<<目次へ 団通信1148号(12月1日)
島田 修一 | 幹事長を退任して | |
杉島 幸生 | 事務局次長退任にあたって | |
後藤 富士子 | 「代用監獄」から「監獄もどき」へ ―「大規模留置場」という漫画 |
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金 竜介 | 永住外国人地方選挙権付与法案と 第二回在日コリアンフォーラムの開催報告 |
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永尾 廣久 | 裁判員制度と刑事司法改革 |
東京支部 島 田 修 一
君は身も心も団に捧げることができるかと思ったのも束の間、二年間が疾風の勢いで駆け抜けました。この国のあり方と進路をめぐる歴史的な転換を迫る総攻撃にどう対抗していくか。これを前に、団本部は、常幹、対策本部、事務局会議を柱とする闘う議論を徹底して繰り返し、重厚で力強い運動を進め、権力と激突してきました。私は、そこに団の強大な力を実感した次第です。激動の時代の興奮は続きますが、今、幹事長を退任し、安堵の胸をなで下ろしています。
「今日も仲良し倶楽部?」と家族から何度聞かれたことでしょう。宇賀神団長、坂本団長、中野事務局長、松島事務局長と語り合い、若い次長の皆さん方の情熱溢れる活動に感心し、対策本部や常幹での高度な議論に教えられ、専従の方々の献身ぶりに感謝する連続でした。幹事長として、闘う多くの人々と身近に接する機会を得たことは、私の人生の宝となったことは間違いありません。三〇年の団生活の中で、本当に充実した二年間でした。一人ひとりの命を大事にする世界の実現へ向け、これからも「仲良し倶楽部」の一員として活動していきます。全国の団員の皆さん、事務局の皆さん、有難うございました。
大阪支部 杉 島 幸 生
私が、事務局次長となってもう二年がすぎてしまいました。この二年間だけでも労基法改悪、新仲裁法、弁護士報酬敗訴者負担、有事法制、教育基本法改悪などなど、次々と押し寄せる悪法に走り回っていたような気がします。
地方(大阪)にいるときは、団本部から次々と送られてくる意見書や諸課題にただ「東京の人はようやるな〜」などと他人ごとのように見ていましたが、いざ自分が本部に行ってみると、それこそ各対策本部のメンバーや担当次長が忙しいなかをなんとかやりくりして必死の思いで作業を続けていることを知り、団の果たしている役割に改めて気づかされました。
ただ、本部に集まる情報や議論の水準が必ずしも各支部に共有されていないのではないかと感じることもありました。地方からすれば、少ない人数でなんとかやりくりしているのにそんなにあれやこれやできないよということなのでしょう。私も後半一年は大阪支部の事務局長も兼任していましたので、そうした気持ちは本当によくわかります。
こうしたギャップを少なくするためには、本部としても地方への問題提起の仕方や五月集会、総会での地方発言の組織などにもう少し工夫をする必要があるでしょうし、各支部も常任幹事会への出席をはじめ、団通信の活用など地方から本部への情報発信の努力が必要だと思います。また地方次長の果たす役割も受容です。
新執行部での二年間は、憲法改悪という「関ヶ原の闘い」が待ち受けています。全国が文字通り一体となって闘わなければなりません。そうした時期に、私のあとの地方次長がいないことは団活動の重大な弱点となりかねません。ぜひどこかの支部から地方次長が選任して下さるようお願いします。
最後になりましたが、次長時代にお世話になった前、現執行部、専従事務局の皆さん、私を送り出してくれた大阪支部と関西合同法律事務所の仲間に感謝の言葉を述べたいと思います。どうも、ありがとうございました!
東京支部 後 藤 富 士 子
1 「捜査と留置の分離」の実情
警察庁のホームページに「警察の留置業務」という記事がある。その中で、「捜査と留置の分離」について、被留置者の人権を保障するため、被留置者の処遇に関する業務は、捜査を担当しない総(警)務部門がその責任と判断によって行っており、捜査員が留置場内に収容されている被疑者の処遇を決めたり、これに影響力を行使することはできないとされている。
そして、留置場出入場のチェックとして、「留置場は、被留置者にとって日常生活の場であり、取調べ等の捜査活動はすべて留置場の外で行われます。また、捜査員が留置場に入ることは、被留置者が捜査員に監視されているという圧迫感を感じるおそれがあるため、固く禁止しています。」「捜査上の必要から被留置者を留置場から出場させる際には、捜査主任官がその必要性について個別に実質的なチェックを行った上で文書により留置主任官に要請し、留置主任官がそれを承認することとされており、捜査員が被留置者の処遇に関与するなどの不適切な取扱いがなされないよう、捜査と留置の両方の責任者がチェックを行っています。」と記載されている。
また、被留置者の護送については、「検事調べや医療等のための被留置者の護送は留置主任官の責任において行われ、護送員には、原則として留置部門の者が指定されます。」とある。
ところで、近年、大都市およびその近郊の警察留置場は慢性的過剰収容になっており、これを解消するために「大規模留置場」が建設されている。神奈川県警大和留置場を見学した弁護士の報告によれば、その定員六〇名(男子のみ)で、一階部分に接見室三室、取調室六室、留置業務事務室があり、接見室には留置場の廊下から直接出入りできるようになっているのに対し、取調室へ行くには、留置場側の仕切りドアを開けて取調室が六室並んでいる廊下に出る構造になっている。係官の説明では、留置場内で手錠・腰縄を付けた状態で被疑者を連れ出し、その仕切りドアのところで捜査官に引き渡し、また、取調が終了したら、捜査官が留置場に連絡をしてドアのところまで連れてきて、留置場の係官に引き渡すということだった。つまり、この仕切りドアは、捜査と留置を分離する境界のようなものであり、捜査官が留置場内に入ることはないという。そして、捜査官は、各警察署から大和留置場に来て取調室で取調を行うと理解されている。
2 「附属」性の喪失
被疑者の勾留場所は、「拘置監」とされている(刑訴法六四条1項、監獄法一条1項4号)。そして、監獄法一条3項では、「警察官署ニ附属スル留置場ハ之ヲ監獄ニ代用スルコトヲ得」と規定して、警察留置場を監獄の代用として使用することを認めた。これは、明治四一年に監獄法が制定された当時、拘置所が不足していたための窮余の策であり、拘置所を増設して代用監獄に収容する例を漸減させる旨の付帯決議がなされている。このことからも分かるように、警察留置場は、監獄法制定時には拘置所よりも普遍的に存在し(各警察署に設置されていた)、且つ、監獄として設置されたものではなかったということである。
ところが、近年建設されている「大規模留置場」は、留置場として独立しており、取調施設が附属している建物である。また、その取調も、一つの警察署が所轄する事件に限られず、近辺の複数の警察署が所轄する事件について行われる。これでは、監獄法にいう「警察官署ニ附属スル留置場」ではなく、むしろ留置業務を本来的業務とする施設になっている。現象を見れば、拘置所と異なるところがなく、所轄・管理が法務省か警察かの違いがあるだけである。かくして、大規模留置場は、「代用監獄」ではなく、「監獄もどき」というべきシロモノになった。
3 警察拘禁施設の政治性――検察の野望?
旧刑事訴訟法では、被疑者の「訊問」を押収・捜索・証人訊問などと同列におき、原則としてその権限を裁判官だけに認め、「被告人ニ対シテハ丁寧深切ヲ旨トシ其ノ利益ト為ルヘキ事実ヲ陳述スル機会ヲ与フヘシ」という被告人訊問に関する訓示的な規定が準用されていた(旧一三五条・一三九条)。現行犯や要急事件など若干の例外を別にすると、警察官による被疑者の取調は、主として任意捜査に関する一般的な規定(現行法一九七条に相当)でまかなわれた。かように、たてまえに関する限り、捜査は「司法化」された状態に置かれたのであるが、現実には、行政執行法による「検束」や、違警罪即決令による拘留が、捜査目的のために利用ないし濫用され、身柄拘束の状態での取調が、刑訴法外でかなり広範に行われていた。このような事態の改善は多年の懸案であり、戦後の刑訴法改正が着手された際の最初の原動力であったという(松尾浩也「刑事訴訟法・上(補正第二版)」弘文堂六〇〜六二頁)。
戦前、警察が刑訴法外で身柄拘束の状態での取調を広範に行えたのは、身柄拘束する自前の施設=留置場を持っていたからである。そして、日本国憲法が異例なほど詳細に刑事手続における人権保障規定を置いたのも、戦前の反省に基づき、その再来を防ごうとしたからである。こうした事情に照らせば、今日、警察にその所管する刑事手続上の拘禁施設を与えることは、よくよく考えなければならないことである。警察留置場を刑事手続における拘禁施設にすることは、憲法・刑訴法を変質させるに違いない。
代用監獄の弊害として指摘されてきた人権侵害=自白の強要は、留置場に取調室を隣接させながら単に「分離壁」を設けても、少しも改善されない。前記の警察庁ホームページの記載について言えば、留置場から取調室へ出場させるについて、捜査主任官が「捜査の必要性」をチェックして文書で留置主任官に要請すれば、留置主任官は、なぜ、被疑者に対して「取調に応じるか」「取調室へ出頭するか」を確認しないで「承認」などできるのか(刑訴法一九八条1項では、捜査官の出頭要求の宛先は被疑者である)。これでは、留置主任官は「捜査官の手先」というほかなく、「捜査と留置の分離」など画餅に帰する。結局、警察・検察は、起訴前勾留を被疑者取調の手段にして「精密司法」の体制を作ってきたのであり、それを維持するために粉飾しているのである。
警察に刑事手続上の拘禁施設を持たせることは、「代用監獄」が「監獄もどき」になることであり、その「代用」性が法的に払拭されながら「ダイヨーカンゴク」が永続化することにつながるのである。
東京支部 金 竜 介
一、永住外国人地方選挙権付与法案の行方
「永住外国人に対する地方公共団体の議会の議員及び長の選挙権等の付与に関する法律案」(以下「地方選挙権付与法案」)は、二〇〇一年に廃案となった後、二〇〇四年の前国会に公明党単独の議員立法として再び上程され、同国会で継続審議となったものである。今秋国会でようやく審議入りとなったが(政治倫理・公選法改正委員会)、自民党内に強い抵抗があり、本稿を書いている一一月二五日現在、成立の目処は立っていない。
二、差別的な公明党案〜「朝鮮」表示者の排除
公明党は、永住外国人への選挙権付与を積極的に主張するが、同党案は、永住外国人の定義について極めて差別的な定めをしており、このまま法案を成立させることは絶対に阻止しなければならない。
公明党案は、「永住外国人の定義の特例」として、選挙権を与える永住外国人は、「外国人登録原票の国籍の記載が国名によりされている者に限る」と定めている(附則第三条)。
右の条文を一読しても多くの人は何のことかわからないのではないだろうか。要するに、公明党案は、「朝鮮表示」の者(一般には「朝鮮籍」といわれている者)(注1)について選挙権を認めないとしているのである。理由として、日本と朝鮮民主主義人民共和国(以下「朝鮮」という)との間に国交がないことや拉致問題が解決していないことなどが挙げられている。しかし、これらの反対理由は、いずれも、歴史を知らず、「朝鮮」表示の者の現状を知らないという無知から来るものであり、理性的なものとはいい難い。
そもそも、自民、公明両党は、同法案を成立させることを、自由党(当時)も交えて、一九九九年に政策合意しており、その際には、「朝鮮」表示の者を排除するとはしていなかった。その後、拉致事件の発覚とこれに伴う在日朝鮮人に対する攻撃が始まり、法案の中身までが変えられてしまったのである。九九年当時も今も朝鮮との国交がないことに変わりはないのだから、国交のないことは理由となりえない。また、「拉致問題」が未解決であることが何ゆえ「朝鮮」表示の者を排除する理由となるのか、全く理解に苦しむ。「朝鮮」表示の者が投票を行うことにより、朝鮮政府の意向を受けた、反日的な地方自治体の議員や首長が誕生するとでもいうのであろうか。しかし、在日朝鮮人(「韓国」表示、「朝鮮」表示を問わない)の実際を知るものにとっては、このような危惧は、何ら具体的根拠のない妄想というほかない。
在日朝鮮人が永住権を持つ以上、国籍国ではなく居住地の政治をより良くするために投票を行うことは当然である。あえて日本が不幸になることを投票の目的とすることなどありうるはずがない。それは、日本国籍保有者の投票と全く変わるところはない。しかし、「外国人」は、日本の国益を損なう投票行動をする者だとの前提から多くの日本人はなかなか抜け出せないでいる。理屈ではない、ぬぐい難い感情がそこには横たわっている。日本人が持つこの感情を払拭するのは容易ではない。
三、在日コリアン弁護士協会主催「第二回在日コリアンフォーラム」の開催
一一月一四日、東京の在日韓国YMCAセンターにおいて在日コリアン弁護士協会(注2)主催の「第二回在日コリアンフォーラム 在日コリアンの政治参加を求めて〜参政権、国籍、そしてアイデンティテイ」を開催した。パネラーは、白眞勲(民主党参議院議員)、辛淑玉(人材育成コンサルタント)、陳賢徳(在日本大韓民国民団中央執行本部)、二木啓孝(「日刊ゲンダイ」編集部長)。
私たち主催者の予想を大きく上回り、立ち見を含め二五〇名以上の参加者で会場は満員となった。この種の集会は、従来であれば、在日コリアン団体やその支援者のみが参加するというのが常であったが、幅広く呼びかけをしたために、様々な人たちに参加してもらうことができた。そのため、「在日コリアンに選挙権がないことを始めて知った。」、「在日コリアンの『韓国』表示と『朝鮮』表示は出身地で決まるのかと思っていた。」という「初心者」の方々にも多く参加してもらうことができた。また、在日朝鮮人のみでなく、いわゆるニューカマーの外国人やその支援者も多く駆けつけてくれたことも大変うれしいことだった。
国政選挙権について意見が分かれたものの、地方参政権は、選挙権及び被選挙権とも認めることや「朝鮮」表示者を排除すべきでないことについては全員の意見が一致した。そして、「国会議員にはこの問題に関心がない人が多い。差出人不明の嫌がらせメールも多い。そういう現実の中では半歩づつ進む忍耐が必要。日本の市民や国会議員が賛同してくれる道筋を考える必要がある。」(白眞勲)、「政治の支配を受ける者は、その支配にアクセスできる権利が保障されなければならない。」「法案を作るのであれば、在日を入れて作るべきである。」(辛淑玉)との声が会場の共感を受けていた。
四、問われるべきは日本人の姿勢
選挙権・被選挙権のない在日朝鮮人は、法案づくりに携わることすら拒否されている。公明党からも野党の各政党からも選挙権についての様々な意見は出されるが、「法案を作成する際には、当事者である在日朝鮮人も参加させるべきだ」との声は全く聞かれない。
また、「選挙権が欲しければ、帰化するべきだ。」との声も相変わらず日本人の多くから聞かれる。この点について説明する労苦を厭うつもりはない。しかし、「議論するにしても、せめて一九五二年の在日朝鮮人からの日本国籍剥奪の経緯くらいは知った上で話をしてくれませんか。」というのが、私の偽らざる気持ちではある。
在日朝鮮人に関する歴史と現状を知った上で、参政権を認めるのか否か。問われているのは在日朝鮮人の側ではなく、日本人の姿勢である。
五、法案の行方
自民党有志でつくる「外国人参政権の慎重な取り扱いを要求する国会議員の会」(平沼赳夫代表)が、審議入り阻止の強い働きかけをするなど、審議入り自体を反対する動きもあった。
ようやく、一一月一六日、同法案は、政治倫理・公選法改正委員会で審議入りした。しかし、同委員会の審議においても、自民党は、同党内の反対論を強調し、公明党案に反対する姿勢を示した。
「敵対国の者が選挙権を使って国と地方の協力を妨害し、国の安全を脅かす最悪の場面も想定しているのか。」「日本は単一民族国家で欧州とは違う。」「将来に渡っても被選挙権は与えない方針であると確約できるか。」(後藤田正純)との発言を見る限り、自民党内での反対意見は相当大きいようである。
また、公明党は、「朝鮮」表示の者を排除するとの点を修正する姿勢は全く示していない。民主党もあからさまな反対意見は少ないものの、積極論者が大勢を占めているわけではないという。
前国会で継続審議となったこの法案が、今国会で成立する目処は今のところ立ってはいないようだ。
私たち在日コリアン弁護士協会は、在日朝鮮人の参政権の獲得を一貫して追及してきた。今国会の結果如何に関わらず、今後ともこの問題を粘り強く追及していく決意である。
注1 「韓国」表示、「朝鮮」表示
在日コリアンは「韓国籍」と「朝鮮籍」に二分され、「韓国籍」の在日コリアンは大韓民国の国籍のみを持ち、「朝鮮籍」の在日コリアンは朝鮮民主主義人民共和国の国籍のみを持つと一般には思われているが、この理解は誤りである。一般にいう「朝鮮籍」とは、日本の外国人登録原票の国籍欄の表示が「朝鮮」と記載されている者、「韓国籍」とは、同じく国籍欄の表示が「韓国」と記載されている者を指すに過ぎない。
国際法上、国籍の決定は各国の国籍法によって定められる。朝鮮の国籍法は、日本の外国人登録が「朝鮮」「韓国」のいずれの表示の者であるかに関わりなく朝鮮国籍であるとする。同様に韓国の国籍法もいずれの表示の者も韓国国籍であるとする。このように、在日コリアンは、日本の外国人登録の表示が「朝鮮」であるか「韓国」であるかに関わりなく、法律的には南北朝鮮のいずれの国籍も保有していることとなり、いわば「二重国籍」状態にある(但し、通常の意味での二重国籍とは異なる)。したがって、在日コリアンの国籍が「韓国籍」「朝鮮籍」に二分されるというのは、法律的には誤りである。このような観点から、在日コリアンについては、「韓国籍」「朝鮮籍」ではなく、「『韓国』表示」、「『朝鮮』表示」と記すのが法律的に正確であり、実態にも即している。
注2 在日コリアン弁護士協会
二〇〇一年地方参政権法案、国籍届出法案が発表されたのを契機として翌二〇〇二年に設立された、在日コリアンからなる日本で唯一の弁護士団体。会員数約四〇名(〇四年一一月現在)。設立趣意に在日コリアンへの差別撤廃、その権利擁護、民族性の回復(民族教育の保障等)、政治的意思決定過程に参画する権利(参政権・公務就任権)の確保などを挙げる。現在は、薫、高英毅の両弁護士が共同代表を務めている。
注3 在日朝鮮人
一九四五年以前から日本に在住する旧植民地出身者と日本で出生したその子孫。「在日コリアン」、「在日韓国・朝鮮人」と同義。民族の総称であることから「在日朝鮮人」との表記が最も適切であると考えてこの語を用いる(但し、本稿では、誤読を避けるために「在日コリアン」とも記している)。大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国のどちらが正当であるかという問題とは全く無関係である。
余談であるが、正月の法事(祭祀)に集まった私の親戚は自分たちのことを「在日朝鮮人」と呼称している。「在日コリアン」という自称を公の場以外で用いている者に私は出会ったことがない。
注4 本稿では、在日朝鮮人以外の定住外国人の参政権については論じてはいないが、これは一般の定住外国人の参政権を否定する趣旨ではなく、在日朝鮮人を優遇すべきとの理由によるものでもない。但し、在日朝鮮人が日本に多く居住することになった歴史的経緯に鑑み、他の外国人と全く同様には論ずることはできないと考える。
福岡支部 永 尾 廣 久
団の活動方針
渡辺脩団員から私の弁明文が再び糾弾されたので、沖縄で開かれた団総会に参加するにあたって、私は総会議案書を何度も読み直した。そこでは次のように述べられている。まず、裁判員制度について(五六頁)、
「裁判員制度が実施されるまで五年以内とされているが、何よりも重要なのは裁判員制度実施に向けて制度の具体化、国民への普及活動、運用の中での『改善』要求など、不十分さを克服して裁判員制度が少しでも陪審に近づき、真に国民の司法参加となるような働きかけをしていくことである。
また、裁判員制度実施までの五年以内に、今回見送られてしまった捜査の可視化、代用監獄廃止実現に向けた運動を展開する必要がある。捜査の可視化、人質司法の解消は、裁判員制度導入の前提として必要不可欠な条件であり、これらの課題を実現することこそが、裁判員制度を国民のための制度とすることを可能にすると言っても過言ではない。そして、この点について日弁連、最高裁、法務省の三者による協議が行われていくが、団としては、国民のための真の司法改革を目指すとともに、被疑者・被告人の権利を不当に奪うことのない刑事裁判を目指すという立場から、この三者協議に任せるだけではなく、団が何ものにもとらわれることなく自由に発言できるというその立場を生かした積極的働きかけをしていく必要がある」
私はこの方針に何の異議もない。一団員として、この方針にしたがって実践していきたいと考えている。私も裁判員制度を「絶対視」するつもりはまったくない。しかし、いま法律としてできあがった制度を全否定するつもりはなおのことない。不十分な点を克服して、ぜひとも陪審員制度に近づけていきたいと心から願っている。
「さらに、刑事訴訟法改悪に対しては、改悪部分の弊害を最小限とするたたかいが重要である。具体的には、証拠の全面開示に向けた現場での実践、開示証拠の目的外使用禁止条項についても正当な目的外使用に対しては罰則条項を適用しない運用を勝ちとるたたかい、公判前整理手続きの運用をめぐるたたかい、訴訟指揮権の強化と弁護権をめぐる現場でのたたかいに取り組む」
これについても私は異存はない。
刑事訴訟法改悪と弁護士の責務
刑事訴訟法の改悪に対して、弁護士はいかにたたかうべきかを論じた『季刊・刑事弁護』の美奈川成章弁護士の論文(八三頁)が大変勉強になった。
美奈川弁護士は「今回の法改正が、証拠開示等の権利保障に一定の改善をもたらす部分がある一方、被告人の防御権を侵害するおそれも随所に存在する」と指摘している。「起訴状一本主義は実質的に崩壊してしまうことになる」「安易に捜査段階で作成された供述調書が採用されるようでは、被告人にとって新制度は足かせとなるだけになろう」というのも重要な指摘だと思う。
同弁護士は、「司法参加も究極的には被疑者の人権保障に帰着しなければ無意味だ」としたうえで、「今回の刑事訴訟法の改正が実りあるものになるかは、刑事手続を担う弁護人の努力にかかっているというべきだ」とする。私も、この考えに共感する。
「公判前整理手続の新設は、一言でいえば、弁護人の責任が著しく重くなったという結果をもたらす」「捜査段階からの弁護活動、接見や証拠の収集は飛躍的な充実が要求される」「弁護人の努力と工夫次第で有力な証拠の手がかりを得ることも期待できる。もちろん、争点の明示に関わるさまざまな危険を認識しながら、という留保つきではあるが。まさに、これからの刑事弁護は弁護人の熱意と能力によって左右されることが一層明らかになるというべき」だという。まったく同感だ。
「争点整理が必要とは、明白な嘘であり、大規模のデマ宣伝」か?
渡辺団員は、一九七四年三月の日弁連意見書と比べていまの日弁連は「変節」したと書いている。私が弁護士になる直前の意見書なので、その当時は読んだかもしれないが、その存在自体を私はすっかり失念していた。
「刑事訴訟と刑事弁護の問題を何も理解していない」と刑事弁護の超ベテランである渡辺団員に指摘されると、三〇年間に得た無罪判決はわずか二件しかない私などは、たしかにそうなんだろうな・・・とつぶやくしかない。でも、三〇年前の意見書をもとに責められても・・・、という気もしてしまう。
いずれにせよ、今回の刑事訴訟法の改正に改悪部分があることを前に述べたとおり私も否定しない。しかし、「最悪の規定に抵抗の姿勢を示さなかった日弁連」とか、「内容面でもっとひどくなった改悪に三〇年後の今日賛成した。国民の眼からみると、この逆転の変針は『変節』という他ないであろう」という渡辺団員の記述には涙が出るほど情けない。どうしてここまで日弁連(執行部)を罵倒する必要があるのだろうか。とても理解できない。私は刑事司法を担当していなかったので詳しいことは知らない。たしかに一般的にいうと、日弁連執行部が法務省や国会と折衝したあげく、結果として政治的に「妥協」してしまうことがある。たとえば簡裁の事物管轄を一四〇万円に引き上げるときも涙をのんだことがあった(正確には、反対の旗をおろしたわけではないが、反対運動の方は事実上断念したということ。これは司法書士政治連盟に推された自民党議員の一部に三〇〇万円まで引き上げろという強硬意見があるなかでのことであった)。それでも、日弁連執行部は絶えず日弁連理事会に報告し、意見を聞き、了解を得ながら、ことをすすめている。権力の動向もそれなりに研究し、会内外の世論も考慮に入れつつ…。
刑事訴訟法の改正についても、私は少しでも改悪部分を少なくするために日弁連(執行部)は全力をあげてたたかったと確信している。それでも彼我の力関係のなかで改悪法が成立した。であれば、あとは、団の方針のとおり「改悪部分の弊害を最小限とするたたかい」を組んでいくしかないのではないだろうか(もちろん、団員が「妥協」を批判するのは自由だし、また必要なことだと私も思う)。
ところで、渡辺団員は「裁判員のために争点整理が必要という議論は明白な嘘であり、大規模のデマ宣伝に他ならない」という。私は自分の眼を疑った。「裁判員のための分かりやすい説明方法はいくらでも可能であって、争点整理という形をとる必要ない」とまで、果たして断言できるのだろうか。もちろん、私も、争点整理ができない事件があるという渡辺団員の主張は同意する。しかし、争点整理ができる事件において「争点整理が必要」だというのを「明白な嘘」だとか「デマ宣伝」と決めつけてよいものなのか。生きものである裁判の流れにおいて、争点整理には大きな危険が絶えずつきまとうものであり、安易な失権効は許されないというべきところではないだろうか。
日弁連の現状をどうみるか
渡辺団員は、日弁連の現状について、「路線問題の衝突による分裂状態が激しく、会内合意形成の課題から見ると、最低の状況である」という。果たして、そうか?
私は修習二六期で、一九七四年に横浜弁護士会に登録し、一九七七年に福岡県弁護士会に登録替えをした。「弁護人抜き裁判特例法案」や国家秘密法案の反対運動にも末端の一会員として参加した。しかし、弁護士になって以来ずっと弁護士会の各種の委員会で活動してきた私に言わせてもらうなら、執行部や会内の状況を身近に見て、三〇年前に委員会活動が活発だったなどとはとうてい思えない。いかにも動きの鈍い単位会の執行部をもどかしく思い、下から強くつきあげていた覚えがある。私には、当時は弁護士会と委員会活動の活性化が急務の課題であって、それは「分裂状態」以前であったとしか思えない。
渡辺団員は最近の日弁連の取り組みについて「一部幹部によるロビー活動」と非難し、自分たちは「運動の一環」として国会対策も活発にすすめたと自慢している。しかし、一般的に言って日弁連の国会対策は、「運動の一環」として取り組まれており、私の知る限り、それは一〇年前より質量ともに格段に飛躍している。たとえば、理事会を途中で休止して全理事を先頭に議員会館を総あたりしたり、各党派の議員との懇談と要請を何度となく繰り広げている。それは、決して、「一部幹部によるロビー活動」のようなものではない。私が一〇年前と決定的に異なると思うのは、理事が全体としてきわめて行動的であるということだ。日弁連執行部の訴えに多くの理事が積極的にこたえてくれるし、また理事の大半は単位会の会長を兼ねているので、その単位会からも会員を引きつれて一緒に議員要請行動にまわってくれる。これは理事のなかに団員が少なくないことも反映している。これは三〇年前とは決定的に異なっている(ただし、団員の現勢を考えると、残念ながら今がピークではないかと私は心配している)。
いまの日弁連活動を、「東京中心」の「執行部中心」の運営だという渡辺団員の批判は、横浜から福岡に登録替えし、委員会活動を積み重ね、福岡よりさらに辺境の地から福岡の執行部にはいあがった私の実感からは遠くかけ離れている。
いずれにせよ日弁連執行部が「権力の動向を研究せず、自らの戦いの歴史をふまえようともしない」とか、「会内意見分裂の状態で進んだ日弁連が、根本方針を誤」まったから 「戦いに敗れたことには必然性がある」という渡辺団員の指摘には私はとても承服できない。司法改革のたたかいは今まさにたけなわなのである。
裁判員制度の評価
米倉勉団員が、裁判員制度は「権力的契機の方がより強く働き、逆に人権保障的契機は発揮されにくい制度設計になっている」と指摘している(団通信一一四五号)。しかし、果たしてそうだろうか。
米倉団員は、「処罰・治安維持過程に国民を関与させ、素朴な処罰感情だけを引き出しかねない」としている。たしかに、いまのマスコミによる世論操作と同じで、放っておくと「重罰化」する危険がないとは言えないと私も思う。しかし、それをさせない取り組みを弁護士会は国民を信頼して、ともにすすめていくべきではないのか。裁判員制度が「世論一般に予想以上に不評な理由」は、私はまったく別のところにあると考えている。日弁連が市民向けに裁判員制度の積極的な意義を訴えるキャンペーンをまだ本格化していないことも大きい。
米倉団員におたずねしたい。いったい職業裁判官にこのまま刑事裁判をまかせておいた方がよいというのか。また、陪審制度をめざさないのか。もし、めざすとするならば今ある裁判員制度の弱点をひとつひとつ克服して、その改正として勝ちとっていくしかないと思うが、いかがか。
また、米倉団員の「国家権力観の変容」という見方にもまったく同意できない。「国民は本来的に『被治者』であり、権力行使の容体である」という見方が正しいとは私は考えないが、そのことをアプリオリの理念とするなら陪審制も当然否定することになるのだろう。しかし、国民が裁判員制度にせよ陪審員制度にせよ、刑罰権行使の過程に関わったところで、裁判所の判決であることには何ら変わりはなく、その執行を含めて憲法上の基本骨格自体は変わらないのであるから、「国家権力行使の責任の所在を曖昧化する」ものとは私にはとても思われない。
私は、「積極的要素があるのだから批判ばかりするなという意見は誤りである」という米倉団員にぜひお願いしたい。裁判員制度が法制度としてスタートすることが決まった以上、「世論一般に不評」だということで良しとせずに、ぜひ裁判員にあたったら裁判所に出廷しよう、堂々と意見を述べよう、法廷で見て聞いて分かる審理を実現させようという働きかけを市民に対して今からしていただきたいということである。刑事訴訟法の改悪をはね返すことも、広範な市民の支持がなければとうてい勝ちとれないと思うから。