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上山  勤 いのちの重みを感じないのか
根本 孔衛 訪米所感四題
村山  晃 稲村さんを偲ぶ
荒川 英幸 稲村五男先生に教えられた日々
坂  勇一郎 一・二九司法アクセス検討会に二五〇名のデモ行進
〜弁護士報酬敗訴者負担
中野 直樹 自由法曹団ホームページ
「事務所紹介」コーナーの開設のご案内と登録の呼びかけ
小池 信太郎 特別寄稿
自由法曹団物語 世紀をこえて(上・下)



いのちの重みを感じないのか


大阪支部  上 山  勤

  一月二七日、イラクの大量破壊兵器査察チームは国連安保理に報告を行った。マスコミは日本時間で二八日の朝刊が一斉にこれを報道した。しかし、なんと日本のマスコミは恣意的な報道なのだろう。我慢できずにこのニュースを書くことになった。まず、国連自身は毎日更新をするホームページで、これを次のように紹介をしている。
 『UNMOVICのブリックス委員長は安保理公開会合で、イラクでこれまでにおこなった兵器査察について報告。同委員長はイラクが査察におおむね協力しているとしながらも、情報提供や同国主要人物の聴取をより積極的にみとめるべきである、と述べた。』『IAEAのエルバラダイ事務局長は安保理に対して、イラクが核兵器開発プログラムを再開したことを示す証拠はこれまで見つかっていないとしたが、最終的な結論を下すためにはもう少し時間が必要である、と述べた。』
 ところが、日本のマスコミ各社の報道はひどいものである。太字の見出しをみても
朝日→イラク「廃棄要求に応じず」 活動なお継続へ
読売→イラク、なお兵器開発疑惑 化学爆弾説明せず 査察延長求める
毎日→「イラク 実質的非協力」 「決議受諾と言えず」
    委員長短期の延長求める
産経→「イラクは非協力的」 短期査察継続へ 化学兵器行方不明
日経→「イラク協力不十分」 米英は新決議案準備
となっている。テレビの報道も似たような調子である。いや、もっと悪いかもしれない。米国はブッシュ、ラムズフェルド、パウエルがそれぞれ、忍耐も限界であるなどと逆の世論作りに狂奔し、日本ではそのような発言が「イラク情勢」と銘打って報道されるのだから。これらはニュースでは無くて単なるプロパガンダ=政治宣伝である。
 事実の報道といっても価値判断が入るというのはわかる。しかし、あんまりではなかろうか。もともと、査察の目的はイラクが大量破壊兵器を持っているか否の調査である。そして、この段階で、大量破壊兵器をもっているという証拠は認められない、のだから、どうもなさそうだというのが最初の結論・太文字報道であるべきではないか。そして、イラクが査察に協力的か否かという手続き的なことについては、査察チームの報告は国連安保理に対するものだし、国連がホームページで「おおむね協力的」と、まず述べているのだから、せいぜい「もっと協力を」というのが正当な評価ではないか。これでは、安保理が決裂しても武力行使を辞さないと公言している国際法無視の米国の蛮行を容認する方向に世論を誘導するのではないか。

 査察の延長に応じた上で期限を切るというのが米国の戦略である。二月の二〇日過ぎには「アパッチ」と呼ばれる戦闘用のヘリコプターも湾岸地域に到着して準備は万端というわけで、三週間位ならというのが米国の筋書きである。日本のマスコミも攻撃はいつか、に焦点をあてて報道し、査察が短期間でもよいのだということに何の疑問も呈していない。どうして、査察があと数週間なのか、何故タイムアウトなのか、日本のマスコミは自分がそう考える根拠を国民に示すべきだろう。三一日の新聞赤旗によれば、エジプトのマヘル外務大臣がフランスのルモンド紙のインタビューに答えて査察の期限について次のように述べたと報道されている。
 『期限より人の命が重要ではないのか。・・ことを急ごうという欲望のために平和の可能性を犠牲にすべきではない。・・・国連は査察団に必要な時間を与えるべきだ』

 マスコミはイラク情勢というときに、現在イラクで生活をしている民衆の実情を報道すべきである。そうすれば、石油輸出の代金もすべてニューヨークの銀行口座で管理され、現金は自由に使えないのは勿論、そこから必要な生活物資を購入する場合すべての品目を安保理でチエックされていること、いわゆる経済制裁の実態がもっと広く伝わるはずである。過去八年間査察を継続し、過酷な経済制裁を押し付けて来た根拠は、まさに、大量破壊兵器の製造と所持を許さないという国際社会の合意であったはずである。つまり、イラクに対し、そのような兵器の所持は許さないぞといいながら、そのために経済制裁を今日まで続けているはずである。例えば、塩素とかオキシフルの輸入は認められていない。化学兵器への転用が懸念されるからである。また現金を自由に使えないので国内産業の振興を図ることもできない。しかし、その結果、イラクでは、食料が不足し、多くのこどもたちは栄養失調で苦しんでいる。殺菌されない生水をのむことによって下痢に苦しみ、脱水症状から死にいたる子どもが多い。つまりはそれだけの犠牲を強いることで大量破壊兵器は持っていないはずだというスタートラインがあったのではないのか。
 テレビゲームでも見せられるように戦闘機が発進する映像を茶の間に伝えてイラクの戦争報道とするのは誤りである。爆弾を落とす人間もいれば落とされて傷つく人間もいるのだ。両者に光をあてなくて、どうして公正な報道だろうか。こんな当たり前の感覚を麻痺させられないためにも、抽象的な政治談議ではなくて現地の市民の生活実情を世界に知らせること・・・・これこそがマスコミ報道の一方の責任ではないだろうか。

 僕たちで何かできないか、そんな気持ちでいたときにUNICEFが作成した、『イラクにおけるこどもたちの状態』という報告文書をみつけた。原文でも六〇頁を越える報告で長文なので一部を紹介して現在のイラクでのこどもの実情をみんなに広く知ってもらいたいと思う。連絡先は関西合同法律事務所内、イラク問題研究会宛である。
 例えば・・・
a 死亡率と発育不良、その状態
 イラク南中央部での乳幼児の死亡率は、一九八五年〜八九年には一〇〇〇人に四七人の割合に、一九九〇年〜九四年には七九人に、一九九五年〜九九年には一〇七人に急増した。乳幼児死亡率は都市部では一〇二・一人に、地方では一一六・四人だった。・・(略)・・・同様に五歳未満児の死亡率は、一九八五年〜八九年までだんだんと減少し、それから一〇〇〇人に五六人の割合から一九九五年〜九九年には一三一人に急激に増えた。五歳未満児の死亡率は都市部では一二〇・九人に、地方では一四四・九人だった。新生児の死亡数は五歳未満児の三分の二をしめる・・・・(略)・・・・。
 全体として、イラクでの乳幼児の死亡者数は最近の一〇年間で二倍以上となり、他方で五歳未満児の死亡者数は二倍半に増えた。いくらか改善されたにもかかわらず、五分の一以上のこどもはまだ成育不全である。このこどもたちにとって、命と生存への権利は満たされていない。・・・・(略)・・・・
b 病気と栄養失調、直接の原因
 死亡数と発育不良の直接の原因は、病気と栄養失調である。悲惨なことに、イラクで死んでいくこどもの多くは、予防できる病気によって死んでいる。下痢や脱水により死に至り、急性呼吸器感染症(ARI)とともに、イラクでのこどもの死亡数の七〇%を占める原因となっている・・・・(略)・・・。
i 公共事業サービス…上下水道設備、電力、保健、教育
上下水道設備
 イラクの場合、水質の悪化は、幼年時代の病気の増加の基本的な原因のひとつである。飲料水の大部分は、チグリス、ユーフラティス川や、これらの支流・灌漑用の水路からくみ出されている。これらはみな外表水であることで、汚染されやすく汚濁されやすい。水は、浄水される必要があり塩素の使用は飲料目的のために決定的である・・・(塩素の輸入は禁じられている)・・・・(略)・・・・。
 衛生設備についていえば、都市部の人口の二五%が配水管を有する下水処理システムを使用しており、約五〇%が家庭用の汚水漕、浄化槽、共同の穴式便所を使用している。残りの人々は、都会でも地方でも、その排泄物を直接に川や通りや空き地に捨て、貯水池の水を汚し、汚染や環境破壊の原因となっている。毎日、処理されていない生の汚物五〇万トンが新鮮な水に放り捨てられていると見られている。多くの処理プラントが、予備部品や装備品、適切な保守・管理や熟練した人材の不足のために適切に機能していない。予備部品、タイヤやバッテリー不足のために、汚水漕のための収集トラックが故障してしまっている・・・・(略)・・・・。
 MIC2000の調査による小学校への出席率に関するデータは、教育における深刻かつ現在進行中の衰退過程を明らかにしている。・・・二三・七%のこどもたちが小学校に通っていないということになる。さらにその中で女子は男子一七・五%の二倍近くである三一・二%に上っている・・・(略)・・・・。
 一九九〇年代半ばまでに、教育部門は深刻な危機に瀕していた。建物などの設備は旧くてくたびれており、供給品を求めても手に入らず、職員は減少する予算に直面して人数がひどく減っていた。
ほとんどの小学校では登校日は、こどもたちに二交替、時には三交替を要求するために減ってきている。文部省は推定で一九九〇〜九八年の間に文部省職員の約一〇%に当たる二万六三九四名が減ったことを明らかにしており、このうち一万六三三七名は教師である。現在は約一万五七九八名の教師を含む職員が常勤していない。人口の増加に伴い生徒数も増えているので悪条件を更に深刻化している・・・(略)・・・。
 約五〇万個の補助教材、二〇〇万個の机、六八〇〇万冊の教科書、一万五〇〇〇台のコンピュータが不足しているという。そして、かつては多くの文具( 一五〇万本の鉛筆、二三〇〇万個の消しゴム、五〇〇万個の定規、五〇〇万個の幾何学用品など) を無料で提供していたが、今はしていないという。
Box4二つの学校の話
 バグダットのラッサファ地区では、五七五の学校と一万五〇〇〇人の教師が五〇万人の人たちにサービスを提供している。ラッサファ地区はサダム市のように最も貧困ないくつかの地区を含んでいて、サダム市は二五〇万人が生活をし、ラッサファの学校が三五〇校存在している。学校は過去一〇年以上にわたってひどくいためられており、その状態は低い土地が簡単に冠水してしまうことから酷いものである。「雨がふると学校は水で洗われてしまう」と、その地区の教育計画担当者である女性エンジニアが説明をした。
 学校はひどくこみあっていて、一つの学校に三〇〇〇人の生徒がおり、一クラスは一二〇名である。一〇校は一日に三交替の運営であり、多くの他校も一日に二交替である。・・たとえば、ひとつの学校には八個のトイレが必要なのであるが、この地域全体で三〇個のトイレが使用可能という状態が続いている。今日までに、六一校の学校が、文部省と国際的な組織の協力で修復されてきた。これらは生徒の数に基づいて選別された・・・・(略)・・・・。
 孤児に関しては、直接的な原因としては、片親又は両親を失くしたり保護者がいないといった問題がある。路上で働いたり見捨てられたりしているこどもの状況は家族やこどもによって原因がさまざまであるが、ほとんどの場合が貧困である。食料を手にするために強制的に働かされている子もいる。しかし、食料や衣服を与えられない、また学校にやれないという理由でこどもを捨てる親もいる。

、以上のような内容である。イラクは対イラン戦争・湾岸戦争で生物・化学兵器を使用した。だから今日も経済制裁が続き、査察も含めた国連のチェックを受け入れている。学校に行けなくなった少年少女が街頭でヒマワリの種を売ったり、アイスクリームを売ったりしながら生活し、劣化ウランの撒き散らす放射能の下でもけなげにトマトを作ったりしている。この子達の頭の上に爆弾を落としてはならない。日本とはまったく条件が違うが同じような学校運営・裁判所運営・少年鑑別所運営などが日々行われ、職員も必死で仕事に携わっている。イラクの文化があるのだ。疑いや憶測でこの人たちの上に爆弾を落としてはならない。





訪米所感四題


神奈川支部  根 本 孔 衛

 昨年一〇月にロサンゼルス郊外の街パサデナで開かれたナショナル・ローヤーズ・ギルド(NLG)の総会に自由法曹団チームの一員として参加した。その開催日の前にサンフランシスコで、ロー・スクール教育ことにその中で「民主的法律家」がどう育っていくのかの聴取調査がおこなわれた。

一 米国の戦争熱は?
 私がこのチームに参加した動機の第一は、九・一一事件後の米国の状況を自分の目で見ておきたいことであった。テレビの映像や新聞記事を見開きする限りでは、米国政府当局者のことはさて置いて、民衆の側も熱狂しているかに見えた。報道には、日米両国のマスメディアのバイアスがかかっていることが十分疑えるので、それを外して実情をわずかばかりでもよいから確かめたかった。
 空港での入国手続はたしかに厳しくなっていた。しかし、街の中は意外に冷静のように見えた。大きな星条旗をかかげている店もあったが、私の目には、この旗は「当店は愛国者の店です」ということを宣伝する看板のようにうつった。テレビにうつる画像では人々が皆ワッペンを着けていたが、街中ではそんな姿を見掛けることは少なかった。これは、事件後一年という歳月の経過がもたらしたのか、あるいはアフガニスタン戦争開始に只一人反対した国会議員を選出しているサンフランシスコという土地柄のせいなのか、通りがかりの者に過ぎない私には本当のところはわからない。しかし、日本で私が想像していたような熱狂ぶりではなかったことは確かめられた。
 その後全米各地でイラク戦争反対の集会に大勢の人々の参加が伝えられてきている。戦争接近のニュースが伝えられると、株価が、ブッシュ大統領の支持率も下がるところからすると、戦争は起こらないのではないか、という希望も出てくる。九・一一事件以後の米国の動きを見るにつけ、ベトナム戦争への反省とは何んであったのか、と考えさせられた。しかし、イラク戦争についての近頃の様子から考えるとベトナム戦争の際の反対運動の経験と教訓が人々の間に意外に広く深く残されているのではないだろうか。もし、戦争が開始されたとしても、それが長引くようなことがあれば、反対運動は急速に拡大していくであろう。

二 NLG総会の席上で
 総会の発言で聞いた弾圧の様相はすさまじい。アラブ系の人が官憲から、怪しいと見られると、直ちに捜索され、検挙され、拘束されていく。テロとは関係のない事件を担当している弁護士が、テロとの関係を無理にこじつけられて起訴されている。その女性弁護士は、勝利を確信して勇敢にたたかっていることを報告する。また、団員は各地で反戦運動を提起し、その組織が広がっているという報告にも勇気づけられた。私たちもこれと連帯する必要がある。
 私のNLG総会への出席は今度が三回目であった。これまではワーク・ショップの席上でペーパーが配られることが多く、それを見ながら発言を聞いていればどんな事が言われているか大凡の見当はついた。今度の総会ではペーパーが無くて、発言者の気迫やそれに応える会場の雰囲気は伝わってくるのであるが、肝心の発言の中味がわからない。後から菅野さんの解説を聞いて「ああそうだったのか」という始末で、我ながらまことに情けない限りであった。
 これからは、アジアの法律家などとの交流が広げられよう。しかし、その間のコミュニケーションは英語に頼るほかはない。そこで話される英語を一応聞き取り、こちらからも話すことを、何とか身につけたいものだ。これは、外国に行くのに船を使った時代に育った世代から、航空機、Eメールで交流する人たちへのメッセージとして受け取ってもらいたい。

三 日本と米国の歪みと日本の捩れー北朝鮮の拉致と核開発
 今度の米国行きでもう一つわかったことは、米国に来てみると日本のねじれがよく見えることである。逆に、日本人の目で見ると米国の曲り具合がよくわかることであった。いわば歪んだ面ともう一つの歪んだ面を重ね合わせてみると歪みが消し合って事の正像が見えてくるということだ。
 例えば、北朝鮮がおこなった日本人拉致と核開発の問題である。米国の新聞紙では、短い旅行期間中の乏しい時間で貧弱な語学力によってのことではあるが、拉致問題の記事は一つも見かけなかった。目についた記事は、テロ情報が関係機関相互の間で旨く伝わらず、それがテロの実行を許した、といったことであった。その内に北朝鮮の核開発問題が浮かび上がってきた。これが米国の仕掛けであることは記事を見て直ぐにわかった。日本の北朝鮮対策が平壌宣言の線にそって一人歩きしないように、また韓国が太陽政策を米国の思惑を越えて進ませないようにするための牽制策であることは見え見えであった。米国は、東アジアにおける覇権を維持するためには、日本と韓国につけてある頸木をゆるめてはならない、と考えているのである。その政権維持の方策として米国と話をつけることが専一と考えているらしい北朝鮮当局は、米国のこの挑発を交渉を始める絶妙の機会とばかりに、投げられたボールにとびついたのである。韓国にとっては、朝鮮半島が戦場になれば、折角積み上げてきた結果が無になってしまう。戦争の現実化を抑え、その危険を解消しようとするのが、太陽政策である。今度の核問題でも米国と北朝鮮の緊張をエスカレートさせないために懸命の努力をしているのが韓国政府である。対米追従が唯一の外交政策である日本政府は、徒らに手を束ねてこの情勢を見送っているほかないのである。日朝間の安全保障の実現は少しも進まないばかりか、かえって緊張が高まるにつれて対米「依存」が深まるばかりである。ここからすれば、米国の仕掛けは、その所期の目的を達しているかに見える。
 北朝鮮政権当局は、日韓米の三国の間にくさびを打ち込み、巧みな戦術を組み立て実施しているものと、自らは考えているのであろう。北朝鮮の前途如何は、日韓中それにロシアを加えての平和的共存への協力と協調にかかっていると私には思えるのだが。政治には魔物が潜んでいる。核兵器はその魔物の最たるものである。いくら計算を重ね、慎重に計略を立てた積もりでも、思わぬことから火が吹き出すことがある。また、政権の無答責状態と自己過信が一番危ないことは、戦争につきすすんだ過去の日本の歴史が証明している。
 拉致は違法であり、重大な人権侵害である。北朝鮮当局者も、一応はこれを認めた。このようなことが起きたのは、その「革命幻想」の歪みに由来し、「正しい政治目的のためにはどんな手段をとることも許される」という誤った考え方に基づく。米国の政府当局やマスメディアがこの問題に目を向けようとしていないことは、ある意味では当然である。拉致、誘拐等は、ラテン・アメリカ等世界の各地で、CIAやその手先などによって、しょっちゅう起こされているからである。これは、米国の支配に抵抗する政権の打倒、政治腐敗の改革を求める民衆運動抑圧のための常套手段である。米国民も、自国民が拉致された場合は別にして、事件が起きてもあまり関心を持たないのである。米国では、北朝鮮と同様に、目的とその達成手段についてのモラルが失われているのである。何かといっては、人権を言いたてる米国ではあるが、客観的には明らかな歪みである。
 日本は、拉致問題の解決に、米国の関心や力を当てにすることはできない。日本政府は、経済援助を絡ませれば、北朝鮮が折れてきて問題が解決するものと見込んで「強硬策」に出た。政府当局によって人権問題が、その軍事力強化に向けての世論結集の手段と化されている。人倫の立場からすれば到底許されるべきことではない。政略的にみても、相手の性格と出方について見損なったのである。同時にそれが、日本外交の持つ卑小性を裏側から露呈させる結果となったのである。拉致問題の解決は、憲法の立場も国際法からもあくまで人権問題として取り組まれるべきことである。被拉致者本人と日本にいる親と親族、また北朝鮮にある配偶者や子の立場も考えて、これらの人々がその考えを腹蔵なく十分語り合えるような機会と場所を設定し、各人の自由な判断と責任によってその出処進退を決めさせるというのが人道と道理にかなうものである。日朝両国政府は、当人らの自由な協議と決定のために両国間の自由往来、そのための費用支出等の条件を保障し、その実現に協力するというのが正道であり、人権の尊重である。日本政府が、その方向の実現のために努力し協力を呼びかけるようならば、世界の人々の支持が得られ、そのための国際的世論が喚起せられ、日本国民も納得して、この問題の早急な解決が期待できる。

四 ロー・スクールの調査から
 法科大学院の設立は、法律家年間三〇〇〇人増員の対策であり、これに大学法学部の生き残り策がからんで出て来た問題である。それによって法律家の水準の低下と金もうけ思考が強まっていくであろう。弁護士会の変質が大変心配である。自由法曹団の「後継者」問題もその一環である、というのがこの問題についての私の理解である。
 調査の関心の中心は、NLGがロー・スクール教育の中で、どのようにしてその参加者を増やしているのか、であった。NLG側で、この調査の対象として用意してくれていたロー・スクールは、いずれもサンフランシスコにある、カリフォルニア大学バークレー校、ゴールデンゲート大学、ニュー・カレッジの三校であった。この三校は、米国の中でのランク付けによると、上中下ということになるらしい。このことは、ロー・スクール教育の多面性を知る上で大変良かった。また、私たちの聴取調査に応じて下さった方々が、教員側ばかりでなく、学生活動家、NLG支部の組織担当者と、その立場が多様であったことも良かった。その授業を後の席に座って見せていただいたことも、本の活字の上では知りえないことを見聞して大いに参考になった。そんなことで、今度の調査は私にとって大変稔りがあり、法科大学院についてのイメージも固まってきたし、評価の目安もついてきた。
 そればかりではなく、米国における法の成り立ちとその内容、それを学生に身につけさせるための法学教育の目標と方法も大体飲みこめた。一口に言えば、米国の法律は、人民のコミュニティの取極めとその積上げである。これは、教育の面では、民事法についてはまず契約と不法行為に始まり、手続法をそれに並行させる。憲法の授業は二年次あるいは一年次の後半におかれている、日本の大学での、民法総則から始められ、まず頭から憲法を憶えさせようというのとは大分違う。日本では、法律は「御上」がつくり、人民をしてこれに従わさせる。日本の法学教育は、このような考え方に基く。日本の民主的改革のためには、この相異の問題は、突き詰めておかなければならない。しかし、この問題について今でも書き出すと限りがないし、また、十分に論ずる用意もないので他日を期したい。
 法科大学院の出発を目の前にして「後継者」問題についてとりあえずこれだけは、という点を箇条書き風に書いておきたい。
(1)米国のロー・スクールは、大学で歴史、経済、文学等々をリベラル・アーツ(教養)として修了してきた者が、はじめて法学を学び、実務家としての訓練を受ける所であり、学習密度は、ことに初年度がかなり濃い。未来の民主的法律家はロー・スクールで生れるというよりも高校、大学あるいは社会生活の中から出てくるようである。
(2)日本の法科大学院生の大部分は、大学で法学の基礎部分を学んできているので、知的所有権、渉外法といった企業が今求めている法令の授業が主流になろう。民間実務家がそこでの教育に参加しても、現在の研修所における民事・刑事弁護教官の役割と大して変わりがないのではないか。一方基礎部分は、現在の大学教官の横すべりが大勢でこれも変りばえはないのではないか。したがって、民主的法律家の養成といった点では、法科大学院に私たちの仲間を教員として送り込むことによる効果はあまり期待できないことになるのではないか。
(3)現在、各大学の掲げている構想の中にロー・クリニックの設置がうたわれている。米国の実状をみると、その収容人員は極く少数であり、しかも、ここを志願する学生は、すでにこの部門に関心と志を持った者のようである。多くの民主的法律家を養成するという点では、日本でおこなわれている大学生の法律セツルメント活動等に力を入れ、場合によっては私たちがこのような場所を設置していくことのほうが有効ではないだろか。
(4)米国のロー・スクール教育を受けるには金がかかることを、今さらのように実感させられた。このための融資をうけることができても、その返済の重みから志があっても民主的活動への参加の妨げになっていることがわかった。奨学金制度の充実が必要なことは一致した意見であるが、日本の実情からして果たして実現するものであろうか。学資問題は十分考えておかなければならない。
(5)サンフランシスコで労働組合の書記をしていてロー・スクールで学んでいる人の話を聞いた。既に民主的活動に参加している人々が、学費の少ない学校を選んで、弁護士への道を進んでいることを知った。日本でも法律家の仕事は多様化するであろうし、また法科大学院にいかないで、弁護士になれるバイパスができるらしい。私たちの手でこのような民主的法律家志望者のための低費の予備校のようなものを創ることも一案であろう。
(6)あれこれと考えてはみたが、私の結論は極めて平凡なものであった。民主的法律家を増やすには、高校生、大学生の中で、勿論法科大学院もそれに入るが、社会的関心が高まり、色いろな形での民主的活動に参加する人の数が大きくなっていくことである。私たちが、日頃からその場に関心を寄せ、その援助をし、また学生諸君に私たちの仕事を見てもらい、それに関わり合ってもらうことである。まず、民主的法律家の仕事は、決して楽とはいえないが、人間の一生の仕事としてやり甲斐があると知ってもらうことであろう。そのような活動が「後継者」問題の解決方法として基本的であり、最も大切なことであるように思われたのである。





稲村さんを偲ぶ


京都支部   村 山  晃

 稲村五男さんが、逝ってしまった。六〇歳だった。稲村さんは、修習二〇期、一九六八年四月に京都第一法律事務所で弁護士を始めた。高度経済成長のなか七〇年安保直前のこの時期、労働者や市民の闘いに激しい弾圧が繰り広げられ、多くの刑事弾圧事件や大規模な争議がいくつも闘われた。新人弁護士といっても容赦はなかった。いきなり大きな事件が押し付けられた。
 懸命に闘う中、弁護士にも弾圧が加えられた。六九年五月、京都駅のホームで「国労弁護団」のタスキをかけ、国労のストライキを支援していた稲村さんが、多くの国労組合員の眼前、公安官に拉致され、連れ去られた。逮捕されたのだ。罪名は「無札入場」。それ以前も以降も、私たちの国労支援は、常にキップなしの駅入場であるが、問題になったことはない。現行犯逮捕の許されない超軽微事案を口実にした明白な弾圧であった。
 それからずっと稲村さんは、国労事件と言えば、真っ先にかけつけた。組合員への弾圧は、いつも我がことと重なっていた。事務所旅行での出し物は、上手いとは言い難い「国鉄労働組合歌」が続いた。「またか」といいながら、みんなで一緒に大声で歌った。
 逮捕されたのと同じ時期、民間組合員の一時金不払いの仮処分事件で、裁判官交渉に行ったところ、裁判官を部屋から退去させなかったとして、地裁所長が、弁護士会に「善処方」を申し入れ、当時の会長が、一緒に行った弁護士ともども稲村さんを綱紀委員会に付議してしまう事件がおこった。「会立件」であった。当時は、弁護士会もが、闘う弁護士に牙を剥いてきたのだ。しかし、当然のことながら稲村さんらには何の動揺もなかった。
 事件が重なったことについて、「弁護士としては、もっと気をつけねば」という意見もあった。しかしより大切なことは、守り抜く必要のあるものを、体を張って守っていこうとする気概であって、先ず闘うことである。当時は、私たちにそんな気持ちを持たせてくれた。そして、それが次の扉を開いてきた。
 稲村さんは人一倍健康に気を配ってきた。にもかかわらず、私たちの事務所が生まれて以降、出身者の最初の逝去となった。稲村さんは二十数年前、幼い娘さんを逝かせてしまったことがあった。運命は稲村さんを狙い撃ちにしているようで、残酷すぎるというしかない。しかし、亡くなる前は、息子さんが三ヶ月間仕事を休職し、看病にあたった。私たちの見舞いを頑として受け入れず、家族らに看取られ穏やかに旅立ったのも、稲村さんらしい。
 稲村さんの死は、あまりにも早すぎるとはいえ、三〇年をこえる弁護士人生をまっとうした。そして私たち事務所の、また自由法曹団京都支部の一つの時代が終わったという思いを強くさせる。かつて私たちが、若手弁護士として一丸となって諸事件に取り組んできた時と、事件の様相も、裁判所や弁護士会の状況も、そして事務所を構成するメンバーも、大きく変わった。しかしその思いには、当時と変わらないものが脈々と受け継がれていることは間違いない。
 稲村さんの思いと闘いは、これからの時代に不可欠なものであり、それを語り継ぐことは、私たちに課せられた任務だと思う。





稲村五男先生に教えられた日々


京都支部  荒 川 英 幸

 昨年は、自分が師と仰いできた二人の弁護士とお別れする現実を引き受けざるを得なかった。七月二七日に小島成一先生が、そして一一月七日に稲村五男先生が相次いで逝去された。その喪失感は、限りなく重い。
 稲村先生と自分とは相当タイプが異なっていた。稲村先生が簡明率直で、余韻のない俳句を好み、書面もストレートだったのに対し、自分は慎重な言い回しが多く、叙情的な古今集の和歌を好み、書面も全面展開型が多かった。しかし、なぜか気に入ってもらえ、国労、出版労連、警察に対する国家賠償、医療事故など苦労はあるがやりがいの多い事件を一緒に頑張ってきた。その理由を善解してみると、(1)自分なりに誠実でありたいとする姿勢を少しは評価してもらえたこと、(2)闘う労働者への共感と権力・資本に対するシンプルな怒りとを共有できたことが挙げられる。
 稲村先生は、自他に対して誠実であり続けた人であった。その場の雰囲気や集団に迎合することなく、自立した個人として自らの見解を簡潔率直に語り、そのように他者に語る前提として、自分自身を規律する内省的態度を貫いた。自分は、稲村先生の厳しさを依頼者や活動に対する姿に見た。自らの病を客観的に直視していた稲村先生は、昨年三月、遺書を作成するとともに自分を呼び業務の引継ぎを行なった。しかし、それ以後も重大な局面では、癌の痛みに身を横たえながら打ち合わせを行い、一度だけは車椅子に乗って裁判所に来た。稲村先生の病状を察していた原告の女性が、奥さんの押す車椅子で裁判所から去っていく稲村先生を見送りながら、はらはらと涙をこぼした姿を自分は生涯忘れることが出来ないだろう。自分にまかせることでは安心できなかったとすれば痛恨の極みであるが、最後まで職責を果たそうとするのが稲村先生の意思だったと思う。また、有事法制反対の集会に参加できないのが残念だと稲村先生が嘆くのを聞くと、自分の怠慢を恥じないわけにはいかなかった。
 弁護士活動の全史が国労とともにあったといっても過言でない稲村先生は、労働事件をライフワークとして、常に闘いの現場に身を置いてきた。厳冬の釧路の国鉄清算事業団で、「労働者に対し、このような扱いをするとは何事か」と激しく抗議していた姿が目に浮かぶ。警察の弾圧や人権侵害に対する追及も厳しく、ある国家賠償事件の警察側書面では、稲村・荒川両弁護士は、警察署内において、こもごも「釈放しないとあんたたちも国家賠償にかけて問題にしますよ」などと申し向けて威圧した旨が記載されていたが、警察からそのように「評価」されるほど、稲村先生とともに闘った日々のあったことを誇りとしたい。
 語り尽くせない思いはあるが、自分で全てを整理して潔く去っていった稲村先生の迷惑そうな顔が浮かぶので、この程度にとどめる。





一・二九司法アクセス検討会に
二五〇名のデモ行進
〜弁護士報酬敗訴者負担


担当事務局次長  坂  勇 一 郎

 一月二九日、司法アクセス検討会が開催され、弁護士報酬の敗訴者負担制度問題について、第二回目の本格的議論が行われた。
 この日の議論の行方は極めて重要と考えられたことから、弁護士報酬の敗訴者負担に反対する全国連絡会の呼びかけにより、「一・二九弁護士報酬の敗訴者負担に反対するデモ行進」「市民から裁判の権利を奪うな・院内集会」が企画された。自由法曹団も全国連絡会の構成団体として、都内及び近県の団事務所に参加と呼びかけを働きかける等、積極的に取り組んだ。
 一月二九日のデモ行進には、都内・近県及び地方からも多数の参加を得て、約二五〇名が四谷駅前から司法制度改革推進本部前まで、敗訴者負担反対を訴えて行進した。他方、これに呼応させる形で、推進本部前ではデモ隊を待つ形で約三〇名がリーフレット・ビラを配布する宣伝活動を行った。午後一時過ぎころ、ビラ撒き隊の待つ推進本部前をデモ隊が通過。丁度、司法アクセス検討会委員が推進本部にやってくる時間帯にあたり、推進本部や検討会委員に反対の姿勢をおおいに示すことができた。この日の推進本部界隈の空気を確実に変えることができたものと思う。

 デモ終了後、衆議院第二議員会館に場を移し、「市民から裁判の権利を奪うな・院内集会」を開催、約一五〇名が参加した。集会には、木島日出夫(共産)・川田悦子(無所属)・中川とも子(社民)・佐々木秀典(民主)・井上哲士(共産)・江田五月(民主)の各議員が参加された。「HIV訴訟では、裁判の過程の中で私たちは人間の尊厳を取り戻してきた」(川田議員)、「政治が役割を果たしていない中で、裁判は市民に残された最後の選択肢」(中川議員)という発言は、改めて私たちに裁判を受ける権利の大切さと、その裁判を起こせなくなる敗訴者負担制度の犯罪性を確認させるものとなった。また、民主党からは、この問題は党をあげて反対していくという決意が表明された。

 私たちが院内集会を開催しているころ、推進本部では司法アクセス検討会が開催されていた。この日の検討会では、冒頭、この日の会議から議事録を顕名とすることが確認された。議事録顕名は、団・全国連絡会・弁護士会等多数の団体が求めてきたことであり、抵抗する司法アクセス検討会において、ようやく顕名を決めさせたことは、重要な成果である。
 この日のアクセス検討会における敗訴者負担問題の議論は、制度導入は審議会意見の規定路線であるとして(1)制度を導入しない範囲と(2)制度導入の場合に敗訴者に負担させる金額の議論に入ろうとする推進派と、司法アクセスを阻害するという問題点を訴えたい反対派が厳しくせめぎ合うこととなった。日弁連も、(1)人権大会決議、(2)パンフレット(Q&A)、(3)一一・二二日弁連集会での当事者の発言集、(4)敗訴者負担の社会的影響に関する太田勝造他の論文を正式配付資料として提出した。全体の印象としては、論旨では正論をいっているものの、検討会内ではいかんせん多勢に無勢、外の運動を背景に踏みとどまっているといったところ。
 次回三月一〇日の検討会では日弁連がプレゼンテーションを行う予定であり、ここで攻勢に出る構えが必要である。

 今回のデモ行進・院内集会の成功にみられるとおり、運動は確実に広がりつつある。しばらく前は民主団体の中でも「敗訴者負担」問題は必ずしも十分知られていなかったが、昨年一一月二二日の日弁連集会、今回の行動の呼びかけ等を通じて、今日までにかなり浸透してきている。三月一〇日の次回検討会までに、もうひとまわり大きい広がりを作っていきたい。
 次回、次のとおり集会が提起されている。是非、多数の呼びかけをお願いしたい。

             記
  日  時 三月八日(土)午後一時三〇分より
  場  所 弁護士会館二階クレオ
  集  会 「市民から裁判の権利を奪わないで
         〜敗訴者負担に反対する市民集会二〇〇三」
  主  催 弁護士報酬の敗訴者負担に反対する全国連絡会





自由法曹団ホームページ
「事務所紹介」コーナーの開設のご案内と
登録の呼びかけ


事務局長  中 野 直 樹

一 事務所紹介コーナー
 自由法曹団のホームページへのアクセス件数は二〇〇二年度一年間で二万五〇〇〇件(昨年の倍)となり、多くの方々に関心を寄せて頂いています。
 各単位会でも、事務所採用情報をホームページにアップすることが進行しています。
 現在の団のホームページでは、事務所情報と支部情報の部屋がまだ「工事中」のままです。
 かねてから、特に地方で活動する団員から、団のホームページに事務所紹介欄を設けてほしいとの要望が出されていました。
 執行部とホームページ広報委員会で検討し、二〇〇二年一一月常幹で、事務所紹介情報を掲載することにし、一月常幹にて、具体的な提起をしました。この趣旨は、全国の修習生や合格者さらに将来法律家をめざそうと考えている学生に、全国の団員の事務所の所在と活動内容を紹介し、事務所訪問、プレ研修、裁判傍聴、事件当事者との交流、現場訪問など弁護士活動・人権活動に触れる機会を提供する場とすることです。

二 登録申請してください
 登録情報は、弁護士広告の禁止事項や採用活動の時期的規制に触れないものに限ります。ホームページをご覧いただくとわかると思いますが、次の事項です。
 「事務所名、連絡先(住所、電話、FAX、担当者Eメール・事務所ホームページアドレス)、構成(弁護士数、期、事務局員数)、採用予定人数、採用条件、開業時間、特色、専門分野、主な事件、閲覧者へのメッセージ」で、例えば、「採用条件」などで給与金額などの具体的な提示は禁じられていますが、給与システム等の提示は構いません。また、これらの全ての事項が記載されていなくても結構です。
 雛形として、すでに団のホームページの「事務所紹介」の部屋に、岡山合同法律事務所の紹介情報をアップ済です。
 それぞれの事務所で、これを参考にした紹介文を作成していただき、団に登録手続をして、データーを送信していただけばアップいたします。送信先は、団名簿の表紙をご覧いただくか、又は団本部にお問い合わせください。

三 登録費用
 新規登録の際、三〇〇〇円を実費としてお支払い頂くことにご協力ください。登録後は募集人数など若干の改訂ついては無料で、大幅(全面)改訂についてはご相談に応じつつ、基本的には実費のみをいただきたいと思います。
 その他、お問い合わせは団本部事務局までお願いいたします。




特別寄稿
自由法曹団物語 世紀をこえて(上・下)


公害・地球環境問題懇談会
幹事長  小 池 信 太 郎

 一九二一年に創立された自由法曹団は、二〇〇一年に創立八〇周年を迎えた。本書は、その八〇周年記念事業の一環として発刊されたものである。また、本書は一九七六年に刊行された『自由法曹団 物語 戦前編・戦後編』の「続編」として編集されたものである。したがって、本書で取り上げられた題材は、一九七五年以降の自由法曹団と団員弁護士がかかわった活動・運動が中心となっている。そのことからか、この取り上げた期間の時代背景とそのもとでの活動について、表紙の帯につぎのように要約し、本書の内容を紹介している。
 「リストラ・差別・過労死・『生きているうちに救済を』人間の生存と尊厳がおかされている現代、つねに民衆のたたかいに身を寄せてきた弁護士群像が織りなす、苦難と感動のドキュメント。・・・・・」と。
 本書は、「人間の尊厳をおかすものに対する怒りと、働く権利・生きる権利をまもる」ためにたたかい抜いてきた弁護士としての“生きざま”の記録でもある。自由法曹団と団員の活動ぶりが心を打ち、物語風にまとめられた平易な記述が、上下合わせて九〇〇ページに近い書であるにもかかわらず、一気に読ませる内容のものである。
 現在、過重労働を原因とする自殺者が年間三万人をこえ、日本の「カローシ」が国際用語として通用するという異常な状況が社会問題化している。まさに、人間の尊厳を奪う象徴的問題だ。「企業社会」の労働者支配にこそ原因があり、これに抗してたたかう、電力各社、日立製作所、石川島播磨、JR人活センター、芝信用金庫・・・など、職場労働者と一体となった弁護団の努力によって勝利を手にした感動が伝わってくる。
 私自身も三〇年余、東京・霞が関地域を基盤に労働組合役員の一員として、これら運動に一定のかかわりをもってきた関係もあり、本書に登場する弁護士さんたちの献身的な姿が、今でも鮮明に浮かんでくる。
 本書の中心部分となっているのが、公害・薬害問題に取り組んだ活動と言える。
 これは、自由法曹団八〇年の歴史のなかでも特記すべき輝かしい足どりの反映でもある。
 一九六〇年代より急テンポですすめられた「高度成長」。国民のいのちと健康よりも企業の営業権を優先させてきた政治・経済構造のもとで、日本はさながら「公害列島」と化してしまった。
 「公害の原点」と言われ、世界的にも注目された水俣病。全国各地での大気汚染による深刻な健康被害の拡大。こうした中で、さまざまな公害裁判が、文字通り命がけのたたかいとして各地でとりくまれ、これへの自由法曹団と団員弁護士の果たした積極的役割は計り知れないものであった。
 本書では、「生きているうちに救済を」の合い言葉でたたかわれた水俣病、「手渡したいのは青い空」と、次世代への願いと責任をこめたたかわれた大気汚染裁判闘争、「ノーモア薬害」を掲げ取り組まれた、薬害スモン、薬害エイズ、薬害ヤコブのたたかいなど、それぞれについて、詳しい経過とこれらを勝利に導いた貴重な経験とその成果が平易に紹介されている。
 これら裁判闘争をすすめるにあたって自由法曹団は、「現地主義、現場主義を基本に被害者たちと繰り返し繰り返し話し込み、要求を組織して被害者の救済と公害根絶をめざし裁判にうって出た」と、貫ぬいてきたその基本的立場を述べている。
 この「現地主義、現場主義」は、被害者との関係にとどまらず、労働者をはじめとする広範な人々へも広げ、水俣現地調査など、私自身もこれへの参加が運動の原点となっている。
 こうした自由法曹団が築きあげてきた「大衆的裁判闘争」の理論と実践は、現在の情勢のもとで、一段とその意義を増している。
 水俣病、大気汚染など公害裁判闘争のほとんどが、勝利のあと、「住みよい、住みつづけられる『まちづくり運動』」として運動を継続・発展させている。
 公害被害者とともにこうした状況をつくりあげてきた自由法曹団として、裁判勝利を軸にしつつ、制度・政策を変えるたたかいが各分野で取り組まれている。
 「二一世紀は環境の世紀」―これは、国内外問わず共通のねがいとなっている。こうした中で、本書に収録された公害・薬害・環境問題についての記述は、私たち全体にとっての輝かしい到達点であり、「なくせ公害、守ろう地球環境」について関心をもち、また運動にかかわっている広範な人々に、ぜひ読んでいただきたい本である。

(公害・地球懇ニュースより転載)