損ねず、低下させないものであることが肝要であると受け止めている。今次法律事務所の法人化が準則主義によって行われるようとするものであるところ、弁護士事務の改善進歩を図るための指導監督を任務としている各弁護士会及び当連合会の責任はより重大なものとなる。 当連合会はその責任を果たすための当然の措置として、本制度の実現にあたって、弁護士法人の設立と運営に対する利用者の信頼を確保し、もって弁護士の社会的信用の維持と弁護士自治の発展を図るべき具体的諸規定を制定・整備し、制度の適正な運用を図るものであることを予め確認するものである。」
ローソン本部によるローソン千駄ヶ谷店への濫用的仮処分執行
弁護士 中 村 昌 典
自由法曹団の先生方の各方面での精力的な奮闘・ご活躍に敬意を表します。係争中であった「ローソン千駄ヶ谷店」へのローソン本部の、あまりに横暴極まりない仮処分・執行をご報告し、皆様のご支援・ご意見・ご注目を賜りたく存じます。
1 ローソン千駄ヶ谷店による本部提訴
ローソン千駄ヶ谷店は従前本部直営店だったのですが、原告中村佳央氏が契約するに際して、担当者は人件費の過少見積もり(実績値隠し)による虚偽の見積損益計算書を提示し、実質赤字経営だったことを隠して、原告を騙して契約させました。この件については本部や代表取締役らを相手取って二〇〇〇年一一月中旬に、東京地裁に損害賠償請求を提訴しました。
2 実地棚卸を巡っての本部との争い
原告は、上記提訴に先立つ二〇〇〇年二月期の「実地棚卸し」以降、本部とこの問題をめぐって対立状態にありました。本部は、フランチャイズ契約の本部側の義務の一つとして、加盟店の会計業務を行っています。(ただし契約書では加盟店側の実地棚卸協力義務と記載されています。)が、ロスの数字が大きく変動するような「結果」に店主が疑問を抱き、部門別の合計だけでなく単品ごとの明細を出すように本部に要求したのが事の発端です。しかし、本部は「データはない」「システム上出せない」(本部は仕入も売上も単品管理をしており、その中間である在庫についてもデータがないはずはない)というばかりで何ら合理的な回答がありませんでした。
3 交渉打ち切りと裁判所による仮処分決定
「単品明細を出さない、その正確性が保証されない棚卸しなど延期する」(出せばいつでもさせる)という原告の主張を本部が「実地棚卸協力義務違反」などと決めつけ、相当数の内容証明やメールの応酬がなされました。が、ついに最終的には本部代理人により二〇〇〇年一二月五日を期限とし、それまでに応じないのであれば解除する旨の通知がなされ、その後の商品供給をストップしてきました。むろん、原告は十分な説明もなく、明細も出されなかったため、当然拒否しました。その後も代理人を通じての交渉を続けたのですが、一二月二二日に本部側より「一二月二五日午後三時までにまとまらなければ交渉打ち切り」通知があったため、二五日に当方から「加盟店地位確認仮処分」を東京地裁に申立をしました(裁判官面接の上、二八日審尋期日)。
ところがなんと翌二六日午前一〇時に、本部は一二月一五日付大阪地裁の「動産占有移転・処分禁止仮処分(執行官保管)」決定による保全執行を強行してきました。店内の陳列棚・レジ・電子レンジ・カウンターや表の看板・ウインドウに貼られたシールまで全て撤去され、千駄ヶ谷店の営業続行は不可能となりました(一月一一日に債務者(原告)へ決定書が送達、同日付けで保全異議申立・東京地裁への移送申立済み)。
4 問題と今後の対応
事実上の「店舗取り潰し断行」とでもいうべき仮処分を強行して原告の生活の糧を奪い、息の根を止める本部にはやり場のない憤りを覚えます。また、いくら動産占有移転禁止・処分禁止の仮処分を債務者無審尋で出しうるとしても、什器や看板といった到底隠匿・実際上の処分が不可能で、かつ店舗経営に不可欠の基本的設備の執行官保管を、まさに係争中の本件で、債務者を審尋することもなく出した、大阪地裁(森川英樹裁判官)の判断は極めて疑問といわざるを得ません。保全異議・本訴訟を通じて断固として反撃していくつもりです。
─韓国テレビで放映、ビデオを見ませんか
大阪支部 石 川 元 也
戦前・戦後活躍された団の先達、布施辰治弁護士の、植民地下の朝鮮人の独立運動弾圧に抗議した献身的な弁護活動を紹介したテレビ番組が、韓国で、今春放映されて、大きな反響を呼んだ。
二〇〇〇年二月二九日(三・一独立運動記念日の前日)韓国文化放送は、記念特集として、「発掘・日本人シンドラー布施辰治」と題する一時間番組を放映した。
「死からユダヤ人を救ったドイツ人、そして日本植民地統治下で朝鮮独立運動烈士の弁護を引き受けた日本人がいた。日本人でありながら日本の総督政治を批判した布施辰治。」とナレーションははじまる。
そして、最後は「もう過去の絆を脱して、新しい日韓関係を作るのに、今日紹介した布施辰治が小さな道標になることを期待します。」と結ばれている。
このビデオには、一九二三年九月一日の関東大震災時の朝鮮人六千人の虐殺、その後の朴烈・金子大逆事件の弁護、三・一万歳事件弁護活動など、珍しい映像も含め、その歴史的背景が、森正教授の解説(日本語)で流される。石巻市の「生くべくんば民衆とともに」の記念碑も出てくる。全編一二頁にわたる日本語翻訳文を読めば十分理解できる。
二〇〇〇年一一月一三日、生誕一二〇年を記念して、韓国・国会議員会館で「布施先生記念国際学術大会」が開かれ、招待をうけた布施弁護士の孫にあたる日本評論社社長大石進氏が語った「祖父辰治の思い出」の「青磁の器」もお読みいただきたい。大石さんがそこで聞いたところによると、朴烈氏は、一九四五年解放され、居留民団結成に参画し、その後韓国に渡り、朝鮮戦争の最中、北に移り(韓国側は拉致というが、自分の意思でとの説もある)、一九七二年北で死亡した。韓国政府は一九八七年「朴烈義士」の称号を贈り、顕彰したという。なお、戦後日本で生れた朴烈義士の息子は、京都大学に合格したが、入学せず、韓国陸軍士官学校に進みベトナム戦争にも参加し、現在は予備役の准将で健在だということである。
韓国からの新しい日韓関係発掘の動きにこたえ、自由法曹団創立八〇周年の今年日韓・日朝の連帯の歴史に新しい頁を画そうではないか。ともあれ、このビデオ観てみませんか(石川の個人的すすめと了解して下さい)。
ビデオ複製代(実費)一本 一〇〇〇円
(翻訳文及び「青磁の器」付き)
郵送料 一本 二七〇円
申込は石川元也法律事務所まで