一 判決言い渡し
本年二月二三日、大阪地裁で判決言い渡しがあった。
判決は事実経過を原告側の主張通り認定し、「警察官は、原告(篠原弁護士)が弁護士であることを認識しながら、接見の申し出を無視し庁舎への立入を拒絶したものであり、これは接見交通権を侵害するものであり国賠法上の違法行為である」と明確に認定した。そして、「被疑者らが最も弁護人との接見を必要とする時期に手を拱いていざる得なかった焦燥感や屈辱感を考えあわせると原告が受けた精神的苦痛は察するに難くない」として、慰謝料三〇万円、弁護士費用一〇万円、合計四〇万円の支払を大阪府に命じた。
原告側としては、ほぼこちらの主張する事実通りの認定であり、認容額も、本来的には決して十分とは言えない(請求額は慰謝料一〇〇万、弁護士費用五〇万)がこれまでの他の接見交通権侵害事件での判決認容額と比べるとむしろ高額であることなどより、原告からは控訴しないことを判決当日確認した。
二 事件概要と審理経過
一九九八年三月一九日、大阪労連の組合員がJR此花駅前で街頭宣伝活動をしようとしたのを警察官が軽犯罪法違反で逮捕し此花警察署へ連行した。連絡を受けて駆けつけた篠原弁護士が接見のために警察署建物内にはいろうとしたのを、警察署前でピケをはった警察官が物理的に妨害し、その経過中に篠原さんが押し倒された事件もおきた。大阪府警は事件後も謝罪を一切拒否する姿勢を示したため、同年一二月に、国賠訴訟を提起した。篠原さんが弁護士バッチも示しながら弁護士だと名乗り、接見を繰り返し求めていたことは明白な事案であるので、被告側がいかなる答弁をするのか、興味が持たれた。大阪府警は訴訟の中で、篠原さんが弁護士だと言って接見を求めた事実は認めるが、巻き舌のベランメイ口調でしゃべり、警察官が氏名を尋ねたのに答えなかったことより、その場にいた抗議者の一員と判断されたので入庁を認めなかったと主張した。そして、現場の警察官証人全員が異口同音にそれに沿った証言を繰り返した。
これらは全くの偽証である。その数ある偽証の中で、篠原さんが署前に到着した時刻を実際より遅らせて、救援会の宣伝カーによる抗議のマイク宣伝開始後のことで現場は騒然としていた(よって抗議者の一員と誤認したのはやむを得ない?)という証言もした。ご丁寧に、反対尋問で複数の警察官が自分の時計を確認したので間違いないと証言した。しかし、弁護団の発案で現場の写真を拡大現像すると、篠原さんと相対している警察官の腕時計の文字盤がはっきりと写っていて、警察官の偽証が明らかとなったなど、審理では被告側を圧倒する立証ができた。不完全ながら存在した現場録音テープで、警察官が篠原さんに向かって「先生だって・・・・」と明らかに弁護士扱いしていることも、発見できた。事実論では圧倒したが、あと、危惧されたのは、篠原さんが入庁を阻止されたのは約一時間であり、接見妨害事案でこの程度の時間接見が遅れることは他でも少なからずあり、その点を裁判所がどうみるかであった。これに関連して被告は、「仮に原告が当初から入庁をしていても被疑者が取り調べ中であったため直ちに接見できなかったから、接見時刻にかわりはなく違法でない」という開き直りの反論もしていたので、判決結果は予断を許さなかった。
三 判決の意義と今後(判決確定)
これに対して、大阪地裁(裁判長佐藤嘉彦、右陪席種村好子、左陪席頼晋一)は、@事実論では、「警察官は篠原さんを弁護士と認識しながら接見申し出も無視し続けた」と明確に認定し、A違法性論でも、「仮に現に取調中等であっても、警察官は弁護人と協議してできる限り速やかな接見のための日時等を指定し、被疑者が防御のために弁護人等と打ち合わせることのできるような措置をとるべきなのに何らとっておらず、接見交通権の重大さに対する配慮が欠けていたというほかなく、違法の誹りは免れない」と明確に判断した。また、「被疑者らが最も弁護人との接見を必要とする時期」と述べて、初回接見の重要性を認めている。
さらに、『おまけ』として「(警察の本件措置は)仮に、原告の態度が、名も名乗らず名刺も出さず紳士的でなかったとしても、許されるべきことではない。」とも判示した。篠原さんの名誉のために誤解のないように説明すると、篠原さんは「巻き舌でしゃべる」などという芸当はできないし、あくまで紳士的に刑事訴訟法の条文を引用しつつ、丁寧に警察官を説得し続けた。名前を訊いたのに名乗らなかったのは、篠原さんではなく警察官の方であった。右『おまけ』は、一般的にいって、現場の警察官は接見を求める者が弁護士であることがバッチなどで確認できればよいのであり、個別の弁護士氏名がわからないとか、非紳士的かどうか(警察官の恣意的評価の危険性あり)を理由に、入庁を阻止できないことを判示したものと評価できる。以上の判示事項は、今後の接見妨害事案でも有力な武器として活用できるだろう。
そして、さらにさらにうれしいことに、本日、被告は控訴をしない旨の連絡がはいった。この種の国賠事件では一審でどんなに負けても控訴をして争うのが警察の一般的姿勢である。一審で勝利判決を確定させたことは、これまでの右警察の姿勢を改めさせる際の参考事例として活用できるのではないか。被告が控訴したら、逆に控訴審法廷で警察官の偽証工作をさらに徹底的に暴こうと心中考えていただけに「少々悔しい」、というのは全くの嘘で、今はとてもうれしい。これまで全国で支援し関心を持っていただいていたみなさんに、心よりお礼を申し上げたい。
最近、京都地裁において、下記注目すべき決定がなされたので、報告します。
1 出版禁止仮処分命令申立却下決定
2 移送申立却下決定
(いずれもコンビニ大手のサークルKとオーナーの紛争に関する もの)
一 出版禁止仮処分命令申立却下決定
(1)昨年の宇奈月総会で報告し、代理人要請をしたところ、八〇名の団員がこれに応じてくれました。大変ありがとうございました。「全国の憲法感覚豊かな弁護士が、憲法違反の出版禁止を許してはならないと、代理人に就任した」と、裁判所に訴えました。結果は、見事な内容による却下決定です。
(2)現在、全国各地に、多数のコンビニ店が出店し、二四時間営業で、コンピューター管理され、最も近代的な営業体制として、小売業の主流となりつつありますが、オーナーは過酷な労働で、家庭崩壊の犠牲を受けながらも、自分の労働対価分が取得できず、恒常的赤字におかれているにもかかわらず、本部は一店舗月一〇〇万円規模のロイヤリティを安定的・恒常的に取得するという、不公正・不公平な契約関係にあり、且つ、このような契約から逃れようとしても、多額の違約金に縛られて廃めることも出来ない状態におかれ、「現代の奴隷契約」と言われています。
このような中で、オーナーの闘いは必然的に発生し、それは社会問題となっています。そのオーナーの一人で、サークルKを被告として提訴した小山潤一とその訴訟代理人である近藤が、共著で出版した「現代コンビニ商法」という著書が、名誉毀損になるとして「出版禁止仮処分」申立てがなされ、七ケ月余の審理がなされましたが、サークルKの主張を退け、今般却下決定となったものです。
(3)本著書の内容は、コンビニ問題全体の状況と紛争の本質を明らかにし、オーナーの闘いの正当性と、その勝利の展望を明らかにした近藤執筆部分と、自分の被害の告発と闘いの状況を報告した小山執筆部分から成り立っています。
訴訟事件の紛争の原因は、サークルKのオーナー苛めの「悪徳商法」に対する小山の正当な報道行為に対する報復としての「契約解除」であり、本部を批判する者に対する他の業者への「見せしめ」としての「襲撃事件」ですが、この「批判者に対する容赦ない攻撃」というサークルKの企業体質は、「現代コンビニ商法」という著書に対する出版禁止仮処分申立として、継続したのです。
(4)この仮処分却下決定は、サークルKが名誉毀損に該当する事実として挙げた諸点の多くが、コンビニフランチャイズ契約全体に対する批判であり、サークルKの名誉・信用を毀損するものではないとし、また主要な部分に虚偽はないとしました。そして「本件書籍を出版した目的は正当な目的のために行なわれたものであること、またその内容も公正なものと認められる」と判断しました。その中で、本件店舗「襲撃事件」について、民事事件としてみた場合、「自力救済」を行なっているのであって、「その違法なことはいうまでもない」と断じています。
団員のご支援で、すばらしい憲法裁判の勝利が得られたことを感謝します。
二 移送申立却下決定
(1)サークルKの京都府内市坂店のオーナー植田立次が、コンビニフランチャイズ契約における「ロイヤリティ」の仕組みそのものが不公正であり、無効であるとして、京都地裁に不当利得返還請求の訴訟を提起しました。これは、通常の契約では、売上から仕入と経費を差し引いた残額に一定の率のロイヤリティを支払うものであるが、コンビニ業界においては、売上から仕入を差し引いたところに、ロイヤリティを掛けるので、オーナーは売上が少ないと、経費を差し引いたのちに、オーナーの取得分がなくなり、オーナーの恒常的赤字の構造的な仕組みとなっているものであり、この訴訟は、コンビニ契約そのものの不公正を追及するという真正面からの闘いです。これに対して、サークルKは「専属管轄合意」条項があることを理由に、本社所在地の名古屋地裁への移送を申し立てました。
(2)コンビニフランチャイズ契約の紛争において、「専属管轄合意」条項は、オーナーを奴隷状況につなぎ止めるための「鎖」としての役割を果たしてきたのが実態です。即ち、全国展開しているコンビニ業界において、この専属管轄条項は、被害を受けたオーナーが、最初から闘いに決起できない状況を作り上げてきました。仮に闘いに立ち上がっても、惨めな敗北の道しかありませんでした。従来、多くのオーナーが営業地の地裁に提訴しても、この本質を理解しない裁判所によって、ごく事務的に「専属管轄」裁判所に「移送決定」され、仮に勇気を奮い起こして闘いに立ち上がっても、遠隔地での訴訟継続が不可能になり、泣き寝入りしてきた多くの例があります(数年前に、福岡に多発した靴のマルトミの被害者オーナーが、福岡から名古屋地裁に簡単に移送された結果、その多くが困窮し、訴訟断念に追い込まれた)。
(3)しかし、最近、「奴隷につなぎ止める鎖」であることを主張・立証するオーナーの主張が裁判所を動かし、本部側の移送申立てを却下する決定が出ています(サークルK事件・金沢地裁、名古屋地裁、ヤマザキデイリー事件・大阪地裁、金沢地裁)。これらの決定は、「管轄合意条項」は有効であると認めながらも、管轄が競合する場合に該当し、提訴裁判所で審理することが、訴訟遅延にならず、且つ実質的に妥当であるとしたものでした。
このような決定の積み重ねの中で、京都地裁は遂に「専属管轄条項は例文にすぎない」として、その効力を否定する画期的な判断を示しました。実態を直視しないで形式的な判断にとどまっていた裁判所によって、敗北の歴史を重ねてきたオーナーたちは、決起し、相互に連絡を取り合い、協力して闘う中で、裁判所の理解を深めさせ、実態を直視して法を適用させる状況を作り出すまでに至ったのです。この決定は、全国のコンビニオーナーを激励するものであり、不公正な契約の被害を受けたオーナーが、本部を相手に訴訟提起する可能性を広めたものであり、これが定着すれば、「専属管轄合意」条項が、オーナーを「奴隷につなぎ止める鎖」としての役割を喪失させ、オーナーと本部の対等・公正な契約関係確立に大きく貢献することになります。
(4)アメリカには、専属管轄合意は無効とした裁判例がありましたが、わが国では初めてであると思います。
リレー特集 各地でひろがる憲法運動 |
はたちになりました、山口市内で毎年開いている憲法集会。連休のどまん中なので、「世紀末、行き場がなさそうでも、憲法がある。連休中、行き場があっても、集会へ」などと強がって、五月三日開催を続けている。私は、弁護士になった年(集会が五歳の時)にひきずり込まれて、以後、時々くたびれながらも、ケンポウな生活を送っている。
ここ五年間のメイン企画は、「トーク・秋吉台の自然と平和はどのように守られたか」(九六)、「きめ手は、あなたです!市民法廷・岩国基地問題」(九七)、「よくギロンすれば見えてくる!模擬国会・新ガイドライン徹底論戦」(九八)、「憲法を削ると、生命が削られる!対談・生存権の理念と福祉のいま」(九九)、「シンポ・子どもの発達を保障する学校を求めて」(〇〇)。
都市分散型の山口県では、同じ日(時期)に県内各地で市民集会が開かれている。その中で、人口一四万人のまちで、例年一二〇〜一五〇名くらいの参加者を得ているのは、まずまずというべきか。
実行委員会は、県内の一〇以上の団体で構成されているが、実態は個人有志の集まり。学者、教員、弁護士、司法書士といった「肩書」のある人もいるし、ない人もいる。毎月少なくとも一回は「実行委員会」を開いているので、単に五月三日の集会の準備だけではなく、学習会を兼ねるようにしている。レポーターを持ち回りにして興味あるテーマを語る、名づけて「おしゃべり憲法タイム」。また、戦争法や盗聴法の動きに対しては、この実行委員会が呼びかけて、県内の学者文化人の署名運動に取り組んだりした。
市民集会の特徴は、九三年以降毎年、集会に先立って広く市民から「メッセージ」(イラスト歓迎)を募集し、これを冊子にして集会で配布していること。「みんながしゃーわせなら、それでいいんじゃないスか?」という高校生や、住専への税金投入に反対して「おじさんよ、はやくお金をかえしてよ」とつぶやく中学生、沖縄の特措法に対して「怒ってるんだぞ、切れるぞ。」と叫ぶ若者が紙面で参加した。「あったらいい、憲法条文」として「国会で寝ている人を罰する」とか「休みの日は、休まなければならない」と書いた大学生もいた。このとりくみは、「やまぐち発・憲法メッセージ」「憲法への手紙」「オリジナル条文をつくってみよう」などと名称をかえ、ここ二年は、「定期ケンポウ診断」として「平和度」「民主主義度」や時事的なテーマについて、市民がドクターとなって、憲法状況を「診断」し、「治療法」などをコメントするかたちをとっている。
来年あたりからは、県内の演劇関係者と連携して、憲法劇をやってみたいと考えている。
ともあれ、年中行事となった憲法集会、「なじみ」の参加者がふえたのはいいが、実行委員会のメンバーの「なじみ」率も高まっているのが悩み。多忙人間ばかりの実行委員会に、どれだけ新しい人をまき込んでいくかが課題だ。そうしないと、ケンポウな生活は送れないし、第一、楽しくない。
ある年の「メッセージ」にこんなのがあった。「憲法集会が、私から夫を奪っていった。憲法集会なんか開かなくたって、憲法が守られている社会になって欲しい…」
集会不要の社会を期待する気持ちには、共感できるが、こんな声が出るようじゃ、まだまだ二〇世紀型運動だ。二一世紀の集会は、この妻をとりこにして奪ってしまいたい。
司法制度改革審議会で、国民の司法参加に関して、裁判官と裁判員のそれぞれ多数を占めなければ有罪とはできないという方向が示されました。これは佐藤会長一流の工夫の方法だと思います。これに関して個人意見を二つ述べます。
一 その場合、裁判官と裁判員が終始合議ないし評議することになるのだと思いますが、経験のない裁判員が裁判官の意見に引きづられることを防ぐために、上記の工夫に加えて、合議ないし評議は裁判官と裁判員がそれぞれ別々に行うという方法を検討する必要があると思います。
二 それぞれ多数決というなら、裁判員の数は、裁判官の数より相当多くすするのは当然の前提として、奇数とすべきです。
私も東京合同には何回か行ったことがある。弁護士に決まった机がない、一つの机を何人かの弁護士が共同使用している、事務職員が弁護士の半数しかいない。そんなことを聞いて不思議な思いにかられた覚えがある。
今度、その東京合同が創立五〇周年を迎えて、小史を出版した。一つの法律事務所の歩みを読むと、とおりいっぺんの教科書には書かれていない日本の戦後史の真相がよく分かるというのは、他には考えられない希有の例だと思った。
本文三三〇頁で、いささか大部ではあるが、まことに読みやすい。座談会ばかりだと冗長に流れるきらいがあるが、そういうこともない。編集上もよく工夫され、装丁も立派な本になっているのにつくづく感心した。手にとるとずしりと重い本だが、内容もぎっしり詰まっている。
国民の常識からかけ離れたひどい裁判官は以前からいたわけだが、そんな裁判官が実名であげられ厳しく指弾されているのも気持ちがよい。所員が弁護団を組んで難しい大事件と格闘する。たとえ弁護士なりたてであっても責任をまかされると、立派に任務を遂行していった実例がいくつも紹介されている。あとに続くものが心すべき教訓が、この小史のなかにはいくつも見られる。
ところで、現下の司法改革との関わりがこの小史には、ほとんど見あたらなかった。なぜだろうか、不思議に思った。
創立者の一人である上田誠吉先生は、学生時代に『誤った裁判』を読んで深い感銘を受け、それ以来、私の心より尊敬する弁護士だが、今なお、健在で、現役として頑張っておられる。今後とも、ぜひ後進の育成にも気をかけていただき、ご活躍されることを心から願っている。