東京税関労働組合の組合員である渡辺光信(敬称略)が、平成一二年度組合本部役員選挙において執行委員に当選したが、直後の定期大会において、規約違反の決議により執行委員を罷免させられたため、執行委員の地位を確認する仮処分を申し立てた事件である。
東京税関労働組合は、束京税関および税関研修所東京支所の職員で構成する労働組合で、二〇〇〇年九月当時の組合員は一五八九名であった。渡辺は、「明るい職場をつくる会」(以下、「つくる会」)の会員であり、その推薦で執行委員選挙に立候補し、投票総数中過半数を獲得し、当選した。この「つくる会」は、職場要求実現のため二〇数年間活動を続けてきた東労組合員の有志の会であり、組合執行部に批判的な立場をとっていた。執行部としては、この組合員の当選は意外な結果であり、この組合員が執行委員会議事に参加し、あるいは執行部内資料を見ることを阻止しようとした。そして、執行部はなりふり構わない行動に出た。
九月二二日、選挙後最初の組合定期大会が開催され、運動方針案の審議と採決後、代議員から渡辺を執行委員から罷免するよう求める動議が出された。その理由には、渡辺が「つくる会」会員であること、「つくる会」が組合機関決定を無視して活動していること等があげられていた。この理由には、渡辺が執行委員として行った活動についての不信任事由はなかったのであるが、これは渡辺が執行委員として活躍する前の大会であったから当然である。即ち、右動議は、渡辺が「つくる会」の推薦として組合員の過半数の信任を得て当選したものを、「つくる会」の会員であることのみを理由として執行委員に就任させないという、組合民主主義を無視したものだった。
この動議は、渡辺が議場に入ったときには投票中であり、そのまま可決された。ただ、ここに投票数に関する規約違反があり、執行委員を罷免させるには全代議員の過半数の賛成が必要であるところ、出席代議員の過半数の賛成しか得ていなかった(代議員八二名中、五九名出席、賛成四〇名、反対二名、棄権一七名)。このように決議自体が当然に無効なものであったが、執行部は渡辺は罷免されたものとして、以後の執行委員会への参加を認めなかった。
渡辺及び「つくる会」は、組合内で罷免撤回を求める要請等に努めたが、奏功せず、執行部は一一月七日発行の「東労ニュース」において「大会後から活動しようとする対象者の信任を当該大会において問うことは当然のこと」とし、撤回に応ずる姿勢はなかった。
一二月初旬、菊池団員に相談があり、打ち合わせの結果、菊池、松井、新宅、上野の構成で弁護団が結成され、地位保全の仮処分を申し立てる方針となった。一二月一五日に最終打ち合わせの上、一九日に東京地裁民事一九部に申立て、同日面会となった。裁判官は、定足数違反に注目し、相手方に反論がなければ命令を出す方針とのことで、二六日に相手方も含めた審尋となった。職場では、「つくる会」がビラ等の大量宣伝を行い、渡辺の陳述書の一部も掲載され、投票者の信任に応えたいという真摯な思いは他の組合員の心を打った。
二六日の審尋では、相手方は欠席代議員から委任状を取っていたから決議は有効との主張をし、委任状の調査中であるとの時間稼ぎに出た。なお、議事において委任に関する言及はなく、執行部発行の「東労ニュース」でも前述の投票結果を認めていたのであるから、この主張は根拠のないものである。裁判官はこれに応ずるかに見えたが、「そんなでたらめに応ずる必要はない!」との松井団員の一喝で裁判官は命令を出す方針に戻り、相手方は追い込まれ、年明けまでに執行委員の地位を認める方向で調整すると回答した。ただ、執行部が臨時大会を招集すれば、今度は定足数を満たす議決がされることも考えられ、組合民主主義の観点からは、執行部による罷免決議の提案をつぶす必要があった。
二〇〇一年一月九日、@渡辺の執行委員たる地位確認、A組合は渡辺の執行委員としての行為を妨害しない、Bその任期終了まで組合は、臨時大会を招集して渡辺の罷免及び不信任を提案しない、C組合は、渡辺の執行委員としての職務を行えなかったことにつき遺憾の意を表明する、との内容の勝利的和解が成立した。渡辺及び「つくる会」は大いに満足し、勝利の大量宣伝を行った。Bが認められたのは、選挙直後に不信任とすることが組合民主主義に反するとの主張が認められたからに他ならない。今後も執行部が、今回のような暴挙に出られないようにする一定の歯止めになるものと思われる。
申立後、年末年始を挟みながら三週間でのスピード解決であった。相手方に形式的かつ明白な不備があったこともあるが、「つくる会」が職場で大量宣伝を行い、執行部は筋を通すべきだという世論を形成したのが執行部を追い込み、早期和解につながったと思う。
勝利祝賀飲み会では、渡辺が「既に三か月以上の任期が過ぎてしまったが、残りの任期は信任に応えて職場改善のために全力で働きたい。そのことがうれしい」と決意を述べ、この闘いに加わった面々を喜ばせた。
〔弁護団は菊池、上野、松井、新宅(東京支部)の各団員〕
大阪豊中市に本社のある全日空系列のタクシー会社、関西空港リムジンで一九九九年以来続いていた争議は、本年三月に自交総連組合と会社の新経営者が解決のための協定を締結し、終結しました。
関西空港リムジン事件は、当初ユニオンショップ協定を持つ企業内組合が、賃金率の切り下げとなる新賃金体系に抵抗したことから、会社の猛烈な不当労働行為がなされ、当初二〇〇名以上いた組合員が三四名に減るという厳しい状況から出発した事件でした。残った組合員は、討論の末、自交総連に加入し、地労委申立を軸にして会社の無法とねばり強く闘いました。会社は、新賃金体系を認めなければ従来の協定による一時金を支払わないという掲示をする一方、個別の切り崩し工作をし、自交総連組合の委員長、副委員長には時間内組合活動を理由とする処分、会社施設の貸与拒否、ひいては、暴走族に襲撃されて負傷した組合員に暴走族を回避しなかったとして、出勤停止や乗務停止の処分をかけるという攻撃を次々と繰り出してきました。
弁護団は、これらの処分について仮処分と本訴で徹底的に対抗し、一時金の不払いについては、仮払仮処分をもって支払いを迫りました。
なかでも、暴走族を回避しなかったことをもって処分されたT組合員の出勤停止と引き続く乗務停止の効力停止仮処分については、無法な処分であるとの会社内外の批判が高まり、関西リムジン事件支援共闘会議の結成につながりました。ただし、裁判所は、ことの本質よりも、出勤停止や乗務停止の効力を停止することの必要性はなにか、会社は、乗務停止期間が満了しても、暴走族事件以来の一連の措置として適性検査を受けさせ、その結果によっては解雇もあると述べているのに、出勤停止、乗務停止と適性検査問題をすべて別個の処分であるとし、それぞれについて処分の効力が存続しているのか、また効力を停止する必要性は何かについての主張と疎明を要求して、無法な処分によって収入が半減しているT組合員に対し、解雇されてからであれば争えると傲慢な態度に終始しました。結局T組合員は、会社が適性検査を撤回して原職に復帰させたために、仮処分決定には至りませんでしたが、大阪地裁の労働部の姿勢を示した事件となりました。
このような処分問題での徹底抗戦に加えて、二〇〇〇年夏期、冬期の一時金の支払いの仮処分で支払い方向の和解勧告を得た二〇〇〇年の年末に、会社は急遽全株式を大阪のタクシー業界では大手と言われる日本交通に譲渡しました。労働組合には全く知らされなかったことであり、そのニュースを聞いたときには、営業譲渡・新会社に選別雇用という最悪のパターンになるのかと緊張しましたが、日本交通はかえって労使関係の正常化を図りたいという姿勢にでて、本年三月に、会社は委員長・副委員長・T組合員の処分を撤回し、解決金を支払うことによってすべての事件を解決することとなりました。
各事件では、法律上の論点も多く、また不当労働行為の立証など立証上の問題を抱えていましたが、当該組合、自交総連大阪地連、支援共闘会議、弁護団の団結とそれぞれの奮闘が、勝利的和解につながった事件であると報告するものです。
一 住友軽金属(株)と生命保険会社九社を被告とする二つの団体定期保険金引渡訴訟の判決が本年二月五日と三月六日に名古屋地裁で相次いで言い渡されました。論理構成は異なるものの、二つの判決とも保険金の一部を遺族に引き渡すように命じており、東京地裁・大阪地裁と請求棄却の判決が相次ぐ中で、訴訟の流れを変える画期的な判決ということができます。
二 文化シャッター事件では、会社と生命保険会社が従業員の生命を取引材料にして不労な利得を得ていることを強調しすぎたために、保険契約全体が公序良俗違反として無効とされました。 この苦い教訓に学んで、今回の訴訟においては、保険契約自体は、労働組合の同意により有効に成立しているが、企業が保険金受取人となっている保険金受取人の指定部分のみが無効であるという主張を争いの中心に据えました。団体定期保険の歴史、約款の歴史、大蔵省の行政指導、生命保険協会の度重なる申し合わせ、生命保険会社の発行している説明文書・パンフ・チラシなどから団体定期保険の趣旨・目的が従業員とその遺族の生活保障にあることをあらゆる側面から明らかすることに力を注ぎました。
主位的主張として九社という多数の生命保険会社と六六八〇万円もの保険契約を締結したうえ会社が保険金の受取人になることは、受取人の指定部分が公序良俗に違反して無効であると部分無効の主張をしました。予備的主張としては、受取人の指定部分が無効でないとしても、会社が受け取った保険金の全部もしくは相当部分はその遺族に弔慰金として引き渡す旨の合意があったと主張しました。近藤さんの事件(近藤訴訟)の判決では、近藤さんと会社との間において、労働組合が同意をした際に、保険金の全部もしくは相当部分を遺族に弔慰金として引き渡す旨の黙示の合意があったと認定しました。これは近藤さんが亡くなる直前まで、会社が団体定期保険金を本来の保険契約の趣旨どおり、従業員とその遺族の生活保障として運用するよう労働組合等を通して会社に要求してきた成果が反映したものということができます。
三 近藤訴訟の運動が発展する中で、住友軽金属に勤務していた被保険者の川本さんを含む三家族も住友軽金属を被告として訴訟を提起することなりました(川本訴訟)。川本訴訟の被保険者の中には、保険契約の存在すら知らされていなかった人もいたので、判決の論理構成が注目されました。判決は、団体保険の運用について「平成三年一〇月及び同年一二月の二回の大蔵省の行政指導とこれを受けた生命保険協会の申し合わせによって確立された取扱基準は、保険法の分野における法の欠缺を補完する自主規範として社会的にもその遵守が期待されるものである」と判示したうえ、「福利厚生制度目的と異なる目的・方法で団体定期保険を利用することは、確立した取扱基準を明らかに逸脱して団体定期保険を悪用するものであり、少なくとも各保険会社の運用が確立した平成四年三月以降にあっては、社会的相当性を逸脱し、公序良俗に違反するものであって許されない」としています。さらに進んで、平成四年三月以降に締結された本件団体定期保険契約については、「保険会社と保険契約者との保険契約の趣旨(付保目的)についての合意は、第三者である被保険者のためにする契約にあたるものであり、被保険者とその遺族において、その契約の利益を享受する意思を表明したときには、保険契約者に対する権利を取得するものと解するのが相当である」と判示しています。第三者のためにする契約という新たな論理構成は、これまでの判例にはない全く新しい判断です。
四 認容金額については、二つの判決とも保険金のほぼ二分の一が遺族に帰属すると判断していますが、社会通念上相当な金額というのみで論理的な根拠はありません。二分の一の壁をどう突破するかが今後の課題です。個人保険の分野においては、いくつもの認容判決がありますが、やはり二分の一という判例が多数を占めています。また、この間、会社が役員に付保した保険(キーマン保険等)についても、判例上新たな前進がありました(盛岡地裁遠野支部・平成一二年三月二二日判決、名古屋地裁岡崎支部・平成一二年四月二六日判決・判例時報一七三〇号・一四〇頁)。
岐阜地裁においても平成一三年三月一日に役員保険に関する判決が言い渡されてます(判例集未搭載)。他人の生命の保険契約をめぐる闘いの新たな前進として注目されます。
保険関係訴訟に関して資料の必要な方は当方にご連絡ください。手元にある判例・資料等は喜んで提供します。ご一報ください。
一、京都市左京区岩倉の「岩倉五山」の一つである一条山は、業者の違法開発により「モヒカン山」として京の乱開発、景観破壊の象徴として全国に名をはせてきました。
一条山は、閑静な住宅地にある里山であり、風致地区ではあるものの、風致地区第3種指定に止まり、市街化区域であったため、業者(ナカサン)が開発して住宅にすることを計画しました。これに対し、「浮島のような山の形を残すべき」とする京都市美観風致審議会(小委員会)の答申が出され、その結果、市は一九八一年一二月に山の中央部をそのまま残して周囲を開発するという開発許可(旧許可)を与えました。ところが、業者は八二年の暮れ頃から、開発条件(旧許可)を無視して、山を全部削り取ってしまおうとし、八三年二月に市が工事中止命令を出して工事が中止された時点では、山は「モヒカン刈り」の状態になってしまいました。
京都市は本来是正命令を出すべきでしたが、是正措置を指導しました。それも当初は原状回復に近い是正案でしたが、密室の協議の中で何時の間にか一条山の全面開発を認めるかわりに、宅地としての価値が劣る北側の二〇パーセントを公園として市に寄付させるという再開発許可にすりかわってしまい、市民の批判や京都弁護士会の意見書も無視して、八九年一二月には再開発許可(二次許可)を与えてしまいました。
但し、この時点で京都府は森林法に基づく林地開発許可を与えることは、留保しました。
二、住民側は、これに対し、二三七五名が審査請求人団を結成し、京都市開発審査会に開発許可の取消を求めて、審査請求を行い、団内外の弁護士三三名が「一条山弁護団」を結成して、これを支援しました。
京都市開発審査会は、一二回に及ぶ公開口頭審理及び現場検証を行い、阿部泰隆神戸大学教授(行政法)、木村春夫京都教育大学教授(国土問題研究会)などの参考人質問を含む住民側、行政側の詳細な尋問を行い、審理を尽くしました。その結果、審査請求人のうち一条山の近辺に居住する約五〇〇名の審査請求人適格を認めたうえ、一九九二年三月二六日、開発許可を取消すという、市民常識にかなった画期的な裁決を下しました。その要旨は、是正のための開発許可は、@できるだけ山の形を残す、Aできるだけ緑を残す、B業者に不当な利益を与えない(クリーンハンドの原則)ことが必要であり、京都市の山の全面開発を認める再開発許可は、権限逸脱・濫用で違法とする明快なものでした。
ところが、京都市は審査会の裁決に基づき業者に是正を求めることを怠り、業者の建設大臣に対する再審査請求を放置しました。その結果、建設大臣は全くの密室審理の下で、一九九四年一二月に、「住民には審査請求人適格がない」という不当な理由で、開発審査会裁決を取消してしまいました。このため、住民のうち市開発審査会で審査請求人適格を認められた四四六名の「一条山原告団」は、「一条山訴訟を支援する会」の支援を受けて、九五年三月、改めて開発許可取消訴訟を京都地裁に提訴し、裁判(業者は被告京都市長に補助参加)は本年三月二一日に原告本人尋問が予定されて、いよいよ大詰めを迎えていたところでした。
三、裁判所においては、行政訴訟というわが国では勝ちにくい形態であるため、本案の争点(権限逸脱・濫用の違法性及び都市計画法三三条一項三号、七号、九号、一二号違反)と並んで、言うまでも無く入口論の争点に膨大な労力を要しました(本案の論点と入口論の論点は平行して審理された)。それも、裁判長の交替とともに、「原告適格」がほぼ突破できたかと思えば、今度は「行政事件訴訟法一〇条一項=自己の法律上の利益に関係のない違法を主張して取消を求めることができない」の論点を裁判所がこだわり出し、それも何とかクリヤーできたと思いきや、次の裁判長には再び「原告適格」についての科学的立証の補充を求められるなど、数年が費やされました。最も、本件では府が林地開発許可を出していなかったので、工事が進行することはあり得ず、「業者との体力勝負」と認識してじっくりと取組むことができました。
立証としては、予想される被害については、国土問題研究会の全面的協力を得て、直近の原告の災害の危険性や沿道の原告の工事車両による騒音、振動の被害についての詳細な意見書を作成してもらい、奥西和夫京都大学防災研究所教授の証人尋問を行いました。また、阿部泰隆神戸大学法学部教授には、@原告適格論、A行政事件一〇条一項論、B権限逸脱・濫用による違法性論の三本の力作の意見書を提出して頂きました。
また、先行して行われた行政側証人の尋問により、旧許可時の違法開発が、「同和」の名を利用して行われたいかに異常なもので、京都市のこれに対する対応が、いかに不十分なものであったかが明らかにされました。また、原状回復に代わる代替案(A案、B案、C案)を京都市が検討していたにもかかわらず、住民側にはこの事実を秘したまま、密室の中の業者とのやり取りの中で業者の意向に沿って姿勢を転換し、途中から全面開発案しかないと住民に説明して、自治連から「要望書」を出させた経過が明らかになっていきました。
そして、ようやく原告本人尋問を裁判所が採用し、審理は最終盤を迎えていました。
四、業者は、他方で、森林法上の開発許可権限を有する京都府知事に対し、「林地開発許可不受理違法確認訴訟」を提訴し、住民側はこれについては被告に補助参加していました(但し、最終的には参加申立は却下)。〇〇年三月になって、業者の訴訟が「処分に該らない」と却下されると、業者は京都府に対して、改めて全面開発の林地開発許可を求めていました。これに対し、住民側は、京都府に対しては、業者の前記申請を却下するとともに、@ABに沿って、事態の全面解決を図るイニシィアティブをとるよう、求めてきました。
〇〇年夏頃より、府は積極的に動き出し、副知事が折衝を求めてきました。今般の全面開発許可の撤回及び是正計画は住民側及びその意向を不十分ながらふまえた京都府のイニシィアテブによるものですが、背景には府は業者の申請を「却下」(この場合は業者が府に取消訴訟を起こすことは必至)する勇気は無く、かといって今更そのまま全面開発を認めると、住民側から取消訴訟を起こされるうえ、府民の批判を受けるという状況がありました。
これらの経過の中で、今回の是正計画(=三次許可案)が、昨年一二月頃に、提示されるに至ったのです。
五、その結果、京都市及び業者は全面開発許可を撤回、断念するに至り、裁判上は勝訴(=取消)したのと同様の結果がもたらされました。これは、この間の運動及び裁判の大きな成果であると言えるでしょう。
今回の是正計画(三次許可)は、再開発許可と比べて、緑地率が二四%から四四%、自然林率がゼロから二二%と大幅に増加する一方、搬出残土量が五二万立米から二八万立米に減少しています。これは、少なくとも当初許可程度の保全(緑地率五四%、自然林率三二%、残土量七万立米)を求めていた住民側からすると極めて不十分な点は残るものの、曲がりなりにも一条山が残ることになったものと評価できます。
そこで、原告ら住民は京都市に対し、残された緑地部分を将来にわたって保全することの確約を求めてきました。これに対し、第三次開発許可が出された本年二月二八日、京都市長より「改めて(業者に)緑地保全を求めるとともに、今後、残存緑地が良好に保全され、二次開発がなされないよう最大限の努力をしていく」との回答書を受取りました。これを受けて、三月二一日の法廷において、原告らは意見陳述のうえ、対象の消滅した「開発許可取消訴訟」を取下げました。
「取下書」の理由の最終部分は、次のとおり結んでいます。
「原告らは引続き、住民や支援して頂いた京都市民、全国の方々とともに、前記@ABの見地に立って、一条山の形と緑をできるだけ保全させること、緑地部分を公有化させること、搬出残土も最小限にさせることなど行政の指導に注目し、あわせて住民との協議の上で開発が実施されるよう求めていく。
最後に、私達は今後も一条山の開発計画を引続き監視していく決意であることを表明し、あわせて、京都市が業者に全面開発を認め、京都市開発審査会の裁決に従わず、今日まで解決を長引かせた経過については猛省し、開発・景観行政の住民の立場に立った根本的転換を求めて、訴えの取下げにあたっての、理由とする。」
六、一条山は小ぶりになってしまいましたが、かろうじて守られたのです。
(一条山弁護団事務局長)
静岡県は、ご承知のとおり、沼津を中心とする県東部、静岡を中心とする県中部、浜松を中心とする県西部の三地域に分けられるが、団員もそれぞれの地域に根ざした活動をしており、憲法に関わる運動についても同様である。
このうち、沼津における「憲法を読む会」の活動は、県内のマスコミに紹介されるなど、そのユニークな活動が広く知られているところである。
この運動は、もともと沼津に住む青年らが一九八三年に、団員の事務所に「憲法について学ぶ場を作りたい」と訪れたことに発しており、当初は憲法の学習会から始まり、その後毎年五月三日の憲法記念日には講演会(これまで、杉原泰雄一橋大学教授、大塚一男弁護士、浅井基文氏ら著名な講師の参加を得ている)を開き、毎年百数十人の参加を得るなど市民の間に定着しており、近年では萩原繁之団員が積極的にこれに関わっている。
そしてこの運動で特筆すべきなことは、毎年この講演会の前に、オリジナルの脚本による構成劇を行っているところであり、その脚本は、先に述べた会創始者の手によるものであり、構成劇もこの会の活動の参加者らによるものである。
本年も岡田正則南山大学教授の講演(二一世紀の人権・国民主権・平和主義ー日本国憲法の現局面とこれから)と手作りの構成劇(日本どん底物語ー歴史の逆転なんかに負けてたまるか)を予定している。
次に浜松においては、当時浜松在住の田代博之ほかの団員らが関わって一九八一年に結成された浜松革新懇(当時は浜松平民懇)が、以来毎年五月五日に市民向けの憲法学習会ないし街頭宣伝活動を続けてきており、多くの団員もこれに関わっている。
ご承知の方も多いと思われるが、毎年五月三日は浜松は凧揚げ祭りで町中が騒然としており、なかなか静かに学習するという雰囲気ではないが、それでも午前中は交通規制もないので、その時間帯で行うようにしている。
これまで講演には、古関彰一獨協大学教授や伊藤恭彦静岡大学助教授らの方々に講師をお願いしており、こちらも毎年百名程度の市民のの参加を得ている。
また憲法施行五〇周年の年には、「憲法を学ぶ浜松市民講座」と銘打って市民向けの連続講座を行っており、これには団員からは塩沢忠和と私渡辺が講師に加わっている。本年も、五月三日に内藤功団員をお招きして、「今なぜ憲法改正か?」と題する講演を予定しているところである。
また、静岡においては、団員も加わっているが主として学者が中心となっている「憲法会議」が、毎年同様の学習会等を行っている。
今や日本国憲法は戦後最大の危機の時代に入っているのだと思う。「新自由主義」という名の嵐は、周辺事態法や省庁再編という強権的国家体制を作る一方、「自己責任・自助努力」といって福祉や教育の最低限の枠さえはずし、国民の生存権を脅かしている。「ネオナショナリズム」の嵐は、「東京裁判史観の克服」を掲げ、日の丸・君が代の強制など国内に復古的ナショナリズムを押しつけ、国外ではアジア諸国の反感を買っている。
戦後日本国憲法下でまがいなりにも存在し続けていた人権尊重や、平和主義、民主主義といった基本原則がいとも簡単に反故にされようとしている。ちょうど昨年一月から国会には憲法調査会が設置され、国会でも声高に憲法改正論が論じられているのである。果たしてこの時代に私たちに何ができるのだろうか。
そんな問題意識から、東京憲法会議と自由法曹団東京支部が中心となって、「TOKYO・憲法・SCHOOL」という八回の連続講座を開催してきた。国会の憲法調査会に対抗し、国民の視点から日本国憲法をもう一度見直そうという意図から「市民の憲法調査会」と銘打った。講座のモットーは「憲法調査会の議論にかみ合ったテーマを、最高の講師に語ってもらう」である。学者陣の協力を得て、講師は皆その分野では今もっとも脂ののった、当代きっての研究者ばかりがそろっている。とかく法律家は「へん、国民主権なんてわかっているぜ」とか「九条なんて、何をいまさら」と自信過剰に考えがちである。しかし、毎回の講義は学者ならではの豊かな情報と鋭い視点に、新たな発見がかならずある。
連続講座を開催しながら実行委員会では、講座の内容があまりに充実しているので、「このままではあまりにもったいない」と考えて今回第一回目から三回目の講義をテープ興しでまとめたものが、本書である。東京支部の弁護士が各回責任を持ってテープおこししてまとめているので、質は保証済みである。なかなか忙しくて連続講座に参加していない人は、是非一読をお願いしたい。講座に参加した人も改めて文章で読んでみると、また新たな発見が必ずあるはずである。学習会の参考書にも最適である。憲法を学ぶ最良の書として、是非広く活用されたい。なお、実行委員会では気をよくして八回の講義をすべてテープおこしして発行しようと鼻息が荒い。是非今後の発行分についても活用していただきたい。
「Tokyo憲法School講義録part1ー改憲にレッドカード」
内容B5判七〇頁・一部五〇〇円(送料別)/大量注文割引有り(四〇部以上四〇〇円、三〇部以上四五〇円、送料別)ご注文は東京支部まで。
・政党推薦の七人と一般公募の三人が意見陳述。改憲、護憲は四対六。改憲派の意見は遠慮がち。公明党推薦の陳述人、民主党推薦の鹿島台町長も護憲の意見を述べた。しかし、調査会委員の改憲派の質問は改憲を迫るものであった。マスコミ記者会見において、国会で開かれる公聴会が改憲一色なのに、地方では随分と雰囲気が違うのは何故かという質問がでるような雰囲気。
・一般公募の陳述人と傍聴人の選出方法の不透明。地方公聴会そのものの広報がなされていない。
・市民集会実行委員会は、多数陳述人と傍聴人となるべく申し込みを行ったが、陳述人となれた者はいなかった。傍聴席は四〇席ほど空席となっていた。
・昨年五月から構想していた、県内の憲法擁護運動三団体(宮城憲法会議、市民委員会、護憲平和センター)をはじめとする幅広いネットワーク作りに昨年一二月に具体化。二月三日に、憲法調査会の動向をめぐるシンポジウムを開催。このシンポジウムの共同開催については、宮城憲法会議のみが機関決定し、他の二団体は賛同の方向を示しつつも機関決定が間に合わず、宮城憲法会議の主要メンバーにYWCAなどいくつかの市民運動家個人名の呼びかけで開催。
・二月末に、幅広いネットワークづくりのために三団体の懇談を開始。五月の憲法行事は互いにメーッセージ等を送りあい、一一月三日の統一市民集会開催を目指す方向で議論が始まる。議論の途中から、四月一六日の仙台公聴会開催の情報を入手、急遽市民集会の開催に向けた議論を開始。
・仙台公聴会を、改憲世論づくりの一環であり憲法調査会の報告書作成日程の繰り上げのための手続ととらえ、このような動きに反対する市民の世論があることを示すための集会開催を決定。また、地方公聴会では、憲法擁護、憲法の諸原則を現実の社会生活に生かしていくことの重要性を訴える意見陳述、憲法調査会が「論憲」の名の下に本来の役割に背いて改憲ムード作りを行っていることに対する批判的意見陳述で、圧倒するために、三団体はそれぞれの構成員に呼びかけ、意見陳述人、傍聴人として応募する運動を展開。
・「市民が開く憲法公聴会」は、三団体のメンバーの数のバランスをとり、その他の著名な弁護士、市民運動家が個人として呼びかける実行委員会の形式をとった。財政はカンパと、三団体の分担。共同記者会見、共同街頭宣伝を行った。
・「市民が開く憲法公聴会」の内容は次のとおり。
@地方公聴会で意見陳述した小田中教授(共産党推薦)、志村教授(公明党推薦)による地方公聴会の報告。鹿島台町長(民主党)からの集会へのメッセージ これまでの、三団体の懇談の中で出された意見はほぼ次のようなもの。
・一一月三日の市役所前広場での数千名規模の大集会の準備。
・三団体の共闘ではなく、個人の参加する幅広い市民運動ネットワークを目指す。
・改憲派の狙いは、九条でありこれに対抗していく。しかし、それのみならず、憲法諸原則の解体も敵の狙いであることを把握し、「個人の尊厳」に対する思想攻撃、基本的人権思想に対する攻撃にも対抗していく。運動の切り口としては、むしろ後者を重視する。平和反戦、反安保運動のネットワークにはしない。
・ネットワークには、常設の研究会を数班設け、継続的な勉強会、改憲派に対する理論的な武器を準備する。
今年は、自由法曹団の創立八十周年に当たる。エポックの年に、何か面白い企画を考えなければと『自由法曹団物語』を読むうちに、おやっと思った。
『自由法曹団物語』に、「かく歩みし自由法曹団の道」と題した座談会が掲載されている。出席者は山崎今朝弥、布施辰治、上村進、神道寛次、青柳盛雄、森長英三郎の各弁護士で、山崎氏はその中でこう語っている。
「自由法曹団を設立したのは大正一〇年の八月二〇日だと思う。日比谷の松本楼に六、七〇人が集まって、そこで名を決めて発会式をあげたのです」
日本弁護士連合会が発行した「弁護士百年」をはじめ、世に通用している歴史年表には、ほとんどこの日が創立の日として記されている。にもかかわらず、「八月二〇日だと思う」ってどういう意味だろう?
だが、山崎氏はじめすでに全員が故人で、今となっては、真意を直接確かめるすべがない。おそらく、残ってはいないと思ったが、国会からの帰り道、念のため松本楼を訪ね、ちょっとしたこん跡でもあればと、調べてもらうよう依頼した。
松本楼は近辺のサラリーマンには、年に一度の「十円カレーサービス」が有名だ。さすがに歴史の古いレストランとあって、ブックレット『日比谷公園とともに七十年 松本楼の歩み』が発行(一九七三年九月)されていた。その中には、一九一八年に発生した米騒動が八月中旬になって日比谷周辺にまで広がり、同音楽堂周辺に千人ほどの群衆が集まり政府を糾弾、警察の解散命令にも応じなかったこと、一九二三年九月の関東大震災で松本楼が焼失したことなどが、詳しく書かれている。
問い合わせに対する答えが後日、日比谷松本楼の井上鞆厚経理部長から電話で寄せられた。「社長、専務にも聞いてみましたが、八十年も前のことなので、さすがにわかりませんでした。なにしろ、二度も火災にあったこともありまして、当時の帳簿のたぐいまでは残っておりません」ということである。
一九八八年十月、団が発行したブックレット「自由法曹団への招待」には「松本楼」の記述はないが、六十周年記念に発行されたブックレット「自由と人権のために」では、「一九二一年八月二〇日自由法曹団創立会場となった日比谷公園松本楼」として写真を紹介している。もしかして、松本楼になにか残っていないだろうか、という淡い期待は消えた。 (つづく)