「新しい歴史教科書をつくる会」の歴史教科書が、六月末の展示会、八月の採択に照準を合わせ、店頭で平積みされている。
この教科書は、ー歴史を学ぶとはーにおいて「過去のそれぞれの時代には、それぞれの時代に特有の善悪があり、特有の幸福があった。」「歴史に善悪を当てはめ、現在の道徳で裁く裁判の場にすることもやめよう。」とする。そして、本文では、日清戦争の勝因としては「日本人が自国のために献身する『国民』になっていたことがある。」として愛国心を要求し、「日本の緒戦の勝利は、東南アジアやインドの多くの人々に独立への夢と勇気を育んだ。」「日本の戦争の目的は、自存自衛とアジアを欧米の支配から解放し、そして『大東亜共栄圏』を建設することである。」とするなど徹頭徹尾、侵略戦争を美化している。
ソ連崩壊後、「ソ連の脅威」という説得手段を失った日本の支配層は、イラクや北朝鮮などいわゆる「ならず者」国家の存在を掲げ、彼らの暴挙に備えてアメリカとの戦時協力体制が必要と宣伝してきた。そして、一昨年、新ガイドライン法及び日の丸・君が代の法制化を強行した。
しかし、これだけでは、支配層にとって不十分である。
日本の多国籍企業がアジア・中近東などを経済侵略する上で、現地を自力で制圧するだけの軍隊が必要であり、それを支えるだけの国民の理解が不可欠である。「つくる会」の策動は、日本を再び「戦争をする国」にするための憲法・教育基本法の改悪と機を一にしたイデオロギー攻撃に他ならない。
青年法律家協会熊本支部、熊本県労働弁護団、自由法曹団熊本支部の法律家三団体は、六月一四日、熊本市教育委員会をはじめ県内の各教育委員会に対して、「つくる会」の教科書を採択しないよう申し入れた。熊本県内では、「教科書ネットくまもと」など市民団体から同様の動きがあるほか、藤崎八旛宮からも史実と異なるとのクレームが付けられている。
日本帝国主義の侵略を受けた中国や韓国が厳しく抗議しているのは当然である。
すでに、社会科教員に対しては「つくる会」の『国民の歴史』が配布済みであり、市町村議会に対する「つくる会」教科書の採択を請願する動きもさかんである。しかし、「つくる会」がいかに人と金を投入して歴史を偽造しようとしてもそこには自ずと限界がある。
番犬の歴史的役割はすでに終焉を迎えていることを全国の団員の力で示さねばならない。
一、五月二三日(水)夜、第二〇回「足立憲法の集い」が開かれた。
終日の雨にもかかわらず午後四時から人が集まり始め、開会一時間前の午後五時三〇分頃には二〇〇名以上の人が並んだ。「集い」が始まるとすぐに九〇八の座席がある会場はほぼ満席になった。今回はアグネス・チャンさんを迎えての集会なので、朝からの雨がかえって裏方にほっとさせたのも事実。広く配ったチケットやチラシ・ポスターの効果でどれだけの人が来るのか予測できず、人が溢れて混乱する心配は雨のためしなくてすんだ。ポスターを作って街に貼り歩いたのは初めてのことで、各駅近くの店や個人宅に、また会場の西新井文化ホール、足立区役所の中にも貼り出していた。
各団体では創意ある取り組みが大いに展開され、当日の舞台で法律事務所が壇上に上がることはなかった。
司会者は毎年、交代している。今年は新婦人、教組、民青から。
開会あいさつは足教組の大谷氏。南京虐殺の被害者李秀英さんを金目当てのニセ者だと主張する人に対して、李秀英さんが起こした名誉毀損の裁判を支援していることで、昨年末、右翼から押しかけられたり嫌やがらせの電話を頻繁にかけられた中学校の社会科教師。自己の体験を交えて、「つくる会」の教科書問題を訴えた。
ピアノのソロ演奏は足立第十中学校出身の鳥居隆氏。教え子が出るとあって教組も奮闘した。そして、吉田万三前区長のあいさつは連続四回目。
閉会のあいさつは区労連から(出身は教組)。プログラムに載せるために作った詩が実行委員の心を打ったので(それもそのはず、集会後の懇親会で、学生時代を通じて七年間、佐藤ハチロウに師事したことが紹介された)、あいさつでは詩を朗読してもらった。
二、アグネス・チャンさんのメッセージは平易で明快だ。自由と愛と平和と夢。足立の集いが九三年から副題にしている「愛がある、歌がある、未来がある、そして平和憲法がある」とほぼ同じ。アグネス・チャンさんは世界の子供たち、特に開発途上国の子供たちの現状を見つめ、その幸せを願い考える。アフリカやタイなど世界の貧しい地域に出かけ、子供たちと会う。おごらず、絶望せず、そして相手を理解し、小さな歩みでもできることをしようとして前向きに取り組む。九八年からは初代の「日本ユニセフ協会大使」(cf. ユニセフ=国際連合児童基金)になった。
感心するのは、経験し心を打たれ感じ考えたことを常に言葉で確認し、真実を見つけて自分のものとしていることである。日本に来てからのことや、中国奥地やアフリカでの体験と、そこでアグネスさんが気づいたことについての講演に、会場はすっかり魅了された。また、裸の自分を受け止め、自分を好きになって、前向きに生きる姿に誰もが共感した。もちろん、日本の平和憲法をしっかり守りましょうとも。
三、集会後の懇親会では約二五人が集まり、一言づつ感想を述べあった。各団体の取組みが紹介され、それは出色だった。
司会の女性は、二〇回と紹介していて誇らしかったと言い、三年前に司会を担当した女性も、自分はそのときから集いと付き合い始めたが、来年はまた新しい人に司会をしてもらって、集いの輪をさらに広げようと訴えた。
毎年奮闘している新婦人の実行委員は、今回は準備をしていて楽しかったと話した。新婦人では、チケット販売用の独自の封筒を作って各班に配り、表には、購入者のチケット番号、氏名、代金領収の有無を記載する五名分の欄を作り、当日は混雑が予想されることなどを書いて宣伝し、毎週「おりづる」ニュースで呼びかけた。ポスターを街に貼り歩くのにも積極的に行動した。新婦人の参加は一〇〇人を越えた。
足立区職労では、職場内に「つどい」実行委員会を作って取り組んだ。アグネス・チャンさんの肖像の入ったポスターを拡大コピーして体の前と後ろにぶら下げ、メーデーで練り歩いたし、機関紙「歯車」に毎号宣伝を載せ、当日には参加者に新しい憲法の話と日本国憲法の小冊子を配った。参加者は区職だけで二二〇名を越えた。
足教組でも機関紙を使って一五〇名の参加目標に真剣に取り組み、結果は一〇〇名近くが参加した。
また、守る会も約八〇名が参加した。
四、成功の要因は、次のようになるだろう。
一つ目は、何はともあれ二〇年間継続してきたこと。各団体は集会を自ら作る自覚をもって参加するようになった。集会の当日も必ず何らかの役割を担っている。
二つ目は、何よりも女性の力が大きいこと。実行委員会に必ず出席するのは区労連、区職、新婦人などの女性であり、女性が全体の企画と宣伝、そして各団体内でのチケット売りや、宣伝で牽引車となった。法律事務所でも女性が企画や裏方の事務のほぼすべてをこなし、電話での問い合わせに答えるために区内四ヵ所にプレイガイドまで設けた。
三つ目には、音楽の力。毎年、音楽と講演の二本柱ははずせない。同じことをアグネス・チャンさんも講演の中で述べている。文化大革命の冬の時代が終わり改革開放の時代になって母の故郷の貴州に里帰りしたとき、村中の人がアグネスさんが作った歌を歌って歓迎してくれた。母がいつか故郷を訪れることがあると思って伝えていたのが広まっていたのだという。それ以来、心を通い合わせる歌の力に気づいたと。
四つ目は、昨年七月に「集い」の運動とは別に、「平和憲法を守る足立の会」を結成し、集会や学習会、現地調査などに連続して取り組んでいることである。運動の取り組み方や活動の仕方が違うため二つの運動体になっているが、エネルギーの活性化に寄与していることは間違いがない。
脱ダム宣言をした田中康夫知事にお会いしてお話しを聞くと共に激励の言葉を申し述べたいと思い、長野市で六月の常幹を開催しましたが、知事の都合で面会は出来ませんでした。でも、会議では実りのある討論をし、夜は長野県支部の心使いで懇親会に足を運び、翌日の日曜日「一七日」には現地の方の案内で淺川ダムを見学し、楽しい長野での会合であった。
常幹の討議は「つくる会」の公民・歴史の教科書問題と司法の民主化・司法改革の課題に集中した。さて、教科書問題であるが六月一一日付団通信に東京支部の松井団員「団の教科書問題緊急プロジェクト責任者」は「つくる会教科書に先制パンチを」と事の重大性、緊急性を訴えています。常幹では田中隆副責任者が「つくる会」教科書の問題点をネオナショナリズム、改憲策動、との関連で見ることの重要性を指摘し、次いで教科書採択の制度と手続きを説明し、最後に緊急行動を呼びかけた。会議参加者は討論する中で改めて事の大変な事や直ぐに取り組みを始めることの必要性を認識し、その決意を固めた。その具体的なことは先ず各団員は各地の状況を掴み教育委員会・教育委員に住民の声を集中し、そして教育委員会を傍聴し、公民教科書に対する自由法曹団の見解を届けることが確認された。 ちなみにこの方針に基づいて大阪支部は取り組みを始めています。 七月中ごろまでの闘いです。公民だけではなく歴史も意見書を作るようにとの意見もありましたが、当面この公民意見書を活用し、歴史教科書はもちろんのこと、公民教科書も採択させない運動をひろめていこうと確認した。団員の皆さん「つくる会」の教科書を読んで下さい。街の本屋さんではベストセラーになっています。大変なことが書いてあります。こんな事を子どもたちが教えられたら今後の日本がどうなりますか。学校の先生も迷います。採択を阻止しましよう。
司法改革の課題については、六月一二日に改革審の内閣への最終意見書が出され、わが団は一三日の司法民主化推進本部会議において討議し、団の見解をまとめ団長声明の形で公表した。常幹では団長声明を確認し、今後の方針を決めた。弁護士からの裁判官任官、法科大学院での法曹養成、過疎地への事務所建設を正式に提案しています。今後の活動として七月一一日に全国一斉宣伝行動を設けこれを成功させる。改革審の最終意見書に対する団の意見書を七月中に作成し、九月に拡大司法民主化推進本部会議をもって秋からの運動を推進します。
さて、その夜の懇親会、全員発言で面白かった。篠原幹事長らは二次会三次会まで顔を出したそうです。それでも翌日には定刻の朝九時にはホテル前に来ました。
いよいよ本番の淺川ダムの見学。五台の車に分乗して現地へ。現地の内山さんから現場で懇切な説明を受けた。素人の私たちでもダムを造ると山の地崩れが起きて自然を破壊し、地域住民の生活を危うくするものであることが分かります。無駄な金を使うだけです。
県はダム建設の目的について治水としていますが、治水に役立つどころかその反対です。自然を破壊してまでダムを造ろうとしたのは建設業者に儲けさせるためです。田中知事は現場を見て直ぐにダム建設の中止を決めたということです。田中知事は「脱ダム」宣言の中で「一〇〇年、一〇〇〇年先の我々の子孫に残す資産としての河川・湖沼の価値を重視した。」と書いています。正に達見と言うべきです。
このダム見学には地元のマスコミ記者数名が同行し団員はインタビューを受けていた。自由法曹団、特に長野県支部の宣伝になったと思う。最後に長野県支部の皆さん、お世話になりありがとうございました。
弁護士になって満三〇年を越え、五月集会への参加は、皆勤とは言えないが、二八回に及ぶ。少しは誉めて貰っても良いのかも知れない。時々の課題を追い続けた「分科会」は、団の歴史そのものだと思う。確実に進化し深化していることを実感する。もっとも、自分史的に言うと、私は、長い間ずっと労働問題分科会に参加してきたが、今年は、司法改革分科会と重なり、こちらに出席した。自分のかける時間の比重が、労働事件から司法問題に傾いたためだ。
規制緩和攻撃の中で労働者の権利状況は、一層厳しいものがあるが、私の手持ちの労働事件は減少の一途である。働く人たちと「生き様」を享有できる労働者の権利闘争は、私の弁護士としての「生き様」そのものだったと思う。長い「冬」が続き、やがて訪れる春を待ちながらも、事件の減少は、関心そのものを疎外させないかが一つの心配事となっている。
そういえば、最近こんな経験をした。長いつき合いになる組合役員が、今は全国の闘いにも参加し、ある地方の会社の解散・全員解雇事件に出くわした時、相談に行った比較的若手の団の弁護士に、「会社が法的に解散決議をする以上、解雇されても闘うすべがない。親会社との闘いも至難の業である」と言われたというのである。この会社は、親会社があり、解散後、その事業は別な子会社が引き継ぐというのにである。どう考えても納得がいなかないということで、私のところに来たが、「権利感覚」が希薄になり「闘いの承継」が、途絶え始めていることを実感させられたケースである。労働者の権利闘争の勝敗は、当該弁護士の「権利感覚」にも依存する。それを磨く場所が五月集会の「労働分科会」でもあったはずである。事件からも離れ、分科会からも離れると、自らも、次第に「権利感覚」が希薄になっていかないかが懸念される。
労働分科会と同じ時間帯に設定された司法改革分科会は、時代を反映してか大盛況であった。官僚システムにメスを入れ、市民主義的原理から司法を変える、というのが今の司法改革の基本的視点である。あまり「市民主義」的思考になれていない私などは、当初大いにとまどった。良く考えてみれば、「法曹人口の大幅増員」や「法曹一元」「陪審制度」の実現などに、団は、ずっと無関心だった。そして今なお、司法改革の行方を巡って激しい議論が、団内に起こっているが、私たちの時代を変えるアプローチのあり方が問われているように思われる。そして、それは、労働運動にも、教育改革にも、様々な住民運動にも存在するように思われる。
いずれにしろ、最も肝心なことは、団は評論家的に論議をするのではなく、積極的に行動する団体である。司法を弱い立場の市民の力にできるよう司法改革の実現過程で、あらゆる努力を払わなければならない。現在の弁護士に具体的に求められている弁護士任官・ロースクールへの教官派遣・過疎解消などに積極的なアプローチをしていくこと、弁護士会が市民に信頼されるものとなるため積極的な改革を進めること、などなど、あらゆる局面で、団の果たすべき役割は大きく重い。
創立八〇年を期して、そんな司法改革のアクションプログラムを作ってはどうだろうか。
五三期の新人弁護士です。昨年一〇月の総会の時点では入団手続を怠っていたため、今回が団員としての初めて参加する全国規模の集会でした。目に青葉、山ほととぎす、初鰹。まさに高知に行くには絶好の時期ということで、飛行機を降りて市内に入って、さっそくおいしい初鰹を堪能いたしました。やはり高知は酒どころ、昼間っから上機嫌で会場に向かいました。
さて、気を取り直して、五月集会の感想です。
初日の渡辺先生の御講演では、小泉政権の押し進めようとしている「構造改革」の動機及び狙いについてのご解説をいただき、私のような新人弁護士にとっても非常にわかりやすい情勢の分析とともに、目から鱗が落ちる思いでした。新自由主義改革路線とネオナショナリズム改革路線とに対置するべき第三の道についての具体的方向についてまでお伺いする時間がなかったのが残念でなりませんでした。新自由主義改革勢力に対抗するにはどうしたらよいのか、圧倒的な小泉人気の前に有効な反論を見出せないでいた自分にとって、渡辺先生が提示された「新しい福祉国家路線」こそがこれからの自分自身が追及するべき途であると、勇気づけられた思いでした。「痛みを伴う改革」という名の下での社会保障・福祉の切り下げ・切り捨てに対して、直感的にだけではなく理論的にも反撃を強める必要があると感じました。
二日目の分科会は、労働問題分科会に参加し、企業再編型リストラに対する各地でのたたかいについての報告を聞かせていただきました。経営側が繰り広げる様々なリストラ手法に対して労働者はどのように対抗していけばよいのか、各地での団員の先輩方の具体的な事例を数多く伺うことができて、非常に有意義でした(資料もたくさんいただきました)。
弁護士になって半年、理想と現実の違いに打ちのめされる日常の中、久しぶりに会う同期の友人たちとお互いに愚痴を言い合うことができるのもまた五月集会の楽しみのひとつでした。
色々な意味で、明日からの糧を得ることができた二日間でした。
あまり知られていないことかもしれないが、神奈川支部は、今年二月の総会で、幹事長に三木恵美子団員を選出した。選出の経緯は、正に「人事は夜作られる」といったものだったのだが、とにかく、事務局長の高橋宏団員と共に、黄金の四一期コンビ体制がスタートした。
三木団員は、「私が支部幹事長になったお祝いに、みんな五月集会に来い」と支部の四一期団員に連絡をした(細かい言い回しは違うかもしれないが、概ねこのような趣旨の連絡だった)。ついでに、青法協には入っているが自由法曹団には入っていない四一期にまで連絡してしまった。
この三木団員の檄にこたえて、「三木さんが幹事長になったんだから、行ってやらないとな」と言って五月集会に来た人間が一人だけいた。折本和司団員である。もっとも、三木団員は、ただ来い、と言っただけで細かい申込方法の説明はしなかったし、折本団員は、三木幹事長に、じゃぁ行くから、と言っておけば後は三木団員が手配すると思っているような人物だったので、結果的にそのしわ寄せは団事務局に行ったようである。
さて、その折本団員であるが、私がピーター・アーリンダー氏の講演を聞き終わってホテルにたどり着き、部屋でやれやれとしていると、「やぁやぁ」とニコニコしながらやってきた。片づける仕事があって、プレシンポには出られず、今着いたとのことだった。いつまでいるんですか、と尋ねると、広島の実家へ行くから明日の昼には出るよ、とのことであった。ちなみにご存知のとおり、五月集会の本体は、翌日の午後一時からである。
夜の宴会でも折本団員の隣に座って話をしていたのだが、彼が突然、「それで杉本は何でこういう集会によく来るわけ?」と言い出した。確かに私は総会とか五月集会によく来ているのだが、あまりそんなことは考えたことがなかった。面食らって咄嗟に出た答は「そうですね、スポーツ観戦みたいものですか」というものだった。折本団員は妙に納得していたが、私にとっても、靄が晴れるような気がした。そう、私は、マエストロの離れ業を見るようなつもりで、五月集会とか本部総会に来て、いろんな報告を聞いていたのである。そうしたことをきちんと自覚出来たのは、今回の五月集会に参加した成果であり、それは折本団員のおかげである。
そんな話をしているうちに、篠原義仁幹事長が私たちの席へやってきて、例によってあーだのこーだの一人でまくし立てていた。お開きになるときに、篠原幹事長は同じ席にいた小賀坂徹事務局次長や財前昌和事務局次長に向かって、「お前、専従事務局の接待をしなけりゃだめだよ。午後九時一五分に玄関に集合な」と命令した。部屋に戻った私たちは、あれ(篠原幹事長の言)本当なのかなぁ、などと言い、一応念のために行ってみようと、九時三〇分ころ玄関におりていくと、ロビーのソファーに、若干哀愁を漂わせて、篠原幹事長が一人で座っていた。私たちが行くと、いつものまくし立てる篠原に復活し、「俺は去年事務所旅行でここ(高知)に来たからどこに何があるか判ってる」というお言葉のもと、私たちや事務局さらには静岡の萩原団員一行までを夜の高知へ導いていった…が、地理(方角)は理解しているが、どこに飲み屋があるかという情報は把握していないことが判明し、結局私たちは、さっきまで事務局がいたという屋台村のようなところへ行くことになってしまった。さっきまでいたところに舞い戻って事務局の接待となったかどうかは非常に疑問だが、篠原幹事長のお導きであるから仕方がない。
屋台村からホテルに戻ってきたのは午後一一時ころで、勿論、夜はまだまだ長かったのだが、ここに書ききれないのが残念である。事務局の接待をするはずの某次長(特に名を秘す)が専従事務局を放って萩原団員のところの事務局の隣へ行ってしまったとか、ホテルのスナックの女の子と携帯の番号のやり取りをした人物とか、私が熟睡していた午前五時半ころどやどやと帰ってきて人を起こした揚げ句延々と携帯でメールを打っていた人物とか、本当にいろいろなことがあったのである。
ちなみに、私は男性の同期(四五期)が来ていなかったせいか、事務局次長部屋に放り込まれていたんだけど、本当に次長って大変だなぁ、とこれは心からそう思った。こういう人たちに団は支えられているんだなぁという感慨を深くした。だからといって、自分が団を支える側に回ろうなどと考えなかったのは勿論であり、仮に誘われても(誘われることはないだろうが)事務局次長なんて絶対出来ないな、という思いを新たにしたのである。
そうそう、せっかく三木団員の支部幹事長就任祝に高知までやってきた折本団員だったが、高知で三木団員に会うことは出来なかった。三木団員は、団山岳部(そんなものがあるのかどうか知らないが)の人たちと一緒に、四国のどこだかへ山登りに出かけて、五月集会一日目の午後になってから、高知にやって来たからである。
昨年の総会に続き、高知で開かれた五月集会に参加させていただきました。高知空港に降り立ったときの第一声が「意外と涼しいですねぇ」。南国土佐の暑い気候を想像していただけに以外でした。というより、五月なので当然かとも思いつつ、会場に向かいました。事務局交流会の会場では、谷脇弁護士の話を聞き、感動するやら面白いやら「ほんまかいな」と驚くやらで、あっという間に時間が過ぎてしまいました。その後の分科会は、新人分科会に出席しましたが、全国の様々な事務所の体制、悩み等がでて大変有意義な時間が過ごせました。特に、弁護士が、アドバイザーとして参加していただいたのは、弁護士側からの事務局に対する意見、体制、事務局の悩みなどを聞いていただけたので、非常に良い試みだと思います。ただ、非常に個人的には、担当の弁護士がその場にいると・・・つらかった。
そして、今回最大の楽しみ?宴会の時間、高知のおいしいお酒をたくさんいただきました。至福の時間でした。
二日目の分科会は、コンビニ分科会に出席しました。学生時代にアルバイトをしていただけに、実際裁判闘争をされている原告の方々の話を生で聞けて、他人事とは思えませんでした。
しかし、それが終わると「デーオ!デエエオッ!」で始まった大宴会。高知といえば、かつおのたたきというわけで、日本酒とあわせて、堪能させていただきました。
三日目の分科会は、クレサラ商工ローン分科会に出席しました。法律理論や裁判闘争の内容などは、難しくあまり理解できなかったのですが、現在の商工ローン業者の対応、またこちらからいかに対応すればいいかなど、勉強になりました。
五月集会に参加して、昨年参加した総会とは、また一味も二味も違った全国集会でありました。特に、ぜひ事務局交流会を続けていき、弁護士、事務局ともに自由法曹団を発展させていけるように、今後も様々な活動に参加していきたいと思います。
昨年中国へ訪問した後につくられた団報「中日友誼千秋事」を中国の呉景林さんに送ったところ、次のような手紙が来たので紹介する。
上田誠吉先生
呉 景林 二〇〇一・五・二五
前略
お手紙と団報一五九号「中日友誼千秋事」を五月一二日にいただきました。どうもありがとうございます。
第一、先生の「呉景林さんと会う」と拙文を読んで驚きました。先生がこの旅でたくさんのご感想があったに違いないが、私と会ったことをこれほどご重視になったとは思いませんでした。
第二、自由法曹団の旅行記だから「日中友誼千秋事」とすべきものを「中日友誼千秋事」としたことによって日本側の中国側に対する尊重を伺われるものであります。
第三、中は皆、弁護士の文章だから格調高く、皆珠玉編で且つ皆中日関係だから読んで親切且つ意味深いものであります。
第四、自由法曹団の公正、公平、真理に対する探索と追求であります。今度の訪中の趣旨もその一例であります。
まだ完読していないが、今後精読して勉強させていただきたいと思い、まず、「呉景林さんと会う」を中国語に翻訳して弟、妹、子女親友に読ませたいと思います。これは既に翻訳済みにして、もう一部の人に郵送しました。その次に自分の感想として一つの拙詩(七律)をつくりました。
読《中日友誼千秋事》二〇〇一・五・一五
水城市花正瓢香 一冊団報閃金光
適人適地適時訪 美意美句美文章
上田言我情誼重 衆友撰文意味長
法団好学求真理 友誼敬服満心房
中訳日「中日友誼千秋事」ヲ拝読シテ
水城(ハルピン)市花(クローブ)ノ香ガ瓢(漂ウ)
一冊ノ団報ガ金光ヲキラメク
適(当)ナ人(弁護士サン達)、適(当)ナ地(方)へ適(当)ナ時(九月一八日)ニ訪レタ
意美シク、句美シク、文字モ美シイ
上田(様)我ヲ言(及)シテ情誼重ク
友ノ衆(弁護士サン達)ガ撰文シテ意味ガ長イ
法団ガ学ヲ好ミ真理ヲ求メ
友誼ト敬服デ心房ニ満チル
以上、文理不通の拙詩ではあるが、ご叱正してください。「中日友誼千秋事」を読めば本当に沢山の美文美句が出て来る。例えば二〇頁上段八行目「人民の闘いあるところ自由法曹団の旗あり」、九二頁上段三行目「一九四二年私はこの街(巴山街)に生まれ」、一八行目「過去について学ばない者は未来に盲目になる」など沢山の名言金句がありました。中国側にこれを贈られて中国語に翻訳したでしょうか。
御宅皆様の御健康と御幸福を祈ります。 以上
高知の五月討論集会。ピーター・アーリンダーの講演会場の入口で石川さんに声をかけた。「本を読ませていただきました。最初は本の表題がなにを意味するのかよく解らなかったのですが、最後まで読んで、なるほどと思いました」と。
「ともに世界を頒かつ」――この書名には二つのことがこめられている。ある時期の大阪地裁刑事部裁判官の多くが、検察批判と被疑者被告人の人権保障が裁判官の使命と考えており、この点で弁護人との間に基本的一致があったこと。そして、弁護人と裁判官とが、世界を共通にし、共通の認識を感得したとき、その結果が無罪判決になること。
後者は刑事裁判に限られるものではなく、あらゆる裁判に通じる。そして、この本には出てこないが勝訴判決につながる「裁判官の飛躍」というのも、これに重なるだろう。
本書で書いているように石川さんは一九七六年に自由法曹団幹事長に選任された。この当時労働裁判などの敗訴がくり返され、裁判闘争をどう再構築するかが課題となっていた。七七年に団事務局長となった私は、石川さんのもとで労働、公害、公選法弾圧など、裁判闘争をどう構築・発展させるかについての団内の論議に加わり、おおくのことを学ぶことができた。
石川さんは言う「どこを裁判上の争点として強調するか。事実論にしろ法律論にしろ、その特色をつかみ、争点・対決点を明確にして、裁判官の人間としての心情に迫ることが重要で、裁判官がそれに心を動かされるならば、判決をどう書くかはまかせていいのではないか。」――こうした基本的スタンスのうえに、石川さんの参加のもとで、団大阪支部は大衆的裁判闘争の一四ヶ条をまとめている。 自分の弁護活動について、いろいろ考えさせられ、反省させられる一四項目だ。
石川さんが力を入れて解明しているテーマのひとつに、刑事弁護のあり方と弁護士自治の問題がある。弁護人抜き裁判法が国会へ上程され弁護士自治への攻撃が吹き荒れるなかで、日弁連は七八年一一月に「弁護士自治に関する答申」を採択する。
二〇年余り経て、「司法改革」のなかで弁護士自治への攻撃が強まろうとしているいま、国民の支持のもとで弁護士自治をいっそう強化・発展させることが切実な課題となっている。
私は団事務局長として、裁判闘争の再構築、さらには弁護人ぬき裁判法と弁護士自治をめぐる論議に加わった。またこの時期に石川さんは日弁連法廷委員会で活躍されたが、私は東弁法廷委員会で訴訟指揮と弁護活動の対立・確執をめぐる論議を重ねた。この本では府条例を改正してビラ貼り弾圧の手を縛った経過について述べられているが、私たちも都条例を改正するために力を尽くした。同じ課題をともに、あるいは別々に追ってきたこともあって、その経験と重ねあわせて、この石川さんの著作を、少しばかり興奮しながら一気に読みきった。しかしここで石川さんが書き込んでいる諸課題には、それぞれなかみの濃い、重いものがある。いま一度今度は時間をかけ、じっくり考えながら読み返してみたい。
一 大阪の三上団員が、講談社+α新書で、いまうけするタイトルの本を著された。題材は、付審判決定が公判の扉を開いた、警察官を被告人として裁く刑事裁判の五つの事例である。交通警察官による暴行致死事件(石川)、射殺事件(広島、福岡)、警備公安警察官による裁判所内での暴行致傷事件(大阪)、警察署内での暴行致傷事件(大阪)を、事件記録をベースに、当事者や代理人、検察官役弁護士への取材により得たエピソードや被害者の声を織り交ぜて、ヴィヴィッドに描写している。これらは、昨今大きな社会問題となってきている「警察組織の体質」を深めるために格好の材料を提供してくれる。事件ものとしても興味深く読める。
二 私は一九八五年、大阪で実務修習をおくった。この年、この地での記憶に残る出来事は、羽田空港から大阪国際空港に向けて飛び立った日航機が墜落した大惨事、そしてバース、掛布が風靡した阪神タイガースの大躍進であった。タイガースが日本一となった直後の一一月四日夜、梅田駅前で祝勝騒ぎをする群集を見物にきていた若者が、警備の警察官に職務質問を受けて警察署に連れ込まれ、集団暴行を受けて怪我をした。若者から告訴を受けた検察は三年半放置した後に不起訴。しかし大阪地裁が付審判を決定し、大阪弁護士会人権擁護委員会から三上弁護士、刑事弁護委員会から森下弘弁護士が検事に推薦され、指定された。この二人の検事役が、警察の妨害と検察のサボタージュと苦闘しながら最高裁で有罪確定させるまでの五年間の奮闘ぶりは、両団員の共著「裁かれる警察―阪神ファン暴行警官と付審判事件」(日本評論社)に詳しい。
私は弁護士登録した直後に出合った緒方靖夫氏宅電話盗聴事件で、この付審判請求に取り組む機会をえた。この件では密かな電話盗聴が職権行使といえるかが法律解釈論争となり、最高裁まで連敗した。請求人が手続きに関与する権利が保障されておらずたいへん使い勝手の悪い思いをしたが、それでも裁判官との面会で示唆を得た証拠のいくつか、決定書の事実認定は後の国家賠償裁判を支える貴重な財産となった。
三 三上さんはその後、日弁連人権擁護委員会の捜査機関による人権侵害を扱う部会に所属し、付審判制度の研究を続け、その請求の「すすめ」を言い続けてきている一人である。この制度は、戦前戦中の天皇制治安機関による人権蹂躙の反省にたち、憲法三六条に公務員による拷問の絶対的禁止規定がもうけられたことをうけて創設されたものである。
本書によると、毎年数百件の請求がなされ、累計で一万件を超えているそうである。まず、こんなに使われているのかと驚いた。しかし、次に、請求が認容されたのは合計で一七件しかないことを知り唖然とした。さらにその後の裁判で有罪が確定したのが八件で、有罪率が五割だとのこと。
そして近時は新たな付審判決定がなく、一件のみ最高裁に係属しているだけの寂しい状況となっている。
三上さんは、五つの事例での具体的事実を引きながら、「警察にとってもっとも怖い制度」であるはずの付審判制度がその期待通りに機能できていない原因として、次の三点を指摘する。
一つは、警察が、組織をあげて警察官犯罪を隠蔽し、ときには証拠隠滅あるいは証拠捏造と批判されてもやむをえないことまでしている。
二つめは被害者から告訴を受けた検察が、きわめて長期間放置して、証拠の散逸、証人の記憶減退、いたずらな公訴時効の進行をもらたしている実態である。
三つめは、裁判所が、請求手続き段階における記録開示など請求人の手続き的関与にきわめて消極的であること、さらに警察官の職務の適正を過信する傾向があることである。
これらは、いま日本の司法が抱えている病理そのものであろう。
四 「被害者の人権」に光をあてる運動が高まり、いくつかの法制度整備に結びついている。しかし、それが治安強化のベクトルだけに作用するとすれば新たな偏りを生む。公務員とりわけ警察官の職権濫用による犠牲者の人権救済システムとその抑止の強化という方向もまた追求されなければならない。「警察改革」が幕引きをされかけ、「司法改革」の枠が定まろうとするこの時期に、三上さんは、本書で、付審判制度が本来の役割を果たせるための抜本改革の必要性を訴え、大胆な私案を提示している。
付審判請求を経験したことのない団員も多いと思う。この本は市民向けに書かれたものだが、弁護士にとっても、刑事訴訟法の基本書の勉強では得られない実践的なたたかいの学びができる。ぜひ書店にて買い求めを。
五月集会の労働問題分科会では企業再編型リストラとの闘いをテーマにJMIU書記次長の三木陵一さんに来ていただき、運動でどう闘っているか、弁護団に裁判・地労委闘争を依頼する場合、職場の内外での闘いとの関係をどう位置付けているか、弁護士に何を注文したいかなどをリアルに話してもらいました。「企業再編型リストラ事件を相談に行くと、弁護士さんはすぐに、これはむずかしい、無理だと否定的な話をする。しかし、労働組合としては難しいからといって闘いをあきらめるわけにはいかない。弁護士さんにお願いしたいのは、これから闘いに立ち上がろうという労働者を励まして欲しい。難しい問題であることは我々も分かっている。何も弁護士さんに裁判所で絶対に勝ってくれなどと無理な注文をしようとは思っていない。闘うために何かできることがないかをいっしょになって考えてほしい。」など、私たちにとって耳の痛い話も率直に語ってくれました。
分科会では民事再生法に関する問題について突っ込んで検討する時間がありませんでしたが、この問題に絞ったシンポジウムを後記の通り行うことになりました。民事再生法は施行以来かなり活用されており、今後も事件は増加すると思います。既に始まっている闘いの経験を学び、ぜひ今後の活動に生かしていただきたいと思います。多数の団員が参加されるようお願いします。
いま、小泉内閣が打ち出した「不良債権の早期処理」が、大きな社会問題となっています。政府は、「不良債権処理なくして、景気回復はない」と主張していますが、「不良債権処理」とは、結局、日本経済のゆきづまりの原因や悪政の責任を脇において、業績に苦しんでいる中小企業に「不良債権」というレッテルを貼り、その企業やそこで働いている労働者がどうなろうとおかまいなく、無理やりにも債権の回収をはかろうというものに他なりません。すでに、いくつかの研究機関からは、数十万件の中小企業の倒産と百数十万人におよぶ失業者増を招くという試算も出されています。
こうした「不良債権処理」の方法として、いま、問題となっているのが、昨年四月から施行された「民事再生手続法」です。民事再生法は、この一年間で九〇六件の申立がなされています(九九年度の和議法申立件数は二一二件)が、一方では、労働者保護の視点が欠けているなど、「民事再生手続」の問題点も次第に明らかになりつつあります。
JMIUの関連でも、すでにいくつかの企業が「民事再生法」の申請をしています。とりわけ、神奈川県川崎市の株式会社池貝の民事再生申立では、申立後、五五〇人の従業員を全員解雇してきました。うち、一二〇人は一年単位の契約社員として再雇用するとしているものの、退職金は、適格年金解約の返戻金などでわずかに二〇%しか支払わないという暴挙です。
今回のシンポジウムでは、こうした「不良債権処理」およびその手段として活用されている「民事再生法」の問題点を主に労働者の権利との関係で考えていきながら、労働組合として、それとどう対応していけばいいのか、ご参加のみなさんとともに討論していきたいと考えています。
自由法曹団の団員のみなさんも、ぜひ、ご参加くださるよう、お願い申し上げます。
シンポジウム「不良債権処理と民事再生法を考える」 日時 二〇〇一年七月八日(日)一時三〇分〜四時三〇分 場所 全労連会館ホール(東京都文京区湯島二―四―四、 TEL〇三―五八四二―五六一〇) 主催 自由法曹団、日本労働弁護団(検討中)、全日本金属 情報機器労働組合(JMIU) 報告者 棗 一郎 (弁護士、旬報法律事務所) 未 定 (銀行産業研究会に要請中) 三木 陵一 (JMIU書記次長) コーディネーター 神原 元(弁護士、川崎合 同法律事務所、池貝弁護団) |
1、この関係での問題は、裁判員制度・その人数や評決のことなどになっている。然し、われわれにとっての当面する大きな問題は、その導入や被疑者弁護の国公選化問題を契機とする刑事弁護の官選化の進行である。殊に被疑者・被告人の当事者基盤が脆弱なままでこれらが導入されたら、それに耐え得る私撰弁護は可能ですか?と既に問われ始めているからである。公選化、公設事務所化が進み、手抜き・欠陥弁護も減って、全体的に功であることが大きくなるだろう。然し、利用度を高めるためとは云え、被告人側の選択を許さない制度のもとで市民参加の建前だけを強調され、右ならえで全般的に迅速集中審理を強要されたら、一部の金持ち、涜職関係、主義・団体関係以外、まともに対応出来るかどうかはかなり怪しい。難事件の国選弁護人の数を絞る運用がなされているところから見れば、「傾向的」弁護活動をする人達を公設事務所・公的運営主体が何処まで許容するかも未知数である。それなのに手放しで歓迎するような執行部の対応はケシカラン!とは、五月定時総会で貰ったビラに書いてあった。これから先、経済的に困難分野であった刑事弁護での公選・官選化が間違いなく進む。というより弁護士業の全体にその傾向が出て来るのだろう。昔、中国の律師事務所に行って、弁護士が公務員であることを当然としている彼らに言いようのない違和感を抱いたことがあるのだが、その後の彼らとは丁度逆方向と思われる進展が始まっている。かの国では極端な公から私へ、そしてこちらでは、困った時の「カミ」頼みの、「私」から公依存への傾斜である。
2、また、被疑者弁護問題も決着年を迎える。 小生は平成四年東弁の担当理事者として当番弁護の発足に係わり、以降ずっと日弁連扶助本部でのこの議論に係わっても来た。理事であった昨年も主査或いはニュース「扶助改革」の編集長として、刑弁センターの方での議論展開を胸を痛めながら見ていた。この問題は他人事・一般事ではなかったのである。今年が決着年である所以は、最終意見でゴーサインが確定した以上、被疑者サイドから見れば、最早、国選並の弁護人要求を棚上げされたまま過ごす謂われがなくなったからである。こうして、そのシステムは国・公のいずれか、公ならそれは今の指定法人のままの扶助協会なのか、所謂不適切弁護問題の処置は何処でどう解決するのかと云ったこじれた問題にも決着を付けねばならないことになる。その問題の変遷と意味について、小生が編集主査任期のうちの手配事であった「自由と正義(六月号)」でも特集・紹介されているので、そちらをご覧頂きたい。扶助協会は、公選となった場合の資力要件・償還制度との折り合いの悪さや、公費・総合等を理由にしての認可法人的思考角度から介入されたりして指定法人制度維持が困難になることを懸念し、国選が好ましいとの見解を表明している。裁判所はどちらでも可とするもののようであるが、捜査がらみのことで法務省側と衝突するのはかなわない、起訴状一本主義と一貫弁護問題の調整が有り難迷惑と云った按配で腰が引けている。
3、そんなあたりや、認可法人的主体を押し出すような最終意見を睨んでの扶助協会側の提案は、裁判所がやらない場合、弁護人の選任・解任は国選被告人同様裁判所がこれを行うことが有り得るとしても、主管・運営は指定法人の指定事業として行うべきであろうとするもののようである。その心は、何も大袈裟に考えることはない、現状の自主事業を追認的に指定事業にして呉れればいいのだ、と云ったところであろうか。確かに当番弁護発足一〇年を経過し、財政問題を除けば、その運用で特に問題になったことはない。この制度と運用についての法曹三者の意見交換で法務省から出て来たものは、むしろ適切且つ効果的弁護事例であったが故の衝突であった。あとは今迄被告人弁護についての手抜き・欠陥弁護と同様の事例が出て来た時はどうしますか。それが弁護士会側の自主的努力だけでいいのか、と云うことである。
法務省は当然くちばしを挟んでくるが、これは利害対立の相手方だからマアそういうものだ。問題なのはそれを受けて、乃至はそれを排除して、制度主体となるべき指定法人は如何なる立場と方向でこれに係わるのか、或いは係わらないのか。それらについて何らかの基準が要るのか、である。そうしたことは確かに大問題・難問と言えば言える。然し、年間高々数億円の費用問題の、そのまた僅か数%にもならない事例について、官側からのアレコレの難癖・干渉を如何にして封じるかなのである。不適切活動を理由にしての綱紀懲戒請求についても当然のことながら別途、一般的な制度があり、五月の定時総会で更にその整備を進めることが確認されている。それ以上何を付け加えろと言うのかであり、いずれにしても賢明な決着方法は早期に、必ず見つかると思っている。
1、個々の弁護士にとって今次改革論議はあからさまに認めようが認めまいが、概して唸ってしまう類のものであった。取り分けこれからが長い一〇年未満の会員にとって一層そうだったろう。競争激化の時代に進むのに、一〇年程度のキャリアでは先発の強みはそんなにはないからである。その人達があんまり物言わぬのは余裕がないせいか、それとも元気盛りで明日は明日と思っているからなのかは分からない。東弁会報「リブラ」の若手座談会などで見る限り、案外タフな応答をされている。一度、然るべき段階でのアンケート結果を見てみたいものである。また意外に地方の会員が肯定的に受け止めている。しんどい思いの公的負担の担い手が増えるとか、自分のところにはウン十年に数人しか増えなかったという思いの強さがそうさせているようだ。容れ物の小さいところは、然し、少し入っただけで一杯になるし、地方型ロースクールからは隣接士業分野の増大やそこからの参入も促すものになるだろう。小さい程、景色はアッと言う間に変わる。こうしたことも然しアレコレの可能性のことで、なってみなければ断定出来ないが、その時にその勢いや方向性を変えるのはまた、別様の大仕事になる。 これとは違い最初から分かっていたのは、弁護士会自体にとっては取り敢えず大きくなることはいいことだと云うことであった。弁護士会を業界団体と思っている人から見れば、一連のことは業者利益を侵害するとんでもないことだったろう。然し、会員が増え、入会金・会費収入が増え、各種推薦・許可・斡旋業務が増え、研修・綱紀懲戒業務が増えて権威がいや増す。行政官庁としてグレイドアップする。かねて他官庁との処遇格差を意識していた職員の立場からは文句なしに大歓迎だったであろう。
2、そして然し、これが弁護士会の活動・自治権行使に期待を寄せている人達がどう受け止めるかは甚だ悩ましい問題だったし、一連の総会騒動もそれ故のことだったろう。業界全体が偏差値就職的になり、法人化や企業内化による組織忠誠型になり、営業届け出制による多角化、事業化が様々なトラブルを招き寄せ、私益追及が止まらず、事件・事故の追っかけ屋になり、提携屋や宣伝屋に牛耳られ、紛議・倒産が茶飯事になり、皮肉にも官依存化傾向を強める。マンモス化した弁護士会に今更三会分立とは何だとなるのはいいが、専ら、扶助・公設・各種兼職公務・公費・管財業務等の配給機構と化し、登録・管理以外の道楽活動費の負担はゴメン、傾向活動もイヤとなりそうである。こうしてオピニョンの気概を見失った弁護士とその団体に今更何を期待出来ようか。数の多いのはそれ自体が力だとして、それなら今迄、税理士会、医師会、歯科医師会等が権力党の応援団以外の如何なる政治的社会的実践をして来たというのか。数は力ではあるが、同時に気楽な埋没と無名化による無力化でもある。退屈な集会の演壇に立って客席を見て下さい。後ろの方々は無警戒・野放図にコックリコックリしているではありませんか。そこでは良い意味での少数者としての緊張感がなくなるからである。これが業界の拡大とそれによる一般化の帰着するところであり、そのどちらもが一長一短でそれなりに有り得る姿であろう。囲碁で言えば、今迄も一局、これからも一局なのだろう。
時代の変化は概ね改革・開放・拡大に向かったことを思えば、新たな均衡点が見える迄そうした道が続くし、それだけのことかも知れない。然しそうだとしても、司法は車で言えばエンジンではなく、ブレーキ系統に属する。これから縮小時代入りするこの国に、何故大きなブレーキが必要なのか、未だ釈然としないところではある。多分、外国人の増加に加え、今迄がいい加減な「組織・行政・集団」優先の人治国家だったのを、幾らかまともな「司法国家」にする必要があるからなのかも知れない。それなら、これからの変化が停滞社会へのいい意味での刺激になることだけは願っている。(つづく)
前回紹介した吉田三市郎弁護士のコラムの題名「玉石同架」からも、一九三一年当時、弁護士が作ろうとしていた団体が、自由法曹団だったことがうかがえる。『自由法曹団物語』の座談会で、布施辰治弁護士の発言として次のようなくだりがあるからだ。
布施氏は「会の名前だが、何しろ集まったのをみると玉石混淆だから玉石同架会という名前をつけたらどうかとまでいったことがあるんだが…」と述べ、最終的に自由法曹団に落ち着いたことを紹介している。
これまで、「結成された日」だけにとらわれていたが、いろんな書物を注意深く読んでみると、少しずつ表現が異なることに気付いた。吉田氏のコラムは「弁護士会館で発起人会」となっている。『自由法曹団物語』の座談会で山崎今朝弥氏が語っている松本楼は、「発会式」だ。細かいことかもしれないが、弁護士会館で「発起人会」を、その後、松本楼で「発会式」を行なったとも推測できる。
ところで、宮城県石巻市で生まれた布施氏は、戦前から人権弁護士として名高い。一九三一年に結成された解放運動犠牲者弁護団の幹事長として三・一五事件(二八年)四・一六事件(二九年)で逮捕された日本共産党員の弁護を行っている。また、本人も一九三〇年、執筆した雑誌の記事が新聞紙法違反に問われ、不当にも起訴され、禁固三ヶ月の刑をうけた。その後も三三、三四年に治安維持法違反容疑で検挙、起訴されている。
布施氏は戦後、自由法曹団が再建されたとき、顧問に就任するが、いま出生の地、虻田浜江場に「生きべくんば民衆と共に 死すべくんば民衆のために」と刻まれた碑が建っている。
布施弁護士の伝記『布施辰治外伝 幸徳事件より松川事件まで』『ある弁護士の生涯ー布施辰治ー』は、いずれも日経新聞記者だった息子、布施柑治氏の著書だ。その中にも自由法曹団結成に触れた箇所がある。『外伝』の巻末にある年表の部分をそのまま引用すると以下のようになっている。
「大正一〇年(一九二一年、神戸の三菱、川崎両造船大ストライキ、軍隊出動)年 自由法曹団創立総会、東京日比谷松本楼で(辰治の記憶によれば自由法曹団は大正八年末か九年初め頃山崎今朝弥の提唱で内輪の弁護士仲間では結成されていた)。この頃から自由法曹団員として辰治の人権擁護の活動が一層活発になる。石川島造船の争議では毎日新聞(今の毎日新聞とは別系列)に連日論陣を張った。
」
「内輪では結成されていた」となっているところがまた興味深い。神戸の造船所争議が直接のきっかけではあっても、それまでに準備期間があったことは、十分にうなずける。突然降ってわいたようにできるわけがない。これもまた、団創立にかかわるエピソードとして記憶にとどめておくことができよう。(つづく)