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島田 修一 北朝鮮問題の平和的解決を求める八・二三全国会議について
笹本  潤 国法協ソウル訪問記〜驚きと刺激の五日間〜
松岡  肇 国による証拠隠滅と証拠隠し〜中国人強制連行・強制労働事件〜
柳沢 尚武 ハメットとマッカーシズム
田中  隆 三光作戦とイラク治安戦
守川 幸男 最高裁が「係属二年超の刑事事件」で全国一斉調査 ―裁判迅速法の先取り
渡辺登代美 生活安全条例の学習会を開催
齊藤 園生 「8Mile」を観る
島田 修一 絵画「ラ・リベルテ」の紹介



北朝鮮問題の平和的解決を求める

八・二三全国会議について

幹事長  島 田 修 一

 標記の会議を開催しますので、全国からの参加をお願いします。
 平和を求める共同の力は地球規模の広がりを展開してきています。EUにみる「平和の家」、アセアンにおける信頼醸成の枠組み整備と紛争の平和的解決の確認、世界各地域の非核地帯条約、そしてイラク侵略に対する巨大な反戦運動。しかし、北東アジアではこの歴史の進歩に逆行する事態が続いてきました。朝鮮戦争の停戦から五〇年が経過しても平和協定が結ばれないうえ、武器輸入上位一〇ケ国に四国(台湾、中国、日本、韓国)が占め、ロシアと中国が核兵器を保有し、アメリカが核戦力を展開して日本と韓国を核の傘の下に置き、北朝鮮も核兵器の開発を推し進めています。通常兵器と核兵器がこれほど集中している地域は他にありません。北東アジアで緊張関係が続き、対話と信頼醸成の枠組みが作られていない理由もここにあります。
 しかし、九〇年代に入って朝鮮半島で新しい動きが始まり、韓国の民主化運動は自分たちの大統領を輩出する程の前進を示しています。敵対関係から共存への方向を確認した二〇〇〇年の南北首脳会談に続き、昨年九月には画期的な日朝平壌宣言が合意されました。朝鮮侵略と植民地支配を精算して日本の過去を克服する「宣言」は、アジア諸国との信頼関係を確立する大きな一歩を踏み出したものです。北朝鮮も拉致事件を謝罪し、核についての国際的合意の遵守とミサイル発射凍結を約束しました。日朝両国は過去もしくは現在の懸案事項を全面的に解決し、その上で国交正常化実現をめざすことを合意したのでした。また、「宣言」は両国の関係正常化だけでなく、北東アジアの安全保障のありかたにまで踏み込み、この地域の緊張状態を打開し、多国間協力による平和的な安定の構築へ向けて踏み出すことも確認しました。北東アジアにおける不戦・軍縮・非核化へ向けて大きく踏み出したのです。

 ところが、ブッシュ政権発足と同時に朝鮮半島をめぐる情勢がにわかに緊張してきました。「悪の枢軸」発言や「北朝鮮への核兵器使用計画」が明らかとなり、これに対抗して北朝鮮も「ウラン濃縮プログラム」「核兵器保有の権利」「核保有」と発言を徐々にエスカレートさせるなど、米朝両国自らその緊張状態を作り出しています。ブッシュ政権といえども韓中ロの動向を考慮せざるを得ず、北朝鮮も金正日体制が保障されれば核開発は放棄すると言明するなど、アメリカの武力攻撃に対する強い不安が背景としてあるようですが、それでも双方の対峙は予断を許さないものがあります。これに加え、有事三法とイラク派兵法そして九条改悪を強めるなど、新ガイドライン体制にもとづく軍事大国化への急速な動きが朝鮮半島の危機を煽る状況を作り出し、日本に対する警戒心を強めています。
 したがって、アメリカの先制攻撃を許さず、北朝鮮の核開発を断念させることは、朝鮮半島を中心とする北東アジアの平和のためにも、日本の軍事大国化阻止のためにも、今日の重要な課題です。朝鮮半島の統一と平和的解決を求める韓国の民主化闘争は力強く展開されていますが、まさに「平和を愛する諸国民」との共同の力を結集すべき時代に直面していると思います。北朝鮮をどうみるか、その「脅威論」とは何か、南北間・朝米間・韓米間の関係をどうみるか、日朝宣言の歴史的今日的意義は何か、平和憲法の責任と役割は何か等々、この地域にゆるぎない信頼関係を築いていくための諸問題を論議していきたいと思います。

 もう一つは拉致問題の解決です。「特殊機関で日本語の学習ができるようにするため」「身分を利用して南に入るため」。北朝鮮は一貫して否定してきた拉致を認めて謝罪するとともに、韓国への南進政策のためという拉致の目的も明らかにしました。五人の拉致被害者の一時帰国が実現し、問題解決へ一歩踏み出すものとして期待されましたが、日本政府がこれを永久帰国としたうえ北朝鮮に残された家族全員の帰国を求めたことから、拉致問題の交渉が暗礁に乗り上げていることはご承知のとおりです。「何の進展もないので、辛くて自分の気持を抑えられないほど、たまらない」(蓮池祐木子さん)との残酷な状況を解決する糸口も見出せていません。
 引き裂かれた家族の再会を実現し、真相究明と責任追及を含め拉致事件を全面解決するための論理を形成することは、核脅威と合わせて日本政府と日本社会の中に北朝鮮バッシングが強まっている状況に適切に対応していくためにも喫緊の課題となっています。日朝両国が真の和解と信頼回復をはかるためには、天皇制軍隊による強制連行、従軍慰安婦等の歴史の清算を先送りすることが許されないことも当然です。

 当日は、君島東彦教授から『北東アジアの平和をつくるー私たちの課題と方法』の講演を受けた後、以上述べました二つのテーマについての討議を深めたいと思います。七月下旬の国法協主催「韓国平和の旅」には団員が多数参加しました。平和委員会や沖縄の韓国民衆との交流が活発となっています。九月訪韓予定の団支部もあり、九月二六日には北朝鮮を訪問したNLGが東京に立ち寄り団と懇談する予定です。一〇月四日は法律家五団体主催で「北東アジア平和構想シンポ」を行ないます。各地の議論や経験を持ち寄り、グローバルな平和運動の進め方について議論しましょう。

と き  八月二三日(土)午後一時〜五時
ところ  自由法曹団会議室


国法協ソウル訪問記

〜驚きと刺激の五日間〜

東京支部  笹 本  潤

 七月二二日から二六日にかけて、日本国際法律家協会で韓国を訪問し、民弁(民主主義をめざす弁護士)や参与連帯(市民団体)などと交流してきた。メンバーは弁護士九名を含む一三名。今の時期は北朝鮮核危機や有事法制成立などの情勢の中での訪問だったので、交流により得られたものは大きかったと思う。一言で言うならば、韓国側の北朝鮮問題と日本に対する見方は私たちとは少しズレがあり、そのズレが現在の私たちの活動をより客観的に見ることにつながったということなのではなかったかと思う。

2 北朝鮮の核問題
 参与連帯では、まず「韓国の方が日本人よりも北朝鮮に対する危機感がうすい」と言われてびっくりした。「北朝鮮の核使用の不安よりは、東北アジアに軍備拡張、核拡散する方の不安の方が大きいし、北朝鮮は核開発を外交カードとして持ちだしており、一方アメリカは北朝鮮の核の脅威を大きく誇張する宣伝をしている」というのが理由のようだ。
 私は、韓国は北朝鮮と隣合わせで、ソウルなどは軍事境界線から近いから、もっとピリピリしているのではないか、と思っていたのだが、意外に楽観的でびっくりさせられた。あとで他の人に聞くと朝鮮戦争が終結して五〇年も経っているという安心感、ノムヒョン大統領に対する信頼、などもその要因なのではないかとも聞いた。
民弁とのシンポでも、民弁側は「かつての韓国の軍事政権は、北朝鮮の侵略の脅威を語ってきたが、ノムヒョン氏はアメリカが戦争しないようにと言ってきた。国民がそれを信頼しあの選挙の結果になった。」などと、南北朝鮮の問題よりもアメリカの挑発について語っていた。
 ただ、私としては、アメリカがイラク戦争を行ったという状況を踏まえて、それでもアメリカと北朝鮮の間での戦争の危険性がどのくらいあるのか、ブッシュドクトリンをどう思うか、というリアルな質問をもっとしてみたかった。その議論は時間切れだったので次回に持ち越そうと思う。

3 韓国民主化のこと
 韓国は民弁出身の人権派弁護士が大統領になり、政権も取ったので、日本の政治状況とはかなり感触が違った。イラクへの派兵については、ノムヒョン大統領は賛成したが、与党や民弁などはノムヒョンに反対している。この点ではノムヒョン大統領は野党のハンナラ党(保守派)と同じ結論になっているのである。仮に日本の革新勢力が政権を取ったとしたら考えられない事態ではないだろうか。
 参与連帯の人はそれは「試行錯誤による民主化の過程」と言っていたが、それは革新勢力が政権を取った余裕とも感じられたし、おおらかさも感じられた。政権交代が行われたから未来に対する可能性を信じているとさえ思えた。うらやましい限りである。

4 日本の情勢について
 今回の韓国訪問の中で一番驚かされたのが、参与連帯・民弁の人たちの日本に対する見方である。民弁のシンポでは、私と鈴木敦士弁護士で、日本における有事立法が九割の賛成で成立したこと、日朝平壌宣言の進行状況、北朝鮮の拉致問題やマスコミ報道などの報告を行った。
 問題はその後だった。廊下の立ち話で、韓国の学者の方から、「あなた方は北朝鮮が危険だというけれど、あなたの国の方がもっと危険じゃないか。」とずばっと言われた。私は返す言葉がなかった。
 「北朝鮮で戦争が起こる危険があるから一緒に連帯しましょうよ」と言うだけでは韓国の人にとってはキレイごとかもしれない。北東アジアの軍事化を進めているのはまさしく日本であるし、アメリカと一体となって戦争の危機感さえ作っているのも日本だからである。私は日本では平和勢力が決して政権を取っているのではないという当然のことを、改めて感じさせられたし、恥ずかしくも感じた。
 そして国内での有事法制、イラクへの自衛隊派遣問題、憲法改正問題などは、日本国内でももちろん重要であるが、国際的意義をもった運動なんだなと改めて感じさせられた。
 韓国の人から言われたこのショックは韓国から帰国してしばらく経つがいまだに私の頭から離れない。
 参与連帯の人は、「韓国の軍事予算は増えている。かつては軍隊の教育ビデオは北朝鮮の脅威を教えることが中心だったが、最近は中国、日本との軍備競争の中で韓国の軍備強化の必要性が教えられている。」とも言っていた。今後ますます日本の動向が注目されることは間違いない。

5 日韓の連帯について
 そうは言っても今回の訪韓の目的は日韓の市民が連帯して、北東アジアの平和の危機にどう取り組むかというものであった。
参与連帯は、「アメリカの覇権に反対し、東北アジアで連帯を強める。四カ国のサッカー大会などきっかけを求める。米軍を平和維持のための駐屯軍に変え、シベリア鉄道・京義線の連結、環太平洋経済政策などを進めよう。
 若い人たちの活動に期待している。若い人たちは、戦後五四年経って過去に拘束されていない。一九五〇〜七〇年代の米の経済援助の呪縛からも解放されている。それに若い人たちは自信を持っている。
 韓日の市民は、今後は交流だけでなく連帯をどう進めていけばいいかを考えていく必要がある。但し、それぞれが自分の国の問題を解決していくことが基礎にある。日本のすばらしい活動を期待している。」
 などとメッセージを送ってくれた。
 また、お互いの社会問題をあまり知らないことも指摘された。韓国からすれば例えば教育基本法改悪の問題などは余りよく知らないらしい。日本側も北朝鮮への送金問題などはあまり詳しく知らない(民弁は平和のための送金だということで特別査察に反対しているようだということが今回初めてわかった)。
 私たちはどう日韓市民の連帯を作っていけばいいのか。私などはまだ暗中模索中だが、これから考えて提起していかなければ連帯は進まないだろう。

6 最後に
 訪韓中は、他にも、日本が韓国併合を進めた象徴的事件・閔妃(みんび)暗殺事件の現場に花を捧げ、朝鮮総督府跡を見、安重根記念館も訪れ、軍事境界線の手前の展望台から北朝鮮の様子も見てきた。また豊臣秀吉の朝鮮侵略にうち勝った李舜臣将軍像もソウルの中心にあり、今でも韓国歴史上の人物のベスト三に入るという。韓国はつくづく日本と関係の深い国だなあと感じさせられた。
 そして折しも帰国の日の七月二六日、イラク復興特措法が強行採決された。韓国のテレビでは強行採決の場面をかなりの時間をとって放映していた。これも韓国と北東アジアに悪影響を及ぼすのだなあ、と思うと、やっぱり日本の平和運動は大変な意味を持っているのだなあと思いつつ帰国の途についた。


福岡総会に向けて 福岡支部特集(1)

国による証拠隠滅と証拠隠し

〜中国人強制連行・強制労働事件〜

福岡支部  松 岡   肇

 中国人強制連行・強制労働事件に関する裁判は、全国で多数行われているが、福岡で最近明らかになった驚くべき事実を報告する。
福岡では二〇〇〇年五月一〇日に、原告一五名で、国と三井鉱山を被告として提訴し、昨年四月二六日に、三井鉱山に対し一人一一〇〇万円の支払を命じる画期的判決を得た。福岡地裁判決はこの事件を、国と企業が共同して企画実行した悪質な共同不法行為と断定した。現在福岡高裁で係争中である。
 中国人の強制連行事件については、外務省は、連合軍、特に中国政府からの戦犯追及に備えて、その弁明の為に、戦後間もなく一三五の連行事業場に調査報告を命じ(事業場報告書)、それを基に「外務省報告書」を作成したが、中国の内戦と冷戦構造の進展の中で、戦犯追及が無くなると見るや、「外務省報告書」と「事業場報告書」の焼却処分を命じて証拠隠滅を図り、その後一貫して国会答弁でも裁判においても、「作ったことはあるが、その後全て焼却処分したので詳細はわからない」と言い続けてきた。これらの報告書はその後NHKの調査をきっかけに一部が東京華僑総会に秘匿されていることがわかり、その写しが現在裁判の証拠となっている。
 福岡では、裁判開始に当り、この事件の第一級資料である右報告書を作成者である被告が提出するよう「文書提出命令」の申立を行い、高裁まで争った。国と企業は、全て焼却して原本を所持しないから申立は理由がないとして却下を求め、裁判所も、文書提出命令は原本所持者に対してなしうるものであるが、国は原本を所持していないとして請求を却下した。
 ところが昨年一二月に公開された外交文書の中に、「一部を残して焼却処分した。今後問題になったら全て焼却処分し、詳細はわからないと言うように」と指示した外務省中国課の極秘文書が発見された。
 原告弁護団の追及の結果、国は「外務省報告書は所持しないが、事業場報告書は所持している」と回答するに至った。戦後五八年間、国は終始国会でも法廷でも、日中国交交渉においてもこれらの報告書は存在しない、所持しないと言い続けたのであるから、これはまさに国民や原告や裁判所を騙しただけでなく、中国政府までも騙したことになる。具体的な証拠が突きつけられなければ、国は平気で嘘を言うことをこれほど明瞭に示したことはない。こんなことが許されて良いのか。国はどのような責任を負うべきなのか。弁護団は更なる求釈明を続けながら、この問題を考えている所である。団員の皆さんも一緒に考えてください。 (福岡訴訟弁護団事務局長)


ハメットとマッカーシズム

東京支部   柳 沢 尚 武

 ダシール・ハメットを知る日本人はそう多くない。一九二〇年代から三〇年代に、ハードボイルドとしての探偵小説を確立した草分けとして、アメリカでは大衆的に人気の高かった作家である。「マルタの鷹」「血の収穫」、「影なき男」など、映画化もされ、早川や創元などから文庫も出ている。あるいはアメリカの劇作家リリアン・ヘルマンとの親交で、彼女の自伝的小説のなかにも出てくるし、それをもとに作られた映画「ジュリア」(日本語版ビデオも)にも登場するので、そちらから知る人もいるかもしれない。端正なマスク、帽子をまぶかにすらっとして立つ姿は、彼自身が俳優であってもおかしくない。
 ところで今年五月、アメリカの上院は、五〇年を経たということで、マッカシー委員会の非公開聴聞会における証言を一挙に公開した。八〇〇〇頁を越す膨大な証言録が、冊子およびインターネットで開示されている。喚問されて証言席に立たされたものは、数百名におよぶ。ハメットもその一人である。ちなみに公開聴聞会の証言は、証言当時にすでに公表され随時テレビなどで放映されていた。
 通称マッカーシー委員会は、ほんらい、上院の政府機関の活動の調査に関する委員会であって、汚職などを調査する役割だったが、委員長となったマッカーシーが下院非米活動委員会をまねて政府における共産主義者の侵入を防ぐという名目でその活動範囲を拡大したのである。マッカーシズムに代表される冷戦のもとでの反共風土は、政治が意図して作り上げたものであった。
 ハメットがこの非公開の委員会に喚問されたのは、一九五三年三月二四日である。尋問にあたったのは、委員長マッカーシーのもと、ムント上院議員、そして、この委員会の法律主任として尋問の主役を担ってきたロイ・コーンであった。
 ロイ・コーンについては、菅野昭夫弁護士(団員)が邦訳したアーサー・キノイ『試練に立つ権利―ある民衆の弁護士の物語』(日本評論社)の第四章が、その人となりのエピソードも含めて記述している。同書によれば、ロイ・コーンとキノイとは、コロンビア・ロー・スクールでの同級生であったが、その後の生き方は全く正反対といってよいものであったことが知れる。当時共産党の影響の強いと見られていたUE(電機労連)などいくつかの労働組合は、「共産主義者であることを否定する宣誓供述書」の提出を拒否するなど、闘う組合として、大企業や政府の目の上の障害であった。一九五二年、このUEを巡って大企業と政府は新たな攻撃をしかけてきた。その代理人弁護士がロイ・コーンであり、他方、これに抗して闘いの側に立ったのがキノイであった。その闘いの結末は、キノイの同書をお読みいただきたいが、二人の対決は、法律家としてのその後の生き方の象徴でもあった。コーンは、翌一九五三年、マッカーシー委員会に入って狂気のごとき反共宣伝のもとでの人権抑圧に走り、キノイは民衆の様々な人権擁護の闘いをしていったのである。
 さて、ハメットであるが、当時五八才、尋問には弁護士を同伴しないで単身で尋問に応じている。質問は、ストレートに来た。
 コーン「あなたは共産党員か。」
 ハメット「その質問は私を有罪にする可能性があるので答弁は控える。」
 コーンは、同様の質問を繰り返す。「一九二二年当時、共産党員だったか。」「それぞれの小説を書いた当時、共産党員だったか。」
 ハメットは、これらにも同じ理由で答弁を拒否している。
 コーンは、観点を変えて聞く。「探偵小説以外の小説を書いているか。」
 ハメット「探偵小説以外の短編小説をたくさん書いている。」
 コーン「社会問題をあつかった小説はあるか。」
 ハメットは答える。「ないと思う。いや、これも社会問題というなら一つ思い出した。『夜の影』という題名だ。黒人と白人の関係だ。」
 コーン「それを書いたとき共産党員だったか。」
 ハメット「同じ理由で答えは控える。」
 コーン「それではその小説は共産党の見解を反映しているか」
 ハメット「それは難しい。『反映』という用語でいうなら違うと思う。あれは人種差別主義に反対するものだった。」
 そこでムント上院議員が口を挟む。「反映しているかどうかはともかく、人種問題についての共産党の見解と似ていると言うのか。」
 ハメット「いや、そうは思わない。今の質問には次のように答えることができるだろう。仮にあなたの表現することが、まったく『反映』している、そう、たとえば他の諸政党以上に『反映』していると言っているのなら、答えはノーだと言わざるをえないだろう。意識的に単にも反映していないというのが真実だと思う。」かなり回りくどい表現である。きわどい質問に、作家としての文学的表現が尋問者を困惑させる。別の資料によると、ハメットは、マッカーシーが「政府は共産主義者と思われているものによって書かれた書物を図書館のために買う資金を出すべきか」と質問したのに対し、ハメットは「仮に私が共産主義と闘っているとしたら、人々にいかなる本も与えてそうするとは思わない」と答えている。この答弁は何を言っているのか、よく理解できない。実際、「これがどのような意味なのか、誰も知らないだろう」とある評論者はコメントし、一般にもこの答弁がマッカーシーを混乱させたと理解されている。
 尋問は、その後、彼の著作物からの印税収入等に移る。コーン「著作からの印税などとして受け取った金を共産党にカンパしたことがあるか。」ハメット「修正五条によって答えない。」その後、コーンは、ハメットの法廷侮辱罪の経歴について概略を確認し、質問を終えたが、ムント上院議員が追加の質問をしている。「小説が映画化されて著作権料などを受領したか」。いくつかの探偵小説は映画化され、彼の人気をうらづけていた。ハメットは否定する。
 アメリカ憲法は、修正五条で自己負罪特権を規定しており、ハメットの答弁拒否の法的根拠は、これによっているのである。そうでなければ、証言拒否は、コンテンプト(法廷侮辱罪等)が適用されて投獄される。「共産党員か」という質問は、実にきわどい、ある意味では悪質な質問である。修正五条によって答弁を拒否できても、共産党員でなければ「否」と答えるはずと人々は思う。だから修正五条を援用して答弁を拒否するのは党員にちがいないと。だから「五条党員」という言葉すら生まれる。公開の聴聞は、それも狙いであった。
 ハメットが共産党員であったかどうかは、定かでない。共産党だったというものもいれば、そうでないという者もいる。しかし、彼が書いてきた小説や評論などは、社会主義などに関するものは全くないばかりか、社会問題を扱かったものもない。あくまで大衆小説作家であった。むしろ、二度の大戦に参戦した功績でアーリントン墓地に埋葬されている。だが、彼が政治による人権抑圧に関心をもっていたことは確かである。それもかなり強いものであった。
 第二次大戦の終了と共に共産主義の脅威が叫ばれ、悪名高いスミス法やタフトハートレー法などが制定された。スミス法は合衆国を破壊する団体や個人を処罰するものとして、共産党員やそれに協力するとみなされたものなどが、その直接の対象となった(デニス事件など)。こうした状況のなかで、ハメットは公民権会議(CRC)という団体の役員に推されてなる。その役割は、政治的理由で逮捕された者への援助、とりわけ保釈金の提供などを行うものであった。日本で言えば救援会のようなものであろうか。ハメットはそのなかで保釈金基金の責任者の役割をになった。一九五〇年には八〇万ドルの基金であったとされているので、かなりの支援者のいた団体ということになろう。当然ながら当時の政府の指定する破壊活動団体リストに搭載された。
 彼がこの団体の役員であった一九五一年、スミス法による破壊活動の嫌疑で、四人の共産党幹部が逮捕された。CRCからの資金提供で保釈されると、四人は行方をくらましてしまった。八万ドルの保釈金は没収、ハメットは、四人を裁くニューヨークの連邦地裁に証人として喚問された。尋問は、誰がCRCの基金に献金をしているのかなどを中心に執拗に行われた。だがハメットは質問に八〇回以上も修正五条を援用して答弁を拒否したという。判事は怒り、証言拒否、基金の記録の作成の拒否などを理由に、法廷侮辱罪六月を言い渡した。保釈も認められず、直ちに服役することとなった。
 ハメットは、あくまで信条を貫いて、支援者の名前を一切明らかにしなかった。基金に協力してくれた人々への断固たる感謝と擁護の姿勢だったのだろう。あるいは権力の横暴への身を賭した抗議だったかもしれない。
 マッカーシー委員会での証言拒否は、議会侮辱罪こそ適用されなかったが、ハメットの小説・著作は、全国の図書館から排除された。
 ブッシュ共和党政権は対テロ戦争という名目を掲げ、アフガンやイラクへの侵攻という戦争体制のなかにある。国内では人権弾圧も指摘され、再びマッカーシズムの再来ではないかという危惧の声も出ている。しかし、大きなデモや運動があり、マイケル・ムーアのように昂然とブッシュを批判するものもいて、時代はおおきく異なっている。


三光作戦とイラク治安戦

東京支部  田 中  隆

1 二年ごしの三光作戦研究
 二〇〇一年六月二六日、弁護士会館の一室に一〇名ほどの学者・研究者と弁護士が集まっていた。このときの会合が、井上久士さんや石田勇治さんら学者・研究者と弁護士が共同しての三光作戦の調査研究のはじまりだった。「九・一一事件」の衝撃でガラガラの国際線ロビーから中国に飛んだのが九月二八日、参加した弁護士は六名、うち自由法曹団員は松井繁明さん、石井逸郎さんと筆者の三名である。年老いた生存者の肺腑をえぐる話を聞いて報告出版を決意して帰国したのが一〇月二日、アフガン空爆がはじまる五日前だった。
 生存者一〇名の証言報告を集約し、松井さんと二人で証言にもとづいて戦闘と被害の分析を行い、六本の研究論稿を立てることにして執筆を進めたのが〇二年。松井さんの論稿は「国際法と粛正掃蕩作戦=三光作戦」だから法律の範疇なのだが、筆者の「日本軍の華北戦略と粛正掃蕩作戦」になると純然たる軍事研究。並行して進めた有事法制阻止闘争本部の検討の対象は「現代の戦争」だったから、「いつから軍事研究家に・・」と苦笑したものだった。
 原稿を揃えて外務省外郭の日中研究センターの出版助成を得たのが〇二年暮、最終原稿の集約を続けたのが〇三年春、「中国河北省における三光作戦 虐殺の村・北?村」(大月書店刊)の出版にこぎつけたのがこの七月である。
 意見書編集や出版にたずさわることが多い昨今だが、企画から出版まで二年という出版をやったこともなければ、政府資金の助成を受けて出版したこともない(これからもまずないだろう)。長くかかった研究出版だったが、それだけのことはあったというのが実感で、ようやく生存者への責任の一端を果たし得たとも思っている。

2 粛正掃蕩作戦と「戦時ジェノサイド」
 粛正掃蕩作戦は、盧溝橋事件を契機に中国への全面侵略戦争を遂行した日本軍が、占領した華北一円で展開した抗日村などへの討伐作戦。「村と村民そのものを敵」としたこの作戦を、中国側では「焼きつくし、奪いつくし、殺しつくす」という意味で「三光作戦」あるいは「三光政策」と呼んだ。三光作戦の被害者は「華北全体の被害は将兵の被害者を除いて『二四七万人以上』」と言われている(姫田光義「『三光作戦』とはなんだったか」)。
 一九四二年五月二七日に発生した北?村事件とは、対米英開戦に伴う「北支の兵站基地化戦略」による冀中作戦のもとで、毒ガスによって地下道内の村民や民兵約一千名が殺戮された事件である。この北?村事件は、防衛庁戦史室の編纂にかかる戦史叢書「北支の治安戦(2)」では「約一、〇〇〇の敵を包囲急襲し、これを地下道内で殲滅した」成功例として掲載され、関係部隊の戦史の記載もすべて「輝ける戦果」で殺戮への自戒や反省は微塵も認められない。
 この殺戮を「日本軍の残虐性」だけに帰するのは正確ではない。ドイツ軍の占領下にあったセルビアやベラルーシでも同質の殺戮が行われており、ベトナム戦争でのソンミ村をはじめとする虐殺も忘れることはできない。共著者の石田勇治さんは「戦時ジェノサイド」という概念を提唱されており、筆者も賛同の思いが深い。
 侵略されあるいは占領された国や地域で、侵略や占領に対する反抗・抵抗が発生する。その鎮圧を目的とする治安戦は村や町そのものを敵とすることになり、ついには村そのものを焼き尽くし、殺しつくす狂気のジェノサイドまで現出させる。三光作戦とは、戦時ジェノサイドの中国大陸における巨大な「実践例」でもある。

3 イラク治安戦とイラク派兵法
 イラクが米英軍の占領下におかれて三か月、アイビザイド米中央軍司令官が「バース党などの残党とイラク全域で戦闘行為。彼らは組織立っており、古典的なゲリラ戦を展開している」と述べているのだから(七月一五日記者会見)、イラクが戦場であることは論証を要さない。「古典的なゲリラ戦」に対応して占領軍が展開しているのはまさしく治安戦・掃討作戦であり、かつての日本軍の粛正掃蕩作戦と本質は変わらない。
 驚くべきは、イラク派兵法案と政府答弁。
 法案では「戦闘行為」とは国際的な武力紛争の一環として行われる人を殺傷しまたは物を破壊する行為(第二条(3))とされ、政府答弁によると「国際的な武力紛争」とは「国もしくは国に準ずるものによる武力行使」に限られるそうである。こうなると「事変」と称して全面侵略を行い、抗日村を敵としてその覆滅のために展開された粛正掃蕩作戦=三光作戦は、「戦争」でも「戦闘」でもなかったことになる。
 では、河北省中部全域にわたって粛正掃蕩作戦を展開した冀中作戦の兵站をA国が担当し、北?村に投入された毒ガスを運んだのがA国軍の輸送隊だったとしたら、そのA国とA国軍は「非戦闘地域で支援しただけで手を汚していない軍隊」ということになるか。その「説明」は中国民衆や国際社会に通用するか。答はあまりにも自明だろう。
 そのイラク派兵法案は、「本日夜半にも参議院通過」という状況にある。かの永田町がどのような「結論」を出そうが、イラク派兵と参戦の現実化を許さないことは、重大な課題と言わねばならない。
  注・本稿で紹介した「中国河北省における三光作戦」に関心が   ある方は、手元に若干部ありますのでご連絡ください。

(二〇〇三年 七月二五日脱稿)



最高裁が「係属二年超の刑事事件」で

全国一斉調査 ―裁判迅速法の先取り

千葉支部  守 川 幸 男

 最高裁が本年一月三一日付で各高等裁判所長官と地方裁判所長に対して、「係属二年を超える刑事事件の調査について(通達)」を発した。調査結果の回答を求め、簡易裁判所に対しては、所轄の地方裁判所長からの伝達を指示している。
  調査事項は、刑事通常事件のうち、(1)平成一四年一二月三一日現在における審理期間が二年を超える未済事件の未済延べ人員の調査であり、二月二八日までの回答を求めている。また、(2)事案複雑等を事由に係属二年を超える事件の調査であり、逃亡、所在不明、疾病および心神喪失以外の事由により係属二年を超える期間を要したものについて、未終結のものについては二月二八日まで、また、平成一五年一月一日から一二月三一日までに終結した事件については終局した月の翌月末日までの回答を求めている。
  後者については、証拠開示、釈明要求、辞任、出廷拒否、自白の任意性、違法収集証拠、鑑定、忌避申立、公判期日の変更・延期、証人多数、争点整理不十分、立証の過剰など、審理長期化の原因を多岐にわたって問うている。

 審理が長期化した原因とこれに対する対応策を検討すること自体を一概に悪いとも言えないが、裁判迅速化法案の国会提出直前に行われたことの意味は小さくない。個々の調査項目が直ちに個々の裁判官の訴訟指揮に影響を及ぼすとは言えないかも知れないが、裁判迅速化法について懸念されていたように、最高裁判所による調査なり検証自体が全体として裁判官に対する圧力となり得る。特に係属中の事件も対象とされていることは問題である。また、裁判官の訴訟指揮を通じて、訴訟当事者、特に被告人、弁護人の訴訟活動に対する抑制機能を果たしていくおそれが強い。

 この最高裁資料は、私は以前から地方裁判所の資料があることはわかっていたのだが、最近、日本共産党の井上哲士議員が最高裁に問い合わせた結果、一部の裁判所だけで行われていることではなく、最高裁が全国一斉にこれを行ったことが判明したものである。
  資料は私だけでなく、団本部などにもあるので、必要な方は連絡してほしい。


生活安全条例の学習会を開催

神奈川支部  渡 辺 登 代 美

一 神奈川支部での学習会
 七月二五日、自由法曹団神奈川支部と青年法律家協会神奈川支部の共催で、「あなたは監視される社会に耐えられますか―生活安全条例・防犯カメラ等を考える」と題する学習会を行ないました。講師は、おなじみ和光大学の清水雅彦先生と、八王子の暴走族・捨て看板条例を闘った吉田榮士団員。
 参加者は約三〇名と少なかったのですが、県内各地の共産党の議員団に生活安全条例の危険性を認識して欲しいという狙いには適って、県議はもちろん、県央・西部地域からも多数の町議・市議が参加してくれました。主催者である団員、青法協会員(地方では当たり前ですが、両方ともダブっているので使い分けました)の他、救援会や日本ジャーナリスト会議(JCJ)、新婦人などからの参加もありました。
 マスコミでも報道され始め、生活安全条例もようやく世の中に知られるようになってきたと思っていたのですが、豈図らんや。「初めて聞いた」「これでやっとわかった」という感想が相次ぎ、会場閉鎖時間ぎりぎりまで予定を大幅にオーバーして質問が飛び交いました。大磯町の花火の騒音に関する条例などは、神奈川県の海岸部に特徴的な条例かもしれません。
 清水先生の「市民革命を経験していない日本人は、国家に対する緊張感がない。生活安全条例は、例えば防犯パトロール隊が犯罪被害にあったらどうするのかということなどを全く考えていない、無責任極まりない条例だ。」などという指摘に同感しました。
 八王子市高尾警察署では、二月二二日に「防犯パトロール少年隊」を発足させたそうです。防犯パトロールを通じて規範意識を植え付けようとするところに、教育基本法の改悪とつながる危険性が感じられます。
 余部の資料を欲しいといって複数部持ち帰られた方も多く、また、清水先生が持ち込んだ「住基ネットと監視社会」(日本評論社)一七冊も完売しました(未だ書店には出ていません)。
 参加者数は淋しかったけれども、有意義な学習会でした。

二 川崎の反省
 ちなみに川崎市では、七月三日に「まちづくり三条例」が成立しました。これは、「川崎市建築行為及び開発行為に関する総合調整条例」「川崎市都市計画法に基づく開発許可の基準に関する条例」「川崎市中高層建築物の建築に係る紛争の予防及び調整に関する条例の一部改正」の三つから成ります。いわゆる地下室マンションなどの開発規制条例であったためこちらの認識が甘く、「事業者は防犯対策に関する事項につき、公共施設の管理者等と事前に協議しなければならない」という趣旨の条文を入れさせてしまいました。本格的な生活安全条例が出てくるという事前情報があったため、身構えすぎて肩透かしを食らわされた感じです。反省。


●発作的連載映画評論 Vol.2●

「8Mile」を観る

東京支部  齊 藤 園 生

 エミネムという白人ラッパーを知っているだろうか。いや、ヒップホップとか、ラップとか言う言葉を聞いたことがあるだろうか。全然知らなくても、興味がなくても、この映画を観ると深く感銘を受けてしまいます。エミネムも、ラップも全然知らなかったし興味もなく、単に評判がいいからちょっと時間つぶしに観た私は、観終わって「やられた」と思いました。
 主演は今やラップの世界ではカリスマといわれる(らしい)エミネム。この作品は彼の半自伝的映画といわれ、ヒップホップにかぶれている今時の若い人には見逃せない作品だったらしく、映画館はあのぶかぶかズボンと暑苦しい毛糸の帽子をかぶったお兄さんお姉さんでいっぱいで、一人おばさんは浮いてしまったのでした。舞台は九〇年代中盤のデトロイトの貧困街。精神的に自立できず自堕落な生活をおくる母親のトレーラーハウスに転がり込み、工場のバイトで日銭を稼ぎながら、どうにかラップで世にでたいと考えている、どん底生活の白人青年が主人公。ラップは黒人の音楽だとされ、さまざまなプレッシャーを受けながら、仲間に支えられラップバトルで勝ち上がって行くというストーリーです。
 ストーリーだけだと、典型的青春ものになってしまうのが、それだけに終わっていないところが実に優れていると思います。アメリカ社会の底辺に広がる貧困層の生活が実にリアルに描かれているのです。黒人に対する根深い差別(この辺の実態は以前紹介したマイケル・ムーア著「アホでマヌケなアメリカ白人」なんかを参照ください)。もちろん貧困層には黒人が多いのだけど、黒人に限らず白人の貧困層も同じような、どん底で出口のない生活を送っている。そして彼らは、そんな生活の不満を、世間に対し、自分に対し、徹底的に悪態をつきまくることで、はき出しているのがラップというもののようです。だからラップの歌詞は過激なものが多いし、差別的。おそらくこういう背景を知らなければ、とても聞く気にはならないだろうなあ。監督はカーテイス・ハンソン。あの名作「LAコンフィデンシャル」の監督です。彼はインタビューの中で、「この階層(クラス)の人たちの生活は今まであまり描かれていなかったが、その世界を描きたかった。そしてラップがどんな感情から、どんな生活から生まれているのかを描きたかった」、という趣旨の発言をしています。こういう監督の意図が、実に見事に描かれている映画だといえましょう。映画は監督で決まるというのですが、まことにその通り。「さすが」とうなってしまう作品です。


絵画「ラ・リベルテ」の紹介

幹事長  島 田 修 一

 先月から団会議室に「ラ・リベルテ」三〇号が掲示されています。久保田昭夫団員(七期、東京支部・旬報法律事務所)から寄贈されたものです。
 作者の鳥居敏文画伯は平和とヒューマニズムの画家で、今年九五歳になられた画壇の重鎮です。この作品は同じ題名の一二〇号の習作として描かれたものですが、二つの作品はいずれもドラクロアの名作「民衆を率いる自由の女神」が、キャンバスのまま青年像の背景に置かれています。フランス語の女性名詞la libert?はこの「自由の女神」のことです。この作品が自由法曹団の会議室に掲げられたことを、鳥居画伯は作品の主旨に沿うものと大変喜んでくださったとのことです。
 団員の皆さん、ぜひ鑑賞してください。