<<目次へ 団通信1023号(06月11日)

「つくる会」教科書に先制パンチを!

東京支部  松 井 繁 明

 自分の子や孫から「学校で習ったんだけど、神武天皇が東征してきたとき、金色のトビが道案内をしてくれたんだよね」ときかれる時のことを想像してほしい。その困惑を実感できるだろう。
 「つくる会」の歴史・公民の教科書が検定に合格し、全国の教育委員会が採択手続を開始している今、これはたんなる冗談ではすまされなくなっている。
 団本部に「教科書問題プロジェクト・チーム」をつくり、私が(無責任にも)責任者となったのも、それ故である。
 教科書の採択は、各教委によってバラつきはあるが、おおむね七月末頃までにおこなわれる。すなわち、この闘いは文字どおりの短期決戦(また軍事用語を使ってしまった)である。したがって、われわれができることは限られている。そのかわり、できることはすべて、やりきらなければならない。
 まず、県都およびそれに準ずる主要都市での不採択を確保しよう。行政には「横並び」意識が強いから、十分に効果があるはず。ぎゃくに県都を制しきれれば総崩れになる。  やることは、各教委数名ずつの教育委員を説得することである。手紙、ハガキ、電話、面会、ビラまきなど、手段を問わない。
 誰がやるのか?主要都市所在の団員が所属する事務所の所員がまず実践する。そのことを関係の深い諸団体に知らせ、同じこと(または同種のこと)に取り組んでもらおう。じっくりと組織をつくり、意思統一をし、それから実践するなどという、時間的余裕はほとんど(または、まったく)ない。
 「つくる会」は一〇%の採択を目標にしている。これを打ち破ることが、われわれの戦略目標となる。これは、全国の各支部(県)が統一してたたかわなければ実践できない目標である。
 たたかわずして敗れ、アリの一穴を大穴にしてしまわないよう、各支部(県)の名誉をかけて活動していただけるよう、無責任な責任者として心からお願いする。
 ネオ・ナショナリズムの最初の動きであるこの教科書問題で先制パンチをあびせられれば、憲法改悪の策動にたいする大きな成果となることは疑いない。
 いっしょに、がんばりましょう。(五・三〇記)

(自由法曹団教科書問題緊急プロジェクト 責任者・松井繁明、副責任者・田中隆、事務局長・瀬野俊之、担当事務局次長・南典男)


司法改革の国民運動を展望し
七月全国一斉宣伝行動を成功させよう

司法民主化推進本部事務局長  野 澤 裕 昭

最終意見固まる

 司法制度改革審議会(改革審)は、六月一日の審議(最終意見についての第三読会)で最終意見を確定し、実施的な審議を終了しました。六月一二日には一三名の委員全員が首相官邸で小泉首相に会い、直接最終意見書を提出する予定と言われています。
 最終意見の内容は、前進面、不徹底な面、警戒すべき面、改悪面など評価を異にする提言が盛り込まれており、一律に評価できないものです。改革審は、裁判の実態把握を避け、官僚裁判官制度の実態にメスを入れなかった点で根本的な批判は免れませんが、裁判官制度改革、国民の司法参加の推進ではいくつかの前進的改革が提示されているのも事実です。法曹一元=判事補制度の廃止は盛り込めなかったものの、判事補制度の弊害はきびしく指摘されており、判事補の裁判官の身分を離れた弁護士事務所などでの研修制度、弁護士任官の大幅増員など官僚裁判官制度の変更につながる改革も出されています。弁護士制度改革では綱紀・懲戒の自主権の制限などで弁護士自治に対する攻撃として警戒するべき面もあります。また、改悪というべき「弁護士報酬敗訴者負担」については、改革審内で最後まで激論がたたかわされ、最終的には「導入」の基本方針は維持されました。しかし、最終意見には、導入によって「不当に訴えの提起を萎縮させないよう配慮し、これを一律に導入することなく、このような敗訴者負担を導入しない訴訟の範囲」等を検討すべきである、との文言が織り込まれ、一定の歯止めがかけられました。これはこの間の国民的な反対運動の成果といえます。この文言の解釈如何によっては、敗訴者負担を導入しない訴訟の範囲を無限に拡大させる可能性があり、事実上導入を阻止する展望も生まれています。
 団は、国民のための司法改革を一歩でも前に進める立場から、最終意見の前進面は後退を許さずその実現を求め、不徹底な面はより徹底させ、警戒すべき面は改悪にならないよう指摘し、改悪部分は断固撤回させるまでたたかうという柔軟な姿勢に立って、運動をすすめることが、いま重要となっています。

小泉首相、司法改革を国家戦略と位置付け

 小泉首相は、首相官邸で行われた六月一日の審議の挨拶で、「司法改革を国家戦略の一環と位置付ける」と述べました。最終意見の後、法案化作業のために作られる推進機関は当初の法務省から内閣の元に置くことに変更されました。構造改革、憲法改悪を標榜する小泉内閣が国家戦略の一環として司法改革を位置付けたことは重大な意味を持っています。
 団としては、こうした小泉内閣の動きをにらみながら、国民運動を盛り上げ,国民のための司法改革を実現するために早急に運動をつくる必要があります。五月三一日の司法民主化推進本部では、宇賀神団長も出席し、以上の情勢分析、団の運動の方向を確認し、@最終意見に対し団意見書を作成する(ただし、単に批判するのではなく団としての改革提言を分かりやすく提示する内容にする)、A国民的運動の構築を早急につくる、B団内の運動方針を深めるために九月に全国的な会議を行うこと(五月集会で、全国活動者会議を七月に行うことを提起しましたが、諸般の事情で九月にずらす)等を確認しました。
 そして、運動の手始めとして、七月一一日に全国一斉宣伝行動を行う(宣伝ビラも新たに作成する)を決めました。四月二〇日の全国一斉宣伝行動に続くものですが、前回の二五箇所を上回る、全国一〇〇箇所以上での宣伝行動に取り組みたいと思います。

 これからが、いよいよたたかいの本番です。大衆的裁判闘争で裁判所を変えてきた団が、司法改革によって裁判制度そのものを変えるために力を発揮するときに来ています。是非、手始めとなる七・一一全国一斉宣伝行動を成功させましょう。


高知五月集会特集 その@

グローバルな視点から軍事的価値と非軍事的価値を対比させて、国民が憲法九条の価値を実感をもって受け止められるよう支えよう

長野県支部 毛 利 正 道

 自由法曹団二〇〇一年五月権利討論集会での発言を投稿します。

1 戦争の世紀

 世界の戦争による死者は、一八世紀七〇〇万人、一九世紀一九四〇万人、二〇世紀一億七八〇万人であり、一九四五年以降だけでも一九世紀全体を上回る二三〇〇万人(その九〇%は女性・子どもなどの非戦闘員)である。また、現在の世界全体での軍事費は年間七八兆円であって、GDP世界第二位の日本の国家予算と並ぶ規模となっている。このうち、三〇%を一〇年間にわたって世界の民衆のために用いることができるならば、飢餓と貧困の撲滅・途上国債務の帳消し・地球温暖化の防止・きれいで安全なエネルギーの提供・核兵器や地雷の廃絶など主要な問題をすべて解決できるといわれている。
 日本とコスタリカ、アメリカ以外のほとんどすべての国には、一〇カ月から三年間の兵役があり、人を殺す訓練をしている。いわゆる「先進国」では、第二次世界大戦後は軒並み犯罪が急増している。

2 戦争を支えるアメリカ

 アメリカは、国家予算の二一%・世界の軍事費の四〇%を軍事費に毎年注ぎ込み、一五〇万人の軍人を雇ってうち三〇%・四二万人を、世界二四カ国に駐留させ、加えて、世界中の武器輸出額の五〇%を占めている。第二次世界大戦においては、前線に立つ米軍兵士のうち一五ないし二〇%しか銃の引き金を引くことができなかったが、ベトナム戦争では九五%が引き金を引いた。
 一九七三年以来志願制だけで一五〇万人の、しかもそのうち前線に立って確実に人殺しできる数万人規模の者を含む軍人を支えるためにどのようなことがなされているか。アメリカが行ってきた戦争すべてを正しいもの(ベトナム戦争だけは「ミステイク」)と教える学校教育と、他方、育っていく子供たちを包む凄まじい現実とバーチャルリアリティーのバイオレンスは、軍隊に志願する者とアメリカが行う戦争を支持する国民を造っていくであろう。海軍の暗殺軍団を訓練するために、顔が動かないよう万力で固定しまぶたも閉じることができないようにしたうえで、バイオレンス・ホラーあふれる映画を次々に見させると、はじめは体が拒絶反応を示すがそのうちに抵抗感が全くなくなってしまう。育ちざかりの青少年への一〇年二〇年にわたる凄まじいバイオレンスの注入は、あたかも青少年の顔を万力で長期間固定しつづけているようなものではないか。
 その一方で、アメリカでの凶器をもって殺そうとした「加重暴行事件」の発生率(人口一〇万人当り、以下同じ)は、一九九二年には一九五七年の七倍にあたる四四〇になっている。文字通りうなぎ上りである(銃はその前からたくさんあふれていたから、銃のためとは必ずしもいえない)。殺人の発生率は、日本の五倍以上となる六・三である(一九九八年)。刑事拘禁施設に収容されている者は、日本の二〇倍となる六三九・五(人口一〇万人当り、一九九六年)である。

3 戦争を否定する日本やコスタリカ

 国家(中央政府)予算をみると、軍事費は、アメリカ二一%・日本六%・コスタリカ〇%であり、教育費は、アメリカ二%・日本八%・コスタリカ二五%(一九九二年)。アメリカでは長く公的医療保険制度がなく、文字通り人の命も金次第という世の中になっているが、コスタリカでは国民の医療費と一一年間の義務教育費は無料とのことであり、学校では家庭や身近に起こるすべての争いも非暴力的な解決を図ることが平和文化教育の名で行われている。
 日本での犯罪、特に凶悪犯罪の発生率の低さは、欧米諸国が戦後軒並み大幅にこれを増加させている中で、「驚異的」とまでいわれている。たとえば、戦後から現在までにイギリスでは強盗罪発生率が五〇倍になったが、日本では、強盗罪でも凶悪犯罪全体でも三分の一に減少している。現在の日本での発生率をみると、強盗はアメリカの一〇〇分の一・イギリスの四〇分の一、殺人はアメリカの五分の一・イギリスの五分の二である。刑事拘禁施設の収容者率も、イギリスの三〇%・アメリカの二〇分の一である。第二次世界大戦後に経済成長を同じように経験した中での日本のこの凶悪犯罪率の低さの原因として、人殺しを否定する「平和憲法」の存在を挙げる研究者もいる。一九四八年以来軍隊を持たず積極的中立平和外交を行っているコスタリカも、南北アメリカ大陸のなかで治安の良い国で通っている。
 元アメリカ海兵隊員アレンネルソン氏が、「日本とアメリカの大きな違いは、殺人が公に認められているかいないかである」と語っている言葉が吟味されるべきである。
 (これとは別に奥平康弘氏が、「外国の普通の国と比べてみると憲法九条の非軍事的価値がわかる。憲法九条が改正されると、防衛省の設置・スパイ防止法の制定などが当然に行われるであろうし、アジア諸国との軋轢も歴史改ざん教科書の比ではないであろう」と語っていることも参照されたい。)

 注ー憲法分科会で発言した後、数人から関心を示していただいたのでとりあえず文章化した。出典を掲げると膨大になるので省略した。検討がまとまった段階で、詳しい出典も含めて公表したい。


五〇〇〇人の参加で大成功!

−五・三憲法集会(中央・東京)の報告−

東京支部  山 本 真 一

第1、五月三日の憲法集会の概要

 1.当日の状況

 当日午前一二時、日比谷公会堂のまわりに長蛇の列ができた。開会は午後一時からである。「えっ」と思う。
 私は実行委員会の一員として午前一一時から会場に入っていた。雨がシトシト降っている。集会の受付や入場整理要員、警備や防衛部隊その他実行委員会の準備の人々が一〇〇人くらい集まってきた。日比谷公会堂は二一〇〇席ある。直前の小泉内閣の成立と改憲発言など憲法状況がいよいよ切迫してきたことがヒシヒシと肌で感じられる情勢である。きっと会場に入りきれないくらいの人が参加してくれるだろうとは内心では確信していた。しかしまさか五〇〇〇人近い人が参加されるとは思わなかった。
 午前一二時二〇分、参加者の列はいよいよ長くなる。このままではどうなることか。心配になつてきた。早く入り口を開けて入場させればいいのにと思う。しかし公会堂側は規則にうるさいらしい。予定どおりに午前一二時三〇分に最初の参加者が入場した。
 二〇分くらい立つと会場が満杯になってしまった。もう入れない。このままでは多くの人が溢れてしまう。でも外にはまだ一〇〇〇人以上の人が列を作ってまっている。外の人は集会のプログラムさえ入手できなかった。つまり今後どう集会が進むのかもわからない訳だ。外に出て説明しないと暴動≠ェ起きるかもしれない!しかし窓から見ていると、外の列は少しも途切れない。いよいよ心配になってきた。一二時四五分ころ、事務局の責任者の川村中央憲法会議事務局長と一緒に入り口から外に出る。
 川村さんが全教の宣伝カーのマイクを使って外の人にもう満員で入れないことを説明した。そしてこの宣伝カーのスピーカーで中の様子を外に伝えられると言う。ホッと一安心した。でも川村さんは集会の進行役だ。外にいる訳にはゆかない。おかげで私は最後までその宣伝カーの側にいて説明する役割を仰せつかってしまった。とにかく声を張り上げて進行予定の時間をお知らせした。特に皆さんのお目当てである加藤周一さんなど四人の講演者の開始時間(午後二時二〇分)を知らせる。入れなかった人々のイライラも少しは納まったように思えた。幸い雨もほとんど上がっていた。
 ちょうど午後一時、もう一度説明を繰り返そうとした時、内田雅敏弁護士の開会挨拶の声が日比谷公園に響き渡った。私は説明をやめて聞き入った。スピーカーは調子よく集会の様子を伝えてくれた。まわりに一〇〇〇人以上の参加者が集まってきてじっとあいさつに聞き入っている。
 それからは順調だった。午後二時一五分から約一時間、加藤周一さん・澤地久枝さん・土井たか子さん・志位和夫さんの順で講演がはじまった。四人とも、まず、この集会にこれほど多数の人々が参集していただけたことに感謝の言葉を述べた。外の人達から同感の拍手がわいた。一人一人話に熱があった。加藤さんは現在の憲法を軸にした国造りこそ二一世紀の日本の進むべき道だと諄々と話しかけた。澤地さんは憲法こそ素晴らしいとうたいあげた。土井さんは偏狭なナショナリズムがしのびよっていると警告の声を上げた。志位さんは憲法を守り育てるための国民的な取り組みの必要を訴えた。時々拍手を交えながら一〇〇〇人以上の人が最後までジッと聞き入っていた。午後三時四五分すぎ、銀座パレードに移ることが宣言された。三々五々、パレード参加者が出発地点で整列した。社民党・共産党の国会議員がいる。参加者の色とりどりのノボリや旗、横幕が列を作る。宗教者の団体がいる。憲法九条を守れと書いた市民団体のプラカードも続いた。参加者の総員は三〇〇〇人前後かと思う。東京駅八重洲口の近くまで約一時間のパレード。私は最後尾について歩いた。途中数寄屋橋の手前で右翼の街宣車が行く手を阻む(集会の最中も右翼の街宣車の音が聞こえていた。警察が規制していたため集会の近くにはこれなかったらしい。警察情報では二五〇人前後の右翼、五〇台くらいの街宣車が集まってきたらしい)。デモ隊は一〇分くらい立ち止まっていた。しかし何事もなく再び動きだし、無事終了した。

 2.当日の感想と今後の方向

 集会には五〇〇〇名ちかい人々が参加された。共同の力の威力を改めて思い知った。加藤周一さん・澤地久枝さん・土井たか子さん・志位和夫さんの話もそれぞれ迫力のある熱のこもった話で聴衆を魅了した。みんなの日本国憲法に対する熱い思いを本当に実感できた集会だった。
 ただ多くの人々が会場の中に入れなかった。日比谷公会堂は二一〇〇席である。集会前日に事務局は溢れるかもしれないと考えて、ロビーにも人をいれることにして、会場の内容が聞こえる設備を準備した。そうすると二八〇〇人まで入れる。ところがそれでも入れない人が一〇〇〇人以上外に溢れた。嬉しい悲鳴である。
 さいわい会場の外の宣伝カーのスピーカーと会場のマイクとを無線で繋いで外の参加者の方にも集会の中身を聞いていただくことができた。このためそれほど大きな混乱を招かずにすんだが今後の運動のあり方として十分考えるべき問題である。
 連休が開けて、多くの人から「よかったですね」と声をかけられた。そのほとんど全員が、開会時間前後に来て、中に入れなかった人達であった。本当に嬉しかった。しかしこれは戦いの最初の第一歩である。五月八日にはアメリカのアーミテージ国務副長官が来日してブッシュ政権の安全保障政策などを小泉内閣に説明して回っている。アメリカ軍との共同作戦を円滑かつ効果的にするために集団的自衛権の認知を求める圧力を強めている。
 五・三集会の成功が示した平和憲法に対するみんなの熱い思いを全国的に繋いで本当に大きな共同の力にしていきたい。まさに「国民的な共同をどう作るか」が今後の課題である。そして平和憲法を指針にした日本の国作りをみなさんと一緒に進めてゆきたい。

(東京憲法会議幹事長)


司法改革豊島集会の成功

東京支部  大 山 勇 一

 さる四月二五日午後六時から、豊島区生活産業プラザにて、城北法律事務所主催による「国民のための司法改革を求める豊島集会」が開催されました。この集会は、自由法曹団主催の「裁判所を変えよう、四・四東京集会」の大成功を受けて、地域でも司法改革のうねりを高めようとの目的で開かれたのです。開催にあたっては、豊島区大運動実行委員会及び豊島区労協が協賛団体となっていただきました。当日の参加者は、約八〇名。会場が満杯となりました。豊島区内の労働組合や民主団体、あるいは個別の依頼者へ参加要請した成果です。
 始めに「日独裁判官物語」を上映した後、立川談之助さんによる時事落語を楽しんでいただき、続いて菊地紘弁護士による司法問題基調講演を行いました。さらに、事務所の弁護士が担当した事件について、当事者出演のもと、パネルディスカッションを行い、現状の裁判制度に対する意見・問題点について具体例を挙げて指摘していただきました(コーディネーターは佐々木芳男弁護士)。国鉄分割民営化問題に取り組む国労の方、団体定期保険裁判の原告の方、刑事冤罪事件の被告人の方から迫力のあるお話を伺い、参加者の方も熱心に耳を傾けておりました。最後は、司法改革審へのアピール文の採択となりました。
 集会終了後の打ち上げでの感想及びアンケートによると、「裁判所の常識のなさが浮き彫りになった」「国民のための司法作りのために頑張りましょう」といった好意的な反応が多く、成功に終わったと評価できるでしょう。
 今回の集会への参加を呼びかけるために、二〇日には大塚駅頭で、事務所の弁護士九名、事務局七名、癌研病院等の労組の方五名にて、ビラまき等の宣伝活動を行いました。わたしはマイクを片手に通行する人々に向かって司法改革の話をするのは初めてでしたが、立ち止まって聞いてくれる人、わざわざビラを受け取りに戻ってくる人を見ていると、自然と熱が入りました。思いのほかビラの受け取りはよかったということです。
 そのほか、集会参加を呼びかける宣伝活動としては、電話かけはもちろんのこと、地元の労組の方と一緒にオルグ活動もさせてもらいました。司法改革の意義については、団作成のパンフレットを参考にして私なりに一生懸命説明したものの、それで分かってくれたかどうか心配でしたが、当日参加して頂いているのを確認するとほっとしました。今回の集会を契機に事務所と地域の労組、民主団体との連携が強くなったのを実感しております。また、事務所内でも司法改革論議が活性化しました。
 嬉しいことに、今回の集会の成果は、早くも他の地域に飛び火しております。六月七日には、板橋区にて司法改革集会を開くことが決定しました。以前に青年・学生を中心とした司法改革集会を主催したときも感じたのですが、このような手作りの集会を通じて市民と共に司法問題を考える機会を増やすとともに、ビラ配りなど汗をかきながら司法改革の意義と必要性を市民に訴えていくことが、市民のための司法作りにつながると信じています。


五法律家団体共同で作成した憲法パンフの普及のお願い

沖縄・改憲対策特別本部 担当次長  南  典 男

 日民協、団、国法協、青法協、反核法協の五団体で、「えっ!そこまでいってるの?ー憲法調査会が導こうとする『この国』の将来」という題名の憲法パンフを作成しました。
 全体に、イラストや写真をふんだんに使い、改憲問題に関心を持っていない人にも理解してもらえるよう、わかりやすく解説したパンフレットです。

 内容は、
 @ 憲法調査会の動き、小泉内閣の改憲発言、国会の状況などの改憲の動きを具体的な改憲発言等の資料も付けリアルに解説しています。

 A 改憲を目指す人々の考えている国づくりが、新しい人権を保障したり、民主主義を発展させるどころか、弱肉強食社会による徹底した人権抑圧と権力への権限の集中・強化による民主主義抑圧の社会であること、とりわけ憲法九条の改悪が焦点であり、改憲は、集団的自衛権の行使を可能にし、戦争により国民の命が犠牲になることなどを、イラストを使ってわかりやすく解説しています。

 B 国民の多くが平和憲法を支持し、武力によらない国際協力を求めていること、憲法九条が国際社会の流れの先駆者であり、九条の理念によってこそ戦争のない世界を実現できることを、写真や資料などにより解説しています。
 小泉内閣が改憲を公然と「公約」し、「つくる会」の教科書が検定を合格し、各地で採択させるための運動が行われるなど、改憲の動きは我々が予想していたよりはるかに急です。
 至急、このパンフレットを大量に購入し、普及していただくようお願いいたします。注文用紙を各支部に送っておりますので、ご活用下さい。

頒価は一部一〇〇円(五〇部以上は一部七〇円に割り引き。送料別)


教条から法制度への法曹一元の発展

東京支部  後 藤 富 士 子

1 「法曹一元教」と揶揄されて

 「法曹一元」を唯一のテーマにした九八年一一月の日弁連司法シンポ(香川)の頃には、「法曹一元」を主張すると「法曹一元教」と揶揄されたし、九九年七月に司法制度改革審議会が始まったときにも、おおかたの見方は、「法曹一元」が現実のものになるとは予想していなかった。昨年夏の集中審議を経て今年になってからでさえ、最高裁は「法曹一元は宗教である」と言っていたと聞く。
 確かに、昭和二九年に策定された日弁連「法曹一元要綱」の系譜をみると、私でさえ「法曹一元は宗教ではないか」と思ってしまう。即ち、国営統一修習に何の疑問も持たず、弁護士人口の飛躍的増大に反対し、そうして「弁護士経験」だけを絶対化する「法曹一元」論は、経験科学的にみても何ら合理性がなく、弁護士の独善的教条でしかない。更に言えば、訴訟構造と無関係に「法曹の役割分担」も想定できないのに、そのようなことにも思いが及ばない。ただただ官僚裁判官非難に終始していた。
 こうしたことから、私自身は、「法曹一元教」と非難されても、それは間違った「法曹一元」論に対する非難だ、と聞き流してきた。そして、「法曹一元」を憲法・裁判所法の解釈論として展開した。
 これに対する弁護士の反応を思い返すと、日本の法曹養成制度には重大な欠陥があるのではないかと思わざるを得ない。即ち、日本の法曹は、司法の現状が現行法との関係でどうなのかという、法律家であれば当然認識の前提にしなければならないことすらやらないから、何をどう改革すればいいのかという具体案が出てこないのである。裁判所法の解釈論として「法曹一元」を論じた私に向かって、「あなたは、現行法に囚われすぎる。現行法を変えていけばいいのだ」と言った人もいた。こんなことを言う人は、現行法のどこをどのように変えればいいのかすら分からないのに。

2 改革審の最終答申(案)について

 本年五月二一日の審議会の「第一読会用」の「意見書(案)」にある「裁判官制度の改革」では、@給源の多様化・多元化、A裁判官の任命手続の見直し、B裁判官の人事制度の見直し(透明性・客観性の確保)、C裁判所運営への国民参加、D最高裁裁判官の選任等の在り方についての項目を立てて、現行法・現行制度の問題点を指摘し、改革の方向を打ち出している。
 ここでは「法曹一元」という文言は使われていないし、「判事補制度の廃止」を端的に打ち出してもいない。しかし、次の点で、私は高い評価をしている。
 まず、第一に、裁判官制度改革の起点を「裁判所法は、判事補のみではなく、弁護士や検察官など判事の給源の多元性を予定しているが、運用の実際においては、判事補のほとんどがそのまま判事になって判事補が判事の主要な給源となり、しかも、従来、弁護士からの任官が進まないなど、これを是正する有効な方策を見いだすことも困難であった」と、現行法と現実の運用との乖離を問題にして、裁判所法の要請である「多様で豊かな知識、経験等を備えた判事」の確保を改革の方向として明示していることである。このことは、判事補に、裁判官の身分を離れて弁護士、検察官等他の法律専門職の職務経験を積ませることを制度的に担保する仕組みを整備すべきとしたり、特例判事補制度の解消を明示していることからしても、単なる「言葉だけの改革」ですまされない重みをもっている。
 第二に、日弁連「法曹一元要綱」にみられたように、伝統的「法曹一元」論が持っていた限界である「給源論」の枠を越えて、裁判官の任命手続や裁判所の運営に国民の意思を反映させる制度の導入に言及していることである。
 こうなってくると、後は弁護士からどれだけ優れた判事を輩出していけるかだけが問題になってくる。この点についても、「弁護士にできるわけがない」と冷笑するような態度ではなく、「弁護士任官の推進」のために、最高裁と日弁連の「恒常的かつ密接な協力体制の整備」を求めている。このことは、既に本年四月、最高裁と日弁連の間で「弁護士任官等に関する協議会設置要綱」が策定され、協議が進められている。
 かくして、「法曹一元」は、単なる教条であることをやめて、現実の法制度として実現される可能性を見出したのである。この「可能性」を「現実」に転化できるか否かは、弁護士の力量にかかっている。


労働条件改善等について懇談

−全法労協代表団が団本部を訪問−

事務局長  小 口 克 巳

 五月二八日午後全国法律関連労組連絡協議会(戸田直志議長)の代表五名が、団本部を訪れ約四〇分間懇談しました。

 要望項目は次のようなものでした。

一 司法制度改革の情勢や課題などについて、意見交換してください。

二 司法制度改革について、法律事務所に働く事務労働者の活用やそのための条件整備などを視野に入れたものになるようご検討ください。

三 法律事務労働者の労働条件等を改善・向上・充実させるため、日本弁護士連合会が実施している別添資料を活用するなどして、団支部・団員への啓蒙宣伝を取り組んでください。

四 法律・司法関連業種が社会保険(健康保険・厚生年金)の強制適用事業所となるよう賛同・協力をしてください。

五 引き続き当協議会と定期的に協議・懇談をして下さい。
 全法労協は、日弁連にも同様の要求をしているようですが、日弁連では、これをうけて、「市民のための弁護士をめざすうえでも、法律事務所において優秀な人材を確保し、積極的に活用していくことが必要であり、そのためには職員の労働条件の改善、業務研修等による資質の向上が図られなければなりません。」などを内容とする「お願い」文書を単位弁護士会長宛に出しているようです。
 全法労協が持参した「法律・司法関連業種に働く仲間の二〇〇一年要求と実態調査アンケート全国集計結果」によると四割もの職場で残業手当が働いた時間だけ払われないし、二割の職場では「全く支払われない」とか、生理休暇もとっているのは一三パーセントの職場にしかすぎないことが報告されています。
 このように、法律・司法関連業種(公証役場や、執行官の雇用者も含む)は、近代的労使関係とは到底言えないのが実情のようです。
 全法労協では、団員の先生方の事務所ではそのようなことのないようお願いしたいとのことでした。
 団本部と全法労協では、これからも協議・懇談を続けていくことを確認しました。


峪間の運そして決断のゆくえ(一)

東京支部  中 野 直 樹

一 盛岡にせり出し、どっしりと腰をおろした岩手山は火山性ガレ石の塊である。ちょうど富士山がそうであるようなやわならな輪郭線に青空が際立っていた。梅雨に洗われた秋田県境の山肌が陽光に輝き、未踏の沢への抱負とともに心を躍らせる。
 九一年岩手県稗貫郡大迫町のリンゴ畑のなかに萱葺き屋根が威風堂堂とした「岩魚庵」が構えられた。以後、庵主岡村親宜さんと無二の釣友大森鋼三郎さんは、北東北の源流域岩魚を求めて、奥処の隅々まで分けいってきた。
 二〇〇〇年七月、この二人もまだ踏み跡を残していない、真昼山地の主峰・和賀岳から北に流れ落ちる堀内沢を目指して年期を重ねたパジェロが唸る。途中、田沢湖スーパーで、あれが美味そうだ、これも食いたいと、ザックと体力の容量も考えないでかごに積め込んだ食材のかさに、私は前途多難を感じた。
 ダム湖畔の林道をまだかまだかと感じるほど登る。荒れ道の凹凸の激しさに、トランポリンのように身体が跳ねた。二又を右折すると、緑したたる樹林のなかに佇む湯治宿に出た。夏瀬温泉という。秘め湯に惹かれる心を振り払い、分岐まで戻って右折し、しばらく進むと堀内沢の取水口の車止めに到着した。午後三時であった。私たちの釣り天国への入り口になるはずであった。が、そこには、横浜ナンバーの乗用車が一台先を越して駐車していた。

二 人は時折、歯車が少しずつ狂ってしまう人生を経験することがある。弁護士事務所を訪れる人たちの話の中に、ほんのちょっとしたタイミングの悪さ、不運が続き、不幸な状態に身と心を置かなければならなくなった人生を垣間見ることが少なくない。
 前年の夏、南八幡平の山越えで踏み入った葛根田川源流域で、梅雨明けが一日遅れたこと、雨具を忘れる不注意をおかしたこと、持参のガスボンベの数を減らしたことが重なり、断続する雨に「安全神話」が揺らぎかけた体験をした。
 今回は、梅雨明けを確実にするために、出発を三日遅れの七月二七日とした。これは成功したようだ。岡村さんが九時一八分発のやまびこの指定席を確保し、大宮駅の新幹線改札口で待ち合わせとなった。私は自宅から大宮まで二時間と見込んだが、最初の横浜線の電車に乗り遅れ、以後乗り継ぎ毎に発車直後の到着となり、どんどん遅れ、一〇秒ごとに時計をみてしまうような心境で埼京線が大宮駅の最下段ホームに着いたのは九時一五分であった。重いザックにのけぞりそうになりながら、あえぎあえぎ階段を駆けあがった。クラクラしながら改札口にたどり着いたところ、やまびこの入線を知らせるアナウンスが響いている。岡村さんが手招き、大森さんはどうしたと聞く。今回は、いつもの新宿駅での待ち合わせをしなかった。遊びとなれば、時計針が三〇分は進んでいると思われるほどゆとりをもって行動される彼が遅刻などするはずはない、何かあったか、と気掛かりながら、瞬時の相談でともかく乗車しようと決め、さらにエスカレーターを駆け上って、間一髪やまびこの車両にすべり込んだ。
 岡村さんが確保してくれていた指定席の一二号車に向かった。ところが八号車で終わりとなった。臨時列車に乗り込んでしまったか。岡村さんが思案顔で指定券を見つめて訝しんでいたところへ、制服姿がきりっとした女性乗務員が通りかった。指定席の車両がないことはおかしいではないかと訴えると、それは連結している「こまち」の車両だが列車内では移動できません、次の停車駅の仙台で移って下さいとのこと。重い荷を傍らに、納得のいかない顔をしている私たちを気の毒に感じたのか、てきぱきと仙台までの空席を探してくれた。それにしても、指定席番号を知らされていない大森さんはどうしたことか。  仙台駅で前部の車両に乗り換えた。一二号車に入って、驚いた。大森さんが腰掛けているではないか。彼の弁では、指定時刻一五分前になっても、二人が改札口に来ないので、改札員に特急指定券は仲間が持っているとことわって通してもらい、指定席の見当をつけたとのこと。遊びにおける冴えは賞賛に値する。

三 車のボンネットを触ると温かみが残っていた。車内には靴三足、二四本入り缶ビールの空箱などが残されていた。私たちと目的を同じくする三人組、二ダースの缶ビールを担ぐ元気ある者が一時間ほど前に先行していることは間違いない。
 落胆とともに、すぐ眼前に緑に包まれて息づいている堀内沢が遠景に退いていく。この沢は本流を三時間近く遡行し、右岸から流れ込むマンダノ沢出合いで野営する。ザイルなしで釣り上がれる場はこの枝沢だけで先行者との沢分けは困難である。岩魚釣りは、縄張りの釣りである。一〜三人で三〜四キロの川を独占し、鮎釣りのように竿を並べるわけにはいかない。
 断ちがたい思いを振り払い、地図を見つめ、玉川の支流・小和瀬川に転向することに決めた。秋田駒ケ岳から北方向に乳頭山、小白森、大白森、大沢森、八瀬森、関東森、と八幡平方面にブナの原生林におおわれた稜線が延びている。一年前は乳頭温泉からこの稜線をこえて葛根田川に降りた。小和瀬川はこの稜線の西・秋田側の水源地域を形成する。

四 田沢湖の南から北に抜け、玉川の左岸に合流する小和瀬川の枝沢中ノ又沢の林道終点についたときは雲が茜色に染まりはじめる刻であった。林道と車止めの広場の草刈り跡が新しく、何か工事が始められるのだろうかと、ふと思った。テントを二つ張り終えると、中野さん、晩飯のおかずを釣ってきてと声がかかった。竿を手にして、少し林道を戻り小沢筋を下って流れに出た。両岸から岩盤が迫り、四メートルほどの幅の流れが暮れゆく光のなかにかすかに波立っていた。ずり落ちそうな一枚岩の上で足を踏ん張り、黒味が勝った水面に餌の赤トンボを落とした。一メートルほど流したところでちゃぽっという音とともに水中に引かれた。初対面の沢での第一投が二〇センチちょっとの岩魚を当てた。うれしいもので、一人でガッツをした。さらに傾斜のついた上流の岩場に移動した。へつりをしなければならないような嫌な場所であった。新しいトンボを鉤にかけ、片手を岩のホールドにかけてバランスを保ちながら流した。三度めに、力強い引きがきた。がっちりと合わせた。問題はそこからにあった。周囲は岩場で、五メートルの竿先をまわして取り込み、着地させる場所がない。わが身も岩壁にへばりついている状態で不用意に足を動かすと滑り落ちそうである。迷っているうちに岩魚が勢いづいた。咄嗟に岩魚に空気を吸わせて弱らせようと決め、右手で持っていた竿を立てた。仕掛けに引っ張られ水面を割って飛び出してきた岩魚に尺ものの風格を認め、鼓動が早打った。その瞬間、突然竿ががくんと衝撃を受けて空を切り、岩魚が仕掛けをつけたまま水飛沫をあげて流れに落ち、消えた。心と身体が揺らいだとき、竿が直立してしまい、一気に弾力を失い、重さに耐えられず折れてしまったのであった。(続)


自由法曹団創立八〇周年記念特別寄稿

自由法曹団創立記念日の周辺 そのC

赤旗社会部 阿 部 芳 郎

 ところで、本業≠フすきまを縫っての取材なので、どこまで団創立記念日に至る「空白」を埋められるか、正直なところ自信はない。政府の司法制度改革審議会の審議日程が大詰めを迎え、三月からは週に一回のハイペース。しかも、法曹養成、法曹人口、国民の司法参加、刑事司法など六月の最終報告へ向けて重要課題が目白押しだ。審議が公開されてから、傍聴しなかったのは一、二回しかない(ほとんど欠席の女流作家先生に比べ、よほどまじめに出席しているつもりだ)。
 本題に戻ろう。森長英三郎氏は「根拠が薄弱だ」とする理由を『新編史談裁判』(二)で示している。とはいえ、一九二一年夏の神戸の川崎、三菱両造船所の大争議における人権蹂躙事件の調査をきっかけに、帰京後、自由法曹団が結成されたことに関しては、異議を差しはさんでいない。ただ、「自由法曹団の名称が決まったのは、九月の終わりか、一〇月頃ではないかとおもわれる」と書いている。
 森長氏が「九月か一〇月」と見る根拠は何か。@当時の新聞には団結成のことが一行も出ていないA九月二〇日に東京・神田で開いた調査報告演説会でも、自由法曹団の名前が出てこないーの二点を挙げ、「法律新聞」に初めて団の名前が登場するのは、「一九二一年一一月一八日」だと指摘している。そこまで示しながら、最後に「どちらでもよいことだが」ともいっている。
 ちなみに、この法律新聞の記事は、東京の石川島播磨造船所の労働争議を調査した横山勝太郎、布施辰治ら自由法曹団の弁護士五〇余人が、同年一一月一一日、人権蹂躙だとして、警視庁と検事総長に宛てて抗議の決議文を送ったことを報道したものだった。
 石川島造船所の争議(ストライキ)は一ヶ月になるが、いつ解決するか、予想がつかない。新聞の伝えるところによれば、会社側の切り崩しと職工側の対抗に対処した官憲の高圧的な態度が、争議を悪化させている。団は諸般の状況を調査して、人権蹂躙の事実を確認した。
 警官千人を工場周辺に出動させ、会社の切り崩しに呼応して、争議団幹部二〇人を検束、会社の買収に屈した職工を殴ったとして、争議団本部に居合わせた職工五〇人を一網打尽に検挙したーなどの調査結果を決議は列挙して、責任は当局にある、と指摘している。
 森長氏がいう記事の概要はこのようなものだった。ところが意外なことに『新編史談裁判』から一二年後に出版された『日本弁護士列伝』では、団創立をあっさり「八月二〇日、日比谷松本楼」と書いている。ただし、この部分は、布施辰治弁護士の功績に触れた箇所だから、それほどこだわらなかったのかもしれない。『新編史談裁判』をよく読むと、森長氏は「団結成」とは言わないで、「名称が決まったのは…」と書いている。