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土橋  実 賃金仮払仮処分事件―仮払期間一年の壁を突破
城塚 健之 労働法制改悪の評価について
中学生から届いた自由法曹団への手紙
四位 直毅 A中学校 S先生と三年各組のみな様へのお返事 共に平和を求めて―お手紙を読んでの感想などー
武藤 糾明 住基ネット差し止め訴訟
後藤富士子 リーガルエイドと訴訟費用―「争う」権利の保障
山崎  徹 「北朝鮮問題の平和的解決を求める全国会議」の報告
河邊 元子 弁護士過疎地域で活動をはじめて
齊藤 園生 「ホテル・ハイビスカス」を観る




賃金仮払仮処分事件

―仮払期間一年の壁を突破

東京支部  土 橋  実

一 仮払期間を限定しない決定
 「債務者は、債権者に対し、金○○円及び平成一五年八月から本案の第一審判決言渡しに至るまで毎月二五日限り金△△円を仮に支払え。」
 冒頭の主文は、岩崎通信機(株)の子会社である岩通アイコン(株)を解雇された労働者二名の二回目の地位保全賃金仮払仮処分の申立に対し、本年八月五日、東京地裁八王子支部が言い渡したものです。この主文を見て、「何だ当たり前の主文じゃないか。」と思われた方、あるいは、「二回目の仮処分ご苦労様。」と思っていただいた方?もいらっしゃるかもしれません。しかし、当たり前のはずの仮処分決定が報告の対象になるほど、東京地裁管内では、賃金の仮払期間を決定から一年に限定する仮処分が、ごく当然のように出されています。
 東京地裁労働部でこのように期間限定の主文を出すようになったのは、一九八一年一〇月に開催された裁判官中央会同が契機となっているようです。以後、東京地裁労働部は、地位保全賃金仮払請求事件に対し、地位保全は却下し、仮払期間は決定時から一年に限定するという、労働者に一方的に不利益な決定を下すようになりました(なお、報告の仮処分事件も地位保全の申立は却下されています)。そして、東京地裁八王子支部や東京周辺の裁判所も、東京地裁労働部の扱いを無批判的に受け容れ追従してきました。裁判所では、「東京地裁労働部での運用」として、当然のごとくこの見解に従った判断を下しているところがむしろ圧倒的です(この見解の問題点については、労働弁護団通信二〇〇一年七月一一日・No.二三一号をご参照下さい)。
 そのため、労働者は、解雇事件の係争中、繰り返し仮処分の申立を行わざるを得ず、しかも、仮処分決定まで時間を要するため、一回目仮処分の期間が満了するかなり前に、二回目の仮処分の申立をせざるを得ない事態になっています。
 この事件も、一回目の仮払期間が本年三月満了となるため、一月中旬に二回目の仮処分を申し立てましたが、結論が出たのは八月五日です。冒頭主文の金○○円は、一回目仮処分の期間満了から二回目仮処分決定が出るまでの仮払金を示しています。二回目の仮処分決定が出されるまでの四ヶ月間、労働者は賃金の仮払が受けられず、苦しい立場におかれました。

二 仮払期間を限定した仮処分の破綻
 裁判所が賃金仮払期間を一年に限定したことに伴い、おかしな事例も報告されています。労働弁護団通信二〇〇一年九月一四日(No.二三二号)によれば、仮払期間中に債権者の本案敗訴判決が出されたため、本案の一審敗訴判決後も賃金仮払を受け続けることができ、結果的に控訴審の終結時まで賃金仮払を受け続けることができたというのです。この例などは、仮払期間を一年に限定したことが論理的に破綻したことを示しています。
 ところが、冒頭の事件と同じ時期に東京地裁八王子支部で賃金仮払仮処分の申立を行った別の事件では、二回の仮処分すべてが一年の期間限定であり、しかも本年六月一六日に出された三回目の仮処分決定は、「債務者は、債権者に対し、平成一五年四月から平成一六年三月(但し、それ以前に本案の第一審判決言い渡しがあったときはそのとき)まで、毎月末日限り金××円を支払え。」というものです。この決定と同じような括弧書付きの主文は、別の裁判所の決定にも現れています。
 このようなおかしな主文を言い渡すならば、冒頭の仮処分決定のように「第一審判決言渡しまで」とすればすむことで、そのほうが法制度的にも一貫性がありますし、訴訟経済的にも優れています。それなのになぜ、裁判官は東京地裁労働部方式に固執するのでしょうか。ここに、今の司法の病理現象をかいま見る気がします。

三 本件仮処分と今後の取り組み
 私たちは、この事件の一回目の賃金仮払仮処分申立の時から、仮払期間を一年に限定するのはおかしいということを担当裁判官にぶつけ、繰り返し議論してきました。一回目の仮処分は、残念ながら仮払期間を決定から一年に限定しましたが、それでも申立から決定までの六ヶ月分の給料については仮払を認めました。
 このたびの二回目の仮処分決定は、冒頭の主文のとおりです。期間を限定しなかった理由は明示されていませんが、裁判官は、我々の見解に率直に耳を傾けてくれました。この仮処分決定は、冒頭の結論を導くにあたり、いわゆる整理解雇の四要件に具体的な事実を丁寧に当てはめ、説得力のある理由を述べています。このような結論が得られたのは、審理の過程で、会社が労働者二名を解雇した後もホームページや雇用情報誌に求人広告を掲載し、二名の解雇後に多数の従業員を新規雇用していた事実などが判明したことも、大きな影響を与えたと思われます。
 現在、この事件は、東京地裁八王子支部に岩通アイコンと親会社の岩崎通信機を被告とした本訴が継続中であり、秋には証人尋問がはじまります。また、親会社の団交拒否に対しては、昨年一一月、都労委に不当労働行為救済の申立を行ない、こちらの方は八月に審問手続が終了しました。労働委員会の団交拒否事案は、申立から命令まで長期間を要する取り扱いが増え、労働委員会の機能が十分発揮されていない事案が増えています。訴訟の勝利と早期救済命令の獲得に向けて、引き続き取り組みを強めていきたいと思います。弁護団は、私と小林克信団員です。
 なお、東京地裁以外の裁判所が、賃金仮払仮処分についてどのような判断を行っているかについて教えて下さい。よろしくお願いいたします。



労働法制改悪の評価について

大阪支部  城 塚 健 之

 二〇〇三年六月の労働法制改悪について、解雇に関して「原則解雇自由」の文言を削除させ、判例法理を明記させたことを「勝利」と評価する意見がある。むしろそれが多数意見かもしれない。しかし私は違和感を禁じ得ない。今回、潮流を超えた取り組みが進んだり日弁連に労働法制委員会が発足して役割を果たしたことの意義を過小評価するつもりはないが、それだけでもいけないだろうと考え、以下、異見を述べさせていただく。
 確かに労基法に「原則解雇自由」と書き込むというのはとんでもないことだった。労基法の性格論はさておくとしても、乱暴な経営者にひどい「行為規範」を与えかねないものだったから、労働界も弁護士団体も一致して反対の声を上げたのは当然である。しかし、残念ながら私には労働運動が財界を圧倒していたようには見えない。それでも「原則解雇自由」を削除させることができたのは、少なくとも財界がそれほどこだわっていなかったからではないのか。あれは「原則・例外」を書いておきたいという官僚的趣味の産物ではなかったのだろうか。
 そもそも最近の大企業はそれほど乱暴な解雇はしていない。もともと「希望退職」などという非法律的な処理が大半であるし、労働者の「同意」のもとに配転出向を活用し、あるいは企業再編とからめてもっとスマートにやっている。東京地裁で八連敗した事件も、多くは中小企業の解雇か、有期雇用社員の雇い止めの事案である。
 日経連「新時代の日本的経営」の眼目も、労働者三分論に基づく正社員の少数精鋭化と、これに対する成果主義による個別管理化と労働時間規制からの除外であって、必ずしも正社員の解雇を容易にできるよう求めていたわけではなかった。むしろ教育コストのかかっている正社員には、定年まで、過労死する寸前まで頑張って働いてもらわなければならない。だから奥田日本経団連会長だって、小泉首相が「解雇ルール明示」を言い出したとき、これを「モラルハザード」につながるなどと批判していたのである。
 それどころか、財界は、企業に必要なエリートには高い処遇をと考えている。従業員全員に高い処遇をするほどの余裕はないというだけの話である。この就職難の時代ですら、エリート大学出身者の就職先は引く手あまたである。「公務員制度改革」で「国家戦略スタッフ」については高い処遇を求めつつ、アメリカの政治的任用とは違って身分は保障しろと、「いいとこ取り」の主張をしているのも同じである。
 「いったいあんた方は何様?」といいたくなる「総合規制改革会議」ですら、「原則解雇自由」にしろとは言っていない。二〇〇二年末に出された第二次答申で強調しているのは職業紹介の自由化、派遣・有期雇用の拡大、労働時間規制の撤廃である。解雇に関する部分では「金銭賠償方式」を強く求めているが、これは解雇コストの事前予測可能性を高めてほしいということである(これはアメリカ商工会議所の要求と一致)。
 要するに今回の労働法制改悪の本丸は、有期雇用・派遣・裁量労働の拡大にあったのではないか。そしてそれはほぼすべてが達成されてしまった。特に裁量労働の拡大は「ホワイトカラーエグゼンプション」(ホワイトカラーの労働時間規制からの全面排除)の一歩手前である。有期雇用で一年を超えれば退職の自由を確保させたことの意味は少なくないが、これとて大幅に拡大された「専門職」には適用がないのである。これでは「惨敗」としかいいようがない。
 それなのに今回の結果を積極評価するというのはいわゆる「本工主義」(正社員中心主義)の反映ではないかとうがった見方もしたくなる。だから、今回の新設条項で中小企業の乱暴な解雇を抑制する効果は期待できるとしても、それで「勝利」という気にはなれないのである。
 これからホワイトカラーエグゼンプションや解雇の金銭解決ルールをめぐって厳しいたたかいが予想されるが、それだけでたたかっているようではだめで、これ以上の「雇用の劣化」を防ぐために、均等待遇の法制化などの課題に、労働組合も法律家団体も本腰をいれなければならないのではないかと思うのである。



中学生から届いた自由法曹団への手紙

 夏休みに入ったばかりのある日、団に一通の手紙が届きました。授業で有事法制を取り上げたという埼玉県内の県立中学三年生の社会科のS先生からです。S先生の手紙には、『「憲法九条を教えて終わり」ではなく日本が「戦争ができる国」になろうとしていること、それに反対している大人たちがいることを教えることが大切と考えています』と書かれていました。手作りの授業用資料プリントには、有事法制に反対する団体の一つとして自由法曹団の名前がありました。同封された生徒さんからの手紙を紹介しながら、意見や質問に答えて四位直毅団員からの返信を掲載します。

●有事法制は戦争準備法だと思います。今でも支援をしたり、米兵の救助活動をしたりして、すこしずつ戦争に参加しているように思います。日本が参戦する前に有事法制をなくした方がいいと思います。(Kさん)
●ただ戦争を拒否するだけで、本当の平和が訪れるとは思いません。有事法制は自衛のために必要ではないのでしょうか。(K君)
●多くの人が反対している有事法制が国会で二〇二票対三二票で可決したのはおかしいと思う。(A君)
●私たち中学生は選挙権もありません。私たちにも人権や平和を守るためにできることはありませんか。教えてください。(Yさん)



A中学校 S先生と三年各組のみな様へのお返事

共に平和を求めて

―お手紙を読んでの感想などー

東京支部  四 位 直 毅

 みな様こんにちは。中学生最後の夏休み、いかがでしたか。
 先日は、みな様のお心のこもったお手紙をいただきまして、ありがとうございました。読ませていただきながら、いろいろなことを考えさせられました。(自己紹介 略)
 私は、みな様のお手紙を読んで次の諸点で目を見はる思いでした。
(1)みな様一人ひとりが、この国のこと、アジアと世界のこと、戦争と平和の問題などを、自分自身のこととして正面からうけとめ真剣に考えていること、しかも自分自身で考えたことを自分のことばで表現していることです。
(2)みな様が考えたり指摘していることは、ことの本質、核心を正確に、しかも鋭くとらえています。
(3)みな様は、考えたり意見を述べたりするだけではなく、進んで「では、どうしたらよいのか」「自分にできることは何か」という問題を立てて、検討しています。
(4)今、世のおとなたちが、「教育の荒廃」とか「荒れた教室」とか非行問題などばかりを声高にとりあげるなかで、このようななかみ豊かな教育が行われていること、みな様と先生との信頼と交流が生き生きと示されていることは、この国の教育の今と未来に確信と期待を抱かせるものです。
 これらのことは一見簡単なようですが、実行するのはなかなか難しいことです。
 これらのことはまた、日本国憲法の定める主権者としての役割を国民一人ひとりが十二分にはたすためにぜひとも大切ですし、民主主義実現の土台ともカギともなるものです。
 私は、みな様がこの国の主権者として、また民主主義社会の一員として、頼もしく成長しておられることを眼のあたりにして、とてもうれしく思いました。みな様のお手紙に関連して、いくつかのことを、共に考えてみたいと思います。
有事と有事法制と
 人間社会では個人も国家も争いは避け難い、だから有事に備える必要がある、とのご意見は、世界と人間の歴史と現状から見ると、確かに説得力があります。ですが、よく考えてみますと、争いをおこすのが人間や国であるならば、争いをやめることも人間や国にできるはずではないでしょうか。
 イラク戦争をめぐる世界中の世論、国、国連などの動きひとつをみても、その可能性はあるし、少なくともそう努力する価値があるのではないか、と私は思います。
 とくに、ヒロシマ、ナガサキの被爆国である日本はふたたび被害者・加害者にならないためにも、この努力を重ねる責任があります。
 この点で、Yさんの「世界平和のために何をしたらいいのか、人と人、国と国とがわかり合えるためにはどうすればいいのか、それを考えることこそが大事なことだ」というご意見には大賛成です。
 つまり、有事に備えるということよりも、まずは有事を少なくし、できればなくすために力をつくすことの方が大事ではないでしょうか。有事の備えはかえって有事を招きやすいこともみのがすわけにはいかない、と私は思います。
 有事法制法案の国会審議で政府高官は、日本が外国から攻められる可能性は当面ありえない、と認めました。
 ではなぜ、この法案の成立を強行したのか。
 結局は、アメリカが世界各地で行う戦争に自衛隊や国民を協力させるため、といわざるを得ません、イラク特措法や二〇〇三年版防衛白書なども、このことを示しています。
 みな様の感想の中に「アメリカのいいなりでいいのか。」という趣旨のご意見や疑問が少なくありませんでしたが、そのとおりだと私も思います。
 アメリカとの関係を大切にするためにも、イエスとノーをはっきりさせること、いうべきことをきちんということが大事ではないでしょうか。
 有事法制は先日の三法でおわり、ではありません。自衛隊海外派兵をいつでも行えるようにするための恒久化法案、米軍支援法案、そして国民、自治体、マスメディア、などなどを戦争にまきこむしくみの「国民保護法制」などが続々登場してくるでしょう。
 みな様もひき続き、これらの動きに注目してほしい、と思います。
憲法と戦争と人権と
 戦争放棄を定めた日本国憲法と、自衛隊や国民をアメリカの戦争にまきこむ有事法制法案やその根っこにある日米安保条約(体制)とは矛盾するのではないか、多数の国民が反対する法案が国民の代表機関である国会ではなぜ大多数で可決されるのか、などという疑問やご意見が多くのお手紙で指摘されています。私も同感です。
 憲法第九条は「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」と定めました。そのため「陸海空軍その他の戦力」を保持せず、「国の交戦権」を認めないことにしたのです。
 では、どうして国と国民を守るのか。「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚」して「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼してわれらの安全と生存を保持しようと決意した。」のです(前文)。
 国会議員も各大臣もこの憲法を尊重し、擁護する義務があります(第九九条)。
 日本国憲法の戦争放棄条項は、二一世紀の世界の進路を示すものとして高く評価されています。そして、この憲法に見習おうとする動きが今、世界に広がっています(ハーグ平和アピール一九九九で採択された「公正な世界秩序のための一〇の基本原則」の第一原則など)。
 ところが日本の政府や与党は、この憲法の平和条項をかえて日本を憲法上も公然と戦争できる国にしようと企てています。野党の一部にもこれに応じる動きが見られます。
 いま大切なことは、憲法九条をかえようとするこのような動きを許さず、憲法諸条項を国会や政府にきちんと実行させることです。 それでこそ平和も人権も守ることができるのではないでしょうか。
 「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」のです(憲法第一二条前段)。
 いまこそ、みな様も私も、その他の人びとも、この「国民の不断の努力」を最大限に強めることが切実に求められているのではないでしょうか。
話しあいで平和解決を
 では、さまざまの紛争を戦争や武力行使以外のどんな手段、方法で解決するか、ですが、みな様のお手紙にもあるとおり、私も、あくまでもねばりづよく話しあいを重ねるなど平和的解決手段をつくすことが基本ではないかと思います。
 イラク反戦の世界の流れ、イスラエルとパレスチナをめぐるロードマップのとりくみ、北朝鮮問題をめぐる六ヶ国協議の開催や日朝平壌宣言などは、いずれも、紛争の平和的解決のための国際的努力とみることができましょう。
何ができるか
 そこで、私たちは何をすればよいのか、何ができるか、です。
 イラクや有事法制法案をめぐって、メールでの意見交換、集会やデモ、意見広告、人文字、ピースライブやピーストークなど、さまざまなとりくみが行われてきました。米軍の劣化ウラン弾による放射能被害に蝕まれたアフガンの子たちの救援にかけまわるお母さん弁護士、もし有事法制法案が強行されても戦争には絶対協力しないという誓約書運動にとりくむ年若い女性たち、韓国で米軍車両にひき殺された二人の女子中学生の問題の根本解決までソウル市の中心部で毎夕続けられているキャンドル集会に集まる人びと(私も先日参加しました)、など、さまざまな創意工夫も生まれています。
 なかでも、レナータさんと「ピース・サンフラワー運動」に、私はとても心を動かされました。
 彼女はカザフスタンの大学生で二一才、旧ソ連時代にセミパラチンスク核実験場で行われた原爆実験で被爆しました。「『核の太陽』はその光線で私の健康を焼き焦がし、私の人生を台無しにしました。」(ことしの原水爆禁止世界大会国際会議での彼女自身の発言)。
 その彼女が、平和への思いをこめて描いたヒマワリの花。それがことしの原水爆禁止世界大会のポスターになりました。
 この運動をよびかけるメッセージには、次の一節があります。
「…地平線には/大地を揺らす/地雷ではなく/平和の証である/
 花の種を植えよう/世界中に散りばめよう/ともに生きる幸福を/取り戻すために」
 被爆で人生を台無しにされた一人の若い女性の描いた一枚の絵が、世界の人びとに平和の声と力を届けているのです。
 たった一人のごくふつうの人の力が、こんなにも大きな役割をになうことができることをレナータさんは示してはいないでしょうか。
平和と人間の尊厳のためにー若い力を!
 私は、二一世紀のキーワードは「平和と人間の尊厳」だと、思います。一人ひとりの人と生命が等しく大切にされてこそ、平和と人間の幸福を実現することができるのだ、と思うからです。
 レナータさんの発言は、こう結ばれています。
 「わたし達二一世紀の若者こそが、世界中を危険にし被爆者の心を痛みで満たす、そんな核兵器が存在しなくなるようにしなければならないのです。」
 核兵器はもちろんのこと、戦争や暴力についても同じことが言えるのではないでしょうか。
 私も今後ともひき続き、みな様とともに、平和の道を力づよく歩み続けたいと思います。



福岡総会に向けて福岡支部特集(4)

住基ネット差し止め訴訟

福岡支部  武 藤 糾 明

 本年一月、福岡地裁において、住基ネットの差止めを求める訴訟を提起した。
 社会国家化した現在、公権力が膨大な個人情報を保持することは避けようがない。従って、行政機関による個人情報の自由な収集・流用を規制する有効な法制度がないところでは、国民に、共通の識別番号を付すること自体で、容易に国民を管理の客体におくことが可能となり、国民総背番号制となってしまう。
 住基ネットの最大の問題点は、本来最高の価値である個人が、国家に管理、従属させられ、「人間の尊厳」を損ねるところにある。
 国勢調査の際に共通番号制を採用することについて、国にとっての有効性を認めながら、「現行の調査方法よりももっと個人の尊厳を侵害する結果となってしまう。そもそもあらゆる登録、管理に対し統一的に適用される共通番号制の導入自体が、憲法に保護された一般的人格権を侵害する」とした八三年のドイツ憲法裁判所判決の価値判断は、わが国の憲法においても等しく妥当する。
 国家による管理の客体への転落は、もはや抽象的な不安などではない。
 本年四月には、防衛庁が、自衛官勧誘のため、適齢者の健康情報、親の職業などを含む個人情報を、全国の自治体に照会し、五五七もの自治体でこれを提供していたことが判明した。
 もともと、国民総背番号制は、徴兵制を前提として導入されようとしたという歴史的経緯がある。八二年、レーガン政権下のアメリカで、アメリカ版国民総背番号制である社会保障番号制度を利用した兵役登録拒否者狩りが行われた。今もテロ対策名目で、犯罪者の遺伝子管理法案などが画策されている。
 センシティブ情報として、収集自体が禁止されるべき健康情報を、国が簡単に請求し、自治体も誠実にこれに応えるという行政機関の存在を前提としたわが国において、盗聴法とともに成立した改正住民基本台帳法、有事法制定と前後して稼働した住基ネットがどのように利用されていくのかは明らかである。
 Nシステムや、監視カメラ、生活安全条例が張り巡らされ、愛国心教育が進む中で、私たちが、わが国の主人公でいられるのか否かが問われている。
 現在、全国で一一の裁判所、二五〇名をこえる原告がたたかっています。
 「情報有事法制」としての住基ネットの差し止めに、皆さんのご支援、ご協力をお願いいたします。



リーガルエイドと訴訟費用

―「争う」権利の保障

東京支部  後 藤 富 士 子

1「現物給付」の援助――ODAと国選弁護
 現行の国選弁護制度をリーガルエイドの側面からみると、国が弁護人を雇って被告人に弁護を提供するという「現物給付」型であり、要した費用は「訴訟費用」として国が被告人に償還させるものである。ここでは、国が弁護士の提供するリーガルサービスを廉価で買い叩いている。すなわち、弁護士はいわれのない身銭をきらされているのである。
 そのことを鮮明に浮き彫りにするのはODAである。ここでは逆に、日本の企業に高い金を払って儲けさせ、購入した「現物」を援助先に提供する。こうした「援助」のあり方については夙に批判されている。
 かように「現物給付」という援助の仕方は、搾取と不正の温床になっている。公的援助なのだから、援助を受ける者に基本的利益が還元される方策がとられるべきであり、また、援助の出捐・負担を個人に強いるべきいわれはない。

2 訴訟費用となった「敗訴者負担」分も扶助の対象?
 民事訴訟でも、弁護士報酬を訴訟費用に含まない現行制度において、貧困者に対し印紙代等の訴訟費用が「救助」されるが、「訴訟費用敗訴者負担」の原則により、救助を受けた者が敗訴すれば自己負担しなければならない。また、民事法律扶助では、訴訟費用のみならず弁護士報酬等も扶助を受けられるが、これは給費(償還を要しない)ではなく、償還しなければならない。
 これを現在問題になっている「弁護士報酬敗訴者負担」に当てはめてみると、「敗訴者負担」分も扶助の対象にしなければならないはずである。そうすると、仮に扶助を受けた者が敗訴した場合、償還制のままだと償還しなければならない金額が増額するばかりなのだから、ますます「裁判を受ける権利」の行使が抑制されるのは火を見るよりも明らかである。これは、「提訴の奨励」など裁判を利用しやすくするためという目的に反する。
 また、より大きな視座からリーガルエイド制度を眺めてみると、扶助事件数・規模が同じでも、「敗訴者負担」分だけ確実に扶助すべき金額が増額することになる。しかるに、勝訴者が十分な資力があって扶助対象にならない場合には、扶助の資金が勝訴者のために使われ、一方、敗訴した扶助受領者が償還しなければならないのである。これは、「扶助」制度の本質にかかわるグロテスクな事態といわなければならない。そして、このような事態が生じるのは、弁護士報酬を訴訟費用とすることに起因するのである。

3 償還制の欺瞞
 現行法律扶助のように「償還制」の場合、扶助を受けた当事者に資するものはなく、弁護士を資するだけである。私もよく経験するが、紛争を抱えて困っているのに、お金がないからといって受任しないで放置することもできず、かといって扶助に持ち込むのも面倒くさいので、着手金さえ分割払の約束で事件を受任し、解決した時点ですら着手金の分割金が何回分も残っていて、報酬どころではないのである。法律扶助に持ち込んでいれば報酬を確保できたわけで、してみると「償還制」の扶助は弁護士のためのものであることが明らかである。勿論、弁護士が報酬を得るのは当然の権利であるから、それが支払われること自体に問題があるのではない。当事者に援助の利益が帰属しないのに、弁護士が「稼ぐ」ことに、私は抵抗を覚える。こういう目に何度も遇うと、「お金を払ってくれなければ着手しないようにしよう」とは思うのだが、僅かなお金で膨大な役務を提供する業態は相変わらずである。だから、忙しくなればなる程、貧困化していく。結局、私的扶助を行っているわけである。こういうことを、日本の裁判官・検察官は思いもよらないであろう。
 かように、「償還制」の扶助は、実質的な援助にはなっていない。それにもかかわらず「給費制」に改めようとしないのは、弁護士報酬こそ「受益者である本人負担」と考えられているからではなかろうか。
 このことは、「給費制」の下で「敗訴者負担」を考えると明確になる。前述したように、貧困で扶助を要した当事者が敗訴した場合、資力があって扶助対象外の勝訴当事者の弁護士報酬を扶助基金(税金である)から支弁することになる。この場合、勝訴者の負担とするか、税金の負担とするか、どちらが納税者の納得を得られるか明らかであろう。すなわち、「権利が目減りする」など、税金で補填するいわれはない。
 こうしてみると、「敗訴者負担」論は、「償還制」という欺瞞的扶助制度の不足を穴埋めしようとするものではなかろうか。

4 「アクセス」ではなく「争う権利」の援助を
 法律扶助や「敗訴者負担」は、今般の司法改革の中で「司法アクセス」の問題として論じられている。
 しかしながら、低額の扶助でアクセスを拡大できたとしても、アクセスしたものの成果がえられないような裁判では、アクセスする気が失せる。そして、死力を尽くして闘うような訴訟は膨大なコストを要するのであり、そのコストに対する給費援助がなされなければ意味がない。このことは、国選弁護、被疑者公的弁護の現実を見れば示唆的である。
 日本において、弁護士職の存在が真に尊敬されるとしたら、それは当事者の「権利のための闘争」の代理人として立派に役割を果たせばこそである。そのためにも、当事者の「争う権利」を支援するリーガルエイドの制度が構築されるべきである。



「北朝鮮問題の平和的解決を求める

全国会議」の報告

担当事務局次長  山 崎  徹

 去る八月二三日、団本部会議室において、「北朝鮮問題の平和的解決を求める全国会議」を開催した。同日は、もともと常任幹事会の予定日であり、とくに緊急の課題がなければ常任幹事会は実施しないということが暗黙の了解とされていたが、今年は、標記の会議のためにその予定日を利用した。当日は、全国から三二名の団員が参加した。

 団では、すでに五月集会の「イラク・北朝鮮問題分科会」及び「有事法制分科会」において、北朝鮮問題に関する討議を行っているが、朝鮮半島情勢の緊張が続くとともに、国内では、北朝鮮脅威論をも口実にした有事三法の強行成立、ミサイル防衛の推進、改憲策動など憂慮すべき事態が一層進み、さらには拉致問題を利用した北朝鮮バッシングが強まるなかで、北朝鮮問題の平和的解決に向けた団内議論を深めることが求められている。
 五月集会の討議では、米国のイラク侵攻戦争において首都バグダッドが予想よりも短期に陥落したことや、北朝鮮による「核兵器保有」の表明、米韓首脳会談による「さらなる追加的措置」の合意などの状況から、北朝鮮問題も「危険な水域に入っている」との厳しい情勢分析がなされた。しかし、その一方で、北朝鮮問題の平和的解決の展望についても積極的に議論された。
 言うまでなく、北朝鮮問題は、米国の北朝鮮への先制攻撃を許さないと同時に、北朝鮮に核開発を断念させることが喫緊の課題となるが、討議では、その展望を考える際に重要なのは、九四年の朝鮮半島危機と異なって、北東アジアの安全保障に関して、国家間の協力関係ができつつあること、米国、北朝鮮の二国間協議ではなく、韓国、中国、ロシア、日本を含む六カ国協議の可能性があること、日朝平壌宣言第四項にもその趣旨が謳われていることなどが指摘された。
 多国間協議によって米国の影響力を相対化していくとともに、韓国の平和運動、日本の平和運動、イラク戦争反対にみるグローバルな市民運動が多国間協議を支える力になること、さらに、この多国間協議は、東アジア共同体すなわち地域集団安全保障の仕組みに発展する契機を有していることも議論された。
 EU一五カ国は戦争が起こらない仕組みをほぼ完成し、今後はEU憲法を作る段階に入っている。この考えを取り入れているのが東南アジア諸国連合の信頼醸成政策である。これを中国、韓国、北朝鮮、日本に広げようとしている。ノムヒョン韓国大統領は、EUのような平和共同体をアジアに作ることをその就任演説で述べており、彼をサポートしていくことの必要性については異論がなかった。

 八月二三日の会議では、このような五月集会の議論を踏まえ、前半の二時間は、君島東彦氏(北海学園大学教授)に講演をお願いした。テーマは、「北東アジアの平和をつくるーわたしたちの課題と方法」である。 
 君島氏は、北東アジアの平和をつくる課題と方法について、そのかたち、道筋、手順、スピードなどには様々な考え方があるが、基本的には「地域的安全保障の枠組」によることを指摘され、さらに、日本がその地域的安全保障の枠組みに加わるには過去の克服が前提条件であること、外交はマルチトラック外交が必要でNGOの役割が重要であること、東アジア全体で立憲主義を実現する必要があること、その際、地政学的には韓国が中心的役割を果たすであろうこと(東アジアのブリュッセルとしてのソウル)を強調された。
 日本国憲法九条については、東アジアに対する社会契約ないし条約としての側面を持ち、東アジアの安全保障の要となりうること、「平和を愛する諸国民の公正と信義」を信頼する思想が、仮想敵国を考える軍事同盟ではなく、地域のすべての国家を包含する地域的安全保障の枠組みにつながること、また、具体的な道筋としては、東南アジア諸国連合を接着剤として枠組みを拡大して行き、九二年の南北非核化宣言による朝鮮半島の非核化から始めて、北東アジア全体の非核化を目指すことを同氏の自説を含めて力説された。
 また、地域的枠組みの長期プランとして、各国の軍隊は互いに透明性を高め、非核化、非攻撃化、軍縮を追求すること、地域的人権条約、人権委員会などを作り、各国の人権と民主主義の状態に留意し、問題があるときは行動を起こすこと、地域全体において法の支配を徹底させる立憲主義をつくり出すことなど平和、人権、民主主義を実現するための仕組みについても付言された。
 君島氏の講演は、五月集会で議論された東アジア共同体構想をより具体的にイメージさせるものであった。

 後半の二時間は、六カ国協議をめぐる情勢、拉致問題などについてを討議をした。
 六カ国協議は、五月集会の討議でも北朝鮮問題を平和的に解決するための重要なファクターとして位置づけられたが、これが思いのほか早く実現する運び(八月二七日〜二九日)となったというのが率直なところであろう。「九三年から九四年にかけてのクリントン政権の「ならずもの国家」論が破綻し、ジュネーブ合意ができる経過と今の状況はよく似ている」「九三年のときと違うのは、韓国に民主政権ができたこと。平和構築に向けて日本をどう動かせるかが問題」「米国は軍事力をバックに覇権主義をとっているが、イラク戦争も泥沼化しており、選挙前に簡単に戦争を起こすことはないのではないかという印象を持っている」「イラク戦争の長期化による戦争忌避の世論の高まりが六カ国協議に影響する」など六カ国協議を評価する発言が相次いだ。
 むろん、六カ国協議についても、それが単純に楽観できるものではないことも確認された。この点については、「情報が乱れ飛んでいるわりに、内容が分からない不思議な会議である。誰がみても困難な会議であることは目に見えている。これはフェイントなのか。そういう状況のなかで考えられるのは、協議がうまくいかなかった場合、米国は経済制裁に出るし、それでも効果がなければ戦争になりうるということ」「問題は、日本が拉致問題にこだわって足を引っ張っているということ」「少なくとも日本政府に足を引っ張らせないようにするのが日本の平和運動の果たすべき役割」などの発言があった。
 拉致問題については、「拉致問題を解決しなければ国交正常化をしてはならない」という考え方があり、そのような世論が形成されつつあるが、それは日朝平壌宣言に違反する見解であり、困難であるが克服しなければならないこと、また、拉致問題の解決を至上命題として、そのために経済制裁や軍事制裁を辞さないというような考え方、すなわち、人権問題を安全保障問題にすり替えてしまうことは間違いであることなどが指摘された。
 ただ、さらに進んで、「拉致問題の解決」というのは何をもって解決というべきなのか、あるいは、現在帰国している五人の拉致被害者と北朝鮮に残されているその家族が切り裂かれた状態になっているという問題にどう対処すべきかという点については、いろんな見解があり、意見をまとめる段階ではないように思われた。
 しかし、少なくとも、五人の家族の問題は、彼らの人権救済のためにどう対応するかというアプローチが必要であり、人権問題として放置できないということは共通の認識であった。

 今回の会議の後、八月二七日から二九日までの三日間にわたり、北京で六カ国協議が開催された。その概要については、すでに報道されているところである。米朝間の対立があることはもちろん、各国にも意見の違いがあり事態が複雑であることは容易に推察されるが、最終日の六項目の合意事項にあるように、六カ国が朝鮮半島の核問題を対話を通じて平和的に解決するという共通認識を持ち、協議の継続を確認したことは重要な前進であろう。
 また、私たち法律家団体は、この多国間協議を北朝鮮問題の解決と北東アジアの平和構築に繋げていくために、それを政府レベルの外交だけにまかせるのではなく、マルチトラック外交の一環として主体的に行動を起こしていく必要がある。
 当面の行動としては、一○月四日、法律家四団体主催の国際シンポジウムを開催することになっている。パネリストとして、韓国民弁の弁護士、中国社会科学院の学者などをお呼びする予定である。是非、多くの方に参加していただきたい。



弁護士過疎地域で活動をはじめて

北海道支部  網走ひまわり基金法律事務所
事務局  河 邊 元 子

 二年前の夏、「こんな取り組みがあるよ」と夫が示した日弁連のHPで、私は初めて「公設事務所」の存在を知った。当時、既に三つの事務所ができていたが、いずれも地元に歓迎され、大変忙しいという話とともに、狭い地域社会で事務員の確保が難しかったと聞かされて、「私たちがいったら、とりあえず事務員の心配はいらないわね」と何の気なしに口にしたのがことのはじまりだった。
 それから半年後、気がつけば住み慣れた東京を後に、厳寒の北海道に移り住み、昨年の二月に、夫(河邊雅浩弁護士)とともに網走ひまわり基金法律事務所を開業するはこびとなった。
 釧路地方裁判所網走支部管轄区域は、約八万人の人々が暮らしているにもかかわらず、長い間、在住の弁護士は一人もいなかった。開業して二ヶ月で一〇〇件の相談を受け、今でも予約が半月以上先になってしまうことも少なくないことを考えると、これまでの住民の不便は想像に難くない。役場や裁判所に直接相談に行く人も多かったようで、今でも「裁判所から教えられた」と訪ねてくる人が大勢いる。また、弁護士がいなかったということで顕著な例の一つに、多重債務の問題が上げられる。債権調査の結果、本人はもとより弁護士も業者も驚くほどの過払になっているというケースも多い。
 国選刑事事件に関して言えば、網走管内の事件はそのほとんどを選任される。昨年一一ヶ月の間に受けた国選は四三件、私選をあわせると、刑事事件だけでも五〇件に上った。「当番弁護士」というのもくせ者である。なにしろ地域に弁護士が一人しかいないのであるから「当番」などあろうはずもなく、「弁護士を呼べ」となれば、うちに連絡するしかないのである。弁護士の多忙はいうまでもないが、時には留守番をしながら読書にいそしむ時間もあるだろう…などと考えていた事務員である私の目論見はみごとにはずれ、忙しい毎日である。
 よく「東京でやっていたときと何が違うか」と聞かれるが、事件の種類などはあまり変わりがないと思う。ただ 相談の予約一つ入れるのにも結構時間がかかる。予約を受け付けるにあたって、相談者の名前はもとより、簡単な相談内容や相手方の名前をしっかり聞いて、その場で検索する必要があるからだ。他に弁護士がいないのだから、既に相談を受けた事件の相手方である可能性も極めて高い。「申し訳ありませんが、ご相談には応じかねます」と応えなければならない時も少なくなく、電話口はもとより、目の前で途方に暮れて涙ぐむ方もいる。そんなとき、この地域にはまだまだ弁護士が不足しているのだと実感する。同じ日本にいながら、自分の権利や利益を法的に擁護する方法を十分利用できない、というのは、とても不公平で不平等だといわざるを得ない。弁護士が管内に一人という現状はぜひとも改善されるべきだと思う。
 「公設」にかぎらず、地方で活躍する弁護士や事務員の皆さんは多かれ少なかれ同じような悩みを抱えておられることだろう。東京でバリバリがんばるのもいいが、より市民に身近な弁護士活動を実現するため、地方に目を向ける熱意ある弁護士がもっともっと増えればいいと心から思う今日この頃だ。



●発作的映画評論 Vol.3●

「ホテル・ハイビスカス」を観る

東京支部  齊 藤 園 生

 私は日本映画は原則として観ない。寅さんも釣りバカも観ない(テレビでは観ます)。日本映画は、おもしろくないという先入観があり、一八〇〇円支払って観る気になれなかった。しかし、最近そうでもないんだなあ、これが。「夜を賭ける」なんて実によかった。
 今回は立派な日本映画、「ホテル・ハイビスカス 」。舞台は沖縄の田舎の基地の町(直感的に名護あたりかなあと思う)。主人公は小学三年、とんでもない、けた外れのお転婆娘の美恵子。黒人とのハーフの兄、白人とのハーフの姉、売れないビリヤード場を経営し昼寝ばかりしている父、かなりおおざっぱな性格ながら飲み屋のママで、家族の中で一人で稼いでいる母、貫禄のあるおばぁと、実に複雑かつ「インタァーナソナル」な家族と一緒に、ホテルとは名ばかりの民宿を経営している。物語は、キジムナーという森の精霊を探して、二人の同級生を引き連れ、冒険をする美恵子の夏休みの日々を描いている。基地の中にキジムナーを探しに行って(オイオイ大丈夫かよ、と思うけど)、基地内に住み着いている猫を食べるという噂のおばさんに出会ったり、出稼ぎに行った父を訪ねて不思議なおじぃに出会いキジムナーをよんでもらったり、お盆に戦争中に死んでしまった幼い少女(実はおばさんだった)の幽霊に出会ったり。何と言っても登場人物が魅力的である。みんな実にたくましく、おおらかである。複雑怪奇な家族構成ながら、全然ギスギスしたところがなく、全員がおおらかで愛情豊かである。冒険先で出会うおじぃも(実は沖縄民謡の大御所、登川誠仁)、猫を食べるというおばさんも、一癖あるけど実に愛すべき人なのである。豊かな沖縄の自然も、大切に守られてきた古い因習も描かれていて、実におおらかな気分が漂っているのだ。沖縄に行って感じる、「なんかのんびりした感じ」に似ているんだよね。だから、ちょっとメルヘンチックなエピソードがたくさんでてくるが、「うーん、あるかもしれないねえ」なんて、見ている方もおおらかな気分になってくる。それでいて、基地の現実も、戦争の歴史も、お兄さんの黒人米兵の父が息子に会いたくて呼び出す場面のような現実の家族の問題も、さりげなく触れてある。沖縄の人からみれば、「こんなもん、嘘臭い」と言うことなのかもしれない(実際、現地の人にはあんまし評判よくないらしい)が、少なくとも私には、いかにも沖縄的おおらかムービーに見えるのだよね。こうして私の「沖縄に行きたい病」は、ますます拍車がかかるのでした。
 毎日の仕事でストレスをため、体も心もくたびれた方にはおすすめ。おおらかさ一二〇%の気分になれますよ。