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篠原 義仁 申請から七ヶ月余で過労死認定
永尾 廣久 五月集会雑感についての弁明
神田  高 怒ー“アジア最後の植民地・沖縄”
森  卓爾 拘禁二法案再提出の動き
守川 幸男 九条の会発足によせて
―東京への行き帰りの車内で詠めり―
坂 勇一郎 九・二八日弁連集会で与野党の国会議員に反対の声をアピールしよう
〜大詰めを迎える敗訴者負担問題




申請から七ヶ月余で過労死認定

神奈川支部  篠 原 義 仁

 八月五日、横浜北労働基準監督署長は、大型設備の配管配線工事に携わっていた現場労働者の労災申請につき、これを過労死と認め、支給決定通知を送付した。

 本人(川崎市川崎区居住。昭和二二年三月生まれ)は、平成一五年八月一四日、木更津の空調工事作業に従事中、くも膜下出血で倒れ、救急車で木更津市所在の君津中央病院に搬送され、入院したが、同月一七日、くも膜下出血を直接死因として死亡した。四月以降、県外への出張業務がつづき、異常に長時間の拘束時間の中で、業務が加重し、この死亡事故を招来した。
 本件業務は、日管工業渇。浜支店から進興設備梶i東京都文京区)へ、次いで、(有)協和電気設備(横浜市港北区)に下請けされ、本人は従前の現場同様、(有)協和電気設備の指示を受け、現場直行で本件業務に従事していた。
 ちなみに(有)協和電気の業務に従事するようになったのは約五年前で、同社の仕事先はNTT関係が多く、この外さくら銀行(当時)の各支店関係の仕事があった。
 ところで、家族は、突然の出来事に出会い、頼る人もなく、会社社長と連絡をとることによってこの事件に対処していた。他方、会社は事故直後に横浜北監督署に相談に行き、その相談の結果、残業が少ないこと、労働契約か請負契約か不確かな契約関係であることを理由として労災認定が困難であると監督署に「指導」を受けたとして(但し、その後の監督署との面談で、相談の事実はあったが監督署がそのような「指導」をしたことがないことが判明)、家族に対し、ダメを前提でともかく労災申請をしよう、その申請手続きは会社にまかせてくれと申し出て、他方家族も、これを受け入れて「会社の親切」に感謝して、会社経由で労災申請をする段取りとなった。その一方で、なにがしかの割り切れなさを感じ、電話帳を見て川崎合同法律事務所を見つけ、一〇月三一日にその法律相談を受けるところとなった。
 そして、たまたま私の相談担当日にこの事件の相談が割り当てられた。
 川崎合同には、若手を中心にして過労死事件弁護団に加入している者もいるが、私は、労災・職業病裁判はそれなりの経験はしているものの、過労死事件や同種の事件については二〇年ほど前に南雲芳夫弁護士(現在は埼玉県熊谷市で開業)が入所した一年目に川崎コンビナートの一画に位置する川崎化成川崎工場で発生した勝田労災につきあった程度で(修習生時代、大阪修習であった南雲さん、影山さん=横浜合同に入所、佐藤さん=東京南部に入所、は、一つの借家に三人住まいをし、大阪での過労死事件弁護団に修習生時代から参加し、従って、私よりこの分野の取り組みは詳しく、私はごく補助的な仕事をしたのみで南雲弁護士が一年目から主任として切り回し、見事、労災認定を勝ち取った)、過労死に係る認定基準の改定のあったことは知っていたものの、実践には極めて乏しかった。
 しかし、事務所の約束事ではじめに法律相談にのったものが、その責任上、その仕事をするとのきまりに基づき、この事件を担当してゆくこととなった。

 さて、どうするか、決断は簡単で、相談者からの聞きとり、一定の証拠収集ののち、つまり相談を受けた一週間後に二〇数年来、つきあいのある専門医にご指導を仰ぐため、その意見を聞くこととした。そのため何年かぶりに電話をし、その要請を行った。事件を一定程度説明したところで、その専門医は改訂された認定基準作りに委員会の委員として参加したので個別事件の相談にはのれないと回答してきた(不勉強の私は、「えらい先生」とは承知していたものの、認定基準作りに関与していたとは不覚にも不承知だった)。このままでは引き下がれない私は、長い付き合いのあることを強調し(正確にいうと私個人ではなく川崎合同として)、それはそれとして一般的知識をえるための一般的相談でいいのでと引いた議論をし、その結果、面談しての指導、教示を快諾してもらった(「一般的相談」なので「家族同行は不可」、弁護士一人のみの面談)。
 二日後の面談で、私は一般的事件に係る「一般的個別的相談」を受け、他病、他原因に係る鑑別診断の内容につき突っ込んだ議論を行うことができ、この面における確信をもつところとなった。
 一方、本件に係る労働者性の問題、労働過重性の評価にあたっての「出張先への移動時間」、「通勤時間」の取扱の実情について、詳細は省略するが、私が全労働神奈川の顧問となっている関係上、全労働から重要な示唆、助言を受けてこの事件に対処できるところとなった。
 こうして、この分野の私の実践不足を埋めながら、着々と労災申請の準備を進めていった。

 気の重い事件を抱えて年を越したくないという思いから、一二月二二日担当者に予め約束をとった上で、家族(妻と子ども二人)に同行し、横浜北労基署に労災申請を行った。
 本件の処理にあたっては、他病他原因論との関係では、直近の六月一一日に定期健康診断が行われていて、高血圧であることを認めつつ異常なしと所見されていたこと、その高血圧も二年前の八月二九日から病院において治療継続中で医師管理のもとでの内服加療で血圧は安定的に保たれていたこと、奥さんが元看護婦で月一回きちんと血圧測定し、それをノートに記載していたことなどもあって、有力な資料が確保されていた。
 他方、労働者性については、私の当初の書面では(鑑定意見書等というのはおこがましいので労災申請補充書として提出)、労働契約と請負契約の混合したような表現を随所に記載してしまっていたが、前記助言を得て追加の書面(同その二)では、労働契約であることをクリアーにするために補充資料の収集と家族聞きとりを行って整理した。それ以前の仕事の形態(これは明らかに専属的下請としての請負契約)と比較しての本件業務内容の展開、賃金体系(日給月給制。二〇日締めの当月末日払い)の説明、請負ならそうだろうといわれかねない「サービス残業」の常態化、その中でわずか二回ながら「残業賃金」が支払われていたことの強調、現場直行、現場引揚げ業務であるが、現場直行は現場毎に「業務命令」として会社指示があったことの強調、労働時間、時間管理(原則午前八時から午後五時)の実態等々をていねいな形で主張した。
 また、出張先への「移動時間」か単なる「通勤時間」かについていうと、基本的には「通勤は労働力を提供するために必要な行為であるが、業務ではないことから通勤時間を業務の過重性の評価対象とすることはできない」とされているため、出張先への移動時間(「出張先への移動は、一般的には、実作業をともなうわけではなく、また、会社から受ける拘束の程度も低いことから、通常の業務から受ける負担と同一と評価することは適切ではない。そのため、出張先への移動時間については、自ら乗用車を運転して移動する場合や、移動時間中にパソコンで資料作成を行う場合など、具体的に業務している実態を除き、過重性評価を行う労働時間としては取り扱わないこととする。なお、出張先への移動時間については当然に拘束時間に含まれることから、拘束時間としての評価、検討が必要である」)の枠組みにおいて主張を構成し、それを業務過重性の判断要素に組み入れることが求められた。
 ちなみに、本件では本人が「出面」代わりに毎日の仕事内容、就業場所、就業時間を大学ノートに記帳していた(証拠的にはこれが決め手で、労災認定の最大・最良の資料となった)。
 ところで、本件にあっては川崎区の自宅から県内はもとより県外としては比較的近い都内のほかに、千葉県(市川、木更津、銚子、柏)、埼玉県(熊谷)、(静岡県(三島)の出張業務があった。
 但し、これら常態化している県外(都内を除く)業務を通常の通勤と見るか出張と見るかについては大論争はしなかったものの、主任監査官との間でどう評価するか微妙なやりとりを行っているところであり、これを業務実態からしてどう出張と認めさせるか、その工夫が要求された。
 これについては、五年前の請負時代の現場は県内に止まらず県外仕事もあったが、五〇歳をすぎ体力的な衰えを感じるようになってからは、(有)協和電気設備が横浜市港北区所在で、神奈川県内中心の仕事であったため前記請負仕事を辞めて、同社に入社したという事実を最大限強調した。
 ところが、経済不況の中で同社は県内の仕事のみでは経営が維持できず(大学ノートの記載から平成一五年三月までは県内中心の仕事であったことは明白)、仕事確保の関係から徐々に現場が県外に発展していったこと、仕事もほとんどNTT中心であったのが、さくら銀行等他社へと展開していったこと(現場も多様)、したがって、平成一五年四月以降の県外業務は出張にほかならないことを主張した。
 本件にあっては、通常の過労死事件と同様に一定の深夜勤(工事現場は営業を継続しながらの仕事で、営業上の支障を避けるため銀行等では夕方から深夜の仕事が多かった)、残業(但し、現場仕事で本人自身の時間管理なので厳密ないみでの残業時間の把握は不可能。現場と移動経路、移動時間、帰宅時間から残業時間を推算するしかない)はあったものの、監督署のモノサシからいうと完全に不足し、労働者性の判断とあいまってこの出張の移動時間をどう評価するかで業務上外の結論が分かれるように思われた。

 結果は、私たちの心配を乗り越えて、前記のとおり労災認定を勝ち取ることとなった。
 下請け仕事の現場で、しかも現場作業の従事者は多くて二〜三名、通常は二名(一名は日給月給制の本人で、もう一名は月給制の正社員)で、しかも、会社の協力が得にくいなかで、本人が残した大学ノートをたよりにして、現場を見たことのない奥さんと二〇歳を超えたばかりの長女と未成年の長男に協力してもらい、ノートをみながら現場実態を解明してゆく作業の中で(但し、会社社長には一回事務所に来てもらい協力要請と聞きとり調査実施。部分的には協力的で、中心部分になるとあからさまに調査拒否)、ようやく認定にこぎつけた。実質七ヶ月のこの作業が長かったというべきか、短かったというべきか、ともかく、勝ってよかった、安堵したというのが実感である。勝ったという安心感の中で字数も、文章の乱雑なことも意に介せず一気に書き流した次第である。

(二〇〇四・八・六記)



五月集会雑感についての弁明

福岡支部  永 尾 廣 久

思わぬ反響

 滋賀で開かれた五月集会に参加したときの感想を思いのまま投稿したところ、思わぬ反響があった。中野直樹前事務局長からは「この感想は残念である」と指摘されてしまった。まことに申し訳ないと思っている。
 東京支部の渡辺脩団員からの批判については、「厳しい批判だったね」「大先生から批判されるようになって、あんたも光栄だね」「反論文は書くんだろうね。ちゃんと反論しないとダメだよ。日弁連が権力の手先だとか、人権の抑圧体制に手を貸していると言われて黙っていたらいけんよ」など、身近な団員からさまざまなニュアンスで厳しくかつ温かい(?)叱咤激励を受けた。

観念的なそもそも論の横行

 私は雑感のなかで、団内に観念的なそもそも論が横行していることを嘆いているが、その気持ちは残念ながら今も変わらない。渡辺団員は私が「冷厳な現実を知らない」か「見聞しているはずの歴史的事実を無視している」と批判されている。しかし、私は議論している土俵が少し異なっていると考えている。たしかに、渡辺団員がオウム事件の国選弁護団で頑張っておられることには心から敬意を表するし、「特別案件」について弁護士会が国選弁護人の確保に苦労していることは、私も福岡県弁護士会の会長をしたことからも多少なりとも理解はしているつもりである。
 しかし、私が雑感で言いたかったことは、特別案件についての弁護人の確保の前に、一般案件での国選弁護人の確保の問題である。私の知る限り、東京では弁護士は当然に国選弁護人になるという意識はなく、国選弁護人になろうという意欲のある人が国選事件をもらいに行くということである(これが間違った認識であれば私としても幸い)。たとえば、二〇〇一年に東京二弁が引き受けた国選弁護事件は二三二六件。これを担当した弁護人は四一九人で、そのうち二三五人は一件のみ。つまり、一八四人で二〇九一件を担当した(一人で平均一一件)。同じく、名古屋では年間一件も国選弁護を担当しない弁護士が六割をこえていて、国選事件の半数近くをたった三%の会員でこなしていた(二〇〇一年度)。二〇五二件のうち四四%の九〇〇件を、わずか二九人の弁護士が担当した。年に三〇件以上も国選事件を担当する弁護士が一五人いて、この一五人で全事件の二五%、五一六件を受けもっている。この一五人の過半数は七〇歳以上で、一人で三七件を担当した会員もいる。ただし、その後、名古屋では、このような事態は改善されたと聞いている(具体的な統計は知らないので申し訳ない)が、これで果たしていいのか疑問に思うということを言いたかった。
 ところで、渡辺団員はシンポの席上での桜井弁護士の発言を紹介して「日弁連代表発言の惨状をどう説明するのか」と私に訊かれているが、その場にいない私には回答しようもない。たしかに新法の規定には重大な問題があるように私も思うが、だからといって「日弁連は権力の手先」と決めつけてよいものだろうか。私は、そこに論理の飛躍がありすぎると思う。日弁連の意思形成において理事会は要(かなめ)に位置している。理事は、大半が単位会の会長だ。理事会や委員会においては団員が有力メンバーになって会内民主主義をふまえつつ頑張っている。強制加入団体としての制約がありつつ、日弁連は全体として日本の民主主義のために大いに貢献していると私は考えている。

「今後の公的弁護は官選弁護人になり・・・」

 私には、渡辺団員のこの指摘がとても理解できない。私も毎年一〇件ほど国選弁護人を受けているが、すべて裁判所の指名で選任され、裁判所から報酬をもらっている。選任手続に、弁護士会が関与しているところももちろんあるが、私のように国(裁判所)が選任する地方は少なくない。しかし、弁護権の独立は当然のことだとしてやってきた。だから、国の機関が裁判所から法務省に変わることによって、どれだけの違いが本質的にあるのか、私にはとても理解できない。しかも、司法支援センターは法務省がストレートに支配する機関とも思えない。
 「特別案件については、私選弁護人の支援を組織的に用意すべきだ」との意見については、福岡で見聞する実情を聞く限り、とんでもない間違いではないかとしか思えない。
 渡辺団員は「永尾さんに聴いてみたい。でなければ、私の議論を認めるべきだ」と主張されているが、私には渡辺団員が「カレー事件」を例示して何を主張したいのかがまったく分からない。
 私は、弁護士会が国選弁護人の確保に苦労している実情を知るにつけ、簡単に「弁護士自治」が支えているという美名で、現実をふまえた議論を封殺してほしくないという思いがある。私の雑感に舌足らずがあったこと自体は認めるが・・・。

「日弁連は人権の抑圧体制に手を貸している」

 司法改革とは、良くも悪しくも権力中枢との切り結びであって、決して外野席から声援を送ったり、野次をとばしたりにとどまるレベルのものではない。団員のなかに「国民とともに」国民に開かれた司法改革をめざして日夜、身を挺している人々が多数いるのも現実である。たしかに中野団員の指摘どおり「一般会員との間の情報・意識のずれの拡大(これは団との関係でも生じている)」があることは事実として私も認める。しかし、それでも日弁連執行部が、「情報・意識のずれ」を縮めるように努力しているのも事実である(日弁連の広報担当にも団員がいて頑張ってきた)。
 ところで渡辺団員は「新法の中身から一目瞭然だ」と断言されている。しかし、本当にそうなのだろうか。「永尾さんは、団員としても、日弁連副会長としても、『何故そうなるのか』自体をよく考えるべきではないのか」と指摘されている。「なぜそうなるのか」ということを常々考えるべきだということは抽象的な文言として私も認めるのにやぶさかではない。しかし、「新法の中身から一目瞭然だ」と言われても、それが何のことやらよく理解できない身からすると、何事も頭から決めつけるのはよくないのではという反撥しか感じられない。もちろん、私も現実の刑事司法の実態を頭から是認しているというわけではない。

刑事司法に裁判員の「健全な社会常識」を反映させることは「絶対にありえない」か?

 私は渡辺団員のこのような議論にはとてもついていけない。渡辺団員は、これから「人権の虐殺」がすすむだろう。違憲・無効の悪法廃止を提唱することを訴えているという。しかし、このような訴えが広く弁護士に理解されるとは私にはとても思えない。あまりに言葉がきつすぎて、違和感がある。
 中野団員の「団員間にはスタンスと意見の対立はあるが、団は、一致できるところを模索し、対立関係を克服し、たたかいを前進させる気風と知恵を培ってきている」という指摘には、なるほどと思う。
 私は、「若い人たちの健闘を訴える」という渡辺団員にぜひお願いしたい。もっと分かりやすい言葉で、一致点を探る立場から対立点(論点)を提起してもらいたい。そのとき、日弁連は権力の手先とか、在野性が欠けている、人権の抑圧体制に手を貸しているといった、ふた昔前にはそれなりに通用した打撃的批判用語をつかわずに批判してほしいと思う。
 そうでないと、「批判」はまた、いつもの文句かと読み手をうんざりさせ、消耗感しか生まず、議論する意欲を喪わせてしまう。それは日弁連にとっても、また国民にとっても不幸なことだと私は思う。



怒ー“アジア最後の植民地・沖縄”

東京支部  神 田  高

 米国へのテロを予測したC・ジョンソンの『アメリカ帝国への報復』は、沖縄をこう呼んでいる。私は“植民地・沖縄”に遭遇することになった。八月一一日から沖縄恩納村にある妻の実家に立ち寄っていた私は、一三日夕方のニュースをみて慄然とした。普天間基地の重ヘリコプターが基地のすぐ脇の沖縄国際大学に墜落したという。キャンプハンセンで行われていた一五五ミリ榴弾砲の発射音が聞こえる地元小中学校の教員をしていた義母は、珍しく「沖縄ばかり危険だねぇ。」と語気を強めた。九五年秋の米兵による少女暴行事件への怒りに端を発した基地縮小・撤去、地位協定抜本改定を要求する県民の運動の高まりの中で、基地への土地提供を拒否する反戦地主の代理人となって、基地調査で普天間基地のすぐ脇の小学校の校庭すれすれに米軍ヘリが離着陸するのを見ていた私は、ともかく沖国大へと車を走らせた。沖縄の夏は、日は長いが、夕暮れから日没までが早い。恩納村から宜野湾にいくまでに日は完全に落ち、ものものしい警備の中、銃を担いだ米兵が闊歩する現場近くにたどり着いたが、通行規制で現場に近づけない。道を迂回して、車をとめ、妻と息子を待たせ、市街地の真ん中を抜ける脇道を駆け上がった。わずかに人垣のある、マンションに挟まれた駐車場に出る。そこから一〇数メートルの幅の道路越しに、サーチライトに照らしだされた海兵隊CH53D大型輸送ヘリの残骸が浮かび上がっていた。
 実は、沖縄のエーサー(太鼓踊り)が大好きで、その大会を撮ろうと三〇〇ミリの望遠つきの一眼レフをもって来ていたが、あいにく大会は九月と聞いてガックリしていたが、ここで役に立つなどとは思わなかった。しかも、夜の撮影用にもってきていたASA800のフィルムを妻の実家に置き忘れてきて、チキショウと思ったが、とにかく、残骸めがけてASA400のフィルムでシャッターを切った。サーチライトに浮かぶ残骸のすぐ脇には迷彩服を着た米兵が立ちつくして残骸を見つめていた。ライトアップされた新しい校舎のごく上部以外は、真っ暗闇の中で殆ど見えない。サーチライトの強烈な光とフェンス内の残骸、その空間だけがいかにも異様な雰囲気を持ち、道路のこちら側のわれわれを遮断していた。私が立っていた駐車場には、沖縄の新聞社などのカメラマンや沖国大の学生、マンションの住人や駆けつけてきた女性たちがあれこれ話したりしていた。「黒煙が上がってびっくりした。夏休みでよかったけれど、教授たちがいる棟に落ちていたら大変だった。」としっかりした顔立ちの女学生が話してくれた。学生数は六〇〇〇人位という。脇道に入ってくるところの閉鎖された車道の反対側にはガソリンスタンドがあった。私が昇ってきた脇道付近にはヘリの大きな羽が落ちていたようだ。マンションの硝子を破って破片が飛び込んできた家もあったそうだ。自宅マンションのすぐ下の道路脇で夫が中古車販売業をしていた妻は、子どもをだきかかえ、夫がやれらたと思ったそうだ。ヘリが基地へ向かう途中の空中で機体の一部が分解し、住宅密集地のど真ん中に墜落した事故で、よくも米兵以外に負傷者などが出なかったのが奇跡的と思われた。まさか落ちる訓練をしていた訳でもなかろうが。大学が重大な損害を受けているのに、地元警察は手も足も出ない。交通規制だけやらされている。残骸は既に撤去されたが、とうとう県警はまともな検証はできなかった。米軍は放射線の調査もしたとのことである。さすがに保守県知事も、ヘリの飛行停止を米軍に求めたが、結局墜落したヘリと同型機は、イラクの攻撃に参加するために飛行の再開が強行された。日本政府は、飛行停止を求めることもせず、宜野湾市長の真剣な陳情にも、小泉首相は映画やら歌舞伎鑑賞やらを理由に会いもしなかった。
 “守礼の邦”の民も怒っている。植民地である。強権をふるったキャラウェイ高等弁務官は、一九六三年に「現在の時点では自治は神話であり、存在しない。将来も自治は、実在しないだろう」と言い放ったが、その通りであった。墜落翌日の沖縄タイムス、琉球新報の両紙とも、この事故で、建設まで一〇数年かかる名護市辺野古へのヘリ基地移設は破綻したと主張している。普天間基地閉鎖の世論は大きくひろがりつつある(八月二三日琉球新報一面コラム)。「基地沖縄」の神話を終わらせるには、県民が一枚岩となって「ノー」の声を発するしかないと同コラムは結んでいる。が、もしこの事故が東京で起こっていたらどうだろう。すぐに銃をもった米兵がきて現場を封鎖する。われわれは遠くから見ているだけだろうか。小泉は相変わらず歌舞伎鑑賞を続けていただろうか。沖縄だからといって、放置する日本人(ヤマトンチュー)は「醜い」(大田昌秀『醜い日本人』)。飛行を再開した老朽化したCH53Dヘリが、イラクのファルージャかどこかでイラクの無辜の人々の殺戮作戦に加わっているのであれば、なおさら醜い。



拘禁二法案再提出の動き

神奈川支部  森  卓 爾

拘禁二法案とは、

 拘禁二法案とは、一九八二年四月に国会に提出された「刑事施設法案」「留置施設法案」であり、刑事施設法案は、監獄法の全面改正となるものとして、留置施設法案は、警察留置場を代用監獄として恒久化する警察立法として提案されたされた法案である。
 国会に三度提出されたが、いずれも衆議院解散により廃案となったものである。
 一九〇八年(明治四一年)施行の監獄法の改正は、長年の日弁連の要求でもあった。法制審議会は、一九八〇年一一月「監獄法改正の骨子となる要綱」を確定し、それが後日「刑事施設法案」としてまとめられた。ところが、八二年一月、法務省が準備をしている「刑事施設法案」とは別に警察庁は「警察拘禁施設法案」を準備していることが明らかになった。内部告発か団事務所にある日届けられたのである。
 その後の経過については、自由法曹団物語(下巻)に「こんな警察にこんな法律を」(警察拘禁二法)として詳細に報告されたいる。団がどのような活動をしたのか振り返る意味で是非もう一度読み返していただきたい。

行刑改革会議の提言

 名古屋刑務所で刑務官の暴行により受刑者が死亡する事件が発生した。名古屋刑務所では革手錠を多用しており、負傷者も多数出ていることも明らかになった。この名古屋刑務所事件を契機に法務大臣の諮問機関として行刑改革会議が発足し、〇三年一二月行刑改革会議の提言がなされた。日弁連は、会長声明を出し、この提言について、不十分な点はあるが、方向性は賛同できるとして評価した。提言は、既決の問題について集中的に議論したことから、未決については、「我々の力の及ばなかったところである。専門的な知識、ノウハウを生かして、速やかにこの点の検討を行うことを期待する」とされている。
 法務省から、監獄法改正を行う場合、既決と未決を区別して立法することは出来ないとして、受刑者処遇と未決拘禁者等の処遇を含む監獄法改正案を来年の通常国会に出したいとの意向が示されたところ、警察庁は、法務省が未決拘禁者処遇について法案を出すと言うことであれば、警察庁としても留置施設に関する法案を提案する意向であることが表明された。
 ここにきて、拘禁二法案再提出の動きが顕著になったのである。
 法案の内容は、現時点では明らかになっていないが、代用監獄の恒久化を図るものであることは間違いがないであろう。法務省や警察庁は、八〇年から捜査と留置管理を明確に区別しているから、代用監獄の弊害はないとしているが、取り調べでの自白強要、長時間取り調べ、警察官による暴力等代用監獄での弊害は続いており弊害が無くなったとは言えない。

日弁連の動き

 日弁連は、法務省、警察庁からの三者協議の申し入れに応じることにした。協議に臨む基本的方針として、代用監獄は廃止すべきであり恒久化には反対であること、警察立法は不要であることを明確にした。既に第一回の協議会が開催されており、それぞれの立場が述べられ、互いに対する質問も出されている。従前の「刑事施設法案」「留置施設法案」がそのまま出てくる可能性もあるのである。今後の協議の内容に注目していく必要がある。

団は何をすべきか

 団は、これまで救援会などの民主団体、労働組合などと一緒になって拘禁二法案反対の運動をたたかってきた。「こんな警察にこんな法律を与えて良いのか」とのスローガンの下で警察の持つ権力支配の横暴さを暴露しながら闘ってきた。
 いま、その闘いの歴史に学びながら、拘禁二法案の再提出を許さないたたかいを組織する必要があるのである。



九条の会発足によせて

−東京への行き帰りの車内で詠めり−

千葉支部  守 川 幸 男

 九条の会が発足した。改憲勢力の野望を打ち砕くために、これに呼応した動きが広がっている。
 たいしたことはやっていないが、今回は今まで少しも得意分野でなかった歌を作ってみた。九人の頭文字から始まる五七五だ。字余りやこれにあてはまらないものもある。もっといい歌もあるよ、という指摘があれば大歓迎だ。(二〇〇四年七月三一日)

いまが旬 九条の会 さっそうと  (井 上 ひさし)
動かそう 日本の世論 子らのため  (梅 原  猛 )
お互いに 大いに語ろう 平和の理念  (大 江 健三郎)
押しつけか いや国民には プレゼント  (奥 平 康 弘)
遅かった 後悔せぬよう 全力で  (小 田  実 )
改憲論 大義掲げて はね返せ  (加 藤 周 一)
さわやかに 日本の良心 九条の会  (澤 地 久 枝)
ついに出た 九条の会 待ってたよ  (鶴 見 俊 輔)
みなさんへ 九条アピール 広げてね  (三 木 睦 子)



九・二八日弁連集会で与野党の国会議員に

反対の声をアピールしよう

〜大詰めを迎える敗訴者負担問題

担当事務局次長   坂  勇 一 郎

 秋の臨時国会は一〇月以降の開会と報じられている。しかし、敗訴者負担法案については、国会開会を待つことなく九月中下旬から各党の方針検討・政党間の意見交換が行われる情勢とのことである。これまでの取り組みにより、国会議員の間に現法案は問題があるとの認識が広がってきているが、これが廃案にまでつながるか、日弁連が提起している修正につながるか、情勢は流動的である。国会開会直後に審議入りする可能性も十分にあり、情勢は緊迫の度を高めている。
 こうした中、日弁連と東京三弁護士会は、左記のとおり市民集会を開催する。集会には与野党の国会議員が参加の予定である。臨時国会開会直前の極めて重要な時期に、国会議員に対して敗訴者負担反対の声をアピールする絶好の機会となる。会場は六〇〇名の会場である。企画内容も反対運動の画期となった二年前のクレオの一〇〇〇名集会「『行列のできる法律相談所』の弁護士もやってくる」の第二弾であり、一般の市民の方々にもより参加しやすい内容となっている。
 この集会の成否が、秋の臨時国会の流れを大きく左右することは間違いない。多数の参加をもって与野党の国会議員を包囲したい。関東近県のみならず、是非全国からも集会にご参加されたい。また、広く参加を呼びかけてほしい。

 集会名 弁護士報酬の敗訴者負担法案
          このままでは廃案を求める市民集会
   『行列のできる法律相談所』の弁護士もやってくるPartU」
 と き 九月二八日(火)午後六時〜八時三〇分
 ところ 有楽町朝日ホール(有楽町マリオン一一階)

*なお、集会チラシは、日弁連司法調査課(加藤さん、東さん)に連絡をすれば、日弁連から発送してもらえる体制ができています。