<<目次へ 団通信1102号(8月21日)
井下 顕 | 画期的な福岡県地労委 労働者委員任命処分取消訴訟判決 | |
安部 千春 | 解雇撤回と闘う1 | |
神田 高 | 夏季雑感〜アメリカ、日本、北朝鮮 | |
海川 道郎 | 弁護士過疎地域で活動をはじめて | |
高崎 暢 | 北海道議会が「意見書」を採択―弁護士報酬敗訴者負担制度に関してー | |
山崎 徹 | 韓国・平和民主運動との交流の旅(観光編) |
福岡支部 井 下 顕
本年、七月一八日、福岡地方裁判所は、県知事による福岡県地方労働委員会労働者委員の任命処分の取消を求めていた裁判で、実質原告ら勝訴の画期的な判決を下しました。
原告は福岡県労連ならびに当該期の労働者委員の推薦を行った県労連傘下の五組合、さらには被推薦者である労働者委員候補本人(当時の県労連副議長)です。
これまで同様の裁判が全国八ヶ所でたたかわれてきましたが、いずれの地域でも、一九八九年の労働組合の再編成以降、各地の地労委の労働者委員が連合推薦の労働者委員に独占され、地労委が機能麻痺を起こしていた状況の中で、全労連傘下のローカルセンターが、その組合員数比に応じた労働者委員の任命を求めていたものです。そして、いずれの地での判決も原告組合らの原告適格なしとして訴えを却下する判決ばかりでした。
本件判決も、原告適格についてはいずれも、これを認めず却下とし、併せて申し立てていた損害賠償についても、法的利益がないとの理由で棄却しました。
しかしながら、裁判所は、一九八九年以降、福岡県地労委が連合推薦の労働者委員に独占されつづけてきたことは、県知事が県労連を排除する意図を持って行った恣意的判断であり、県知事の裁量権を逸脱するとして、処分は違法であると明確に事実認定を行ったのです。
なぜ福岡で全国で初めて、県知事の裁量権逸脱という画期的な判断を勝ち取ることができたのかについては一九八九年以降の地労委労働者委員任命をめぐる一三年間の福岡県労連と県当局との交渉経過、実績が積み重ねられていたこと、それを県労連が記録としてきちんと残していたことが決定的な要因ではないかと考えられます。
もちろん、連合と県労連の労働運動に対する見方の違い、労働組合運動の歴史、さらには、いわゆる労労問題といわれることの本質も詳論しながら、裁判所に対し「偏向任命は公権力による不当労働行為なのだ」ということを明確に示すことができたこともあります。
本件判決は、形式上は被告の全部勝訴判決なので、被告側からは控訴ができません。しかも控訴期限が次期の労働者委員の任命日(予定)というもので、いうならば、裁判所が政治的決着をつけよという意思を黙示にあらわしたかのような「面白い」判決でした。
この報告を執筆している段階(八月四日)では,まだ任命処分はなされていませんが(本来は八月一日でしたが、判決を受けて県側が任命日を延期したいと言ってきています。)、福岡で県労連推薦の労働者委員が任命されなければ、法治主義の原則は全く画餅に帰し、県民の大きなお怒りを呼び起こさずにはいないでしょう。
福岡支部 安 部 千 春
1 田中実さんが相談に来られた。相談の内容は次のとおりである。
「私はディスカウントショップオサダで働いています。オサダは残業手当を支払ってくれません。それで私が働いていた小倉西港店の店長に、朝の集会で『残業手当を支払ってください』と言うと店長は、『社長は人件費を抑えるために残業手当を払わずに従業員を目一杯働かせよ。そのためには労働基準法を無視せよ。そうしないと企業間の競争には勝てないと言っているので残業手当は支払えない』と言いました。
そこで私は、平成一一年九月二八日、北九州東労働基準監督署にオサダを労働基準法三七条違反で告訴をしました。
すると会社は、私を降格し、給与を七万一〇〇〇円下げました。労働基準監督署は、告訴は受け付けるが残業手当は時効にかかり取れなくなるので弁護士に頼んで裁判しなさいと言われました。先生よろしくお願いします。それと弁護料はいくらかかるんでしょうか」
私 「あなたは従業員全体のために、会社から攻撃を受ける覚悟をして闘った。私もあなたの闘いに協力します。弁護料はとりあえずいりません。私たちは必ず勝ちます。勝った後で弁護士会の報酬規定に基づいて相手方から取ったお金で支払ってください」
2 私は直ちに会社に対して、田中さんから一切の委任を受けた。円満に話し合いで解決したい、事務所まで来るようにとの内容証明郵便を出した。
すると、オサダは田中さんを懲戒解雇にしてしまった。
3 事務所にやってきたオサダの人事課長に私は怒った。
「何で私が交渉しようと手紙を出したら解雇するの?」
「先生の内容証明が来たから解雇したわけではありません。田中はそもそも不良社員でして働きもせず文句ばかりなので解雇しました」
「それで、今日あなた、何をしに来たのですか」
「だって先生から呼び出されていますので来ました」
「じゃあ、田中さんをどうするの?」
「先生は降格と賃下げを元に戻せという要求でしたので、もう田中は首にしましたので先生の要求には応じられません」
「あのね、私がどんな弁護士か調べましたか。私は労働者の権利を守るためにこの三〇年間闘ってきました。解雇の裁判でこれまで負けたことはありません。こんなことで解雇して認められるわけがない。あなたの会社にも顧問弁護士がいるでしょうから、よく相談してください。私は人間は淡泊だが、裁判ではしつこいよ。必ず勝つよ。労働者を不当解雇すれば裁判所は許さないよ」
4 オサダの動きは早かった。
直ちに懲戒解雇撤回通知書を発した。
「緊急人事会議の結果、復職させることに決定しました。勤務シフトの関係もありますので何日より出社するのか連絡下さい」
私「田中さん、申し訳ありません。私の脅しがききすぎました。解雇を撤回するというから戻るしかありません」
田中 「先生、オサダには労働組合もありません。私が会社に戻れば徹底的にイジメに遭います。今さら戻れません。こんな仕打ちを受けて引き下がるわけにはいきませんので、オサダをやっつけてください」
私「気持ちはわかりますが、解雇を撤回されてはどうしようもありません」
田中「そんなことはありません。私がインターネットを調べてみたら、不法行為として裁判が出来ると説明してありました」
私「あら、知りませんでした。確かに理論的には可能です。しかし、日本の裁判所の慰謝料は安い。とりあえず交渉してみましょう」
5 オサダの顧問弁護士に電話をする。
私「解雇を撤回していただいてありがとうございます。しかし、今さらオサダには戻れません。解雇したこと自体が不法行為ですから、慰謝料を支払ってください」
相手「いくらですか」
私「一年分の給与相当額五〇〇万円です」
相手「それは高すぎます。一〇〇万円であれば会社を説得しましょう」
田中さんと相談し、一〇〇万円で和解した。私はしつこく残業手当一六〇万二〇七九円と付加金一六〇万二〇七九円を支払えという別訴を起こし、こちらは三〇〇万円で和解した。
東京支部 神 田 高
(齊藤園生さんが、団通信原稿の穴埋めに苦心されているので、手助けとして)
1『世界』七月号をめくったら、寺島実郎さんの連載“脳力のレッスン”が目にとまった。今回は、「見えてきたアメリカニズムの終焉」。いつもどおり、ユニークで率直な論考で面白かった。
圧倒的な軍事力でねじ伏せた(?)イラク戦争に見られた「力の論理」万能論に対して、「世界は着実に国際法理と国際協調システムが機能する時代へと向いつつある」という。情報化時代における世界注視の中で、最後まで超大国のエゴは通用しなかった。国連安保理の機能は、実は機能しすぎるほど機能したといえる。国際協調による正当性なしの「戦後復興」も「中東和平」もないという。
翻ってわが日本である。二一世紀の国際関係の中で、いかにあるべきか。無法な武力攻撃を「支持」することしかできなかった政府と「北朝鮮の脅威に曝されている日本は、米国の軍事力に頼るしかなく、少々不条理な戦争であっても米国を支持するしかない」という論理に引きずられて政府の選択を追認する心理に陥っている国民に対し、寺島氏は「二つの常識」を教えている。一つは、独立国に外国の軍隊が長期にわたり駐留することは異常なことであること。二つは、米国は自らの世界戦略の枠内でしか日本を守らないという常識である。今、日本という国家と日本人に求められているのは、真の国益を熟慮して「自らの運命を自らが決する」決意を抱くことである。日本がアメリカニズムから脱却することが不可欠だというのである。
日本外国特派員協会の元会長のウォルフレンも『ブッシュー世界を壊した権力の真実』(PHP研究所)の中で、「日本はこの極めて需要な地域問題(北朝鮮問題)に関して、何もゲームプランを立てていない。日本が政治的独立の道を歩むための第一歩は、国連の秩序維持機能やその他の政治機能を強化するために徐々にまとまりつつある国々のグループに仲間入りすること」だと言っている。
では、誰が首に鈴をつけるか。
2『世界』七月号の「北朝鮮の核にどう対処するべきか」―小此木慶大教授と李鐘元立教大教授の対談も興味深く読んだ。プラグマティズム(実利主義)やら国家利害で動く国際関係論やらにはなじめないところがあるが、示唆に富んでいた。
アメリカの「先制攻撃戦略」によるイラク戦争が、北朝鮮に核の存在を表明せざるを得なくさせたー「攻撃への抑止として、と同時に、最終的には捨てられるカードとして。」(李)
現状については、米国内の強行派と穏健派の間で一時的休戦ができて、とりあえず穏健派の外交努力に任せるが、それが失敗した場合、第二段階として徐々に強硬な政策に移行する二段構えであり、また、戦争をする強い動機、利害がなく、犠牲が大きいところから「イラクの次は北朝鮮」という可能性は非常に低いと対談者はみている。現在は、イラクで日々米兵の犠牲者が出ており、「大量破壊兵器」問題もあるので、すぐに「北朝鮮へ」は難しいと私も思う。もっとも、これに対しては、ブッシュが国内経済問題で行きづまれば、北へのピンポイント爆撃で米国内のナショナリズムを煽る最悪のシナリオもあるとの見方もある(ロシア科学アカデミー会員『軍縮問題資料』九月号)。
新聞報道では六者協議が開始されるようだが、いずれにしても、第二次朝鮮戦争が起きれば当事者となる日本が戦争を回避するために米国に対し自主的な姿勢を貫けるかは大きなポイントである。
3『軍縮問題資料』九月号では、“隣国・北朝鮮と北東アジアの共生”の特集を組んでいたが、中で一番気になったのは、西田勝氏の「戦争への起点としての関東大震災」だった。
一九二三年の関東大震災の際、朝鮮人虐殺事件・亀戸事件・甘粕事件が起きている(広辞苑)。「朝鮮人あまた殺され その血百里の間に連なれり われ怒りて視る、何の惨虐ぞ」は、詩人萩原朔太郎の作だそうである。西田氏によれば、中国人とともに、六〇〇〇人以上の朝鮮人が、帝国軍隊と在京軍人を中核とする、地域住民による「自警団」により殺され、機関銃、銃剣、日本刀、槍、棍棒などを用い、助命を嘆願する無抵抗の人々(女性、少年を含む)にも向けられたという。これは、帝国軍隊による近隣諸民族に対する虐殺史の延長線上に位置するだけでなく、日本国内で、しかも住民を巻き込んで起きている点に特徴がある。
私は、西田氏の言うように“あれから八〇年、今に至っても、この大規模で、朔太郎をして「何の惨虐ぞ」といわせた「人道への罪」が、まさにそのようなものとして追求されていない”ことに最大の問題があると思う。北というより朝鮮問題(だけではないが)解決には相互に“融和”の精神が不可欠だと思うが、そのために歴史的事実を相互の民族、国家が責任をもって解明することが必要なはずである。不法行為には相殺がないのは当然だが、彼の国に比べ、民意によって国政がなされているはずの日本の国民の責任は重い。
北海道支部 海 川 道 郎
大阪から北海道の日高地方に移って六年余りが過ぎました。日高地方は、面積は和歌山県や福岡県と同じくらいありますが、人口は九万人弱しかいない典型的な過疎地域です。日高地方を管轄するのは札幌地方裁判所浦河支部ですが、ここは歴史的にも弁護士は誰もいなかったところ。私が初めてこの地方に法律事務所を開いたということになります。
私は、趣味で始めた乗馬が高じて、馬を自宅で飼いたいという夢を持つようになりました。その夢と、弁護士過疎地域で活動することの社会的意義を結びつけて、この移住を決断しました。しかし、北海道は全く縁もゆかりもないところ。日弁連の公設事務所ができる少し前のことでしたので、誰の紹介も援助もなく飛び込んで行くわけです。うまくやっていけるか大変心配でした。特に、民事も刑事も法廷が月に一回しか開かれないということを聞いて、事務所の経営が成り立つのかが心配でした。
しかし、来てみればこの心配は当たりませんでした。今では仕事の方が忙しくなり過ぎて、馬と暮らす生活を楽しむ時間を確保するのに苦労しています。私が来るまでは、法律相談を受けるのに片道二、三時間もかけなければならなかったのですから、この地域の人たちが法律事務所の開設を喜んでくれたのは当然かもしれません。実際にここでやってみて、地方の弁護士不足の深刻さを実感させられました。
その意味では、この地域の人たちのお役に立てているという満足感も感じていますが、それにも増して、大自然の中で馬と暮らす生活は最高です。毎朝五時に起きて馬に乗り、馬房の掃除などをしてから事務所に出勤します。満員電車に揺られることもなく、車で美しい景色を眺めながらの通勤です。仕事を終えて自宅に戻ると、そこは大自然の真っ只中。仕事のストレスもすぐに癒されるといった感じです。休日は自前の馬糞の堆肥で野菜作りを楽しんだり、冬はスキーに出かけたりといった具合で、ここでの生活を大いに堪能しています。
しかし、悩みがないわけではありません。私はあと四年もすると還暦を迎えますが、何時までも今のような生活を続けることは出来ないという悩みです。特に、弁護士が私一人しかいないところで事務所を開いていれば、何から何まで自分一人で処理しなければなりません。こまごました事件を若い人にやってもらうとか、ややこしい事件を他の人に手伝ってもらうなどということは出来ません。しかも、相談や依頼はひっきりなしにやってくるわけですから、仕事はどうしてもハードなものになります。その上に、馬と暮らす生活の方もかなりハードです。還暦を過ぎたらその両立はとても無理ではないかと思っています。やはり、複数の弁護士が必要です。特に、若い弁護士がこの地域に来ることを期待するこの頃です。
今年の五月に、私のこの経験を本にまとめました。この団通信で宇賀神団長から紹介していただきましたが、「先生、馬で裁判所に通うんですか?」というタイトルの本で、移住の経緯や司法過疎の現状、またカントリーライフの楽しさなどを書いてみました。興味のある方は是非お読みください。
ご注文は、北海道新聞社(TEL〇一一・二一〇・五七四四、FAX〇一一・二三二・一六三〇)までお願いします。
北海道支部 高 崎 暢
一、はじめに
二〇〇三年八月一日、北海道議会は、衆議院議長、参議院議長、内閣総理大臣、法務大臣あての、「弁護士報酬敗訴者負担制度導入の見直しを求める意見書」を、全会一致で採択した。「意見書」は、「(この制度)が導入されると、弁護士報酬の回収の可能性が訴訟提起を促す効果よりも、敗訴により相手側の弁護士報酬を負担する可能性による訴訟提起を抑制する効果の方が大きく働き、国民の裁判を受ける権利や司法に対する期待を損ない、国民の権利の阻害に繋がることが懸念される。」と指摘し、「よって、政府においては、国民の裁判を受ける権利を守り、適正な訴訟遂行が損なわれることがないよう、弁護士報酬の敗訴者負担制度導入の見直しについて強く要望する。」と結ばれている。
同制度導入に関し、自治体の議会が「意見書」を採択をしたのは初めてである。
二、自治体決議の取り組み
札幌弁護士会の同問題プロジェクトは、七月、自治体の議会に決議をあげてもらう運動を開始した。全道二一二自治体の議会あてに、「弁護士報酬敗訴者負担制度導入反対の決議をあげて欲しい」旨の陳情書を、簡単な資料を添付して郵送した。うち札幌市議会と北海道議会には直接各会派を訪ねてお願いをした。北海道議会の場合には議長にもお会いして要請を行った。
その結果が、前記の意見書の採択である。意見書は、全会派の議員の共同提案であった。
なお、当初、陳情ではなく請願として申入れをしたが、請願では紹介議員が必要であるが、陳情の方がその必要がなく簡便であるし(それだけ各派の根回しは不可欠。なお、議会側から見ると請願も陳情も扱いは同じである)、更に、単なる決議の陳情では決議をしたということで終わりだが、「意見書の採択」という陳情による「意見書」採択であれば、「当該普通地方公共団体の公益に関する事件につき意見書を国会又は関係行政庁に提出することができる。」(地方自治法第九九条)ことになっているので、国、関係行政庁への働きかけがある分有効な手段となり得る。実際、北海道議会は、前記四者当て意見書を送付している。
札幌市議会も、感触は悪くはなかったが、議会の日程の関係で決議には至らなかったが、九月議会では意見書の採択を実現したい。
また、その他二一一自治体の議会には、道議会の意見書を添付して、改めて意見書採択の陳情書を郵送した。ひとつでも多くの議会の議決、意見書採択を実現したい。全国的にも、議会に決議をあげてもらう取り組みを強め、意見書や決議の事実を検討会の集中させることが今求められている。弁護士報酬敗訴者負担制度導入を阻止するために、最後まで死力を尽くそう。
埼玉支部 山 崎 徹
一 韓国の「参与連帯」や「民主社会のための弁護士集団」との交流を目的とした日本国際法律家協会の企画に参加した。企画の日程には観光メニューもふんだんに盛り込まれており、はじめて韓国を訪れた私にとっては非常に有意義な旅行であった。
七月二三日。
この日はまず、ソウル北部にある景福宮を見学した。景福宮は朝鮮王朝時代(一三九二〜一九一○年)に政治の中心施設があった宮殿である。殿閣は映画「ラストエンペラー」にでてくるような朱色の雄大な門に囲まれ、王朝時代の栄華を想わせる。
日本の韓国併合(一九一○年)後は、この宮殿の正門付近に巨大な朝鮮総督府が建設されていたが、現在では総督府の建物は解体・撤去されたという。
宮内の奥に「閔妃遭難の地」という場所があった。日清戦争(一八九四年)で日本が勝利した直後、王朝は日本の進出を押さえるためにロシアに接近する動きを見せたが、日本の伊藤内閣はその動きの中心人物を閔妃であると考え、暗殺団を組織して閔妃を焼き殺した。「遭難の地」はまさにその焼殺をした場所だ。日本帝国主義は朝鮮を植民地とするために、何ら抵抗する術もない王妃を殺害したのである。私たちは、閔妃の碑に献花し黙祷した。
午後には、参与連帯の事務所を訪問した後、安重根義士記念館を見学した。一九○九年、伊藤博文はハルビン駅頭で韓国青年に銃殺されたが、その韓国青年が安重根(三二歳)である。当時、日本はすでに韓国から外交権及び内政権を奪っていた。伊藤は「今後の世界は白人と黄色人が支配することになる。そして、黄色人を支配するのが日本である。」とアジアへの侵略意図を剥き出しにしていた。
義軍参謀であった安重根は、祖国と民族を救うことを誓って、一二同士と断指血盟を結成し、伊藤博文を「東洋平和を破壊する侵略の元凶」として射殺したのである。安重根は、現場で逮捕され、中国旅順の日本法廷において死刑に処された。翌年、日本は韓国併合を行い、朝鮮を植民地としている。
七月二四日。
この日の午後、韓国民弁との交流会を行ったが、午前中はタプコル公園と西大門刑務所跡をまわった。
タプコル公園は、一九一九年三月一日、植民地となった朝鮮が日本による収奪に反発して起こした全国民的な独立運動(三・一運動)の起点となった公園である。この公園で独立宣言が朗読され、数千名の学生達が大韓独立万歳を叫んで町に繰り出していったという。公園には、独立宣言書の碑とレリーフ(独立運動やそれを弾圧する日本軍を描いた石画)がある。日本の軍隊はデモ群衆に向かって見境なく銃撃をくわえ、数千人の犠牲者が出たという。
西大門刑務所跡では、地下室で、植民地時代の日本警察による拷問の様子がろう人形によって再現されていた。女性の政治犯を壁の鎖でつないで鞭で打ち女性が血みどろになっている場面や、口にこん棒を突っ込んでいる場面など。テープの音声で、女性の悲鳴が流されており、いたたまれない施設であった。
三・一運動では多くの学生・民衆が現場で惨殺されただけでなく、検挙された者たちは日本警察による残酷で凄惨な拷問を受けることになったのだ。一六歳で三・一運動に参加し、運動の先頭に立って活動したため、首謀者として逮捕され命を落とした柳寛順(「韓国のジャンヌダルク」といわれている)もそのひとりである。
七月二五日。
この日は、北朝鮮との軍事境界線である臨津江を眺望するツアーが組まれ、一行は臨津江を目指したが、私は別行動で、晶徳宮と柳寛順の記念碑(母校)を見学した。
晶徳宮は、正宮である景福宮の離宮として造営された宮殿である。宮内の秘苑は、宮殿と自然の調和された美しさでよく知られており、訪れる観光客も多い。
宮内の一画に、素朴でこぢんまりとした瓦葺きの建物があった。ここには、王朝最後の王妃が一九八九年まで生活していたということだ。王妃は、日本の政略によりあてがわれた女性であり、王家の子孫を途絶えさせるために不妊の女性が選ばれたらしい。ここでも日本の朝鮮支配が貫徹されていた。
二 私たちは、北朝鮮問題を平和的に解決するために韓国の民衆と手を結ぶことが必要だと考え、その手掛かりを得ようと今回の韓国訪問を企画した。しかし、日本は戦前の三五年間、韓国を植民地としてその支配下におき韓国の民衆に筆舌に尽くしがたい犠牲を強いてきたのであり、国家間の問題としては、日韓条約による「経済協力方式」で決着をみているとしても、それですべてが水に流されたわけではない。
朝鮮半島は、日本の植民地支配がもとで、戦後は米ソの分割統治の対象となり、韓国は朝鮮戦争を経て、つい一○数年前までは軍事政権の統治下にあった。八○年代の民主化闘争でも、鎮圧軍がデモ隊に発砲を繰り返し、光州事件などでは多数の死傷者を出している。まさに命をかけた闘争のうえに、さらに民主化運動を展開し、ようやく到達したのが今日の民主化された韓国社会である。
一方で、日本の民主運動はどうだっただろうか。理由はともかくとして、現象面では、平和憲法を持ちながら、日本が米国の世界戦略に組み込まれ、軍事大国化していくことを阻止できずにいる。
韓国民衆と日本民衆が手を結ぶためには、過去の歴史を踏まえたうえで民衆同士の相互理解を深めることが前提となる。今回の韓国の旅は、私たちにそのことを教えてくれたと思う。