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竹澤 哲夫 故布施辰治弁護士に韓国建国勲章
−伝達式〇四.一二.二一−
大石  進 叙勲に対する謝辞
橋本  敦 追悼 諫山博さん 2
お別れの言葉
小部 正治 かいわれ裁判、業者らが最高裁でも勝訴
四位 直毅 「国民保護法制」が動きだしている
田畑 元久 司法支援センターへの楽観的関与を危惧する
小池 振一郎 いま、団通信が面白い
    〜裁判員制度論争に触れて
笹本  潤 憲法第九条改悪阻止とともに、九条を武力紛争解決に生かしていくために
〜武力紛争予防のためのグローバルパートナーシップへの参加の呼びかけ〜




故布施辰治弁護士に韓国建国勲章

−伝達式〇四.一二.二一−

東京支部  竹 澤 哲 夫

 日本統治下の朝鮮における独立運動家に対する苛烈な弾圧と闘い、解放と救援運動に献身した故布施弁護士(一八八〇―一九五三)に対し、韓国政府は昨年一〇月一五日、建国勲章愛族章を授与した。

 その伝達式が旧ろう一二月二一日午後、韓国大使館(東京港区)で行われた。同式典には、羅鍾一駐日韓国大使はじめ韓国政府関係者、故布施弁護士の側からは孫の大石進・日本評論社会長ら遺族のほか、布施研究で知られる森正名古屋市大名誉教授はじめ布施の母校明大関係者ら、団からは私が席に列した。

 式典で羅大使は「外国人を弾圧する人たちは自国民に対しても同じことをする。だから布施先生は日本においても真の愛国者だ。授与は韓日間の新たな協力時代を開いていくという韓国の誓いだ」と業績をたたえ大石さんの胸に勲章をつけた(羅大使の伝達の辞の全文を入手できないので、共同通信配信の記事によった)。

 勲章とともに授与された「勲章証書」(日本語訳)は「日本故布施辰治、上記の者は韓国の自主独立と国家発展に資したところが大きいので大韓民国憲法の規定に基づき次の勲章を授与する。建国勲章愛族章、二〇〇四年一〇月一五日大統領盧武鉉」とあり、つづいて「国務総理李海? この証書を建国勲章簿に記入する。行政自治部長官 許成寛」と記されている。

 羅大使の式辞を受けて大石さんは、以下の謝辞をのべた。

(なお、一月一三日から二月三日まで、明治大学図書館ギャラリー(最寄り駅JR「御茶の水」)において「布施辰治展」が開催されているので、東京近郊の団員をはじめ、近くに来られた際には、是非お立ち寄りいただきたい。)


叙勲に対する謝辞

大  石   進

 本日は、祖父布施辰治に名誉ある勲章をお授けいただき、ありがとうございます。謹んでお預かり致します。

 少しはにかみながら、こう言っている祖父の声が聞こえるように思います。「嬉しいけど、少し早いんじゃないかな。大韓民国は立派な国になったけれど、北のほうはまだだ。北の人々が飢えに苦しむことがなくなり、自由にものが言えるようになったときに、朝鮮半島全体から声をかけていただけたら嬉しい。それにしても勲章はおじいさまには似合わない。パーティでも開いて、ご馳走してくれたら嬉しいのにな」

 辰治はいま、朝鮮半島の古い仲間たちと、あの世で大パーティを開いているかもしれません。

 朝鮮半島の日本支配に反対し、独立を支持した日本人は辰治だけではありませんでした。弁護士だけでも何人かの名をあげることが出来ます。辰治は何人もの弁護士と協力しながら朝鮮の人々のために戦ったのです。その中には朝鮮の弁護士もいます。勲章は、これらの人々を代表して辰治がいただくのだ、むしろ日本の支配下においても韓国と日本の草の根の協力があったこと、そのこと自体に与えられるのだと思っております。

 それにしても、被害者である韓国の政府から、加害者の国に属する日本の一市民にこのような名誉を与えられること、奇跡を信じる思いでおります。このたびの叙勲に努力されたかたがたが韓国にいらして、多くの困難を乗り越えてこの授賞があるのだということを、心に留めるものであります。

 重い勲章です。ありがたくお預かり致します。


追悼 諫山博さん 2

お別れの言葉

大阪支部  橋 本  敦

 諫山先生の訃報に接し、あゝなんと惜しいこと、我々の敬愛する大先輩としてまだまだお元気でいてほしかったのにと、深い悲しみと無念の思いにひたりました。

 私の忘れられない思い出は、私が弁護士になって間もない時、権力の謀略と立ち向かう熱い正義のたたかいとして、東に松川事件あり、西に菅生事件のたたかいがありました。私はその菅生事件弁護団に参加させていただいて、岡林辰雄先生、正木ひろし先生や諫山先生からあたたかい御指導をいただきました。

 諫山先生は弁護団の事務局長としてその中心にあり、日夜不屈の正義感に燃えての御活躍に、かけ出しの弁護士であった私は、正義と人権擁護をつらぬく弁護士はかくあるべきかと深い感銘を受けました。

 九重山のふもとの村々を事実調査のため諫山先生とともにかけめぐった日のこと、そして何よりも、真犯人が浮かび上がって、岡林先生の火をはくような鋭い質問とともに、諫山先生の綿密な調査と深い道理と説得力のある堂々たる追及で法廷が圧倒されたことが思いおこされます。

 権力の悪に断固として立ち向い一歩もひかぬ諫山先生の燃える勇気とその時の紅潮した面影は、いつまでも忘れることができません。

 はからずもその後、私は参議院議員となり、諫山先生も参議院に来られて、諫山先生は警察行政を所管する地方行政委員、私は法務委員として、今度は国会でともにスクラムを組んで、国民の人権をまもり、検察・警察権力の不正を許さぬためにたたかうことになったことも望外の喜びの日々でした。

 その一つに、北朝鮮による不法な拉致事件があり、諫山先生とともに国会で追及したのですが、先生はこの拉致問題の質問でも、国民の苦難を救いそして何よりも人権をまもる熱情を惜しみなくかたむけられました。

 今、愛惜盡きぬなか、世の無常のまにまに諫山先生とお別れすることになりましたが、先生が御存命の間に、心をこめてひと言「先生有難うございました」と言いたかったのにと、無念の思いがつのります。

 諫山先生どうぞ安らかにお眠り下さい。有難うございました。

二〇〇四年十二月五日   (弁護士 元参議院議員 橋本 敦)


かいわれ裁判、業者らが最高裁でも勝訴

東京支部 小 部 正 治

 昨年一二月一四日、最高裁は「カイワレ訴訟」の東京高裁判決・大阪高裁判決に対して国が行っていた上告を受理しない決定を行い、両高裁判決は確定した。

 九六年七月に大阪府堺市の学校給食にて病原性大腸菌Oー157による集団食中毒が発生し六千人を超える児童らが罹患したが、同年八月七日に厚生大臣が「学校給食に使われたカイワレが原因食材である可能性も否定できない」との中間報告を公表したことにより、当日からスーパー・デパート等あらゆる小売店・納入先で全品返品・取引終了の事態が生じ、当該生産業者はもちろん全国のカイワレ生産業者が壊滅的な損害を被った。

 同年一二月、東京地裁に日本かいわれ協会及び会員業者一八社が、厚生労働大臣の公表が違法であるとして国家賠償法一条1項に基づく責任を追及し提訴した(東京法律事務所の柳沢・小木・君和田・小部が代理人)。九七年三月、大阪府羽曳野市の当該業者も大阪地裁に提訴し、大阪の共立事務所の弁護士らが代理人となった。この二つの弁護団は、資料や証拠を提供しあい、訴訟の進展に伴い意見交換を重ねてきた。

裁判提訴直後、公害裁判等に取り組んでいる団員から、厚生省が初めて迅速に情報開示したのに、それに水を差すような裁判提起はいかがなものかという問題提起を受けた。しかし、いかに迅速な情報開示とは言え、不正確な内容あるいは不適切な方法の結果、当該業者や第三者である生産業者の営業や名誉・信用等の基本的な人権を侵害することは許されないのである。

 特に、Oー157の大きさは二〇〇ミクロンであり、カイワレの導管は二〇ミクロンほどで到底中に入り込めないものであり、同時に植物であるカイワレの中で繁殖することはあり得ない。Oー157は牛の腸に常在する大腸菌であり、調査すべきはどこからこの菌が来て、給食の食材がどのように汚染されたかという汚染経路である。日本かいわれ協会の関係者に言わせれば、カイワレ業界は極めて弱小であり歴史も浅いことからスケープゴートにされたのである。逆に本来最も疑われるべき牛等の食肉業界に関しては厚生省等は不可思議にも全く腰が引けた調査しかしていなかった。

 厚生省の中間報告等の公表に関して、両高裁判決が違法性を認めたのは当然である。同時に、両高裁判決とも、厚生省の迅速な情報開示を積極的に評価している。

 しかし、裁判で勝訴しささやかな賠償を得ても、八年間の裁判中に廃業し又は他の主力商品に切り替えたものも少なくないし、いまだ業界全体として当時の売り上げに戻っていない。一度押された烙印は、消えることがないかもしれない。


「国民保護法制」が動きだしている

東京支部  四 位 直 毅

1 各地で具体化の動きが

 この国をまるごと戦争に動員するしくみである「国民保護法制」を具体化する動きが、いま、各地で見られる。

 鳥取と福井で国民保護協議会条例と国民保護対策本部条例が、〇四年九月議会で制定された。神奈川でも県の国民保護対策本部条例などの概要が提示されている。

 埼玉では「国民保護に関する埼玉県計画(素案)」が、福井では「福井県国民保護計画(素案)」が、すでに登場している。

 〇四年一一月に行われた鳥取第二回フォーラムでは、国家戦略アナリストなる肩書を掲げる人物(青山繁晴氏)が「日本の危機と安全保障の真実を問い、私たちの国民像と国家像を考える」と題して講演している(この題名そのものが「国民保護」の実像をあけすけに示している)。

 この三月議会には各都道府県でのいっせい登場が見こまれる。

 指定公共機関の図上訓練が〇四年一一月にNHKほか九民放も参加して行われたが、内容は「お話できない」と秘密にされている。

 政府は〇四年三月に基本指針を閣議決定し、今夏には住民を交えてターミナル駅などでの訓練を実施する方針、である。

 このような事態が進んでいるいま、残念なことに、当の各地の団員でさえ、地元の動きを知らないままでいることが少なくない。

2 何が問題か

 (1) カギは目的条項

 協議会も対策本部も、設置することを定めるだけのいわば枠組み条例である。それだけに、一見批判しにくいようにも見える。

 しかし、総務省・消防庁作成の都道府県国民保護協議会条例モデル案は第一条(目的)で、条例の目的が「国民保護法」つまり戦争動員法の定めに基づき協議会の組織運営の所定条項を定める、と明記し、すでに制定された各条例もこのとおり明記している。

 つまり、有事(軍事)目的のための制定の点において違憲であり、このような違憲目的を掲げる条例も違憲、である。

 (2) 災害対策基本法で足りるのになぜ

 「国民保護計画(素案)」は「武力攻撃から国民の生命、身体、財産を保護」する、という(福井の例)。

 しかし、そのうえで定める「準備」(備蓄、訓練など)や「対応」(避難、救援、輸送など)は、災害対策基本法のそれとほとんど同じであり、同法の適(準)用で十分こと足りるものである。

 にもかかわらず、なぜ別途制定かといえば、「武力攻撃」対処か、災害対処か、が両者の主要な相違点にほかならない。

 (3) 新防衛大綱などとの矛盾

 ところが、新防衛大綱は堂々と、次のとおり明記している。

 「我が国を取り巻く安全保障環境を踏まえると、我が国に対する本格的侵略事態生起の可能性は低下する一方、我が国としては地域の安全保障上の問題に加え、新たな脅威や多様な事態に対応することが求められている。」

 つまり、「国民保護法」の名による戦争動員法の口実とされているこの国への「武力攻撃」が生起する可能性は低下する一方で「新たな脅威や多様な事態」つまりは米軍追随の海外派兵や北のミサイル、ゲリラなどへの対応が主眼、と大綱はいいきっている。この大綱と同時期に定められた中期防は、大綱に即して海外派兵中心へと計画の軸足を移した。

 このようにみてくると「武力攻撃」対処を口実とする「国民保護」とは、羊頭を掲げて狗肉を売るにひとしいことを、政府みずからが明言したことになるのではないか。

 (4) 「国民保護」の真のねらい

 すでにふれたとおり、アメリカが世界各地で行う侵略戦争のために、日本の国土、人員、物量をあげて動員、協力させるしくみ−それが「国民保護」の名で行われることである。

 とくに平時の有事化が核心の一つとなろう。計画、準備、啓蒙宣伝、訓練などがきわめて重視されるゆえん、である。

3 今すぐなすべきこと

 さしあたり、以下三点をやりきろうではないか。

 (1) 各地で、各地の動きを至急、なるべくくわしくつかむこと。

 (2) 各地で得た情報を団本部に集中し、団本部で整理して各地に情報提供すること。

 (3) 三月議会に向けて、至急準備、対処すること。

 以上のとりくみは、改憲阻止、憲法全面実施を求める年頭からのたたかいともリンクできるし、リンクさせる工夫が望まれる。


司法支援センターへの楽観的関与を危惧する

山口県支部 田 畑 元 久

 元日号の永尾団員の「日本司法支援センターへの積極的関与は不可欠」を読み、「積極的」というより余りに「楽観的」であるのに驚き、反射的にペンを執った。

 まず、「法務省に二万人の弁護士を敵に回してセンターを牛耳るほどの力があるとは、とても思えない」という。これ自体は正しい。だからこそ、法務省は弁護士に愛想よく近づき、理解者を増やし、弁護士を分断することに心を砕く。

 実際、弁護士の分断は深刻である。楽観的・積極的関与論、懐疑的・改良的関与論、「仕方ない」関与論、関与拒絶・発足阻止論、対抗運動論等、様々であり、迷いなき選択、苦渋の選択等、色々あり、見事に散らばり、一部には敵対的な関係すらある。

 団内でも意見分布は残念ながら同様であり、しかも、一方が他方を(唯物論者には最も耳に障る)「観念論」呼ばわりする等、同志愛が疑われる場面もある。友好団体であり、構成員も多く重複する青法協を、「『一条の会』ばりの観念論」の横行する悪しき先例として名指しするのも異常であり礼を欠く。

 この状況で、センターの在り方を法務省に牛耳られると危惧しない方がおかしい。

 次いで、「米倉団員は…センターとの契約関係を維持したい弁護士がセンターに『自主的』に抑制し、迎合して、事実上、法務省の意向は容易に実現していくという意見に至っては、国選弁護の現場を踏まえているとはとても思えない」と、誰に向かって言う言葉かと思う程の非難をするが、余りに想像力に欠ける見解である。

 当面は「切れるものなら切ってみろ」で済むが、遠くない将来に事態は激変する。

 司法書士の簡裁代理権、簡裁の事物管轄引き上げ、簡判・副検事出身者の準弁護士資格付与問題、サービサーの数・業域拡大等、で弁護士の業域を狭める方向である上に、合格者三〇〇〇人時代の到来、ロースクール乱立で更なる合格者増の圧力等、この方向性を変えなければ、「食い詰めた弁護士」の大群が各地に生まれ、薄利でも安定した仕事を渇望し、更に、赤字仕事も「企業努力」(例えば、トンネル工事で粉塵暴露予防のコストを削ってじん肺患者を生むような)で黒字に変えてでも求めるようになる。

 尚、鹿児島県弁護士会が国選弁護人解任事件で抗議の声を上げた例が紹介されたが、身柄拘束が長引く被告人を慮ってのことと察するが、会としては推薦を停止するが裁判所からの「一本釣り」には応じるよう「囁かれた」旨を漏れ聞く。

3 国家権力の相対化・楽観化について

 確かに権力は、北朝鮮問題で官邸内でも暗闘があるように、不動の一枚岩でないが、多数の糸・ワイヤーを束ねて一つの方向に力を発揮できるのが権力であると考える。

 永尾団員は「国家権力を総合的にみる」論を更に考えると仰るので、この点はこれ以上の言及は控える。

 永尾団員は、法律事務を独占する弁護士会には司法改革に関与する責務がある、司法支援センター発足が法律で決まった以上は「観念的議論」や「傍観視」は「許されない」とまで言う。「積極的関与」論は、悩んだ末の苦渋の選択ではないらしい。

 しかし、戦前の団員は、「法律で決まったことだから」と言って、治安維持法や国家国民総動員法を遵守し「関与」しただろうか。根本的批判を展開した筈である。

 そもそも、司法改革は日本の新自由主義的再編の一環であり、「法の支配」を権力を縛る原理でなく人民を縛る原理として誤用した上、その貫徹を意図し、弁護士の在野性の希薄化の意図と併せ、戦争できる国家作りの一環との見解が最も素直である。「せめぎ合い」と言ってもそれは反動的再編に付き物で、それでも相手は馬鹿で貧弱ではないのだから相手の土俵でせめぎ合っても意図は貫徹される。特に「司法改革」だけ従前(教育改革とか行政改革とか政治改革とか)と違う対応を採るべき理由はない。

 司法改革路線やその具体化に根本的疑問を持ち、批判し、関与の是非を議論することの方が、団員として当然であると思う。

 永尾団員の立論は、団・団員とは何か、根本的な疑問を投げかけるものでもある。


いま、団通信が面白い

    〜裁判員制度論争に触れて

東京支部  小 池 振 一 郎

 いま、団通信が面白い。いわずと知れた、永尾廣久団員の諸論稿をめぐるやりとりである。司法改革について、ようやく核心に触れた議論が展開されるようになったという感がする。毎号楽しみにしている。

 ところで、団通信一一四五号(昨年一一月一日号)に掲載された米倉勉団員「刑事司法の行方と団内外の議論状況について」の中の『国民の司法参加の意味―裁判員制度の評価』のところで、名指しではないが私の発言が間違って引用され批判された。読者のままでいるわけにはいかないので、投稿する。

 国民の司法参加の二つの側面―権力的契機とチェック機能の関係

 米倉団員は、国民の司法参加には、国家刑罰権の行使を監視しチェックする人権保障的契機と、国民が処罰する側の一員として国家権力の行使に与する権力的契機があるとする。

 そして裁判員制度が「争いのない事件も対象にすること、重大事件だけが対象となること、量刑も評議の対象とすること」を「権力的契機の方がより強く働き、逆に人権保障的契機が発揮されにくい制度」だと消極的に評価する。しかしこれらは、ヨーロッパの参審国では(国によって異なるが)普通の制度である。国民の司法参加として参審制をそれなりに評価する立場からは納得できない。

 ところで、彼のいう二つの側面は、その一方が強く働けば他方が弱くなるという相関関係にあるのだろうか。

 「権力的契機」なるものは、社会の制度として存在する以上は、いかなる国家体制においても存在するのではないか。

 例えば、陪審制。アメリカには、死刑事件についてだけは、陪審員が死刑選択しなければ裁判官が死刑を言渡せないという州がある。これには、司法官僚だけでは死刑にさせないという国民のチェック機能があると同時に、死刑判決という選択に国民を関与させることによって、権力側が死刑判決の正当性を獲得し、支配の正統性を維持するという側面がある。まさに権力的契機であるが、だからといって、陪審制を否定するか。

 翻って、戦前日本の陪審制は、日糖事件、大逆事件を経験した政友会リーダー原敬らによって、「司法権の独立」をかざした当時の検察主導の司法に対抗して、政党制の体制統合機能を補完するものとして構想されたといわれる。やはり権力的契機があった。

 そもそも国家刑罰権の行使そのものが権力の示威、支配の正統性の証である。磔は王の支配の正統性を内外に知らしめ誇示するものであった(フーコー「監獄の誕生―監視と処罰」)。

 刑事裁判手続への国民参加は、国家刑罰権行使の一翼を担うものであるから、国民をそこに組込み利用するという権力的契機を有するのは当然である。だからこそ、権力側にはそれを制度化しようとするメリットがあり、現実に制度化が実現する可能性があるのだ。

 五月集会で、私は、アメリカの陪審制の例を挙げながら、「国民の司法参加には必ず両面があって、チェック機能のみではない」と発言した。評価ではなく、事実の問題として。

 ところがこの発言が、米倉論稿では、「国民の司法参加の趣旨にはその両面があるべきであって、チェック機能のみが目的ではない」と、不正確に引用されている。これでは、彼のいう「権力的契機」を私が積極的に評価し、制度「目的」のひとつとまでしているように誤解されてしまう。

 そうではない。私が言いたかったことは、国民の司法参加に権力的契機があるからといって、裁判員制度を消極評価する理由にはならないということ。権力的な契機が強ければ人権保障的契機が弱くなるという相関関係には必ずしもならない、ということだ。

 裁判員制度への国民の理解と共感を得ることこそいま重要

 裁判員制度に権力的契機があっても、私は、むしろ、専門家と市民の協働という積極面を評価したい。どのような分野であれ、国家権力に関わるプロが健全さを保つには、非専門家(市民)との協働が不可欠であると思うからだ。

 それどころか、「陪審制が訴訟の運命に大きな影響を及ぼす以上に、社会自身の運命に大きな影響を及ぼす」(トクヴィル「アメリカにおける民主制」)のと同様に、裁判員制度は、日本の法教育、日本文化の発展に多大な影響を与えるだろう(「世界」昨年一一月号座談会「『裁判員制度』への不安と期待」での私の発言)。

 ところが、裁判員制度を刑事訴訟法改悪や日本の刑事手続の後進性と結びつけて全体として消極的なスタンスをとる傾向が一部にある。

 しかし、「刑事訴訟法の根本的改正なしに裁判員制度の実施に入っていくことを否定する議論…は逆で、裁判員制度の導入をテコに、改善への圧力をつよめるのが正論」(柳沢明夫「画期的意義もつ裁判員制度の成立」前衛昨年八月号)であろう。日弁連はいま裁判員制度実施のために、規則制定と運用改善について最高裁・法務省と協議中だ。

 永尾団員は、「裁判員制度が法制度としてスタートする…以上、『世論一般に不評』だということで良しとせずに…裁判員にあたったら裁判所に出頭しよう…という働きかけを市民に対して今からしていただきたい」と訴える(「裁判員制度と刑事司法改革」団通信昨年一二月一日号)。実施まであと四年しかない。裁判員制度への国民の理解と共感を得ることこそがいま最も重要だ。『世論一般に不評』などと評論している場合ではない。それでは、『不評』に加担し、ようやく産まれようとしている国民の司法参加制度を流産させることにならないか。チェック機能を果たせる絶好のチャンスを葬り去っていいのか。

 昨年一二月、日弁連製作の裁判員ドラマ「裁判員〜決めるのはあなた」VHS版・DVD版が有料ビデオ化(各定価五二五〇円)された。ビデオ販売を代行する実教出版(電話〇三―三二三八―七七七七、ファックス〇三―三二三八―七七五五)に注文し、裁判員制度に対する国民の理解と共感を得るべく大いに活用されたい。


憲法第九条改悪阻止とともに、

九条を武力紛争解決に生かしていくために

〜武力紛争予防のためのグローバルパートナーシップへの参加の呼びかけ〜

東京支部  笹 本  潤

1、GPPACとは

 九・一一テロやイラク戦争を契機に、世界的には、紛争が起こってしまってからではどうしようもなく、紛争の予防にいかに防ぐかというテーマがクローズアップされてきています。「武力紛争予防のためのグローバルパートナーシップ(GPPAC)」というNGOのプロジェクトは、そのような問題意識を背景に、二〇〇五年七月にニューヨークで国際NGO会議を開催し、紛争予防のためのNGOの提言を発表するというものです。

 この運動は世界的なNGOの運動であるとともに、東北アジアでの市民団体・NGOが結集する場としても位置づけられます。世界をいくつかの地域ブロックに分けて武力紛争予防のための提言作りが進められており、東北アジアブロックでも地域に見合った提言作りが進んでいます。中心となっているNGOは、日本ではピースボート、韓国では平和を創る女性の会や香港・台湾などの市民団体です。東北アジアブロックは二〇〇四年二月の日弁連の東北アジアシンポのころから日本でも準備が本格的に進められてきました。

 私たち法律家団体も今年九月二〜四日にソウルでアジア太平洋法律家会議(COLAP4)が開催されますが、GPPACもCOLAPも東北アジアの市民が平和のために集う場です。このような一つ一つの集まりを大切にして、憲法第九条の理念を中心とした東アジア平和共同体の第一歩を築いていきましょう。

2、憲法第九条を世界とアジアに広げていく場

 GPPACは、東北アジアの市民の集まりであると同時に、憲法第九条を世界とアジアに広げていける最大のチャンスでもあります。

 東北アジア地域は世界の中でもいまだに冷戦状態が残っている唯一の地域であることが特徴です。それにもかかわらず日本に憲法第九条があるため、ぎりぎり平和を維持することができています。東北アジアの提言案の中にも「憲法九条は非武装・非軍事の紛争予防の基礎」とされ、提言の前文に唱われることになっており、憲法第九条の重要性についてはすでに他のアジアのNGOからも了解が取れています。憲法第九条を世界の武力紛争予防のための基本理念となるように世界中に広めて行けたら、日本も容易に九条を改正することができなくなる状況になるのではないでしょうか。

 そしてもちろん憲法第九条が改正されたらこれらの活動はすべて意味を失ってしまいます。そういう意味で日本における憲法改正阻止の運動はますます重要になり、逆に世界とアジアの中で憲法第九条の認知度がアップすれば、日本の憲法改悪阻止の運動にも大きく跳ね返ってくることは間違いないでしょう。

3、平和運動の中には逆流も

 日本の平和関係NGOは多数ありますが、ピースボートや私たちのように憲法第九条を守るという団体ばかりではありません。例えば日本紛争予防センター(JCCP)という団体にも参加を呼びかけていますが、彼らは武力の威嚇力をもって平和を維持していくという「積極的平和主義」の考え方をとっており、憲法第九条を改正するのが前提となっているのです。

 JCCPは、日本国際フォーラム(http://www.jfir.or.jp/j/index.htm)を姉妹団体としていますが、同フォーラムの「不戦共同体」構想は、九条を改正して、日米同盟を強化する中でのアジア平和共同体構想です。また、JCCPは、明石康を会長とし、顧問が高村外相、笹川平和財団やトヨタ自動車などを会員としている組織で(http://www.jccp.gr.jp/jpn/index.htm)、財界や政府の意向を強く受けています。

 このような団体とのつばぜり合いの中で、アジアの平和運動をいかに盛り上げていくか、憲法第九条の重要性・普遍性をいかにアピールしていくか、が今問われているのです。

4、今後の日程

 GPPACは以下の日程で進行していきますが、本番の七月のニューヨークでの国際NGO会議の際には、憲法第九条を世界に広めるパフォーマンスもする予定です。憲法第九条を世界に広める意味でも、改憲を阻止していく上でも、今後注目されるプロジェクトになります。幅広い参加を呼びかけます。

 一月の会議に是非ご参加下さい。

 日本国内のNGOが多数集まる会議です。

*プレ地域会議二(日本プロセス集会)
二〇〇五年一月二三日(日) 一四時三〇分〜一七時
    伊藤塾東京校5号館541A教室

*GPPAC東北アジア地域会議 記念シンポジウム
二〇〇五年二月四日(金) 一八時〜二一時
    国連大学エリザベスローズ会議場

*GPPAC東北アジア提言・記念集会
二〇〇五年三月六日(日) 一三時〜一七時
    法学館憲法研究所(渋谷)
 →「九条アピール法律家の会」も協力団体となります。

*GPPAC国際NGO会議
二〇〇五年七月一九日〜二一日 ニューヨーク国連本部にて
(GPPACの提言案や会場図 
http://www.peaceboat.org/info/gppac/index.html

●賛同金もお願いします。海外参加者の招へい費用などGPPAC東北アジア地域会議の準備・運営に使われます。 詳しいお問い合わせはピースボート・担当:渡辺、吉岡まで。
電話 03-3363-7561