<<目次へ 団通信1163号(5月1日)
菅野 昭夫 | 愛国者法 その後(上) | |
永尾 廣久 | 団事務所の分割・再編のすすめ | |
野澤 裕昭 | 何が起きてる? 商法大改正(上) | |
宇賀神 直 | 阿部敏也君、ご苦労様でした | |
渡島 敏広 | 新人です。お世話になります。 |
北陸支部 菅 野 昭 夫
アメリカで猛威を振るっている愛国者法については、昨年団通信に一月一一日号から二月二一日号(連載)で報告をしたが、その後の様相について紹介したい。
<グアンタナモ基地での勾留等に関するアメリカ合衆国最高裁判決>
二〇〇二年一月以降、アフガニスタン戦争で捕らえられた多数の囚人がキューバのグアンタナモ基地に、国際法やアメリカ憲法に違反して勾留されている事実は、前述したとおりである。人権侵害のひどさに触発されていくつかの訴訟が提起され、二〇〇四年六月二九日に二つの最高裁判決が言い渡された。
ハムディ対ラムズフェルド事件・・・・・アメリカで生まれアメリカ国籍を有する二〇歳のアラブ人青年ハムディはアフガニスタン戦争の戦場で「不法敵戦闘員」(unlawful enemy combatant)として身柄拘束され、二年間グアンタナモ基地に勾留された。しかし、ハムディは、旅行中に罠にはめられて戦場に行き、「不法戦闘員」と誤認されたにすぎないと主張し、人身保護令状(Habeas Corpus) に基づき、身柄拘束が違法であるから釈放せよと要求して連邦地裁に提訴した。その事件の上告審において、最高裁は、八対一の票差により、「合衆国憲法のデュー・プロセス条項によれば、合衆国の統治下にある場所での被拘束者は、申立を保障されている司法機関に「不法敵戦闘員」であるか否かの事実的根拠について司法審査を求める権利を有し、且つ弁護人選任権を有する」旨判示した。多数意見を起草したサンドラ・オコーナー裁判官は、「戦争状態にあることは、大統領に対し、国民の権利という面で白地小切手を発行する根拠にはならない。大統領の戦争権限は憲法上の基本的な権利を保障するために政府に課した各種の制約を取り払うことを正当化するものではない。むしろ、戦争状態のときこそデュー・プロセスなどの政府に対する制約が厳格に遵守されるべきである。また、ハムディの拘束の根拠となるべきことは、アフガニスタン戦争での「不法敵戦闘員」であったことに限定されるべきであり、たんにテロとの戦争全般において「不法敵戦闘員」であったか否かに拡張されてはならない。」と述べ、政府の主張を排斥した。
ラサル対ブッシュ事件・・・・・同じく、グアンタナモ基地に拘束されているアメリカ国籍を持たないラサルが、人身保護令状に基づいて、身柄拘束の違法性について司法審査を求めた。その上告審において、政府は、「大統領の戦時における権限によれば、テロとの戦争で拘束した者については、大統領が「不法敵戦闘員」と認定すれば、外界との接触を遮断した状態で無期限に拘束できる。また、グアンタナモ基地はキューバの領土にあり、合衆国の主権外である。以上の理由で、司法審査は及ばない。」と主張していた。しかし、最高裁は、六対三の票差で、「グアンタナモ基地の被拘束者は、彼らの拘束の違法性を主張して連邦裁判所に提訴して、司法審査を受ける権利を有する」と判示した。
このように、最高裁判決は、アメリカ政府のテロとの戦争を錦の御旗にした不法な身柄拘束に対し、人身保護令状による提訴ができることを明らかにした点で、重要な意義を有している。しかしながら、最高裁判決は、ブッシュ政権が、国際法や国内法にも一切なかった「不法敵戦闘員」なる概念を発明して、それに該当した者に対しては有罪判決なしの終身の身柄拘束を合法化し、かつ戦時捕虜に関するジュネーブ条約の適用を回避したことについては眼をつぶり、身柄被拘束者は「不法敵戦闘員」であるか否かについての司法審査を求めることができるとしたもので、いわばブッシュの不法な論理を追認した結果となった。そのため、最高裁判決は、手放しで喜べないどころか、「政府にとっても勝利」とコメントされている。
なお、最高裁は、同日に、パディラ対ラムズフェルド事件という愛国者法関連の重要事件についても判決を言い渡した。即ち、アメリカ市民であるパディラは二〇〇二年六月にシカゴ市のオヘア空港で「重要証人」であることを理由に逮捕され、その後大陪審への喚問のためにニューヨーク市に移送されたが、その後「不法敵戦闘員」として秘密裏にサウス・カロライナ州の軍の基地へ再移送された。彼の弁護人は、再移送を知らされなかったため、ニューヨーク市にある連邦地裁に人身保護令状を根拠に身柄の釈放を求めて提訴した。しかし、最高裁は、五対四の票差で、「ニューヨーク連邦地裁には管轄権はなく、サウス・カロライナ州の連邦地裁に拘束の責任者(将校)を被告として提訴すべきであった」と原告を敗訴させた。この最高裁判決は、愛国者法体制の中で被拘束者の弁護人とのアクセスが制限され、弁護人が依頼人の所在を突き止めることさえ容易でない状況を無視し、司法審査なしで無期限に身柄拘束を続けて、「口を割らせよう」という政府の政策を追認した不当極まりないものである。スティーブン裁判官は、少数意見の中で「この事件で問われていることは、自由な社会とは何かということである。「不法敵戦闘員」を理由にした拘束などの反政府分子に対する行政拘束は、しばしば、大量破壊兵器の使用から身を守るためという理由で正当化されている。しかし、そのような身柄拘束は、情報を引出すために違法な手段を使用したいという赤裸々な利益によって正当化されてはならない。・・・もし、この国が星条旗によって象徴される理想を保持したいのであれば、圧政者による攻撃に対抗する目的であっても、自らが圧政者の武器を使用することを許してはならない。」と述べざるを得なかった。
<リン・スチュアート事件で有罪の評決>
二〇〇五年二月一一日、ナショナル・ローイヤーズ・ギルド(略称NLG、アメリカの進歩的法律家団体)の会員で卓越した女性刑事弁護士リン・スチュアートは、ニューヨーク市の連邦地裁において、陪審員による有罪の評決を受けた。
前述したとおり、彼女に対する愛国者法違反等による起訴は、政府によって、九・一一事件以後の最重要反テロリズム刑事裁判のひとつと位置づけされており、有罪評決は政府を鼓舞させるものであった。リン・スチュアートは、有罪評決を受けた直後に、多数の支持者の前で、声をふるわせて、「私はあきらめない。私は、何の罪も犯していないことを知っている。ここにいる誰もが、ある朝目覚めるとお前は有罪だと宣告される日を迎えるであろう。私は、この有罪評決が、弁護士を鍵をかけ閉じ込めることは出来ないことを知らせる目覚まし時計となることを願っている。」とあいさつをした。
改めて、この事件を要約すると、以下のとおりである。リン・スチュアートは、盲目のイスラム聖職者シェイク・オマール・アブデル・ラーマンがニューヨーク市にある複数のビルディングを爆破しようとしたとの刑事事件で、裁判所から国選弁護を依頼され、無罪を主張して弁護を尽くしたが、一九九六年に、シェイクは有罪となり、終身刑を言い渡された。リン・スチュアートは、その後も、彼の弁護人として、シェイクの早期釈放のために活動を続けていた。有罪評決後、政府がテロリスト組織と指定しているシェイクの支持団体はアメリカ政府に対し、その釈放を要求していたため、リン・スチュアートは、シェイクとの接見に際して、「シェイクのメッセージをメディアなどへ伝達する目的に接見を利用しない」旨の誓約書にサインさせられていた。しかし、リン・スチュアートは、二〇〇〇年五月の接見で、シェイクから、イスラエル・パレスチナ間の休戦協定に対する支持を保留するとのメッセージを伝達され、これをその後六月にロイター通信に電話で伝えた。彼女のこのメッセージ伝達行為は、誓約書に反して政府を欺もうし、「テロリズムに物質的援助を与える」愛国者法に違反した行為であるというのが起訴事実のひとつであった。また、リン・スチュアートは、二〇〇〇年五月の接見の際に、アラブ語の通訳とアラブ人を伴ってシェイクと会った際に、故意に英語で早口の会話を看守と交わして、残りの二人がシェイクとアラブ語による秘密の会話を交わすのを援助し、「テロリズムに物質的援助を与えた」などの他の四つの起訴事実により起訴された。
この事件におけるリン・スチュアートの行為については、検察はもちろん、メディアからも弁護人としての行動を逸脱するとの批判が行われた。しかし、そのような誓約書は、そもそも弁護人の権利を不当に制約するものであり、かつ接見を実現するためにはそれにサインせざるを得なかった。また、誓約書に違反したからといって、懲戒は別として刑事責任を生じさせるものではない。さらに、「早口で英語を話して、アラブ語の会話に対する看守の注意を故意にそらした」については、彼女はアラブ語を全く理解できないから、そのような容疑自体実行不可能であるし、看守には会話に聞き耳を立てる権限さえない。そもそも、リン・スチュアートのこれらの行為によって、現実に何のテロ行為も起きたわけではないことは、検察自身が認めていた。例えば、シェイクの支持団体が休戦協定をもはや支持しないとのシェイクのメッセージを報道で知っても、休戦を守る従来の態度を一変して武力行使に出たわけでもない。従って、リン・スチュアートの行為の賛否はともかくとしても、彼女の行為に刑事責任を生じさせるような違法性を見出すことは出来ない。
しかし、この事件における最大の問題は、こうした事実を立証する検察官提出の証拠は、その殆どが、リン・スチュアートとシェイクの会話を秘密裏にモニター(盗聴)した録音テープであったことである。彼女の逮捕直後にアシュクロフト司法長官は、FBIが接見の会話を三年間にわたってモニターしていたことを、誇らしげに認めた。よく知られているように、アメリカ合衆国においては、弁護士・依頼者間の秘密特権(attorney-client privilege)が確立されており、法律上の助言を求めるに際して弁護人と依頼人との間で交わされたコミュニケーションは秘密性が保障されている。この特権は、アメリカ合衆国憲法の言論の自由(第一修正)、不当な捜索押収の禁止(第四修正)、適正手続の保障及び自己負罪禁止の特権(第五修正)、防御のために弁護人の効果的な援助を受ける権利(第六修正)に根ざしている。このため、弁護人は、検察官の証拠は、違法収集証拠であるとして、証拠排除法則(exclusionary rule)の適用を求めたが、裁判官はこれを認めなかった。
刑事事件の審理は、九月一一日事件の現場近くの連邦地裁で行われ、七ヶ月を要した。陪審員(女性八人、男性四人)全員の氏名等は一切秘匿され、法廷の中でもその座席は傍聴席から見えないように設備された。検察官は、オサマビンラーデンがシェイクに支持を表明したヴィデオ・テープを証拠として上映することを求め、弁護人の猛反対にもかかわらず、認められた。審理において、リン・スチュアートは、証言台に立ち、「依頼人は防御のために弁護人の効果的な援助を受ける権利(第六修正)を有するから、弁護人は、依頼人のために最大限の弁護を尽くす権利と義務があり、シェイクのメッセージをロイター通信に伝えたことも、弁護人として、シェイクの釈放(または故国エジプトへの移送)を勝ち取るためメディアの関心を彼に向ける戦略の一環として必要な活動であった。何が弁護人として必要な活動かについて弁護人は広範な裁量権を有している。この事件で問われるべきは、接見室で、私が何をしたかではなく、法執行機関が私に対して何をしたかではないか。」と述べた。
裁判は、終始、国中の注目を集め、NLGばかりでなく、ACLU(アメリカ自由人権協会)、ABA(アメリカ法曹協会)等の刑事弁護士がリン・スチュアートを支援してかけつけた。
審理が終結すると、陪審員は評議に入ったが、評議は四週間(一二日)も続いた。そして、遂に有罪の評決となったのである。この結果、リン・スチュアートは、六月に裁判官による量刑決定の審理を受ける予定であるが、メディアは、二〇年または三〇年の刑を受ける可能性を報道している。リン・スチュアートは、控訴することを決定しており、控訴審では、証拠排除法則(弁護士・依頼者間の秘密特権に違反して違法に証拠が収集されたこと)が最大の焦点となる。
以前に述べたように、愛国者法により、法執行機関の電話、Eメール、インターネット等のモニター(盗聴)は格段に容易となった。要するに、政府がいかに些細な理由でも情報収集のために必要と宣言さえすれば、司法的チェックなしに盗聴は可能である。また、モニターされていることは、その結果が刑事手続に利用されない限りは、秘密のままである。そして、愛国者法の制定に呼応して、アシュクロフト司法長官は、行政規則を改定して、弁護士の刑事事件依頼者との接見についても、司法的チェックなしに、相当な理由も要せず秘密裏に盗聴することを可能にした。その結果、刑事事件の弁護人は拘置所で依頼人と接見している時に、常に盗聴を意識しなければならない。そのうえ、接見内容の盗聴結果が証拠として許容され、それに基づき弁護士が有罪になるなどということは、依頼人のために最善を尽くすべき弁護人の弁護活動に抑止的効果を与えざるをえない。
そのため、法曹界は有罪評決に衝撃を受け、NLGは総力を結集して彼女の支援に当たることを確認している。
<アラブ系移民の受難>
前報告のとおり、愛国者法は、アメリカ国籍を持たない移民を、政府が「テロリスト」との疑いを持てば、司法審査なしに事実上無期限に勾留するか、国外追放するシステムを作り上げた。そして、このターゲットになったのは、いうまでもなくアラブ系移民である。九月一一日事件後、永住資格を得て合法的に長年平穏に居住している者も含め、多くのアラブ系移民が、逮捕され、国外追放された。二〇〇一年一一月以降、政府はその人数を発表しなくなったが、二〇〇〇人は超えていると推定されている。被逮捕者の多くは、理由も告げられず、身柄の所在も明らかにされずに勾留される。しかし、愛国者法は一応七日以内に刑事訴追するか、国外追放を申請することを要求している。そこで、多くの者は、軽罪や移民法違反の容疑のみで刑事訴追される。前報告で紹介したように、ミネソタ州在住のソマリア人社会の指導者オマール・ジャマールは、二〇〇三年三月三一日に、些細な移民法違反容疑(アメリカへ政治亡命する際に記入した申請書に、以前カナダに政治亡命を申請したことを記載しなかったなど)で逮捕され、刑事訴追と国外追放手続にかけられた。彼は、NLG元議長ピーター・アーリンダー弁護士の手厚い弁護とソマリア人社会の支援にもかかわらず、二〇〇四年一月八日に有罪の評決を受けた。カナダには政治亡命の制度はなく、オマールが申請したのは政治亡命もどきの複雑な制度であり、かつ、その申請はオマールが一六才のときで制度の趣旨を理解していたとは考えがたいから、オマールが以前カナダへ亡命申請したことを故意に隠してアメリカ政府に政治亡命を申請したとは到底言えないはずであったが、陪審員は彼を有罪と認定したのである。もし、反対派が権力を握るソマリアへオマールが国外追放されれば、生命の保証はない。
アラブ系移民の被逮捕者で、愛国者法のいう「テロリスト」として逮捕された者は非常に少ないが、愛国者法を批判する論述には、その一例が紹介されている。ロスアンゼルス市在住のパレスティナ人カーダー・ハミドとマイケル・シェハディーは、永住資格を有し二五〜三〇年にわたってアメリカに居住していたところ、愛国者法違反で逮捕された。容疑は、一九八〇年代に彼らがPLOのある派が発行する雑誌を頒布していたというものである。その派は当時合法的な組織であり、雑誌は図書館でも閲読可能であった。しかし、政府は、「愛国者法によればその派はテロリスト組織であり、その雑誌を頒布する行為はテロリストに物質的援助を与える行為とみなされる。愛国者法は国外追放事由としては過去の行為に遡及することも許容している。」と主張している。彼らは、国外追放手続に付されたとのことである。
これらの人たちは、まだ逮捕理由が一応判明するか、正式な手続に付された人々である。しかし、刑事訴追も国外追放手続もなしに身柄拘束されたままのアラブ系移民も相当数いるといわれているが、その実数は不明である。
アラブ系移民は、その多くが、九月一一日事件後、FBIなどによって、「テロ活動に応用できる訓練を受けたことがあるか、テロに関連する犯罪行為を知っているか」などの質問を一斉に受けた。彼らは、常に、逮捕と国外追放を恐れなければならず、かつ、ヘイトクライムの対象として襲撃を受けている。
愛国者法体制におけるアラブ系移民の受難は、あたかもナチスドイツにおけるユダヤ人に酷似しているというのが、愛国者法を批判する人たちの論評である。
福岡支部 永 尾 廣 久
将来問題委員会の提起を受けて
団通信一一六一号の鈴木亜英委員長の提起を読んで、私も日頃かんがえていることをズバリ提起しようと思った。
「毎年六〇〜七〇人の新人団員があっても少しもおかしくない」と鈴木委員長は指摘している。たしかにそのとおりなのだが、私は、団員の比率を以前のように全弁護士の一割の回復をめざすことを具体的な目標として掲げるべきだと思う。その意味では六〇人とか七〇人では少ないのであって、少なくともその二倍の一五〇人を団事務所に迎え入れることを目標とすべきだと考えている。そんな夢物語なんか言っても仕方がないだろうという反発がたちまち予想される。しかし、何事も大志を持てなのだ。ボチボチとりくもうや、というのでは団の将来は暗い。
ところで、新人弁護士が急増しているのは東京と大阪だけであり、そこで大幅な受けいれを実現できないことには現実問題として団員の大量確保は難しい。
ところが、現実の状況はどうだろうか。福岡にいる私からみて、このところ東京や大阪の団事務所と団員にかつてのような元気がないように思われる。私が二年前に日弁連執行部にいたときにも同じように感じた。もちろん、個々の団員で頑張っている人はいる。でも、集団というか、マスで見たときに、かつてのような覇気がもうひとつ感じられない。
ここらあたりから私の独断と偏見にもとづく憶測である。団事務所のメンバーがほぼ固定していて、新人がときどき入ってくるだけで、事務所は満杯気分で安定している。平和課題や各種の人権課題をかかえ、忙しく活動している。もちろん個別事件の解決のために毎日あれこれと気ぜわしい。それに、年齢(とし)もとってきたので、少しばかり自分の時間も確保して優雅な生活も送ってみたい。関心のある分野に手を伸ばして、そちらに時間をさきたい。だから、後継者の養成とか、そんな面倒なことは誰か適当にやっておいてよ。自分はもう十分に社会奉仕はしたんだから勘弁して・・・。そんな悲鳴のような声さえ聞こえてくる。
私も五〇代の後半になったので、その気持ちは本当によく分かる。これからは自分の好きなことを精一杯やらせてほしい・・・。それはいい。私も否定はしない。でも、せっかく身につけた技倆(能力)を誰にも継承させず、死滅させてしまったら、本当にもったいない。
東京・大阪の団事務所は大胆に分割・再編すべき
私は、東京・大阪の団員と団事務所は、この際、大胆に分割・再編成すべきだと思う。ビジネス・ローヤーの世界では弁護士一〇〇人とか二〇〇人の事務所が次々に誕生している。団事務所の実情を考えたときには、同じように大規模事務所をめざすというのは現実的ではない。今の一〇人とか二〇人規模の団事務所を私はいくつかに分割して、それぞれが再び同規模をめざすということしか考えられない。それぞれの団事務所は創業時の人数にいったん戻って、新規巻き直しを図るという提案だ。
具体的には、弁護士になって五年以上の中堅弁護士は条件さえあればどんどん独立し、何人かで新しい事務所をつくったらいい。そして、そこに新人弁護士を迎え入れる。地域的に開拓するか、分野の面で新境地を切り拓くか、かなりの苦労は必要になるとは思うけれど・・・。
もちろん、大ベテランの弁護士も大いに独立すべきだと思う。「一代限りでよい」なんて言わずに、何人かの同僚弁護士を引きつれ、新しい事務所をつくり、そこに新人弁護士を迎え入れる。
東京・大阪の厳しい実情を知らないから、そんな極楽トンボのようなことが言えるという声があがるのかもしれない。たしかに「開拓・掘り起こしを意識しないと安定が得られない苦労型事務所」が大都会に増えている現実があると私も思う。しかし、本当に分割・再編は不可能なことだろうか。挑戦してみる価値はあるのではないだろうか。
福岡の二つの経験を紹介したい。北九州では北九州第一法律事務所から所員の弁護士が次々に独立していったが、そのとき、弁護士空白の行政区をひとつずつ埋めていく努力をして成功した。独立したあとも緊密な連携をとっているという。福岡でも、福岡第一法律事務所から独立した弁護士が何人か弁護士の少ない地域へ進出していった。
もうひとつは、福岡県弁護士会の法律相談センター(有料)の展開である。私も会長として推進した。すべてがうまくいっているわけではないが、この全県展開は基本的に成功している。事件の掘り起こしは、弁護士の経済的安定につながっている。そして、このことが弁護士会活動への会員の信頼の源泉となっている。東京こそ日本最大の弁護士過疎地だ。そう喝破した弁護士が私の身近にいる。私も、実は、そうなのではないかとひそかに思っている。
今なすべきことは、やれることは何でもやること
弁護士大量増員時代が現実化したのに、まだ、その是非を声高に論じるだけの団員が身近にいる。また、役に立たないアホな弁護士が増えるだけだ、そう高言して、何もしないことを合理化する団員すらいる。いずれも私はとんでもないことだと思う。いま我々には、打てる手はみんなうってみることが求められている。試行錯誤を恐れてはいけない。内部であれこれ議論しているだけではダメなのだ。外にうって出ること、ともかく新人弁護士を迎え入れることをすべての出発点、最優先の課題とすべきだと思う。
そのとき、新人弁護士をあるがまま受けいれる姿勢が大切だと思う。はじめから団員になることを入所の条件とすべきではない。活動の経験があってもなくても、真面目であれば、一緒にやれそうなら、ともかく迎え入れてみること。司法修習生と話をしてみると、具体的に何をやりたいのか明確な目標をもっている人があまりに少ない。しかし、それに、ええっー・・・と驚いていてもはじまらない。それが現実なのだから、そこからスタートするしかない。
「空白克服」の弁護士たちがいま最高に元気
全国にたくさんの日弁連公設事務所が開設されている。二年交代なので、紋別(北海道)のようにすでに三代目が就任したところも出ている。「自由と正義」のリレーエッセイを読んでも分かるように、彼らはとても元気に活躍している。ところが、そこに若手団員がほとんどいない(もちろん何人かいるのは知っているが・・・)のが残念でならない。私は支援事務所に登録しているので、そのメーリング・リストに加わり毎日とびかっているメールをのぞいているが、その活発さに目を見張っている。呆れるほど旺盛な行動力がある。
かつて、団員の弁護士が「空白克服」をめざして全国各地へ散らばった。それがいま、弁護士会の課題となって、団員でない弁護士が担っている。
わずか二年で交代する、足が大地についていない、定着を考えないような活動では弁護士としてダメだ。そんな声を聞く。批判するのはたやすい。しかし、そうやって切り捨てる前に、近くに来たらあたたかく歓迎し、一緒に事件をやったり共同の研究会をもったりして、彼らに話しかけ、とりこむつもりで接すべきだと思う。
そして、支援事務所に登録すべきだと思う。私の事務所も登録していたおかげで若手弁護士を一人、二〇年ぶりに迎えいれることができた。残念ながら二年たって送り出すことになったが、その経験はお互いにとって大いにプラスになった。しかも、若手弁護士が二年いた実績があるということで、次に入る弁護士を確保する目途もたっている。
私の事務所に入った弁護士は有明海訴訟弁護団に入って大いに鍛えられたし、そこで自信もつけた。社会的意義のある事件を体験してスムースに入団してもらうこともできた。
スタッフ弁護士の養成
日本支援センターの発足が間近に迫っている。そこに配置されるスタッフ弁護士は当初一〇〇人の予定が六〇人になったようだ。このスタッフ弁護士について、独立性に問題があると考えている団員は多いと思う。しかし、弁護士会としてスタッフ弁護士を確保しなければいけないのは現実の問題であるうえ、応募したいと考えている司法修習生が多数いるというのも事実である。としたら、団事務所もスタッフ弁護士の養成に取り組むべきだ。少なくとも敬遠すべき課題ではない。
最近、私がある司法修習生と話したところ、スタッフ弁護士に魅力を感じている修習生は多い。それは、たくさんの事件をやれるうえに、身分が安定していて、将来性が確保されているからだということだった。まったくびっくりさせられる話だった。しかし、そう考えている司法修習生がいるのなら、それはそれとして迎え入れて、独立性の問題もふくめて団事務所で研鑽をつんでもらえばいいと思う。
司法修習生と話して感じるのは、みんな大変真面目であるが、独立して何かをやろうという気概に乏しいということ。だったら、団事務所に入って、社会の現実に接して開眼してもらえばいい。こちらからあれこれ条件をつけて、門を狭くしたらいけない。
司法修習生の指導担当
大阪支部のニュースを読んだとき、大阪の指導担当弁護士六〇人のうち団員が一割(六人)しかいないというのに愕然とした。たしかに福岡でも指導担当の候補者となった団員が、何人か面倒だから引き受けたくないと言っておりたという悪しき例がある。これでは団員が増えるはずがない。
団員は、どんなに忙しくても、歯をくいしばってでも司法修習生の指導担当を買ってでるべきだと思う。私は青法協を陰謀団体視している修習生が何人もいるのを目のあたりにしてびっくり仰天したことがある。接して話さないことにはどうしようもない。
法科大学院生との交流
福岡では池永満団員の発案でアドボカシーセンターが始まり、意欲的な企画が順調にすすんでいると聞いている。
団員が教授として何人も法科大学院に出かけているので、その接点を大切にしなければならない。そのためには教授になった団員をバックアップする体制が必要だ。昼間の研修の受け入れ、そして夜の懇親など、交流を密にして、団事務所の活動実績を語り、その魅力が伝わるように工夫すべきだ。久留米でも久留米大学法科大学院生と一度懇親会を開いた。院生は弁護士の話を聞きたがっている。
団が法科大学院生との接点をもつという点では、団独自の奨学金制度をもうけたらどうか。団員の寄付によって一定の基金をつくって、奨学金を支給するのだ。その運営は全国一本でやったらいいと思うが、各地で団員と院生が親密に交流することが不可欠だ。
九弁連としての奨学金制度をつくろうと試みたとき、一部の団員から強い消極意見が出て悲しい思いをさせられた。本当に残念だった。
「弁護士会内の様相も変化のきざし」
団通信には「団員の増加数をはるかに上回る数のビジネスローヤーが毎年誕生しており、弁護士会内の様相も変化のきざしを見せています」とある。私もまったく同感だ。
団事務所のなかに「戒律の厳しい事務所」や「設立目的が限定的な事務所」があるという。よく分からない表現だが、従来型の事務所がそのまま残ったらいけないとは私も思わない。しかし、団事務所とはすべてそうだという押しつけは勘弁してほしい。今の時代に即応した「おおらかな気持ち」がいま求められている。
ともかく団が全体として「少数精鋭」でよしとしてしまったら、弁護士会がすっかり様変わりするのに歯どめがかからなくなってしまう。弁護士会の執行部や事務局体制のなかに、今だったらまだ団員が入っていくことはできる状況にある。しかし、残念なことに、既に団員がここでも面倒なことはしたくないと敬遠しはじめているという現実がある。副会長のなり手がなく、その確保に苦労しているという話をあちこちで聞く。いったい中堅団員はどうしたのか・・・。
弁護士会は「二大政党制」のなかで変質しつつある。三万人となり、五万人となったとき本当にどうなるのか不安だ。日弁連も全体として「現実的な対応」ということで、二大政党に依存した国会対策に流れがちになっている。そのなかで、民主党に頼るか、民主党がぐらいついたら自民党に頼ろうという発想しかできない弁護士が真面目な層のなかにまで増えているという現実がある。
「悩みとあきらめ」を出しあうだけではダメなのだ。今は一歩前に足をふみ出すときだ。今ならまだ十分間にあう。さあ、みんなで元気を出して、ひとがんばりしよう。
東京支部 野 澤 裕 昭
近時、商法の改正が著しい。その変貌振りは、「今までの知識を空っぽにして、一から出直しを」(某法律事務所ホームページ)と言われるほどである。会社法など私のガラではない分野だが、事務所会議で報告しただけの経験をもとにその一端を報告し、現在国会に提出されている改正商法への注意喚起としたい。商法改正はさかのぼれば、一九五七年株金全額払込制を最初とする。社会・経済活動の変化に伴い改正は少なくない。しかし、平成以降の改正は、それまでの会社法の原理原則を大きく踏み越え、われわれが司法試験で勉強した原則では考えられない変化を遂げている。会社法の変貌の要因は、規制緩和による大競争時代の企業の生き残り推進策(会社法の新自由主義化)と会社法務のIT化である。そのすべてを紹介するのは紙面の都合上できないが、主な改正ポイントは次のとおりである(なお、条文の引用は割愛した)。
一 一九九三年改正
会社のコンプライアンスを確保するために株主代表訴訟が行使されるに従い、これを促進する方向で株主による会社業務執行に対する監督是正機能の強化が行なわれた。国際化の中で日本企業の違法な活動、特に株主の利益に反する経営陣の独断専行への歯止めとして重視されたと思われる。しかし、あくまで海外投資家の信頼獲得に狙いがあり、決して企業の民主的規制を中心とはしていない。と言うのは、後述のように数年後には「行き過ぎた株主代表訴訟」を口実に制限が加えられるからである。
二 一九九六年改正
(1) この年の改正は、株式会社の自己株式の取得原則禁止の原則を修正し、例外的に自己株式の取得を容認した点で重要である。これまでの通説(鈴木竹雄説)では、自己株式の取得は、会社の財産的基礎を危うくし(資本充実の原則違反)、株価操作をして自己株式の投機を行ない、さらには一部株主から買い取る事で株主平等の原則に違反し、間接的に経営者の会社支配に利用されるなどの理由から「厳禁」されてきたのである。しかし、この年の改正は、「ストックオプションに関する改正」(企業活動の活性化)のためにこの会社の自己株式の取得を認めた。「ストックオプション」とは、会社取締役、従業員に対して将来においてあらかじめ定められた価格で自社の株式を購入することができる権利を付与すること。自己株式方式と新株引受権方式。自己株式方式を認める限りで原則として禁止されてきた会社の自己株式の取得が認められたのである。これにより、いわゆるベンチャー企業などが、将来の株式の上場公開の際に莫大な差益を得る利益を与えさせることで「やる気」を引き出そうという狙いである。自己株式取得の容認はその後更に拡大し、二〇〇一年には原則解禁となる(金庫株の解禁)。
(2) また、合併手続きが大幅に簡素化・合理化された。「簡易合併制度の創設」(一定の要件のもと吸収合併について存続会社が株主総会の承認なしに取締役会の決議のみで合併を可能とする)。
三 一九九九年改正
(1) 独占禁止法九条が全面改正され、従来においては,独禁法九条によって持株会社の設立は全面的に禁止されていたが,持株会社の設立が国内において「事業能力の過度の集中に結びつく場合」にのみ禁止されることとなった。持ち株会社が解禁されたことにより、多数の企業が持ち株会社の下に集まり、親子会社関係を形成し一つのグループとして組織的に活動することが可能となった。それに伴い、商法も改正された。
(2) また、会計基準について国際的統一要求(国際会計基準への収斂)があり、これに対応するため会計基準や企業会計原則を一部見直し国際的な基準との調和を図るため市場価格のある金融資産などについて時価評価制度を導入した。国際会計基準(LAS)の基本となるのが米国の会計基準である。アメリカが世界経済の中心にあり、さらに世界各国に事務所をかまえる四つの会計事務所、BIG4がアメリカを中心に業務を展開していることから国際会計基準(実質的には米国会計基準)への収斂が各国で行なわれた。日本企業としては今後活動の拠点を海外にシフトし、海外企業との合弁企業も増加傾向にあり、他方規制緩和による自由競争時代に入り、今後も外資系企業の日本市場への参入がますます増えてきます。その場合、LASに近いアメリ力の会計基準を導入することが必要となったのである。
四 二〇〇〇年改正
この年は、企業が柔軟に組織の再編成ができるよう、会社の「営業の全部又は一部」を包括的に他の会社に承継させる会社分割の制度を創設した。従前は、株式会社・有限会社の合併・分割は、いずれも会社財産の全部を対象にし、営業財産の一部を除外した合併は不可能とされてきた(鈴木説)。しかし、新制度は、会社財産の一部である営業のみを対象とした合併分割に道を開いたことに新味がある。これにより不採算部門を切り捨て、業績のある部門だけを併せた合併、分割が自由にできるようになった。まさに、会社の贅肉の殺ぎ落としである。切り捨てられる営業に従事していた労働者は、「会社分割に伴う労働契約の承継等に関する法律六条」で保護されることとなった。
五 二〇〇一年六月改正
(1) この年は、「金庫株」が解禁された。「金庫株」とは、会社が発行した株式について、発行後にその発行会社自身が取得して保有している株式のこと。買い入れた株式を金庫に保管しておくイメージからきた名称である。二〇〇一年九月までは会社が自社の株式を取得するのは、前述のとおり消却やストックオプション等特定の目的の場合に限られていたが、今まで原則禁止されていた自社株式の保有が解禁になった。これは経団連の強い要望によるもので、消却により一株当たりの価値を高める、合併分割、株式交換などの企業組織再編成や従業員・役員へのストックオプションのために新株発行に代えて、保有株式を機動的に活用し経営の自由度を広げることで企業価値を高め、経済を活性させる目論見からである。
(2) また、額面株式を廃止し、株券への券面額の記載を廃止した。これにより、会社設立時や株式の分割に際して発行する株式の価格が五万円を下回ってはならないとの規制が撤廃された。株式の純資産額規制の撤廃は、優良会社の株価が非常に高まることで一般投資家の手の届かない高額の株式になるのを株式の大きさを自由に分割することにより、投資単位を引き下げ個人投資家の株式投資の算入を容易にする狙いである(ライブドアの一株が数百円単位なのはこれによる)。これに伴い、「単元株」が創設され「単位株」が廃止された。「単元株」とは、定款によって一定数の株式を一単元の株式と定めること。株主は一単元について一個の議決権を有する。単元未満株には議決権はないが、議決権以外の株主権利を制限されない(株主代表訴訟は可能)。
(3) さらに、利益準備金の積立額の変更、法定準備金の減少手続が緩和された。従来、資本充実の原則から厳しい規制がされてきたが、トヨタ、ソニー等大企業が、資本金をはるかに超える法定準備金(資本金の一三〇〜一四〇%)を保有するに至る現状では不合理との財界の要求からである。これにより、(1)利益準備金の積み立て限度額を資本準備金の額と併せて資本の四分の一に達するまでと大幅に減縮した(2)株主総会の普通決議で資本準備金及び利益準備金の合計額から資本の四分の一に相当する額を控除した額を限度として、資本準備金、又は利益準備金を減少することが可能となった。
六 二〇〇一年一一月改正
この年は、株式会社等の経営手段の多様化を図る、あるいは高度情報化社会に対応し会社運営のIT化を図る改正が行なわれた。
(1) 株式に関する改正
「新株予約権制度」の創設(ストックオプションの改善)。これもライブドア、フジの抗争で焦点となった。新株予約権とは、これを有する者(新株予約権者)が、会社に対してこれを行使したときに、会社が新株予約権者に対し新株を発行し、又はこれに代えて会社の有する自己株式を移転する義務を負うもの。この権利を受けたものがその権利を行使することによって新株が発行されることになる。新株発行契約の予約における予約完結権としての性質を持つ。会社が発行する株式を予め決めた価格で会社から取得できる独立した権利であり、会社は新株予約権を単独で発行することができる。新株予約権その目的は、(1)ストックオプションとして会社の取締役や従業員に与え、会社の業績向上への動機付けとする、(2)資金調達(相手先に新株予約権を有利な条件で与えて融資を受ける)にある。原則として、取締役会の決議で発行できる。
(2) 会社関係書類の電子化等(IT総会)では、(1)株主総会の議決を取締役会の決議で電磁的方法による議決権行使ができる、(2)計算書類のホームページ等による公開
(3) 会社関係記録の電磁的記録化(定款、株主名簿、端株原簿、株主総会招集通知、株主総会議事録、取締役会議事録、計算書類、付属明細書)。ただし、この時点では、株券は、電磁的記録化できないとされた。有価証券の譲渡の法的構成から有体物が必要と考えられたのである。
前団長 宇 賀 神 直
春たけなわの季節に二〇年間勤務してきた団事務局主任の阿部敏也君が退職し本当に残念です。
今から二〇年前の春に、幹事長であった私をふくめ執行部が面接し採用を決めた。彼は信州の田舎出身で国家公務員試験に合格し、特許庁に勤めていたのに団の新事務局員募集に応じたのです。温和な彼が団本部の事務局員をこなしきれるか不安がなかったわけではないが、執行部は阿部君の心意気にほれこんで採用を決めたのです。以来二〇年間よくがんばって来た。
団活動をめぐる情勢と課題には厳しいものであり、その中で団本部、支部、団員は奮闘してきた。無理を承知で事務員に仕事を押し付けることもあったと思う。事務局は団活動の裏方としてつらいこともあったと思うが困難な仕事をこなしてきた。彼は女性事務局員と協力し合って団本部の事務局の任務を果たしてきた。
職場を変え、新たな人生を歩むこともその人の一生では意義のあることです。生まれ故郷の伊那に帰り、社会保険労務士として活動するわけですが新たな飛躍を期待します。二〇年間ご苦労さまでした。
団本部専従事務局 渡 島 敏 広
四月一八日より自由法曹団本部専従事務局としてお世話になることになりました。定番の自己紹介をさせていただきます。
わたじま としひろ 一九五五(昭三〇)年六月二五日生まれ
東京都大田区在住 妻と子供二人(長男二一、長女一九)
出身地 佐賀県伊万里市(一五歳まで)
一九八二年三月 明治学院大学 法学部法律学科(二部) 卒業
一九七七年二月 京橋法律事務所 入所
〜その後、東弁六期の弁護士独立に伴い移動、河崎法律事務所(東京都中央区銀座)、東銀座法律事務所(東京都中央区京橋)など改称〜
二〇〇五年三月 退職
同 四月一八日 自由法曹団 入所(団?)
趣味(というより娯楽) ハイキング・野球
しかし山歩きの暇がなく、週末はもっぱら多摩川土手沿いをサクサクと一時間程歩いています。少しでも季節の移り変わりを感じたいとの欲求にかられムダと思いつつデジカメでバシバシ撮っています。息子が一〇歳で地域の少年野球に入部した時はどさくさにに紛れて親もコーチに就任。一〇年間のコーチ・監督業を終え、引退した一昨年ごろからめっきり瞬発力にカゲリが出てきたと痛感しています。
東京弁護士会発行の「リブラ」(本年二月号)という紙面に、「職場としての法律事務所」と題して私の記事を載せていただきました。
その中で、「想像もつかない法律・法曹業界に二一歳でお世話になる時、その決断が出来ずに、躊躇していた自分に『最初はみんな素人、やっていくうちに慣れる。大切なことは挑戦すること』と学校の恩師から励まされ」たことの一説を、今また、あらたな気持ちで実感しています。
一昨年「原水爆禁止世界大会in長崎」にはじめて参加しましたが、戦争の悲惨さや原水爆禁止と平和な社会・世界であり続けてほしいと切に願わずにはいられない貴重な体験をさせていただきました。出身地が隣の県ということもあって、小さいときから何度も訪れた地ですが、それまでの観光としての町(イメージ)とはこの日ばかりはちょっと勝手が違う。私の父は二次ヒバクのはずが、このことには今も口を閉ざしている。大会に参加して声を出すもの、閉ざすもの、それぞれの思いが六〇年という歳月に至った今でも重くのしかかっているように思います。平和が欲しければこぶしをあげろ! との力強い発言が耳に残っています。
今改憲論議が高まり、じわじわと戦争の匂いがプンプンしてきていますが、団員の先生方の先駆的な諸活動・運動に専従事務局として一日でも早く下支えできるように努力していきたいと思っております。
団での一週間が過ぎました。具体的法律事務所での仕事とは全く違うことに戸惑いながら、手さぐりの状態です。
これから特に薄井さん・森脇さんにはいろんなことを教えていただきながら(ご面倒をおかけします)、頑張りたいと思います。よろしくお願いいたします。
そして全国におられる団員の先生方のお名前をインプットしていくことも一大事ですが、ゆっくりじっぐり、そして早く覚えていきたいと思います。それまでご容赦下さい。