<<目次へ 団通信1185号(12月11日)
中村 和雄 | NTT管理職 藤井・藤田事件 最高裁で勝利確定 |
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柳 重雄 | 24年闘い続けた日本ケミファ争議の勝利的全面解決 | |
玉木 昌美 | 常任幹事会は面白い? 常幹及び支部活動活性化のために |
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伊藤 和子 | 危機に瀕するアメリカの人権 ―NY・CCRの現場から |
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土井 香苗 | ニューヨーク 人権留学日記 1 | |
橋本 佳子 | 時宜にかなった日弁連シンポ 「なくそう 間接差別、活かそう ポジティブアンション」 |
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平井 哲史 | 次長就任挨拶 | |
松本 恵美子 | ご挨拶 | |
上田 誠吉 | 川名照美団員に対する弔辞 | |
団の「共謀罪五つの疑問」をもとに、パンフができました 多いに活用しましょう! |
京都支部 中 村 和 雄
一 一〇月二四日、全国総会から事務所に帰ると、私の机上に最高裁からの決定が置かれていました。「本件上告を棄却する。本件を上告審として受理しない。」昨年五月一九日の大阪高裁逆転全面勝訴判決が維持され確定したのでした。
本事件は、NTTが一九九七年四月から就業規則を変更して新たに導入した特別職群制度について、二人の原告がその適用は無効であるとして、変更前の就業規則が適用された場合に得られる賃金との差額を請求したものです。特別職群制度とは、電電公社時代からたたき上げで働いてきたノンキャリアの職員が下位の管理職である副参事に昇格していた場合に、五五才に達すると一律に特別職群に移行させられ、管理職を解かれ、関連会社に出向させられたうえ、「自己完結業務」の名の下に一社員として賃金を三割ほど減額されるという制度です。これまでに全国で五〇〇名ほどが移行させられました。いわゆる就業規則の不利益変更事件です。NTTにおける一般職員に対する大リストラ攻撃の先駆けとして行われたものでした。
一審の京都地裁判決は全面敗訴でしたが、高裁で逆転全面勝利判決を獲得でき、昨年の全国総会で報告させていただきました。高裁判決は、就業規則の周知義務の徹底と「合理性」判断の厳格な適用を認めたものです。二〇〇三年一〇月一〇日のフジ興産事件最高裁判決と二〇〇〇年九月七日のみちのく銀行事件最高裁判決の具体的適用について、変更の効力が認められる範囲をきわめて厳格に解釈したものであり、最高裁判所がこれを支持したことの意義は大きく、今後の各地の裁判においてもぜひ活用していただきたいと思います。労働契約法制の議論にも参考になるはずです。高裁判決の内容については労働法律旬報の一五八四号に掲載されていますので、関心のある方はそちらをご覧下さい。
二 ところで、本事件は京都地裁で完敗しました。なぜ地裁では負けたのか、なぜ高裁では勝てたのか、まだ十分に整理できていません。これからしっかりと総括していきたいと思います。そこで、とりあえず皆さんにこれまでの事実経過をご報告させていただきます。
本訴提起の経過について述べます。一九九六年秋にNTTが本制度導入に向けて全国の副参事に個別面談をして同意を取り付けました。納得できなかった藤井さんは、京都弁護士会の一般相談に訪れ、弁護士に相談しました。最初の相談担当弁護士は「しょうがないんじゃないですか。」とのアドバイスであったとのことです。疑問に感じた藤井さんはしばらくして再度法律相談を申し込み、そのときの相談担当弁護士が永井弁護士でした。永井弁護士は「そんな馬鹿なことはない。『今までと同じように働きます。』と頑張ればいいのではないでしょうか。」とアドバイスし、藤井さんは全国でただ一人だけ特別職群への移行に同意しませんでした。永井弁護士は消費者事件や公害事件に精通しているものの、労働事件はこれまで殆ど取り扱ったことはありませんでした。団員でもありません。後で聞くと、「でも、こんなことはおかしいと思った。」とのことでした。きわめて健全な感覚です。藤井さんが一度目のアドバイスであきらめなかったことと、二度目の相談弁護士が彼だったことが本当にラッキーでした。一九九七年四月にNTTは、同意しなかった藤井さんも含めて全国の対象者を特別職群へ移行しました。藤井さんは名刺をもらっていた永井弁護士に相談し、永井弁護士は団員である藤田弁護士と私を弁護団に引き込み、一九九七年七月に京都地裁に提訴しました。地裁は二三回の弁論期日を経ました。事件への支援を広げようと支援の皆さんの協力を得て、事件のホームページを立ち上げました。訴状と答弁書、双方の準備書面、鑑定意見書などは全文アップし、毎回の期日の経過や傍聴記も写真付きでアップしました。ある時には相手方の弁護士から自分の発言が不正確であるとクレームが付いたこともありました。同じく特別職群に移行させられた藤田さんは同僚からこのホームページの存在を紹介されて閲覧し、その後直接裁判を傍聴するようになりました。しばらくして、藤田さんに証人になってほしいと依頼し、了解して貰いました。藤田さんの証人申請をしたとたん、職場で藤田さんに対する猛烈な嫌がらせや脅迫が始まりました。藤田さんはどうせ嫌がらせを受けるなら、この際原告になろうと決意し、証人尋問を終了してすぐ原告として追加提訴しました。その後、同じように数人の方が原告になろうという動きがありました。しかし、残念ながら職場の凄まじい脅しによって断念させられてしまいました。そして、NTTは、原告らと同じ特別職の職員を証人とし、この制度に二人以外のほとんどの特別職の職員が感謝していると証言させました。
私たちは、東京の山口孝先生に鑑定意見書の作成をお願いして財務諸表などから国内および国際的に詳細な比較を行っていただき、NTTの圧倒的な経営基盤の実態を証言いただきました。また、文書提出命令の申立てを繰り返し、そのたびに黒塗りで提出される諸規定類の内容を次第に明らかにしていく中で、NTTにおける賃金決定システムが詳細に確立した権利性の高いものであることも明らかにしました。二人の原告の尋問や証人尋問も成功したと考えていました。原告らは管理職の一員のため、組合員資格がありませんでした。しかし、NTT内の少数組合である通信労組の皆さんが全面的に支援してくれました。当初私たちは支援の皆さんと相談して、この闘いを大きくするためにと原告と一緒に京都の連合組織にも支援要請に行きました。しかし、「今時、クビがつながっているだけでも感謝しなければならないのに、このくらい我慢すべきですよ。」との反応でした。感覚の違いを感じました。ホームページは多くの反響がありました。ホームページを見た特別職の職員たちから何回も匿名のカンパと激励の声が寄せられました。「こんな裁判をしてなんになる」という若手のエリート社員の投稿がある反面、多くの励ましと期待の投稿がありました。
地裁の審理の終盤に就業規則の不利益変更三事件について最高裁が判決を出すことが判明しました。本事件はそのうちの一つであるみちのく銀行事件ときわめて事案が似ていました。双方の弁護団も裁判所も最高裁判決の行方を見守っていました。そして、みちのく銀行事件最高裁判決が二〇〇〇年九月七日に出されました。京都地裁は二〇〇〇年一二月二二日に結審しました。私たちの最終準備書面は、本事件がみちのく銀行事件とまったく同一の事案であると強調したものになりました。みちのく銀行に比較し、日本を代表する超優良企業であるNTTは遙かに経営状態が良いのですから、負けるはずはない、勝利判決を確信していました。ところが、二〇〇一年三月三〇日の判決は全面敗訴でした。「原告らは、被告NTTは日本の超優良企業であり、コスト削減を日的とする賃金抑制の必要性はなかったと主張するが、優良企業であっても、競争力を確保し、将来を見据えた経営戦略を取らなければ、企業の存続自体が危ぶまれる状態にまで至りうることは、昨今の企業倒産状況を見れば明らかである。」と書かれました。形式的にはみちのく銀行事件最高裁判決の判断枠組みに従いながら、労働者の被る不利益についての言及はきわめて薄く、この程度でごたごた言うなとの判決でした。この判決に関与した三名の裁判官が特に悪いという印象はありませんでしたし、今でもありません。裁判長は、それまで日銀セクハラ事件や京ガス差別賃金事件をはじめ、いい判決をたくさん出していました。
敗訴をまったく予測していなかった私たちは大きなショックを受けました。それだけでなく、京都地裁判決で自信を強めたNTTは、判決から二週間後に「NTT新三カ年計画」を発表し、一般職員に対する大リストラ攻撃を本格的に開始しました。
三 高裁では何としても勝ちたい。負けるわけにはいかない。幸い原告の二人も、支援の皆さんも、弁護団も、怒りがエネルギーとなり団結が深まりました。やれることは何でもやってみようと決めました。知り合いの労働法学者の皆さんにアドバイスを受けてまわりました。弁護士の皆さんに地裁判決を送り、協力をお願いしました。あるベテラン弁護士から、「相手は巨大な国策企業だ。裁判所にとっても一般企業とはまったく訳が違う。」とアドバイスを受けました。みちのく銀行事件弁護団の東京の上条先生からは手書きのFAXで「みちのく銀行事件で最高裁に勝利できたのは、弁護団が地裁段階からねばり強く原告らが被る労働者としての不利益、労働者の尊厳を否定される思いを裁判所に訴え続けてきたことが大きい」とのアドバイスをいただきました。私たちのそれまでの法廷活動は、原告らが受ける経済的不利益だけに重点が置かれ、四〇年にわたって必死に尽くしてきた会社から裏切られ、労働者としての誇りを否定された思いや生活上の不利益を十分に裁判所に伝えきれていませんでした。裁判官が労働者の思いに共感する機会を十分に提示してきていませんでした。幸い藤井さんも藤田さんも電電公社入社以来今日までのすべての賃金明細書を保存していました。弁護団会議では、それらをみながら、賃金が民間に比べ極めて低かった入社当時や若い頃の苦しかった生活状況のエピソードなどを原告らの家族も含めいくつも拾い出し、定年間近まで必至で働いてやっと今の状況になったこと、それを紙くずのように一方的に捨て去られようとしていることなど、二人がなぜ裁判に踏み切ったかの思いを熱く語ってもらいました。新たな陳述書を作成し、意見陳述を繰り返しました。労働法学者の協力を得て判例の流れや労働法の精神を整理した鑑定意見書も提出しました。支援組織も強化し、支援の皆さんひとりひとりがそれぞれの思いを書き込んだ要請はがきを裁判所に送り続けました。
一二回の弁論を経て二〇〇二年一〇月九日に結審しました。結審に当たって原告両名はなぜ自分たちが巨大なNTTにたてついて裁判までしたのかの思いを熱く語りました。判決が二〇〇三年三月一八日と指定されました。支援の皆さんの要請ハガキは間断なく裁判所に送り続けました。いくつかの同種事案で各地の裁判所でいい判決が出ると結審後も裁判所に参考として送りました。三月一八日の二週間前に裁判所より判決延期の連絡があり、判決は四月二二日と指定されました。四月二二日の一週間前に裁判所より判決延期の連絡があり、判決は五月二〇日と指定されました。このころ、支援の要請はがきとは別に、原告らから裁判所宛に自分らの思いをつづった手紙を出しました。五月二〇日の三日前に裁判所より判決延期の連絡があり、判決は六月一七日と指定されました。六月一七日の前日に裁判所より判決延期の連絡がありました。そして、裁判長と右陪席が交代したので弁論更新したいとのことでした。裁判所からは単に手続だけですと説明されましたが、裁判所の合議がまとまらなかったことは明らかでした。
ここまで来ているのに負けるわけにはいかない。再開後の弁論期日が極めて重要でした。無理かもしれないと思いながら、東京の上条先生と大阪の河村先生に事情を説明し、弁論再会後の活動参加を要請しました。上条先生はそれまで一方的に存じ上げているだけで、面識はありませんでした。控訴直後にFAXのアドバイスを頂いていたので、いきなり電話させていただき、「京都の自由法曹団の者ですが困っています。」とお伝えしたところ、快諾いただきました。両先生は長文の準備書面を携えて再開後の弁論に参加頂きました。弁論再開の当日は満員の傍聴者の中で、原告両名と両先生を含む弁護団の熱い意見陳述を展開することができた。リーフレットを新たに作成し、要請はがきに代えて要請署名を集め、随時、裁判所に届けました。再開時に裁判長が次回で結審すると言っていた弁論がもう一期日伸びました。そして、二〇〇四年五月一九日に地裁判決を全面的に取り消し原告らの請求を全面的に認める判決を獲得することができました。
高裁では再開前再開後を含め一度も証人調べは行われませんでした。しかし、第一回、最初の結審時、再開時、再開後の結審時に原告や弁護団が意見陳述を文書で提出するとともに口頭で意見陳述を述べる時間が確保されました。再開前も再開後も裁判官はしっかりと耳を傾けてくれたとの印象を持っています。
最高裁に上告されてからは、最高裁に意見書を提出し、要請署名を定期的に持参しました。上告提起から一年が過ぎ不安になりました。最高裁に問い合わせても進行状況は教えてもらえませんでした。今、最高裁決定を受け、本当にほっとしているところです。最高裁決定はごく形式的なもので定型文言が記載されているにすぎないものですが、これを見て、藤井さんはこう言いました。「裁判所もすてたものではないのですね。」最高裁判決を受けて、藤井さんと藤田さんは三人の高裁裁判官に感謝の手紙を送りました。
二四年間闘い続けた日本ケミファ争議が、本年九月勝利的、全面的に解決をした。労働組合潰しの凄まじさ、これに対して粘り強く敢然と戦い続けたその闘い、第一次、二次、三次争議と闘い続けたその期間の長さなど特筆すべき点が多いと思うので、報告をしておきたい。
日本ケミファ株式会社は、中堅の製薬会社であり、東京・日本橋に本社、埼玉県三郷市に研究所がある。一九八一年、全従業員の八割に近い七二〇名の組合員を組織し、全国一般にも加盟する労働組合を結成した。会社に通告したとたんに、すさまじい組合攻撃が始まった。組合員に対する誹謗中傷、脱退工作、配転攻撃など想像を絶した。組合員の中に自殺者まで出した。組合攻撃は、それなりに功を奏して、短期間の間に労働組合員数は、数十名まで激減させられた。組合は、都労委や埼玉地労委に不当労働行為救済申立、人権侵害行為禁止仮処分など様々な方法でこれと闘った。一九八二年四月、一八名の組合役員を根こそぎ遠隔地の営業所等へ配転をしようとした攻撃に対し、東京地裁は、申請から一〇日で、配転の不当労働行為性を明確に認定し、配転が無効である旨の、極めて異例な決定を出した。都労委も、社長研修会での社長発言や、組合役員に対する脱退強要など、明白な不当労働行為であるとする救済命令を出した。毎日職場で、生け垣の葉っぱふき、草むしり、実験動物の糞尿処理等をさせられ、嫌がらせや集団的なつるし上げを受けている組合員を励ましたり、凄まじい嫌がらせを陳述書に書いたり等の緊迫した日々が、今からすればなつかしい。
第一次争議は、会社のデータ捏造事件が発覚し、会社が不当労働行為を謝罪し、配転撤回、賃金差別の是正等を認めて一九八三年に解決をした。
会社は、二度と不当労働行為を繰り返さないと堅く約束をしたにもかかわらず、その直後から、組合員に対する配転、ビラ配布等の組合活動に対する規制、組合員に対する賃金・昇格差別などの攻撃を始めた。組合は、一九八五年から八七年にかけて、都労委、埼玉地労委等に五件の不当労働行為救済申立事件を提起し、闘いを続けた。いわゆる第二次争議である。この第二次争議も一九九一年都労委で、差別を解消する、今後二度と組合員差別を行わないと約束をして解決をした。「暁の和解」などということは最近聞かないが、当時東京都庁舎三四階にある都労委での徹夜での和解は、夜景の美しさとともに今でも記憶に残るよき思い出である。
しかし、会社の飽くなき組合敵視の姿勢は、それでも変わることがなかった。二次和解の際に積み残しになっていた「組合員資格の範囲の問題」を逆手にとって、賃金・昇格差別という巧妙な組合員差別を推進してきた。職能資格MとKの内、資格Kについて「当面組合員の対象としない。」と定められているのをいいことに、組合員を全部M資格に封じ込め、徹底的に賃金、昇級、昇格差別を進めた。やむなく一九九七年、都労委に賃金・昇格差別の救済を求めて不当労働行為救済申立を行い、第三次争議を開始した。
賃金・昇格差別の主張、立証がほぼ完了しかけていた二〇〇〇年四月、日本ケミファ労組の初代委員長で、当時全国一般埼玉地本委員長であった丹生委員長に対する不当配転事件が起こった。また、木下書記長に対しても、何の理由もない配転を命じてきた。これらの配転は、一九九九年年末に行われた希望退職の募集、退職強要に、組合員が一人も応じなかったことの腹いせに行われた、前例のない異例、異常な配転であった。埼玉地労委では、業務上の必要性を口実にした不当労働行為であると明確に認定、完全勝利命令を勝ち取った。凄まじい組合敵視の歴史、配転の異例さ、組合活動上の不利益等を考えれば、当然の勝利命令であり、まさか、中労委や裁判所で、ひっくり返される等とは予想さえしなかった。しかし、中労委では、期待を裏切り敗訴、東京地裁の行政訴訟でも敗訴であった。中労委も裁判所も、会社の業務上の必要性を無条件、無批判に受け入れ、組合側、労働者側の不都合等を極端に軽視した。特に東京地裁では、会社の業務上の必要性は変遷を重ね合理的な理由があるとはいえないこと、組合活動上多大な支障を受けていること、会社の凄まじい不当労働行為の歴史など完璧に主張立証したと思っていたが、それでも結果は敗訴であった。この配転事件の法廷闘争の結果だけは、反省するべき点も含めて悔いが残っている。「配転と不当労働行為」というテーマでは、裁判所の使用者側に傾く判例や姿勢、これに引きずられて不当労働行為から労働者を救済するための機関であることを忘れた中労委の姿勢等を是正させるために、さらなる取り組みが求められる。
日本ケミファ争議だけは、永久に終わらないのではとよく言われてきた。弁護団も「きっと会社が倒産するまで、闘い続けるしかないのでは」と悲愴に考えてきた。しかし、とにかく、二〇〇五年九月、組合員の賃金・昇格差別を基本的に改善をする、解決金を支払う、今後不当労働行為をしない等の和解協定書を締結し、全面的に解決をした。激しい企業競争の中で、こうした前近代的な争議を抱えていたのでは生き抜いてゆけないと会社がようやく悟った結果であると思われるが、しかし、この勝利的全面的な解決は、基本的に粘り強く、たゆまず闘い続けた組合員とこれを支えた産別、地域、家族等多くの人々の勝利でもある。全国一般東京地本、埼玉地本、地域の労働運動、国民の命と健康を守る医薬品つくりをめざす全薬会議等の様々な運動を発展させながら、自らの労働組合運動を前進させてきた。
結果的には、組合員として踏ん張り、闘い続けて、全面的な勝利的和解にこぎ着けた組合員数は三二名、この中には、既に退職を迎えた組合員もいるし、博士号を持つ研究者でありながら、生涯をかけて労働運動を展開をしてきた者もいる。二〇〇五年一一月末に行われた勝利報告集会で、弁護団は花束を頂戴したが、私は、「この花束は、ここまでがんばり抜いた組合員の一人一人にあげたい。」と挨拶をした。
弁護団の中に二〇〇一年八月に逝去された大久保和明弁護士がいる。大久保弁護士は、弁護士になり立ての頃から、持ち前のエネルギーで、ともに日本ケミファ争議を闘った。道半ばにして倒れた大久保弁護士に、この日本ケミファの勝利的解決を謹んで報告したいと思う。
弁護団は、山本真一(四谷法律事務所)、橋本佳子(東京法律事務所)、牧野丘、佐渡島啓(埼玉総合法律事務所)、柳重雄(埼玉東部法律事務所)そして故大久保和明(埼玉総合法律事務所)である。
滋賀支部 玉 木 昌 美
このところしばしば常任幹事会に出席している。憲法問題の活動者会議をきっかけに出席しはじめ、比較的まじめに出るようになった。常幹では、もっとも進んだ議論状況、情勢、運動の方向性を確認することができる。事務局の団員の奮闘に頭が下がる思いがするとともに経験豊かな大先生のお話に感銘を受ける。そこに出席すれば、滋賀でも、これに呼応する活動をしなくては、という気持になり、また、滋賀でいろいろやりだすと、それを報告しなくては、という気持になり、その相乗効果から、支部活動の活性化をはかることができる。
さて、滋賀支部では、まず、例会をきちんと行うようになった。最近扱ったテーマは、二〇〇五年六月、新自由主義について(『希望格差社会』)、七月、憲法二四条問題、九月、表現の自由、言論弾圧について(「黙っていられない 言論弾圧とのたたかい」のビデオ上映)、一〇月、薬害ヤコブ裁判について(ビデオ上映、当事者の家族の話)である。とりわけ、一〇月は、修習生をも念頭において、テーマを決定したところ、団や青法協は敬遠されているという情報がある中、八名(大津修習一六名中七名、京都修習一名)の参加があった。六名は懇親会にも参加し、そこでは人権課題に取り組むことの重要性を認識したとの感想も出された。
また、二〇〇五年四月二八日、滋賀弁護士会所属の弁護士二七名の賛同で滋賀・弁護士九条の会を結成した。これは、常幹で、大阪や兵庫の経験を聞いて取り組んだものである。結成総会では、「すべての基本的人権の前提ともなる平和を、憲法九条の理念にしたがって実現するとき」とのアピールを採択した。渡辺久丸・島根大学名誉教授が記念講演をされ、「世界の流れが日本国憲法九条の理想に近づいているときに、日本が世界の宝である九条を手放してよいものか。」と訴えられた。六月二一日、『あたらしい憲法の話』と『日本は、本当に平和憲法を捨てるのですか?』を朗読して、学習・討論会を開催した。会員からは、父親が戦死し、苦労したという発言や様々な意見が出された。また、戦争や平和について、子どもたちに読ませたい本を集めることになった。七月二六日、「つくる会」の歴史教科書の問題点について、同和問題研究所理事長を講師に学習し、教科書問題の重要性を認識した。さらに、九月二六日、自衛隊イラク派兵差止訴訟弁護団の上山勤団員(大阪)を講師に市民向けの集会を開催した。講師の憲法九条や平和に対する熱い思いが伝わってくる、すばらしい講演だった。その後も、滋賀九条の会らと「憲法と平和を考える県民のつどい」の共催者となり、また、代表の土井弁護士が「不戦の集い」の講師に内定している。そして、現在、会の会員数は、滋賀弁護士の会員数の過半数を超えている。
さらに、教科書問題(滋賀県の状況はご承知のとおり)では、滋賀県や大津市等に資料を持参しての要請活動を行ったが、これも常幹での活動方針の議論を踏まえてのことである。
常幹で報告したように、滋賀では五七名の会員数で一六名の修習生を抱え、一九期の吉原弁護士まで駆り出して八名の団員が個別修習を担当している。そうした中で、後継者の確保をしたいと考えているところである。
尚、私は、滋賀支部通信を発行して、常幹や活動者会議の報告等をするようにし(支部長兼事務局長?)、私の発言も紹介している。(吉原団員によれば、それほど大したこともしていないのに、常幹で、「滋賀では」という発言ができるのは、私のずうずうしい性格ゆえと感心している、とのことである。これは謙虚で控えめな私の性格を理解しない事実誤認である?。)
一一月一九日の常幹に出席しての感想であるが、課題が多すぎて、あまり議論する時間がとれないことが問題である。まるで、日弁連の理事会のようである(七年前の経験)。その改善のためには、前日に報告者の発言要旨をメールで配信し、報告の時間を短縮すべきである。また、会議が五時に終了するとすれば、二時間ほど懇親会の時間をとり、団だけで一部屋借りて、酒を飲みながら、各地、各人の報告、意見を述べるようにしたらどうかと考える。広島常幹が印象的でよかったのは、そのようにして、各人がしっかりと発言し、みんなで聞く形での懇親会が大変充実していたことであった。広島支部の錚々たるメンバーの報告、それ以外の参加者の報告(今村現事務局長の華麗なる経歴、島田団員の新人時代の広島の思い出話等)、それだけで常幹に参加した値打ちがあるものであった。たとえ、東京で開催するにしても、二ヶ月に一回でもそのような懇親会をした方が常幹もより活性化するのではないかと考える。また、今回、米軍再編問題を抱える神奈川支部から常幹の開催の申し出があったが、そうした課題を抱える支部、あるいは、常幹にほとんど参加していない地方支部で常幹を開催していったらよいのではないか。「参加してよかった、いい話が聞けて元気をもらった。」といえる常幹にしていき、全国各支部の参加を確保したいものである。
東京支部(アメリカ留学中)伊 藤 和 子
私は現在ニューヨークに滞在し、国際民主法律家協会(IADL)の国連代表、人権NGO「センター・フォー・コンスティテューショナル・ライト」(CCR)のインターンとして活動し、また諸先生方のご援助により昨年以来の刑事司法の研究を継続している。特に、アーサー・キノイ氏が設立にかかわり、全米の闘いの最前線にたって人権活動を展開するCCRの活動に微力ながら参加できることは、本当に光栄なことであり、同時に、「テロとの闘い」のなかでアメリカの人権がいかに危機にさらされているかを肌で感じる日々である。
1 グアンタナモ・ベイに収容された人々
「テロリスト」容疑でアフガニスタン初め世界各国からキューバ・グアンタナモ・ベイに運ばれ、身柄拘束をされた外国人は約六〇〇名にのぼる。同時多発テロ事件から四年以上たった現在も、うち約五〇〇名が何らの裁判の予定もなく、ただ拘束され、拷問され続けている。ほとんどの者は、何らテロリスト・アルカイダと関わりがない(このことは、収容施設の元職員の告発本によって最近広く明らかにされた)。CCRは、二〇〇二年二月、他のどの人権団体にも先駆けて無実の被収容者の代理人となり、連邦ハビアス・コーパス手続(人身保護請求)を申立て、ついに二〇〇四年六月に「被収容者はハビアス・コーパスの手続を受ける権利を有する」という画期的な連邦最高裁決定(ラスル決定)を得た。
「何故これが画期的なのか」と思うかも知れないが、二〇〇一年一〇月に発布された大統領命令により、米国に危害を加える活動に参加・関与・共謀・資金援助した者は、世界中のどこにいても、米国大統領権限で無期限に身柄拘束をすることができ、また国防総省管轄の「ミリタリー・コミッション」(非公開の軍事法廷、連邦最高裁への上訴手続なし、無罪推定は及ばない、被審理者は機密情報に関わる証拠調べ手続にアクセスできない、弁護人選任権は極度に制限される) によって死刑を最高刑とする裁きに服するとされている。米政府は、一貫してグアンタナモの被収容者に対する司法審査を「テロとの闘いの障害になる」と否定し続けてきたのであり、そのようなアメリカの人権状況下にあって、ラスル決定の意義は極めて大きかった。その後CCRは約二〇〇人の被収容者の代理人となり活動を拡大させていく。
2 自ら死を選ぶ被収容者たち
しかし、最高裁決定後も米政府の抵抗により、人身保護手続は進展せず一年以上が無為に経過する。被収容者は日常的に拷問され、宗教的にも性的にも(アブグレイブと同じ事態は日々グアンタナモで続いている)辱められている。抵抗手段を持たない彼らは二〇〇五年の夏からついに無期限拘禁と虐待に抗議し、ハンガー・ストライキを開始する。待遇が一向に改善しないまま、被収容者は餓死寸前の状態でハンガーストライキを継続している。その中の少なくない者は、実は絶望から「静かな餓死」を選んだ者たちだ。軍当局は、餓死の危機に瀕した被収容者の家族や代理人にそうした事態を一切知らせることなく、被収容者の鼻を破壊してチューブを通す、という非人道的な方法で強制的に栄養を注入し、この事態を隠蔽してきた。また、一部収容者は、本国に送還され、本国の当局等によって「拘禁」「取調べ」を続けられている(米国はサウジアラビア、イエメンなどアラブ諸国と緊密な協力体制を確立しており、また秘密の拘禁施設をアラブ諸国に設置している)。
3 司法と議会における闘い
ラスル決定に続き、二〇〇五年一月、「ミリタリー・コミッションの手続はジュネーブ条約に違反する」という連邦地裁の判決が出され、同手続の進行は一時停止された。しかしこの判決はほどなく連邦高裁によって覆され、一一月からミリタリー・コミッションの審理がスタートした。国連では、「拷問に対する特別報告者」「司法の独立に関する特別報告者」がこうした事態への懸念を表明し、グアンタナモへの査察を要求し続けている。一一月米州人権委員会は、一日も早い公正な裁判所での裁判の実現と、拷問の停止を求める仮処分を出したが、米政府は同委員会の勧告に従おうとしない。そんな中、連邦議会は、「連邦判事が判決中の意見にイギリスコモンローを除くいかなる外国・国際法を法源ないし解釈指針として援用することも禁ずる。これに反した場合は懲戒罷免の対象となる」との法案の審議を続け、司法に対する威嚇作用を及ぼしている。
さらに一一月、共和党の議員が「米国防総省が『敵戦闘員』としてグアンタナモに収容している者に対して、いかなる司法裁判所もハビアス・コーパス手続の権限を行使することは許されない」とするハビアス・コーパス法改正案を提出し、これは委員会審理を経ない異例の手続で上院本会議を通過し、下院が現在これを審議している。これは、「テロとの闘いの障害になる」司法における人権論争を封じるために、二〇〇四年ラスル決定で最高裁が宣言した司法審査権限を立法が否定し、司法の権限を剥奪するものであって、基本的人権はもちろん、三権分立をも法の支配の権利をも根底から掘り崩す異常事態である。餓死を選ぶまでに追い詰められた被収容者たちの一縷の望みはこの法律によって閉ざされることになる。全米の心ある法律家たちは、現在連帯して、積極的なロビー活動を展開し、議会の暴走を止めようとしている。
その一方、最高裁の構成は変わりつつある。最高裁長官の死去にともない、ブッシュは保守派のロバートを新長官にし、引退するオコナー判事の後任に保守派のアリートを指名した。アリートが承認されればブッシュに全面的に追従する判事が連邦最高裁の過半数を占めるという状況である。
4 戦争をする国で加速する人権の「瓦解」
グアンタナモは一例であるが、移民に対する迫害(国務省は伝聞情報に基づきある日突然慈善団体などの民間団体を次々と「テロ組織」と認定、これに関与する外国人は片っ端から強制送還となっている)、真実を伝えようとするジャーナリストへの言論弾圧、平和的なプロテストに対する一斉逮捕など人権侵害はあとを絶たない。
一一月にイラク戦争の戦死者は二〇〇〇人を越えた。生きて帰ってきたとしても、PTSDにさいなまれ、また劣化ウラン・化学兵器の影響で発症した帰還兵たちはごみ同然に放置されている。帰還兵がイラクで殺された民間人の裸の死体の膨大な写真集をウェブサイトに掲載する、などモラルの低下も著しい。
戦争は国をゆがめる。「テロとの闘い」はこれまでアメリカが曲がりなりにも築いてきたと言われる司法の独立や基本的人権などの価値を痛々しくゆがめている。日本もブッシュ政権に追従して憲法を変え「対テロ戦争」の最先端に立とうとするなら、待っているのは「人類の多年に渡る自由獲得の成果」である基本的人権などの諸価値の瓦解だと思う。
CCRはグアンタナモの活動に加え、米軍の二〇〇四年のファルージャ攻撃の責任を問う訴訟(準備中)、アブグレイブの虐待の責任を問う訴訟、移民やプロテストの弾圧関連の訴訟、一連の拷問問題に関し、ラムズフェルドの「戦争犯罪」を海外で訴追する活動、そして一連の拷問についての独立した調査委員会の設置などを掲げて果敢に活動を続けている。米政府の未曾有の違法行為が明確に断罪される日が近く来ることを希望してやまない。
東京支部(アメリカ留学中)土 井 香 苗
みなさま、こんにちは。東京駿河台法律事務所に所属する土井香苗と申します(五三期)。この八月から、米国はニューヨークにありますNYU(ニューヨーク大学)ロースクールの修士課程(一年間)に留学しています。
せっかくの体験を一人で胸に秘めているのももったいないと思い立ち、団通信に日記を投稿することにしました。よろしくお願いします。
NYUのロースクールは、J.D.と呼ばれる三年コースと、外国ですでに法学学士を得た外国人や、一度ロースクールは卒業したものの専門分野を勉強したいという人が学ぶ修士コース(LL.M.、一年)から成ります。通常の授業はJ.D.と私たちLL.M.が一緒に受けています。
LL.M.には、世界各国からの多くの留学生が学びにやってきます。スイス人、ドイツ人、中国人などが多いですが、世界何カ国からきているのか、ちょっと想像がつきません。また、人種のるつぼNYを反映してか、アメリカ人学生の人種・民族も様々です。NYでは、人の見かけで国籍を判断することはまったくできません。
さて、日本人弁護士もかなり留学していますが、その多くが渉外事務所から派遣された会社法専攻の弁護士さんたちです。彼ら、彼女らばかりが世界ネットワークを築いていくのを横目で見ていて、これでいいのか!?と国際人権を専攻する超マイノリティーの私は悩んでしまいます。このままでは水をあけられてしまうのでは…。
この投稿をしようと思ったきっかけのひとつが、人権派の弁護士さんたちにも、どんどんと留学していただきたい、と思ったことです。
さて、アメリカの学生生活は思ったよりもとても忙しいです。なぜなら課題が山のようにでるから。読んでも読んでも、、、終わりません。でも読んでから授業に行かないと、ただでさえ英語の授業についていくのは大変なのに、ちんぷんかんぷんになってしまいます。
そんな中で、私が楽しみにしていたのは、夕方に学生たちが自主的に開いている勉強会。イメージとしては、司法修習中に青法協修習生部会が開いていた勉強会のようなかんじでしょうか。こちらにも人権活動する学生さんたちがずいぶんいます。
たとえば、ガンタナモ収容所に収容されている人々の代理人弁護士とガンタナモ基地でイスラム教の聖職者として働いた後、自らが収容されてしまったアメリカ人聖職者の方の勉強会には、部屋にあふれんばかりの人がやってきて、熱気むんむんでした。
そのほかにも、ビルマの天然ガス・パイプライン建設の際の強制労働、強姦、殺人などについてビルマ人原告たちが石油会社ユノカルを米国の連邦裁判所で訴えていたDoe v. Unocal事件の代理人弁護士の話も、とてもおもしろく聞きました。昨年、第九巡回連邦控訴裁判所が、ユノカルの行為を、ビルマ政府による人権侵害の教唆・幇助に該当すると判断し、画期的な勝利をおさめた事件です。根拠法の一つが外国人不法行為請求法(Alien Tort Claims Act)という法律で、米国外で起こった外国人に対する国際法に違反する不法行為について、米国の連邦裁判所に管轄権を付与する法です。ボスニア・ヘルツェゴビナのカラディッチ元セルビア人指導者などに対する訴訟等で根拠にされてきましたが、最近、南アフリカ政府のアパルトヘイト政策に対する幇助を行った企業等、多国籍企業の海外における人権侵害に対する救済の手段として使われるようになっているそうです。アメリカの人権派弁護士さんたちもがんばっています!
一二月に入り、零下の日も増えてきて、NYは寒くなってきました(でも住人に聞くとまったく序の口らしい。ピーク時には鼻の中が凍る気がするとか)。皆様も、かぜなどひかないように、お気をつけください。
東京支部 橋 本 佳 子
男女雇用機会均等法の改正作業が大詰めを迎えている。労働政策審議会雇用均等分科会は今年八月に「中間取りまとめ」を発表し、この一二月に「最終取りまとめ」、来年の通常国会に改正法案が出される予定である。
一九九九年の是正の改正時は、募集採用・配置昇進等を努力義務から禁止規定へという大きな運動が展開されたが、今回はさびしいほど盛り上がりに欠けている。
コース別人事や非正規雇用の増大の下で男女平等は進んでおらず、むしろ格差は拡大傾向にある。間接差別など実質的平等を妨げている要因を排除し、役立つ法律にするために徹底した改正が必要である。
日弁連は今年六月に、男女双方に対する差別を禁止する「男女雇用平等法」に、仕事と生活の調和をはかる基本理念を入れ、間接差別の明記、ポジティブアクションの一定の範囲での義務化、妊娠出産を理由とする不利益扱いの禁止、挙証責任の転換や男女平等委員会の設置等の救済手続の充実などを求める意見書を発表した。一一月一九日、両性の平等委員会主催で頭書のテーマでシンポを開いた。
意見書の報告の後に、コース別人事の一般職とパートの女性からの相談を受ける模擬法律相談(双方の配役とも弁護士だったが、迫真の演技でアピールした)とパネルディスカッションと盛りだくさんであった。パネラーの石田眞・早稲田大学院教授からは間接差別の明記、差別の温床となっている「雇用管理区分」に関する指針の廃止などが指摘された。ILO駐日代表の堀内光子さんからは国際的視野から日本の男女平等の遅れと女性差別撤廃委員会やILOからもコース別人事や非正規雇用の格差について指摘されていることなどパワーポイントによってわかりやすく示された。
今回のシンポで最もホットな情報を提供してくれたのが、雇用均等分科会の労働者側委員(連合)の吉宮聰悟さんである。前日一八日に開催された均等分科会で厚労省事務局と公益委員による「取りまとめに向けた検討のためのたたき台」(直ちに会場で配布できた)が出された状況を生々しく報告された。使用者側委員の消極姿勢とはっきりしない公益委員相手に吉宮さんが孤軍奮闘している様子が手に取れた。
「たたき台」は、妊娠出産を理由とする不利益取り扱いの禁止は入れるものの、焦点の間接差別について「募集採用における身長・体重・体力要件」「コース別管理制度における総合職募集採用における全国転勤要件」「昇進における転勤要件」を挙げての限定列挙、「雇用管理区分」の指針も削除しない、非正規の雇用形態による差別には一切触れないというもの。これではそれ以外の間接差別は許されるということにもなりかねず、常に形を変えて行われる差別の是正につながらない。会場からも「いまどき、身長・体重を要件とするところなんかない、こんな内容ではない方がまし」などの落胆の声があがった。吉宮さんは「使用者はこの内容でも消極で、もともと均等法改正に現状維持の姿勢をとり続けている状態だから、是非、運動を強めてほしい」と訴えた。
参加者は約七〇名と少なかったが、均等分科会の最新情報を前に熱い議論となつた。今後、国会上程以前の法案作成の段階までに多くの声を審議会に集中していかなければならない。
東京支部 平 井 哲 史
改めて「新任」次長となりました。
弁護士二年目でなった前回は、不慣れを重ね、いろいろな方にご迷惑をおかけしながらも、今度、国際問題委員会委員長就任予定の杉島さん(関西合同)や、教育基本法改悪阻止対策本部事務局長にスライドした村田さん(北千住)、改憲阻止対策本部事務次長にスライドした渡辺さん(川崎合同)、事務所運営のほうで頑張っておられる坂さん(東京合同)とともに大変な中でも楽しく過ごしました。
その余韻が残ってたのか、好きこのんで一年の間をあけて舞い戻りました。担当は前回同様、労働問題委員会(増田さんと共同)と将来委員会です。前回よりは、慣れているので、もう少しうまくやれるのではないかと思ってますが、それでもまだ「駆け出し」の域を出てませんので、ご迷惑をおかけすることになるかもしれません。どうぞよろしくお願いします。
東京支部 松 本 恵 美 子
このたび事務局次長となりました東京支部の松本恵美子(代々木総合法律事務所所属、五四期)です。私が次長の役を受けようと思ったのは、ある人から「松本さん、何歳?僕が次長になったときより歳だなあ。今、やっておかないともうできないよ。最後のチャンスだ。起案はあんまりないよ」と言われからでした。私は、これまで自分のことを合理的に物事を考えられる人間だと思っていましたが、どうも違うようです。
簡単に自己紹介をしますと、私は、身体を動かして実験することを約一〇年間仕事にしていた根っからの理系の実験屋で、じっと座って討議をしたり、漢字の多い文章を書いたり読んだりするのは苦手です。私の趣味はピアノ演奏と声楽で、短時間しか練習しないのに毎年発表会に出てますので、神経は図太いほうでしょう。それから、時間をみつけては、ハードスケジュールの山登りや旅行を楽しんでいます。二〇〇四年の正月には、キリマンジャロ山(五八九五m)に登ったくらいなので、体力はかなりある方だと思います。
そんな私の担当委員会は、市民問題と警察問題です。弁護士になってから、薬害、再審、冤罪事件等に興味を持って取り組んできたので、これらの委員会を担当してみたいと思ったのです。市民問題の方では、アスベスト問題や借地借家法の改悪が、警察問題の方でも共謀罪、被拘禁者処遇法、少年法の改悪など課題が山積みなので、一生懸命取り組んでいきたいと思います。
せっかく次長の仕事をするのなら、楽しんで活動したい、そして、どんどん増えてくる若い弁護士の皆さんが伸び伸びと活躍できるような雰囲気を作っていきたいと思っています。
東京支部 上 田 誠 吉
【川名照美団員(東京支部)は本年一〇月二三日に亡くなられましたが、一一月一九日に執り行われた本葬の際の弔辞】
川名照美さん、あなたは優れた資質の持ち主でした。あなたはそれを高い志と強い意志の力で支えて発揮してこられました。私たち事務所の同人たちは、一九七三年以来、三二年にわたって川名さんのそのすぐれたお仕事振りを拝見してまいりました。
川名さんのお仕事で、いちばん注目されたのは、北海道の夕張新鉱ガス突出事件での活動だったでしょう。一九八一年一〇月一六日北炭夕張新鉱でガス突出事故が発生しました。約六〇万立方メートルという大量のガスが坑内に噴出したのです。そしてその約一〇時間後には、このガスが爆破して火災となり、坑道を破壊しました。坑内にいた労働者九三名が死亡しました。その一週間後の一〇月二三日には炭鉱施設を火災からまもるために五九名の労働者を坑内に残したまま鎮火のための放水をしました。私たちの法律家団体、自由法曹団は、これらの処置を現代最大の人権蹂躙であるととらえて、抗議、調査、処罰要求、損害賠償請求などに取り組みました。川名さんはこの運動に加わって、大きな貢献をされました。まず現地調査をかさねて研究をすすめ、その結果を二五〇頁に及ぶ報告書にまとめて「きけ炭鉱の怒りを」という名で出版されました。川名さんは、この事故の損害賠償裁判に加わって、ながく札幌への出張を続けました。あなたはのちに自由法曹団の機関誌、「団報一四六号」(一九九五年四月)に「曲がったボーリング」という題で特別論稿を掲載していますが、それに「裁判の基本的問題」として、次のように書いています。
「事故原因については、一九八二年七月二日、政府の事故調査報告書が発表されていた。そこには、ガス抜きが不十分のためガス噴出が生じたことが記載されていたが、ガス抜きが不十分であったことにいついて、誰に責任があるのかは不明のままであった。
政府の事故調査報告書は、北炭を攻める手がかりになるものであったが、本件のような大規模なガス突出が生ずるとは予想もできず、不可抗力であったという説明も可能にするという、論点ももっていた。ガスが炭層内にどのように含まれているのか、どうしてガス突出が生ずるのかのメカニズムは、当時、科学的に解明されているわけではなかった。政府の事故調査報告書に一面的に依拠したときは、科学論争による不可知論に落とされるという危険をもっていた。
したがって本件損害賠償裁判は、ガス突出の予見不可能性とどのように闘うか、ガス突出の科学的不可知性とどのように闘うかが基本的な問題であった。」
この事故は、炭層のなかに封じ込められていた大量のメタンガスを、坑道を堀り進む前に、ガス抜きボーリングを打ち込んで十分にガスを抜いておく作業を怠ったために、ガス突出と爆発を招いたのですが、このガス抜き作業が全く不十分であったことの責任は誰が負うのかが問われていたのです。北炭は、ガス抜きボーリング作業の基地を経費節減のために一カ所しか設けず、この一カ所から五四ものボーリングを打ち込んだために、ボーリング同志が相互に衝突して穴をつぶし合ったり、ボーリングを打ち込んでいく先に坑道が横切ったためにボーリングが各所で切断されたりして、ガスの排出ができなくなっていたにもかかわらず、ボーリングの本数だけはほぼ予定どおりに達したので、坑道掘進をつづけたために、坑道前方から制御不能の大量のガスが突出してきたのです。
その責任は北炭にあったことは明らかでした。この解明のために、川名さんの設定した「根本問題」は、問題を一旦は認識論の分野にまで掘り下げて、ガス突出の真の原因は解明可能であるとして不可知論を斥けつつも、なおすべての資料を会社と政府が握っており、現場は破壊されて再現不能であることなどを考慮して、ただ解明可能の旗を掲げるだけではなく、この立場を堅持しつつ、会社に立証をつくさせて、それがガス抜き不十分という窮地に会社自らが墓穴を掘っていくという筋道に立たせたのです。
その「根本問題」の設定とその運用の仕方は見事というほかはなく、川名さんたちは損害金の支払いという成果に達したのです。
川名さんは、先の「団報」の論稿のなかで、次のように書いています。
「ガス抜きボーリングの切断問題は、本件訴訟において中核を占め、この裁判を有利に導いた。これによって政府の事故調査報告書の限界を批判的に乗り越えることができた。事故調査委員会のメンバーである学者証人が出てきたとしても恐れるものはなかった。ガス突出に関する科学論争に入り込む余地もなくなった。学者による鑑定も不要になった。純然たる事実認定の領域のなかで裁判を終結することができるようになったのであった」と。
この裁判闘争の見事な進行を可能にした原因は広く、そしてたくさんあるでしょう。しかし川名さんの個人の経験の中に思い当たるものを見るとすれば、それは芦別事件の国家賠償裁判での敗訴の経験であったと思います。一九五二年七月二九日、北海道の根室本線、芦別駅近くの線路がダイナマイトで爆破され、その現場近くからはダイナマイト電気発破器などが発見され、翌年三月、炭鉱坑内夫であった二人の共産党員が逮捕され、起訴されました。
しかしこの事件はひどいでっち上げ事件で、発破器などは被告人が炭鉱から盗み出して犯行に使用して現場付近に捨てた、とされていたのですが、のちに炭鉱からなくなった発破器は坑道の崩落で土に埋まっていたのが発見されて、地検の倉庫に眠っていたことが明らかになって、現物が法定に提出される始末でした。それでも一審判決は有罪となったのですが、控訴審では無罪となって確定しました。そこで国と高木一検事ら検事・警察官などを被告として国家賠償の民事訴訟が提起され、一審は原告らに勝訴判決を下しました。特に国の他に、高木検事個人に対しても不法行為を認めて賠償を命じたことに特色がありました。裁判長は福島重雄裁判官でした。
ところが控訴審の札幌高裁は七三年八月一〇日に、原告勝訴の判決を取消し、請求を棄却してしまったのです。そして事件は最高裁を舞台として東京に移りました。このとき、この困難な裁判を担当する弁護団が一四名の弁護士によって組織され、川名照美さんは、その事務局長に選ばれました。
一九七三年あなたが弁護士の仕事をはじめたその年のことでした。この事件には、刑事事件の控訴審から私たちの事務所の谷村正太郎弁護士が弁護人として札幌への出張を重ねておりました。谷村さんは最近、「再審と鑑定」という著書を刊行して、そこで芦別事件について書いておりますが、「本当に意気阻喪してしまいました」と書いています。
事務所には膨大な事件の記録が本棚を埋めておりました。川名さんはこの「意気阻喪」のなかで記録を読みはじめました。
それは辛い仕事であったと思いますが、その努力のなかで、新しい力を養い、意気を修復して勝利の契機をつかみ出そうとすることに、川名さんは貢献されたのでした。この裁判は一九七八年一〇月二〇日に上告棄却となって終わりますが、川名さんは次の闘いに想いを潜めておられたのでないでしょうか。それが北炭夕張新鉱のガス突出事件につながっていったように思われます。
いま、川名さんの晩年の闘病生活のことを想います。あなたは肝臓の病変がかなり重篤なものになったことを知りながら、ご家族に支えられて医学と医師と医療を信じて闘病に打ち込んでおられたのでしょう。私たちは迂闊にもその事情をくわしく知ることなく日常の交友をつづけておりました。
しかし、あなたのことだ、あなたはきっと強い意志で艱難に立ちむかってひるむことはなかったのでしょう。そのことへの心からの敬意を捧げて弔いの言葉を終わります。
二〇〇五年一一月一九日
団の「共謀罪五つの疑問」をもとに、パンフができました
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