<<目次へ 団通信1127号(5月1日)
吉田 健一 | 土地収用訴訟で取消判決−圏央道建設に明快な違法判断 | |
岩佐 英夫 井関 佳法 |
美山育成苑・梅津事件、大阪高裁で勝利和解・原職復帰! | |
金野 和子 | 涙と愛の連帯を | |
杉本 朗 | 三月二〇日に思ったこと |
東京支部 吉 田 健 一
一 道路建設の必要性を否定
圏央道あきる野土地収用事件について、東京地方裁判所民事第三部(藤山雅行裁判長)は、四月二二日、圏央道(首都圏中央連絡自動車道)建設に関する国土交通大臣の事業認定(二〇〇一年一月一九日)、及び東京都収用委員会の収用裁決(二〇〇二年九月三〇日)をいずれも取り消す判決を言い渡した。藤山裁判長は、昨年一〇月三日、同収用裁決にもとづく代執行を停止する旨の決定を下し、住民無視の公共事業や行政のあり方に歯止めをかけたが、その本案にあたる事件の本判決では、さらに圏央道建設事業の必要性まで否定する判断を下した。
二 ハッキリ、スッキリと違法判断
この判決は、まず第一に、住民に受忍限度を超えるような道路公害が生ずる瑕疵ある道路を設置する事業を認定することは、行政の裁量を議論する余地がなく違法であるとした。
第二に、不十分な十数年前の環境アセスメントにもとづいて行った事業認定が問題であると指摘し、受忍限度を超える騒音被害が生ずる瑕疵ある道路を建設する違法な事業と批判した。また、環境基準を上回るSPMが発生し大気汚染により相当重大な結果が生ずるおそれがあるにもかかわらず、事業認定した点も違法と断じた。
第三に、都心や周辺道路(国道一六号、四一一号)の混雑・渋滞の緩和のためという行政側の主張は、具体的な根拠がないとし、収用予定地に建設されつつあるあきる野インターチェンジのみならず、圏央道そのものについて建設する必要が認められないとした。
第四に、本件の場合に、あきる野インターを建設しない場合の代替案の検討が必要不可欠であり、その検討を怠った事業認定には合理性が認められないとした。
以上から、判決は、国土交通大臣による本件事業認定が土地収用法二〇条3号で定める要件(「適正かつ合理的な土地利用」)を備えるものでなく違法であり、その違法は、東京都収用委員会の行った収用裁決にも承継されるとし、これらの取消を命じたのである。
三 行政に対する鋭いチェックと限界
この判決は、無駄な公共事業や道路公害の激化に対する国民の批判にこたえるものとなった。そこには、大気汚染や騒音公害などに対して、損害賠償のみならず差し止め判決まで勝ち取ってきた裁判闘争の成果が反映されている。莫大な税金を投入して建設した道路によって、公害による深刻な健康被害がもたらされる行政に、深刻な反省を求める司法判断といえよう。
しかし、他方では、判決で違法とされた収用裁決にもとづいて、代執行手続きが進められ、家の取り壊しや退去を余儀なくされている住民らの現実がある。収用裁決に対する執行停止決定が高裁で覆され、最高裁も停止を認めなかったからである。
このような歯がゆい思いを反映してか、判決は、事業計画段階からの司法の関与する必要性など制度的な提起も行っている。その意味でも、画期的な判決ではある。
けれども、現に立ち退きを迫られている残された住民の声に司法は応えることができないのか。私たちには、判決の言い渡しを受けた直後に、再度の執行停止申立というチャレンジが待ちかまえていた。判決当日二二日の午後一番で、予め準備していた執行停止を申し立てたのである。ところが、東京地裁民事三部(鶴岡稔彦裁判長、なお藤山裁判長は異動)は、二六日午前一〇時、これを却下してしまった。執行停止は、すでに最高裁で決着済みというものであり、司法の限界・矛盾を自ら示す決定であった。
しかし、本案判決で示された行政の違法を最終的に明らかにし取消判決を確定させるために、住民のたたかいは続けられる。これまでのご支援に感謝するとともに、今後のいっそうのご支援をお願いする次第である。
京都支部 岩 佐 英 夫
井 関 佳 法
一 相次ぐ不当処分
梅津さんは重度の知的障害者施設「美山育成苑」(理事長は自民党参議院議員)の指導員です。
梅津さんは、苑から飛び出し行方不明になった苑生A君を連れ戻すとき、暴れてかみつこうとした時の抑制行為を「体罰」を加え鼻血を出させたとして、「自宅謹慎」の後、一九九八年八月、停職六ケ月の重い処分を受け、停職処分解除後も指導員の仕事から外されて草むしりなどの「環境整備業務」をさせられました。
さらに、一九九九年五月、町が住民の声を聞くために主催した区長会で、梅津さんは地元住民を代表する立場から、苑の増設計画に関して、苑生が地元の集落にさまざまな迷惑をかけてきたことや水問題でも地元に負担をかけてきたことを指摘し、増設するならきちんと地元に相談してほしいこと、また当時、中央・地方を問わず福祉関係の汚職・不祥事があいついでいたことから町に対し指導を求めました。
苑は、この発言が秘密を漏らし名誉を毀損したとして、三ケ月の減給処分の後、二〇〇〇年一月以降、全く経験のない厨房の仕事に配転するという不当処分を連発しました。そして職員会議にも出席させない、慰安旅行にも参加させない等の差別、仕事上でも、わざとミスを誘おうとする陰湿ないじめが続きました。
二 事件の背景
梅津さんは、もと自衛隊員でしたが老父母の世話をするためと、違った人生を歩みたいという想いから退職しました。一九八三年に美山育成苑に常勤職員として採用され、一九九〇年には「主任」となり、将来を担う職員として嘱望されていました。ところが、梅津さんは正義感が強く、苑の経営者の恣意的な人事を批判したことから、新首脳部に睨まれて一九九六年に一指導員に降格されました。
また、A君の事件の一週間くらい前に、苑はそれ以前の一連の不祥事(これらは梅津さんには関係がない)について京都府から監査を受け、職員への「研修」を行っていました。本件の背景にはこのような事情がありました。
三 裁判での粘り強いたたかい
苑は当初懲戒解雇を狙いましたが、梅津さんは地元等の支援ではねかえしました。しかし、苑が次々と不当処分を行ってきたため、二〇〇〇年七月、京都地裁に提訴し、全国福祉保育労働組合に加盟して闘ってきました。裁判ではA君への行為が決して「体罰」ではなく、やむを得ない「抑制行為」であったこと、A君が「強度行動障害」で指導困難な苑生であることを、京都市の同種施設の指導員(京都市職員労働組合員)にも証言してもらいました。また区長会での発言については、増設計画が秘密ではなく公知の事実であり、地元住民の要求を代表する公的発言であること、汚職問題はあくまで一般的な発言で苑を指すものでないことなどを主張・立証しました。
二〇〇二年四月、京都地裁第六民事部は、梅津さんの主張を基本的に認める判決を言渡しました。但し、秘密漏洩・名誉毀損については、こちらの証拠が不十分として認められませんでした。
苑は控訴し、新たに日本児童青年精神医学会会長等の肩書をもつK医師の意見書を提出するなど必死の巻き返しを図ってきました。
梅津さんも附帯控訴し、苑の巻き返しに対して仏教大学社会学部健康福祉学科の植田助教授に、福祉施設での指導の理念、福祉職場の「専門性」、労働者の権利への配慮、施設と労働者との民主的な関係等を明らかにする意見書を作成していただき提出しました。当初はK医師を正面から批判してくれる専門家を探すのに大変な苦労がありました。
裁判所からK医師への反論を早く出すようにとせかされて時間の余裕がないことから、この意見書は、植田助教授・弁護団・福祉保育労組が数回にわたる対談でさまざまな質問をして植田助教授に答えていただき多くの貴重な資料も提供していただいたものを整理するという形で作成されました。この整理のために二〇〇二年の年末から〇三年の正月にかけての一〇日間くらいは、除夜の鐘をききながらパソコンを打つという毎日でした。
また粘り強い追求でA君の「苑生の記録」を提出させました。この資料に基いて、A君が他の苑生とトラブルを起したり苑の外へ無断で飛び出すことが日常的にあること、またちょっとした興奮で鼻血を頻繁に出す体質であったこと等を客観的なデータに基いて明らかにしました。こうして、いかにA君の指導が困難であったかをリアルに整理し、これを梅津さんの娘さんがパソコンに打ち込んでくれました。
こうした努力の積み重ねで、高裁の裁判長は「梅津さんも大変だったんですねぇ」と法廷で発言し、和解勧告がなされました。
四回にわたる和解交渉の結果、停職処分・配転の無効を前提に配転時点に遡っての地位確認、原職復帰、停職処分中の昇給延伸等の回復、解決金の支払等の条件で和解が二月二三日成立しました。
リストラ解雇が横行する現在の情勢のもとで、配転事案で原職復帰を実現したことは、貴重な勝利といえます。高裁の和解成立の期日に苑長が和解室に入室せず、梅津さんが原職復帰する直前に退職したことは、この勝利和解の性格を象徴しています。
四 勝利の要因
勝利の要因としては、先ず梅津さん本人の人柄があります。梅津さんは苑生に信頼されていました。裁判の途中でも、同僚がなかなか勇気ある発言をしてくれないなかで、苑生が梅津さんを励まし復帰を望む手紙を何人も自発的に寄せてくれました。そのひとつを紹介すると、たどたどしい字で次のように書かれています。
「はやく たんとうに もどってきてください まっています みんな まっています りょこうに いこう」
これをそのまま証拠提出すると、今度はその苑生や保護者がいじめられるので、適切な機会に事実上裁判官に見てもらいました。梅津さんの復帰を誰よりも喜んでくれたのは苑生と保護者でした。「もとの楽しい苑にしてや」と保護者から声をかけられたそうです。
また、美しい農村である美山町の地元住民の暖かい支援が梅津さんを支えてくれました。梅津さんは、おいしい「万願寺とうがらし」や「すだち」などを産直野菜として提供する農民でもありました。農民組合の仲間をはじめとする地元住民が中心になって三回にわたる激励集会を開いてくれました。
提訴して福祉保育労働組合に加盟してからは、福保労が裁判傍聴は勿論、苑や理事者への申し入れ、署名活動、集会の準備など献身的に支えてくれました。
こうした支援の輪が勝利を生み出したといえます。
梅津さんは、四月二三日の勝利報告集会で、支援に対する感謝とともに、定年までの数年間で職場に組合の跡継ぎを残したいと、こぼれるような笑顔で力強く語りました。弁護団もこうした事件に参加できて幸せだったと思います。
秋田県支部 金 野 和 子
1.韓国ドラマ「冬のソナタ」は、今、日本では大ブームとなっている。
実は、私にとっても「近くて遠かった国」韓国への関心は、昨年初夏、ふとテレビを見、冬のソナタの映像に接しファンになったことから始まった。それは私自身の若き日の思い出を辿るものでもあり、ソウルの街並にどこか懐かしさを感じるようになった。私の青春は戦争であり戦後の焼け跡であった。私は敗戦の時一八歳だった。その頃のセピア色の思い出には、終戦翌月の母の死(母の病死は明らかに疎開の苦労が原因だった)や東京空襲で家が焼失した夜のこと、食糧難で買出しに行ったこと、学徒出陣を見送ったこと、そして戦争の影が国民生活にも強く影響し始めた太平洋戦争(一九四一年一二月)前のテニスに夢中になっていた女学生時代などがある。
私が戦争は瞬く間に国民の生活を破壊するものであることを体験した時代であり、徹底した軍国主義教育をうけた私と同年輩の男性達が特攻隊として死んでいった時代であった。昨年秋、鹿児島の知覧基地跡を訪ねた時、一八歳から二〇歳位の若い遺影が一〇〇〇名余も並んでいるのを見て、私は涙が止まらなくなった。そして、その中には朝鮮出身者も入っていた(日本の軍国主義は朝鮮の若者にまで一九三八年陸軍志願兵制度を採用し、一九四三年徴兵令を施行していたのだ)。そのようなことで、私は昨年から現在の韓国への関心が次第に強くなり、この度、東京支部の韓国平和ツアーに入れていただいた。
2.出発前、韓国の歴史を年表をたどりながら改めて勉強し、日本帝国主義の凄まじい植民地支配や、一九四五年日本の敗戦後、独立の喜びもつかの間の朝鮮戦争勃発、いまだに続く南北分断の民族の悲劇、軍事政権下の光州事件等、一八九四年の日清戦争時代以来約一世紀にわたる韓国国民、朝鮮民族の苦しみに対し、私は涙を流し、そして、今回のメインである韓国と日本の弁護士のシンポジュームの後の若い音楽家達の希望に満ちた歌声を聞き、私はまた涙が止まらなくなった。
今回、初めて韓国に行き、顔形だけでなく生活様式も非常に日本人に似ており、世界の中の近い親戚のような親近感を覚えた。それと同時に、堤岩理教会記念館、柳寛順の碑、独立記念館、景福宮、明成皇后(閔妃)遭難地、安重根記念館、西大門刑務所跡などを見学し、日本の植民地支配による韓国民の味わった想像を絶する苦痛に対し、涙と共に許しを乞うて頭を垂れるのみであった。そして、李朝時代の王宮景福宮の光化門を移して、一九一六年着工、一〇年の工期を要して建てられたという日本の植民地支配のシンボルともいえる朝鮮総督府の建物が、金泳三大統領時代、祖国解放五〇周年記念日の一九九五年八月一五日撤去式が行われ今では景福宮には跡形もなくなっていたことが、これまで如何にこの傲慢無礼な建物が韓国国民の神経を逆撫でしていたかを考え、いささかホッとさせられた。
春寒く頭(ヅ)を垂るるのみ閔(ミン)妃(ピ)の碑
柳(ユ)寛(ガン)順(スン)白梅香る碑なりけり
景福宮総督府跡陽炎へる
3.尚、韓国のジャンヌ・ダルクとして称賛されている女学生柳寛順(一九〇四年〜一九二〇年)と同じ頃に、日本でも私の母校である東京女子大の先輩伊藤千代子氏(一九〇五年〜一九二九年)が東京女子大を卒業後、日本共産党党員となり、君主制の廃止、言論・出版・集会・結社の自由、帝国主義戦争反対、植民地の独立、八時間労働制等の活動のため一九二八年三・一五事件で逮捕され、獄中の拷問虐待に抗し続け死亡しているという柳寛順と同年輩の日本の女性達がいたということも韓国の方々にお伝えしたかった(「こころざしつつたふれし少女(おとめ)」日本共産党中央委員会出版局)。又、私が担当した秋田相互銀行の男女賃金差別事件の判決(一九七五年)が、一九九二年、韓国で男女同一賃金を求めて訴訟していた国民銀行のイ・ソンジャさんによって韓国の法廷に提出されたとの話をお聞きしていたが、その経過や韓国の女性労働の現況もお聞きしたかった。
ともあれ、今回の韓国平和ツアーは私にとっては韓国国民に対する涙と愛情を深める旅行となった。今後の韓国の民主化の一層の発展と南北統一の実現を祈りつつ、日本からの涙と愛を込めた連帯の心を伝えたい。(この原稿は東京支部の報告集に寄せられたものですが、金野団員と東京支部の了解を得て掲載させていただきました)
神奈川支部 杉 本 朗
二〇〇四年三月二〇日の東京は、朝から冬を思わせる冷たい雨が降り続いていた。
この日は、青法協が中心になっている第一二回人権研究交流集会の第一日目だった。私は、会場となっている早稲田大学国際会議場の一室で、青法協本部にかかってきた電話が転送される携帯をもって、荷物番をしていた。そこは一応、実行委員控室だったのだが、ほとんどのスタッフは荷物を置いて作業に出かけてしまうので、誰か一人暇な人間が荷物番をしている必要があったのだ。
特に青法協本部への電話がじゃんじゃんかかってくるわけでもなく、集会のスタッフは作業に行ってしまい、がらんとした部屋の中で、私はぼーっと過ごしていた。
都内のあちこちで、アメリカのイラク侵攻が始まって一年のこの日、集会が行われることになっていた。青法協本部への電話のいくつかは、日比谷は外でやるんですか屋内ですか、とか、芝公園の集会はやるんですか、といったものだった。
私が二〇〇三年の三月二〇日何をしていたか振り返ってみて、夕方クレオで、姜尚中と酒井啓子のパネルディスカッションを聴いていたことを思い出した。イラク情勢と北東アジアの安全保障がテーマだったように記憶しているが、姜尚中がアメリカがイラクへ侵攻したことに触れて「今日三月二〇日という日を世界が忘れることはないでしょう」と言っていたのが印象的だった。あとは、酒井啓子って頭いいなぁ、さすがアジ研の人は違うなぁ、と感心していた(後日、彼女が自分とタメだと知って、愕然とした)。
そんなことをぼんやりと思い浮かべていたら、もっと前の三月二〇日のことを思い出した。まだ私が横浜の大倉山というところに住んでいた頃の話だ。東京の渋谷から横浜の桜木町まで東急東横線という私鉄が走っていたのだけど(過去形なのは今年の一月一杯で東横線の横浜〜桜木町間は廃止になり、横浜からはみなとみらい線に乗り入れ、元町中華街へ行くようになってしまったからだ)、大倉山というのはその途中にある。大倉山の駅まで歩いて東横線に乗って桜木町まで行き、そこから横浜法律事務所まで一〇数分歩く、というのが当時の私の通勤経路だった。その年の三月二〇日もいつものように事務所へ行こうと大倉山の駅まで行ったら、地下鉄日比谷線でガス事故があったので、東横線のダイヤが乱れているという構内放送があった。東横線は渋谷の二つ手前の中目黒という駅から日比谷線に乗り入れている。勿論ガス事故というのは誤報で、オウム真理教の人々によって、サリンが撒かれたのだった(正確には、地下鉄サリン事件が起きたときと、それがオウム真理教の仕業とはっきりしたときとの間には、時間的間隔があるのだが、今の時点で振り返ると、その間隔は飛んでしまっている)。
その後、松本智津夫に死刑判決が下されたのちの今日に至るまで、オウム真理教に入った人たちに対する膨大な言説がなされたのだけれども、それらの比較的多くのものは、なぜあんな怪しげなものを信じるのか分からない、という基本的な態度に立っていたように思う。
しかし、何らかの超自然的なものを信じる心情というのは、私たちの中にないだろうか。これは私が大学でカウンターカルチャーにどっぷりつかり、いわゆる「おたく」の先駆けのような人たちとつきあいがあったせいなのかもしれないが、あのオウムの怪しげなものを信じる人たちがいるというのは、私にはよく分かる。自分を振り返ってみて、ほんのちょっとしたことがあれば、自分だって林郁男とか中川智正とか、そういう人になっていたと思う。もっともそもそも医学部には入れなかったろうけれど。
何か本質的な違いがあるわけではない。ただ偶然、私はオウム真理教に入らなかったし、VXもサリンも撒かなかったし、銃器を密造することもなかった。私の目の前に広がる野原を歩いていくと気がついたら彼らと一緒にいるような気がする。いや、オウムだけではない。自分が一九四〇年代のドイツにいたら、あるいは一九九〇年代のボスニア・ヘルツェゴビナにいたら、民族浄化作戦の先頭に立っていたかもしれない。少なくとも、絶対に先頭には立っていなかった、と言う自信は私にない。
「彼ら」と私を隔てるものは何もない。それが二〇〇四年三月二〇日、荷物番をしながら思ったことである。