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庄司 捷彦 墨 書
林 真由美 福岡総会感想特集(1)福岡総会参加の感想
石坂 俊雄 福岡総会感想
永尾 廣久 秋晴れのもとで福岡総会
宇賀神 直 新旧役員挨拶(1)団長退任の挨拶 ー二つの本に触れて
中野 直樹 久重の和み―退任のあいさつ
齊藤 園生 無事に退任できました
馬屋原 潔 事務局次長退任挨拶
松島  暁 一枚の写真 事務局長就任にあたって
大崎 潤一 事務局次長就任の挨拶私の第一声(第二声は未定)
坂 勇一郎 推進派の巻き返しにより検討会は新たな局面へ
〜敗訴者負担「合意論」(10・30司法アクセス検討会)
鈴木 亜英 対話姿勢の欠如した日本政府にNGOが反発
ー自由権規約NGO非公式ヒヤリングに参加してー




墨 書

みちのく赤鬼人
(宮城県支部  庄 司 捷 彦)

ついに
目撃することになるのだろうか

自衛隊がでかける
イラクへ
軍隊としてでかける
日の丸の旗を掲げて
日本国の軍隊として

だれもが
あらためて
知らされることになるのだろうか

そこにあなたの
息子がいる
そこにあなたの
夫(つま)がいる
そこにあなたの
恋人がいる
そこにひとつの
いのちがある

あなたにつながる
いのちが
イラクへ
かけがえのない
いのちが
イラクへ

ヒロシマの
ナガサキの
灯ろうの瞬きが消える
平頂山の
南京の
怨嗟のうめきがよみがえる
憲法は
消えるのか
平和な日本は
消えるのか

否(いな)!
たとえ
ブッシュが命じても
たとえ
日本のライオンが吠えたとしても
戦(いくさ)で
いのちを
消させはしない

わたしは武器を
拒絶する
息子に夫(つま)に恋人に
決して
武器を持たせない

ローマの パリの ロンドンの
街ゆくデモに唱和して
おのれの心のカンバスに
墨(すみ)黒々と大書する
憲法九条を
墨書(ぼくしょ)する
いのちの叫びを墨書する
(二〇〇三・一〇・三〇)



福岡総会感想特集(1)

福岡総会参加の感想

岐阜支部  林  真 由 美

 二〇〇三年一〇月二三日、自由法曹団の総会に参加するため、入団申込書を携えて福岡に降り立った。心躍るのは総会初参加への期待からか福岡グルメへの期待のせいか。
 この日は新人弁護士のためのプレ企画で、公害訴訟に取り組んでこられた篠原義仁弁護士と、一期上の川口彩子弁護士、後藤富和弁護士の講演を聞かせていただいた。篠原弁護士のパワフルさに圧倒されつつ、現地では絶対酒を飲まないなど被害者の信頼を得るための態度をもって公害被害の聞き取りに当たったお話にはどきりとさせられ、その人の立場に立って考え、行動することの大切さを教えられた。川口弁護士からは五五期の有志が取り組んだ在日コリアンの子どもたちへの嫌がらせ問題について報告いただき、後藤弁護士からはよみがえれ!有明海訴訟弁護団としての活動を報告していただいた。どちらも一年目から活発に活動してらっしゃることが分かり、大変刺激になった。
 翌二四日から、いよいよ団総会。なぜ討論を三つの分散会に分けて行うのかわからなかったが、実際にやってみて、要は発言したい人みんなに順番に発言させてたらいつまで経っても終わらないから、ってことかなと思った。それくらい、それぞれの団員がさまざまな課題に熱心に取り組んでるという事だと思った。活発な経験交流は聞いていて楽しく、忌憚の無い意見交換は勉強になった。
 そのほか、同期の団員と新たに知り合えたこと、全国に散った同期の仲間や学生時代にお世話になった弁護士の方々に久しぶりに会えたこと、尊敬する坂本修先生が団長になられたこと、おいしい博多ラーメンを堪能したこと、二四日の懇親会の後、午前三時まで飲んでて翌朝の分散会がつらかったこと(でも頑張って出席した!)など、思い出は尽きない。来年もぜひ参加したいが、そのときは新人弁護士に一年間の活動を自慢げに披露できるよう、これから頑張りたいと思う。



福岡総会感想

三重支部  石 坂 俊 雄

 昨年の五月集会に多くの団員・事務局に三重の地にお越しいただいたのにもかかわらず、私の方は、なかなか予定が合わず、昨年の総会、今年の五月集会に参加できず心苦しく思っていたのですが、今年の総会には参加できました。

 分散会方式で行いましたが、盛りだくさんであり、時間が足りず、議論が深まるというところまではいかなかったように感じました。
教育基本法改悪、イラク派兵、裁判員制度等について、団内では活発に議論をされますが、世間の認識と比べると、その格差は大きく、国民の多くは、団で議論されているようなことに無関心にされているように感じます。
 この原稿が団通信に載るころは、選挙の結果が出ているのでしょうが、今回の選挙でも我が国の基本かかわる戦地への海外派兵については、今のところ中心的論点になっておりません。
団の議論の水準をいかに多くの人に広めるのかが今後ますます問われていくと思います。

ところで、お前は、そのために何をしているのかと問われると、たいしたことはしておりません。大学の授業(当事務所の弁護士四名は三重大学の非常勤講師をしている)で有事法制の話をしたり、たまに頼まれる講演やテレビ出演で話をする程度です。
ただ、焦ってもしかたないですから、古稀の先輩団員を見習い、できるだけ長く、健康に生きて、少しは、社会のためになることをしたのかなーといえるように、そして、なによりも、気力を失わないように、できるだけ五月集会、一〇月総会に参加するように努力することであると考えているわけです。

以 上

追伸 なんで、私におはちが回ってきたか分かりませんが、分散会で、中野前事務局長と目があったのが原因かと、勝手に考えました。これで、ごめんして下さい。



秋晴れのもとで福岡総会

福岡支部  永 尾  廣 久

「福岡は元気だ」

 福岡ドームの隣の大きなホテルが会場でした。28年前の福岡総会はいかにも貧相な海の家のような宿舎でしたから、地元の人間として肩身の狭い思いをさせられました。今回は福岡支部の稲村晴夫支部長・井下顕事務局長を先頭とする入念な受け入れ体制がよく生かされ、質量ともに立派に成功したと思います。とくに総会第一日目の福岡の四弁護士による口頭報告は、地元の私さえ感動したほど素晴らしい内容でした。自由法曹団員の弁護士たちがきめ細かな地域展開を心がけていること、社会的な諸問題について解決の要請を受けたベテラン弁護士が若手弁護士をまきこんだ弁護団活動をすすめ、そのなかで若手が意欲的に諸課題に取り組んでいることなどが確信をもって語られました。「元気な福岡」のエネルギーの源、その秘訣の一端を紹介した感じです。
 懇親会のとき、「荒木栄」合唱団による三池炭鉱労働者の不屈の闘争をたたえる「地底の歌」も心が震える出来映えでした。大牟田に生まれ育った私は当時小学六年生でしたから、なつかしさも感じました。

平和憲法を守れ

 分散会方式については、話が散漫になりがちで、やはり一定のテーマを決めた分科会方式が議論しやすいという指摘も身近に聞きました。それでも、私は日頃あまり考えていない教育問題やら労働問題について、最新の問題状況を認識する手がかりを得ることができましたので、分散会でもよかったと思いました。一長一短は避けられません。
 とくに、北朝鮮の危険性を過度に強調して有事立法の具体化をすすめている動きに抗していかに国民に訴えるかという点について、平和憲法を守る訴えが弱かったことを私は痛切に反省させられました。総選挙のなかでも、自衛隊のイラク派遣が「既定の事実」としてマスコミが争点に掲げようとしない状況は早急に克服される必要があると思います。といっても、がんじがらめの公選法の制約のもとでは、たいした訴えもできないのが残念です。

本を売る

 私の本(『日弁連副会長の日刊メルマガ』)のキャッチセールスを久々にしました。おかげで20冊完売しました。これは札幌の高崎暢弁護士がNTT解雇事件のパンフを必死に売りこんでいたのに触発されたことにもよります。残念なことに、書籍コーナーに立ち寄るのは中高年弁護士がほとんどです。いつものことながら、若手弁護士はチラホラしかみかけません。書籍売り場に黒山のような人だかりができてほしいものです。そこで、私のキャッチセールの被害者も宇賀神前団長のような断わり切れない人の良い中高年の弁護士がほとんどでした(若者よ、もっと本を買って読もう!)。
 福岡の角銅立身弁護士の『男はたのしく、たんこたろ弁護士』も面白いですよ。ぜひ、手にとって読んでみてください。また、同期(26期)の庄司捷彦弁護士(石巻市)は、夫婦二人三脚で布施辰治弁護士の伝記や復刊した岩波新書などを販売して成果をあげていました。本は、書くのは一人でもできるけれど、売るのは一人ではできません。他人(ひと)の助けを借りないことには売れないのです。
 ぜひ、みなさん、私の「売れない本」を買って読んで下さい。お願いします。



新旧役員挨拶(1)

団長退任の挨拶 ー二つの本に触れて

大阪支部  宇 賀 神  直

 私、先日の福岡総会で団長を退任しました。三年間も団長を務めることができましたのは本部役員・事務局と団員のご協力の賜物と厚く御礼を申しあげます。総会の壇上で大阪支部と本部の事務局から綺麗な花束を頂き感激でした。
 総会で団長退任の挨拶として、私は、三つのことを述べました。 一つは団長を務めて、自由法曹団は弁護士の職能集団として素晴らしい団体であることを再認識させられた。頭脳的に優れているというか、理論集団であり、そして行動の集団であり、戦闘的集団であります。有事法制・労働法制・司法改革・リストラ・教育基本法改悪などの闘いにおいて、すばやく情勢と法案を分析・解明しその危険性を明らかにし、意見書を作成して関係当局に対し反対の申し入れを行い、労働者・市民に宣伝する運動を展開しました。集会、署名活動を組織し運動の進展に貢献しています。二つは、団員は弁護士として単位会、日弁連に所属していますが、団員が各地の弁護士会の会長や日弁連の副会長に就いています。しかも複数も。大川日弁連事務総長は団員です。会長などの役員をいいましたが弁護士会の委員会活動なども大切な分野でありその部署でも団員は優れた活動をしています。私はそのことを誇りに思います。三つ目は、情勢が求める団の役割を果たすために質・量ともに団を強化する必要があります。昨夜の懇親会で五六期の団員が紹介されましたが、これからは五〇数名の新人を迎えいれる必要があります。団の後継者・団の将来問題を考える全国会議を五回開き、この総会でその委員会を立ち上げることも決まりました。これで心おきなく団長を退任することができました。
 さて、総会の書籍売り場で二冊の本を買い求めました。福岡支部の角銅立身団員著の「男はたのしく たんこたろ弁護士」と同じく福岡支部の永尾廣久団員の「モノカキ 日弁連副会長の日刊メルマガ」であります。
 角銅さんは、一九九九年総会で古稀の表彰を受けました。その夜の懇親会の席で私は角銅さんの話を聞いて「本にまとめたらどうですか」と薦めた。そんな思いもあって会議中に読みました。角銅さんは、筑紫の炭鉱地帯を流れる遠賀川流域で生まれた生粋の川筋男であると、諌山博さんは紹介しています。この生粋の川筋男は秋田鉱山専門学校に学び、古川鉱業に入り職制に昇進したが、労働者のストに対し会社がロックアウトを宣言して労働者を排除したことに憤慨し「労働者にこんな仕打ちは許せない」と叫び会社を辞めていくのです。そして司法試験に挑戦し、晴れて合格し、一九六五年一七期生の弁護士として福岡第一法律事務所に入り民衆の弁護士としてスタートし、四年後に独立し故郷の田川市に法律事務所を構え弁護活動にあたります。角銅さんは専門の知識と経験を生かし炭鉱塵肺裁判などに取り組み成果をあげる活動を繰広げます。このようにして「たんこたろ弁護士」の弁護士人生が切り拓かれ展開していきます。団員の皆さん、この本を手にして読んでみて下さい。角銅さんには二人の娘さんがおりますが、その娘たちのことにもふれて、父親が田舎で活動する民衆の弁護士の場合、娘たちに迷惑をかけたのではないかと、その思いを述べています。長男を早くに亡くした角銅さんはその分二人の娘に思いを寄せています。
 永尾さんの本は昨年一年間、日弁連副会長時代に毎日の仕事と生活の出来事を九州ブロックの弁護士会役員などへ一年の間に送ったメールを文書化したもので、これは福岡から自宅に戻って書斎でCDを聞きながら読みました。どんなことが書いてあるのか、少し見てみようと本を開いたのですが、どうしてどうして面白くて最後まで読みました。京都のムーミンパパなどと、一三人の副会長に渾名がついていることや、大川事務総長が会議を手際よく進めていること、司法改革問題を真剣に討議していること、そして本林会長をはじめとして酒食のあとによくカラオケで歌うことなどが綴られています。日弁連内部の様子がホンの一部でしょうが分かります。そして、ドイツ・イデオロギー、ベルリンの反戦デモ、映画「初恋のきた道」などのことが書いてあります。二一〇〇円の値段の、面白い読み物です。団員の皆様にお勧めします。
 さて、二つの本を紹介したのは色んな分野で活動している団員がたくさん存在していることをいいたいという思いからです。団員の活動の広がりは、理論・行動の専門集団の奥深さも示すものであります。
 各地の団員の皆さん、活動や仕事、趣味、読書のあり様を団通信に寄稿して欲しいと思います。常連の方々が書くものもよいが、各地の団員の姿が見られる記事が掲載されている団通信は団員同志の交流になり、また団本部と団員をつなぐ凧糸とも言えます。



久重の和み

―退任のあいさつ

東京支部  中 野 直 樹

 傾きかけた陽射しが長者原のすすき野の先に堂々とかまえる三俣山を照らす。大分の秋山は、信州や東北の錦秋の華やかさはなく、全体として枯れ野色におおわれている。その山肌に刷毛を振った飛び散りのように点々と朱が発火している。由布岳を登り終えてきた足のだるさを励ましながら、約二時間、三俣山の西を巻く雨が池越を乗り越えて下り始めると、尾瀬ヶ原のような風景が眼下に見え始めた。標高一三〇〇メートルに広がる坊がツルと呼ばれる湿原の道を、濃さをます暮色にせかされながら法華院温泉を目指した。
 大学時代からの友人、南雲芳夫団員と三木恵美子団員が、私の事務局長退任の慰労登山を計画してくれた。この二人は顔を合わす度に、やれどこどこの山に登った、最高の山スキーができた、あそこの海に潜ったなどと披瀝する。聞かされているだけのこちらは「こんちくしょう」とつぶやいてきた。

 東京の西端に位置する町田市にある事務所から団まで片道一時間二〇分かけて通った二年間は、何をしていても、団の活動のことが頭から離れない日々だった。その二年前に事務局次長を経験したばかりであった。次長は基本的に特定の分野を担当すれば一応事足りたのに対し、局長となると、団が取り組む全分野の内外の動きを頭に入れ、各委員会や闘争本部で練り上げた方針や意見書の到達にも通じていなければならない立場となる。日々流れてくる情報の堰き止めとならないように情報の区分けと割り振りを迅速に行わなければならないし、いろいろな判断を求められると素早く決断しなければならないし、新しい問題に向けた立ち上がりとなるとその本質の把握、団の取り組む基本方向の定め、担い手の確保などの課題が押し寄せてくる。総会や五月集会は構想から仕上げまで三〜四か月くらいかけた一大イベントとなる。中央の諸団体との交流も加わる。
 官僚的事務処理人、運動家、知識人、弁護士稼業をどうバランスをとってやっていくか、は各人の個性と資質と能力により多様性があるだろうし、結局は自分がやれることしかやれないのだと自分に言いきかせるしかなかった。ところが、ブッシュと小泉の二つの政権が、平和と人権における人類の到達を無視し破壊する方向で世界と日本の在り方に根本変更を迫る野望と愚行に走る、かつてない激動の時代となった。団員諸氏にも多様性があり、執行部には容赦のない意見や求めがきたりして、難儀することもあった。執行部でないことの気楽さをどれほどなつかしんだことか。
 総会の退任挨拶で、頭の中の八割くらいが団のことで占められ続けたと言ったが、これは正直な実感である。

 深山の秘湯につかっていると、「長」、「執行部」、「責任」、「任務」などという心に張り付いてきたものがはがれ、張りつめていたものが融解していく。南雲さんが湯殿から濡れ縁に出た。私も湯で暖まった勢いで素裸で外に出た。澄んだ冷気を通して、目を瞠る星座群が眼前に広がった。
 カシオペア、白鳥座、北極星、二人の天文知識はこのあたりでもう枯渇した。しかし、高所ならではの星の多さは圧巻である。
 酒を飲みながら団談義。三木さんも南雲さんも、総会の場での、福岡支部によるミニシンポは刺激的で示唆的であったと評していた。私は、八月の事務局合宿にこの企画案を提案して九月常幹に提起した。私の説明が不十分であったのか反応はいまいちであったが、私は、この企画は必ずヒットすると確信していた。福岡支部の皆さんが執行部の問題意識を的確に受けとめ、すばらしい報告を準備していただいた。あまり同僚のやったことをほめることのない二人が口をそろえてよかったというのであるからこのアイデアは自負してよいだろう。
 私が事務局長になってからはじめた「これからの自由法曹団を考える」動機と意義については、繰り返し団通信に書いてきたし、総会議案書にも記した。この運動はまず、修習生運動支援から学生の人権ゼミ支援へと領域を広げ献身しているごく少数の青法協の若手会員の活動に団としても光を当てるところから出発した。そして、五回にわたる全国会議を経て、団を求心力にしながら事件活動と積極的な事務所展開を行い、全体として受け皿を拡大していく課題にも及んだ。福岡支部の挑戦は、条件の異なる他の地域に直接適用することはできないとしても、今後の事務所建設を考えていく上で、貴重な素材となると思う。
 缶ビールを買い直しながら果てなく続く、三木さんのおしゃべりとそれにつきあう南雲さんの辛抱強さ。私は先行逃げ切り症候群で、スタスタと先に歩く。三木さんは動じず頑固に自分のペースを守る。南雲さんは人の歩みに合わせるずぶとさをもつ。三様の歩み方は酒談義にも投影するものだと妙に感心した。 
四 朝陽が周囲の山の頂にかかり、赤く焼いた。ここは五〇〇年ほど前に天台宗の修験場として開設されたとのことで、この日も白装束に身を固めた山岳信仰の方々が早暁のお勤めをされていた。
 それにしても情勢の動きが激しすぎる。つい先の通常国会まで野党共闘のスタンスをとってきた民主党が、この総選挙を経て、明文改憲論議に突入していく様相となってきた。目先の実利が最大目的となり、体系だとか論理が疎んじられ、立ち止まり別の道がないのかと想像することを拒否する雰囲気がはびこる世相。新しい執行部の前には、これまでに増して困難な道が待っている。
 山遊び人で時間をつくる訓練ができているだろうと見込まれたことも少なからぬ理由のひとつとして、端っこから中央にすえられた私であり、とまどいばかりで、気づかぬ失礼も多々あったと思います。しかし専従事務局を含めた執行部と闘争本部や委員会に結集する皆さん、「助けてください」という声に素早く反応する団員の皆さんの心意気に支えられ、貴重な二年間を過ごすことができました。ありがとうございました。
 さて気を引きしめて、九州本土の最高峰中岳から久住山をめざせと、くじゅう連山を登り始めた。



無事に退任できました

東京支部  齊 藤 園 生

 何はともあれ、二年間の任期が無事に終わってくれました。「団本部のものですが・・・」という突然の電話を、いやな顔一つせず(いえ、顔は見えませんけどね)ちゃんと対応していただいた全国の団員の先生方、事務局のみなさんにお礼を申し上げます。
 私自身は、一年目は有事法制闘争本部、二年目は司法民主化推進本部を主に担当させていただきましたが、どちらも課題満載のてんこ盛りで、本当に息つく暇もなかった二年でした。しかし、さまざまな団体の方と知り合うことができ、一緒に運動も経験でき、実に面白かったなあ、と思います。
 本部にいて思うのは、団内にはどの分野でも、「職人」ともいうべき専門家がたくさんいることと、ここが勝負!という時には、「職人」のみならず、全国の団員が、集中してくる集中力の大きさです。きっと他の法律家団体ではこんなことにはならないでしょう。反面、いざとならないと、なかなか力を集中してこないのも団の特徴です。最近の執行部の人選が定まらないところなどは、執行部にいてとても悲しいし、次期執行部の確保のために現執行部のつかう労力たるや大変で、労力の無駄に思えます。団のためなら一肌脱ごうじゃないか、ともう少しみなさん思ってもいいのではないかと思います。
 団通信に映画評論を書き始めて、いろいろな方から「読んでいるよ」と声をかけられ、団通信が本当によく読まれているのだということも知りました(今まで気がつかなかったというのも失礼な話ですが)。これはもう少し書いてみようと思います。
 二年間いろいろわがままを聞いてくださった、専従事務局の皆さんにもご苦労をおかけしました。ありがとうございました。



事務局次長退任挨拶

千葉支部  馬 屋 原  潔

 次長就任してからの二年間はあっけなくすぎていったような気がする。
 登録一年余での次長への就任に周囲からは危惧する声もあった。しかし団活動に非常に熱心であった事務所に感化されていた私は、無謀にも自ら希望し、次長として団本部に飛び込んでいった。登録一年余では弁護士業務の面でもまだまだ仕事に不慣れであったし、私には運動の経験が今まで全くなかったこともあり、次長の仕事が思うようにできず、周囲には非常にご迷惑をおかけしたことと思う。
 しかし私としては団本部の仕事に非常に魅力を感じていた。団本部での仕事は事務所での仕事よりも楽しく胸がわく日々であった。特に今まで経験したことのない国会要請、明治公園等での集会、デモ、五・三集会の警備などは非常に楽しく、今でも昨日のことのように思い出す。厳しい情勢の日々の中に置かれてはいたものの、本人としては不謹慎ながらうきうきしていた。もっともそんな楽しい時間を過ごしてばかりとはいかず、事務所に帰ると停滞した仕事の山を目の当たりにして絶望的な気分になることもしばしばで、事務所でも業務の停滞から周囲を不安がらせてしまったが・・・
 心残りであるのは、最後、体調を崩し、本年六月以降は活動から遠ざかってしまったことである。活動を遠ざかるようになったのは、私の担当であった裁判交流集会の直前のことであった。そして登録以来総会も五月集会も欠かさず出席してきたのに、自分が退任の挨拶をすべき総会にも出席できず、書面でのご挨拶となり非常に申し訳なく思っている。
 総会に出ることのできなかった不義理は、仕事の経験も積んで一回りも二回りも大きくなって団本部に復帰することで償いたいと本人は思っているので、ご容赦いただければと思う。
 最後に、私のような未熟であった者を次長に選任していただき、最後まで暖かく見守っていただいた皆様には感謝の気持ちでいっぱいである。
二年間、ありがとうございました。



一枚の写真 事務局長就任にあたって

事務局長  松 島   暁

 福岡総会の全体会での新任の挨拶で、以下のような趣旨の発言をいたしました。
 事務局長就任にあたって一枚の少年の写真を思いうかべています。アルジャジーラが世界に配信したイラクの少年の写真です。顔は砂埃にまみれ、両目を見開き、後頭部を吹き飛ばされた少年の写真です。私は、ブッシュやウォルフォウィッツの襟首を引っ捕まえ、少年の傍らに引き据え、「オマエ達のやったことはこういうことなのだ!」と叫びたい衝動にとらわれます。戦争はゲームではないのです。今から五〇年ほど前、北のスターリニストと南の反共民族主義者が、それぞれ武力による統一を唱えて始まったのが朝鮮戦争でした。その結果、二〇〇万人以上の人々の生命が奪われ、一〇〇〇万人以上の離散家族を生みました。韓国の人々は、今、この悲劇的経験をふまえ怨念を乗り越えて、対話と協調の中での統一を目指しています。二度と再び北東アジアで戦争を起こしてはならない、数多くのイラクの少年を生み出してはならない、このことを念頭において事務局長の任にあたりたいと思います。

 私が事務局次長に就任したのが一九九五年、沖縄で米海兵隊員による少女暴行事件が起きた年でした。翌九六年に日米安保共同宣言(二一世紀に向けての同盟)が発表され、九七年には新ガイドラインの策定と米軍用地特措法の改悪が実行され、九九年の周辺事態法、二〇〇〇年のアーミテージ報告、二〇〇一年には九・一一が起き、昨年はブッシュ・ドクトリン、それを受けて今年に入ってイラク戦争と有事法制。この国は、アメリカとともに一歩一歩戦争の淵に近づいているようです。しかも加害者として。

 日頃の言動からして、事務局長の職務が回ってくるなどとは全く考えていなかったし、自分の興味関心からして団の中では違った役割があるだろうと思っていたのですが、荒井新二組織財務委員長の「いざという時はうちが引き受ける」という一言で情勢が一変し、就任の記などを書くことになってしまいました。
 前任の中野さんには、「二年間、本当にご苦労様でした」と申し上げたい。また引き継ぎの際に、「官僚的事務処理人、運動家、知識人、弁護士稼業のバランスを」というアドバイスを受けました。私のこれまでの言動を危惧されたのではないかと理解しています。このことも事務局長の任にあたるに際して、心にとどめておきたいと思います。



事務局次長就任の挨拶

私の第一声(第二声は未定)

事務局次長  大 崎 潤 一

 今回の次長就任は、使い古された表現ですが、私にとっては青天の霹靂(難しい漢字です。パソコンでないと書けません)、サプライズ人事(あくまでボク的に)でした。さまざまな曲折はありましたが、最終的には自由法曹団グループの人事異動の一環と考え、お受けすることにしました。
 今回、次長が決まるまで執行部の方々の苦労は並大抵ではなかっただろうと思います。人選の席では、さまざまなイニシャルが出されたのではないかと思いますが、それが明らかにされることはないでしょう。聞くところによりますと、次長の任期は二年間ということです。最近は、一年目で日本一になったのに二年目の契約途中で特別顧問に就任する方や、二年目に一八年ぶりの優勝を成し遂げその後はあっさりと勇退される方もおられるので、二年という任期はそこそこなのだろうと思っています。
 私は鹿児島人ではありませんが、地位には恋々としません。聴聞の必要はありません。ただ辞表を書いても私には二六〇〇万円もの退職金は出そうにないというのが残念です。
 就任の挨拶なのに退任の挨拶のようになってしまいました。しかし常に引き際を考える、出処進退を自分で決めるという姿勢からこのような文章としました。



推進派の巻き返しにより検討会は新たな局面へ

〜敗訴者負担「合意論」(10・30司法アクセス検討会)

担当事務局次長  坂  勇 一 郎

 一〇月三〇日の司法アクセス検討会の議論は、敗訴者負担の採否を当事者の合意に関わらせる案(「合意論」)に傾斜した。
 従来推進派・事務局は敗訴者負担について「原則導入、例外的に導入しない」という枠組みで議論に臨んでいたが、この間の検討会の議論で「例外的に導入しない」範囲が拡大してきたことから、従来の枠組みを維持することが困難となってきたものと思われる。そこで、推進派が局面打開のために新たに提出してきたのが、「合意論」である。
 「合意論」は敗訴者負担の採否を当事者の合意に関わらせるということが述べられているものの、検討会で述べられている具体的形態はさまざまである。最も広範に敗訴者負担を導入する案は、(A)全面的に敗訴者負担を導入し一部の訴訟に合意により各自負担とすることを認めるという案、である。これに対して比較的敗訴者負担導入が限定的であるのは、(B)原則各自負担とし、当事者の合意により敗訴者負担を選択しうるとする案、である。この中間に、さまざまなバリエーションがあり得る。
 この「合意論」の登場は、第一に、これまでの運動の成果の反映である。反対運動の広がりは「原則導入、例外的に導入しない」という推進派の枠組みを維持し得ないまでに追い込んだ。しかし、第二に、「合意論」は推進派の巻き返しであることは間違いない。この「合意論」はこれまで反対運動が「適用しない範囲」として勝ち取ってきた議論を御破算にしかねない危険性を有する。第三に、「合意論」はいかなる根拠により正当化されうるのか、「司法アクセス」や「公平論」とは別に、新たに「私的自治」という根拠が見え隠れする。
 検討会の日程は、次回一一月二一日を最後に入れられていない。事務局は、敗訴者負担問題について次回検討会においてとりまとめを図るものと予想される。一〇月三〇日の議論状況から、事務局・推進派が、前記の(A)を基本とした方向で強引にとりまとめを行う危険性は高い。
 他方、(B)は妥協案としての性格を有する。しかし、この案は、(1)敗訴者負担に合意しない当事者は、裁判に自信がないという心証を裁判所に抱かせることになりかねず、当事者は敗訴者負担という「踏み絵」を踏まされることになる(裁判官の心証への影響)、(2)この「踏み絵」は社会的経済的強者には踏みやすいが、社会的経済的弱者には踏みにくい、(3)不法行為訴訟等における損害認定に悪影響を及ぼすおそれがある、(4)裁判にギャンブル性を持ち込むことになる、等の問題点が指摘されている。
 運動の展開により、新しい局面を迎えたことは間違いない。この局面をどう乗り切るか。敗訴者負担の法案提出期限は三月と見られる。検討会における最後のつめと選挙後は国会対策、地方議会対策が本格化することになる。「合意論」が具体的にどのように展開するかにかかわらず、司法アクセスの観点から敗訴者負担導入に反対すべき基本にかわりはない。日弁連も呼びかけているが、国会議員対策、一二月地方議会における敗訴者負担反対決議の運動を、是非積極的に展開して欲しい。



対話姿勢の欠如した日本政府にNGOが反発

ー自由権規約NGO非公式ヒヤリングに参加してー

東京支部  鈴 木 亜 英

 市民的及び政治的自由に関する国際規約(いわゆる自由権規約)の政府報告の「提出」が大幅に遅れている。昨年一〇月までの期限を守らなかった政府はこの間その理由も明らかにして来なった。規約上「審査」は五年ごとと定められ、第五回の審査は本年中となっていただけに、人権報告を遅らせた政府の規約上の懈怠は明らかであるが、それに止まらず人権を保障すべき当の国民に対する義務違反にも当るだろう。
 この遅れはNGO間では話題を呼び、政府が報告書を作成できないのは、肝心の省庁の協力がないからだとか、名古屋刑務所問題が致命傷となっているからだ、などの噂が飛び交った。ともあれ、これまで比較的期限を守ってきた政府のこの対応は誰にも異常と映ったのである。

 ところが、九月下旬になって、外務省人権人道課から、突然自由権規約の第五回政府報告及び拷問禁止条約の第1回政府報告の作成に当って、意見募集とNGO非公式ヒヤリングをしたい旨の連絡があった。すでに非公式ヒヤリングは一昨年一〇月二三日に行われており、改めての呼びかけに戸惑うとともに、余りの短兵急な日程に誰もが驚きを隠せなかった。登録は一〇月一日、ヒヤリング実施は同月七日、意見募集等は同月一〇日迄と云うのである。日程調整も意見準備も困難という混乱のなかで、自らの遅延は口を閉ざしたままの高飛車なこの態度にNGOの批判は一気に高まった。

 日本政府の人権報告に対する評判はこれまですこぶる芳しくなかった。法条を羅列するだけで、何の問題もないとするのが常であり、そこに国民が置かれた人権状況を垣間見ることは出来なかったからである。しかも、報告書の審査に当っても、規約人権委員会に対し頑なな姿勢に終始し、立場の正当化に腐心する姿しか見えなかったからである。こうしたことから、委員会は報告書の作成に当ってはNGOとの予めの対話を心掛けるようにしばしば勧告してきたのである。その意味で、政府が前回の第四回報告及び今回の第五回報告では、それまでNGOとは没交渉で報告書を作成してきた態度を少し改め、作成に当っては予めNGOの意見を聴くようになったのは前進と云えた。しかしそれは申し訳け程度で、中味がなく形だけのものであった。要するに本当に対話しようという姿勢が全く欠如したものであった。聴き置くだけで、報告書への反映は何ひとつなかったのである。

 今回の意見募集とヒヤリング開催の連絡は政府のこうした姿勢が少しも改まっていないことを如実に示したものとなった。NGOの意見提出の期限を、「一〇日の消印有効」などと記して憚らないのであるなら、一年以上も遅延することになる報告書の提出期限について改めてわれわれは有効な「消印」期限を政府に求めたいのである。四三ものNGOが政府のこうしたやり方に対し、透明性を確保し、説明責任を果たす姿勢に欠けるとして一斉に反撥し、外務省に対し要請書を提出し、懸念を表明した。要請書は大幅遅延についての理由説明と今後の対応方針の欠如について厳しい反省を求め、一二項目を要求した。この中で、前回のヒヤリングの結果が今回の報告書作成に当ってどのようにそれが生かされたのかを明らかにしないままの改めてのヒヤリングの意味が厳しく問われている。また、前回の第四回審査を経て委員会により採択された「最終見解」によって勧告された諸事項についてその履行状況の説明も強く求められている。

 政府がいわば次回までの宿題とされた諸課題について、そのフォローアップを意図的に怠ってきたことは選択議定書の批准ひとつとっても明らかである。選択議定書の批准がなぜ遅れているのか国民の前に明らかにすべきである。説明責任を果たさないままの事態の推移は対話の欠如と云われて弁解の余地はないであろう。政府は規約人権委員会から裁判所等の司法的救済とは別に人権救済のための有効な国内的機関の設置を求められている。政府はこれに応答するつもりなのか「人権擁護法」案を国会に上程したが、廃案は時間の問題となっている。最も求められた「政府からの独立性」に答えていないために強い批判が集中したからである。人権について国民と対話する姿勢を欠き、役所本位の発想しかないために人権擁護機関設置の失敗を招いたとも云える。説明責任を果たさず、対話姿勢を欠いた政府であるが、その根本に人権の無理解と軽視が横たわっていることは云うまでもない。

 一〇月七日に外務省で開催されたNGOヒヤリングに私は団を代表して参加した。冒頭今年四月から人権人道課長となった嘉治美佐子課長が、NGOからの厳しい申し入れに答えるかたちでこれまでの経過を説明し、来年四月までに報告書を完成させたいと約束した。他省庁への遠慮があってか十分とは到底云えなかったが、他省庁、とりわけ今回は刑務所問題や人権擁護法案失敗の法務省の責任も大きいと痛感した。
 かなり多くの団体が割当て発言時間二分の大半を割いて政府の対応のまずさを指摘した。私はこれまで団の国際問題委員会を中心に重ねてきた人権学習会の成果を発言課題として予め通知しするとともに、当日は自由権規約が国内法に対し優先的地位を与えられていない実態を具体例を挙げて指摘し、政府の「公共の福祉論」を批判した。

 ともあれ、自由権規約問題が動く気配が少し見えてきた。私は団が国内の人権状況を実践的に検証し、人権課題を共同して闘う団体と協力しながら、人権の欠如と不十分を厳しく指摘するときが今であることを改めて訴えたい。